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終戦の日に…

2022-08-15 19:11:01 | 日記


私の住む地域では15日が送り盆ですが、終戦の日でもありますね。

私は1954年生まれなので、ジローズの「戦争を知らない子供たち」世代。

父も語ることも無く、回天の訓練中に終戦になったと言うことを知ったのは、ずっとずっと後のこと。

父の死後、母は弟の所に移り住み、父の手記はしばらく行方不明になっていました。

この手記を見て、きっと誰かに伝えたかったのだろうと今更ながらに思い、こちらに載せてみます。

よろしかったら、お付き合いお願いします。

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 機雷掃海を思う
   =古い手帳からの回想

 私の手元に、昭和23年発行の古い船員手帳がある。よく捨てないで持っていたものと思う。この手帳を開いてみると、そのころの事がらが走馬灯のように浮かんでくる。
 当時、私は発足間もない海上保安庁(昭和23年5月1日発足)掃海部に所属し、掃海艦(旧海軍駆潜特務艇、木造、135㌧)に乗り機関員として掃海作業に従事していた。このころの思い出をこの古い一冊の手帳に寄せて述べてみたい。
 1、掃海艇乗り組み時代
(1)機雷掃海とは
 当時の我が国周囲の海には、我が海軍が防備のため敷設した機雷や、米軍が我が国の海上封鎖のため敷設した機雷が多くあった。特に瀬戸内海には米軍の航空機による投下敷設された機雷があり、これらの海を航海する船舶は、この機雷に触れて沈没するか、航行不能になるかで無事航海できるのは非常に少なかった。このように危険なため海上交通は絶えがちで、わずかに小さな舟や危険を承知で航海する舟等で細々と行われていた。この海上交通を阻害している敷設機雷を除く作業が機雷掃海である。
 (2)機雷による被害の状況
 機雷による被害は非常に大きく、多くの生命財産が失われている。特に米軍敷設の機雷は磁気機雷が多いため鋼鉄船の被害は大きかった。
 私が乗り組んでいた掃海艇は、木造船のため掃海に最も適していたので、南西諸島から北海へと全国の海での掃海に従事した。その当時から幾年月過ぎた今日、平和で安全な海での航海に従事している人、また旅人には機雷がいかに危険であるかを話しても、なかなか理解しにくいものと思うが、私の体験した事をとおして機雷の被害について述べたい。
 時、昭和20年末から21年の春の頃、当時私は第二復員省(海軍省の後身)佐世保掃海部に勤務していた。この基地は、長崎県北松浦郡江迎町の入口にあって掃海部 隊はここを基地として「対馬」、「五島」、更に済州島など九州沖縄方面の掃海に従事していた。
 この掃海部隊のうち掃海作業において、「海防艦」や「掃海艇」が触雷沈没した。また嵐においても沈むなどの、船も人も多くの被害を受けた。掃海とは、このように非常に危険なものであり、言い換えれば、国の戦争は終わっていたが私達掃海隊員には、まだ機雷との戦いが続けられていたと言っても過言ではない。
 この戦いも半ばの昭和21年7月乗り組んだ艇の任務も瀬戸内海の掃海へと変わったため、旧佐世保軍港を後に広島県大竹掃海部(旧海軍潜水学校跡)へと航海を始めた。大竹に向かうには関門海峡を通過する。海峡の入り口に差し掛かった時、左舷方向山口県側の海岸に触雷して乗り上げている大きな商船が見えてきた。更に、航路の左や右にブリッジやマストを海面から出している沈船が次から次と見えてきた。これらの間を抜け関門海峡に入ると、門司港の岸壁に元駆逐艦が触雷し航行不可能となり繋留されている。これを見つつ無事海峡を通過、瀬戸内海に入る。更に航路のあちこちに船が沈んでいるのが見られた。これらの船のマストやブリッジは、墓標のように思われた。
 無事、大竹に入港し航海を終えた。ここで見たものは、船の墓場と言っても過言ではない状態であった。
(3)掃海の重要性
 当時の艦船は、触雷や沈船との衝突などの危険な海を無理して航海しなければならなかった。(中略)あの激しい戦争で陸路は破壊され、応急的な修復の中列車も車も少なかった。今日のような道路網も交通機関も発達しておらず、また「燃料の一滴は、血の一滴」と言われたように、すべての物資は極端に不足している時であり、国民の生きるために必要な食料の輸送は、急を要する大きな問題であった。
 このような状況であればあるほど、大量の輸送ができる船に頼らざるをえなかった。また海外からの兵士の復員や民間人の引き揚げ輸送も船、海外からの輸入(救援物資)も船であり、船無くしてはできないものである。しかし、航路は機雷のため絶えがちであった。
 このため機雷掃海の早期完了が、国家の大きな問題であり大きく叫ばれた。また、これは国民の大きな希望であった。私たちは日夜これにこたえるべく掃海に努力し、母港に帰る機会も少なく瀬戸の島々に錨を降ろし、休む以外は全力を掃海にそそいだ。当時は皆若かった。お互いに祖国の再建に勇気と自覚を持って立ち向かった。志を同じくする者としての連帯感も強く、団結固くして目標に向かう日々充実した人生であったと思う。(後略)
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ここまで打ち込んで、ふと思った。

生前、父はこの機雷掃海で友人を亡くしたと言っていた。

そして、晩年は海に引きずり込まれる夢を見てはうなされ、看護師さんを困らせた。

機雷掃海は、父の誇りではあったかも知れないが、確実に何処かに影を落としていた。

今年は戦後77年。

あれから77年、私の父も含めて戦争体験者は減り続けています。

総務省の人口推計によると、2021年10月現在、戦後生まれの人口は1億815万4000人。

総人口に占める割合は86.2%となったそうです。

戦争体験者の記憶も薄れゆく中、父の様に語りたくない人もいて…

今回は戦後処理の話でしたが、こんな苦労もあったことを知って頂きたく投稿してみます。

ありがとうございました。



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