せかいのうらがわ

君と巡り合えた事を人はキセキと呼ぶのだろう
それでも僕らのこの恋は「運命」と呼ばせてくれよ

幻肢痛(ファントムペイン) -第二幕

2009-03-06 23:50:27 | 小説
女が目を覚ましたのは奈落でも天上でもない、純白のベッドの上だった。
窓の外に投げる視線は蒼く、肩から滑り落ちた髪は金。汚れて黒くなっていた服も大きめのシャツに代わっていて、髪を絡め取った血の匂いすら消えて、全てが嘘だったかのようにも思えた。けれど間違いなく体中には傷跡が―血は止まっており、完全にふさがった後だったけれど―残っていた。
女は動かない頭で、此処は何処か、何日経ったのかと考え始めながらもう一度シーツの海に沈む。もしかしたら売られるのかもしれない、などと自嘲気味な答えに至った時、軋んだ音を立てて戸口とは別の扉が開いた。そこからスーツを簡易に身に纏った男が現れる―死ぬがいい、そう言った男だ。

「…アンタ、何の気まぐれ?」

まだ僅かな蒸気を身に纏い、短い漆の髪から水を滴らせる男に、女は敵意のようなものを向ける。対し男の切れ長の目からは何の感情も無く、―唯人形に似た瞳を向けるだけだ。無言の睨み合いが、しばしの時間続く。

「エリク・オーレンドルフ、だ」

先に視線を外したのは男の方だった。名らしきものを短く告げ、また以前のようにエリクは手を上げる。その片手に女は思わず身を竦めたがその手は魔力を発するだけだったらしい、"空間"の力で水滴を閉じ込め全て窓の外へと放った。
それを見た女はぽかんと口を開き、それから―大口を開けて笑った。まさか滅多に持つ者の居ない希少な力を、そんな事に使うとは思いもしなかったのだから無理もない。
顔を枕に埋めた女を尻目にエリクは腰掛ける。遠慮などなく、シングルのベッド―すなわち女が寝ている隣へ。女はエリクの無神経さに笑いも引っ込んだのか、目を見開き目をやった。視線を絡め取るようにエリクは視線を落とすと、ふと、口端だけでそれとわからぬ程に笑う。

「貴殿は、娼婦だろう?名は」
「クルティザンヌ」

手袋を嵌めていた手を止め、エリクは唐突に女を振り返りその頬に手を滑らせる。そして挑戦的な女の視線が伏せられた瞬間を見計らい、―強引に唇を奪った。半ば以上、噛み付くように。けだものが獲物に食いつくように噛み付き、口内を荒らしては女の息が続かなくなった頃ようやっと開放した。
女は慣れた様子であまり感情の無い表情を浮べ、エリクを見る。その表情をやはり、エリクは嫌悪を露にして見つめるのだった。

「…職(クルティザンヌ)を訊いた覚えはないのだがな。おれは貴殿の名を訊いたはずだが」
「なんだ、アンタ教養があるのか。ケダモノみたいに襲うモンだから、てっきり荒らぶれかと思ったよ」

くつりとクルティザンヌ―娼婦、と名乗った女は嗤った。先程とは逆に、今度は女がエリクを見下している。けれど彼は不機嫌な吐息でそれを一蹴し、女の頬を再度撫でた。今度は口付けるつもりなどないのだろう、近づけただけの顔は無感情で、だが挑発的なもの。「名は、」再三、エリクが女の耳で囁く。

「なるほど、アタシを買うってワケか。いいよ、教えてやる」

何を悟ったのか、女は目を伏せ諦めたように笑いエリクの腕をすり抜けた。ベッドの端に腰掛けて、白いシャツ―おそらくエリクのものだったのだろう―を脱ぎ捨てれば、恥ずかしげもなくまたシーツに埋もれた。片手を伸ばし、エリクの襟元を掴み引き寄せる。その首にしなやかな動きで腕をかければ誘うようにして脚を絡めた、そして耳を噛んでは濡れた息と共に、そっと名を言おうと―した。

「おれがいつ、貴殿を買うと言った。おれは貴殿を"拾った"だけだ」

その冷たい一言にかっと女は顔を赤くした。平手を振り上げて、怒りに任せエリクの頬を叩く。

「っ、馬鹿にしてるの?!好きで身体売ってんじゃないんだ、タダでくれてやるような…ッ、」
「衣食住と多少の贅沢では足りないと言いたいのか?」

自然と覆いかぶさる形になっていたエリクが、怪訝そうな表情をして女を見た。今にも殴りかかろうとしていた女の手が、ぴたりと止まる。女は怯えているかのような表情で何かを言おうと唇を振るわせたものの、その声が音を成す事はなく空気だけが宙に舞った。
襟元を掴んでいた華奢な手を払い除ければエリクは起き上がり、女の上から退く。焦りも情欲もその表情には浮んでおらず、やはり女には彼の考えているものが理解できなかった。

「この一室と衣食を与えると言っているのだがな。それとも貴殿には既に帰る場所があると」

已然として自身の考えを言うだけの彼に、女は最早絶句するしかなかった。その事実を聞くのは初めてなのだから無理も無いが、エリクの態度は物分りの悪い人間に苛立ちを覚えているかのようにも見える。「無い、けど…」歯切れ悪そうに女が答えれば、エリクは最早それ以上の答えは要らぬというように再度ベッドに戻った。女の髪を掬えば紳士と見まごうような態度を見せ、笑う。

「契約成立だ」
「…物好きも居たもんだね」

言うや否や首元に唇を寄せたエリクに、溜息のような笑いを零した。冷たい皮膚に乱れぬ息、変わらぬ表情。そこに愛などあろうものかと、クルティザンヌは嗤っただろう。けれど今は違う。何故か男の事を嗤う事などできずに、やはり首に腕を回し引き寄せただけだった。そこに愛など、あろうものか。

「アタシはアニタ。…アニタ・イーズデイル」

告げられた名が情事の最中呼ばれる事は、ついに無かった。

―――
(幻肢痛)

第二幕。
そこに愛など在ろうものか。