歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

西田幾多郎を読む 1

2007-07-12 |  宗教 Religion

「場所的論理と宗教的世界観」(全集11巻376-377) で西田は次の如く云う。

絶對矛盾的自己同一として、眞にそれ自身によって有り、それ自身によって動く世界は、何處までも自己否定的に、自己表現的に、同時存在的に、空間的なると共に、否定の否定として自己肯定的に、限定せられたものから限定するものへと、暇なく動的に時間的である。 

時が空間を否定すると共に空間が時を否定し、時と空間との矛盾的自己同一的に、作られたものから作るものへと、無基底的に、何處までも自己自身を形成し行く、創造的世界である。此の如き世界を、私は絶對現在の自己限定の世界と云ふ。

 かゝる世界に於てのみ、我々は眞に自己自身によって動くもの、自覺的なるものを考へ得るのである。 かゝる世界に於て、物と物とが相對立し、相互否定即肯定的に相働くと云ふことは、主語的に考へられる所謂物と物との對立的關係ではなくして、世界と世界との對立的關係でなければならない。働くものは、何れも自己自身が一つの世界として、他の一つの世界に對するのである。

私がいつも個が個に對すると云ふのは、之に他ならない。我々の自己が意識的に働くと云ふのは、我々の自己が世界の一表現點として、世界を自己に表現することによって世界を形成することである。

第1段落 では「絶對矛盾的自己同一として、眞にそれ自身によって有り、それ自身によって動く世界」に言及があった。これは端的に言えば、「創造的世界」であるが、「それ自身」とは「世界自身」という意味ではない。もしそうであるならば、世界は単なる自己同一として、スピノザの云う意味での「能産的自然=汎神論の神」のごときものとなるであろう 。しかるに矛盾的自己同一としての世界は実体的な自己同一をもたぬのである。自然およびその中に生きる人間は、ともに「作られて作るもの」であり、自己自身の内に自己同一を有つものではない。それは自己自身のうちにではなく「絶対の他」において自己同一を有つものである。

西田哲学にとっての究極的な超越は、「存在」としての神ではなく「絶対無」としての神である。「絶対無」とは、有限なる世界を超越する無の場所、世界の中にある一切の存在が、そこにおいて無限の超越に晒される場所である。

絶対無とは、實在の実在的自覺の生起する場所であり、我々が我々自身よりも近き根源的リアリティを自覚する場所である。

西田の云う「絶対の他」とは誰のことか。それは無の場所において捉えられた他者であり、この他者に媒介されて我々は他ならぬ自己を自覚するのである。

「絶対の他」とは、決して単なる超越的存在ではなく、我々自身よりも我々に近き「汝」であり、我々の最も身近なる他者経験を通して、すなわち決して私自身の内に回収されぬ他者経験を通して、直下に捉えられるものでなければならない。

西田哲学が問題としているのは超越的「存在」としての神ではなく、絶対無の自己限定、すなわち絶対無に由来する個物の自己限定である。すなわち個物とはそれ自身が矛盾的自己同一であり、個物と個物の相互限定のただなかにおいてこそ、我々は一つの世界として他なる世界と相対するのである。世界の中に神は存在しない。

矛盾的自己同一とは神無き世界において、かかる世界を通して神を表現することに他ならない。そのとき個は真の意味において「創造的世界の創造的要素」として働き、そこにおいて生死するのである。

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