山形県 探訪 ⑦ うやむや には したくなかった が (7月4日)
私達が 芭蕉の 「奥の細道」を 辿った 最後は、
2000年 4月24日~ 26日になっている。13年前。
このとき「三崎公園」を 目印に、探したためだろう
有耶無耶(うやむや)の関は 見つけられなかった。
鼠ヶ関までは行った。 この時から
私たちの「奥の細道」探訪は 休みになっていた。
( 敦賀~大垣までは この5月行ったけれど )
有耶無耶(うやむや)の関は
9世紀頃、蝦夷の侵入を防ぐために築かれたところ。
現在の国道7号の 山形県と秋田県の県境、
三崎峠 付近 となっている。
芭蕉と曽良は 日本十景のうちのひとつ 象潟を めざしている。
元禄2年(1689) 6月15日 (陽暦7月31日)、 酒田の町を 出発。
象潟には 土砂降りの雨に たたられて、吹浦(ふくら)で一泊。
翌16日に 歌枕の地「有耶無耶の関」の三崎峠を 通過した。
『奥の細道』には、
「(象潟の) 西 は むやむやの関、 路をかぎり」
と 書いているが、実際の、有耶無耶の関は 象潟の南である。
曾良随行日記 … … には
「小砂川、御領也 …略 … 塩越迠三リ、
中途ニ 関ト云村有、ウヤムヤノ関成(是より六郷庄之助殿領)ト云」
曽良の この部分(たぶん) は 文学碑と なり、
三崎峠の秋田県側に 建っているそうだ。
どうも ごつごつした石があって 歩きにくい そうな。
行かなくて 良かったのかも。
さて 私たちの 「奥の細道」は
前には 目印を 「三崎公園」を したため、 見つからなかったのだろう。
今回は 県境を 目印に 車を 走らせた。 見つかった。
さくらんぼを 小分けにして、杖 持って 古道に 足を入れた。
。 標柱 右手が 古道
三崎峠は 鳥海山から流れ出た溶岩流が 海側に突き出た場所であり、
「馬も通れない」と いわれたほどの 交通の難所 だった という。
そんなことは 想像もつかないほど、 いまは 立派な 車道 7号線がある。
(写真 … ず~~と右手の 白っぽいところ)
ふるい道は きれいに 刈り払いされていた。 ここを過ぎたら
正面に 古道の 続きらしい 道があった。
これが 秋田へ向かう、関所への 古道なのだろう。
ひだり側、海への道があった。これが三崎公園かな。
四阿が あった。 トイレもあった。
( 鳥の羽根・糞などで、使える状態ではなかった )
もう 時間がない。 古道は 諦めた。
先を急ぐ。
余談。
天明4年(1784) この地を訪れた 菅江真澄は
「此関むらこそ いにしへの うやむやのせきあと ならめ、
三崎山の地獄谷の辺とは 人のいひあやまちたらんか」(秋田のかりね)
と 記している。
同8年の 庄内御預所由利郡拾壱ケ村御案内帳 には
「関村いなむやの関と申而古跡ニ御座候」とある。
「奥の細道」では ここ三崎峠を 有耶無耶と 断定している から、
私も それで 納得することに しよう。
うやむや に は していられない、と ここまできた が
峠を 越えなかったから、 結局 今回も うやむや に した
ことになる のかなぁ。