福岡市東区の筥崎宮の楼門に「敵國降伏」の扁額が掲げられています。
蒙古襲来に際し、亀山上皇が祈念した宸翰(しんかん 天皇の直筆の書)を、拡大して書き写したものです。
文政元年、頼山陽が筥崎宮を訪れた折、楼門に掲げられた扁額を見て、「これは『敵國降伏』ではなく『降伏敵國』でなければ文の意味が通じない」と言ったのだそうです。敵國を降伏させるという意味ならば、漢文の語法によると「降伏敵國」とすべきだと。
葉室麟のエッセイ集『河のほとりで』(文春文庫)に載っています。
明治に入って、福岡出身のジャーナリスト福本日南が、頼山陽の指摘に応えてこう述べています。
「敵國降伏」と「降伏敵國」とは自他の別あり。敵國の降伏するは徳に由る、王者の業なり。敵國を降伏するは力に由る、覇者の事なり。「敵國降伏」而る後ち、始めて神威の赫々(かっかく)、王道の蕩々(とうとう)を看る。
優れた徳の力による「王道」と、武力で敵を従える「覇道」の違いがあって、楼門の扁額は、まさに前者を表しているのだ、という反論です。
筥崎宮の楼門造営が豊臣秀吉の文禄の役の最中なので、楼門の扁額の文字を「徳治による王道」を指すと言うにはやや無理があるのではないか、と普通そう思います。
しかし、葉室が注目するのは、福本日南が敵國降伏の扁額について触れている『筑前志』を敢行したのが、日露戦争の前年であったという点です。日清戦争後の三国干渉で、国中にロシアや欧米列強への反発が渦巻いており、その勢いのまま戦争に突入しようとしていた時期の言葉だとすると、日南の切々たる思いが伝わるではないか、そう葉室は指摘します。
ここ数日のロシアのウクライナにおける乱暴狼藉は「覇道」の最たるものに違いありません。しかし、覇道に抗するに覇道をもってするのではなく、いかにして王道を築くか国際社会構築はいかにあるべきか、についての議論がほとんど行われないように見えるのも気になります。
もうひとつ、亀山上皇が「敵国降伏」を祈念したころのエピソードがあります。
元寇の危機にさらされた執権、北条時宗は無学祖元禅師に教えを乞いました。そのとき禅師は「莫妄想(まくもうぞう)」と言って諭したといいます。妄想するなかれという教えですが、誇大妄想にふけるなという意味よりも、今取り組んでいることに全力を傾けよ、といった意味に近いのだそうです。不安のなかにあってあれこれと思いを巡らせることは、かえって地に足のつかない行動を誘発してしまいます。
相手が「妄想」のなかで行動しているときには、なおのこと妄想から遠くあることが大事になってくるのだと思います。ちょうど覇道に対するに、覇道をもってすることを避けるべきであるように。