例えば腕を焼かれ、壊死を理由に切り取ったとする。
だが脳は改善される事のない其の状況を記憶していて、ふと思い出したように無いはずの腕に痛みを覚えるという話だ。それと同じ。あるはずのない"心"という存在を身体は覚えていて、とっくに失ったはずのそれは胸を焦がし、焼き、所有者を殺す。身体ですら奪われるのを許さないというのか―赤薔薇のように染まった手袋を地へ落とし、幻肢痛を覚える胸を押さえた。
あの傷だけはまだ、癒えない。
その日は雨が降っていた。百年程前"戒め"と出会った日と同じ、数ヶ月前"狂気"と出会った日と同じ、雨。風に浚われ向きを変える、雪のように軽い雨は咽返るような臭いと霧を溢れさせていた。濡れた黒猫が路地を曲がる。
頬に伝った返り血を舐め、甘美な味を充分に舌で転がしてから飲み下す。元々血を必要としている種族でもないというのに、最早それを味わう事が当たり前かのように、其の手は血に染まっていた。シルクで織られた手袋は赤黒くなり、それは手にした鞄にまで伝い落ちる。足跡の代わりに残される斑点は、レンガに吸い込まれすぐに消えて無くなってしまった。
気まぐれでしか動かない彼の事、その日その路地を曲がったのも当然の如く大した意味などなかった。ただ、黒猫が通った道と同じ場所を通っただけ。漆黒の髪に漆黒の瞳、猫のように鋭い目の彼はまた猫と同じ様に、気まぐれに人を振り回しては殺すのが役目だから。
「…ぁ、う゛…」
曲がった途端、絶えかけた呻き声が届いた。彼が曲がった先に在るのはイーストエンドの一角、娼婦街。響くのは演技した大げさな喘ぎ声、男の卑下た笑い声、啼き声、鳴き声、泣き声だけのはずだ。治安の悪いこの場所の事、おおよそ何があっても不思議ではないのだが―見つけた女の状態は、あまりに異様だった。
「…生への執着が貴殿にどれほど在るか。要は気の持ちようだ」
「そりゃあ、勿論…いきたいけどさあ…」
首元に二箇所、腕や身体、足、彼女の全身は手のひらほどの無傷な場所すらない程、傷だらけだった。そのどれも致命傷には程遠いものの数ばかりがあり、出血の量はそれなりになっているだろう。彼女の屈み込む場所には、彼が通った場所と同じく赤い水溜りがレンガの許容を超え創られていた。いきたいけれど、そう言った彼女の言葉が"どちらの意味なのか"までは、彼のまかり知るところではない。
「…お迎えは、……か…っ」
女は力無くふっと笑い、目を伏せた。嗚咽のような呼吸を繰り返し、ようやっと擦り切れた言葉を再度紡いだ「殺し屋か…」薄く開いた目は、真紅の手袋に向けられていた。殺し屋と云われた男は驚いたのか、シルクハットに半ば覆い隠されたその表情を上げる―そこに映っていたのは驚きではなかったが。冷笑、その表現が一番似合うだろう、目の前の女性を見下した笑み。死に掛けていた女の目に、一瞬驚きの色が浮ぶ。それを男は、見逃さなかった。眉を強く寄せ、嫌悪を露にした表情のまま畳み掛ける。
「貴殿のような者を見ていると、吐き気を覚える」
女が何かを言おうとしたのを遮り、吐血する様を冷たく見下ろし鋭い言葉を投げつける。手荒に開け放った鞄からシルバーが零れ落ち、その内の一本を取り出しては女の青白い―血に濡れ、淡いオレンジに染まった手に握らせた。ひんやりとした感触に、反射らしく彼女の指先は一瞬だけ振れる。
「死ぬがいい、その手で」
手袋が取り払われ新たなものに代えられた事で、ほんの一瞬上質な布の感触が女の頬をなぞる。すぐにそれは冷たい雨の感触に代わったが、手袋越しにでも伝わるほど男の爪は鋭かった。
いっそその爪で喉を引き裂き殺してくれればと、女はひどく顔を歪めた。最早腕の感覚は無いに等しく、鉛のように重い。躍起になった者は唐突にとんでもない行動を起こすと言うが、彼女も例外とは言い難かったようだ。すっとその腕を何でもないかのように上げれば、
「!」
「―生きたい、んだって…っ」
雨ではない、大粒の涙を零しながら女は男の胸に刃を突き立てた。心臓を掠りでもしたのだろうか、夥しい量の血が男の胸を伝い赤い水溜りの色をより鮮明にしていく。それが人ならば致命傷だったろう。けれど男は数度目を瞬かせればニィと口元で三日月を描き、彼女の手を取りナイフを抜き去る。女が目を見開くのと同じくして、その手を振り上げ手刀を首元に、落とした。
水溜りに倒れる女の身体は冷たいが、死んではいないだろう。
―
(幻肢痛)
第一幕。
だが脳は改善される事のない其の状況を記憶していて、ふと思い出したように無いはずの腕に痛みを覚えるという話だ。それと同じ。あるはずのない"心"という存在を身体は覚えていて、とっくに失ったはずのそれは胸を焦がし、焼き、所有者を殺す。身体ですら奪われるのを許さないというのか―赤薔薇のように染まった手袋を地へ落とし、幻肢痛を覚える胸を押さえた。
あの傷だけはまだ、癒えない。
その日は雨が降っていた。百年程前"戒め"と出会った日と同じ、数ヶ月前"狂気"と出会った日と同じ、雨。風に浚われ向きを変える、雪のように軽い雨は咽返るような臭いと霧を溢れさせていた。濡れた黒猫が路地を曲がる。
頬に伝った返り血を舐め、甘美な味を充分に舌で転がしてから飲み下す。元々血を必要としている種族でもないというのに、最早それを味わう事が当たり前かのように、其の手は血に染まっていた。シルクで織られた手袋は赤黒くなり、それは手にした鞄にまで伝い落ちる。足跡の代わりに残される斑点は、レンガに吸い込まれすぐに消えて無くなってしまった。
気まぐれでしか動かない彼の事、その日その路地を曲がったのも当然の如く大した意味などなかった。ただ、黒猫が通った道と同じ場所を通っただけ。漆黒の髪に漆黒の瞳、猫のように鋭い目の彼はまた猫と同じ様に、気まぐれに人を振り回しては殺すのが役目だから。
「…ぁ、う゛…」
曲がった途端、絶えかけた呻き声が届いた。彼が曲がった先に在るのはイーストエンドの一角、娼婦街。響くのは演技した大げさな喘ぎ声、男の卑下た笑い声、啼き声、鳴き声、泣き声だけのはずだ。治安の悪いこの場所の事、おおよそ何があっても不思議ではないのだが―見つけた女の状態は、あまりに異様だった。
「…生への執着が貴殿にどれほど在るか。要は気の持ちようだ」
「そりゃあ、勿論…いきたいけどさあ…」
首元に二箇所、腕や身体、足、彼女の全身は手のひらほどの無傷な場所すらない程、傷だらけだった。そのどれも致命傷には程遠いものの数ばかりがあり、出血の量はそれなりになっているだろう。彼女の屈み込む場所には、彼が通った場所と同じく赤い水溜りがレンガの許容を超え創られていた。いきたいけれど、そう言った彼女の言葉が"どちらの意味なのか"までは、彼のまかり知るところではない。
「…お迎えは、……か…っ」
女は力無くふっと笑い、目を伏せた。嗚咽のような呼吸を繰り返し、ようやっと擦り切れた言葉を再度紡いだ「殺し屋か…」薄く開いた目は、真紅の手袋に向けられていた。殺し屋と云われた男は驚いたのか、シルクハットに半ば覆い隠されたその表情を上げる―そこに映っていたのは驚きではなかったが。冷笑、その表現が一番似合うだろう、目の前の女性を見下した笑み。死に掛けていた女の目に、一瞬驚きの色が浮ぶ。それを男は、見逃さなかった。眉を強く寄せ、嫌悪を露にした表情のまま畳み掛ける。
「貴殿のような者を見ていると、吐き気を覚える」
女が何かを言おうとしたのを遮り、吐血する様を冷たく見下ろし鋭い言葉を投げつける。手荒に開け放った鞄からシルバーが零れ落ち、その内の一本を取り出しては女の青白い―血に濡れ、淡いオレンジに染まった手に握らせた。ひんやりとした感触に、反射らしく彼女の指先は一瞬だけ振れる。
「死ぬがいい、その手で」
手袋が取り払われ新たなものに代えられた事で、ほんの一瞬上質な布の感触が女の頬をなぞる。すぐにそれは冷たい雨の感触に代わったが、手袋越しにでも伝わるほど男の爪は鋭かった。
いっそその爪で喉を引き裂き殺してくれればと、女はひどく顔を歪めた。最早腕の感覚は無いに等しく、鉛のように重い。躍起になった者は唐突にとんでもない行動を起こすと言うが、彼女も例外とは言い難かったようだ。すっとその腕を何でもないかのように上げれば、
「!」
「―生きたい、んだって…っ」
雨ではない、大粒の涙を零しながら女は男の胸に刃を突き立てた。心臓を掠りでもしたのだろうか、夥しい量の血が男の胸を伝い赤い水溜りの色をより鮮明にしていく。それが人ならば致命傷だったろう。けれど男は数度目を瞬かせればニィと口元で三日月を描き、彼女の手を取りナイフを抜き去る。女が目を見開くのと同じくして、その手を振り上げ手刀を首元に、落とした。
水溜りに倒れる女の身体は冷たいが、死んではいないだろう。
―
(幻肢痛)
第一幕。