宮沢賢治は、妹トシが亡くなったときに、「小岩井農場」という長い詩を書いています。
その末尾部分の一節を引用します。
もうけつしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云つたところで
またさびしくなるのはきまつてゐる
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは透明な軌道をすすむ
天文学者 渡部潤一さんの著書『賢治と星を見る』(NHK出版)に、この小岩井農場のことが詳しく描かれています。この農場はもともと岩手山からの火山灰が堆積し、極度に痩せた酸性土壌でした。土壌改良のために石灰の効果があり、そのために設立されたのが東北砕石工場です。その上得意のひとつが、賢治の営む羅須地人協会だったのだそうです。
賢治の病気のために羅須地人協会が休止し、このため受注の減った工場が、あらためて賢治の存在を知ったことから、土壌改良の専門家として賢治を迎えるようになります。
この仕事に大きなやりがいを感じた賢治は、病身に鞭打って製品の営業に東奔西走することになりました。しかし、このときの無理がたたって、賢治は命を縮めることになったのだそうです。
さて渡部潤一さんの『賢治と星を見る』の後半は、「銀河鉄道の夜」に天文学の知識を織り交ぜながら展開し、最後に、川に落ちたカムパネルラの捜索場面と、カムパネルラの父親の佇まいについて触れて話を終えます。
俄(にわ)かにカムパネルラのお父さんがきっぱり云いました。「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」
ジョバンニは思わずかけよって博士の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知っていますぼくはカムパネルラといっしょに歩いていたのですと云おうとしましたがもうのどがつまって何とも云えませんでした。すると博士はジョバンニが挨拶に来たとでも思ったものですか、しばらくしげしげジョバンニを見ていましたが「あなたはジョバンニさんでしたね。どうも今晩はありがとう。」とていねいに云いました。(「銀河鉄道の夜」より)
「小岩井農場」で「すべてさびしさと悲傷とを焚いて/ひとは透明な軌道をすすむ」と書いた賢治は、ちょうどカムパネルラの死を受け止められないジョバンニのようだったのでしょう。そうやって「透明な軌道」を進んで、カムパネルラと旅して行き着いたのが、カムパネルラの父親の姿でした。大切な人の死を受け止めて、動じない人の姿です。
羅須地人協会の事業に失敗し、それでも土壌改良に情熱を傾けていた賢治の、いわば不屈の戦いを経たのちの、「こうありたい」という姿だったのだと思います。そして、カムパネルラの父も「さびしさと悲傷とを焚いて」ようやく前に進もうとしていることは、賢治が一番よく知っています。
最愛の娘さんを病で亡くした渡部潤一さんは、本書の最後のほうで、こう語ります。
私事になるが、私は数年前、娘を失った。まだその傷は癒えていない。家で何か物音がすると、ああもしかして娘ではないか、などとありえないことを思ったりするのである。
カムパネルラの父のようにはいかないかもしれないけれど、そのようにありたいという渡部さんの思いが伝わります。