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ゾウさんと暮らす

86歳の 夫ゾウさんとの
二人暮らし。 わたし 83歳。  

2日め④ ロシアとオランダの技術を使った船

2015年07月18日 00時59分32秒 | 2015 萩・津和野・ 

2015年6月2日 

萩 反射炉 から、 

また バスに乗って 恵美須ケ鼻造船所跡へ いく。

  ( ここへ 行った日の 1か月あとの

  7月8日 ここも 世界遺産登録 決定した)

上が

建造恵美須ケ鼻造船所  ( 椿東中小畑にある)   

萩藩の造船所 の 跡。

幕末に 2隻の西洋式木造帆船を 建造した。 xxxxxxxxxxx

江戸時代初期に 幕府は 軍艦等の建造を禁止する大船建造禁止令をだしていた。

しかし、ペリーの黒船が来航した嘉永6年(1853)、

幕府は 禁止令を 解禁して、萩藩に軍艦を建造するよう 命令する。

藩主毛利敬親が 洋式軍艦を建造することを 決定する。

安政3年(1856) 恵美須ヶ鼻に 造船所。

ロシア式造船 の 「丙辰丸」が 進水する。

 はじめての洋式船「丙辰丸」

万延元年(1860)には

2隻目の西洋式帆船「庚申丸」が進水。

幕府が軍艦の操縦と建造の技術習得のため設立した

長崎海軍伝習所で オランダ人教官が教えた技術が用いられた。

このように ロシアとオランダという 2つの異なる技術による造船を

1つの造船所で行った例は 他にない、と。xxxxxxxxxxxx

幕末に建設された造船所で 

唯一遺構が確認できることが 評価されて

2014年10月に 国指定史跡に指定された。 

 手前にある 神社 

xxxxxxx 7月 明治日本の産業革命遺産として 世界遺産となった xxxxxxxx 

私の 岩手県の 橋野高炉と仲間だったとは 

6月の このとき はっきり 分かっていなかった。 

私の好きな 縄文遺跡では なかった から だろう。


 

次は 毛利氏の 菩提寺 東光寺。   

これから 吉田松陰の 史蹟へ行く。


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2日め③ 反射炉 不良のおかげで  

2015年07月16日 00時22分53秒 | 2015 萩・津和野・ 

2日め ツアーはじまりは 萩 藩 の 反射炉 見学。

幕末。 萩藩は 軍事力強化の一環として 

鉄製大砲の鋳造をすることとなった。

金属溶解炉を 作るために

反射炉の操業に成功していた 佐賀藩に 萩藩は 

安政2年(1855) 鉄製大砲の鋳造法伝授を申し入れた。

しかし、反射炉のスケッチのみを 許されただけ だった、とのこと。


ここにみえているのは 煙突にあたる部分、

高さ10.5mの 安山岩積み (上方一部レンガ積み)。

 

萩藩の記録によれば、「安政3年(1856)の一時期に 試験炉が 操業された」と。

講師 一坂氏 「試験は 失敗した」と 言った気がする。 

わが国の 産業技術史上 たいへん貴重な 遺跡の 

現存している 反射炉は ここのほかに 韮山(静岡県)に ある、と。

 

ちょっと 高台。   木々の 右わきに 反射炉はある。 


先生の 「2ヶ所だけ」に 私は ひとり 反応。 

「岩手県釜石にもあるよ。 橋野 高炉。

たしか 「高炉」 だった ような。

どうして 勘違いしたかは すぐに わかった。

現存してる ちゃんとした 反射炉は 「2か所」 です。 まちがいない。 

橋野鉄鉱山・高炉跡は きちんとした形を のこして いない。しかし、

高炉場・運搬路・採掘跡などがあり 実際に 操業したことが わかる。

高炉跡は 3か所 もある。

xxxxxxxx岩手県 釜石市 (ここへは 2~3度 行っている)

の高炉と 萩の反射炉と どう違うのだろう。 

xxxxxxxx 岩手の方は

水戸藩の反射炉建設に、 薩摩藩士などと共に

盛岡藩士の 大島高任(おおしまたかとう)は かかわった。のち

大砲の素材には 良質な鉄鉱石を原料とした銑鉄が 必要と考えて

盛岡藩 大槌通 甲子村大橋 (現 岩手県釜石市)に 

洋式高炉を 建設した。

安 政 4年12月1日 (1858年1月15日)。

日本初の 連続出銑に 成功した。

xxxxxxx これまでは 最古の 洋式高炉跡として 

国の文化財(史跡)に 指定されていた。


 


 

xxxxxxxxxxx 余談

私が 6月 萩 反射炉に 行ったときは 

まだ 世界遺産に なっていなかった。

もちろん 橋野高炉あとも。

帰宅して 1か月ほど あとに 岩手県は 大騒ぎになった。

xxxxxx   さらに 70年 さかのぼって  

第2次世界大戦末期の釜石は 7月14日 艦砲射撃を受けた。

xxxxxxx 7月14日は 1回目。 ( 8月に 2回目がきた)。

アメリカ海軍機動部隊 等は 日本 本土攻撃を開始した。

釜石が砲撃されたのは、ここに 鉄にかかわる

日本製鐵釜石製鉄所が あったからだ。


 先に 書いた 「 萩 反射炉 」。 

失敗せずに 昭和まで 鉄を 作っていたら 「萩」も 

艦砲射撃を 受けた、かもしれない。

史跡はもちろん 

多くの市民が 被害を受けていた かもしれない。

xxxxx 釜石が 艦砲射撃を 受けたのは 70年前の 

       7月14日のこと  xxxxxxxxxx 

岩手は 4年前の 津波の、復興中だが、 

その70年前の 「不発弾」が 残っていて 

家をたてることが出来ない、との 報道があったばかりだ。 xxxxxxxxxxxxxxx 


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2日め② 拠点 なぜ 山口に移ったのか

2015年07月15日 00時17分24秒 | 2015 萩・津和野・ 

6月2日 旅 2日め。 朝食は 7時30分からだから、

7時 近くなったので 萩の城跡から 戻ることに。

もう来ることはない、だろうから、  

堀の先を見と おこうと、 も一度 高いところへ 登った。

芝がきれいに刈られている。 人の手が入っていることが 良くわかる。

維持、大変なことだろう。 

毛利氏の拠点は、関ヶ原で敗れたのち、萩になった。

ドラマでの 文は 奥御殿で 働くときに 名前を変えるそう だ。

働いていた奥御殿は 萩なのか。 山口なのか。

藩主別邸は どこにあるのだろう。 

また また わからないことが 起こった。

xxxxxxxx   7月12日(日)の ドラマ  xxxxxx

時代は 高杉晋作が 外国との 交渉にあたっていたころ。

名前を つけてくれたのは 小田村伊之助さん。 

のち、 群馬県令になった。文の 2番目の夫。

「吉田松陰(兄) 久坂玄端(夫) と 自分(小田村)の 3人」

で  三 輪 ……。 三輪は 毛利家の 紋だと。

それで ミ ワ ……  美 和 に なった。

このころ。毛利氏は 山口に 藩庁(山口政事堂)を 移している。

文(美和)が 働いたところは 山口 ?

再放送をみたら 文の言葉 「山口から夜通し歩いてきた」が あった。

勤めた奥御殿は 山口。山口市は 萩市の 南方向にある。

交通の要衝であることが 移転の理由 だろう、な。

xxxxxxx 幕 末 13代藩主毛利敬親が

安政年間、 藩主別邸・花江御殿に 茶室を 増築した。

ここで 藩主は 家臣とともに 茶事に託して 討幕の密議を凝らしたそうな。

明治22年になって、その「花江茶亭」は 萩の城跡に 移築された。


xxxx ここでまた、疑問。

萩藩と 長州藩は どう ちがうのだろうか。xxxx 調べた。

江戸時代、 周防国と長門国を 領国とした

外様大名である 毛利氏を藩主とする。 

家格は 国主・大広間詰。 

藩庁は 長く萩城(萩市)に置かれていたために 萩藩とも呼ばれていたが、

幕末には 周防山口の山口城(山口政事堂)に 移った。

以後、周防(すおう)山口藩と 呼ばれる。

一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を 総称して

「長州藩」と 呼ばれている。xxxxxxxxxx

そこが 明治維新後、山口藩庁・ 山口県庁となった、って。 


朝食をとって、 これから 2日目の ツアーに入る。


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2日め① 萩 の 城 跡 は

2015年07月14日 00時34分36秒 | 2015 萩・津和野・ 

 2015 (H27) 旅 2日目 

6月2日(火)朝 6時~7時20分 城跡へ行く。 


菊が浜に沿って 自車道はあるが 

城跡まで 回り道をせずに いけるのか わからないので、 

表通りを 歩く。 

今日 も 晴れのようだ。

31日の夜 東京のホテルで 検索した 天気予報。

1日は 30度 晴れのち曇 … (あたり)

2日は 31度 曇りのち雨  … (結果 晴れ だった) 

3日は  ?  曇り時々雨  … (結果 小雨のち晴れ だった)。

 

道 反対側に 門だけが 残っている。 上級武士の屋敷跡か ?

行ってみたいが 時間がない。 新しそうでもある。   

xxxxxx   もうすぐ 城。 

xxxxxxxxxxx 外堀、 かなりの 幅がある。 

城壁・ 当時のものだろうか  ?

          東矢倉跡 の標識。 

新しい石が混じっているような石垣。修復したのかな。

適当に積んでいるようで、いながら バランスがとれている

野面積み、 石一つ一つが 面白い.

 xxxxxxxxxxx 下の写真    

 指月山     ↓   どこからみても おなじ形にみえるのだろか。

内掘りの 橋を わたって 左側へいく。  窓口があった。

今は 無人。 入場券 売り場 なの かな。

(上)城があったときの 写真 …… 木造の 橋 が 見える。

石段を 登って、 天守閣の あったところへいく。 礎石が残っている。

 

いつものことだが。 行きは良いよい 帰りは恐い。

登ったは いいが 降りるのは 大変。

杖を 慎重におろして ゆっくりゆっくり、と。

 

萩 城

慶長9年(1604)、 毛利輝元が 指月山麓に築城した。

別名指月城。 

山麓の平城と 山頂の山城とを合わせた 平山城。

本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっている。

xxxxxxxxx 明治7年(1874)、天守閣、矢倉などの建物全て解体された。

 

志都岐 (しつき = 指月)神社

旧本丸跡に 歴代藩主を祀る この神社が創建された。

そのとき、総面積約20万㎡の境内が 指月公園として整備された、と。

xxxxx 続く


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旅10・ 第1日めは 満足して

2015年07月13日 00時12分17秒 | 2015 萩・津和野・ 

桂小五郎が 木戸孝允になるまでの いきさつが 

すこし わかった。

追記する。 今よんでいる本  P・188 … 

慶応1年(1865)藩命により 桂小五郎は 「木戸寛治」と 名を変えた。

(同じとき 高杉晋作は 「谷潜蔵」と なった)

理由は 幕府の追及から 逃れるため、だ そうな。

 思い出したこと …… 出石市に 行ったとき 車屋さんに

  桂小五郎が  潜んでいた 所に 連れていってもらたことがあった。 

  桂小五郎(のちの木戸孝允)は「禁門の変」の戦いで

  長州藩が敗れたため、おたずね者となった。  

  甚助・直蔵という兄弟の手引きによって 出石に潜伏した。

  甚助たちは 妹のスミを 桂の女房にさせて 

  家を一軒借り、荒物屋「廣江屋」を開かせた。

6月1日 夕 駐車場  

夕食。 講師先生は 男性の集まったテーブルで 歓談中。

一家言のある方々、 質問というよりは 持論を がなっている ?

ようでもあり。 意気投合しているようでもあり……。

男性だが ゾウさんは わたしの脇で、生ビールを 飲んでいる。

  補聴器の ボリューム音を 低くしているのだろう な。

女性達は 「先生には、明日こっちの テーブルにきてもらいたい」と

添乗員さんと 交渉している。 

 

レストランには 木目込み細工がたくさんあった。これは「見返り美人」。


 

ホテルには 大浴場がある。

ゾウさんは すぐに 行ってしまった。

私は 荷物を 整理した。

長女に 洗濯をしてもらって いたので 楽ちん。

明晩も おなじ部屋なので 今夜の仕事は いつもより すくない。 

大浴場 女湯を ながめに 行った。 

やはり 大勢が 入っていたし、 滑りそうなので

部屋のバスで 我慢することに……。

ビジネスホテルの 舟形バスを 想像していた が

ここのは 角型。 うちのより 浴槽は 大きくて。

中に 肘掛のような 出っぱりが あって 

楽に 出ることが できた。 ありがたい。

明日は 朝食前に 指月山の 城跡へ 行く予定。

xxx 

菊が浜土塁築造図屏風 ( 萩博物館 保管 )

このホテルの 前も 菊が浜である。 

城跡は すぐに 近くに 思える。 浜に沿って歩いてみたかった、ナ。

ここで 外国艦船との戦の場面 撮影した、ことを

(後で行く) 「花燃ゆ館」で みたような気がする。

明朝 6月2日(火)は 朝食前に 

この 指月山の麓にある 萩城址に 行く予定。


 xxxxxxxx  6月1日午後の見学は 満足して終わった。


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旅9 実戦の地にはならなかった おなご台場 

2015年07月12日 00時05分28秒 | 2015 萩・津和野・ 

6月1日(月) 豪華な 夕食を 食べながらの話。

向かい側にいた女性たちは 城跡にいったという。

私は おなご台場を さがして 行ってきたことを 話した。

「昨日 テレビ(花燃ゆ)で みた」 と いう方あり。

前の日 6月31日(日)は、 私達は 宿に 着いて間もなかったので 

すっかり 忘れていた。  ( 録画 セットしてきた )

帰宅後 それを 観た。 (映りわるい が 貼りつける)。

これが テレビの画面。 こんなに 海、 くっついていなかった ナ。 

たぶん。 現在は (道路になっていて) 残っていない。 

阿武川に 近い方向なのだろう、と … 思うことにする。

xxxxxxxxxx 

山口県を 代表する民謡となった 「男なら」は

このときの作業唄として歌われたもの だそうな。

テレビでは 

絹ものを 着ても良い、という 許可が下りて、

奥女中も 関わって 華やかだった、と している。

そして「 きれいな着物は 女心 」だと 言わせている。

私は 汚れ仕事をするのに、見栄をはる 必要があるのか と 思って、

帰宅後 講師先生の 本

「司馬遼太郎が 描かなかった幕末」の

P・142 萩の民謡「男なら」の背景 …… を読んだ。 

 「藩は 工事の士気を高めるため、として 

 厳禁だった 絹物を 許可した。ところがエスカレートして」

 店になくなるなど 流通に不備が生じたので

 「持ち合わせのみ」と 訂正。

6月25日から はじまった工事は 9月に完成した。 

長さ100~300mのを 6箇所も 作ったのだそうな。

なんという エネルギーだろう。

残念、か どうか わからないが、 外国艦襲来は 

日本海側には なかったので、 

この土塁が 実戦に使用されることは なかった、そうな。   

現在の 踊り 

♪ 男なら お槍担いで お中間となって 付いて行きたや下関
国の大事と聞くからは 女ながらも武士の妻
まさかの時には締め襷 神功皇后の雄々しき姿が 鑑じゃないかな

オーシャリシャリ

となる ので 「おおしゃり節」とも言われるそうな。
オーシャリシャリ ……は

「おっしゃるとおり、そのとおり」 といった意味あい。 

2番 3番は このはなしの 最後にしるす。

  

さてさて、 ホテルに 戻ろう。 上の写真。

道の 突き当りにみえる 白い家の前?から 出て きた。

左の 建物は 「萩市公共下水道 浜崎汚水中継ポンプ場」であり

左の写真は 道の右手にあった 「玉ネギ畑」という LIVE & BAR 。

この道を ずんずん 行けば すぐ だったのだ。

どうして 標識がないのだろうか。 あったのかなぁ。

xxxxxxx この前の 海を みながら ズズーと 戻ると 

左に 自車道があり、 海沿いに 自車道と わかれている。

その V字の ところに バス停 「女台場入口」が あった。

この辺 ↓ が バス停。      

       これが 城跡のある  ↓  指月山( しづき やま)

      月ならぬ お日さま を 指さしたのは 私。


「男なら」 歌詞 2番 3番

♪ 女なら 京の祗園か長門の萩よ 目もと千両で鈴をはる

  と云うて国に事あらば 島田くずして若衆髷

  紋付袴に身をやつし 神功皇后のはちまき姿が 鑑じゃないかな
  オーシャリシャリ

♪ 男なら 三千世界の鳥を殺し 主と朝寝がしてみたい
  酔えば美人の膝枕 醒めりゃ天下を手で握り 咲かす長州桜花
  高杉晋作は男の男よ 傑いじゃないかな
  オーシャリシャリ   xxxxxxxxxxxxxxxxx では 


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旅8 ・ 女 台 場 いずこ ~~~~。

2015年07月11日 00時02分21秒 | 2015 萩・津和野・ 

6月1日 の 見学がおわった。

帰りの バスの中から、城跡のある 指月山を 撮った。 

城壁も みえた。

 5時45分 

ホテルに 着いた。 

夕食まで 時間があるので 女 台 場 を さがすことにした。

ホテルの部屋に 絵地図があった。 1枚しかないので、 

フロントにしめして、おなじ 絵地図を いただいた。(1枚は 部屋に返した)。

これで 方向だけは わかった。

例によって ゾウさん 写真を撮りながら 後ろを ついてくる。

先に 歩いて 「さがしてやる」 と いうことは ない。

デフォルメ された地図なので、距離はつかめない。

海がみえる 道に 来た。 行けども いけども 標識がない。

自転車を 降りたばかりの 中学生に 

「おんな台場 しりませんか」と。

「台場なら あっち」と 言う。 

自転車にのりながら おんな か どうか わからない なぁ、 

つぶやきながら 行ってしまった。

指さした方向に それらしきものは みえない。

小路一つ 入って、 右へ行ってみた。 あった。

おんな ではなくて  おなご台場 だった。 

 説明版 ↑

文久三年(1853)5月10日の攘夷決行の日、

下関の馬関砲台は 関門海峡を通過する外国船に砲撃を加えたが、

反撃を受け、大損害を被った。

これを機に 萩藩は 外国船の来襲に備えて

菊ヶ浜に 土塁築造を 住民に命じた。

この土塁の築造には 武士の妻や 奥女中の功績が大きい。

それで 通称「女台場」と 言われている。 xxxxx など。

現在残っている 土塁は、

高さ3メートル、幅12メートル、50メートル。

とも 書いてあるが 良くわからない。 

帰宅後 調べた。 

土塁は 一直線に のびたのではなくて、

数メートルから 数10メートルの長さの土塁が

スライドして つながって いたそうな。

現在残っているのは 一部分。

当時、海岸線に沿って、北東部に伸びており、

阿武川(松本川)河口まで あったそうだ。

全長 1Km なんてものではなかった ように思う。 

xxxxxxxxx ながいので 続きは 明日。 

 5月31日放映のもの


ゾウさんは 6月24日「女台場」について アップしている。

私も 急ぎたい。 が 私のは おおむね 順序良く 書いてるので……。  


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旅7 城下町の 鍵曲(かいまがり) & 夏ミカン

2015年07月10日 00時01分00秒 | 2015 萩・津和野・ 

わたしの住む 岩手県は 伊達藩(福島~岩手県真ん中辺)では 

城下町に 枡形(ますがた) という 

敵に 迷路に入り込んだような錯覚に おちいらせる装置?がある。

萩市には 萩城 三の丸のあったところに  

鍵曲り(かいまがり)という 呼称で 残っている、という。

ここを みたかったが、コース には なかった。

写真でみたら、 間違いなく 長州藩のも おなじ形だった。

鍵曲りは 曲がりくねった路地になっているところ。

外敵の侵入や 攻撃に備えるためにある。、

見通しを妨たげるために 道の両側を高い塀で囲まれている。

その土塀の上から たわわに実った夏蜜柑みえるのが

この堀内の 代表的な 風景だそうな。

ここへは 行かなかったが、 ミカンが

植えられている 庭は 見てきた。

夏蜜柑は 明治以降、職を失った士族を

救済する目的で盛んに植えられたもので、

今では 萩の風物詩となっている。

最初は 萩博物館の庭で みてきた。

私達が 歩いたのは 中級武士の 屋敷だったところ。

敷地内の 夏ミカンが みえる。見る気がなくとも みえる。

xxxxxxxx 若いころ

同僚が つわり対策に 渡してくださったことを 思い出す。

その頃は 私は 酸っぱいものは 好きでなかった。

  ひそかに ゾウさんが 食べていた。

あの夏ミカン、この 山口県から きていたのかな

xxxx

ゾウさん この頃 デコポンが 大好きになって、

夏ミカンは 買わなくなった。 最近は 

友人が 無農薬のミカンを おすそ分けに 持ってきてくれる。

ゾウさんは 食べない。

昔は 食べなかった 私が ひとり占めしている。 

 

講師さんの 解説は

維新後、   を失った武士が 

生活のために 敷地に植えたのだ、と。 

 

買ってきた 萩 の お菓子 … 「文と萩物語」

名産 夏みかんを つかっている。 酸っぱくない。

夏ミカンは このほかのお菓子 や ジャムに 使われている。

銘菓「 萩の薫 」も おいしかった。 ( 写真 撮っておけばよかった ) 

夏みかんの 皮の部分を 薄く削って グラニュー糖を まぶしている。

青いときの 夏みかんを輪切りにした 青漬も

すこし 入っている。 ホント美味しかった。 


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旅6 花 + 闘志を燃やす =「花燃ゆ」 

2015年07月09日 00時12分47秒 | 2015 萩・津和野・ 

NHK大河ドラマ 「花燃ゆ」

その題を 決めたのは 制作者 の方 だそうな。

吉田松陰の 「留魂録 りゅうこんろく」に

人間は たとえ何歳で死のうとも、その人生の中に四季があり、

そして何か種を 残している。

自分も 籾殻か種か分からないが 弟子に託す

を 読んで、松陰が残した種が芽を出し、育ち、

花を咲かせていくような タイトルにしたいと 思った。

女性が 主人公なので 

また 熱い男たちが 闘志を燃やしていく

というところから 「 花 燃ゆ 」 に 決まった、と。

円 政 寺 

この寺は 伊藤博文 と 高杉晋作の 学んだところ、 だったかな ? 

  予告 ?

 これは 古絵図ではない、と 思う。

城下町絵図 

 ← わたしの相棒 ・杖 

四角いマンホールは 珍しい。


「花燃ゆ」の ヒロインは 吉田松陰の 妹 文

その夫が 久坂玄端。  長州藩士。

藩内における尊王攘夷派の中心人物として京都政界でも活躍。

松下村塾の四天王の一人。

師の 吉田松陰の評価が もっとも高かった、と。

( 四天王 は、ほかに 高杉晋作、吉田稔麿、入江九一)。

禁門の変にて 自刃。

  久坂玄端進撃の像

久坂玄端 銅像の台座に 「トイレ」の方向を示す 

標識が 貼ってあった。 

まるで 久坂玄端さんが「あっち、だよ 漏らすなよ」、と 

教えているようだ。

これ 威厳を 失うんでは、と おもったり

面白いから イイか、と 思ったり、  複 雑。 xxxxxxxxxxx

昨年(2014年) は 禁門の変から 150年 

よって 久坂玄瑞 没後 150年に あたる。

2015年 1月24日 除幕式には 

「花燃ゆ」の 久坂玄瑞役 … 東出昌大さんが 出席したという。

東出さんが 動くたびに 黄色い声が上がったと、書かれてあった。

 

久坂玄端   ここが 誕生の地。 


 

師の 吉田松陰が 久坂玄端に 伴侶として 

自分の妹 「文」を すすめたとき

久坂玄端は 「美人でないから」 嫌だと 言った、とか

では なぜ 妻にしたか。

「顔で女を選ぶのか」と 朋輩から 言われたので

反省 した ? ? ? ? ?。

背が高く 容姿端麗な 久坂玄端 さん 

自分に 似合うのは 「美人」で なければ、と思ったのでしょうか。  


 

玄瑞が 維新後も生きていれば、

明治政府内でその辣腕ぶりを発揮したに違いない、 

玄瑞の評価は その「才」のみにある訳ではない。

玄瑞の人となりを示す 松陰の言葉が 書いてあった。

実甫(玄瑞)は 高らかに非ず。

且つ切直に逼り、度量窄し。

然れども自ずから人に愛せらるるは、

潔烈の操、これを行るに美才を以ってし

且つ頑質なきが故なり」。

玄瑞は人に率直に発言し、

度量が狭いように見えるが、事に対し純粋かつ一途であり、

また「頑質」が無きがゆえ、人望を集めることが出来る、ともしている。

 

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx 

7月5日(日)の ドラマの録画を 8日夜 見た。久坂玄端さん

一途でありすぎたために、 その死を早めたと、

言えなくもないのだろう。

幕末が 苦手の 私には 「攘夷」が まだ 分からない。


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旅5 侍屋敷ものがたり 桂小五郎=木戸孝允 

2015年07月08日 00時11分38秒 | 2015 萩・津和野・ 

萩の城下町を 歩く。 

(下の写真) この 槍のようなもの は なんだろう。

奥の白壁は 蔵だろうか。 それなら 防禦のため? 

この辺は 中級の 武士の 屋敷群。

お名前だけは知っている お方の 

旧宅やら 生誕地やらを ながめて歩いた。  

桂太郎 の 家 は 15番。  ↑

ここまで 来るまでに 1~14番 あったのだろうが、気が付かなかった。

桂太郎 って 誰?   桂小五郎の 誤記ってことは ない。 

次に 木戸孝允 の 家があった。  だから……。  (桂小五郎の家だ)

これが 21番。  イラストの 木戸さん 可愛い。 

いつ、なぜ、桂小五郎は木戸孝允(きど たかよし)に なったのか。

天保4年(1833年)、萩藩医・和田昌景の長男として生まれる。

七歳で向かいの 家の 末期養子となる。

長州藩の大組士という武士の身分と 秩禄を得る。

翌年、桂家の養母も亡くなったため、

生家の和田家に戻る。 両親の元で成長した。

と なっている。 これでは分からない。

次に調べたのは 名前の変遷。

桂小五郎 →木戸貫治→木戸準一郎→ 木戸孝允

名を 変えるのは まあ わかるとして 

姓を変えるのは 結婚によるもの・養子になる、以外は知らない。

気に入らなかった から ? xxxxxx

いつから 木戸になったのか。 調べたが

志士時代は 桂小五郎だ と いうぐらい。

なぜ 木戸 孝允 (きど たかよし)に なったのかなぁ。 

 

(9日記) …すこし わかったので 追記 P・188より  

慶応1年(1865)藩命により 桂小五郎は 「木戸寛治」と 名を変えた。

(同じとき 高杉晋作は 「谷潜蔵」と なった)

理由は 幕府の追及から 逃れるため、だ そうな。

 思い出したこと。 昨年秋。出石市に 行ったときのこと。 車屋さんに

  桂小五郎が 潜んでいた 所に 連れていってもらた。 

  桂小五郎(のちの木戸孝允は「禁門の変」の戦いで

 長州藩が敗れたため、おたずね者となった

 京都から逃げ出すことも困難な状況の中、最後は

 出石の 甚助・直蔵という兄弟が、妹のスミを 桂の女房にさせて 

 荒物屋「廣江屋」を 営ませた、と。

 裏手に 小公園。 井戸があった。 

  

この井戸の 囲みは 新しい時代のものだろう。

井戸げたが 木で できていたころ頃を 想像して

ここで 生活して人々を 思った。

…… 侍屋敷ものがたり まだ 続く 


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旅4 萩城下町 歴史上の人物 旧宅など 

2015年07月07日 00時33分09秒 | 2015 萩・津和野・ 

萩博物館を 出て 

萩城下町周辺の 散策に入る。 

19名 + 2名は ぞろぞろと 行く。

15名の募集に 19名が 申しこんだそうで、結構 大勢。 

江戸屋横丁 ?

 

  田中義一 生家 ?

長州藩士 田中信祐 三男 田中義一。

1876(明治9)年 明治政府に 対する 士族反乱の 一つである

萩の乱に 参加した。 年少(13才)のため罪を 免がれた。

明治・大正期の 陸軍軍人(大将)、 政治家、 男爵

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx 

 高杉晋作像 

「花燃ゆ」で ただいま 活躍中。  高杉晋作誕生の地

この家は外から みた だけ。 

裏手に 小公園があり 像が 建っていた。

xxxxxxxxx 6月19日 NHK「新日本風土記」で知ったこと。

ここは 生誕の地であるが、新婚の家でもあった。 

昭和年代、この家が老朽化したため、

取り壊されることになった。 

郷土の誉を残したい と  買い取った人がいた。 (血縁ではないような)。

その祖父から 受け継いで 守っている 50代 ? 女性 

住んでいる。 

xxxxxx この女性が 語ったこと。

たびたび 京都にいく 晋作は、萩の 留守宅の妻へ 手紙を。

妻の 返信も残っている。

よくまぁ。 何通も。   飛脚が 運んだ ?

7年の なかの 2年 たらずを ここで 一緒に 暮らした。

明治維新の前年。 27歳で 死亡。 xxxxxxxxxx

テレビ 「花燃ゆ」では 断髪になっていて あの時代に、と 不思議だったが

確かに 写真は 短い髪だった。

xxxxxxxxxxxxx              xxxxxxxxxx

小田村伊之助 旧宅 

「花燃ゆ」の 主人公 「 文 」の 再婚の人

小田村伊之助 = 楫取素彦 

松陰の 妹 寿子 と 結婚。

維新後、

明治9年(1876)から 初代群馬県令の任に就く。

任期中、妻が 病死、

明治13年?  松陰の妹 文 (美和子) と 再婚する。 

    素彦54歳、美和子38歳

 名を あらためたことについて。

明治維新直前の1867年 「小田村伊之助」は 

名前を 「楫取素彦(かとり・もとひこ)」に 改めている。

小田村家の先祖が、 毛利家に仕える水軍の

楫取(かじとり)という 船頭役であったため、

楫取(かとり) という名字にした、という。    ……    続く 


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旅3 萩にて・ 兄 松陰と 妹 文さんと

2015年07月06日 00時17分08秒 | 2015 萩・津和野・ 

山口県萩市堀内 の 萩 博物館。  到着は 15時ころ。 

この旅行社の うりは 専門の 先生が 付くことだろう。

それは 大変 魅力 である。 

私の古い頭では 付いていくのが 大変だが。

 

研修室で これから 見学する場所 人物の説明をうける。

この3日間 の 講師は 1966年生まれ の

    (48歳 ・ うちの子供達と 同年令)   

この館の 高杉晋作資料室長 ・ 一坂太郎 先生。

たくさんの 著書がある。  いま 私は 

『 司馬遼太郎が描かなかった幕末 松陰・龍馬・晋作の実像 』

集英社新書  2013年刊  を 読んでいる。

その後 自由時間。 展示を みて 歩いた。 

 「 新発見の 吉田松陰の 手紙  」……

  旧萩藩士 阿部家寄託の史料の中から、

   吉田松陰自筆の68点が 発見された。

  そのうちの61点が 『吉田松陰全集』に 未収録のものだったそうな。

特設展示 『兄松陰と妹文』 も 公開されていた。

久坂玄瑞が 妻に送った手紙 「涙袖帖(るいしゅうちょう)」。

文 (楫取美和子) 直筆の書 …… 大正5年(1916)、

74歳のときに 亡兄・吉田松陰の和歌を 筆写したもの、など。

xxxxxxx  あたりまえながら 展示会場 は 資料保護のため 薄暗い。

白内障がある私には 正確な 読みとりは 無理。xxxxxxxxxxx

集合時間には まだ 間があるので 庭を歩く。

夏ミカンの木が たくさんある。 大きい !!

この ミカンについては 後ほど 書くことにする。

博物館について

長州藩の 城下町であった 山口県萩市は、

現在も町中に多くの歴史資料・建造物が残っている。

キャッチコピー 「江戸時代の地図がそのまま使えるまち」

萩市全体を 一つの広大な博物館として捉え、

萩の歴史資源・自然環境を保存・活用するまちづくり

萩まちじゅう博物館」構想の中核施設。

従来からあった「萩市郷土博物館」を 改築移転する形で、

萩市堀内の伝統的建造物群保存地区内の

大野毛利家の 屋敷跡に建設された。

 

xxxxxxxxxxx 今日 は 7月 日。 

長州行きは 6月1日~3日間だった。 

1ヵ月以上も 経っている。  


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旅2 島根県益田市・ 手押しポンプ車

2015年07月05日 00時03分16秒 | 2015 萩・津和野・ 

飛行場をでて この日(月曜日) の見学の最初は 益田市。

萩は 山口県だが ここは 島根県。

「益田市立歴史民俗資料館」。

大正10年に建てられた 郡役所を 利用している。

 

予定表には 旅3日目の 水曜日になっていた。

展示替えの日とかで 早まった のだ。

50~60代ぐらいの 女性が 私達にあわせて 

幕末の 益田を 説明してくださった。 

古絵図を さしながら、 戦を 避けたかった方々のことを 

この間のことのように 話される。

当時の絵図が 良い。 よく 保存されている。 ありがたい。

3日目には 又 この地に来て 

戦を 自身の身体で 止めた という 史跡へ いくのだ。 

えらい人が いたものだ。

予習をしてきたので 少しは 理解が早いだろう。

 幕末とは 関わりないが

……  玄関前に あった 手押し式 消防車・  美濃郡鎌手村 平原消防組

上の方に 付いている 両方の 枝 ?を 二人で 交互に押すことによって

水が 吹き出て 火を 消しとめる 道具。 ジャッカン ジャッカン !!

水は 真ん中の タンクにあるだけだから

どれだけ 効果があったものか いささか 疑問。

と 書いてから 気になってしまって、 調べた。

全金属製であること、

圧力タンクを設けていること、

人力で 2つのピストンを操作する仕組みながら

安定した放水能力を得ることができる構造である、、、、 そうな。

良く残してくれました。

xxxxxxxxxx  また バスに乗って 萩へ 向かう。 では


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旅1・ 花燃ゆ の 地へむかう

2015年07月04日 00時29分33秒 | 2015 萩・津和野・ 

2015年 6月1日(月)~6月3日(水)

クラブ ツーリズム主催 「 テーマのある旅・歴史への旅 ……

話題のドラマの時代背景・舞台をめぐる・

長州・石州口の戦い 幕末の萩・津和野・益田をたずねて3日間 

という 長い タイトルの 旅に 参加した。

NHK「花燃ゆ」を 真面目にみている ゾウさんが

萩へ 行きたい という。

幕末は それほど 興味はない わたしは 

長州が 開国ではなくて 「攘夷」だったのか。 

幕末の本を読んでも ドラマを みても

今回の 「花燃ゆ」を みていても わからない。

萩 津和野 益田へ いけば 理解できる、かも と ……。


5月31日(日)は 羽田空港近くの ホテルに 泊まった。

朝食を ゆっくりとって、 ホテルの前の コンビニで 

おにぎりなど 飛行機に 持ち込みやすいものを 買った。

飛行機の中で 昼食になる。   これで 安心。

羽田空港発 10:55 に 乗るために 早めに

ホテルの 送迎バスに乗った。 

こんな おそい 出発は はじめて。 東京周辺の方々のため ? 

前日から 羽田飛行場近くに いるものには まどろっこしい。もったいない。

前回、 ゾウさんが 検札? で 金属事件を 起こしたので

早いに 行くに 限るので、 2時間もまえに。    ゾウさん。

今回は 身に着けていたものを 全部 出したから 何事もなし。 

搭乗口へ 向かって さっさと 行ってしまった。

遅れて着いた。 萩空港への 搭乗口に ゾウさん いない。 

ケータイで 呼ぶ。 

隣りの 搭乗口で 待機していたそうな。!!

その後も 相変わらず チョロチョロしている。 

目を離さないで いないと 迷子になる。


あ。

お供を 従えて きた方。  誰だっけ ? 

ファッション関係の あれ なん だっけ。 お名前~~~。 

蝶々の かた。 ~~~ やっと 出てきた。  森英恵さんだ。

蝶々を 連想したのは なぜ ? 

わたしより 年上なのに 背筋が しゃんとしている。

もちろん スマート。 素敵です。


 

そのうち 「到着が遅れるので、 出発は 15分遅れます」の アナウンス。

ゾウさんに 教えてあげたくない、が、……。

飛行機は 本当に 15分おくれだった。

コンビニで 買っておいた 昼食をとっているうちに

12時過ぎに 萩・石見空港に 到着した。


 

大型バスで 行程表の 3日目に 予定されていた 

益田市立歴史民俗資料館へ 向かう。

 

 では また 


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