歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

列王記上の預言者エリシャの故事と高山右近

2021-06-25 |  宗教 Religion
 細川家譜によると前田利家に従って小田原征討作戦に従軍した高山右近は蒲生氏郷と細川忠興に陣中で牛肉を振る舞ったとある。 このエピソードは日本人が牛肉を食するようになった歴史を語るときによく引用されるが、その時の高山右近の心の中まで立ちいって考察したものは見当たらない。 
 従来誰も指摘してこなかった事柄であるが、乱世の戦国時代の福音伝道者ともいうべき高山右近の心中を理解するために重要であると思うので、ここでひとつの旧約聖書の故事を指摘しておきたい。それはカトリックのミサで読まれる旧約列王記の記事である。
 列王記が当時のキリシタンに知られていたことは、たとえばキリシタンを迫害した(フランシスコ大友の)奥方が、列王記にならって「イザベル」とよばれていることからも推察できよう。
 列王記第一八章では、イスラエルの神ヤーウエを礼拝するか、それともアハブとその妻イザベルが信じるバールを礼拝するかという信仰の決断が問題とされており、第一九章では預言者エリヤが自分の後継者としてエリシャを指名した後で、エリシャが古い習慣を改めて、農耕牛を屠って友人と会食する故事が引用されている。  
 
旧約聖書列王記上19-21(現在のカトリックの弥撒典礼ではC年、年間第一三主日の旧約聖書朗読箇所)に次の記述がある。
 
「エリシャはエリアを残して帰ると、一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。それから彼はエリアに従い、彼に仕えた(新共同訳)」
 
 フランシスコ会聖書研究所の注解によれは、農耕用の家畜であった牛を調理して食することは、古い生活に終止符を打つことを意味する、とのことである。またヨハネ・パウロ2世編纂の英語版の主日典礼書では、「牛の装具」と邦訳された上記箇所のラテン語aratrumを鋤(plough) と英訳して、He used the plough for cooking the oxen (牛を調理するために鋤を用いた)としている。 
 もし高山右近が旧約聖書列王記の故事を念頭に置いて牛を調理したとすれば、それは文字通り「鋤焼き」をして蒲生氏郷と細川忠興に振る舞ったと理解してよいだろう。 
 
 秀吉のキリシタン迫害の一つの理由は、農耕用の牛を南蛮坊主が食するのは野蛮であるということであったが、高山右近の「鋤焼き」は、旧約列王記の故事に習って、古き習慣を改めさせるという意味があったであろう。
 
ミサ典礼で上記の列王記の故事と並行して読まれるのは、パウロのガラテヤの信徒への手紙であるが、そこには
 
「自由を得させるためにキリストは私たちを自由の身にしてくださったのです。だからしっかりしなさい。奴隷の軛に二度つながれてはなりません。」
 
とあり、古き習慣にとらわれた奴隷の身からキリストに従って自由の身となることが勧められている。高山右近の「鋤焼き饗応」のエピソードも従来理解されてきたような非キリスト教的な文脈とは違った意味で理解できるのではないだろうか。
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