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蕪村 The Experimental Innovator

2010-08-31 | Weblog
前回は芸術家をexperimental innovatorとconceptual innovatorの2タイプに分けるD.ガレンソンの議論についてエントリーしました。この分類法でいくと、例えば与謝蕪村などは実験派イノベーターの典型と言えるかも知れません。日頃俳諧とはまったく無縁ではございますが、ケース・スタディとしては恰好の人物なので、今回の主役は蕪村です。

このブログでも何度か取り上げている足立則夫著『遅咲きのひと』(2005 日本経済新聞社;以下『遅咲き』)によると、20代の初めから作句を開始しながらも、全作品のうち6割が60代以降に詠まれたものとされており、まさに晩年に向かって俳人としてのピークを究めていった人生だったようです。

蕪村は画家としても令名をはせ、主たる収入を画業で得ていましたが、『遅咲き』によれば、「60歳を過ぎて『謝寅(しゃいん)』という雅号を使うようになってからの作品が味わい深い」。「鳶鴉図」「夜色楼台図」といった代表作は最晩年のこの時期に生み出されています。
(実際、俳人蕪村は明治になって正岡子規によって「発見」されたのであって、存命中は絵師としての知名度のほうが遥かに高かったようです。)

佐々木丞平・佐々木正子・小林恭二・野中昭夫『蕪村 放浪する「文人」』(2009 新潮社;以下『蕪村』)では、蕪村は「江戸ルネサンス最大のマルチアーチスト」と評価されています。本書は俳人蕪村と絵師蕪村をトータルにとらえようという姿勢に貫かれています。

蕪村は55歳で俳諧の宗匠となり夜半亭を襲名していますが、『蕪村』ではこの頃の蕪村を次のように評しています。

「絵画と俳諧の両面で、蕪村ならではのものが生まれはじめるのが、この夜半亭襲名の前後からなんですね。既に50代半ばですから、晩成型の芸術家と言っていいでしょう。以後、絵師蕪村と俳人蕪村が彼の中で統合されていきます。」(P.46)

この晩年の跳躍を可能にしたものが何であるのか。『蕪村』ではいくつかの手がかりが示唆されています。

蕪村の描いた絵の中でも、中国風の文人画と俳画(俳句と一緒に描かれる絵画)とではまったくタッチが異なることを受け、彼は変化を好み、変化の中に新しい自分を発見することを楽しむタイプであった、と述べているのはその一例です。

蕪村の画風の変化を時系列的に追ってみると(『蕪村』pp.62-65)、
(1) 初期の和画様式
(2) 独学による開花と熟成を見せ始めた漢画墨彩様式(30代半ばから40代前半)
(3) 中国文化への憧憬と研究の成果である漢画着彩様式(40代半ば~)
(4) 日本文化への回帰を見せた和様化(55歳前後~)
(5) 俳句との合体を成立させた俳画(晩年のアプローチ)
という風に、絶えずスタイルを柔軟に変化させていたことが判ります。こうした描法の変化を「内的世界への旅」ととらえ(実際、蕪村は当時としては旅の多い人でした)、内面の熟成が画風の深化を促していった、と本書は推理しています。

なお、蕪村は45歳でともという女性と結婚し、一女をもうけています。『遅咲き』では、歳を経るに従って伸びやかになっていく蕪村の句作、画風について、妻ともの存在が大きかったのではないか、と推測しています。ともについてはほとんど資料が残されていないので、これはあくまで推測です。しかし、そのように考えれば、より蕪村に親しみが湧くというものでしょう。