ゾウさんと暮らす

85歳の 夫ゾウさんとの
二人暮らし。 わたし 82歳。  

⑦ うやむや には したくなかった が 

2013年07月10日 06時42分46秒 | 2013 ・7 「奥の細道」山形… 映画村 

山形県 探訪  ⑦  うやむや には したくなかった が  (7月4日)


私達が 芭蕉の 「奥の細道」を 辿った 最後は、 

2000年 4月24日~ 26日になっている。13年前。

このとき「三崎公園」を 目印に、探したためだろう 

有耶無耶(うやむや)の関は 見つけられなかった。

鼠ヶ関までは行った。 この時から

私たちの「奥の細道」探訪は 休みになっていた。

   ( 敦賀~大垣までは この5月行ったけれど ) 


有耶無耶(うやむや)の関

9世紀頃、蝦夷の侵入を防ぐために築かれたところ。

現在の国道7号の 山形県と秋田県の県境、

三崎峠 付近 となっている。   

芭蕉と曽良は 日本十景のうちのひとつ 象潟を めざしている。

元禄2年(1689) 6月15日 (陽暦7月31日)、 酒田の町を 出発。

象潟には 土砂降りの雨に たたられて、吹浦(ふくら)で一泊。

翌16日に 歌枕の地「有耶無耶の関」の三崎峠を 通過した。

『奥の細道』には、 

   「(象潟の) 西 は むやむやの関、 路をかぎり」

と 書いているが、実際の、有耶無耶の関は 象潟のである

曾良随行日記 …  … には

   「小砂川、御領也 …略 … 塩越迠三リ、

   中途ニ 関ト云村有、ウヤムヤノ関成(是より六郷庄之助殿領)ト云」

曽良の この部分(たぶん) は 文学碑と なり、

三崎峠の秋田県側に 建っているそうだ。 

どうも ごつごつした石があって 歩きにくい そうな。

行かなくて 良かったのかも。


さて 私たちの 「奥の細道」は

前には 目印を 「三崎公園」を したため、 見つからなかったのだろう。

今回は 県境を 目印に 車を 走らせた。  見つかった。 

さくらんぼを 小分けにして、杖 持って 古道に 足を入れた。  

 標柱 右手が 古道

三崎峠は 鳥海山から流れ出た溶岩流が 海側に突き出た場所であり、

「馬も通れない」と いわれたほどの 交通の難所 だった という。

そんなことは 想像もつかないほど、 いまは 立派な 車道 7号線がある。 

 (写真 … ず~~と右手の 白っぽいところ)

 

ふるい道は きれいに 刈り払いされていた。  ここを過ぎたら

正面に 古道の 続きらしい 道があった。

これが 秋田へ向かう、関所への 古道なのだろう。

ひだり側、海への道があった。これが三崎公園かな。 

四阿が あった。 トイレもあった。 

   ( 鳥の羽根・糞などで、使える状態ではなかった )

もう 時間がない。 古道は 諦めた。


 

 先を急ぐ。


余談。

天明4年(1784) この地を訪れた 菅江真澄は

「此関むらこそ いにしへの うやむやのせきあと ならめ、

三崎山の地獄谷の辺とは 人のいひあやまちたらんか」(秋田のかりね)

と 記している。

同8年の 庄内御預所由利郡拾壱ケ村御案内帳 には

「関村いなむやの関と申古跡ニ御座候」とある。


「奥の細道」では ここ三崎峠を 有耶無耶と 断定している から、

私も それで 納得することに しよう。  

うやむや に は していられない、と ここまできた が

峠を 越えなかったから、 結局 今回も うやむや に した

ことになる のかなぁ。 

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