円覚寺日記 四季綴り

このお寺が建っている環境のごとく、ゆったりとした気分で書いていきたい。
浄土真宗本願寺派 円覚寺の日記帳です。

点と面

2009年11月14日 | 日記
数日前、風呂に入ってシャワーを浴びていると、突然温水から冷水に変わって、ヒャッとして、思わず声を上げてしまった。

(たまたま、当山にはご講師の宿泊用浴室があったので、そちらを使いなんとか風邪引きは回避したのだが。)


その後、ボイラーのスイッチを確認すると、もうウンともスンとも反応しない。
何時もお世話になっているMさんに調べていただき、メーカーに問い合わせていただいたところ、次のような返答をいただいた。

「もうそのボイラーは10年以上前のものであり、部品のストックもありません。なにより当社はボイラー事業から撤退しております。」

「・・・・・。」

結局、Mさんに急遽他のメーカーの製品を調べてもらい、設置をする運びとなった。


アフターサービス・カスタマーサービスと聞いて久しいが、それでも移りゆく中で対応不可能となるケースは様々なところにある。


私たちの愛情などの心もなかなか終始一貫しない。

宮崎幸枝さんが『お浄土があってよかったね』(樹心社)の中でもおっしゃるように、
言うなればところどころ断絶する「点」だろうか。

しかし阿弥陀様の「ひとりも漏らさず救う」とのお慈悲は、どこまでも続く「面」である。


だからこそ、阿弥陀さまが、すえとおりたる慈悲心の真実の親さまとなってくださったことは、無常のいのちの私たちにとってかけがえのない拠り所なのです。

「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々。」(歎異抄 第四条)