歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

相対的信仰について-旅人さんとの対話

2005-12-30 |  文学 Literature
旅人さん:
>27日に書かれた「絶対他力の信仰について」の中に、「相対的な信仰を絶対否定することによって恵まれた信仰」という件がありますが、「相対的な」信仰を持っている人自らそれを「絶対否定」することはできないのではないでしょうか。その信仰が、神によって否定されたことに気づくのだと思います。問題は、否定されただけでは、絶望に陥ると思います。自分の罪が赦されていることも同時に知らされることで、自らの救いを確認できるのではないでしょうか。
これは、旅人さんが「信仰の弛緩」ということを仰った文脈ですね。つまり、いわゆる他力本願(あなたまかせ)では、「信仰が弛緩する」ということを言われた、そのことに対して私の考えを述べた文脈でした。「弛緩したり強められたりする」のは、あくまでも「我々の側の主観的信仰」であって、それの根源にある「十字架上のキリストの信仰」はそうではないということが私の趣旨でした。確かに、絶対否定は自力ではあり得ません。

十字架の信仰では、自己と疎遠なる他者、外部の超越者を信じているのではなく、「キリストとともに私が死に、キリストと共に私が復活する」ということ、つまり死・復活が不可分のものとして経験されます。死が先行しなければ復活はあり得ません。絶対否定が絶対肯定に先行するのは、死がなければ、復活があり得ないと言うことと類比的です。

これまで自分が信仰と思っていたものが絶対否定されたからといって、その結果、絶望に陥るなどと言うことは決して無いでしょう。全く逆に、その死の直中から、再び生きる力を与えられるものであると思います。

旅人さん:
>また、「相対的信仰」なるものは、「絶対的信仰」の前で、何の価値もないものなのでしょうか。私には、たとえ「相対的」なものであっても、「信仰」は実は神様から与えられたものなのだと覚ることにより、大きな喜びが与えられるのではなかろうかと思っています。
「大きな喜び」については私もそう思います。信仰だと自分が思っていたものが、我も人も苦しめる律法と化してしまったら、それは實は十字架の信仰ではなかったということーこれが松本さんの言われていたことでした。いかにささやかなものであっても、信仰・希望・愛の三つの対神徳は、功利主義や世間的な道徳によっては得られない喜びを与えるものと思います。

旅人さん:
>「小さき声」20号には、
> 『神は命の言をきく耳だけを私に残したのです。私はこれをよろこんでよいのか、かなしんでよいのかわかりません。なぜなら魂は死ぬほど神をしたったためにその結果、罪をおかすことになったからであります。「まずいときに死んだ」は、私の熱心が云わせた言葉であります。神を知らなかったら、口はかかる罪をおかさなかったでありましょう。また、魂は飢えがかわくことなく、狼のようにむさぼることをしなかたでしょう。神の言は、食えば食うほど、それに応じて空腹は一層はげしくなり、私は魂の飢餓を満たすためには、隣人を捨て、友人を食い物にし、愛するものを死に渡すことさえ辞さないでしょう。世界をほろびにわたすことも、あえて辞さなかったでしょう。』
> と書かれていますが、幸か不幸か、私は神の言に対して、これほどの飢餓を感じたことはありません。このような思いは、ハンセン病で視力を失い、更には皮膚の感覚さえも奪われていく人になら分るものなのでしょうか。
聖書を読まなければ生きていくことが出来なかった、とは松本さん自身の言葉です。すべてを犠牲にしてただ聖書を読み続け、聖句を暗誦することによって、ただ信仰のみによって生きていこうとされた松本さんの生活を伺わせます。

しかし、そういう生活に於いて、真実の信仰というものが働いていたのだろうか、という反省を松本さんは繰り返しています。いうなれば、これまで自分がもっとも後生大事に抱えてきたものを手放すという経験、自分が信仰だと思っていたものを、徹底して「無信仰」と自覚させるような決定的な経験を松本さんがされた。それこそが、松本さんが、真に十字架の信仰に恵まれたという経験に他ならなかったのでしょう。「小さき声」に書かれているのは、そういう極限的な状況に於ける言葉です。しかし、私は、そこにあらわれているものが、決して、特殊で異常な例外的な事態なのだとは思いません。我々の内にあっては、日常性の直中にあって気づかれない信仰の真実を松本さんが体験され、それを御自身の言葉で述べられた、その故に、それが私自身の事柄を照射する言葉にもなり得たのであると思います。

旅人さん:
>いずれにしろ、ここでは松本さんは自己本位になった熱心な信仰の恐ろしさを描いていると思います。そして、ここでは、自分の信仰が「絶対化」されてしまっていることが問題なのであり、それを否定・相対化される必要があったのだと思いますがいかがでしょうか。
仰る通りです。自己の相対化ということこそ、真の「絶対」を自覚しなければあり得ぬことですから。絶対的信仰というのは、相対的信仰に「対立」して、それを最終的に無価値にするようなものではなく、結局はそれを新に活かし完成させるものであると思います。

「恵み(絶対)は自然本性(相対)を破棄せずに、却ってこれを完成させる」というのが、トマス・アキナスに代表されるカトリック信仰の基本です。

無教会キリスト者の量義治さんは、これを更に一歩進めて

「恵み(絶対)は自然本性(相対)を破棄することによって、却ってこれを完成させる」といいました。

どちらが適切であるかは即断できませんが、私は、量義治さんの言葉の方が、「十字架の信仰」を良く表していると思います。

キリスト教というのは(そして原始仏教についてもそう思いますが)いわゆる宗教的なるものの否定という契機をもつと考えています。決して、相対的な信仰が連続的に深まり展開・発展して、十字架の信仰になるとは思えません。そこには翻りということ、ものの見方の大いなる転換があります。
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絶対他力の信仰について

2005-12-27 |  文学 Literature
旅人さんから、つぎのような質問をいただきましたので、お答えします。
> 『松本さんが聴いた関根正雄の講義では、「神の義が講じられイエスの十字架がさし示めされ信仰がもとめられるかわりに、信仰がとりさられることが求められた」。その講義には多くの人が躓いたが、松本さんにとっては、それこそが救いをもたらすものであったという逆説的な、しかし厳然たる事実が語られている。』と言われていますが、このような松本さんの信仰体験は、どのように受け止めるべきなのでしょうか。解る人にだけ解ってもらえば良いというものではないような気がします。
私も又、旅人さんと同じく、「解る人にだけ解ってもらえば良いというものではない」と考えています。関根正雄は「無信仰の信仰」とか「絶望的信頼」という言葉を使って、「預言と福音」という伝道誌で十字架の信仰を語りました。それは当初、無教会の多くの信徒にとってさえ、あまりに逆説的であって、理解しがたいものであったようです。

しかし、文字を通してではなく、直接に、関根正雄の口からそれを聴かされたときに、松本さんは、自分自身のことが語られていると直観され、その言葉が二回目の回心をもたらした。松本さんは関根正雄ではないにもかかわらず、その言葉は、松本さんの経験の奥底までも照射した。同じ事は、すべての人にも言えないでしょうか。関根正雄でも松本馨でもない俗物にすぎぬ私の如きものですら、そこには自己自身の経験に通底することが書かれていると直接に感じます。

信仰というのは、決して「私の信仰」というように私物化し得ぬものであり、「頂くもの」、「恩寵によるもの」である、ということは、アウグスチヌスやトマスの時代から強調されていたことですし、キリスト教以外でも、「信心は阿弥陀様から賜るもの」というように、浄土真宗の他力の信心の根本にある教えです。ですから、言葉に出して云うならば、それ自身は「新しい教え」ではありません。

しかし、それを各人が如実に経験するかどうかは別です。松本さんの場合は、その永遠不変の真実が、彼自身の特殊な境涯を通じて血肉化して、彼自身のうちにおいて、具体的に生起しました。私達が驚嘆するのはそういう信仰の事実です。

信仰の事実が、全く新しき事柄として生起する。永遠なものは常に新しい。それをもし言葉で表現する事が許されるとするならば、自己が信仰を持つのではなく、信仰が自己を突破して、新しき自己となり、その自己に於いて働く経験とでもいいましょうか。松本さんが書き残された文書には、そういう普遍的な事柄が語られていると思いました。

旅人さんは「受動的信仰」と言うことを云われましたが、私は、ここでいう信仰は「受動と能動」「他力と自力」という二元的な区分が生じる以前の経験の根源に遡る出来事と理解しています。能動と区別された受動は、相対的な受動です。徹底した受動ではない。受動に徹底するとき、それはもはや、相対的な受動ではなくて、一切の能動的なものがそこから生まれる根源となる。浄土真宗で云う「他力本願」とは、決して我々が理解するような他力本願ではないでしょう。自己と区別された他者に依存するということではなく、自己の能動性の根源にあるものに生かされるという経験です。キリスト教的ないい方をすれば、絶対的な他者であった神が、「私自身よりも私に近い」存在として実感されます。

旅人さん:
> しかし、この受動的信仰は、非常な危機を孕んでいると思います。つまり、信仰の弛緩という危機ですが、松本さんには、そのような危機が現実化することはなかったようですね。
旅人さんが「非常な危機」ということで何を意味しておられるのかは、良く分かりませんでしたが、「弛緩」するような信仰は、私の理解するところでは、相対的な信仰です。松本さんが、十字架のイエスの信仰によって語るものは、そういう「我々の側でいうところの信仰」ではない。その信仰は、「弛緩したり強められたりする」ようなものではなく、そういう相対的なものを絶対否定する十字架の信仰です。

ただし、浄土真宗で云う「本願ぼこり」のようなもの、すなわち自己の如何なる行為も、それが「他力」であるがゆえに責任を負う必要がなく、如何なる悪を為しても救済が保証されるはずだという思想があります。こういう思想が、どれほど異端的なものであっても、「他力の信仰」から出てくるのではないかという批判がある。これも、絶対他力の信仰に対して「危機的」な問題として提出されることがあります。これについては、信仰と社会的な倫理との関係を問う問題として、さらに引き続き考察をする必要があるでしょう。

旅人さん
>松本さんの自治会再建への取り組みは、自分の属する集団の中で十字架を負うということではなかろうかとも思いますが、いかがでしょうか。
政治というものは、本質的に相対的な事柄の中で動きます。これに対して、「十字架を負う」ということは、事柄の根源に遡って、ラジカルに発言して行動することを求めます。

この両者は明白に緊張関係に立つので、松本さんの自治会活動の労苦も又、そこにあったわけですが、松本さんは、入所者の生活条件の改善を目指す相対的な善の実現に奔走すると同時に、隔離政策という根源的な悪を悪として摘発することを忘れなかった。そういう場合は、預言者的な仕方で、園内の自治活動に携わり、そのために、自治会の他のメンバーのあいだに縷々、緊張関係を生じました。しかし、松本さんと対立し、自治会から手を引かせた人の中にも、後になってみると、「結局、あのとき松本さんが云っていたことが正しかった」と回想する方がいます。

松本さんの政治的活動は、彼のキリスト教信仰と不可分であって、そこには聖書的預言者的な実存があります。それを具体的に知るためには、彼の自治会活動の記録を辿りながら、多磨誌にかかれた評論をあわせて読む必要があると思っています。
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自由の問題

2005-12-23 |  文学 Literature
松本さんが「小さき声」を発刊し始める頃に退所された野上寛次さんは、講演会の席で「松本馨さんは元来、政治的な人ではなかった」と云われたが、たしかに、1965年頃までの松本さんが書かれたものは、死別した妻のこと、失明の経験、そして、自己の信仰にかかわる事柄が中心となっている。関根正雄の無教会主義の信仰に触れ、教会的な信仰から、無教会の立場へとラジカルな回心を遂げられ、個人的な伝道の書「小さき声」を刊行することを始めてから約5年くらい経過してから、療養所の自治会再建のために向けられた松本さんの活動が始まる。それは文字通り「世俗の中の福音」の実践であり、無教会のキリスト教思想が、松本さんという一人の人格の中に血肉化していく。もともと「政治的な人間」ではなかった松本さんが、自治会の再建を呼びかけ、入所者の直面している生活上の具体的諸問題ーそれは結局の所、政治と切り離せない-に深く関わりを持っていく経緯を追っていくことにしたい。

松本さんの「多磨」誌への寄稿のなかから、自由を奪うもの(1967年4月)という評論をWEB復刻した。これは、隔離医療から解放医療へとむかう混乱期のなかで自治会が解散された頃に書かれたものであるが、キリスト教的な主題であると共に、入所者の生活と直結した政治上の問題でもある「自由」について論じたものである。

冒頭、松本さんは、バビロンの捕囚から解放されたユダヤ人の心情を吐露した旧約聖書の言葉を引用する。
「あなたがたの神は言われる。「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」
松本さんにとって、囚われ人に解放を告げるこの聖句が、そのまま、敗戦直後の日本へのメッセージとなる。米国も又、広島長崎への原爆投下という大量殺戮を犯した戦争犯罪の責任は決して免れるものではないが、米国の日本に果たした歴史的役割は、嘗て、キュロス王がユダヤ民族に果たした役割と類比的であって、結果的には、迫害され抑圧されたものに解放の福音をあたえることととなった。治癩薬がもたらされ、選挙権と人権を保障する憲法が制定されたことによって、療養所に隔離されたものに自由への希望が生まれた。しかしながら、閉鎖的な隔離医療から、解放医療への転換にともなう混乱状況の中で、療養者の「自由」を妨げているものが厳然としてある。それは何であるのか、というのが松本さんの問である。

このエッセイには、隔離政策を推進した光田健輔への松本さんの批判が述べられている。医師としての彼の業績、献身を松本さんは決して否定するわけではない。しかしながら、解放医療の思想に反対して光田の復権を叫ぶ一部の声に対して、松本さんは次のように明言する。
「彼のあやまちを指摘することは監房で首を縊って死んだものや、監督の下でうらみをのんで世を去っていった先輩に対して、残っている私たちの義務でもある。自由の行き過ぎと、光田の隔離政策を礼讃する反動的な人たちの動きに対して、私たちは警戒し、自由を守らねばならない」
文中に、シュワイツアーの名前が出てくるのは、おそらく、光田を「シュワイツアー以上の偉人」として顕彰した内田守のことを念頭においているのであろう。

また、閉鎖された嘗ての自治会のあり方に対しても松本さんは手厳しい批判の言葉を述べている。自治会活動が、かならずしも療養者の爲を思って為されたわけではなかったということを率直に認めて、その原因を徹底して明らかにした上で、見せかけの開放感に浸ることなく、療養者の真の自由がどのようにして得られるかを問いつつ、
青空は一時的なもので、台風の目の中なのである。こうした中で、われわれは、自由を奪うものは誰か、自己に問い続け、その答えを求めなければならない。
という言葉でこのエッセイは締めくくられている。
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聖書の霊魂観

2005-12-22 |  文学 Literature
内村鑑三は、「聖書の研究」のなかで、霊魂の不滅という教義は、聖書に於いて決して主張されていないという事実を指摘して、次のように云っています。(このテキストは、旅人さんのサイト晴読雨読で読むことができます)
霊魂は、元来不死のものであるかどうか、これは基督教が論じる所ではない。基督教は、ただ罪を犯した霊魂が死んだものであることを伝える。彼がもし元来不死の者であったとしても、彼は罪を犯したことにより死んだ者である。彼がもし生まれながらにして不朽の性を具(そな)えていない者であるとしても、彼は罪を避けることによって不死の者となる特権を有する者である。問題は、滅、不滅の問題ではない。滅びようと思うか、滅びないようにしたいと思うかの問題である。本然性の問題ではない。可能性の問題である。基督教が哲学と異なる点はここにある。哲学が人を究めようとするのに対して、基督教は人を救おうとする。哲学者にとっては研究の材料である人類は、基督教にとっては、「憐憫の器」(ローマ人への手紙§9:23より)であるのである。基督教は、更に伝えて言う。不朽は、ただイエス・キリストにおいてだけあると。「唯ひとり不死を保つ者(Iテモテ§6:16)」と。また、「御子を持つ者は生命を持ち、神の子を持たぬ者は生命を持たず(Iヨハネ§5:12)」と。また、「イエス言ひ給ふ、『我は復活なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん』(ヨハネ傳§11:25)」と。(「聖書の研究」明治43年(1910年)9月10日号より)
現代の聖書學では、聖書にギリシャ的な霊魂不死の思想がないことは常識であるといっても良いが、そうであるからといって、聖書は「霊魂」の存在を否定したり、「不死」を否定したりするわけではありません。それどころか、「霊魂」への配慮を以て生きること、「永遠の生命」に生かされる事こそ聖書の核心の教えです。聖書は「身を殺して魂を殺し得ぬもの」を恐れるに足らぬものとし、「不滅」すなわち「永遠の生命」に生きることこそ人間にとってもっとも大切なことと教えています。

したがって、ギリシャ的な霊魂不死説(それは、輪廻転生する実体的霊魂を信じる諸宗教にも共通する教えです)との本質的な相違を明確にしておかねばなりません。

まず、聖書は、霊と肉を二つの異なる実体として理解することはないことに注意したい。たとえば、旧約聖書では、生きた人間を指し示すのに「魂」(nephes)と「肉」(basar)という言葉を区別せずに用いる場合が多い。すべての肉(kor-basar)=すべての魂(kor-hannephes) であって、どちらも生きた人間の全体を指し示します。新約聖書のギリシャ語でも同様に、肉によって歩く(ロマ8・4)=人間のように歩く(1コリ3・3)、あなたがたは肉的ではないか=あなたがたは人間ではないか、という言い換えが可能です。

つまり、「肉」とは神ならざる人間のもつ本質的な脆さを示す言葉であって、身体だけでなく、精神的なものも含むと云うことがポイントです。

そういう脆さを秘めた人間存在が、聖霊によって真に生かされるときに、「霊によって再び生まれる」といういい方が出てきます。新約聖書では基本的に「魂(心)=プシュケー」と「霊=プネウマ」とは用法の上で区別されています。

そして、「霊的(spiritual)なあり方」と「肉的(carnal)なあり方」という聖書的な区別は、決して、「霊」と「肉」という対立する「存在」を前提しているわけではありません。「存在」という言葉を、もし「もの・実体」という意味にとるならば、それは聖書のメッセージの持つダイナミックな「出来事」としての性格を表すことが出来ないからです。霊と肉を異なる「実体」とする見方は、聖霊を受けて我々のあり方が一新されるという根源的な経験、神と人とが、あるいは人と人とが、「もの」や人格としては異なる存在であるにもかかわらず、「働き」において一つとなることを表現することができなくなるでしょうから。

これに対して、「存在」という言葉を、名詞ではなく、動詞として理解するならば、ヘブライ語では、「ハヤー」という動詞がそれにあたります。

モーゼに対して啓示された神の名前は、そういう意味での動的な「存在する(ハヤーする)」であって、それは如何なる形でも客体化され得ません。一切の偶像を否定しつつ、全てのものを生かし、存在せしめる働きを、ヘブライ人は神の名前(エヒエ・アシェル・エヒエ(I am who am))に相応しいものとしました。そういう「存在の働き」が、「風」や「息吹」のごとく、人々に内在し、「主の霊」となって、人間の存在の働きと「一つ」になるときに、旧約の詩人はそういう人間的実存を指して「霊の人(スピリチャルな人)」という表現を用いています。その意味で、サムエルのような預言者は「霊の人」と呼ばれました。

聖書における霊と肉の捉え方は、存在を実体として捉えるギリシャ的な「存在論(ontology)」ではなく、存在を出来事としてとらえるヘブル的な「現成論(hayathology)」の文脈で論じなければならない、というのが私自身の聖書の解釈の基礎にあります。

新約聖書、マタイ傳 22-37 の「なんぢ心を盡し、精神を盡し、思ひを盡して主なる汝の神を愛すべし(agaphseiV kurion ton qeon sou en olh th kardia sou kai en olh th yuch sou kai en olh th dianoia sou)」にもまた、聖書の人間観が良くあらわれています。それは、人間の単なる精神的解放ではなく、身体的なるものも精神的なるものも共に含む人間の全存在を「霊」によって再生させることを説く人間観です。霊魂を「本性的に不死なる者」とし、そういう霊魂を滅び行く肉体から解放することを説く教えではありません。

神は全身全霊をあげて愛すべき事を説くイエスの言葉でいえばkardiaが人間の情緒の座を意味し、yuchが人間のいのちの活動力を意味し、dianoiaが、精神とか理性という知的側面を言い表しています。つまり、人間の持つすべて、その知情意のすべてを尽くして神を愛せ、といっている。その場合、情緒も、意志も、理性も、人間の実存の様式上の区別であって、それらは一つのものとして働く。知情意の三つの能力を統合して、「汝の神を愛せよ」といわれています。人間は、決して、情だけでも、意志だけでも、知だけでもない、一つの統合体ですが、そういう統合体が、「肉的なありかた」をするか「霊的なありかたをするか」が問われているのです。

人間の理性は、ギリシャ思想では神的な「もの」として、身体とは独立の「もの」として尊ばれたが、ヘブライ思想においては、「理性」も又、神の霊(聖霊)によって生かされないかぎり「肉的な」あり方をします。近代の科学技術のように、人間の理性の所産がいかに「肉的」なありかたをしているか、それを考えるならば、ヘブライニズムに於ける理性の捉え方の方が、現代に於いては重要な意味を持ってくるでしょう。
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寡婦の献金の説話:再考

2005-12-13 |  文学 Literature
旅人さんから、昨日の投稿について次のようなコメントをいただきました。御陰様で、私も又、寡婦の献金という説話(マルコ伝とルカ伝に登場します)をさらによく考える機会が得られました。

旅人さんのコメントと質問:
新約聖書の背景の時代には、労働者の一日の賃金が1デナリ(=1デナリオン=1ドラクメ)であり、1レプタ(=レプトン)は、その128分の1の価値と聞いています。そして、イスカリオテのユダがイエス様を売り渡した価格である銀貨三十枚は、当時の奴隷に付けられた値段だとも聞いています。すると、人間の「命の代価」が、2レプタだというお話をどのように解釈すべきか、疑問に感じます。また、その一方で、関根先生の詩篇釈義の中の「魂の値は高すぎて人が神にそれを払うことは到底できない」と矛盾するように思うのですが、いかがでしょうか。
「命の代価」つまり「命の値段」は、貧しいものの場合は僅かな金額、2レプタにすぎないかのごとく扱われます。こういう社会的不正義に満ちた現実が一方にある。他方において、ひとりひとりの「命の価値」あるいは「命の重み」は本来、値段の付けられないほど貴重なものである。もしあえて値段を付けるならば、無限大とでもいうほかない。--私は、そのように理解しましたので、とくに論理的な矛盾は感じませんでした。

ただし、言葉の上では矛盾でなくとも、その二つの現実の間には鋭い緊張関係、ないし対比があることは事実です。本来、値段を付けられぬほど貴重な命に、ひとはいつのまにか値段を付け、そして貧富の度合に応じて差別をするようになる。

旅人さんは、2レプタが一体どれくらいの金額であるかを認識することが、釈義にとって重要だということを指摘されました。これはたしかにその通りですね。

1レプタがどれくらいの貨幣価値なのか、諸説があるようですが、労働者の一日の賃金の128分の一というのは分かりやすいですね。日本円に直して大体の感触をつかむことが出来ます。かりに一日の賃金を6400円として、1レプタは僅かに50円です。そうすると寡婦の献金は100円となり、50円硬貨2枚を献金したと言うことになります。

多分、彼女は一日100円で生活していたのでしょう。聖書のテキストによると、彼女は持っている硬貨を「全て」投げ入れたとありますから、乏しい家計をもかえりみず、献金をしたことになります。後に何も残っていない無一文になるわけですから、彼女こそもっとも多く献金したのだというのは、非常に良く分かります。毎日、一万円で生活している人にとって、100円の献金は、たいしたことではありませんが、毎日、100円で生活している人が、100円全部を献金するのは、たいへんなことですから。その日の貧しい食事ですら、とりえない危険がある。

イエスのこのときの発言には、乏しい中から命がけの献金をしている寡婦の信仰と犠牲的精神を賞賛するだけでなく、社会的な不正義の上にあぐらをかきながら、多額の献金をすることで宗教的な自己満足を得ている富者達、「寡婦の家を喰いつぶし、見せかけの長い祈りをする」律法學者やパリサイ人への批判もあると思います。ルカは、このような信仰深き「貧しきもの」こそ天国に入るというイエスの言葉をそのまま伝えています。

一日、レプタ二枚でギリギリの生活をしているこの寡婦にとって、それを全て献金することは、文字通り「命がけ」ということにならないでしょうか。明日は飢死するかも知れない。「命の代」という言葉が、なにかさらに一層切実に響きます。

旅人さんのコメント:
私には、人間の命が2レプタの価値しかないと感じられた松本さんの置かれた立場が、どれほど悲惨なものであったかが伝わって来るように思えました。
全く同感です。「倶会一処」などの資料によりますと、昭和24年ころの園内の作業賃は、日給で10円程度。当時は牛乳一合が10円という事ですから、一日働いても、牛乳一本分にしかならなかった。入所者達は家郷を捨て肉親と絶縁するものが多かったので、彼等は、僅かな作業賃を蓄えて、自分たちが死んだときの葬式や供養にあてていたとのことです。松本さんの「小さき声」を改めて読んでみますと、彼が、自分を寡婦と同じ立場に置いていることが良く分かりました。

旅人さんのコメント:
18号では、「訓練」の部分、特に渥美さんに対して、「私は彼に向かって、心の中で叫びました。「叩け、もっと叩け、その音が道となって開かれるまで、叩け」。渥美が迷った同じ道で私も迷っているのです。しかし、渥美の背後には私が立っていましたが、私の背後に立ち、私を見守り助けてくれるものは誰か。」という個所が印象的というか、感動的でした。

渥美という少年は、自分は「聖書が読めるほど幸福な境遇ではない」と、松本さんを嘲ったそうですが、その彼が、いつしか、限界状況の中で、拡大鏡を使って聖書を読み始め、失明した後では、ひとから読んで貰って、ついにロマ書16章を暗誦してしまったとのこと。そして福音書の言葉を呟きながら息絶えたということが「小さき声」第11号にあります。それと合わせ読むと、18号の松本さんの言葉が身にしみる思いがします。
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寡婦の献金の説話:「小さき声」18号の聖書引用から

2005-12-12 |  文学 Literature
松本さんの聖書引用は、ほとんどが御自身が暗誦された本文の記憶に基づくものであるが、それはかなり多くの場合、文語訳聖書がベースになっているようである。以前にも、ヨブ記の引用の中で「朽腐(くさり)を父とし」という言葉があり、文語訳聖書からの引用であることが知られたが、今回、WEB復刻した「小さき声」18号のルカ傳21章の引用もそうである。これは、寡婦の献金というよく知られたエピソードであるが、その解釈は、口語訳聖書だけを読んでいるとよく分からないかも知れない。

松本さんは次のように書いている。
「レプタ二つは、やもめの命の代である。それがなければ生きることはできない。なんと貧しく、そして、小さな命だろう。やもめはレプタ二つで買い取られた肉の奴隷である。やもめと同じく、人はみなレプタ二つの奴隷である。たとえ巨万の富を持っていても、その人のレプタ二つに変更はない。詩人は次のように述べている。

「たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、墓こそ彼らのとこしえのすまい、世々彼らのすみかである」(詩篇49・11)

レプタ二つは死が人間につけた市価である。やもめはレプタ二つの自己に絶望しながら、同時にそれに仕えなければ生きることが出来ない。これは預言であるが、人間はこの預言の中に生きている。やもめはこの預言の自己、レプタ二つをさいせん箱に向かって投げ込むのである。
ここで「命の代」という言葉が使用されているが、これは多くの口語訳聖書では「生活費」と訳されている言葉である。参考までに、ルカ傳21章の該当箇所の共同訳を挙げておこう。
イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
「生活費」という訳語は分かりやすいし、貧しい寡婦が、生活費を全部献金したと言うことをイエスが讃えたという話も周知の物語であるが、私は、この箇所を、松本さんのように、「いのちの代」と読む読み方のほうに、より深き意味を感じた。

参考までに、文語訳聖書の訳文を引用しよう。ルビが煩わしいが、暗誦することを考えると、こちらの方が鮮明に記憶に残るようだ。
イエス目を挙げて、富める人々の納物(をさめもの)を、賽銭箱(さいせんばこ)に投げ入るるを見、また或る貧しき寡婦(やもめ)のレプタ二つを投げ入るるを見て言ひ給ふ、「われ實(まこと)をもて汝らに告ぐ、この貧しき寡婦(やもめ)は、凡ての人よりも多く投げ入れたり。彼らは皆その豊なる内より納物(をさめもの)のなかに投げ入れ、この寡婦はその乏しき中より、己が有てる生命の料(しろ)をことごとく投げ入れたればなり」
さて、口語訳で単に「生活費」と訳されている言葉は、「己が有てる生命いのちの料(しろ)」と訳されている。「小さき声」の筆記者は、おそらくこの「命の料」を「命の代」と書いたのであろう。この場合は、単に「生活費」という意味だけでなく、「生命の代価」というもう一つの意味が重ねられている。

ちなみに原語のギリシャ語を確認してみると、panta ton bion on ecein であって、直訳すると、「自分が持っている全生命」となる。つまり、ビオス(生命)という言葉が使われており、「生活費をすべて」、というよりももっと切実なニュアンスが籠められているようだ。

一人の人間の生命の代価とは幾らであろうか。寡婦の場合は、僅か、レプタ二つであったが、松本さんは、あらゆる人が、実際には、その程度の「市価」しかもたないと言っている。どれほど金持ちであっても、その財産を墓場を越えて持っていくことは出来ない。死はすべての人に平等に訪れ、最後の死から救出されるために幾ら金額を摘んでも、無益である。

松本さんは寡婦の献金の説話を、詩編49の詩人の言葉を背景にして読んでいる。関根正雄の詩編釈義(教文館、上、204)にある解説を引用しよう。
地上の裁判では死罪の場にも死一等を減ぜられ、賠償金を出して死を免れることもできるが、最後の死に対してはそうはいかない、死の力から免れるために死の支配者である神に賠償金を払うことは出来ない、と(詩人は8節で)いう。その理由として、9節で、魂の値は高すぎて人が神にそれを払うことは到底できないからだ、という。
寡婦の献金の説話は、日本では「貧者の一燈」という仏教説話と対比せられ、富めるものの「万燈」よりも貧しいものの「一燈」のほうが「功徳」が大きいというように解釈されている。

しかし、聖書の説話は、「功徳」の大きいことを言っているのではけっしてない。神と人との間に、無限と有限の間に、「功徳」の損得勘定などは存在しない。

そうではなくて、寡婦のような貧しい人間の場合、「市(場)価(格)」ではレプタ二つにすぎぬものとして現に扱われているという事実と共に、富めるものは、どれほど大金を積んでも、結局の所、死から自己を救うことは出来ないという、もうひとつの冷酷な現実に目を覚ますべきであることを説いているのである。

「己が有てる生命(いのち)の料(しろ)」という言葉の持つ意味をあらためて考えさせられた。
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公開講座のことなど

2005-12-11 | 美学 Aesthetics
昨日の北本市の公開講座は、市が計画している生涯学習講座の一環でした。120名くらいの受講者がありましたが、熱心に聞いて頂けました。

二年前からソフィア・コミュニティ・カレッジで、国文学の大輪先生、俳句結社「若葉」の主宰の鈴木貞雄先生と共に、「俳句と連歌」という連続講座を開いています。このコミュニティカレッジは、普通は四谷で行うのですが、時々、外部と連携して公開講座を開きます。

公開講座での私の話の内容は、その都度更新かつ追加して、PDFファイルにしてあります。最新版は、場所の詩学ー座の文藝に関する一考察です。このファイルは、これからも追加改訂していく予定です。
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写真集「神との旅路」のこと

2005-12-06 |  文学 Literature
鈴木亜希子さんの撮られた写真集「神との旅路」-ハンセン病を生きた松本馨との9年間ーが、出版されました。

出版元の東銀座出版社のサイトから注文できるようです。(定価は1500円)「零点状況」出版の時の打合せ、宮古南静園を訪問したときの写真など、数多くの写真が収録されています。

「小さき声」のWEB復刻をしている身として、特に名状しがたい思いに襲われたのは、42-3頁の、最晩年の写真でした。「ご自分が動けなくなる前に伝えたいことを伝えなければと(テープレコーダーに向かって)必死に録音する」という説明文がありました。「1%の神」を執筆されている頃のものでしょうか。

この写真集には又、関根正雄著作集をテープ録音したものを納めた書棚の写真もありました。「マタイ福音書講義」「申命記講解」「ローマ人への手紙」「エレミヤ読解」等々、百巻近いテープです。松本さんがいかに精神を傾けて関根先生のものを読まれていたかを偲ばせます。

この写真集、鈴木さんは9年かけられたとのこと。私のWEB復刻の作業はどれくらいかかるか分かりませんが、何か勇気づけられた思いが致します。
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「小さき声」WEB復刻-第17号について

2005-12-04 |  文学 Literature
土曜日は、東大(駒場)で「アインシュタインの相対性理論100年記念シンポジウム」がありました。三人のパネリストの一人であったので、ここ一週間くらい、その準備で忙しかったのですが、漸く、時間的に少し余裕が出来ました。

先ほど、「小さき声」のWEB復刻版第17号をアップしました。

17号に登場するはS氏は、松本さんと同じく、盲目で手足の不自由な六十歳の老人ですが、(9号によると)四年がかりで、マタイ伝二十八章の暗誦を終え、次にロマ書の暗誦にとりかかったという記事があります。

一日に一章、あるいは一節づつ、太股に手で書きながら覚えていったけれども、頭の中がもう満杯になったので、マタイ伝を「故郷に移す」ことにしたという箇所が印象的でした。

わたし自身が相対性理論の話をしたせいでしょうか、時間というものの不思議さを改めて感じました。

Sさんは、東北の出身者です。故郷を追われて三十年、家族も離散していますが、その一度も帰ったことのない故郷を思い出しながら、Sさんは、「神の言葉」を記念碑のように建て始めるのです。故郷の山の入口にも、山道の要所要所にも、谷底にも、そして、遙か遠くから望んでいた故郷が眼前に展開しはじめると、記憶に甦る懐かしい光景の中にSさんは入っていき、そこに聖書の言葉を建てていくのです。

「Sさんの暗誦が続けば続くほど、故郷は神の言葉で埋められていく」

私は、この箇所を決して譬喩としては読まなかった。むしろまざまざとしたリアリティをもつ出来事と思った。三十年前の故郷は、決して消えて無くなってしまったのではなく、不滅のものとして甦る、そしてSさんが聖書の言葉をひとつひとつ覚えて行くと、その都度の言葉の働きによって、Sさんの過去が新しい形をとるのです。
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相対性理論100年記念シンポジウム覚書 4

2005-12-01 | 哲学 Philosophy
第一部 科学哲学的考察ー古きパラダイムの揚棄とcrucial experiment-
(覚書 

第二部 プロセスコスモロジーからみた相対性理論
(覚書 4-5)

相対性理論と量子論は単に物理学の新理論であるばかりではなく、さらに宇宙論へと一般化されるべき重要な原理を孕む点に於てホワイトヘッドの形而上学の成立過程に大きな影響を与えた。ホワイトヘッドのコスモロジーは「宇宙の創造的進化(the creative advance of the universe)」という用語に示唆されるように、宇宙の歴史性を強調する自然観のうえに成り立っている。このような所謂「プロセス・コスモロジー」は、アインシュタインによって体系化された時間の相対論的把握とどのような関係にあるのか、プロセス・コスモロジーを現代物理学との関連性においてとりあげ、時空(世界)がそこにおいて生成する延長連続体(the extensive continuum)というホワイトヘッドのアイデアの意味するものを再考したい。

1 時間秩序に関する三つの立場

(1) 絶対時間を想定する立場(ニュートン物理学)

ただ一つの座標時間がある。そこにおいて過去、現在、未来は一義的な確定した意味を持つ。この座標時間によって宇宙の全ての事象は一つの系列に秩序づけることができる。

(2) ミンコフスキー時空において時間的秩序を考える立場
(特殊相対性理論、ホワイトヘッドの「相対性原理」に於ける重力理論)

 複数の(実際には無限に多くの)時間系がある。ある慣性基準系で二つの事象が同時的であっても、それは他の慣性基準系で同時的であることを保証しない。同時性の基準が座標系の選択に対して相対化されるために、全体としての世界の時間秩序は次のように言い表さなければならない。
(1)どのような慣性基準系においても事象Aの過去にある事象Bは、Aの因果的(絶対)過去にある。
(2)どのような慣性基準系においても事象Aの未来にある事象Bは、Aの因果的(絶対)未来にある。
(3)適当な慣性基準系の選択によって事象Aと同時的(simultaneous)になりうる事象Bは、Aと共時的(contemporary)である。共時性は次のような特質を持つ。
(1) Aと共時的な事象は慣性基準系の選択によってAの過去にも未来にもなり得る。
(2) 共時性の関係は推移的ではない。一般に、AとBとが共時的であり、BとCとが共時的であってもAとCとは共時的であるとは限らない。

ミンコフスキー時空は一つの事象Aに対して、(1) Aの因果的(絶対)過去の領域(2)Aの因果的(絶対)未来の領域(3〉Aと共時的な領域の三つの領域に区分される。

したがって、ここでは無数の座標時間があり、同時性がその無数の座標時間に対して相対化されているとはいえ、因果律が前提する時間秩序〈因果作用causal efficacyの方向性)は基準座標系の選択によらない絶対性を持つ。ただ、この時間秩序の方向性は、全順序集合(直線的順序)ではなくて半順序集合(格子状の順序)として表現される。共時的な二つの事象の間には、直接の因果関係は有り得ない。それらは因果的に独立に生起する。しかしながら、それらの二つの事象は因果的にまったく無関係であることはできない。即ち、どの二つの事象も(1)共通の因果的過去の領域と(2)共通の因果的未来の領域を有する。
その意味で、間接的な因果関係はあらゆる二つの事象の間に成立する。ミンコフスキー時空に於ては、無数の時間系があり得るが、どの時間系も原理的には世界のあらゆる事象に時間的秩序を与えるのに十分である。即ち、無限の過去から無限の未来に伸びている一つの座標時間のなかに世界の全ての事象を秩序づけることは原理的に可能である。したがって任意に選ばれた一つの座標時間において、全体としての宇宙の歴史を語る事が可能である。

(3) リーマン時空に於て時間秩序を考える立場(一般相対性理論)

特殊相対性理論では、異なる空間的場所における同時性は、光信号による時計の同期化という物理的な手続きによって定義されていた。したがって、同時性の意味は「光速度不変の原理」が成り立たない所では確定しない。しかし、重力場のあるところでは、一般に光速度は不変ではないので、「光速度不変の原理」は無条件では成り立たず、局所的に選ばれた慣性基準系(重力場のなかで自由運動する物体に対して静止した系)においてのみ成り立つ。したがって、同時性の意味も局所的にしか確定しない。このような局所的な基準座標系を接続して大域的な基準座標系にして世界の全ての事象に一つの時間的秩序を与える事(宇宙時間cosmological time)が可能であるかどうかは、物理的な偶然性に左右される。物質の分布状況によって、全体としての宇宙に一つの宇宙時間を設定できることもあれば、設定できない事もある。設定できない場合には、全体としての宇宙の歴史について語る事は無意味である。
リーマン時空もまた、一つの事象Aにたいして、局所的にはその(1)因果的過去(2)因果的未来(3)共時的領域の、三つの領域に分かれる。しかし、(1)どの二つの事象も共通の因果的未来をもち(2)どの二つの事象も共通の因果的過去をもっかどうかは、一般には言えない。共通の因果的過去をもっても共通の因果的未来を持たない二つの事象(ブラックホールの内部と外部の事象)や共通の因果的未来をもっても共通の因果的過去を持たない二つの事象(ホワイトホールの内部と外部の事象)を考える事ができる。このような極限的な事例(シュバルツシルトの特異性)に於ては、一つの座標時間において「未来の地平線」や「過去の地平線」のようなものが生じる。即ち、一つの選ばれた座標時間だけでは、世界の全ての事象を時間的に秩序づけることができるとは限らないという立場から、永遠の未来の彼方に於て生起する事象、永遠の過去の彼方に於て生起した事象という概念が必要となる。
Comments (2)
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