歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

佐々木力氏の『数学的真理の迷宮ー懐疑主義との格闘』を読んで

2021-01-14 | 哲学 Philosophy

 北海道大学出版会から上梓された『数学的真理の迷宮』(2020年12月10日発行)を著者から献呈され、その礼状を書こうと思っていた矢先、12月4日に著者の逝去の報に接し、この本は文字通り著者の遺作となり、私の感想を生前の著者に伝えることができなくなった。そこで、「回想」と「書評」というかたちで、著者がこの本で課題とした事柄自体を、私の立場から論じることで、故人への応答に替えたい。

 2021年年明け早々、『科哲』(東大科哲の会会誌)第22号が送られてきた。時局を反映して、新型コロナに関する寄稿が多かったが、『地球大の数学史をめざして』という佐々木氏の特別寄稿があり、これも、彼の遺稿になってしまった。(『科哲』の編集者は佐々木氏の急逝について全く言及していない)
 私は、佐々木氏の本と遺稿を読んでいるうちに、彼よりも前に東大駒場の「科哲」の教授であった廣松渉の最後の著作、『マルクスの根本意想は何であったか』(1994年、状況出版)が、廣松氏の葬儀の日に出版されたことを思い出さないわけにはいかなかった。当時の廣松氏は61歳、志半ばにしての突然の逝去であった。

 ソ連が崩壊したのはマルクス主義の「根本精神」を忘却したからだ、といえば分かりやすいが、「精神」や「理念」という語は唯物論者である廣松氏にはそぐわない。「根本意想」とは聞きなれない言葉であるが、トーマス・クーンのいう「パラダイム」にヒントを得て、廣松氏がよく使われていた「ヒュポダイム」という語とほぼ同じ意味であろう。

 ソビエト連邦が崩壊した時点で、ことさらにマルクスを持ち出すという「反時代的」考察にどんな意味があったのかーこういう疑義は当然提出されるだろう。しかし、ソ連が崩壊したからこそ、「マルクス主義とは何であったか」と問うことに意味があった。廣松氏はマルクス主義の終焉という如き歴史認識を聊かももっていなかった。マルクス自身が直面していた資本主義の問題状況、自由放任の市場経済によって貧富格差が拡大し、労働は劣悪な条件に置かれるという問題が、新自由主義的政策が席捲していた資本主義経済においても、根本的には解決されていないからである。

 廣松氏が急逝してから四半世紀が経った。多国籍企業と自由市場経済、グローバリズムとナショナリズムの対立、核開発による世界戦争と環境危機の時代、異なる文明間の軋轢と南北の経済格差の深刻化、情報革命の時代が直面する人間疎外等々ーこれらの多元的にしてますます複雑化した状況を前にして、現代の「マルクス主義者」は何を言うことができるのだろうか。

 佐々木氏は、プリンストン大学大学院でマイケル・S・マホーニイやトーマス・クーンの薫陶を受けた数学史の専門家であるが、彼の「マルクス主義科学論」(みすず書房、1997)が廣松氏の逝去後に上梓されたとことが象徴的に示しているように、廣松氏のマルクス主義理解から大きな影響を受けていた。数学史ないし数学哲学という専門領域に限定されていたとはいえ、ソ連や中国の共産党の「官製」マルクシズムではなく、マルクスの「根本意想」に立ち返りつつ、現代という時代をそれによって捉えようとする意図を共有していた。「マルクスと哲学の間」で思索した廣松氏に倣って、佐々木氏は「マルクスと数学史(数学哲学)の間」で思索し、様々な場で啓蒙教育活動をおこなっていたと思う。

 当然のことであるが、佐々木氏の中には廣松氏とは異なる部分もある。スターリンによって粛正されたトロツキーを高く評価し、「いまこそ正統と異端は役割交代する番である」と言う趣旨のことを佐々木氏は何度も述べている(『マルクス主義科学論』序文iii,『生きているトロツキー』5頁参照)。中国のマルクス主義に関しても、彼が最も評価していたのは毛沢東ではなくて陳独秀であった。

 こういう視点は佐々木氏に固有のものであるが、マルクス主義者などではない私のような読者からみれば、「誰が正統的なマルクス主義者なのか」と問うこと自体に、前近代的なイデオロギー信仰の古めかしさを感じる。ただし、「多数派」を僭称する専従の革命家のイデオロギーを信用せず、そのような「多数派」(ボルシェビキ)によって言論を封殺され、粛清された「少数派」の「マルクス主義者」のなかに、未来を切り開く実践を導く「ヒュポダイムー根本意想」を見出すということであるならば、その限りに於いて、佐々木氏の思想史へのアプローチは一般の読者にとっても価値あるものとなるだろう。

 多元的な科学史・科学哲学へのアプローチを採用しつつも、「多元を越える一」を強調するところは、クーン流のパラダイム論や単なる相対主義では説明のつかぬ事柄である。佐々木氏の場合は、そのような回帰すべき「一なる原点」がマルクスであった。その意味で、マルクスに立ち返ることによってマルクス主義を超えて、現実の科学の発展の歴史に即して、内的かつ外的に社会的な考察をすることを忘れない佐々木氏の科学論、とくに数学にかんする歴史的考察は知的刺激に満ちたものである。

『数学的真理の迷宮ー懐疑主義との格闘』という著作は、第一部「真理という迷宮」、中間考察「基礎づけのない多様な数学的知識ーウイトゲンシュタインにとっての数学的真理」、第二部 「古代ギリシャにおけ公理論的数学の成立と数学革命論」という二部構成である。

 第一部は数学史に詳しくない非専門家を念頭に置いた啓蒙的著作、第二部は数学史家を念頭に置いた専門的著作のスタイルー脚注の懇切丁寧なところが専門家むきーで書かれている。そして中間考察は、ウイトゲンシュタインの「言語ゲーム」というアイデアを、数学における「基礎の危機」を克服するために提示された「論理主義」、「直観主義」、「形式主義」の三つの立場の対立に関係づけた上で、佐々木氏の数学論の根幹にある考え方ー「基礎づけなしで懐疑主義を克服する多様なる数学の哲学」ーの基本的な方向性を確認したものであって、第一部と第二部とを媒介する役割をも持っている。

 本書でもっとも読みごたえのあるのは、「ユークリッド幾何学の起源」を「エレア派の哲学者」に求めるサボー・アルバートの学説を、彼以後に登場したギリシャ数学史研究の諸文献を精査したうえで、その問題性を明らかにし、サボー説の「改訂版」ともいうべきものを佐々木氏自身の言葉で提示している箇所であろう。

 ユークリッドの公理論的幾何学を、第一次的な文献に乏しいパルメニデスやゼノンのようなエレア派の哲学者にではなく、プラトンにはじまり、アリストテレスを経由してプロクロスに至るギリシャ哲学の基本的なテキスト群を綿密に読み解きつつ、ユークリッドの生きたヘレニズム時代に優勢であった「懐疑主義」との格闘の所産として考証する議論は非常に面白かった。とくにユークリッドとアリストテレスの数学論との関係を論じている箇所は一読に値する。

 佐々木氏はアリストテレスの分析論後書第一巻3章(72b5-18)における議論ー「無限遡行」「仮設」、「循環ないし相互依存」を主張する懐疑主義を論破するアリストテレスの議論を重視し、その三つの立場は現実にアカデーメイアで起こった論争を背景としたものであると推測したうえで、アリストテレスの弁証法的議論に、懐疑主義を克服するヒントを見出している。

 あらゆることに論証をもとめることが「無限遡行」に陥ること、暫定的な「仮設」をたてて論証する「仮設の道」は、その仮設の真理性を保証するものは何かが問題となること、前提と結論が循環してもかまわないという「循環論」は、無意味な悪循環とそうでない(生産的な)循環論(相互性)との区別が明瞭でないということ、要するに、「基礎づけにかんするトリレンマ」が、アリストテレスに於いて既に明晰に自覚されていたと考えた上で、アリストテレスの分析論後書の論証科学に対する考察がユークリッドに与えた影響を佐々木氏は強調している。

 アリストテレスとユークリッドの幾何学原論との関係については、私自身も、「アリストテレスの幾何学観」(『科学哲学』15巻、1982年)という論文で書いたことがある。私の論文は38年も昔に書いたものであるが、佐々木氏が存命ならば、そこで私が論じた問題について、是非とも意見を聞きたいところであった。

 佐々木氏の遺著には、多くの自伝的な回想が含まれている。たとえば、学生時代にトーマス・クーンの「科学革命の構造」に触発された佐々木氏は、プリンストン大学でそのクーンから直接に薫陶を受け、「歴史的な科学哲学」の研究プログラムを数学史に適用するというを着想を得た。そして、クーンから「数学に革命があることは間違いないが、数学の古い定理のすべてが保持されるのがどの程度なのか」という課題を与えられ、それに対する応答として書かれたものが、本書の最終章の「数学における革命とはどういうものか」である。このような回想記は、佐々木氏が数学史の研究を志す若い世代の研究者に向けて書いたものかもしれない。、佐々木氏が自分の仕事を生成の途上にある未完結のプロジェクトとして回想していることの意味もそこにあるのだろう。佐々木氏は「ユークリッド幾何学の真理価値は、ある意味でたしかに保持されるのであるが、全面的にではない。古代ギリシャのユークリッドの平行線公準をもつ幾何学は、ヒルベルトの1899年の『幾何学の基礎』の出版後には異なる意味を持つようになった」と述べた後で、クーンの考え方を今後も数学に適用し続けると宣言して、この著書の結びとしている。

 本書は、プラトン、アリストテレスにはじまり、古代懐疑主義との格闘として出現したユークリッドの幾何学原論、近代懐疑主義の克服として顕れたデカルトやパスカルの哲学的省察、ウイトゲンシュタインの言語ゲーム論によって開かれる「基礎づけなき数学」の豊穣なる多元性、ユークリッドの幾何学原論を絶対的規範とする保守的なオックスフォードの数学者チャールズ・R・ドジソンではなくて、『不思議の国のアリス」の著者、ルイス・キャロルのほうが現在では脚光を浴びていることに注目して書かれた序論など、それぞれ別個の読み物として読んでも面白い。しかし、全体を通して著者が伝えたかったことー数学というもっとも抽象的に見える学問も、「歴史内存在」としての人間の具体的な生活の場に他ならない時代的社会的背景の中で営まれていることを忘れるべきではないだろう。 

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Principia Mathematica の「論理」とは何であったかーホワイトヘッドの視点からの再考

2021-01-11 | 哲学 Philosophy

『数学原理』の射程---新しい論理学へ

1 ラッセルとホワイトヘッド

「ホワイトヘッドはイギリスでは数学者として知られていた。哲学者としての彼を見いだしたのはアメリカである」 

とはバートランド・ラッセルの言葉である。(『自伝的回想』)

 ラッセルがケンブリッジ大学で数学の特別研究員(fellow)の資格を得るときの試験官も勤めたのがホワイトヘッドであって、二人は最初は師弟として後には共同研究者として、大著『数学原理』を公刊したわけであるが、「数理」哲学ではなくて、広い意味での哲学的著作を公刊したのはラッセルの方が早かった。一九八九年に、ラッセルはケンブリッジ大学のヘーゲル主義の哲学者マクダガードの代わりに「ライプニッツ哲学」についての講義を担当し、一九〇〇年にはそれを著書として出版している。もともとラッセルの処女作は一八九六年の『ドイツ社会民主主義』であって、そのときの二四歳という年齢を考えると、若いときから彼が様々な領域に広い関心を示し旺盛な著作活動を展開していたことに驚かされる。それと比較すると、ホワイトヘッドは、一見したところ、いかにも晩熟の哲学者に見えるかも知れない。一九〇三年に二人が『数学原理』に向けて共同研究を開始したとき、十一歳年少のラッセルは既に四冊の書物(数学基礎論に関するものが二冊、哲学研究書が一冊、政治論が一冊)を刊行していたが、ホワイトヘッドは一八九八年の『普遍代数論』ただ一冊を刊行したのみであったから。

 しかしながら哲学教授としてハーバード大学に招聘されてアメリカに渡った一九二四年以後は、今度はホワイトヘッドの多産な哲学的な著述活動が際だってくる。第一次大戦後に反戦活動や社会運動に没頭した関係で、哲学的にオリジナルな著作が少なくなったラッセルと比べると、ホワイトヘッドの哲学的著書のかなりの部分は、日本流に言えば還暦を過ぎた後に書かれたものなのである。

 正確に言えば、ホワイトヘッドの哲学的活動はアメリカに行く前、彼がロンドン大学で教えていたときから始まっている。いわゆる科学哲学三部作、『自然認識の諸原理)』『自然という概念』『相対性原理』を出版したのはロンドン大学時代であり、その仕事が認められてハーバードで招聘されたわけであった。

 アインシュタインの相対性理論が発表され、特に第一次大戦後の日食観測によるその検証という出来事は、ラッセルにもホワイトヘッドにも共に大きな衝撃を与え、彼らに数学だけでなく物理学の基礎付けという共通の課題を与えた。従ってこの時期は、ラッセルも『物質の分析』や『外的世界は如何にして知られるか』など、自然を対象とする哲学的著書があり、二人がまだ共通の関心を持っていたことが分かる。そのころの両者の関係を示すものに、ホワイトヘッドからラッセルに当てた書簡(一九一七年一月八日)が、ラッセルの自叙伝に収録されている。

バーティ学兄、とても残念なことですが、私の考えの要点があなたにはよく認識されていないように思われるのです。私は、私の考えが、現在の所、私の名においてにしろ、他の誰かの名においてにしろ、普及されることを望みません---即ち、今のところ論文のかたちでは。その結果は、不完全で誤解のもとになるような出し方になるのが関の山でしょうし、私が出版したいと思うときに、その最終的な発表の成功をだめにするのは避けられないでしょう。  私の考えや方法は、あなたのとは異なったふうに成長しているのです。その孵化期間は長いのです。そして、その結果、最後の段階において、理解しやすいかたちに到達するのです。私は、あなたが、各章にわたって、理解しやすくなっている私の草稿を、私が全面的な真理とは考えないような一連のものに陥れるようなことをしていただきたくないのです。あなたが、私のこのノートの助けを借りないでは仕事に取りかかることができないと思われることは、誠に残念です。

ラッセルは、率直に、次のようなコメントをこの手紙に付けている。

第一次世界大戦が始まる前に、ホワイトヘッドは外的世界に関する我々の認識についての覚え書きを記しており、私はそれを利用して、このテーマで本を書いた。もちろんホワイトヘッドが私に伝えてくれた思想については当然の謝辞をつけたのではあるが。この手紙は、ホワイトヘッドがこのことに頭を悩ませたことを示している。実際、このために私たちの共同作業は終わりを告げてしまった。

 『数学原理』を共同で執筆したときには、どの原稿も二人が共に目を通していた。おそらく、その延長線上というつもりで、ラッセルは数学的対象がいかにして経験的な所与から抽象されるかを明らかにした「延長的抽象の方法(the method of extensive abstraction)」に関するホワイトヘッドのノートの借用を申し込んだ。そして、ホワイトヘッドに先んじて一九一四年に『外的世界はいかにして知られるか』という著作の中で、このアイデアがホワイトヘッドによるものであるとの断り書きを付けて発表した。しかし、この手法についてホワイトヘッド自身が詳しく説明したのは一九一九年の『自然認識の諸原理』だった。

私の草稿を、全面的な真理とは考えられないような一連のものに陥れるようなことをしていただきたくないのです」というホワイトヘッドの懸念は、二人の哲学者の気質の違いを非常に良く表しているようである。

  ラッセルについて、T・S・エリオットは、「永遠に早熟である(permanently precocious)」という評言を吐いたことがあるが、それをもじって言えば、ホワイトヘッドは「永遠に晩熟である」ということになるだろうか。還暦を過ぎた老人が、アメリカという新天地で、それまでに書いた著作とは段違いに大部の著書を次々と刊行していったその有様はなかなか壮観である。『過程と実在』は『純粋理性批判』とほぼ同じ程度の分量であるが、やはり老齢になってから哲学的主著を公刊したカントと同じく、ホワイトヘッドも又すぐに自分の着想を発表するよりは、ゆっくりと時間をかけてそれが自然に熟するのを待つタイプの思想家であったと言えるだろう。

 ラッセルは、そのホワイトヘッドについて次のように回想している。(『自伝的回想』)

ホワイトヘッドは驚くほど関心の広い人で、彼の歴史上の知識はよく私を吃驚させたものだ。あるとき私は、彼が非常に重要だが風変わりな作品であるパオロ・サルピの『トレント公会議の歴史』を枕頭の書にしているのを見つけた。歴史的なことが問題になると、いつも彼には教えられるものがあった。たとえば、バークの政治的意見とロンドン市における彼の利害との関係や、フス派的異端とボヘミヤの銀鉱山との関係など。

 この回想は『数学原理』を共同で執筆している頃のものである。彼ら二人の関心は、高度に専門的な数学的論理学の執筆中でも、決してその世界に閉じこもっていたわけではなく、様々な問題について論じあっていたことがこの引用から伺える。ここで言及されている「トレント公会議の歴史」がホワイトヘッドの著書で引用されるのは、十年以上たってから刊行された「科学と近代世界」第一章「近代科学の起源」である。科学史と深くかかわる著作を後に自分が書くなどということはホワイトヘッド自身予想していなかったであろうが、若年からの広範な領域に亘る読書と友人との対話の習慣が、文明の諸相を扱う晩年の著作を書くに際して役立ったことは間違いない。

 ホワイトヘッドは、ラッセルと同じく多読の人であり談論を好んだ。おそらく、二人ともケンブリッジ大学の学生の知的サークルであった「使徒団(The Apostles)」のメンバーであったときに、自由でとらわれのない対話によって学ぶ習慣が身に付いていたのだろう。一般教育を英語ではリベラルアートというが、そこでは、専門を離れて自由に討論を戦わせることの出来る知的習慣が大切である。この習慣がホワイトヘッドの関心の広さと、多面的な精神の働きを説明するだろう。

 ケンブリッジ大学のトリニティカレッジと言えば、イギリス経験論の始祖とも言うべきジョン・ロックが論敵として念頭に置いていたケンブリッジ・プラトニストの伝統を継ぐ学寮でもある。使徒団の自由な対話は、そのまま古典期のギリシャの哲学の精神を彷彿とさせ、ヨーロッパの哲学の濫觴ともいうべきプラトンの対話編の世界を偲ばせるものであった。

2 いわゆる「論理主義」の立場

 『数学原理』は二十世紀の論理学と数学基礎論の歴史に一時代を画した著作として著名である。 この著作は、ホワイトヘッドとラッセルとの共著であるが、ラッセルがホワイトヘッド没後に、哲学誌「マインド」のなかで語ったように、イギリスの哲学者の間では、「二人の共同作業のホワイトヘッドの分担部分を実際よりも小さなものと考える傾向があった」。 実際は、全三巻のすべてを通じて「共同作業の結果でないようなものはなかった」のであるが、それにも関わらず、哲学者の間では、『数学原理』の基本的な哲学思想をラッセルに関連づけるのが一般的であった。その理由は、哲学や論理学関連の様々な雑誌に、『数学原理』の基本的な論理思想を発表し論陣を張ったのがラッセルであったのに対して、ホワイトヘッドは、哲学的論争をほぼラッセルに一任して、論理学の基本原理から数学の全体系を構築するという、困難なしかし壮大な体系構築に没頭していた感があるからである。

  ある一つの旗幟鮮明な哲学的テーゼを建てて論争をすることと、そのテーゼを現実化して自己完結的な体系を構築する作業は別のものである。ホワイトヘッドは、『数学原理』を執筆しているときには、他の数理哲学の立場、たとえば、直観主義や公理主義を批判する哲学的論争に参加することはなかったのである。そのために、人々はこの著作の哲学的な解釈に関する限り、どうしてもラッセルの哲学、すなわち、のちに論理実証主義など英米の分析哲学に受け継がれていく立場から論じることとなった。

 数学基礎論の分野では、二人の基本的立場を「論理主義」として要約することが多いのは事実である。この「論理主義」という言葉は、じつを言うと問題がないわけではない。ホワイトヘッド自身は、『数学入門』という啓蒙的な書物の中で、そのような表現を使って自己の数学観を特徴づけていないことに留意すべきであろう。 もともとホワイトヘッドは、論理学者ではなく応用数学者であったわけだから、彼が数学という名のもとに考えていたものは、応用を度外視した純粋数学ではなく、広く物理学に適用される豊かな経験的拡がりのあるものであった。

 論理学と数学を峻別して、論理的真理は分析判断であるが数学的真理は先天的総合判断によって基礎づけられると述べたのは、カントであった。「純粋数学はいかにして可能か」というのはカントの『純粋理性批判』の主要課題の一つでもあった。ラッセルや、後の論理実証主義者達が標的にしたものは、まさに、このような、カント哲学の数学論であったのである。

 しかし、「論理主義」という用語を用いるときには、そこでいう「論理」の内容が問題である。数学的論理学に余り高い価値を認めなかったポアンカレなどは、「数学が論理学にすぎないものであるならば、あれほど多くの数学書で探求されている事柄が、膨大な同語反復(トートロジー)にすぎぬ事になるが、そんなことをどうして信じられよう」と言っている。

 論理学的な命題の特徴は、経験的な世界に言及することなくして、その真偽が決定可能なことである。「明日雨が降るか降らぬか、いずれかである」とか、「明日雨が降るものであるならば、明日雨は降るであろう」という命題は、明日になることを待たずして(空虚に)真となる。これが論理的真理の特徴であり、言語の形式のみによって真偽は決定可能となる。日常的な語り方の中では、同語反復というものがこれに該当する。そして、数学的な公理体系を構築するにあたって、「一群の公理がもし真であるならば、そこから導き出されるこれこれの定理も真である」という仮言的命題を作るならば、その真理性、すなわち推論の妥当性もまた、論理的真理(同語反復)に依存しなければならない。この真理は必然的な真理であるが、その必然性は、同語反復の真理のもつ必然性である。

 ここまでは、別に数理哲学などをもちださなくても、ある程度数学に親しんだものならば、だれでも認めるであろう。議論が分かれるのは、我々が公理体系などを知る以前から了解している単純な数学的命題、たとえば、「1+1=2」は、そのような意味での論理的な真理か、と言うことである。

 カントは、「1+1」という主語概念は2という述語概念を含まぬ以上、「1+1=2」の真理性は「述語が主語に含まれる」分析的な判断ではなく、直観に基づく必然命題であると考えた。その直観は、数学に固有のものであり、決して論理学の一般的原理から帰結するものとは考えられなかったのである。このカントの立場は、オランダの数学者ブラウアーの直観主義に受け継がれる。彼は、論理学の一般原理を借りずに、数論的対象の独自な性格を、時間の系列の中で遂行される有限な構成によって基礎付けようとする。

 直観主義では、排中律(SはPであるかないか、いずれかである)のような論理学的原理ですら、我々が数論的な構成によって確認できない場合は無条件で適用しないことが求められる。無限個の対象を一挙に把捉することは、有限な人間の時間直観ではあり得ないからである。 しかし、この直観主義の立場を厳格に適用すると、物理学などの経験世界に適用された解析学の大部分を、疑わしいものとして放棄するという大きな代償を支払わねばならないのが問題であった。「論理主義」のテーゼとは、直観主義の制限を超えて、数学を時間直観から切り離し、論理学上の一般原理だけから、数学の全体系を構築しようと言う試みであった。それは、有限な時間直観にもとづく帰納法に訴えることなく、一般原理からの演繹によって数学を基礎づけようと言う試みでもある。

 ポアンカレは、『科学と仮説』の中で、数学は演繹だけではなく「数学的帰納法」という手法によって、特殊な事例から一般的な定理を導出する以上、論理学だけでは説明の付かぬ原理に立脚していると述べたが、『数学原理』では数学的帰納法そのものが、自然数の定義から導出される論理的原理として扱われている。そこでは、直観的には数え尽くすことの出来ない「超限数(transfinite number)」から自然数を区別する特徴の一つとして、数学的帰納法が扱われるのである。

 直観主義が厳格な有限の立場を固守する立場であるとするならば、論理主義は自由な無限の立場である。この立場が、哲学者によっては「論理主義」ではなくて「プラトン主義」の名をもって呼ばれるのも故なしとしない。

数学基礎論における主要な三つの立場、すなわち

(1)論理主義(プラトン主義)(2)公理主義 (3)直観主義 

は中世の論理学における三つの立場、すなわち

(1)実在論 (2)唯名論 (3)概念論 

になぞらえて議論される場合がある。ここで実在論というのは、普遍者(普通名詞で名指される対象)の実在を主張する論理学上の立場であるが、数学基礎論では、集合の実在性にコミットする立場がこれにあたる。

 数が特別の直観的意味を持たない論理主義では、一般に集合の持つ基本的な性質から数の概念が演繹される。その場合、もとになっている集合の実在性が前提されるならば、結局の所は、数学的言語は全く指示対象を持たない名前にはならない。これに対して、ヒルベルト等が主張した形式主義の数学観では、外的世界の指示関係を抜きに、数学的記号の使用規則そのものに意味を求めている点で、唯名論的である。 数学が対象とすべき普遍者が、世界に実在しようとしまいとそのこととは無関係に、純然たる言語の規則によって公理体系から定理を演繹する事のみが関心事となる。もはや、「真理」は不要となり、「証明可能」という言葉がそれに置き換えられる。 直観主義と概念論との対応は、前二者と比べると明確ではないが、数学を時間直観という人間の心理的な働きに基礎づける点で、普遍者の実在性を「概念」という心的対象に求めた概念論と対応するであろう。

 ここで、大切なのは、「論理主義」でいう論理学がどのような性格のものであったかと言うことだろう。数学を論理学に還元するというとき、そこでいう論理学は、いかなる意味でも実在への関わりを持たない唯名論的なものではなかったことに注意する必要がある。なるほど、『数学原理』では、集合が実在することはあからさまには主張されていなかったが、論理学者のクワインの言い方を借りるならば、『数学原理』の体系は述語のタイプと次元の区別を持つ「高階述語論理」であったが、二階以上の述語の量化を認めるという意味で、明確に、普遍者の実在にコミットしていた。(クワイン 『論理学的観点から』)すなわち、『数学原理』は基本的には、普遍に関する実在論の立場で書かれた書物なのである

 もっとも、「述語」という語は『数学原理』の本来の用語ではない。『数学原理』では、それは、「命題関数 (propositional function)」と呼ばれている。即ち、命題の構造を分析する場合に、主語と述語という区別に立脚するのではなく、引数(argument)と関数(function)という、元来は数学において用いられていた用語を援用しているところに、『数学原理』の特色があるのである。

 「実体から機能(関数)へ」とは、カッシーラーの科学論の著作のタイトルであるが、それは『数学原理』の著者達の仕事の性格を説明するのにも役立つだろう。主語―述語の区別を命題にとって基本的なものとする論理学が、主語によって名指されるものを実体化する形而上学と深い関係にあるが、『数学原理』のように、主語も述語も関数として捉える考え方は、非実体論的な存在論を準備するものであったといえる。

 もっとも、ラッセルから論理実証主義への哲学的な潮流においては、存在論を含めて伝統的な哲学そのものに対する無関心のために、このような可能性は探索されはしなかった。この点において、ボヘンスキーが、『現代のヨーロッパ哲学』の中で、数学的論理学に一章をあてて、「数学的論理学は新実証主義と同一視してはならない。フレーゲ、ホワイトヘッド、(『数学原理』執筆当時の)ラッセル、ルカシェビッツ、フラエンケル、ショルツなど、その創設者達はみなプラトン主義者であった」と指摘しているのは正鵠を得たものであろう。

 ホワイトヘッドは、後に相対性理論の専門書を書いたことからもわかるように、純粋数学ではなくて応用数学の専門家であった。彼の処女作、『普遍代数論』の序文は次のように述べている。

数学の理想は、思考や外的経験の事象の諸系列がはっきりと確認され、明晰に述べることのできるあらゆる領域に結びついた推論を容易ならしめる演算体系(calculus)を樹立することである。哲学と帰納的推論と想像的な文学を除外して、すべての真剣な思索は演算体系によって展開された数学となるべきである。(『普遍代数論』)

 ホワイトヘッドの『普遍代数論』はその書名からして、ライプニッツの『普遍的記号論』を意識して書かれたものであるが、普遍的言語としての数学(代数学)の射程は、単なる四則演算の領域にとどまらず、思考と外界の経験的事象の諸法則の表現の全領域にわたるのである。

 数学的論理学は、応用を考慮しない純粋数学の一分野というように見なされることが多いが、それは、正しい捉え方ではない。ホワイトヘッドが『普遍代数論』を書いてから、半世紀ほど後にノイマンによってコンピュ―ターの基礎原理が発明される。そして、ウイーナーによって通信と制御の一般理論であるサイバネティックスが提唱され、シャノンによって情報理論が展開される。これらは、その後のいわゆる情報革命を準備するものとなったが、ノイマンもウイーナーも『数学原理』を学んで、そこから深く影響された数学者であった。

 ホワイトヘッドが『普遍代数論』と呼んだものと、コンピュータの言語とは密接な関連がある。例えば、前に言及した「関数」の概念は、コンピューターの汎用言語として著名なC言語では、中心的な位置を占めている。「引数」に「定数」が代入されると、さまざまな「値(value)」をかえす「関数」の概念が、人間のあらゆる種類の知的活動を表現する広義の「演算体系」となることこそ、ホワイトヘッドがコンピュータによる情報革命が起きるよりも半世紀前に予見したことであった。

 数学が、このように人間の知的活動で、規則性が明瞭に表れるすべての領域で使用される「演算の体系」と見なされるならば、それが、従来論理学者にゆだねられてきた領域をも含むのは当然であろう。ホワイトヘッドの立場から『数学原理』を見ると、そこでいう論理学は、伝統的なアリストテレスの形式論理学ではなくて、「普遍代数」として数学化された論理学になっているのである。

 関数の概念が数学的論理学において中心的な役割を持つといったが、そのことを、アリストテレス論理学との対比において、説明してみよう。

典型的なアリストテレス論理学における主語―述語命題として、「人間は理性的動物である」を例にとる。 ここで、主語である人間は、種の名称であり、動物という類にそれが帰属し、「理性的」という主語によって、人間の本質的な定義が為されている。この命題は、いわゆる定言命題であって、何ら仮定的なものは存在しない。これを、『数学原理』の著者達のやり方で言い換えるならば、

「もし、xが人間であるとすれば、xは理性的動物である」という命題関数は、あらゆる引数xの値に対して、真である、

となる。

ここで、「人間(x)」を「xは人間である」,

「理性的(x)」を「xは理性的である」、

「動物(x)」を「xは動物である」

をそれぞれ表す命題関数であるとすると、

「人間は理性的動物である」は、次のような形式で書かれる。

(x)(人間(x)⊃(理性的(x)&動物(x)))

この定式で、「(x)(....⊃...)」の部分は「形式的含意(formal implication)」と呼ばれ、数学の定理であれ、自然法則であれ、およそ法則というものが持つもっとも普遍的な形式を表している。

 

 言い換えれば、プラトンーアリストテレスの伝統において、「エイドス」とか「形」とか呼ばれたものが、『数学原理』ではすべて命題関数として、関数的に定式化され、主語と述語の定言命題は、命題関数の関係にほかならぬ形相的含意によって表現されているのである。

 伝統的な論理学で主語の位置に来るものは、『数学原理』では、関数の引数(argument)である。そして、関数値として真理値をとるものが命題関数であるから、主語―述語の論理学は、広い意味での関数理論の一部に取り込まれることになるのである。

3 無限への挑戦

 ボヘンスキーが言ったように、数学的論理学の創始者のうち多くのものはプラトン主義者であった。ここで、プラトン主義という言葉の意味は、単に普遍者の実在にコミットすると言うだけでなく、「数とは何であるか」という本質定義の問題が重要な意味を持っていると言うことである。「....とは何であるか」という問いは、哲学の出発点をなす問いである。数学基礎論と数理哲学を分かつものがあるとすれば、この問いが真剣に問われているか否かが決め手であると言っても良い。

 ラッセルは、『数理哲学序説』のなかで、第二章を「数の定義」にあてて次のように言っている。

 「数とは何か」という問題は、従来よく問われてきたものであるが、正しい答えが与えられたのは我々の時代になってからのことである。その答えは、フレーゲによって、一八八四年に「算術の基礎(Grundlagen der Arithmetik」で与えられた。この書物は、短く、容易で、しかも最高の重要性を持つにも関わらず、ほとんど注目されず、そこに含まれている数の定義は、同じものが筆者によって1901年に再発見されるまでは、ほとんど知られていなかった。

 ここで、最初にフレーゲが発見し、のちにラッセルが再発見した数の定義は、集合の概念に依拠するものであった。数とは何かという問題に対して、最初に、「ある集合の数」という概念を「その集合に相似なすべての集合からなる集合(the class of all those classes that are similar to it)」で定義し)、「数」を、「ある集合の数である任意のもの(anything which is the number of some class)」として定義する方法は、集合という普遍者の実在にコミットしていた。この点が、論理実証主義やアメリカの実用主義者達の数学観と大きく異なっている[1]

 集合は、ここでは、多くの要素を持つ一つのものとして了解されており、それ自身が上位の集合の要素となりうるものである。ラッセルとホワイトヘッドが『数学原理』の中で数を定義するとき、有限な数(finite number)と超限数(transfinite number)の両者に共通する数の定義を与えていることは注目に値する。有限の集合も無限の集合も集合であるという点に関しては同一の論理に従うと言うことが、このような数の定義にとって本質的なことである。

 『数学原理』執筆当時のラッセルとホワイトヘッドは、無限集合を客体化することを認める「積極的無限論」の立場を受け継いでいた。もし、有限なる知性が、直観に基づいて一つ一つ対象を枚挙していくというやり方を採用するならば、そこで取り扱うことのできるのは、どれほど多数であっても常に有限なるもののみである。無限なるものは、ただ「数え尽くせぬもの」として否定的に規定できるだけである。

これに対して、カントールに始まりボルツァーノを経由して『数学原理』に受け継がれた「積極的無限論」では無限集合が「肯定的に」定義され、有限集合は、逆に「否定的に」定義されている。何故、そのような発想の逆転が可能になるのか。その鍵は、「対応(correspondence)」という概念にある。

 無限集合が実在すると仮定すると、有限集合では起こらない矛盾した性質を認めなければならないと言うことは、カントール以前にも知られていた。例えば、自然数の全体からなる一つの集合が実在するとすると、偶数の集合は、その部分集合となるが、この部分集合は、全体集合である自然数全体と、「余すところなく一対一に対応づける」事ができる。その意味で、無限なる集合では、部分が全体に「相似(similar)」であるということが起こりうる。同様に、どのような短い長さの線分も、もし無限個の点からなる連続体として考察するならば、その線分を含むどれほど長い直線とも、どれほど広い平面とも、またどれほど大きな立体とも、「相似」なものになりうる。もし、「部分はいかなる意味でも全体に等しくはない」と言うことを、ユークリッドの幾何学原論で言え言われているような意味で、数学の公理と見なすならば、無限なる集合は、もしそれが実在すると考えるならば、この公理に背反するのである。

  このような逆説を避けるために、「無限なる集合は実在しない」という立場を「消極的無限論」の立場であるとするならば、「積極的無限論」の立場は、そこで避けられた逆説そのものを、無限なる集合の積極的「定義」へと転換したところに成立する。即ち、無限なる集合とは「全体と相似な真部分を持つ集合」であり、有限なる集合とは、「いかなる部分集合も全体と相似ではない集合」である。そこでは、無限なる集合の定義の否定として、有限なる集合が規定されている。

 カントールに始まる「積極的無限論」は、あきらかに無限なるものを扱う際に、数学者に対してパラダイムの変換を強いるものであった。ラッセルは、このような新しい数学に出会ったときの衝撃を次のように回想している。

(はじめてカントールの著書を読んだとき)私は、その議論の骨子ををノートに書き写していった。最初の内、私は、著者の議論は、独創的ではあるが、根本的に間違っていると思っていた。しかし、最後まで読み通したときに、間違っていたのは、私の方であったことに気づいた。(『自伝的回想』)

 後に、カントールと文通するようになったラッセルは、カントールからカント哲学の手厳しい批判を聞くことになる。カントの第一批判では、「純粋数学はいかにして可能であるか」ということが課題の一つとして提起されていたが、カント自身は、その可能性を有限なる人間の感覚的直観の形式に求めたために、カントールが目指しているような無限なる集合の数学は最初から排除されてしまうからである。

「無限なる集合の数学はいかにして可能か」という問題こそ、『数学原理』の著者であるラッセルとホワイトヘッドの主要課題であった。この課題を忘却して、『数学原理』の目的を単に、数学を論理学に還元することをめざしたものというように矮小化することはただしくない。

 たとえば、1+1=2という誰もが知っている有限なる算術の命題が、『数学原理』という著書のどこで証明されているかを見てみると、それは、じつに第一巻第二部セクションAの第五三節であって、それまでに論理学と集合と関係に関する一般的理論が展開された後で、はじめて証明されるのである。

 1+1=2のごとき誰にもよく知られている命題が、膨大な論理学的準備を行った後で、証明されると言うことは、何を意味しているのであろうか。それは、我々にとって自明なものが、事柄自体において自明とは限らないと言うこと、有限なる数の算術も無限なる数の算術も共に従うべき論理と集合と関係についての一般理論が確立した後で、始めて証明されるべき命題として提示されると言うことが、『数学原理』の体系構成の大きな特徴となっているのである。

それでは、数学基礎論の歴史において一時代を画したと言われる記念碑的な著作である『数学原理』の構成を更に詳細に見てみよう。

 『数学原理』は全体で三巻、総ページ数約二千頁の大著であり、それを読み通すのは容易ではないが、きわめて整然とした構成をもっている。全体が六部形式で、

第一部 数学的論理学

第二部 基数の算術の序説

第三部 基数の算術

第四部 関係―算術(relation-arithmetic)

第五部 系列(series)

第六部 量

となっている。

 幾何学に関する部分がさらに続く予定であったが、結局のところ、それは刊行されず、量の一般理論が提示されただけで終わっている。即ち、この著作は完結したものではなく、後に幾何学と物理学へと展開する壮大な体系への序論という性格をもっていたのである。

 今日では、論理学は、「具体的な経験内容を書いた純然たる形式的な推論の学」として、自然科学のような経験科学とは一線を画するのが習慣となっているが、『数学原理』はそのような立場で書かれてはいないと言うことは、強調しておく必要がある。それは、自然科学の基礎的かつ形式的な諸部分と連続性をもっており、一般性の度合いにおいて違うだけなのである。

 『数学原理』の続編は、それがもし書かれたとすれば、そこで構築された論理学的手法を用いて、幾何学や物理学の基礎にまで及ぶ壮大な体系となるべきものであった。しかしながら、実際には、二人の共著という仕事を続行不可能としたいくつかの事情があった。一つは集合論の基礎に潜んでいた「ラッセルの逆理」を回避するために、『数学原理』の体系を手直しするのに非常な手間がかかったこと。もう一つは、逆理の発見以後、ますます実証主義的かつ唯名論的立場に傾斜していくラッセルとホワイトヘッドとの間で微妙な意見の対立があったことがあげられる。

 第一節で、ホワイトヘッドの研究ノートの借用を申し込んだラッセルに、ある懸念を表明しながらもそれに応じたホワイトヘッドの書簡を引用したが、この書簡の時期あたりから、二人の哲学的な意見の差が顕著なものとなっていった。ラッセルがホワイトヘッドの研究ノートを借りたのは、「延長的抽象化」の手法を知りたかったためであったが、この方法は、「大きさを持たない点」や「幅のない線」の様な幾何学の抽象的要素が、経験において与えられる延長を有する対象から、いかにして抽象されるかという問題を解くためのものであった。

 ラッセルは、この方法を更に一般化して、「実体は必要以上にふやしてはならない」というオッカムの唯名論的な原理と結びつけ、「推論された存在を論理的な構成によって置き換える」という科学哲学の第一原理に変容させる。彼の立場は、感覚与件を唯一の出発点とし、そこから外的世界や他人の心を、あとから論理的に構成していくという点で、基本的には、形而上学を排除した論理実証主義者達と同一の路線をとっていたといって良い。実際、カルナップは、『世界の論理的構成』という著作で、ほぼラッセルの考え方を受け継いでいたのである。

 これに対して、ホワイトヘッドの科学哲学は、形而上学を排除するものではなかった。『自然認識の諸原理』の第二版の序文は、「近い将来、(科学哲学)三部作の見地をより完全な形而上学的研究に包括することを望む」と明言していた。『数学原理』で開発された、論理学的な手法は、実証主義と結びつくのではなく、近代科学の中に潜んでいた抽象的な諸前提を批判し、新しい自然哲学を展開するための道具として使われたのである。我々の直接に知覚する世界から出発して、物理学の基礎原理の経験的根拠を反省し、それと共に、近代科学で前提されていた科学的唯物論を批判すること、実体中心的な世界観から相互関係の網の目のうちにある「出来事」を中心的とする世界観へ転換するという事が、科学哲学三部作の基本的な構図であった。

 

[1] 現代論理学では、クラス(class)と集合(set)を区別し、上位のクラスのメンバーになりうるクラスを集合と呼ぶが、ここでは意味内容上、classを集合と訳した。

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「プロセス思想」創刊号の巻頭言を読むー二十一世紀の文明の構築に向けて

2021-01-09 | 哲学 Philosophy

 南山大学で第二回国際ホワイトヘッド学会が開催されたのは1985年でしたが、その翌年に日本ホワイトヘッド・プロセス学会(創設は1979年)の学会誌『プロセス思想』が創刊されました。巻頭言として初代会長の山崎正一先生の「創刊に寄す」が掲載されています。 

 山崎先生は、日本哲学会の会長を勤められましたが、ホワイトヘッド学会の初代会長でもありました。東京谷中の(臨済宗)興禅寺の住職でもあった先生は、大学院でカントの「純粋理性批判」講読と、道元の「正法眼蔵」講読の二つの演習を担当されていました。先生が1973年に退官されるまで、私もこの二つの演習に参加していましたが、当初は、イギリス哲学とカント哲学の専門家として知られていた山崎先生がなぜ道元を演習のテキストに使われていたのか、理由がよく分かりませんでした。しかし、先生が、東京谷中にある由緒ある古刹、興禅寺の住職であることをあとになってから知りました。

 仏教的な智は近代西洋哲学とは違って、死を免れない人間の生き方を直接に問題とすること、近代人が忘却した人間存在の有限性の自覚、僧堂生活の中で伝承された「戒・定・慧」の「三学」による全人的な教育、とくに道元の「修証一等」の修道論の意味の再発見ということを、私は山崎先生の演習から学んだと思っています。

 山崎先生の『プロセス思想』巻頭言は、36年前に書かれましたが、現在でも古さを全く感じさせません。とくに近代産業社会が姿を現した一九世紀以来の文明社会を特徴付ける三つの対立関係が、「錯乱の人間(homo demens)」ともいうべき偏頗な人間像を輩出し、それが二〇世紀の文明の危機的状況を生み出したという認識は手厳しい。それは、大学で専門分化した学問を学ぶだけで、社会倫理と宗教を忘却した人間に対する警鐘ともなりましょう。

 現代文明の危機を克服するために、二十一世紀以降の人類に求められているのは、第一に、自然と人間との調和であり、第二に、人間相互の間の調和であり、第三に、人間における知性と感情との間の調和であるということを山崎先生は巻頭言で説かれています。そのような観点から、「古代以来の人類の正統的な知恵の探究」に棹さすホワイトヘッド哲学の意義とその歴史的社会的使命をとくあたり、まことにホワイトヘッド学会の創立の理念に相応しい内容であると思いました。

 プロセス思想創刊号は、まだ電子化されていないので、以下にその全文を再録します。 

ーーーーーーーーー創刊に寄す(山崎正一)ーーーーーーーーーーー          

 近代産業社会が姿を現した一九世紀初頭以来、現代の文明社会は、三つの対立関係を基本的枠組( パラダイム) --fundamental presuppositional scheme(framework)--として運営せられている。
 第一は、自然と人間との対立である。人聞は、自然の内に、自然の一部として生れた存在でありながら、自然界から自己を引きはなし、自己を自然界から自立させ、そして、自然界を征服し管理し統御すべきものとせられる。人間は自然を開発し、自然界の力を、統制し運営する。そこに人間存在の意義を、人間の人間たる所以を、見出そうとする。
 第二は、人間相互の対立である。個性を重んじ、個的主体性・人格性を尊重する。相互に競争することによって、個人にとっても、社会にとっても、よりよき進歩が得られると考える。相互に相手を、自己と同様に尊重することを理想とし建て前とする。個人と個人との相克を調停するのは、正義公正の原則である。こうして、階級対立のない差別なき平等な民主的社会が実現せられると考える。
 第三は、人間における「知性」と「感情」(情念)との対立である。合理的知性は、非合理的感情(情念)を、規制し制御すべきものとせられる。これによって、人間生活を合理的に開明化し、社会生活における非合理的な人間関係と呪術信仰を排除すべきものと考える。
 以上、三つの対立関係を抜本的枠組(パラダイム)として、人間は、自然を征服し、人間世界をたえず拡大して前進してゆくべきものとせられ、相互に個性を尊重し正義公正の原則に基いて民主的社会を運営し、非合理を排して合理的に整序せられた理性的人間の社会をめぎして進歩しゆくべきものとせられた。
 しかしながら、結果において、もたらされたものは何であったか 。 二十世紀において明らかとなったことは、第一に、大規模な自然環境の破壊の進行であった。またそれは、人間の生理的身体を破壊し、さらに遺伝子に影響を与えて、将来の子孫の存在までも危うくすることが明らかになったことである。
 第二に、人間は、相互に相手を尊重することを建て前としながら、実状においては、相互に相手を圧服し征服し統御しようとする。個人では力が弱いということになれば、徒党を組み、団結し、組織を作り、こうして徒党や組織体が互いに対抗し争い合う。それは相互不信と相互抗争の世界である。個人にとって国家は敵であるが、国家にとっても他の国家は敵である。
 第三、人間存在は、理性的であるのみではなく、依然として情念的存在であるから、理性によって抑圧された情念は、様々な精神障害を惹き起す。それは内攻して内圧力を高め、吐け口を求めて一挙に噴出する。それは暴動ともなり、あるいは組織的なる反抗運動ともなる。この場合に、情念を鼓舞激励するのは「力は正義なり」という理念である。
 以上、一連の事象の意味するところは何か。それは、人間存在が主体的な理性的存在であるという点を一面的に強調することによってもたらされた「逸脱」--diviation--の世界であるということである。それはホワイトヘッドの言葉を借りれば、「具体者置き違いの誤謬」---fallacy of misplaced concreteness---ということになるであろう。即ち、それは、人間存在の在るべき姿の或抽象的な一面を描き出し、これを具体的なものと思い錯覚した誤謬である。このような誤謬に陥った人間が、(錯乱の人間)に他ならない。思うに、それは主体的合理主義の<<近代的>>誤謬であって、人間存在が存在するための必要条件にのみ注目しその充分条件を見失った誤謬ということができよう。
 人間存在の充分条件は、「対立」ではなく、むしろ「調和」(harmonia)である。人間存在のあるべき姿として、二十一世紀以降の人類に求められているのは、
第一に、自然と人間との調和であり、第二に、人間相互の間の調和であり、第三に、人間における知性と感情との間の調和である。
 ホワイトヘッドの「有機体の哲学」が目指しているのは、このような新しい世界を開く基本的スキームであるということができよう。それはまた、前一千年紀以来、地中海域から、オリエント、インド、中国シナの古代文明の知性か求めた「知恵」(wisdom)の探究の伝統につながるものである。私の考えでは、このような知恵の探究は、実のところ、根源的には、石器時代以来、人類が、世海と人間とに対して抱いた基本的想念を手がかりとし、これに基づくものである。
 正義公正の原則は、人間の共同存在のための必要条件を示すものにすぎない。人間間共同存在の充分条件となるものは信愛である。そして何よりも、人類はみづからが有限な存在であることを思い、謙虚にみづからを省みるところがなければならない。そのときに、はじめて人々は、現代文明社会において見失った善美なる価値の世界をふたたび見出すことができ、近代科学も、在るべき価値秩序の中に、自己の在るべき位置を見出すことができるであろう。
 今回創刊の機関誌が、古代以来の人類の正統的な知恵の探究に棹さすものであることを想い、ここに、その出立を祝うものである。

===================================================================

ちなみに、『プロセス思想』創刊号の目次は以下の通りです。

創刊に寄す    
山﨑正一  -------1

大乗仏教とホワイトヘッド哲学ー特に中観と瑜伽行唯識の基本的問題について--------5  
武田龍精

ハヤトロギアとホワイトヘッドのプロセス思想-------19  
田中裕

ホワイトヘッド形而上学における神の観念について-------33  
京屋憲治

バルト神学とホワイトヘッド哲学-------43  
大島末男

出来事・有機体・現実的実質とシステムーホワイトヘッド哲学とシステム哲学の概念比較------55  
伊藤重行

ギリシャ教父に見る万有在神論ーエイレナイオス、マキシモス、パラマスの場合------65      
木鎌安雄

ホワイトヘッド国際シンポジウム回想 relevancy and genius------79  
松延慶二

Japanese Universities and their Function in National Development ------86 
Keiji Matsunobu

 

 

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