せかいのうらがわ

君と巡り合えた事を人はキセキと呼ぶのだろう
それでも僕らのこの恋は「運命」と呼ばせてくれよ

天に積もる雪

2009-03-08 20:56:29 | 小説
「…冷てえ」

昼下がり、今年一番の雪は鼻の先に落ちてきた。近くの民家の扉から、子供らが大はしゃぎで出て行く。まだ積もるには早いってえの。文句のような、微笑ましさのような。どっちつかずの言葉を残して鼻先の雪は乾いて消えた。
今年も雲の上には雪が降ったらしい。



「アメジー!!」

名前がないと言ったらあいつは変な名前をつけてきた。目が紫水晶に似てる、とかで。ギリシャ語で酒を意味するMethyに、否定のa、つまり「酒に酔わない」なんて名前を付けられたようだ。随分前におっさんと酒の飲み比べをしていた時に、思いついたらしい。

「ふあ…よー、ボウズ。何か用かよ、今日はなんもねえぜ」
「ううん、貰いに来たんじゃなくて、あのね、そのね…えっと…何、だっけ?」
「思い出してから人のこと起こせよ」

今でも覚えてる、その声、高さ、発音。イタリアから引っ越してきたらしいそいつの訛りは酷いモンだったが嫌いじゃなかった。元々ガキは好きなほうだったし、何よりあのボウズと居るのは面白かった。
ボウズは妙に物知りで、グリムとかいう童話の話、星座やどこぞの国の神話なんかもよく話した。たまに、親が聞かせてくれたとかいう架空の話もあったが。俺はその中でも、それが一番好きだった気がする。
なんでかは、今になってもわからない。

「あっ、そうそう!あのね、アメジー。僕、しばらくおばあちゃんのお家に行くから…しばらく来れないんだ。ごめんね」
「婆さん家か。…まあ、楽しんで来いよ。その間に俺ァしっかり働いとく」
「アハハ!アメジーがそうやって頑張っちゃったら、どのお屋敷からも、宝石が全部、ぜーんぶ無くなっちゃうよ!」

んなわけねーだろ、とボウズの頭を小突いた。本当に働くつもりだった。1ヵ月後に控えたボウズの誕生日に、汚い金を使う気なんてさらさらなかった。
大層なモンを買えるとは思ってなかった。ただこの前通り過ぎた店のウィンドウにあった、ひっくり返すと雪が降ってるようになる、ドーム型の安い置物。ボウズは雪が好きだったから、喜ぶだろうと思った。

「行って来い。俺ァずっと此処に居っから」
「…うんっ。じゃあ、もう行かなくちゃ!ごめんね、アメジー。また今度、お話しよう!」

手を振っていったボウズの顔色は随分悪くて、けどお気楽だった俺は腹でも下したんだろうと思って、気にも留めなかった。

ボウズの誕生日前日、また俺の前に姿を現したボウズは随分痩せていて、しんどそうに車椅子を押しながらゆっくりと進んできた。驚いた俺は木から落ちて、それでもあまりのことに痛みも忘れて駆け寄った。

「ボウズ!?おいどうした、真っ青じゃねえか…!無理してんじゃねえ、早く帰りやがれ!」
「えへ、へ…ちょっと、疲れ、ちゃった、だけ。でもね、アメジーに、したい話が、沢山、できたから…」

その笑い方の弱々しいこと。無理してるのは火を見るより明らかだった。けどボウズは、そんな弱音のひとつも吐かずに此処まで車椅子を漕いできた。どう見ても、頬に伝ってるのはただの汗じゃない、脂汗だった。顔も真っ青どころか、蒼白の方が正しいかった。

「あの、ね、お兄、ちゃん。雲、の、上にも、ね、お天気が、あるんだって…」
「…そうか。そりゃあ、すげえな。雲の上のことなんざ、考えたこともなかった」
「で、しょ?アメジーは、このこと、知ってるのかなあ、って。凄いから、教えて、あげたくて…病院、抜け出して、来ちゃった」

病院。その言葉が随分恐ろしく聞こえた。なら今すぐ帰らせるべきだと思うのに、声が出ない。帰らせたら二度と会えないんじゃないか。そんな不安がついてまわる。完全に俺のエゴだった、そんなものでボウズに万が一があったら、なんて考える余裕はどこにもなかった。

「それでね」

ボウズが、空を見た。俺もつられて、空を見る。

「僕、雲は、もういっこの、地面で…向こうにも、雪が、降るんじゃ、ないかなあって、思ったん、だ。…僕、体が弱くて、ね。一回も、雪ダルマ…作ったこと、なかったんだ」

まるで物語みたいなタイミングで、雪は降ってきた。白い息が昇っていく、昇っていく。そして、消えた。俺の分も、ボウズの分も。
体が弱くて。病院。車椅子。細くなった腕。蒼白の顔。嫌な予想が立った。当たってしまうんじゃないかと不安になって、喉がからからに渇いた。

「…めろ…」
「だからね、向こうに行ったら、沢山、作るんだあ…。あのね…僕の、誕生日、プレゼントにはね…大きな、大きな」
「止めろ、もう黙れ!今すぐ帰れ、ボウズ!!」

“雪ダルマ、作ってね。アメジー”
あの時恐怖に駆られて声を遮ったことを、今は後悔している。どうせなら聞いておくんだった、と。何故ならその名前で呼ばれるのは、それが最後だったからだ。

12月25日、通称聖夜祭。キリストとかいう神様が生まれた日。

よくよく考えあいつは神への生贄にでも捧げられたんではないかと思うと、心底神が憎くなった。けど心の奥底では、結局俺が全て悪かったんだと思っている。わかっている、自己満足だなんて。
そうしてボウズは、俺が見ているその目の前で、死んだ。

すぐに家に連れて行った時には、もう頭のてっぺんからつま先まで冷たくなっていて、俺の頭にもボウズの体にも雪が積もっていた。
感覚の無くなった手でドアを叩いて、そこから出てきた女は、まず、笑った。「いつもジョンの相手をしてくれて、ありがとう」と。ジョン。初めてそこでそいつの名前を知った。それからしばらく、話し込んだ。俺は、唯只管に下を向いて。その女は、笑って。
けれど次に返ってきた女―当時はただ恐ろしくて恐ろしくて考える暇も無かったが、多分背格好からして姉だった―は、冷たくなったボウズを見るなり目を吊り上げて、頭ごなしに怒鳴りつけた。あの声はまだ耳に残っている。「人殺し!ジョンを、ジョンを返しなさいよ!!」普段だったら言い返すところも、今回ばかりはそうもいかなかった。
逃げた。現実が怖くて逃げた、俺はそこから。怒鳴る声が後ろから付いて回る気がして、死ぬほど恐ろしかったことだけを、今も覚えている。



「アメジー、ね」

随分と懐かしい名前を口にした。今の名前はルアル・ディア・クライスト。人の話を聞いてなくて、自分の世界に入りっぱなしの気持ち悪い女からもらった正式な”フルネーム”だ。変なルートを使っての戸籍も一応入っているらしい。
…不味い、感傷に浸ってる場合じゃねえ。ごちながら足を進めようとすると、背中に冷たい塊がぶつかった。驚いて振り向くと、ひとりのガキが頭を下げていた。「…遊ぶか?」辺りを見ると、既に積もっている。当然、頭の上にも。「…うんっ!お兄ちゃん!」皮の手袋を嵌めて頭の上の雪を払い除けながら、笑ってみせた。空耳が聞こえた。

「雪ダルマ、お前の背丈くらいあんの作ろうぜ」

頷いて満面の笑みを浮かべながら、ガキが背を向ける。小さく溜息を吐けば、屈んで積もった雪に手を突っ込んだ。たった数分だったと思ったが、雪の積りが早かったらしい。実際時間を確かめる術は持っていなかったのだから。ついでに兎も作ろうよ、なんて、ハキハキとガキが言うもんだから、小さく笑った。そういえばそのガキは、随分ジョンに似ていた気がする。


ようボウズ、そっちに雪は降ったかよ。



2007/11/22 Thursday To.Hayase
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昔書いたやつです。
この時のが一番好きだったなあ。