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ゾウさんと暮らす

86歳の 夫ゾウさんとの
二人暮らし。 わたし 83歳。  

27 こおろぎ から あやとり まで

2014年12月03日 00時14分29秒 | 2014・11奥の細道 金沢~福井

27 こおろぎ から あやとり まで


こおろぎ橋から すぐに 急な勾配を 下ることになった。 

戻ることは できない。 

川に 近づくためには 下らねば ならないのは、 必定。

手に持っていた カメラを 

カバンに 入れる前に、と 1枚を 撮った。

 

1年前の ゾウさん。 同じような 川沿いの道。

天の岩戸への道で ズボンを 汚したことを 思い出した。 

写真撮りに こり固まっていて、 足元を見なかったので

滑ったのだ。 転んでいませんように。

人のことを 気にしてる暇はないのだが、

ゾウさん の姿が ちらり とすると、 ちょっと 安心する。 

講師先生の 説明を 聞く余裕はない。

なんとか くっついている そのことだけで 上々に思う。 

勉強は あとですればよい。

 

なに橋は わからないが 写真だけは 撮った。

川を のぞきこんだとき 

昨夜の 売店の女性との 会話を思い出した。 

鰍の 写真を ながめていたら  

ここへ泊った方が 撮って、 送ってくださった、という。  

鳴き声きこえますか。…… ハイ。  

大きいですか。…… ここのは 小さい方だそうです。 

この写真を送った方 芭蕉の句を 知っていたのだろう。 

   いさり火にカジカや波の下むせび

xxx  さっき 渡ってきた こおろぎ橋の 上流で

芭蕉さんは 「夜川漁」を みたそうな。

カジカガエル(河鹿蛙)の声を 「むせび鳴いた」と 表した。

曾良との 別れを 詠みこんだのだろうか。 xxxxxxxxxxxxx 

川辺から撮ったのだが、 これ なんだ。 あやとり橋かなぁ。

公園があった。 木の椅子に ぺたんと座りたい気持ち。

西行さんは 春しなむ と 言ったそうだが 私は

この 美しい 紅葉の 頃が いいな、と 思った。

昨日。雨の 那谷寺。 そこの もみじも きれいだった。

この道を行く。下の写真は あやとり橋から 撮った。

 

呼んでいる。 ゆっくりしては いられない。 

でも 再訪はない。 1枚だけ ね。

レシーバ―を つけていない人は 呑気なもんです。

「早く 来て」 と 叫ばれていても 聞こえないんですから。

まあ、 音はあっても、聴く耳は 持っていません。 

では また


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26 ゾウさんより やさしい運転手さん

2014年12月02日 00時05分45秒 | 2014・11奥の細道 金沢~福井

26  ゾウさんより やさしい運転手さん


この ホテルは 10階以上ある。(12階?)

フロントは 1階ではなく、 5階 ? 

(メモを しておけばよかった)  

私たちの 部屋は 2階 だから 地階 へ行くことに。

地階は川の方からしか 見ることができない。多分。

 昨夜の 買い物。 

最後のパソコンの会で 食べる予定 の「娘娘せんべい」。

娘娘 に …… にゃあ にゃぁ と ルビ有り。

売店の 若い女性に どういう意味ですか、と 問うた。

 「娘さん」と いう意味 だと。 

さらに 「あなたも にゃあ にゃあ ?」と きいてみた。

細身の 若々しい 方だった。 

「結婚しています」。 「子どもさんは」 には 「いません」

「では。 まだ、 にゃあ にゃぁ でいいですね」。

など 会話を した。


部屋から 大聖寺川を 観る。 朝食をとりにいく。 

    これ  ↓   なんだろう。

  

ゾウさん 珍しく 「聞いてきた」 って。

ポットに 詰めていく人が いる ので ご注意してるんですって。

考えもつかないことでした。  

せちがらい …… こと  です。

お天気は 戻った。 さて 「2時間半」 歩けるだろうか。

昨夜から 考え中なまま、 決まらない。

   ① 雨上がりの ②川沿いの ③登り下りの道を

あるかるだろうか。

バスに のっても まだ 決断が つかない。

考えているうちに、 こおろぎ橋 近くに 着いた。

みなさま 元気に 行ってしまった。

橋を 観るだけ、でも 行ってみよう。 

ゾウさんは すでに いない。

付き添いをする、との、私との約束なんぞ 忘れている。

運転手さんのほうが ず~~と やさしい。

「橋まで 行ってみましょう」 

そこまで 考えて、という ことだろう。

   ( バスには 一人 残った人がいる )

竹田城でのことを 思い出した。

行かなかったら 後悔しただろう。

運転手さんには 「行きます」と 告げた。 

手に持っていた本を 座席に 持っていってもらった。

さぁて 2時間半、 です。


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25 医王寺 住職さま「山中節」を熱唱 

2014年12月01日 09時51分33秒 | 2014・11奥の細道 金沢~福井

25 医王寺 住職さま「山中節」熱唱

 山中や 菊は手折らじ 湯のにほい

雨にぬれて 文字よめず。 

しかしながら、 誰でもしっている 芭蕉の句 

わたしも 「… 菊は 手折らじ……」は そらで言える。

ここは 山中温泉の寺 医王寺。

xxxxxx 飯坂温泉にも 医王寺は ある。

おなじ 温泉地だが 「奥のほそみち」では 正反対の 書き方。

冷たいあつかいを された、と 書かれた 飯坂温泉とは 違って

ここ 山中温泉では 気分よく過ごしたことが うかがえる。

曾良さんも いたこと、だから ご機嫌は すこぶる、であろう。


その昔、山中温泉には、船乗り衆が やってきた。

湯宿には 内湯がなかった。

総湯、 菊の湯には ユカタベ と 呼ばれる 

宿の下働きの少女たちが 付き添っている。

浴客と 浴衣を 持った ユタカベ が 唄を 掛け合った。

これが、 今日の山中節の原形と いわれている。

客の多くが 船乗りであったことから、

山中節は、北海道の 松前あたりの 

追分節の影響を受けている、ともある。 わたしは

山中節は 北海道の 江差追分が 元歌だと きいている。

xxxxxxxxxxxxx

 ♪ 「忘れしゃんすな  山中道を  東ゃ松山  西ゃ薬師」

と 唄われた 「おやくしさま」が この 医王寺である。

医王寺の 住職さま

この山中節の文言に 芭蕉の句を 入れ替えて 

「 ♪ 山中や 菊は手折らじ 湯のにほい スイ スイ」

と 熱唱してくださった。

 ← この辺

に たって 歌われたのである。 ( 許可をえて撮影した )


温泉街を見下す高台に建っている この医王寺

真言宗の古刹は、山中温泉を開湯した行基の創建と伝えられ、

温泉の守護寺として 親しまれているそうな。

xxxxxxxxxxx 展示室

山中温泉 古絵図 ?     ほしい !! 

芭蕉の忘れ杖も 収蔵されていたそうだが、

私は この 絵図のまえで 時間をつかってしまった。


 

夕食会は この旅行社の「奥の細道」全行程を

「 完歩 」 した方を 祝う会でもあった。

終わったとき、 外に 月をみた。 カメラを 持っていなかった。

ゾウさんも 昨夜の 反省をこめて 充電中。 持参していない。

カメラを 持って 再度 レストランへ 行くが しまっていた。

ホテルの中を うろうろするが 撮影場所がない。ひとり屋外へ。

     ↓   みえたぁ。

 

満月は 明日。 では       


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24 西行ゆかりの地ではない 汐越の松 

2014年11月30日 00時10分32秒 | 2014・11奥の細道 金沢~福井

24 西行ゆかりの地ではない 汐越の松 


ここは ゴルフ場。 

芭蕉さんと ゴルフ。 なんの かかわりもない。なのに みんなで

運転手の いない 車が 動いている道を 歩いている。

目的の地は この奥にある 海沿いの方向 だ。

『おくのほそ道』

越前の境、吉崎の入江を舟に 棹して、汐越の松を尋ぬ

   終宵 嵐に波をはこばせて

   月をたれたる汐越の松   西行

此一首にて、数景尽たり。

もし一弁を加るものは、無用の指を立るがごとし


古木は 朽ち果て たおれている。

「奥の細道 汐越の松」跡 には 「遺跡碑」が 設置されている。

この時代には 西行の作と 言われていた 上の句は 

現在は 作者不詳 と なっている。 のだと。

芭蕉さんは この句を 西行さんだ と信じており、

心 惹かれたまま、

渡し舟で 浜坂に 渡ってきたことになる。

(江戸期は 吉崎と浜坂は陸路で繋がっていない)。


汐越の松 は

浜坂の芦原ゴルフ場の 9番ホールの海沿いの

砂丘上にある。 かつて景勝の地。

江戸期の地誌によれば 松は50~100本あった と される。

かっての 景勝地は いま こんなである。

昨夜 眠っていない体が 海に 癒されてくる。

どんより感が あうのかも。

もう 1日 強行軍がある。 今晩は温泉。

入る、か 入るまいか、 考えている。

鶴仙渓を 歩くかどうかも ……。

今日のたくさんの雨で、 滑りそう、 危険だろうか。 

xxxxxxxxxxxxxxxxxx


遺 跡 碑 を 観るためには 

ゴルフ場 受付に 申し出ればよいそう な。しかし

見学者に 不埒な 行為があれば、

以後 「見学禁止」になる ことも 考えられる。 

どうか 迷惑をかけないように

固まって 速やかに 移動するように、と 講師先生。

ゾウさん はやく はやく、 と 気が気ではなかった。

xxxxxx これから バスで  医王寺へ 向かう。


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23 芭蕉さんは 柳の葉を掃除した? 

2014年11月29日 00時01分04秒 | 2014・11奥の細道 金沢~福井

23 芭蕉さんは 柳の葉を 掃除した ?     


 

もうすぐ 閉館になるという ガラス館のとなりで 昼食。 

ガラスの食器が さわやか。 さすが、です。 

身体が 冷えていたので、 鍋も 有りがたい。

雨の強さ を 忘れていられます。

大聖寺城主 山口玄藩の菩提寺、全昌寺へ 

芭蕉は 北枝とともに向かう。

ここが 「山中温泉での 宿 泉屋の 菩提寺」 だったから ?、

だった か な。

書き忘れたが 昨日 アップした 「那谷寺」にも

曾良さんは 同行していない。 

 芭蕉塚、 句碑 がある。

一足先に 曾良さん。 次の日に 芭蕉が 宿泊した。

それまで 離れることが なかった 芭蕉と 曾良さん。

どんな思いで 句を詠んだのだろう。  

  庭掃いて いではや寺に ちる柳  芭蕉

  終夜 秋風きくや うらの山     曾良

    終夜 は よもすがら と 読む。

 …寺に ちる柳 … 

何代目の 柳なのだろう。

本当に 柳の 葉を 掃いたんでしょうか。

細かいから 掃きにくかったことでしょう。 

いろいろ資料を読んでみたら

「お世話になったのだから 掃き掃除ぐらいしなければ」

ならないのだけれど、 先をいそぐので

「ごめんなさい」と 言うぐらいの もん のような。

 xxxxx  本堂には芭蕉木像が展示されていた。

ガラスケースの中なので 撮影知識がないものには

うまく撮ることが できなかった。

  xxxxxxxxxx

江戸時代末期の作 極彩色の五百羅漢像 

517体の仏像、1体も欠けることなく 安置されているそうな。

 

どれも うまく撮れていない。 ないより まし 程度。


 


 

五百羅漢像は 岩手県盛岡市 報恩寺(ほうおんじ)に

五百ならぬ 499体がある。

彩色も かなり 消えていたような 記憶があるが

20年くらい前 ? だから 今は わからない。

おかしいのは、 マルコポーロの像が あること。 

フビライの像も あるらしい。

なぜ、ここにあるのかは 不明のようだ。


 

xxx 

まだ 雨が降っている。   添乗員さん、たいへんです。 


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22 ゲゲゲの 妖怪が 並んでいる お寺

2014年11月28日 00時04分14秒 | 2014・11奥の細道 金沢~福井

 22 ゲゲゲの 妖怪が 並んでいる お寺


「那谷寺」の 読み方が わからなかった。

おぼえたつもりなのだが、その都度 なんだっけ。 

ヤタニ かな ヤタ かな、と 

今回 なんどもなんども 読んだので いま

ナ タ と 読むことが できる。

由来も 調べたから もう だいじょうぶ …… だろう。


那谷寺の名の由来

養老元年(717年) 

大徳 泰澄 神融 禅師によって 創建された。

夢に 出てきた 十一面観世音菩薩の姿を

自ら つくり、洞窟内に安置した。白山開拓の鎮守神とした。

寛和二年(986年) 花山法皇が この地に御幸 

三十三ケ所は全てこの山にあり」と。

西国三十三ケ所 第一番 紀伊の 智山と、

第三十三番美濃の 汲山の 各一字をとって那谷寺とした。 

 

  

芭蕉さんは 山中温泉に 逗留後、

小松へ引き返して、大聖寺から 那谷寺に 詣でた。


『奥の細道』には 「奇石さまざまに 古松植ならべて」と ある。

変わった形の岩、 私には おもしろく みえる。

今日は 強い雨、 岩が 白どころか 濃いグレーに かえられている。

池の手前に 「遊仙境」の立て札 が 立っていた。

 

参道 正面の 御供所(ごくしょ) 近くには

自然石に 刻まれた 芭蕉の 句碑。

   石山の石より白し秋の風

右側が 『奥の細道』の一部を刻んだ 翁塚。

雨が 激しくなった。 また 歩いて 

芭蕉が 「萱ぶきの小堂岩の上に造り」と 記した

岩屋本殿へ、

その奥には 本尊千手観世音菩薩が 安置されている。

三重塔、 鎮守堂へと (だったかな) 上って、展望台に 出た。

(写真は 失敗) 

滑らないように 手すりにすがって 降りる。 

 石が 縦に割れていた。

細い人なら く ぐ れ そう。 ここで 胎内めぐり、できるかな。

xxxxxxx  

芭蕉さんが 石山の石より白し と 情緒豊かに 告げたのに、

遊仙境 どうしても ちがった風景に みえてしまう。

文字どおり 「遊んで」 しまって ……。

xxxxxxxxxxx 右側。 これは、 傘おばけ。


ゲゲゲの 鬼太郎 の 世界。 

      片目の「ねずみ男」  又は ぶるぶる。  

そうすると、左は 子泣き爺。 砂かけ婆。 あかなめ。 

「奇岩遊仙境」は 絶景 だ と 聞いてきたが

雨のなか ながめる 奇岩は どうみても

「ゲゲゲの鬼太郎」 に 出てくる 妖怪どもに みえて

不謹慎 このうえない。

情緒を 求める方は 雨の日は 避けましょう。

紅葉の あかも おどろ、おどろ。

首を ブルブルさせて、 も と え。 もとえ。

御破算で ねがいまして…… も だめでした。

でも 逆に言えば 

雨が降ってしまったら 「ゲゲゲ」を 楽しむスポットにすれば いかが?

泰澄禅師さま。芭蕉さま。 ごめんなさい です。

xxxxxxxx  口なおし に

    

つぎ は   昼 食 会場へ、  では


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21  「髪を染め」た 実盛の その兜  

2014年11月27日 00時12分41秒 | 2014・11奥の細道 金沢~福井

21  「髪を染め」た 実盛の その兜   

 多太神社 入り口

芭蕉が 健聖寺の つぎに 訪れたのは、

斉藤別当 実盛の遺品が残る 多太神社 である。

 

 兜の像

木曽義仲の父 源義賢を 甥の義平が殺害したとき、

実盛 は 幼い義仲をも 殺害するよう 命ぜられた。

しかし、義仲の乳母の夫の里、信濃の木曾村に逃がしてやる。

xxxx  とき 移って

成人して、兵を起こした 義仲の軍が、

加賀の国 篠原で 平家軍と 戦う。

老いを隠すために 髪を染めた 実盛は 奮戦するが 討たれてしまう。

xxxx 命の恩人 実盛 の死を知った 義仲は、

実盛  の 兜などを 多太神社に 奉納する。

 復元 兜

もう 一頭は 貸出中です、を 勘違いして

この ツアーに 参加した 一番の理由

「本物の兜を観る」が はたせない、と 一瞬 がっかりしたのだった。

本ものは この 奥の方、 仕切られた 場所に

鎮座していた。 

 ポスター

貸出されていたのは ↑  「闘う男の文学展」 でした。

  

境内には その兜を 目のあたりにした 

芭蕉の その哀切 が 感じられる 句碑が ある。

実盛 の 死。 義仲 の 行く末。 

それらを思いやった 芭蕉の 哀しみが にじみでている。


  むざんやな兜の下のきりぎりす  芭蕉

境内には 斉藤別当 実盛 「髪を染める」の図の

銅像も 建っていた。 (写真は 失敗)  

xxxxxxxxxx 

金沢や 永平寺は 2009年に 来ていたので、

小松・山中などは ゾウさんと 二人で いく、 

ことも 考えてみた のだった。だが、

個人では 本物の 兜を 観ることが できないようなので 

この ツアーを 利用した、とも 言える。

感激である。    では また


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20 留杖の句碑 そして、これは 鳥居 ?

2014年11月26日 00時51分03秒 | 2014・11奥の細道 金沢~福井

20 留杖の句碑、そして これは 鳥居 ? 


 

本折 日吉神社

旧の北国街道筋にあたる 小松の 本折町に ある。

寿永2年(1183年)に 現在の地に鎮座した。

xxxxxxx ここは 芭蕉さんたちが 句会を 開いたところ です。

境内に 猿の像が 多くみられるのは

神様の お遣いの猿を 「真猿=まさる」と呼んで尊んでいる。

「魔去る」 「勝る・優る・賢る」 「増さる」。
 

 

 留杖の碑 いくらか 文字 読むことができる。 

 あれ あれ。

これは 山門。

え~~と ここは 寺 ?  いや 寺じゃない。

山王社 だから 神さま ?  鳥居 で いいのか。

あ~~ わからない。 

最近 その 「神仏」を 勉強してきたばかり。 

神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、

土着 の 神祗 (?) 信仰と 仏教信仰が

混淆し 一つの信仰体系として 再構成(習合)宗教現象

だとあるが、 ますます 「わからん」 です。

xxxxxxxxxx 町の中心にある、これは

山王宮・本折日吉神社 の 破風付の 朱色の鳥居。

親しみをこめて 「山王さん」 「日吉さん」と 呼ばれている、って。

では また


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19 芭蕉の木像は 枕からできている ?

2014年11月25日 00時04分19秒 | 2014・11奥の細道 金沢~福井

19 芭蕉の木像は 枕からできている


小松市 建聖寺

お寺さんの 奥さまは 病院へ 行っている そうだ。

奥さまと 書いてから 和尚さまの おくさまは

なんと 呼ばれるんだろう、 と つまらないことが 気になっている。 

おくさま 車で おかえりになった。

芭蕉の木像を 抱かせていただけるのだそうな。

私は このごろ 写真を 「撮られる」方には 

できるだけ ならないようにしている。

よその方も 撮らないように している。

言われたときだけ 「撮って」 あげて

あとで 写真に 仕上げて お届けしている。

これが 面倒になった が、 

喜んでいただけると それなりに 嬉しい。

話が それた。 

ほとんどの方が 「抱かせていただいている」

私は 美人さん 3人ばかり 撮らせていただいた。

しかし 許可なしに ここへ掲載はできない。

よって あまり 良くないが この 写真を。 

 

上は 芭蕉が担いでいたという つづらと 書いてあったが、

これは 笈 (おい)?

こんな おおきなもの 背負っていたのでしょうか。

この寺では この中に 芭蕉の木像を収めていた、らしい。

蕉門十哲の一人であった 立花北枝が 

作った 芭蕉 の 坐像だち、 どこかで 聞いた。 

座高18㎝、横幅17㎝、厚さ9.6㎝。

木像 裏面 「 元禄みのとし 」 

左手に 「北枝謹で作之」と かいてある そうな。 

師の像を 丹精をこめて 作った 北枝さん。えらいもんです。

xxxxxxxxx 句碑 やはり 判読 不可能です。

 し ほ ら し き 名 や 小 松 吹 く 萩 す ゝ き

この木の左脇には 芭蕉翁の 石碑がある。

しほらしき は かわいい と 訳されているが

なんか ぴったりしない。

小 松 は いい名前であることは 間違いない。

浜辺の小松に 秋の風が吹いて 萩や ススキが

穂波をなびかせている。なんと いいところだろう。

私は こう訳した。 この土地への挨拶句ですね。 



ひと昔前の 町並みが 残っていました。

現代風に さま変わりしてしまっている

私の 生まれた家 を 思い出します。 

特に 2階。 こんな風だった なぁ。

 

 


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18 小松市の ドラエモンに 弁慶ちゃん

2014年11月24日 00時02分08秒 | 2014・11奥の細道 金沢~福井

18 小松市の ドラエモンに 弁慶ちゃん


ここは 菟橋(うはし) 神社。 

芭蕉さん、曾良さんが、 秋祭りに 訪れているところ。

(写真) 右端に おすわさん と ある。

私の 生まれた町にも お諏訪さん ある。懐かしい。

  xxxxxxxx 

こんな 大きな ドラエモン 子どもたちは 喜ぶだろうな。

それから また 歩く。   あれ。 え~~と。

ああ。 勧進帳ね。 ここは 小松市でした。

可愛い 弁慶ちゃん です。



 

このあと 間違った 写真を 貼ってしまった。

眠いから あした。

勉強し直して から アップします。 夜が明けたら

26日、点検を うけるために 車の掃除をする 予定。 

24日と 25日、 晴れますように。  


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17 広い 小松城は 葦の城 

2014年11月23日 00時13分31秒 | 2014・11奥の細道 金沢~福井

17  広い 小松城は 葦の 城


ツアー 2日目に 入った。

この 旅行は 「奥の細道をゆく」  第14回

加賀100万石 の 城下 金沢を 歩く 3日間の 

ツアー である。 「奥のほそみち」に

関わる 場所を 取りこぼさないように、盛り込んである。

この濃密な 内容を こなすには 

他の 旅行社なら 倍の 6日 は かかるだろう。 

いや いや 10日、 かかるかも。 xxxxxxx

故障がある 体では 少々 つらいが、 

これが 最後だと 思って がむしゃらに 歩いている。 

ゾウさんの 監視も 怠らないようにして……。

(  「お前は オレの 秘書だ」 と ゾウさん のたまう )


失敗。 講師せんせい。 添乗員さんの お名前を 

アップする 許可を 得てこなかった。  

お名前なしで 記すことに しましょ。

xxxxxxxxx

話 変わる。私の ブログ 1回分 書き終えたあとに

今回の 旅行社の 広告が 貼りついたときがある。

妙に 嬉しい。 


さて。 ツアー 2日めも 神社・お寺めぐりで はじまる。

小松市は 飛行場が あった ところ。

ここは 小松天満宮

寛永十六年(1639)、隠居した 加賀藩三代前田利常公

(小松城に在城) が 崇敬している 菅原道真公を祀る社として、

明暦三年(1657)、 現在地に 創建された。

 

それより 30年ほど のちに ここを 訪れた

芭蕉の 「あかあかと 日は難面も あきの風」の 句碑がある。

石が つるつるで 文字を 読むことは できない。  

 十五重の 石塔         ↑ 

石塔は 社殿創建時に作られた。 高さ7m24㎝、
金沢市の 硬度が高い坪野石が使われている。

この塔は先端に 相輪を持たないところから、

仏塔として建立されたものではない、と いう。

石塔が 十五重というのも 極めて珍しい。
小松市の 有形文化財に指定されている。 

この 写真 左手の方向に 小松城があった、と。 

  古絵図が あった。

奥の方に 石の 牛が 寝ていた。

ここは 菅原道真さんを 祀っているんでした。再確認。

xxxxxxxxxxxxxx  バスで 移動。 

小松城の 別名 芦城。 その 公園が みえた。 

芦城公園(ろじょうこうえん)と 呼ぶ。

三代目藩主が隠居としていた 小松城 三の丸跡地。

前田利常没後は 加賀藩の支城として城番が置かれていた。

小松城が廃城された後は

徒刑場、それが 明治になって 金沢市へ 移転。

明治37年(1904年)に 公園となった。

芦城公園の名前の由来は 

公園が整備される前には

(芦)が 生い茂っていた一帯だったことから きている。

って。

 

公園の 近くに 市役所がある。

現代の 地図によれば 小松城本丸跡は 北の方向。

天満宮に近い。 かなり 広大な城だったのだ。では


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16 カメラの精霊に憑りつかれた人

2014年11月22日 00時18分06秒 | 2014・11奥の細道 金沢~福井

11月22日は 「良い夫婦」の 日だそうな。

こんな日に 仲の「良くない」 話が 順番 に きていた。

別のを 出したいが 「下書き」が 空っぽ。

タイミングが よいのか 悪いのか。困った。

言い訳は しておきます。 

普段は そんなに 良くない 夫婦では 

ないのです、よ。  説得力ない ですね。


 


 16 金沢 にて 

 カメラの精霊に憑りつかれた人


ツアー 初日、広い金沢城を 歩いた夜。   

蟹が 主役の 夕食を 終えて 

大浴場で 気分が よくなった ゾウさん。 

いつもの テレビ ドラマ 「相棒」を みるという。

衣類の始末をしながら 私は 観ていた。

半分もみただろうか、ゾウ 居眠りしている ので

チャンと ねなさいよ。 と 布団を かけてやる。

別の 番組をみながら、 片付けを終えたのは 11時すぎ。 

xxxxxxxxxxx 夜中、 がさがさ。 カメラ いじっている。

xxxxx   1時間ほど 過ぎただろうか。また がさがさ。

間違いない カメラの 充電器を いじっている。

宿に着いてすぐに 電源に 挿し込んでおけば、半分以上 済む。

寝るまえに 次のを やっておけば それで 準備 OK の はず。


車を 運転するとき 人格が 変わる人がいる そうだが

ゾウさんは カメラを 持つと 別人格になる。

普段の ゾウさんは いくらか 聞く耳を持つ人だが、

カメラが そばにあると 別人。

意見も なんにも 聞こえなくなる。 

耳は たしかに 悪いが、 その問題ではない。 

xxxxxxxxxxx  眠るどころではない。 xxxxxxxxxxxxxx

3度目は 2時過ぎ、 またまた。 がさがさ やっている。

寝ているときは 耳(補聴器) を 外している から

自分で発している音に 気が付かないのか とも 思ったが

そもそも、別人格になっているんだから

他人への 配慮なんぞ するわけがない。

xxxxxxxxxxx

側によって 「いいかげんに し て 」と ささやいた。

いや いや、 声は 高くなっていた に 違いない。

日本のホテルは 音が 響くから 

おとなりに 聞こえた 、、、、 かなぁ。

xxxxxxxxxxxxxx  そのまま 眠れないで いる。

ゾウは 寝言しながら 眠っている。 xxxxxxx 

3時半頃 どっかから 音。 なんだろう。

厨房の 作業の 音 ?

とうとう うつらうつらの まま、 朝。

ゾウに 言った。 「 おかげで 顏 しわくちゃ 」

そしたら 「 いつも そんな だ 」の 返事。

昨日の朝の顔は こんなに ひどくなかったんだけれど なぁ。

それに、 こんなときは 「ごめんなさい」 ではないのかな。

xxxxxxxxx   ゾウさんには  カメラの精霊、

いや 妖怪、 憑りついて いるに 違いない。


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15 ⑥ 石を 「いわ」とは これいかに

2014年11月21日 00時10分18秒 | 2014・11奥の細道 金沢~福井

15 金沢城から  

⑥ 石を 「いわ」とは これいかに。「岩」「巖」「嵒」

広い 城内を 見学。 長椅子があるところで 休む。

この城は 金沢キャンパスにも 使われていたそうな。

   辰巳用水の 石管

寛永9年(1632)、 約11キロ 上流の 犀川から

城内へ木管で 取水していた。

天保期になって この 石管に 取り替えられた。

松脂 檜皮などを継ぎ手にして 漏水を防いだ。


城を出る。迎えのバスに のる。 

金沢城 さようなら です。

近くまで 来た、と 書いたところが みえた。(2009年)  

下の写真 の この 左手へ いく道の 

30分も 先の ホテルから 歩いてきた のでした。そうでした。

市内を行く。 「右をご覧ください」で あわてて 撮った。

 

これ。メモがない。 小さい ↑  石柱 が 問題のものだろうが、

なんだっけ、な。 xxxxxxxxx まあ。 こんなことも あるさ、です。 

xxxxxxxxxxxx  調べた。

7月15日 芭蕉一行は 倶利伽羅峠を 越えて

百万石の城下町 金沢に 泊まる。

その宿 「宮竹屋」の あったところが「芭蕉の辻」となった

金沢に 9日間滞在して 地元の俳人たちと 歓談。また、

犀川のほとり 松玄庵で、歌仙を巻いた。

と なっている。  (芭蕉の辻は 仙台にもある)

xxxxxxxxxx 

奥のほそみち 「 金沢 」の 項の 原文

卯の花山くりからが谷をこえて

金沢は七月中の五日也。

爰に大坂よりかよふ商人 何處と云者有。

それが旅宿をともにす。

一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、

世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、

其兄追善を催すに

     塚も動け我泣声は秋の風

ある草庵にいざなはれ

     秋涼し手毎にむけや瓜茄子

途中吟

     あかあかと日は難面もあきの風

小松と云ふ所にて 

    しほらしき名や小松吹萩すヽき

xxxxxxxxx 一週間以上も いたのに これだけ ?

次は 金石(かないわ) の 本龍寺 芭蕉句碑

    小鯛さす 柳すずしや 海士が軒 

ここは 海に近い。 

漁士(の妻)が、漁れたての小鯛を

柳の小枝に挿している風景を 詠んだのだろうな。

柳の緑が さらに 涼しさを 呼び寄せてくれた、

ってこと。 挨拶句 ?   xxxxxxxxxxx

この後 バスのなか、後ろの席の 男性陣

石が 「いわ」 と 読まれているところがあるかな、、、

その一人が 言った。 

答えが なかなか 出てこない。 黙っていられない。

余計なことだが 「 石見銀山 」。 言ってしまった。

そしたら もっと ないか、と。

あるんだけれど…   ああ 出てこない。

神社 だったはず。 出雲では ないし。 

岩手県名の由来となった 三つの巨石の 

あれは 三ツ石神社。  あ、そのまま か。あ~~

xxxxxxx  帰ってきてから 思い出した。

鎌倉の 石清水八幡宮。 いわしみず です。

なんで 石を 「いわ」と 読んだのかなぁ。 

と、次の疑問がおこった。 調べた。

 xxxxxxxxxxxx  解説があった。 手短に記す。 

先に 「石清水」という表記があって、

それを「いわしみず」と 読んだのでは ない。

「いわしみず (いはしみづ)」という言葉が 先にあって、

それを「石清水」と 書いた。

現代日本では 「岩」という字を「いわ」と読む。

「岩」は 「巖」の俗字。

「巖」は「嵒」とも書き、“切り立った がけ”

“巖窟”という 意味がある字。 xxxxxxxxx

日本語の 「いわ(いは)」に あたる文字としては

「石」がふさわしいと 考えられた。

中国からきた漢字を どう読んだか、ではない。

日本語の言葉を どの 漢字にした か である。

 ですって。

お弟子さんの 北枝の句碑がある 心蓮社など 回って 

最後は ひがし茶屋に行く という。

足が 怪しくなっている。 相談したいが 

ゾウさん 姿が みえない。 

ツアーの 一人が バスに戻る と 聞いた。

わたし も、 と 手をあげてしまった。

ゾウさん 心配だが ……

案の定、 途中から バスに戻ってきた。

添乗員さんへ ケータイを かけて 先ずは 事なきを。

xxxxxx  

こんなふうにして 第1日め は おわったのでした。

その夜 またまた ゾウさん 騒動です。 


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13 ④ 「徽 軫 灯 籠」 読めません

2014年11月20日 01時23分01秒 | 2014・11奥の細道 金沢~福井

順序 間違って 先に 14を 出してしまった。

13 兼六園  

ツアー ④ 「徽軫灯籠」  読めますか ?


 

11時40分 兼六園を 歩くことに。

ここへは 2009年 ゾウさんと 二人 来ている。

この「奥のほそみち」ツアーのような 凝縮された

行程ではない。 

買い物ツアー の たぐい だった。 まして 兼六園は 

夜景見物 だったから、 今回が はじめてのようなもの。

もちろん 芭蕉の碑は 観るはずもない。

芭蕉の句碑

右手碑面 つるつる、 文字があるようではない。

読みやすい 文字で 新しく 建てても いいと 思うのだが。

 

あかあかと 日は 難面 も 秋の風

              難面は (つれなく) と 読む。

何かの 解説に

旅愁 なぐさめかねて、ものうき秋も やゝいたりぬれば、

流石 目に見えぬ風の音づれも いとゞしくなるに、

残暑 猶やまざりければ …

と あった。 なかなか 良い。  

「難面」の句は  元禄2年(1689年)7月、『奥の細道』の旅で、

金沢から 小松へ向かう途中に 詠んだ句。

 碑は 弘化3年(1846年)建立。 金沢の俳人 梅室 筆。

 

ここの 雪吊り作業おわって 移動をはじめました。

若い方に、 芸術的作業の 伝承が 確実に 行われています。

なぜか 嬉ししく なります。

怪我をしませんように。

霞ケ池。 琴柱(ことじ) ↑ 灯篭 だった、かな。 調べたら 

「霞ヶ池を渡る石橋を 琴に見立てて (ことじ)を なぞらえた。

灯籠(ことじとうろう)は、兼六園を代表する景観となっている」

となっていた。 軫 が わからない。 さらに 調べた。

『名勝 兼六園』 の巻末、 「」の項に

は 琴の節、は 絃、 足の形が琴柱に似ているのを

唐めかした名で 呼んだもの」とある。 わかりにくい、です。

  私は 「琴柱灯篭」で いいんだけれど。

もみじが 華やかさを 添えています。

園内で 食事を とって、 次は 金沢城 ですって。

前に来たときは 寄っていないので、有りがたい。   では


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14 ⑤ 老若男女ぞろぞろ・幼い子も ぞろぞろ……。

2014年11月19日 09時52分32秒 | 2014・11奥の細道 金沢~福井

 14 金沢 

アー ⑤ 老若男女ぞろぞろ・幼い子も ぞろぞろ……。


昼食後 1時まで 自由時間 

私は トイレ探し。 たぶん この食堂?のだろう。 

そこは 和式だけ。

少し 離れたところに 洋式が あった。

ついでに お茶のペットボトルを 買う。

時間まで すこしだけ 周りを歩いてみた。

観光客が 「ちっちゃいけれど リンゴかな」と ぞろぞろ 行く。

  山査子 (さんざし) です よ。 ↓ 

 ゾウさんへ 「1 時 5分前に 集合場所に 来るように」と 

放してやったのだが 5分前に こない。 ケイタイを かける。

電話には でない が、走って いる姿が みえた。  

もっと おそくなった人がいた。  ホッとする。

xxxxxxxxxxxx 城まで 歩く。

保育園ぐらいの 子供達、 先生たち と ぞろぞろ。

こっちは 10倍の年齢の 者たち、20数名。 ぞろぞろ。

xxxxx 金沢城の 入り口。

石川橋は 化粧なおしの 工事中だった。

  2009年の 旅では、 

  ゾウさんと ふたりで 早朝に この近くまで 

  来たことを 思い出した。

芭蕉さん、曾良さんは きっと お城にも 

兼六園にも 来ているだろう。

 

搦め手門の まえで 講師せんせいより

説明をうける。  この後も ……。 こんな風に……。

   

戦国時代・安土桃山時代の お城は

天文15年(1546) 空堀や柵などを備える

尾山御坊(金沢御堂)が 建立され、本願寺の拠点となった。

      そんなこと、 知らなかった。

天正11年(1583) 羽柴秀吉から 加増をうけた

前田利家が 入場 尾山城と 改称した。 など など。

xxxxxxxxxx 後で 調べたこと。

金沢城は あまり 堅固とは いえなかった。

有事の際は 城下町にて敵を 迎え撃った。

軍事拠点として多くの寺が建立された。

それで、 先に観てきた ような 通称 忍者寺が

出来たってことです、ね。 では


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