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8月下旬の庭の花 プルメリア ペチュニア ランタナ 薔薇 ベゴニア

2022-08-31 19:10:21 | 花、植物

8月下旬の庭の花 

プルメリア

この可愛い花は、ハワイのレイに使われる花




ペチュニア





ランタナ





暑さに負けず…薔薇




春薔薇や秋薔薇って言うけど…

そもそも夏に咲かせたら良いわけないよね




あんなに綺麗に咲いてたミニ薔薇なのに

気が付いたら葉っぱが無い~!

なのに花を咲かせてる…健気
















ベゴニア

大航海時代の探検家たちによって発見されたベゴニア。

貴族に愛されて品種改良が行われてきたそうで、長い歴史があります。

シュウカイドウ科シュウカイドウ属 原産国・熱帯、亜熱帯地域



ベゴニアの花言葉

「片想い」「親切」「愛の告白」「幸せな日々」

白いベゴニアは 「親切」 

見頃・3月~5月、9月~10月


真夏に少し元気がなくなりましたが、最近復活しつつあります!

人間と同じだね~!


さすがにお疲れ気味の夏の庭。

台風11号の被害が日本各地に無いと良いなぁ…





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東京都立川市 国営昭和記念公園 向日葵、まだ間に合いました~!

2022-08-27 18:28:02 | 東京
  
東京都立川市 国営昭和記念公園


国営昭和記念公園は、東京都立川市と昭島市にまたがる国営公園です。

1983年に昭和天皇陛下御在位50年を記念して作られました。

広さは東京ドーム約39個分。



向日葵目当てで行ったのですが…

向日葵はまだ咲いてなく、他の花もあまり咲いていませんでした~残念

と、ここまで8月2日のブログに載せましたが、

再び訪れてみました!


前回と同じ、昭和記念公園あけぼの口という入口からすぐの噴水になります。

百日紅が咲いていました!





前回、向日葵はまだ咲いてなく他の花もあまり咲いていませんでした。

開花期は8月中旬と書いてあり、残念でしたが、

今回何とか間に合いました!




一面の向日葵です。










色んな種類の向日葵が咲いていました!




最近の向日葵は、花が小さめで草丈が低めが人気ですね。

草丈が高いと、良く見えないですよね~





もうすぐ秋って感じ…そうかぁぁ…夏も終わりかぁぁ





コスモスが咲き始めていました。

満開になったらきれいでしょうね~








国営昭和記念公園の向日葵、まだ間に合いました!

前回、早すぎて全然咲いていなくて残念でしたが…

忘れた宿題をやっと終わらせた気分です。




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東京都豊島区 法明寺の鬼子母神堂 

2022-08-22 18:43:04 | 東京


豊島区の雑司が谷にある 法明寺の鬼子母神堂

鬼子母神(きしもじん)は、子どもをつかまえて食べてしまう恐ろしい鬼女でしたが、

釈迦に諭され改心してからは、安産・子育の守り神として庶民の信仰を集めました。





境内にはイチョウの見事な大木があります。

「鬼子母神の公孫樹」 巨大なイチョウです。

樹齢600年以上、幹の周りは8メートル!

 



赤い鳥居が公孫樹を囲むように連なっています。

この景色は綺麗ですね。


 

右手に手水舎です。




 
お堂。大きな建物です。




ご本尊は、鬼子母神(きしもじん)です。

読み方は「きしもじんどう」、もしくは「きしぼじんどう」です。

 

 

大きさを実感します。




お釈迦様に諭され善神となったので、

鬼子母神の「鬼」の字は、角である上の点がない字が正式な表記。

粋な計らいですね~!



境内の奥に石碑




鬼子母神さまの像




本殿の裏に妙見堂です。





「鬼子母神」をず~っと「きしぼじん」と読んでいました。

雑司が谷の鬼子母神堂、正式には「きしもじんどう」と読むのですね。

都心にあるとは思えない静かな境内でした。


所在地 東京都豊島区雑司ヶ谷3-15-20



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8月中旬の庭の花 メランポジウム ガザニア ミソハギ 薔薇 ダリア ストレリチア

2022-08-18 18:31:02 | 花、植物

黄色い花が可愛いメランポジウム。

キク科の一年草で、小さめの明るい黄色い花をたくさん咲かせます。

夏の暑さにも強いので、夏から秋まで長く咲き丈夫で育てやすい植物です。
 



花言葉は「元気」「あなたはかわいい」
 

キク科・メランポジウム属
英名 Gold medallion flower
原産地・ アメリカ
開花期・ 5月~10月  

 

勲章のように鮮やかな花 ガザニア

キク科 クンショウギク属(ガザニア属)

和名・クンショウギク(勲章菊)  

勲章菊と言うだけあって、勲章のように鮮やかな花を咲かせます。



陽が当たると花が開き、陽が陰ると花が閉じます!

耐暑性が強く、真夏の太陽の元、鮮やかな綺麗な花を咲かせます。

原産地・南アフリカ
 
開花期・4月~10月上旬  開花期が長い~!


夏の暑さに負けないのか…猛暑の日本にぴったり!



ミソハギ

お盆には欠かせない花

セミの抜け殻発見!

こんな不安定な所で脱皮できるのかーーー!?







猛暑でも頑張って咲く薔薇














ダリア










植え残りの放置ミニトマト




ストレリチア

ご存知、極楽鳥花です。



いつの間にか…南国の花や暑さに強い花が増えてるのかな?

猛暑でも意外に花が咲いていました!

ならば、酷暑になったら何を植えたらいいの?って思っちゃっいました。












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終戦の日に…

2022-08-15 19:11:01 | 日記


私の住む地域では15日が送り盆ですが、終戦の日でもありますね。

私は1954年生まれなので、ジローズの「戦争を知らない子供たち」世代。

父も語ることも無く、回天の訓練中に終戦になったと言うことを知ったのは、ずっとずっと後のこと。

父の死後、母は弟の所に移り住み、父の手記はしばらく行方不明になっていました。

この手記を見て、きっと誰かに伝えたかったのだろうと今更ながらに思い、こちらに載せてみます。

よろしかったら、お付き合いお願いします。

━…━…━…━…━…━…━…━…
 機雷掃海を思う
   =古い手帳からの回想

 私の手元に、昭和23年発行の古い船員手帳がある。よく捨てないで持っていたものと思う。この手帳を開いてみると、そのころの事がらが走馬灯のように浮かんでくる。
 当時、私は発足間もない海上保安庁(昭和23年5月1日発足)掃海部に所属し、掃海艦(旧海軍駆潜特務艇、木造、135㌧)に乗り機関員として掃海作業に従事していた。このころの思い出をこの古い一冊の手帳に寄せて述べてみたい。
 1、掃海艇乗り組み時代
(1)機雷掃海とは
 当時の我が国周囲の海には、我が海軍が防備のため敷設した機雷や、米軍が我が国の海上封鎖のため敷設した機雷が多くあった。特に瀬戸内海には米軍の航空機による投下敷設された機雷があり、これらの海を航海する船舶は、この機雷に触れて沈没するか、航行不能になるかで無事航海できるのは非常に少なかった。このように危険なため海上交通は絶えがちで、わずかに小さな舟や危険を承知で航海する舟等で細々と行われていた。この海上交通を阻害している敷設機雷を除く作業が機雷掃海である。
 (2)機雷による被害の状況
 機雷による被害は非常に大きく、多くの生命財産が失われている。特に米軍敷設の機雷は磁気機雷が多いため鋼鉄船の被害は大きかった。
 私が乗り組んでいた掃海艇は、木造船のため掃海に最も適していたので、南西諸島から北海へと全国の海での掃海に従事した。その当時から幾年月過ぎた今日、平和で安全な海での航海に従事している人、また旅人には機雷がいかに危険であるかを話しても、なかなか理解しにくいものと思うが、私の体験した事をとおして機雷の被害について述べたい。
 時、昭和20年末から21年の春の頃、当時私は第二復員省(海軍省の後身)佐世保掃海部に勤務していた。この基地は、長崎県北松浦郡江迎町の入口にあって掃海部 隊はここを基地として「対馬」、「五島」、更に済州島など九州沖縄方面の掃海に従事していた。
 この掃海部隊のうち掃海作業において、「海防艦」や「掃海艇」が触雷沈没した。また嵐においても沈むなどの、船も人も多くの被害を受けた。掃海とは、このように非常に危険なものであり、言い換えれば、国の戦争は終わっていたが私達掃海隊員には、まだ機雷との戦いが続けられていたと言っても過言ではない。
 この戦いも半ばの昭和21年7月乗り組んだ艇の任務も瀬戸内海の掃海へと変わったため、旧佐世保軍港を後に広島県大竹掃海部(旧海軍潜水学校跡)へと航海を始めた。大竹に向かうには関門海峡を通過する。海峡の入り口に差し掛かった時、左舷方向山口県側の海岸に触雷して乗り上げている大きな商船が見えてきた。更に、航路の左や右にブリッジやマストを海面から出している沈船が次から次と見えてきた。これらの間を抜け関門海峡に入ると、門司港の岸壁に元駆逐艦が触雷し航行不可能となり繋留されている。これを見つつ無事海峡を通過、瀬戸内海に入る。更に航路のあちこちに船が沈んでいるのが見られた。これらの船のマストやブリッジは、墓標のように思われた。
 無事、大竹に入港し航海を終えた。ここで見たものは、船の墓場と言っても過言ではない状態であった。
(3)掃海の重要性
 当時の艦船は、触雷や沈船との衝突などの危険な海を無理して航海しなければならなかった。(中略)あの激しい戦争で陸路は破壊され、応急的な修復の中列車も車も少なかった。今日のような道路網も交通機関も発達しておらず、また「燃料の一滴は、血の一滴」と言われたように、すべての物資は極端に不足している時であり、国民の生きるために必要な食料の輸送は、急を要する大きな問題であった。
 このような状況であればあるほど、大量の輸送ができる船に頼らざるをえなかった。また海外からの兵士の復員や民間人の引き揚げ輸送も船、海外からの輸入(救援物資)も船であり、船無くしてはできないものである。しかし、航路は機雷のため絶えがちであった。
 このため機雷掃海の早期完了が、国家の大きな問題であり大きく叫ばれた。また、これは国民の大きな希望であった。私たちは日夜これにこたえるべく掃海に努力し、母港に帰る機会も少なく瀬戸の島々に錨を降ろし、休む以外は全力を掃海にそそいだ。当時は皆若かった。お互いに祖国の再建に勇気と自覚を持って立ち向かった。志を同じくする者としての連帯感も強く、団結固くして目標に向かう日々充実した人生であったと思う。(後略)
━…━…━…━…━…━…━…━…
ここまで打ち込んで、ふと思った。

生前、父はこの機雷掃海で友人を亡くしたと言っていた。

そして、晩年は海に引きずり込まれる夢を見てはうなされ、看護師さんを困らせた。

機雷掃海は、父の誇りではあったかも知れないが、確実に何処かに影を落としていた。

今年は戦後77年。

あれから77年、私の父も含めて戦争体験者は減り続けています。

総務省の人口推計によると、2021年10月現在、戦後生まれの人口は1億815万4000人。

総人口に占める割合は86.2%となったそうです。

戦争体験者の記憶も薄れゆく中、父の様に語りたくない人もいて…

今回は戦後処理の話でしたが、こんな苦労もあったことを知って頂きたく投稿してみます。

ありがとうございました。



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