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歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「主の祈り」について

2006-04-30 |  宗教 Religion
主の祈りのなかで、最近改訂されたカトリック教会と聖公会の訳では、従来の訳とすこしニュアンスの違う箇所がある。それは、
「われらに罪を犯す者を われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」
と従来訳されてきたところを、
「私達の罪をお許し下さい。私達も人をゆるします。」
と改めたところである。

この祈りを、
「私達に対して罪を犯したものを赦しましたから、(どうかそれに免じて)私達の罪を赦して下さい」
あるいは
「私達の罪を赦してください。(そうすれば)私達も他人をゆるしますから。」
という意味にとるのは正しいのだろうか。正しくないと私は思う。

それでは祈りは神と人間との間の「取引」になってしまうのではないか。そしてそのような取引こそ、マタイが、偽善者の祈りとして最も嫌ったものではないだろうか。

そもそも
「私達は・・・しましたから、私達に・・・して下さい」とか、
「私達に・・・してください。そうすれば私達も・・・・しますから」
いう言葉が真実の祈りの言葉とは、私にはどうしても思われない。「赦し」は神と人との取引ではないのである。

私は、この箇所については、伝統的な訳

「われらに罪を犯す者を われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」

のほうが適切であると思う。天のみこころと地に於ける現實との照応を示す「ごとく」とか「のように」という言葉がどうしても必要である。

「我等のゆるし」と「神によるゆるし」は、事柄においては、神によるゆるしが絶対的に先行するが、時間という相対的な世界に於いては、前後を付けずに同時的なるものとして訳すべきであると思う。

マタイ伝の「主の祈り」では、天(永遠)における神意と地上に於ける人間的現実との、揺るがすことの出来ない区別、しかしその区別にも拘わらず、永遠が時間的な存在の根拠であることが言われている。

  「みこころの天になるごとく、地にも成させたまえ」

プロテスタントの文語訳聖書の翻訳者は、日本語に対するセンスの非常に鋭い人だと思う。日本語では「なる」と「行う(なす)」は違う。「行う(なす)」は我々の能動的な意志の所産であるが、「なる」はそのような人間的意志だけでは支配できないものがあることを伺わせる。しかし、同時に、人間の倫理に関わる事柄では、「なる」は「なす」から切り離すことも出来ない。「なす」主体である個々の人の主体的行為を離れて、天意が自然現象のように、おのずから実現するわけではないからである。

「成させたまへ」という訳文には、天意にたいして開かれた受動性と、そのうえに成り立つ人間的な主体行為との関係が、適切に表現されている。古來、「人事を尽くして天命を待つ」とか「天は自ら助くるものを助くる」とかいうことが言われてきた所以だと思う。

英語の欽定訳では、マタイ6-10は

  Thy will be done in earth as it is in heaven.

これを読むと、天上においては永遠の現在であり、すでに何一つ欠けることのない神意が、地上の世界において、過去・現在・未来という時間の連なりの中で、将来において実現すべき課題として与えられているように私は感じる。天と地との対比、その間の照応。(永遠)は(時間)とは区別されるけれども、時間的世界と不可分であって、そこに生きている人間の主体性の根拠となっている。

「主の祈り」の冒頭の言葉と、「罪のゆるし」にかんする箇所は、深い繋がりがあると思う。他者を赦すと言うことなど、我々は、決して自己のうちから言えることではない。それにも拘わらず、「われらが他者を赦す如く」というのは、それが天意だからである。つまり、他者を赦すということが、天意と一体不可分であるから、神の赦しと、我々人間相互の赦しが照応する。主の祈りに言われる「ゆるし」は、神のゆるしのように、人もゆるしあうように、という祈りの言葉なのだと思う。
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小笠原登 「らいに関する三つの迷信」を読む

2006-03-01 |  宗教 Religion
小笠原登の書いた論文の中では、1931年(昭和6年)「診療と治療」第十八巻第十一号に掲載された「らいに関する三つの迷信」が特に良く知られている。我が国に於いて絶対隔離政策が国是として遂行されていく中で、その根本思想を「迷信」と喝破したこの論文は現在に於いても少しも色褪せたものにはなっていない。小笠原の言う「三つの迷信」とは

(1)らいは不治の疾患であるという迷信
(2)らいは遺伝病であるという迷信
(3)らいは強烈な伝染病であるという迷信

である。このうち(2)は一般大衆の間に広まっている迷信であるが、(1)と(3)は、当時の医療関係者の間にあっても、未だ克服できていない迷信であった。小笠原は、「癩程に種々な迷信を伴って居る疾患は他にないであらう。其の迷信の中には単に一般大衆の間に拡って居るばかりでなく医師界にまで拡って居るものがある」と述べた後で、「らいは不治の疾患である」という「迷信」を取り上げる。ここで現在の読者の中には、プロミンという特効薬が開発される以前に於いて、らいが不治の疾患であったということは「迷信」と言われるべきではなく、事実であったのではないか、と考える人が多いかも知れない。はたして、1931年という歴史的時点に於いて、「らいは不治である」と考えることが迷信に他ならぬと、なぜ小笠原は言い得たのであろうか。この問題について、現在、ハンセン病医療の現場で活躍している医師である和泉眞藏氏は次のような指摘をしている。
「今日でもプロミンという薬が登場する以前にはハンセン病は不治であったと考えている人がすくなくないが、これは明らかに誤っている。なぜならプロミン以前でも自然治癒する患者はすくなくなかったし、或る程度進行しても、そこで種々の程度の後遺症を残して病勢の進行が止まることがあり、また大風子油の注射で治癒する患者もいたからである。(中略)一般病院で治癒した患者は決して例外的な症例ではなく、ハンセン病の治癒について考察した論文も多いからである。」(「医者の僕にハンセン病が教えてくれたこと」2005年11月、CBR)
小笠原の家は江戸時代より漢方によるらいの治療をおこなっており、小笠原自身も京都大学でらいの通院治療を行ってきた関係で、多くの臨床的データをもっており、それに基づいて、「らいは不治である」という俗説が迷信であること、1931年当時に於いては、「癩の治癒性は結核性の疾患に比べると遥かに大である」といえると述べている。そうであるにも拘わらず、なぜ、「らいは不治である」という俗信が生まれたのか。小笠原によれば「病気は治癒しても最早や指の釣状や口の歪みなどが消失して発病前の状態には復帰せぬのである。こゝに永久病気が治癒せざるが如き観を呈する。癩不治の迷信はこゝに生れる。即ち病気自体とそれから起つた結果との混同に基いて起る」のである。「癩も亦経済力の少い人達に多い疾患であるがために、費用の関係上充分な治療を加へる事が出来ない場合が屡々遭遇せられる。万一斯様な患者に十分の資力が供給せられるならば、尚一層其の治癒性を高め得ると信ずる」というのが小笠原の立場であった。
 次に小笠原は、「らいは遺伝病である」と云ふ迷信を取り上げる。そしてこれが迷信であることを彼自身が調査した臨床的なデータに基づいて、次のように立証している。
この迷信を持って居る人は医師には稀であって、一般民衆に多い。此の迷信が結婚、離婚、廃嫡等の問題に関係して種々な悲劇を起した事が屡々見聞せられた。此の迷信の起つたのにも亦理由がある。即ち一定の家系の人にのみ癩患者が発生するかの如き感を与へると云ふ事実に基くのである。然かし精査すれば癩患者の発生は一定の家系の人に限って居らぬ。却って従来其の家系に於て癩患者のあった事を聞かなかった人に癩症状を現はして来て居る場合が遥かに多いのである。予が昨年一月より今年七月までの間に診察した百五十七名の患者の中に於て其の家系の中に癩患者を出した事もあるものは僅かに二十一名である。然からば如何にして一定家系の人にのみ癩患者が発生するが如く見えるかと云へば、其の一つの理由には癩は特殊な体質の所有者にのみ感染する疾患であると云ふ事を数へなけれはならぬ。癩患者は発育不全性体質に属する徴候の多数を所有して居る。即ち癩菌は体質的欠陥の所有者に遭ってのみ病原体となり得るのであって、何人に対しても病原体となり得るものではないと信ぜられる。而してこの体質的欠陥は一は遺伝により一は栄養状態や家業の同一等によって子孫や、一族の間に現はれ易く、従って癩の感受性も亦子孫及び一族の間に顕はれ易い。又一族の中に癩患者が出た場合には其の接触の頻数によって其一族の中に患者の発生が促される。即ち一族の中に重複して患者の発生する理由が会得せられる。 
ここの議論で注意すべき事は、小笠原が、ハンセンによる「らい菌」の発見したことを以て、らいの病因が確定したとは考えていないということである。なぜかというと、「らい菌」がらい病の原因であることを学問的に厳密に立証するためには、所謂コッホの三基準を満たさねばならないが、らい菌の純粋培養も出来ず、また、らい菌を人体に接種しても発病に致るとは限らないと言う実験事実が知られていたからである。癩菌が発見されたからといって、ただちにそれは伝染説を立証し、遺伝説を論駁したと考えるわけにはいかない。後に、小笠原が「鐘と撞木」の譬喩で示したように、らい菌とらいの発病との関係は、単純素朴な因果関係では捉えられないからである。すなわち、らいの発病には様々な因子が関係しており、らい菌の体内への侵入だけで発病にはいたらず、患者の側の感受性が大きく関係するというのが小笠原の基本的な考え方であった。感受性は遺伝的な要因を含むが、そのことから直ちに、「遺伝病である」という結論は出ない。なぜならば、発病を引き起こす因子は、遺伝的なものだけでなく、患者の生活している環境、その衛生的状態、栄養状態など様々の因子が複合的に働くからである。小笠原は、様々な統計的データをもとにして次のように推論する。
此の如く癩は一族中に重複して発生し易いのではあるが、結核性の疾患が一族間に重複して発生するに比すれば其の率は比較にならぬ程小さいと信ぜられる。それにもかかはらず癩が特に遺伝と信ぜられるに至ったのは、癩の伝染性が極めて弱い事と共に所謂癩系統の家族に於ける癩患者の発生率が所謂癩系統ならざる家族に於けるそれに比して、著しく大なる事を考へなければならぬ。勿論絶対数は癩系統ならざる家族に於て発生する方が著しく多いのである。これは只予の少数の患者についての統計のみではなく、他の統計に於ても同様の結果になって居る。
三番目に小笠原が取り上げたのが、「らいは強烈な伝染病である」と云ふ迷信である。この迷信こそ、小笠原が絶対隔離政策を採用している日本の医師達によって、民衆に吹き込まれ、患者の不幸を増大させていたものであった。小笠原は次の如く、当時の隔離政策と、この迷信との関係を喝破している。
この迷信の起つた理由は古来遺伝病であって、一定の家族に纏ひ着いて居る特殊な奇病であると深く信ぜられて居た癩が近時伝染病である事が高唱せられるに至って、俄かに民衆の強き恐怖を喚起し、強き伝染力を有する疾患の如くに嫌忌せられるに至ったものと考へられる。勿論癩は伝染病であるからこれを恐れる事は当然である。然かしながら恐怖の余り迷信に陥って癩患者に対する措置の宜しきを失ふに至る事は大に警めなければならぬ。癩は我が国では古き時代からの病気である。それにもかゝはらずこれが伝染病である事が観破せられなかった。又これが千有余年の間何等予防施設を施す事もなく放置せられたにかゝはらず今日尚未だ全国民悉くが癩によって犯されるに至って居らぬ。(中略)癩は感受性の強い人には容易く感染するけれども感受性の弱い人には容易に感染するものでない事が信ぜられる。そして其感染率は我が内地人を七千万人とし患者の総数を二万人とするならば三千五百人に一人の罹患者を出す事となり罹病率は0.029%となるのである。この罹病率は結核性疾患に比べると殆んど比較にならぬ程小さい。極端な例であるが、予が某病院の看護婦百二十四名について結核性疾患の診断を受けたものをしらべて見た事があったが、そのなかに五四名の羅病者があった。実に四四%である。そのなか、甚だしき例では二〇名詰めの看護婦寄宿舎の一室に於て二十名中十八名迄が結核性疾患の診断を受けて居たのがあった。(中略)これ等の事実を考へると癩の伝染性は結核のそれに比して殆んど比較にならぬ程弱いものである事が想像せられる。然かるに伝染の危険の甚だ多い結核患者が大道の閣歩を許され伝染の危険が遥かに少い癩患者が幽閉を強ゐられて居る事は甚だ矛盾極まる現象である。
ここで小笠原が指摘したこと、すなわち、結核の患者は絶対隔離の對象にはならないのに、結核にくらべれば遙かに伝染の危険の低いらい患者が絶対隔離の對象になるのか、医学的には根拠が薄弱であったということは重要である。学問的に根拠のないことであっても、医療政策には大きな影響を及ぼしたもの、それこそがまさに歴史的に問われ、検証されなければならないからである。
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戦前に於ける隔離撲滅政策の批判-醫海時報より

2006-02-28 |  宗教 Religion
1930年、31年の醫海時報には、国際連盟の癩委員会幹事ビュルネ博士の報告「各国に於ける癩予防事業と国際協力」が連載されていた。青木大勇と林文雄の論争の背景には、国際的には、隔離政策の行き過ぎが反省され、隔離・監禁本位の療養所から、治療・研究本位の療養所へという大きな流れが生まれてきたにも拘わらず、当時の日本が絶対隔離政策を選択したという事情があった。

青木大勇の「癩の予防撲滅法に関する改善意見 追報」(昭和6年7月4日)には次のような文がある。
「絶対強制隔離が人道上から観て非難の聲あることは兎も角とするも、この為に隠蔽者を多からしめ、早期治療の機を誤らしむる外、前に高調したやうに、多数の癩患者を有する邦国では、言ふべくして実際に行ひ難いと云ふ事実事情の下にあることも打消すことが出来ないから、第一回の世界癩会議に於いては、隔離をもって對癩策の最上なるものと認めたにも拘わらず、第二回第三回と回数を重るに従って、隔離を人道上の罪とするもの多く、又絶対の強制隔離を非とするものが漸次多きを加え、近く開かれた『ゼネバ』の国際連盟癩会議に於いても、癩の隔離は『餘り酷しくしないやうに』と論議せられ、又、昨冬『バンコック』に於て開かれた国際連盟主催の癩会議に於ても、『隔離は癩予防の為に必要事であるが、その唯一の法となすに足らぬ、その欠点をば他の法を以て緩和せねばならぬ、而して唯伝染の危険あるものに対してのみ行うべきである』と結論せられ、これに参会した太田博士自身も、『我邦の如きに於ては、伝染の危険あるものは隔離し、その危険少なきか又は無しと見なさるるものは、外来治療を施すといふ点に於て、その標準の樹立をきわめて厳重にすることが出来る状態にあると思ふ』と云ふ意見を抱いて居らるることは、帰朝後、同博士が癩学会に於て報告された要旨(東京醫事新誌2718号)に見るも明らかである」
日本のらい予防法の制定に当たっては、第一回の国際癩学会の隔離政策が大きな影響を及ぼしていたが、そこでいう隔離政策とは基本的にはノルウェーで行われていたような相対隔離(条件付き隔離)政策であって、フィリッピンやハワイに於けるような絶対隔離政策は、人道上多大な問題を生むことが指摘され、また、疫学的な観点からも所期の効果が認められないとする意見が強まっていた。ビュルネの報告も又、そのような世界のらい医学の趨勢を踏まえたものであったが、日本の官立のらい療養所の医師達は、その報告に謙虚に耳を傾けたとは言い難い。彼等は、むしろ、日本こそが世界のらい医療政策の先端に立っており、日本独自の国内事情は、患者の絶対隔離を必要としていると確信していたのである。このような確信が、はたして、医学的に十分な基礎を持っていたのかどうか、それがまさに問われなければならない問題である。

青木大勇は、既に大正十三年の醫事公論誌上で(600号と601号)「癩療養所を隔離ー監禁本位より治療ー研究本位へ」という評論を寄稿していた。医海時報の論文は、それを更に敷衍したもので、その趣旨は「我邦の官立の癩療養所の現況は、隔離ー監禁本位であって、一度収容せられたが最後、一生彼等は此怖れ慄くべき小天地から一歩も世間に出るを許されず、懐かしき友には愚か、慕はしき肉親の親兄弟や夫妻子女にさへ、一生所外では会ふことが出来ないといふ悲惨の境涯に置かれている」ことにあった。青木は、当時の療養所の政策を次の如く批判している。
「一体、癩の予防と撲滅を期する療養所へ、仮令癩と診断されたからと云ふて、一も二もなくその伝染の危険程度と収容人員の関係とを考慮せずに、唯だ浮浪者であるから病菌を散布する憂が多いと見なして入所を強いるのは、所謂素人考への譏りを免れない取り扱い方法であって、行政官庁として甚だ好都合であろうが、伝染病としての癩の予防撲滅といふ点から科学的に考へると、全く本末軽重を誤って居る拙劣なる手段方法であると断ぜねばならぬ。」
この青木大勇の論文に対して、同じ醫海時報誌上で当時全生園に勤務していた林文雄が反論している。
「数年前までの(全生園の)深い掘とトタン塀は姿を隠した。掘は埋められ、トタン塀は健康人の迷入を防ぐために見る目も美はしい生け垣に変へられた。我々が、その外を歩むとき、内側を散歩している病友は「先生今晩は(ボーナンベスペーロン)」と習ひ立てのエスペラント語で挨拶するであらう。
しかく療養所は美しいものとなって来て居る。如何にして病院はかくも天国の如くなったか。その一原因は、
(三)(青木大勇)先生の説とは反対に、伝染の危険なき程度のものも解放しなかった事である。
療養所には作業がある。その健康に応じて彼等の作業は必要欠くべからざるもの二四種を越えて居る。例へば、大工がある。そして彼等の手で病棟、消毒室、何でも建設せられる。付添が居る。
 彼等は重症者に日夜侍して大小便の世話から、食事の世話から親身も及ばぬ看護をする。そして千五十人の収容者中半数は相当重症でも何らか作業をし、人のため為す所あらんとして居る。これは一方彼等の疾病療法の一たり得るのである。そして、そのなかには中枢として、印度、ハワイあたりでは、当然解放すべき軽症者が働いて居るのである。当院の如きは作業が多くてする人が少ない。
 この軽症者が重症者のために犠牲的に働くと云ふことが今の療養所をして監禁所に非ずして楽園としたのであって詳しくは「東雲のまぶた」に見ることが出来る。
 全治者を退院せしめよの聲は古くから何回も叫ばれた言葉である。しかしもしこの軽症者を退院せしめる時は、この作業のために健康者を雇ひ入れねばならぬ。今日の日本、癩救済の貧弱な予算でどうしてそれを雇ひ得よう。 患者は一日三銭、多くて十銭で全力を注いで働くのである。しかも同病相憐れむ心から、癩患者自身が癩救済の第一線に働くてふ使命感からの愛の働きである。(中略) 痛みつつも猶鋤をになふ作業、病友のために己を捧げて働く愛、それが療養所を潤し、實に掘りを埋め、トタン塀を除き、楽園を作らしめたのである。」

林文雄の反論の中でとくに注意すべき点がいくつかある。それは「印度、ハワイあたりでは当然解放すべき軽症者」であっても、日本の官立のらい療養所にあっては、重症者を介護するための貴重な労働力として役立たせるために退院させなかったという箇所である。ここには、そもそも、感染のおそれのない軽症者を退院させず、重症者の介護をさせることが、強制的に入所させた患者の基本的人権を侵害しているかもしれないという自覺がない。林は、この点ではむしろ率直に療養所の医師達のものの見方を吐露していたと言うべきであろう。彼等は単なる医師であったのではなく、隔離収容施設の管理者でもあった。日本という国家を「らいから浄める」ことを第一義的な目的としていた彼等からみれば、患者である限り、感染の危険の有無を問わず、すべて強制的に収容して、重症者の介護を軽症者に任せて人手不足を補うことは、療養所の安定した運営のために必要不可欠な事柄であった。患者達のかかる相互扶助の行為は「病友のために己を捧げて働く愛」の発露とみなされ、それが「療養所を潤し、實に掘りを埋め、トタン塀を除き、楽園を作らしめた」ものとして-らい療養所の日本的な美風として-賞賛すべき事柄として位置づけられていたのである。

岡野ゆきお氏の書かれた伝記によれば、林文雄は光田健輔を師とあおいだ敬虔なクリスチャンであり、生涯を救癩という大使命のために献身的な活動をした医師であった。その熱心な信仰と医療活動、患者のための文化活動への献身ぶりについては、倶会一処のような入所者自身が編纂した園誌にも詳しい。

この林文雄に限らず、戦前の日本の献身的なキリスト者が、世間の人が顧みようとしなかったらい患者の救済という使命に献身しながらも、なぜ、日本国家の絶対隔離政策の推進者となっていったのかという問題は、我々が考察すべき重要な事柄の一つである。
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和泉真蔵先生の近著のことなど

2006-01-13 |  宗教 Religion
国賠法訴訟でハンセン病の専門医として証言された和泉眞藏先生の近著「医者の僕にハンセン病が教えてくれたこと」(CBR 2005年11月25日刊行)を読みました。小冊子ですが、内容は非常に充実しています。とくに第5章 ハンセン病の疫学的研究ー流行地でのフィールドワーク  第6章 国家賠償請求訴訟ー専門医たちの闘い 第7章 専門医の犯した過ちを検証する には、大いに啓発されました。

また、多磨誌2005年5月号-9月号に連載された大谷藤郎先生と平沢保治さんの対談が「柊の垣を越えた大谷藤郎先生と全生園自治会と・・・・」というタイトルを付して小冊子になりました。本日、大谷先生から送って頂き、興味深く拝読しました。松本馨さんの「小さき声」のことも触れられています。
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環境と生命 1

2005-11-20 |  宗教 Religion
1987年にアメリカのバークりーで開催された、「仏教徒とキリスト教徒との対話」を主題とする国際会議の主題は、「地球の癒し(Global healing)」であった。 この国際会議において、米国のプロセス神学者の J.Cobb は、現代において仏教とキリスト教が共通に取り組まねばならない緊急の課題として地球の生態学的危機があることを指摘して、次のように述べた。
宗教的な観点から死について語る場合、従来は、ほとんど個人的な次元にとどまっていて、私という個人の死、あるいは、死後の世界はどのようなものであるかという観点から、この問題が扱われた。今日では、我々は、地球全体に死が広がりつつあるという状況に直面している。このことは、もはや、様々な宗教的伝統に属する人間にとって、避けられない問題となっている。
地球全体に「死」が拡がりつつあるということは、あくまでも人間的な比喩、もしくは、神話的象徴によって語られていることであって、科学的事実の客観的な記述ではない言う意見があるかもしれない。普通に我々が理解している自然科学には「病」とか、「死」という語は登場しない。もし、自然科学の最も基底的な言語に、生死(生成と消滅)、価値、目的というような範疇が存在しないならば、自然科学的な事実を根拠として、「病める」地球の「癒し」について語ることはできないであろう。健康であったり、病気であったりするのは、あくまでも人間についていえるのであって、他の生物種や無生物について言うのは無理であるとも思われよう。

しかしながら、「健康」や「病」を人間にのみあてはまる特殊な述語と考えたり、自然そのものを人間の外部に対象化された単なる物質の運動に還元するような自然観そのものが、現在の生態学的危機と密接に結びついているとしたらどうであろうか。

宗教が人間の個人的な内面的生の問題のみに関わり、科学が自然を外部から操作可能な物質の機械論的システムに還元するとき、自然と人間の関わりを問う「環境問題」を、「科学的にかつ宗教的に」語るという道はほとんど閉ざされていたと言ってよい。

筆者が以下でとりあげるのは、地球の生態学的危機を「科学的かつ宗教的に」考察するという課題である。単に科学の立場から、あるいは、単に宗教の立場から、考察するというのではなく、科学と宗教とが、そこにおいては不可分であるような場所で、地球に迫りくる「死」の問題を考察しようというのである。それは、多くの人々が単なる科学の問題として、あるいはヒューマニズムの立場から論じてきた環境問題を宗教的視点から検討を加えることにほかならない。

キリスト教の神学の用語で言い換えるならば、この問題は、現代の自然神学の緊急の課題の一つであり、仏教の立場から言えば、地球の生態学的危機の問題を、原始仏教の古き智恵―四聖諦-による「苦」の克服という視点から考察することに他ならない。

  地球の生態学的危機ecological crisisという問題を、「科学的にかつ宗教的に」考察するためには、少なくとも次の四つの項目が必要である。

(1)近代文明の疾患に他ならぬ地球の生態学的危機の事実を正しく認識する事
(2)近代文明の疾患の真の原因が何であるかを根底から自覚する事
(3)生態学的危機を生まぬ文明の理念を改めて正しく定義する事
(4)生態学的危機を克服するための実践の具体的指針を与える事

この四項目は、原始仏教の教義の一つであった四聖諦-「苦集滅道」の四つの聖なる真理-に学んで、その見地から現代の環境問題を見直したものである。

四聖諦の原点は、自己を含む世界の全体が苦しみの中にあることをあるがままに正しく認識すること(dukkha=苦諦)である。苦を克服することは、苦の現実を正しく認識することなくしてはあり得ない。苦諦とは悲観主義的なイデオロギーを意味するのではない。それは、我々自身に深く関わりを持った事柄であると同時に、経験に基づきそこから帰納された客観的事実でもあり、この事実を率直に認め、そこからものを考えていくことが、「苦からの癒し」を実現するためには必要不可欠であることを意味しているのである。

 さて、原始仏教の救済論の第二項目は、苦の原因を認識すること(samudaya=集諦)にあった。我々が、その中で呻吟している苦しみの原因は一つではなく、多くの原因が集積して生じたものである。この原因を認識せずに、人間が神々に安直に寄り頼み、外部からの奇跡的救済を願望することによって、癒されると言うことは、本来はあり得ない。原始仏教においては、人間が自己自身の外部にたてた神々にたいする信仰は究極的には、人間を救済するものではないから、神々もまたその支配下にある因果の理法を認識することが第一義的な重要性を持つのである。

しかし、言うまでもなく、ここで求められている仏教的な智は、対象認識に限定された科学的な理性ではない。近代人にとっては、理性とは人間の心の機能の一つであるに過ぎず、人間の感情や意志とは独立であり、それらの「非合理的な」機能とは区別されている。対象を分析し支配する分析的理性は、自己と他者を差別する差別知であると同時に、外部から提示された目的を実現する手段にもっぱらかかわる手段知に、自らを限定している。

 これに対して、「智体悲用」という言葉に要約される仏教的な智は、情意的活動のすべてを包摂しそれらを統一する目的知であると同時に、依存的な生起(pratitya samutpada=縁起)の関係にもとづく自我の非実体的性格を正しく認識する無差別知という基本的な性格を持っている。科学的な理性は、手段知としていかに優れていても、仏教的な智の基準からすれば、目的価値の選択に対しても、また自己と他者の依存関係に対しても、甚だしき無智と共存しうるのである。

嘗ては、西欧においても、ソクラテスとプラトンに根ざす伝統の中では、哲学的な理性は、人間の生にたいし単なる手段知以上のものを意味していた。「善を善として認識して、それを行わないことは不可能である」とは、ソクラテスの言葉であるが、その様な「善」の認識は、人間の理性を世俗の次元でのみ捉え、無統制な欲求に奉仕する道具と見る立場からは閉ざされてしまっている。

英国の緑の党のスポークスマンであるサラ・パーキンは、地球の生態学的危機の事実が認識されても人々がそれに応じて適切な対策を講じることができないでいる現状に警告を発して次のように述べている。
我々の、鈍感さ、沈黙、そして、怒りの欠如は、我々が、自己自身の絶滅をつぶさに見届ける唯一の生物種になるかもしれないことを意味している。そのときに小さな墓碑銘が刻まれるだろう。「人類は絶滅の日が近づいているのを知っていた。しかし、それを防ぐだけの知恵を持ち合わせていなかった」と。
 ここで、我々が考えるべきことは、絶滅の日が近づいてくるのを「知って」いながら、それに対して、適切に対処することができないと言う人間の問題である。ここで、無明(avidya)の長き夜に沈んでいるのは人類の全体である。一人一人の人間のではなくて、いわば人類全体の無明ということが問題となっているのである。

この無明が高度に発達した科学技術社会における極度に専門化した知と隣り合わせになっていることが、我々の時代の特徴である。地球の生態学的危機の事実を正しく認識し、その原因がほかでもなく、我々自身にあること、我々自身の無明にあることを自覚することが、この危機を克服するための第一歩である。ここで、「自覚」というもともと仏教に由来する用語を使ったが、その理由は、生態学的危機の問題は、我々自身のことを棚上げして、客観的に操作可能な対象世界の問題として、政治的ないし技術的な手段のみによって解決できるような問題ではないからである。 
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環境と生命 2

2005-11-19 |  宗教 Religion
 地球の生態学的危機については、近年その危険性がようやく自覚され、環境と開発に関する国際会議が随所で開催され、様々な行動計画(agenda)や国際協定が結ばれてはいる。 しかしながら、これらの行動計画を実行する上で、大きな妨げとなっているのが、「近代化」と「開発」を無条件で善と見なす国家のエゴイズムである。熱心に環境保全を唱えているのが主として先進諸国の非政府組織であり、この運動が現在国境の壁を越えて全地球規模で広がりつつあるとはいえ、国際政治を動かしているものは、依然として国家のエゴイズムである。そのかぎりではすでに近代化を達成し豊かな消費生活を享受している先進諸国と、国民総生産の増加によって先進諸国と同じ生活水準を達成することを国是とする開発途上国との間には、同じ環境保護の問題について協議するとしても、利害の対立を避けることはできない。環境問題の解決は、世界に於ける資源利用の不平等と所得格差をいかに是正するかという南北問題と切り離して考えることはできないのである。ここで、限られた地球上の資源をいかに再利用可能なかたちで維持し、如何にして「永続的な開発(sustainable development)」を可能にする経済体制を整備するかという地球経済学ないし家政学(earth economics)の問題を考察してみよう。

 地球上で利用可能な物質的資源とエネルギーの総量が一定であることが自覚されると、配分の公正さ(justice)の問題が倫理的かつ政治的課題として浮上してくるのは当然であろう。ここで、先進諸国の国民が享受しているような資源の浪費を前提とする生活様式は、はたして、地球が支えきれるような種類のものであるかと問うことは重要である。

 環境保護の運動は、国境を越えた拡がりを持つと言ったが、それは、国家の自己中心主義を克服する運動が、各地域で草の根的に出現してきたことを意味している。近代は何にもましてナショナリズムの時代であるが、環境問題は、我々に国家の壁を越えることをまず要求するのである。それはまた、少数の専門家の立案した経済政策にたよることによっても解決しないであろう。

 エコロジー的な経済学とは、いわば、我々の地球を一つの家(オイコス)として、その家の法(ノモス)と秩序を考察することであるから、国民経済学(national economics)の枠組みを越えることが要求されるのである。それは、すべての人間の問題であり、それぞれの人間が生活している具体的な場所、個々の家庭と地域の共同体の問題である。

 「地球規模で考え、身近なところから行動する(Think globally, and act locally)

とはエコロジー運動のスローガンである。現代は、家庭の日常生活の中で消費されたフロンガスが大気中のオゾン層を破壊し、将来生まれてくる世代に対して、取り返しのつかぬ危害を知らずに加えてきた時代であり、身近な一つ一つの行為が連係して、思いも寄らぬ結果を生む時代である。先進諸国の国民が当然視してきた行為が、実は、開発途上国の資源の乱獲によって地球の生態系に被害を与えているという事例はきわめて多いのである。  

我々は、「地球が病んでいるときは、そこにすむ我々自身もまた病んでいる」という言葉をつけ加えねばならぬだろう。

近年、ヨーロッパや米国の環境運動家の間で、「深いエコロジー(deep ecology)」という言葉がよく使われるようになった。それは、ヨーロッパの近代文明を支えてきたコスモロジーと人間中心主義的な価値観に対して根本的な反省を求める運動となっている。「深い」という言葉は、当然従来の環境保護運動の基本的な考え方を浅薄なものと見る価値判断を表している。それは、地球の生態学的危機の問題を根本的に人間自身の生き方の転回させ、従来とは違った生活様式(alternative life style)を広めることを意図している。それは、まず、環境倫理ないしエコロジーの倫理学(ecoethics)の問題として登場した。

 エコロジーの倫理学という考え方は、西欧の文明の伝統の中では、比較的に新しいものである。例えば、米国の環境運動の思想的原点とも言うべきA.レオポルドの「土地倫理(land ethics)」が構想されたのは1940年代の後半である。この倫理の出発点は、「大地の有機体としての複雑さ」であり、「山の身になって考える(thinking like a mountain)」ことであった。レオポルドの著作を読むと、彼が次第に人間中心的な功利主義のものの見方から、次第に生命中心的な平等主義の立場に移行していったことがよくわかる。 従来の環境保護の運動は、自然資源を賢明にかつ効率的に利用することをめざし、人間の長期的な利用のために、自然を制御し、人間の物質的利益に役立てることを意図していた。これに対して、レオポルドが提示し、後に急進的な環境保護運動の指導理念となったのは、人間以外の自然物もまた、生命を持つ有機体にほかならぬ大地の一部であって、それぞれが生きるための固有の権利を持つという考え方である。生態学的平等主義(ecological egalitarianism)ともいうべきこの新しい倫理思想は、後にノルウエーの環境哲学者の A.ネス によって、「あらゆる生命の諸形態は、その潜在的可能性を開花させる権利を平等に持つこと(the equal right to live and blossam)を原理として認める」立場として定式化された。 

これは、単なるロマン主義的な自然観と見るべきではない。 レオポルドは野生動物の保護を法的に確立するという文脈でこの考え方を提示しており、人間と自然の関係を倫理と法の問題として捉え直すことを意味しているのである。キリスト教の伝統に属するこれらの環境学者の考えの背後には、人類が新たに自然との間に契約を結ぶべきだと言う考え方がある。フランスの環境哲学者の M.セールの提言によれば、生態学的な平等主義は、「人間が従来の自然を排除する社会契約を破棄し、共生と相互性を旨とする自然契約(le contrat naturel)を結ぶ」ことを要請するのである。それは、人間だけが、個人又は集団で権利主体になりうると前提している法的権利の概念の見直しを要求し、従来の倫理学には欠如していた新しい問題を提起している。

  地球の生態学的危機の問題は、空間的には、人間がそこにおいて生きている地球を生きた有機体として捉え、そこで共に生きている様々な生命の諸形態に対して、その潜在的可能性を開花させる権利を認める考え方を呼び起こした。これに対して、時間的な問題、即ち、我々が過去の世代、および未来の世代と「共にある」ことを強調するのが、ドイツの哲学者ハンス・ヨーナスによって示された世代間倫理である。 産業廃棄物や、核廃棄物による環境汚染が影響するのは、今生きている世代である以上に、将来の世代である。それ故に、世代間倫理は、現代の世代の為す決断/選択は、過去の世代の価値ある遺産を継承し保護すると共に、未来の世代の創造的生活と多様な価値の選択の可能性を保証し維持する責任を負うべきことを強調するのである。

環境倫理にせよ、世代間倫理にせよ、そこでは、人間と自然との間の連帯性、現在の世代と過去および未来の世代のすべての生命ある存在のあいだの連帯性が問題となっている。それは、環境問題を専門家の解決すべき技術的問題と考えずに、我々自身の生き方の問題として捉え、同時に、人間の宇宙に於ける位置について、近代のヒューマニズムとは違った考え方をするのが特色である。

 深い意味でのエコロジーは、近代人の自然観や価値観の前提そのものを問う哲学的批判であると同時に、ポスト近代科学による自然認識の深化にふさわしい宇宙論を構築する積極的な試みでもある。それは自然環境と技術環境と人間の実践活動の三領域の調和と均衡に関する智である。 
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滝沢克己とカール・バルト その1

2005-11-13 |  宗教 Religion
上智哲学会シンポジウム、今年は「西田哲学とキリスト教」がテーマであった。シンポジウムの席上にて、前田保氏より、滝沢克己と西田幾多郎およびカールバルトについて幾つかの論点が提示された。私はこのシンポジウムの企画者として司会者を務めたが、滝沢克己・西田幾多郎・カールバルトの相互の交流と批判という歴史的事実を踏まえて、そこでの議論を継続することの重要性をあらためて感じた次第である。いずれ論集において詳しく議論する予定であるので、ここでは滝沢の言う神と人との根源的関係、インマニュエル(神我等と共にいます)の原事実にかんするコメントを述べておきたい。

西田は同時代のドイツ哲学をさほど評価していなかった。新カント派や現象学は厳密なる学問的方法を哲学に要求することによって、認識論を展開したが、西田は、新カント派のカントではなくて、カント自身に立ち返り、批評主義の徹底は形而上学を要求することを指摘していた。

滝沢がドイツに留学するに当たり、どの哲学者に教えを受ければよいかと西田に尋ねたとき、西田は今のドイツには見るべき思想家はいないと言ったという。ハイデッガーについては、「肝心なものーすなわち神が欠けている」ことを不満とし、同時代の神学者達、なかんずくカールバルトが最もしっかりとした思索者であると滝沢に言ったという。つまり、滝沢がバルトを師とするようになったきっかけは西田が与えたのであった。

この点は、西田のもう一人の弟子であった西谷啓治が、ハイデッガーやニーチェに影響されたのとは対照的である。ハイデッガーには、バルトや滝沢のようなインマニュエル(神我等と共にいます)の原事実に立脚する「神の現臨の神学」はない。神は不在である、あるいは神無き時代において、存在論と神学を同一視する見地を批判しつつ、存在への問を問うことーこれが「存在と時間」の議論の成り立つ地平である。だから、そこには超越的な神は不在の儘で、人間の実存の「不安」の現象そのものが、あくまでも内在的に解釈される。このような思索は、西田にとっては物足りぬ物、「肝心の物がかけている」哲学なのであった。それよりも西田は、神学者のバルトの議論の中に、自己の哲学と相通ずるものを直観したと言ってよいであろう。

滝沢が西田から何を学び、そして何を批判したかは、滝沢の二つの著作「西田哲学の根本問題」「バルト神学の根本問題」という基礎文献があるが、西田の著作の中で、滝沢の名前を挙げてその批判に答えているような箇所は存在しない。西田は、他者を批判したり、他者からの批判に答えるという形で自己の哲学を語るというタイプの哲学者ではない。問題とすべき事柄自体を自己に対して明らかにすることが第一なのであって、他者を批判したり、他者からの批判に答えることは、彼にとってはあくまでも二義的であった。したがって西田は滝沢とは独立に理解すべきものであるが、滝沢は西田哲学抜きでは理解できない。おなじことはバルトについてもいえるであろう。しかしながら、このことは、滝沢が西田とバルトに対して提出した問いが重要でないと言うことを意味しない。滝沢の問は、西田哲学の最晩年の著作にあらわれる思索と深く関わりを持つものであるし、バルト神学立場を徹底することによってバルトを越えようとした滝沢の試みは、バルトその人に影響を与えることが無かったとしても、私にとっては深い意義を有する。
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滝沢克己とカール・バルト その2

2005-11-12 |  宗教 Religion
「神我等とともにいます」の「我等」とは実質的に誰を指すのか。聖書の文脈においては、それはあきらかにユダヤ民族を指す。異邦人のもとに囚われ、政治的独立を失ったユダヤ民族にとって、神が「我等とともにある」とは、見失われた神の恵みが再びユダヤ民族の内に見出されたとの意味である。これがキリストの名前として預言的に使用されたことも聖書の文脈を見る限り明らかである。つまり、この「我等」には異邦人は含まれない。この言葉をキリスト教宣教の核心に位置づけるバルトの場合は、「我等」とはキリスト教徒、およびキリスト教の教会に招かれたすべての人々という意味になる。ユダヤ民族に限定されず、さらに普遍的な含意を持つとはいえ、依然として、キリスト教の教会を中心として発想されている。このことは、バルト神学が「教会教義学」として書かれていることを考えれば当然のこととして了解されよう。「教会の外に救いなし」は事実上バルト神学の立場である。

「我等と共に」の「我等」をどのように捉えるかによって、インマニュエルの意味が変わってくる。滝沢の場合は、「我等」をユダヤキリスト教の伝統の外にまで拡大し、事実上、全人類と同義にしたが、そのことによって、「我等」と「我等でない者たち」の差別が消えている。キリスト教信仰を、個に徹すると同時に「無」の普遍的なる立場において捉えている私は、滝沢の議論は、本来、「我等」というような集合性において展開すべきものではなかったと考える。バルトはキリスト教とは宗教性の否定であるとのべたが、「我等」という曖昧な用語を使っている限り、その否定は徹底しない。人はキリスト教を、自己自身の問題として捉えるのではなく、民族・文化・教団といった種的類的存在から考えるにとどまるであろう。

「我等とともに」よりも「我とともに」のほうが根源的であり、そこにもまた滝沢の言う「不可分・不可道・不可逆」の根源的関係が成立せねばなるまい。

私は、信仰宣言が何故に「我等信ず」ではなくて「我信ず」であるのかということを以前に書いた。信ずる主体はあくまでも個であって集団ではない。そこの厳然とした不可逆の関係を見失うと、信仰はいつでもイデオロギーへと、集団のエゴイズムへと転落するであろう。

それと同時に、「と共に」ということも、それだけでは超越者と我との根源的関係を十全に表現するものとはいえない。宗教的経験に於ける人格性に関する考察で述べたように、「とともに」は「によって」「において」「のために」という諸々の関係を抜きにして語ることはできない。滝沢はすべて「とともに」によって言い表そうとしたが、キリストによって、キリストと共に、キリストの内にあることが、聖霊の交わりという共同体の形成に先行するのでなければなるまい。
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小笠原登の書簡

2005-11-06 |  宗教 Religion
先日の全生園祭の図書館展示より、小笠原登より鈴木重雄(田中文雄)に宛てた書簡を村井澄枝さんより画像にして送って頂いた。鈴木重雄は戦後まもなく、光田健輔の強制収容政策に協力したとして、愛生園の自治会より厳しく批判されたことからも判るように、終戦後しばらくの間まで、小笠原登の考え方を「異端邪説の徒」と考えていたとのことである。その鈴木氏が、退所して社会復帰されたあと、「内心の疑問」を解決するために「小笠原博士に一度あってみたい」との思いに駆られ、昭和38年秋に大阪で初めて小笠原博士に会われたとのこと。当時博士は、水俣病にも深い関心を持ち、調査していたとのことである。昭和42年の「多磨」誌に、「京都大学ライ治療所創設者-小笠原博士の近況」という文を寄稿している。これは、小笠原登について言及するときに良く引用される貴重な資料である。

 鈴木重雄は、光田と小笠原を比較して次のように言っている。
光田先生は、日本のライ学会では、いわば陽のあたる場所を歩き通し、自説の儘に日本のライ管理制度を確立し、運用し、朝日文化賞、文化功労賞、文化勲章など、数々の社会的、国家的の栄誉を受けている。又、先生の業績を伝えるために伝記風の「回春病室」「愛生日記」「癩に捧げた80年」等の刊行も為されている。
 小笠原博士の方は、全く光田先生とは対照的である。即ち、日本ライ学会の主流の外の、陽の当たらない場所で黙々として自説に生き抜いて来たというべきか。
鈴木は、光田先生の論敵として自説を曲げず、政府の救癩政策に抗して通院治療を続けた小笠原に、「気性の激しい、傲岸さが顔にまでもにじみ出ていイカツイ風貌の人物であろう」と思っていたが、実際に、小笠原に初めてあったときに、「仏像のような柔和な微笑を湛えた長身の老人」にあって驚くのである。

晩年の小笠原も、その長年にわたる医療活動が評価されるようになり、藤楓協会その他の団体から表彰されるようになる。甚目寺まで小笠原を訪ねた鈴木への礼状の中で、小笠原は医学振興賞受賞を祝う鈴木の祝詞にたいして謝辞を述べたあとで、受賞時の感慨を次のような詩に託している。
一(もっぱら)ら世恩に委せて俗縁を離る
吾が年八十 烟よりも淡し
朝は来り夕は去って蹤跡なし
光彩何ぞ期せん 地天に満ちんことを

(六月二十五日表彰牌を受く)

無願兼(ま)た無行
何によりてか徳功有らんや
頌詞今手に在り 漸汗南風に冷ややかなり
この詩を詠んだあとで彼は

「世恩に計らはれるがままに無為自然の生を送りたいと念じて居ります」

と、恬淡とした東洋的諦観を述べている。これは彼の詩の中の「無願兼無行」に応じる詞だろう。こういう諦念は、博士の場合は、決して静寂主義に陥るのではなく、むしろ古希を迎える歳に奄美和光園に赴任したこと、そこでの医療奉仕という世俗の活動的生の直後に言われていることに注意したい。無為自然といっても、博士の場合は、多数者の偏見に流されることはなく、むしろその偏見や迷信をズバリと指摘され、臨床医として首尾一貫した実践活動を貫かれたのである。
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控訴断念(楽生院)と告示改正(ソロクト)の呼びかけ

2005-11-05 |  宗教 Religion
読売新聞(online)韓国・台湾ハンセン病訴訟、原告ら包括救済へを読みました。包括救済を目指すと言うところは一歩前進ですが、控訴後和解という方針を採用するところ、血の通わぬ官僚的思考法が残っています。原告の高齢であることを配慮すべきです。台湾楽生院判決については控訴断念、韓国ソロクト判決については告示改正という選択をするように働きかけましょう。

ハンセン病市民学会の宗教部会MLに、弁護団からの次のメッセージが届けられました。この週末から月曜日にかけて、みなさんの声を再度、メール、Faxで首相官邸に届けてほしいとの呼びかけです。

      「声」の送り先

官邸→http://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html
FAX 03-3581-3883

〒100-0014 千代田区永田町2-3-1 首相官邸
内閣総理大臣 小泉純一郎 殿

厚生労働省→https://www-secure.mhlw.go.jp/getmail/getmail.html
FAX 03-3595-2020
メール  www-admin@mhlw.go.jp

〒100-0013 千代田区霞ヶ関1-2-1 厚生労働省
厚生労働大臣 尾辻秀久 殿

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  (以下の声明文を参考にして下さい)

    声明

2005(平成17)年11月5日

小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団(代表 国宗直子)

東京地方裁判所民事第38部が言渡したハンセン病補償金不支給処分の取り消しを命じた判決の控訴期限が11月8日に迫っている。

一部報道機関では、厚生労働省は、控訴を断念すれば、台湾の入所者にハンセン病補償法に基づき、最低800万円の補償金を支払うことになり、補償金額や補償対象者の認定方法に検討の余地がなくなる等との理由から、控訴をした上で和解を目指す方針であると報道されている。

しかし、厚生労働省のかかる方針は、以下の理由から断じて受け入れることはできない。

第1に、原告らの早期救済がはかられない。原告らの年齢は平均81歳を超えており、小鹿島更生園の入所者だけでも、補償請求後、既に21人が死亡し、本年8月から現在に至るまで3ヶ月間の死亡者は5名を数えている。控訴して和解協議により解決するという枠組みでは、解決が大幅に遅延し、生きて解決を得たいと願う原告らの悲痛な願いを踏みにじることになる。

第2に、原告らの平等な救済が実現できない。原告らはわが国の隔離政策の被害者としてわが国のハンセン病患者と同等もしくはそれ以上に過酷な被害を受けてきたものである。この点は、厚生労働省自身が救済の基本的方針の根拠としてあげているハンセン病検証会議最終報告書に明かである。従って、補償法の趣旨や平等原則に照らし、日本国内の療養所の入所者と補償金額の格差をつけることはできない。控訴審におけ
る和解により金額に格差を設けることは、新たな差別を生むことに他ならず、補償金額の見直しを目的とする控訴は断じて認めることはできない。

第3に、補償金支給に当たっての認定方法の問題は、支給審査の段階における技術的な問題にすぎず、必要とあれば別途ルールを策定すれば足りるのであり、解決の枠組み自体を左右するような問題ではなく、到底控訴をする理由とはなりえない。控訴断念なくして本問題の救済はない。

原告らの請求を認容した民事38部の判決はもとより、同3部の判決も現行の補償法下で告示に占領下の療養所を含めて規定することは可能であるとの解釈を示している。

政府は、控訴を断念して告示改正による早期の平等救済をはかるべきである。今こそ政治的な決断が求められている。

我々は、控訴期限ぎりぎりまで控訴断念を求めて全力で闘い抜く決意である。
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小鹿島裁判の不当なる判決

2005-10-25 |  宗教 Religion
韓国小鹿島更生園と台湾楽生院の入所者達の、ハンセン病補償法に基づく補償金の支払いを求める裁判の判決が、それぞれの入所者にたいして、全く対立するような形で、判決が出た。東京地裁は、二つのケースについて互いに矛盾した判決を下したのである。

小鹿島の場合楽生院の場合のどちらも、療養所の沿革と実態を述べる部分を除けば、原告側が提出した訴状の文面は、殆ど同一である。すなわち、請求の趣旨は同一、請求の原因も、「ハンセン病補償法の趣旨とその特徴」「本件取り消し原因」の部分は同一である。にもかかわらず、判決は正反対で、原告側は、小鹿島の場合は敗訴、楽生院の場合は勝訴であった。

読者は、各自、楽生院の判決要旨小鹿島の判決要旨を比較して読んで頂きたい。

楽生院のケースでは、判決文は明快であり、個人の人権を守るために、嘗ての日本の植民地に於けるらい療養所の人権侵害を補償するにあたり、人種や国籍の差別を立てずに平等の原則を貫いた判決として評価できる。

これに対して、小鹿島のケースでは、判決文の文体も徒に冗漫にして煩瑣、論旨不明瞭の典型的な官僚的悪文である。

小鹿島の判決文には、戦前に於ける「らい予防法」とそれに基づく人権侵害という視点が完全に欠落している。日本国家の人権侵害行為を、戦後のみに限定し、戦前のそれを無答責とする観点が前提されている点が、裁判官の歴史認識の欠如を物語る。彼等は、ハンセン病補償法が制定されるときに、旧植民地に於ける療養所のことは審議されていなかったと言う事実にあくまでも拘泥し、政府と国会の認識の浅さを逆用しつつ、三百代言的な論法をもって原告の訴えを斥けたのである。

責任は勿論、ハンセン病補償法を審議するときに、旧植民地の人々のケースを論じなかった国会、適切なる指示をだせなかった行政にもあるが、裁判官の見識を示した楽生院のケースとは異なり、小鹿島裁判の拙劣なる判決文を書いたものもまた、当然の事ながら、歴史と理性の審判を受けるであろう。
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神谷美恵子について

2005-09-14 |  宗教 Religion
神谷美恵子の戦中日記(「遍歴」 神谷美恵子著作集9 169頁)によると、当時の長島愛生園では、療養所内部でも、「有毒地帯」と「無毒地帯」が截然と分かれており、その境界を越える場合には、次のような厳格な消毒作業が義務づけられていた。
ここ(昭和18年の愛生園)では、健康者の活動する区域と患者のいる区域が判然と分けられており、両者の間には厳重な消毒網が設けられている。その順を示すと
はいるとき--
(1)本館から風呂場の脱衣所に行って衣服を脱ぎ、次室でモンペをはく
(2)次室で上衣、帽子、マスクを付ける(3)試験室を出て診察棟および患者の住居区域に至る
出るとき――
(1)消毒液に浸された靴拭きマットで靴を拭く(2)準備室で手を洗って消毒(3)次室で上衣、帽子をとる(4)次室でマスクを籠の中に投げ入れる(5)次室で足袋、靴を脱ぐ(6)次室で足を消毒液に浸す(7)次室で顔を昇汞ガーゼで拭く(8)次室でモンペを脱ぎ、足をリゾール液につける(9)風呂に入って衣類を全部取り替える(10)消毒液でうがい
医師も、看護婦も、この「出入り」を日に二回繰り返す。
つまり、患者達の生活空間と医師や職員達の生活空間とは完全に隔離されており、一方から他方へ移動するときには、(1)から(10)のような煩雑な手続きーそれが果たして充分な医学的根拠に基づいていたかは別途に考察したい-が要求されていたことが判る。

  戦前の国立療養所の管理方式の特徴の一つは、絶対隔離・終生隔離の原則であるが、隔離は、療養所の内と外にとどまらず、療養所の内部においても、「有毒地帯」を「無毒地帯」から差別隔離したうえで、その二つの地域を往還するさいの消毒の実施である。消毒を徹底的に行うことによって、職員や医者・看護婦への感染を防止するという思想がそこにあるが、このようなペストやコレラにも比すべき消毒と隔離が、はたして、医学的に必要であったのかという事に対する批判的な視点、また、強制隔離が患者の人権をいかに抑圧するものであるかという視点は、神谷の手記には全く見られない。

 我々は「小笠原登の医療思想」において、1930年代において既に小笠原が、「らいは強烈な伝染病である」という思想を医学的な根拠のない迷信として斥けたことを知っているし、夫婦間でらいが伝染した統計的事例がいかに少なかったという事も知っている。そういう視点から見ると、国立のらい療養所で、このような極端な消毒と差別的な隔離が徹底されていたことの当否は、当然、問題とされるべき事であった。

 医学生として戦時中の愛生園を見学に行った神谷は、病院の医師達による患者の遺体解剖にも立ち会う。当時、(そして敗戦後、かなりしばらくの間もそうであったが)国立のらい療養所に入所する患者は、すべて、入所時に、死後、遺体解剖されることに同意することが義務づけられていた。そして、神谷は、当時の療養所では、結婚の条件として、断種手術が義務づけられていたことにも言及している。つまり、戦前の日本の公立のらい療養所においては
(1)「健康地区」と「汚染地区」との療養所内に於ける分離と両地区を出入りするときの消毒の徹底
(2)入所者全員に、死後遺体解剖に付されることを承諾させる
(3)結婚を認める条件として断種手術を行う
という顕著な特徴があり、諸外国のそれとは截然と異なっていたのである。そして、らい予防法に依れば、隔離は強制的であり、入所規定のみがあって退所規定がなく、軽快退所は例外的であって、原則として死ぬまで療養所に隔離することがめざされていた。療養所に宗教地区があり、納骨堂が設置されたのはその間の事情を物語るものである。

この戦中日記を、60年という歳月を経た上で読み直すと、未だ充分に論議されているとは言い難い様々な問題が伏在していることに気づく。

そのひとつは、前に述べたように、「健常者」と「患者」との間の極端な院内隔離と、強制収容・断種という当時の「救癩」政策の根本原則に対して、神谷が全く批判的な視点を持っていないと云うこと、そして、毎日、患者の遺体が次々と荼毘に付されるという異常なまでの患者死亡率の高さについても、それを強制収容のもとでの患者作業の過酷さと結びつける視点を全く欠いていると云うことである。それに対して、神谷の「戦中日記」を貫く基本的なトーンは、所長の光田健輔にたいする彼女のほとんど絶対的と言っても良いほどの信頼・帰依の感情である。日記の中には、遺体解剖に立ち会ったときの記述のような、医療の客体としての患者に対する記述ばかりがめだち、主体として語るのは療養所の医師達ばかりである。そして光田やその門下生がいかに賞賛すべき医師達であったかという記述に満ちあふれている。

ところで、この戦中日記が公開されたのは昭和18年当時ではなく、それから20年も経過した後である。このように、わざわざ20年後に昔の記録を出版することになった事情については、神谷自身が理由を述べているが、要するに、戦争中の愛生園の状況、とくにそこで勤務していた医師達がいかに献身的で素晴らしい人物であったかと言うことを伝えたいという意図があったということであろう。

20年の歳月、そのあいだには、患者自身による「らい予防法」に抗する闘いがあり、戦前と戦後人権無視の政策に対する抗議と共に、光田健輔とその門下の医師達の「救癩」政策に対する批判が行われるようになったが、そういう人権の問題に対する神谷自身の考え方は怖ろしく冷ややかである。たとえば彼女は次のように云う。
過去に於いて強制的に隔離されたという意識は、患者の多くのもののなかに、社会及び政府当局に対する深い恨みの一念を植えつけたようにみえる。これに対する代償として終生、医療と生活保護を受ける権利があるとの主張がここから生まれている。この特権意識は、時折強い個人攻撃性や特定の要求を主張するための手段的デモの形であらわれた」(神谷の論文「日本に於けるらい患者の精神症状」)
この文にあらわれている認識は、神谷のみならず、療養所の医師の多くに共有されていたものであり、戦前戦後のみならず敗戦後になっても持ち越された「光田イズム」の信奉者達には特に顕著なものであった。強制的な終生隔離の推進者であり、戦後になってもその態度を改めようとしなかった光田は「日本のシュバイツアー」として文化勲章を受章したが、戦後のらい予防法の改正を求める患者自身の人権闘争の挫折の後という時点で、神谷が、このような文章を公表したことに対する社会的責任は免れないであろう。

 こういう私の意見に対して、「それは現在の価値観をもって過去を断罪することだ」という批判が寄せられるかも知れない。なによりも神谷自身がそういう意見の持ち主であった。彼女は次のように云う。
戦後、サルフォン剤でらいが治るようになってみると、患者さんを強制的に隔離収容するという政策がにわかに非人道的なものに見えてきた。光田先生が主張された方針が、園内からも外国からも非難されるようになった。いったい、人間のだれが、時代的・社会的背景から来る制約を免れ得るであろうか。何をするにあたっても、それは初めから覚悟しておくべきなのであろう。私はむしろ、歴史的制約の中で、あれだけの仕事をされ、あれだけのすぐれた弟子達を育てた光田先生という巨大な存在に驚く。研究と診療と行政と。あらゆる面に超人的な努力を傾けた先生は、知恵と慈悲とを一身に結晶させたような人物であった。先生との出会いは、生涯消えることのない刻印を、多くの人の心に刻みつけたのだと思う」(神谷美恵子著作集2 「人間を見つめて」より「光田健輔の横顔」)
神谷自身の個人的な感慨は別として、光田イズムの信奉者達が定年で療養所の所長を辞めた後で、入所者の人権回復が軌道に乗ったというのが歴史的事実である。

全国ハンセン病患者協議会元事務局長の鈴木禎一さんの近著「ハンセン病ー人間回復へのたたかいー神谷美恵子氏の認識について」(岩波出版サービスセンター 2003)は、このような神谷美恵子の考え方を含めて、光田イズムを、強制収容された入所者の視点から批判したものであるが、それは、基本的には、松本馨さんの「らい予防法に抗する闘い」と同じく、安直な歴史的な相対主義にたつことなく、戦前戦後の日本の「救癩」政策の主流を形成してきた「光田イズム」に対する根源的な批判である。私は鈴木さんの本から、多くのことを教えられた。強制収容された当事者自身から為された、このような批判を踏まえて、今一度、神谷美恵子の思想と実践を、再検討することが必要であろう。たんにハンセン病の問題だけでなく、神谷自身の精神医療に対する考え方、さらに一般的にはごく最近まで日本の精神医療に存在していた人権抑圧の問題点に対しても、同時に検討しなければなるまい。
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無教会の神学について

2005-08-25 |  宗教 Religion
 内村鑑三とその周辺の人々を無教会主義キリスト教の第一世代、塚本虎二、三谷隆正、矢内原忠雄等の諸氏を第二世代、関根正雄、高橋三郎、量義治等の諸氏を第三世代と、仮に言うことが出来るとすれば、現在は第四世代ということになるだろう。まえにこのブログで言及した松本馨さんは、そういう分類でいうならば第三世代に属する。つまり、時代で言えば、戦中戦後の試練の時を生き抜き、敗戦による日本人の価値観の転換を経験した世代である。

ところで、先月、京都の学会で無教会運動の第4世代のひとにお目にかかった。関根正雄先生の弟子であったということだったが、現在は、無教会に飽きたらぬものを感じていると言われた。そして、「無教会運動」は、すでにその歴史的使命を果たしたと言われ、私が「無教会」を過大に評価しすぎであると驚かれていた。

 私の無教会に対する関心は、関根正雄先生と量義治氏によるものである。とくに量義治氏の「無教会的神学の構想」「存在のアナロギアと信仰のアナロギア」という二つの論文には大いに触発された。

 量義治氏は、無教会的神学の重要性を強調して次のように言う。
関根正雄先生は無教会の真理性を確信されていたがゆえに、その伝道のはじめから自己批判としての無教会批判を敢行してこられた。たとえば、無教会は『見ゆる教会』を軽視してはならない、と言われる。あるいは無教会に於ける師弟関係の問題性を指摘される。また、あるいは内村鑑三を相対化する視座の必要性を説かれる。(中略)先生はこうのべておられる。『バルトが神学なき教会は自己批判を怠る結果、晩かれ早かれ異教的となると言った言葉を無教会主義は、他山の石として深く考えなければならない』と。先生のもろもろの無教会批判のなかでの根本的批判は、無教会に於ける神学無用論に対する批判ではなかろうか
量義治氏は、このように無教会主義のキリスト教に於ける神学の必要性を強調している。量義治氏が、念頭においているキリスト教神学は、ローマン・カトリックを代表するものとして、トマス・アキナスの神学大全、プロテスタントを代表するものとして、カール・バルトの教会教義学である。この二つの神学に対して、無教会主義キリスト教は、如何なるキリスト教的思惟をもって自己自身を理解し、そして自己を批判する原理となしうるか。

 この問題提起は、私自身のものでもある。「存在のアナロギア」(トマス)と「信仰のアナロギア」についての量氏の論考については、近い将来にコメントしたいが、無教会は、プロテスタント神学の伝統だけを念頭におくのではなく、「二千年のキリスト教の教会史に無教会はどのように接続するのか(高橋三郎)」という歴史意識にもとづいて、無教会の現在を神学的に思索しなければならぬだろう。

 私の基本的立脚点は、「無教会こそ真のカトリック(普遍の教会)」というものである。従来の無教会にたいする既成教会の位置づけは、無教会は終末論や再臨信仰に根ざす、日本の「特殊な」プロテスタント・キリスト教の一形態であるというものであった。これに対して、私は、無教会の特殊性ではなく、その「普遍性」を強調する。そして、この最も普遍的なるものの視点から、個人の信仰の実存の問題を捉えることをキリスト教的思惟の核心にあるものと考える。すなわち、国家とか民族とか教会とか階級とかいうごとき特殊なる「種」や「類」を越える普遍の教会こそ、そなわち「無教会」こそが、「真の普遍の教会」である。それと同時に、その「普遍の教会」は、形あるすべての教会を否定することによって、真に生かすものとなるべきこと、即ち教会を恒に新しく刷新する原理とならねばならない。

 無教会の「無」は、相対的な否定の立場ではなく、絶対否定の立場、有を否定する相対的無ではなく、絶対無である。「無」とは如何なる意味でも対象化し得ぬ普遍であり、かかるものの自己限定として我々の個が存在する。「絶対無」こそが、世界内存在にも、国家的存在にも解消されぬキリスト教的な個的実存、すなわち「人格(ペルソナ)」の成立する場所にほかならない。

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キリスト者と靖国神社

2005-08-24 |  宗教 Religion
自由民主党が憲法改正案なるものを公表したその日に、「諸君」第9月号に、曽野綾子氏が、「一人の国民として、一人のキリスト者として、靖国に参ります」という文を寄稿していたことを、私は、朝日新聞紙上の広告で知った。

 ちなみに、この九月号は、「8・15歴史の分岐点に立って」という特集号である。 また、「正論」の9月号にも又、富岡幸一郎氏が、「キリスト信徒の靖国体験」という一文を寄稿しているという話も側聞した。私は普通は「諸君」とか「正論」のごとき雑誌は読まないのであるが、曽野綾子氏や富岡幸一郎氏が、それぞれ何を述べられているのか気になったので、書店にてこの二つの雑誌を購入した次第であった。

  まず、両方の雑誌の目次を見て驚いた。これは、あたかも「日本人はみんな靖国神社に参拝しましょう」といった「靖国応援団」のエールばかりが谺する編集内容であることが一目瞭然であった。総理の靖国神社参拝を批判する論文などは全く掲載されていない。 たとえば、曽野綾子氏の論文の前は、「陛下、後参拝を・・!」という石原慎太郎と佐々淳行との対話であり、以下、派手派手しい内容空疎な政治的デマゴギーの連続である。

こういう雑誌に寄稿するキリスト者というもののいかがわしさ、というものを曽野綾子氏も富岡幸一郎氏もさほど気にしてはいないようだ。それどころか、とくに曽野氏の場合はむしろ確信犯的に政治的キャンペーンにコミットしているように思われた。

曽野綾子氏は、嘗て「諸君」に「ある神話の背景」というドキュメンタリーを連載したが、それは、日本軍による沖縄住民の集団自決命令ということには根拠がないということを立証しようとするものであった。昭和46年―47年の頃の執筆である。このかなり昔の曽野氏の文書が、どうやら今年になって亡霊の如く再登場したらしい。 

 今月の「正論」のなかで、ある戦後生まれの弁護士が「沖縄戦・集団自決は軍が命じたというウソ」という論文を寄稿していたが、彼は、「靖国応援団」の一員として大江健三郎氏と岩波書店を旧日本軍に対する名誉毀損で大阪地裁に訴え出たとのことであった。そして、名誉毀損と考える論拠として彼は、曽野綾子氏の昔書かれた「ある神話の背景」を挙げていたのである。このように、今月の「諸君」や「正論」の形成しているイデオロギー軍団の執筆者達の間では、曽野綾子氏は、「靖国応援団」の有力な一員として数えられているようである。

「一キリスト者として靖国に参ります」という見出しは、私には、本人ではなく編集者が勝手に付けたものかも知れぬとも思われたので、本文も良く精読させて頂いたが、やはりその内容は、表題通りのものであった。 では、曽野氏が靖国神社を参拝する理由は何であるのか。彼女は次のように言う。
私(曽野綾子)は今年8月15日には、夫と二人だけで靖国に参る。カトリック教徒が靖国に参るのか、とまた非難するひとがいるが、私は「その人が望むことはできることなら叶えてあげなさい」と修道院の付属学校で、イギリス人やドイツ人の修道女先生から教えられたのである。この言葉の背後を支える思想は、聖パウロの書簡に記されている。国家のために命を捧げた人々に感謝を忘れた国家は必ず衰退する。国家などなくても人はやっていける、という人がいるがそれは間違いだ。国家なしで生きている人々など、私が歩いた世界の百二十カ国ほどのどこにも私は見たことがない。愛国心なしでは生きて行けないのだ。これが国家といえるのか、というほどの汚職と貧困に喘いでいる國でも、人々は愛国心を持っている。何時も言っていることだが、愛国心というのは、高級な信条ではないのである。その人が生きていくために必要な鍋釜なみの必需品なのである。
 「一キリスト者として靖国に参ります」という曽野綾子氏が主張していることはこの文に尽きるのである。

 子供の時に自分にキリスト教を教えた外国人の修道女が、靖国に参拝することに反対しません、といったこと、つまりその時代に彼女が受けた宗教教育を、現在でも、後生大事に守っているという以上の理由を曽野氏は語っていないのである。

 「修道院の付属学校で、イギリス人やドイツ人の修道女先生から教えられた」とあるが、そういう文脈からすると、「その人が望むこと」というのは、戦前の時代、日本のカトリック教会が、信徒の靖国神社参拝を認めたことを指している。つまり「その人」とは、愛国心に溢れる日本人であろう。そういう日本人の愛国者が「お国のために戦死した人を追悼したい」という意志を持っているならば、外国人である神父やシスター達はそれを禁止しないということであったのだろう。

 第二次大戦という異常なる時期においては、キリスト者にも又、靖国神社参拝が義務づけられたことは周知の事実である。既成の教会は、その大部分が、カトリック・プロテスタントを問わず、神父も牧師も靖国神社に参拝しなければならなかった。そうしなければ、外国人の神父は国外追放されたであろう。キリスト教のような「外来の宗教」の場合、またフランスやカナダの神父や修道士は敵性国家の聖職者であったわけだから、教会の存続のためには、そのような政治的妥協が必要とされたのである。しかし、そういう異常な時代に発せられた外国人の修道女の言葉を、曽野綾子氏が引用しているというアナクロニズムは注意すべきである。

 しかし、戦前のような軍国主義の時代にあっても、真に普遍的な信仰を持つものならば(カトリックとは「普遍の教会」というのが原義である)、日本という特殊な国家の神格化、外国を侵略して聊かも罪の意識を感じない帝国主義のイデオロギーを美化した「現人神」崇拝、こういう制度の中に潜む「疑似宗教性」をただちに見抜いたはずである。

信者の生活と生命を守るために妥協することはやむを得ない場合があったであろうが、たとえそのような妥協をしたとしても、キリスト者が、みづからすすんで「靖国神社に参拝すべきである」というキャンペーンに加わるとすれば、それは「普遍の教会」にもとる大いなる愚行である。

 「この言葉の背後を支える思想は、聖パウロの書簡に記されている」と曽野綾子氏は言うが、これもパウロ書簡の曲解である。たとえば、ロマ書13・1をみると、その日本語訳を読む限り、為政者に政治的な反抗することを戒めているように解釈されるかも知れない。しかし、それは、為政者がキリスト教の根幹にかかわること否定しない限り、という限定付きで解釈すべきものである。このパウロ書簡は、為政者に迎合するキリスト者によって良く引用されるものであるが、それが不適切な讀解に依拠するものであることを指摘することは、無駄ではあるまい。

 そこで引用されたロマ書13-1のギリシャ語原典ou gar estin exousia ei mh upo qeou, ai de ousai upo qeou tetagmenai eisin は、「神の下にあるのでなければ、それは権威ではなく、実に神の下にある権威こそ決定を下すものなのです」と読まなければならない。

  「国家のために命を捧げた人々に感謝を忘れた国家は必ず衰退する」と曽野氏は言うが、むしろ、盲目的な愛国心こそが国家を滅ぼすのである。

 靖国神社というものが、明治時代になって、近代国家として出発した日本が人工的に制作した国家宗教であるという歴史的事実を我々は直視しなければならない。それは、日本人の大地に根ざした宗教性とは区別されるべきものである。

 北朝鮮に於ける金日成崇拝と同じく、近代化の途上において、民族国家を一つに纏め、軍国主義を貫徹するために必要とした偶像が戦前の天皇制であり、天皇のために死んだ死者を慰霊し顕彰することが、靖国神社の果たした政治的・疑似宗教的役割であったのである。
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キリスト者と靖国神社その2

2005-08-23 |  宗教 Religion
曽野綾子氏が「諸君」の九月号に「一人の国民として、一人のキリスト者として足す国に参ります」という発言と呼応するかのように、「正論」の9月号に、富岡幸一郎氏の「キリスト信徒の靖国体験」が掲載されていた。曽野氏が、日本の戦前の愛国教育を受けた世代のカトリック信徒であるのに対して、富岡氏は戦後世代のプロテスタントの信徒とのことである。富岡氏は、今年6月にはじめて靖国神社に参拝し、次のような感想を述べている。
私(富岡)は三十歳を過ぎて、プロテスタントの教会で洗礼を受けたキリスト者である。靖国神社を、自らが信仰する神を礼拝する場所だとは思っていない。しかし、二拜二拍手一拜という神社の参拝の仕方を、とくに拒む者ではない。それは形式的だと非難されるかも知れないが、たとえば教会で行われる結婚式や葬儀に参列して、自分はキリスト教徒ではないから讃美歌は歌わない、といったらどうであろう。いや、浮世の義理でノンクリスチャンの人が教会に行くことはあっても、お前はキリスト者のくせに何を好きこのんで、今、問題となっている靖国神社などへ行くのか、と問われるかも知れない。答えは明瞭である。戦争で命を落とした多くの日本人があったことを改めて覚え、静かに鎮魂するためである。例年そうしているわけではなく、戦後六十年の歳に、戦争を知らぬ世代として実際に一度参拝してみたかったからである。(中略)参拝をし、遊就館を見て、私は靖国神社に来て良かったと思った。靖国は、近代国民国家となって没した人々を追悼する場所であり、それは宗派を越えて参拝できるところだと思う。靖国神社は「政教分離」の原則に反するとの見解が、キリスト者からも出されているが、それは國のために生命を捧げた人々を祭るための、国家儀式の施設であると考えるのが筋道であろう。(中略)マルクス主義がそうであったように、無宗教こそ最悪の宗教であると私(富岡氏)は考えるが、神を信じることは非理性的であると感じているらしい、現代の多くの日本人のみならず、神を信じている少数のクリスチャンの人々とも、靖国問題を真剣に語り合わなければならないと思っている。
一読して、靖国問題に関する富岡氏の、あたりさわりのない一般論から、突如として、「靖国は宗教施設ではない」かのような結論を出す、あまりのナイーブさ、もしくは歴史を無視した議論の運びに驚いた。

  戦前のキリスト教とがこぞって靖国神社に参拝したときの自己正当化の論理こそ、まさに「靖国神社は超宗派的な国家的儀礼の施設である」というものであった。その論理は、キリスト教のみならず仏教の諸宗派も共に、「日本教」ともいうべき明治以降に成立した国家的宗教の中に統合することを正当化したのである。つまり靖国参拝は、「日本教」に帰依するかどうかの一種の「踏み絵」の如き役割を果たしたということは、日本の戦時中のキリスト教の歴史の教えるところである。

  「靖国神社に一度行ってみたかった」とのことであるが、見学はしても参拝などはされるべきでなかったろう。「遊就館」を見学して何に感銘を受けたのか。そこでは、日本の戦争を正当化する趣旨の展示と、戦争映画が上映され、大陸侵略を罪とは考えない国家的エゴイズムが礼賛されている。

富岡氏については、私はこれまでどのような人であるか全く知らなかったが、昨年度、無教会主義キリスト教に縁の深い今井館で、「バルトのロマ書」に関する講義を行った人であると側聞して非常に驚いた。しかも、氏は、内村鑑三に関する著作もあるということ。

 一体、富岡氏は、あのバルトのロマ書に明瞭に現れている「宗教の絶対否定」をどのように読まれたのであろうか。バルトこそは、ドイツの国家主義・民族主義に妥協したキリスト教会に対して、ラジカルな「否」を突きつけた神学者であるが、それは宗教という美名を持つ全体主義の絶対否定に基づく者であった。靖国神社は、英霊を祭り、招魂の儀式を行うまぎれもない宗教施設である。富岡氏は、宗教的なるものが、どれほど華麗な儀式をおこなおうとも、所詮は「肉の秩序」に属するものであるというバルトの宗教批判をどのように読んだのであろうか。

あるいは、内村鑑三の教育勅語礼拝拒否という行動を、富岡氏はどのように評価されるのであろうか。公立学校にご真影を飾り、教育勅語に礼拝すると言うことは、国家によって強制された宗教儀礼であり、内村がその礼拝に従わなかったために非国民と呼ばれ、職を失い、家族共々手酷い迫害を受けたという歴史的事実をどう思われるのか。卒業式で国旗や国歌に敬意を表しないと云うだけで処罰されるごとき偏狭なる「愛国」心が教育の現場で復活しつつある現在、内村にゆかりのある今井館で、バルトのロマ書を「講義」されたという富岡氏の弁明を聞きたいものである。
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