歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

若き日の西田幾多郎ー「我尊会有翼文稿」から

2017-05-31 | 哲学 Philosophy

大日本帝国憲法公布の日(明治22年2月11日)に撮影された7人の第四高等学校学生たちの記念写真がある。後列右から二人目が西田幾多郎(当時19歳)、前列右端の山本(旧姓:金田)良吉は「頂天立地自由人」と書かれた旗幟をもっている。後列左端福島淳吉のもつ旗幟には「Destroy, destroy」とある。彼等は、明治憲法に対して、また当時の自由民権運動に対してどのような考えをもっていたのか。当時の西田の思想をうかがい知ることのできる貴重な資料がいくつか残されている。

「頂天立地自由人」の旗幟をもっている山本良吉はこの写真を撮影した後にまもなく、明治憲法発布当時の薩長政府による学制改革に反発して退学している。明治22年5月に、退学した金田良吉を含むサークル「我尊会」が、西田、藤岡、松本らによって設立された。評論・漢詩・小説などを会員が和紙に毛筆で書き、それを回覧して批評し合った文書である。この「我尊会」に「有翼」というペンネームで投稿した西田幾多郎の文章が「我尊会有翼文稿」として西田幾多郎全集に収録されている。

「有翼」とは若き日の西田幾多郎のペンネームの一つ。天馬空をゆく自由人としての境涯を荘周にならってユーモラスに自称したものであろう。「有翼」という雅号の由来を尋ねた客人に答えるという趣向で西田が書いた「答賓戯」という文がある。当時の西田は、「有翼の天馬」よりも「鈍牛」のごとき存在と友人から評されていたが、おそらく畏友山本良吉の影響を受けて、「有翼」に、自由奔放にして如何なる権威をも恐れない自己の理想的なありかたを託したものと思われる。

西田は明治22年7月、行状点が100点萬点中8点という成績のため落第が決まるが、「我尊会有翼文稿」には、「行軍あれば則去り、体操あれば則去り・・」という言葉がある。薩長政府による中央集権的な学制改革で新たに導入された兵式体操や行軍という軍隊式の教練に西田は参加しなかったのである。落第が決まった後、恩師北条時敬に諭されたこともあって、留年して第一学年をやりなおすが、結局、山本良吉の後を追うような形で明治23年春に四高を中退している。「我尊会有翼文稿」には、西田の書いた最初期の文章が幾つか収められている。幾つか紹介しよう。
「余が最愛スル諸君ヨ」―西田は冒頭に「旧約全書第一葉」を引用して、人が万物の霊長たる所以は、「人が道理(Reason)の動物」たるところにあると述べる。次に西儒「麻鴻礼(Thomas Macaulay1800-1859 大英帝国の歴史家、詩人、政治家で「イングランド史」の著者)」のボルテールと「彌兒頓(Milton )」の評言を引き、腕力や武力よりも「道理の力」の大なることを説いたもの。西田は、この文の中で、ときの薩長政府による国家主義的な学制改革による教育方針を反啓蒙的な武断主義として嘲笑している。
「Jean 「Jauques Rousseau」―仏蘭西革命を引き起こした「悪人」としてルーソーを糾弾することの愚かなることを英仏の歴史家の書を西田が引用したもの。野蛮なる遺風たる「天子神権」を「道理の力」によって克服した人類の恩人であり「真箇ノ英雄である」としてルーソーを讃える文である。文末に「世間で世間に従って生きることは易しい。孤独の中で自己の孤独に従って生きることも易しい。しかし偉大なる人間は大衆の只中にあって孤独なる独立精神を完璧な優美さをもって保持する」というエマーソンの言葉を西田は英語でそのまま引用している。西田は後年次のように回想している。(「山本晁水君の思い出」1942)。

第四高等中学となってから、校風が一変した。つまり地方の家族的な学校から天下の学校となったのである。当時の文部大臣は森有礼という薩摩人であって、金沢に薩摩隼人の教育を注入するというので、初代校長として鹿児島の県会議長をしていた柏田(盛文)という人をよこした。その校長について来た幹事とか舎監とかいうのは、皆薩摩人であって警察官などをしていた人々であった。師弟の間に親しみのあった暖かな学校から、忽ち規則づくめな武断的な学校に変じた。

山本良吉とともに西田の生涯の友となった鈴木大拙(貞太郎)は、明治憲法発布の日に撮影した写真には姿がないが、このとき大拙は経済的な困窮が原因ですでに退学していた。西田は、その大拙のために「與鈴木兄」と題し漢詩を二首詠んでいる。

挽風微動清涼催 名月懸空似玉珠 哲学妙玄人無識 清宵月下夢韓図  (韓図=カント)
除去功名営利心 独尋閑處解塵襟 窓前好読道家册 月明清風払俗塵

第一首で「カントを夢見る」人物は西田自身であるのかも知れない。ただし、高等学校の学生時代の西田が、カントの思想について西田がどの程度の理解と評価をもっていたかは分からない。第二の「功名や営利の心を除去」して月光のさす窓辺で「道家の書物」を読むのは、西田よりも鈴木大拙のイメージによくあっている。

明治23年9月、西田は自分に先立って高校を中退した金田良吉、病気で留年した藤岡作太郎らとともに「我尊会」の精神を受け継ぐサークル「不成文会」を結成した。西田の関心は数学から哲学に向かい、政治的な自由主義思想から内面的な精神の自由を目指す哲学的探求へと転換した。中退後独学の時代に、眼病にかかり読書をしばらく禁止されるという試練に遭った西田は、当時の心境を次の漢詩に託している。

    高節自許波斗曼 功業独冀大俚爾 両眼雖病志益固 久枕哲書待他日
                            *俚爾(ヘーゲル) *波斗曼(ハルトマン) 

注釈:

波斗曼(エドワルド・フォン・ハルトマン1842-1906)はヘーゲルとショーペンハウアーの思想を統合した「無意識の哲学」によって独自の美学思想を展開したドイツの哲学者である。ショーペンハウアーの著作が再評価された世紀末のヨーロッパでは、彼の著作は英仏語に翻訳され、ドイツ以外の国でも国際的かつ学際的に著名であった。日本でもその名は早くから知られ、明治22年刊行の三宅雄二郎の「哲学涓滴」には、「ショーペンハウアー氏すでに意志をもってヘーゲルの知恵に代えし上は、両々あい反対し合い抵拝せざるを得ざる勿論にして、これを総合してさらに豊富の意見を立つるは、すなわちハルトマンの任なるが如し」とある。西田が入学した頃の東京大学の哲学科教授であった井上哲次郎も、欧州留学中にハルトマンと親交を結び、それが機縁となって、後に、ハルトマンが推薦したラファエル・フォン・ケーベル(1848-1923)を東京大学哲学科に外国人教師として招聘した。ケーベルは、ハイデルベルグ大学でショーペンハウアーにかんする学位論文を書き、その後継者としてのハルトマンの哲学史に於ける重要性を、シュベーグラーの「哲学史」の増補校訂者となったときに強調している。ケーベルは、東大哲学科に明治26年に着任すると、ショーペンハウアーの晩年のエッセイ「パレルガ・ウント・パラリポメナ」を講義で使用し、西田もそれを聴講している。

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