犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

半杓の水について

2024-02-15 06:58:02 | 日記

春の茶会に向けて、点前の練習を重ねなければならないのですが、ちょうど仕事の最繁忙期でもあり、練習は自宅に帰ってからの遅い時間帯になっています。
そういう事情もあって、お茶を濾して棗に入れ、茶釜にお湯を準備しているとそれだけで時間がかかってしまうので、お茶とお湯なしで、帛紗と道具だけを扱う「空点前」(からでまえ)を繰り返すことになります。

点前の基本のひとつが、軽いものを重く、重いものを軽く扱うことなのですが、空点前では、その基本を忘れてすべての道具を軽く扱ってしまいがちです。稽古を見ていた妻からも、今のお点前はとても軽かったと酷評されました。
空点前のもうひとつの欠点は、柄杓で掬う水量の感覚を無視してしまうことです。柄杓に汲んだ湯半分を茶碗に注ぎ、残った半分を茶釜に戻すという行為は、水量を意識せずに空点前をやっていると、いかにも空疎な手順のように見えます。逆にそれだけの意味があって、敢えて取り入れた所作なのだということも実感します。
「それだけの意味」とは簡単に言ってしまうと、「これから使う水」ではなく「使わずに元に戻す水」に着目するということです。

当ブログに、このことに触れたものがありましたので、やや端折って再掲します。

道元禅師は毎朝仏前に供える水を、大仏川で汲んでいました。このとき最後に杓に汲んだ水の半杓の量を、大仏川に返すことを常としていたのだそうです。元の流れに返す半杓の水が、やがて万人の汲むべき水のひとしずくになると考えたからでしょうか。永平寺の正門の向かって右側の石碑には、「杓底一残水」、左側の石碑には「汲流千億人」の文字が刻まれています。柄杓の底に残ったわずかな水を、多くの人が汲むことになる、という意味です。
「陰徳を積めば、万人に恵みが及ぶ」とも解されますが、ここは「元に戻す」行為そのものに注目した方が、より道元の意図に沿うのではないかと考えます。「半杓の水を戻す世界」として、つまり貪る対象ではなく与える対象として、道元はこの世界を毎朝とらえ直していたと思うのです。(ここまでが再掲です)

元に戻した水は、二客、三客のために使われるものです。その水を分かち合う所作は、一碗の濃茶を分かち合う行為にも通じます。茶の点前がただの給仕のためのプロセスではなく、そこに居合わせた客との関係において、初めて成り立つものだということが分かります。
茶碗に注ぐ半杓の水は、目の前の客に寄り添うためのものであり、茶釜に返すもう半杓の水は、そこから一歩退いて全体を見回すためのものである。そんな風にも考えました。


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