震災から1年を経過したこと,また,新しい年度のはじまりを前にして,これまで触れなかった震災時の石巻合同庁舎の状況についてお伝えしたいと思います。
震災当日は,合同庁舎が崩れるかと思うほどの揺れに襲われ,揺れが一時収まった時に職員は一旦駐車場に避難しました。ここは指定避難所ではないながら公共機関であることもあり,近隣から多くの住民が集まってきました。その後余震が連続する中,大津波警報が発令され,近接する堀から海水等が逆流してくる様子が見えたことから,合同庁舎内の2階以上に避難することになりました。
直接的な津波ではありませんでしたが,津波による浸水は時間を追って水かさが増し,夕方には合同庁舎の1階部分はほぼ水没したようになり,予備電源である自家発電設備も夕方には機能しなくなり,電源を喪失し停電となったことにより,テレビからの情報も入手できなくなり,電池式ラジオが外部からの情報入手手段となるような状況でした。
通常回線の電話は,震災直後から使用不能となり,防災用の衛星携帯電話だけが外部との通信手段となったが,電波状態がよくないことから通信にかなり手間取るとともに,バッテリー量に限りがあることから使用時間を切り詰めながらの対応となりました。
震災後の地方振興部執務室内の状況です。
震災翌日(3月12日)の早朝,合庁2階北側正面玄関からの風景です。水面に自動車の屋根が見え隠れしています。見渡す限り,建物の1階部分が水没しています。
石巻合同庁舎は2階に正面玄関がありますが,そこまで伸びるスロープの途中まで水没した状態でした。地盤沈下もあり,この時の水深は深いところでは2m近くにも及ぶほどでした。
合同庁舎南側の中庭部分です。北側同様一階は水没し,替えタイヤ等が流れ着いていました。
余震が続き津波警報が断続的に発令され,海岸の水門等が閉められているせいか一向に水位が下がりませんでした。
このように水が引かない中,震災当日から自衛隊のボートにより救出されるまでの4日間(3月11日~14日),合同庁舎内には避難民約300名,職員約200名が生活することとなりました。
当時合同庁舎は改修工事中であったので,その足場として使用していた工事用資材の一部を活用して筏を製作し,その筏を使用して近隣のアパートから助けを求めていた女性を救出しました。
その後,近くでは新潟市消防局も来て,自宅2階以上等に取り残されている人を救出している光景も見られるようになりました。
合庁内には食料はほとんどありませんでしたが,避難してきた方々を優先に売店や食堂等に貯蔵されていたものを活用しました。また,健康管理の面については,東部保健福祉事務所等がケアにあたりましたが,人工透析者や妊婦,その他健康に特に問題を抱える避難民数名については,自衛隊のヘリにより屋上から救出してもらいました。
更に,製作した筏を使って新たに調達した和舟で近隣の住民の救助活動を行うほか,体調不良者について非浸水地域まで搬送するなどの対応も行いました。
当時,われわれは避難民の方々を全員無事に石巻合同庁舎から脱出させるとともに,きちんとした避難所まで送り届けることを重要課題として取り組みました。
結局14日にはなりましたが,避難民全員無事に自衛隊のボートで救出され,救出後は事前に石巻市と調整,準備したバスで稲井小学校,稲井公民館まで搬送しました(体調不良者は自衛隊の車両や救急車で日赤病院にも搬送してもらいました)。
合同庁舎内の避難生活は,食料,飲料水のほか,トイレや暖房の燃料など様々な問題があり,避難された方々には不自由な想いをかけたかと感じております。
われわれ職員は,避難民の方々が全員脱出後,庁舎管理のための5人を残し自衛隊のボードで脱出しました。脱出後は一旦東部下水道事務所に移動しましたが,後日各事務所それぞれ分散して仮事務所を設置するような状況となりました。
まだまだ書ききれないことはありますが,あれからまだ1年かという想いと,もう1年かという想いがあります。
復興への道はまだまだ長いですが,震災時の事を忘れず,東部地方振興事務所は今後もこの地域の復興のために取り組んでいきたいと思います。
(T.I)
現在の石巻合同庁舎(H24.3.30撮影)
震災当日は,合同庁舎が崩れるかと思うほどの揺れに襲われ,揺れが一時収まった時に職員は一旦駐車場に避難しました。ここは指定避難所ではないながら公共機関であることもあり,近隣から多くの住民が集まってきました。その後余震が連続する中,大津波警報が発令され,近接する堀から海水等が逆流してくる様子が見えたことから,合同庁舎内の2階以上に避難することになりました。
直接的な津波ではありませんでしたが,津波による浸水は時間を追って水かさが増し,夕方には合同庁舎の1階部分はほぼ水没したようになり,予備電源である自家発電設備も夕方には機能しなくなり,電源を喪失し停電となったことにより,テレビからの情報も入手できなくなり,電池式ラジオが外部からの情報入手手段となるような状況でした。
通常回線の電話は,震災直後から使用不能となり,防災用の衛星携帯電話だけが外部との通信手段となったが,電波状態がよくないことから通信にかなり手間取るとともに,バッテリー量に限りがあることから使用時間を切り詰めながらの対応となりました。
震災後の地方振興部執務室内の状況です。
震災翌日(3月12日)の早朝,合庁2階北側正面玄関からの風景です。水面に自動車の屋根が見え隠れしています。見渡す限り,建物の1階部分が水没しています。
石巻合同庁舎は2階に正面玄関がありますが,そこまで伸びるスロープの途中まで水没した状態でした。地盤沈下もあり,この時の水深は深いところでは2m近くにも及ぶほどでした。
合同庁舎南側の中庭部分です。北側同様一階は水没し,替えタイヤ等が流れ着いていました。
余震が続き津波警報が断続的に発令され,海岸の水門等が閉められているせいか一向に水位が下がりませんでした。
このように水が引かない中,震災当日から自衛隊のボートにより救出されるまでの4日間(3月11日~14日),合同庁舎内には避難民約300名,職員約200名が生活することとなりました。
当時合同庁舎は改修工事中であったので,その足場として使用していた工事用資材の一部を活用して筏を製作し,その筏を使用して近隣のアパートから助けを求めていた女性を救出しました。
その後,近くでは新潟市消防局も来て,自宅2階以上等に取り残されている人を救出している光景も見られるようになりました。
合庁内には食料はほとんどありませんでしたが,避難してきた方々を優先に売店や食堂等に貯蔵されていたものを活用しました。また,健康管理の面については,東部保健福祉事務所等がケアにあたりましたが,人工透析者や妊婦,その他健康に特に問題を抱える避難民数名については,自衛隊のヘリにより屋上から救出してもらいました。
更に,製作した筏を使って新たに調達した和舟で近隣の住民の救助活動を行うほか,体調不良者について非浸水地域まで搬送するなどの対応も行いました。
当時,われわれは避難民の方々を全員無事に石巻合同庁舎から脱出させるとともに,きちんとした避難所まで送り届けることを重要課題として取り組みました。
結局14日にはなりましたが,避難民全員無事に自衛隊のボートで救出され,救出後は事前に石巻市と調整,準備したバスで稲井小学校,稲井公民館まで搬送しました(体調不良者は自衛隊の車両や救急車で日赤病院にも搬送してもらいました)。
合同庁舎内の避難生活は,食料,飲料水のほか,トイレや暖房の燃料など様々な問題があり,避難された方々には不自由な想いをかけたかと感じております。
われわれ職員は,避難民の方々が全員脱出後,庁舎管理のための5人を残し自衛隊のボードで脱出しました。脱出後は一旦東部下水道事務所に移動しましたが,後日各事務所それぞれ分散して仮事務所を設置するような状況となりました。
まだまだ書ききれないことはありますが,あれからまだ1年かという想いと,もう1年かという想いがあります。
復興への道はまだまだ長いですが,震災時の事を忘れず,東部地方振興事務所は今後もこの地域の復興のために取り組んでいきたいと思います。
(T.I)
現在の石巻合同庁舎(H24.3.30撮影)
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