せかいのうらがわ

君と巡り合えた事を人はキセキと呼ぶのだろう
それでも僕らのこの恋は「運命」と呼ばせてくれよ

幻肢痛(ファントムペイン) -第三幕

2009-03-07 00:03:41 | 小説
「もう帰るの」

着崩したシャツの襟を整え、枕元に皺だらけのまま放置してあったネクタイを首にかけた所で、シーツから頭を出したアニタがつまらなそうに呟いた。大人とも子供ともつかないような悪戯っぽい瞳、けれど相手の瞳は最早深海の底よりも深く暗いように見える。ネクタイをきつく締め終われば闇のような瞳を一瞬だけそちらへ向け、すぐに手袋を探し始める。沈黙は肯定だ。

「長居をする理由はないのでな」

業務的な口調。用件だけを簡潔に告げればどうやら見つからなかったらしい。まるで潔癖症のような仕草で手のひらがどこにも触れぬようにしながら、アニタの方へ怪訝そうな視線を向ける。疑問にも疑いにも見えるような、傍から見れば不快感を煽る表情だ。

「あらまあ、そんな目で見なくたって」

その視線を向けられた女は気にした様子もなくベッドの中に手を戻すと、一対の上等な手袋を出す。更にエリクの眉は寄り、「馬鹿をするな」と非難の声を上げた。だが取り返そうとした手はそのまま女に捕まってしまった、途端。

「ッ触るな!!」

ひどい怒声と共に振り払われた手は明らかに人間ではない。爪が長く黒いその手はまるでそう、悪魔のような。それを見てにんまりとアニタが笑えばいよいよエリクは機嫌を悪くし、コートから一本のナイフを取り出し女に突きつけた。

「…貴殿は、悪ふざけがすぎるようだ」

殺意すら含まれる男の視線に興味のなさげな一瞥をくれれば、アニタはナイフをひょいと避けてまたベッドの中に潜り込んだ。男の深い溜息が響くより早く、「やあね、怒らないでよ」とくぐもった声が狭い部屋に響いた。涙声のように響くのは気のせいなのか、それとも、

「私は、別にあんたの手が汚れてるなんて思わないけどね」

鼻にシーツをかけたままアニタが目線をやるエリクの手は、まだ手袋が着けられていない。普段は穢れるといって外さない手袋。「彼が汚れる」という意味では、ない。アニタはそれを知っていて尚、彼の手に触れようとする。その態度が気に入らないらしいエリクの機嫌は常に損なわれるだろうが。

「…粋狂だな」

言葉のわりに、侮蔑のような声色で呟く。

「おれの手は穢れている。貴殿の知らぬ所、幾千星の数程の人間の血で汚れている。…中には、同胞の血も混じっていよう。だから、」
「それでもさ」

エリクの声をさえぎるようにして、アニタの痛切な声が響いた。ベッドから這い出た姿はとても視線をやれるようなものではなかったが、男は他意もなく女を見据えた。物怖じの色を一瞬見せ、それでも口を開く。

「魔族でも人殺しでも、エリクは私を拾った。薄汚い路地でぐちゃぐちゃになっていた私を拾って部屋を与え食事を出した。それで充分だ。私にはエリクしか居ない」

アニタの身体は、切り傷だらけだった。辛うじて顔には傷がないものの、首や足指の先に至るまで、深く切り裂いたような傷跡が残っている。それでも生き長らえたのは奇跡か悪魔の契約か、エリクすらも知らないだろう。エリクがすっと眉を顰める。
嫌いだ、エリクが小さく呟いた言葉に、アニタは堪えきれずにぃっと笑う。

「何が嫌いなの?私かしら」
「そうと口にした覚えはないがな」

かけたカマにろくな返事も返さず、床へ落ちていた手袋をはめればエリクはシルクハットをかぶり、やたらに大きなカバンを持ってドアノブに手をかけた。朝日に照らされたエリクの顔はアニタにとって逆光になっていたが、それだけははっきりと認識できた。長く伸びた牙に赤い舌が覗くのを。血色の悪い肌にそれはとてもよく映えて、嗚呼と思う。かみ殺せるものならかみ殺してみろ。懐いた猫を殺すほど難しい事はないのだから。


―――
(幻肢痛)
第三幕。旧題カンタレラ。

淡々と朝の一コマを。
エリク・オーレンドルフは魔族で315歳の若者
外見は20代~30代程度だが、雰囲気は好青年、
話し方は時代遅れとも言えるほど老成している。
生業は殺し屋で、主に単独での暗殺を得意とする。
拳銃を所持してはいるが、基本的に商売道具は銀食器。
売るのかと思いきやその鋭さは魔族の力が加われば
立派な武器となりえる為、暗殺の道具となっている。

協力者には闇の傍観者「子守唄の姫君」が居るとか。