福音歳時記 3月8日 聖ヨハネ病院修道会創設者記念日


福音歳時記 3月7日 聖ペルペトゥア 聖フェリチタス殉教者の日
獄中の夢は信實ペルペトゥア竜も剣(つるぎ)もおそれぬ自由
西暦203年3月7日にローマ皇帝セプティミウス・セウェルス下の迫害により殉教した二人の女性ペルペトゥアとフェリチタスについては、殉教者自身の筆録も含め、「ペルペトゥアとフェリチタスの殉教」と呼ばれる詳細な文書が残されている。ローマ皇帝によるキリスト教迫害と豊臣秀吉の伴天連追放という時代背景の違いはあっても、「勇敢な女性」の「殉教=信仰の証し」と言う点では、ペルペトゥアと細川ガラシャには共通点がある。それは、彼女たち自身の言葉が遺されており、またその殉教時の状況がさまざまな人によって記録されているからである。
ペルペトゥアの殉教録のなかには、棄教を促す父親と彼女との対話が含まれている。老境に入った父親は、家族や親戚、彼女の赤子への配慮を引き合いに出し、棄教を促す。ペルペトゥアはそのたびごとに大きく心を揺り動かされるが、「被告の席の上でも、神の思し召し通りのことが起こるでしょう。私たちが自分の力の中にではなく、神の力の中にいることを知って下さい(scito enim nos non in nostra esse potestate constitutos, sed in Dei) 」と父親に答え、信仰を捨てないことを告げる。
ローマ帝国の時代の殉教録に特徴的なのは、コロッセウムでの野獣刑である。これはおそらく異教の神々への人身御供という意味があったと思われるが、ペルペトゥアもまた、入場門のところで、サトゥルヌス神とケレス神の神官の祭服を着用するように言われるが、彼女は断固としてそれを拒否して次のように言う。
「私たちが自らこのようなことに進み来ているのは、自分の自由が奪われないためでした。私たちが自分の生命を献げるのも、こんなことをしたくなかったからでした。その点についてはあなた方も私たちと意見が一致して居るはずです」
結局、彼女の主張が認められ、異教の祭服の着用が免除されたので、彼女は詩編を歌い、行進して総督ヒラリアヌスの前に来ると、
「あなたは私たちを(裁くが)、しかし神があなたを(裁くでしょう)」と堂々と述べたために鞭打たれ、牝牛の角に突かれたあとで、剣闘士の剣によって最期を迎えたと書かれている。
ペルペトゥアの殉教録には、彼女の弟が、殉教が神意にかなうものであるのかどうか夢にて尋ねるように懇願したことも書かれている。当時は、夢の中で神意が告げられるという考えがあった。ペルペトゥアが獄中で見た夢は、梯子の乗り天上に赴くと、梯子の周りには刃の突いた武器、麓には竜がいたので、この夢によって彼女は自分がコロッセウムで殉教することが摂理なのだと知ったのであろう。
福音歳時記 2月の読書と黙想ーロシア聖歌と聖詠の伝統
キリル文字にて記されし聖詠は三位言祝ぐヘルヴィムの歌
2月14日は聖チリロ隠世修道者、聖メトディオ司教の祝日である。9世紀のギリシャに生まれたこの兄弟は、スラブ民族の土着の文化を尊重し、現地の言葉で典礼書を作成した。(そのときに使ったアルファベットが、のちにキリル文字と呼ばれるようになった)。
ヨハネパウロ二世は、回勅「スラブ人の使徒」のなかで、この二人の兄弟を、キリスト教の「文化内開花」の精神の先駆者として賞賛し、ヨーロッパの諸民族の一致と自由、相互の文化的伝統を尊重すべきことを説いた。
キリスト教の宗教音楽を語る場合、聖詠(詩編の朗詠)を重んじるロシア聖歌は、ローマ教会のグレゴリオ聖歌と並ぶ重要性を持っている。両者ともにアカペラで歌うのが本来の形であるが、器楽の伴奏を伴った宗教音楽として、西方にはビバルディ、バッハ、ヘンデル、モーツアルトといったの古典派の伝統があり、東方には、チャイコフスキー、ムソルグスキー、ラフマニノフ、スメタナ、ドヴォルザークらの国民楽派の伝統がある。それぞれが、各民族固有の文化の特色を持っている。
ロシア聖歌の伝統を受け継ぐとともに西欧音楽の作法にも通じていたチャイコフスキーの「ヘルヴィムの歌」は、東西の宗教音楽融合の傑作である。ヘルヴィムとは西方教会で言う「ケルヴィム」(旧約聖書に登場する天使)のことで、ロシア語で、「我等奥密にしてヘルヴィムをかたどり、聖三の歌を生命を施す三者に歌いて今この世の慮りを悉く退くべし」と歌う。
TCHAIKOVSKY - Hymn of the Cherubim
福音歳時記 2月の読書と黙想ー儒教からキリスト教へ-
キリストに通ずる儒者の説きし道天を敬ひ人を愛する
「敬天愛人」という言葉を最初に使った日本人は中村敬宇(正直)(1832-1891)である。慶応二年(1866)幕府の命により英国に留学した当時の彼は昌平黌の主席教授(御儒者)であった。日本を代表する儒者であった敬宇が、なぜわざわざ外国に留学したのか、その志は「留学奉願候存寄書付」(志願して留学する中村の意見書)につまびらかに書かれている。
その第一段で「儒者の名義を正す」として、「天地人に通ず、これを儒といふ」とし、学問は支那一国に限らぬ普遍的なものであると再定義した
第二段で、アヘン戦争後の中国の先例に触れ、西洋との交渉は通訳任せであってはならず、和漢の学に通じた者が留学すべきであると説いた。
第三段で、中村の考えていた西洋の学問について次のように述べる。
(引用)
「西洋開化の国にては凡その学問を二項に相分け申し候様に承り申し候。性霊の学、即ち形而上の学、物質の学、即ち形而下の学、とこの二つに相分け申し候ふ。文法の学、論理の学、人倫の学、政治の学、律法の学、詩詞楽律絵画彫像の藝などは性霊の学の項下に属し申し候。万物窮理の学、工匠機械の学、精錬点火の学、本草薬性の学、稼穡樹芸の学は物質の学の項下に属し申し候。」(/引用)
これまで蘭学者達が西洋から学んできたものは、専ら科学技術(物質の学・形而下の学)であって、実用的な利益を上げるための手段智にかぎられてきた。学問の根幹をなす倫理道徳の道(性霊の学・形而上学)、人倫の学、政治学、法学を学ぶためには、少年生徒による留学生では不十分であり、西洋の倫理の善悪を熟慮考察し、その正邪得失を判断するためには、東洋の道徳の基礎に通じたものでなければならない、と論じている。
いわゆる「和魂洋才」とか「東洋道徳西洋芸術」(佐久間象山)のごとき立場を越えて、西洋の物質文明の根底にある、人倫と政治の学問に関心を持った敬宇は、ミルの「自由論」(帰国後、敬宇はそれを「自由之理」として邦訳する)を読み、西洋民主主義の根本思想を学ぶ。
帰国後(明治元年)に書いた西国立志編の『緒論』では、
「君主の権は、その私有にあらざるなり」と述べ、「君主の令するところのものは、国人の行んと欲するところなり。君主の禁ずるところのものは、国人の行ふを欲せざるところなり」と、君主を馬車の御者、国民を馬車の乗客に譬えている。どちらに進むべきかは乗客の意向で決まるのであり、御者である君主は客の意向に従い車を走らせれば良いと云うのであ。
敬宇は、英国下院(House of Commons)を「百姓の議会」上院(House of Lords)を「諸侯の議会」、国会議員を「民任官」と翻訳し、理想的な国会議員を、「必ず学明らかに行ひ修まれるの人なり。天を敬し人を愛するの心ある者なり。多く世故を更へ艱難に長ずるの人なり」と規定した。
〇「敬天愛人」とは、このように明治元年、中村敬宇によって、人民によって国会議員に選ばれた者の心得という文脈で、日本で初めて使われたのである。
静岡の学問所で敬宇の講義を聴いた者の中に、薩摩藩士の最上五郎が居た。彼は敬宇の思想を西郷南州に伝え、西郷はそこにみられた思想に共鳴し、「敬天愛人」の書を多く遺すことになったのである。
静岡時代に敬宇の書いた『敬天愛人説』では、はじめに儒教の伝統の中で「敬天」と「愛人」に関する諸説を引用したうえで、それをキリスト教の倫理にも通じる普遍的な道徳であることを論じている。
①「天は我を生ずる者、乃ち吾父なり。人は吾と同じく天の生ずる所なるは、乃ち吾兄弟なり。天それ敬せざるべけんや、人それ愛せざるべけんや。」
②「何ぞ天を敬すると謂ふ。曰はく、天は形無くして知る有り。質無くして在らざる所無し。その大外無くその小内無し。人の言動、その昭監を遁れざること論なし。乃ち一念の善悪、方寸に動く者、またその視察に漏れず。王法の賞罰、時に及ばざる所有り、天道の禍福、遅速異なると雖も、而モ決シテ愆る所無し。」
③「蓋し天は理の活者、故に質無くして心有り。即ち生を好むの仁なり。人これを得て以て心と為せば、即ち人を愛するの仁なり。故に仁を行へば、則ち吾心安じて天心喜ぶ。不仁を行ヘば、則ち吾心安ぜずして天心怒る。」
④「それ天は肉眼を以て見る可からず、道理の眼を以てこれを観れば、則ち得て見るべし。天得て見るべくば、則ち敬せざらんと欲するも、何ぞ得べけんや。」
⑤「古より善人君子、誠敬を以て己を行ひ、仁愛を以て人に接す。境地の遇ふ所に随ひ、職分の当然を尽す。良心の是非に原き、天心の黙許に合ふを求む。」
⑥「故に富貴を極めて驕らず、勲績を立てて矜らず。窮苦を受けて憂へず、功名に躓きて沮らず。禍害を被リ阨災を受くると雖も、快楽の心、為に少しも損せず。これ豈に常に天の眼前に在るを見るに由るに非ずや。天道の信賞必罰を信ずるに由るに非ずや。」
⑦「若しそれ天を知らざる者、人と争ふを知るのみ、世と競ふを知るのみ。知識広ければ、則ち一世を睥睨し、功名成れば、則ち眼中人無し。願欲違へば、則ち咄咄空に書す。禍患及べば、則ち天を怨み人を尤む。自私自利の念、心胸に填塞して、人を愛し他を利するの心毫髪も存せず。これ豈に天を知らざるの故に非ざるか。」
⑧「是に由りて之を観るに、天を敬する者、徳行の根基なり。国天を敬するの民多ければ、則ちその国必ず盛んに、国天を敬するの民少なければ、則ちその国必ず衰ふ。」
「天は我を生ずる者、乃ち吾父なり」以下の文では「天」は人格的な性格が顕著であり、儒教の「天」よりもキリスト教のHeaven(=God)に近い用法である。敬宇は、帰国途上で読んだSamuel Smiles のSelf-Help(自助論)をのちに「西国立志編」として邦訳したが、そこでの「天はみずから助くるものを助く」の自主独立の精神の根底にあるものは儒教的な語で書かれたキリスト教倫理ともいえるものであった。
この「敬天愛人論」を呈された大久保一翁 は中村敬宇にあてた書簡のなかで、この言葉が、当時の蘭学者に知られていた聖書の漢訳に由来する者であることを指摘している。
しかし、一翁 は、当時禁教であったキリスト教の聖書に由来すると云っても、そこに書かれていることは儒教の教えと変わりなきものだから、これを刊行しても一向に差し支えないとして、次のように云っている。
(引用)「旧新約書中の語にても御稿の趣にては聊か嫌疑も有之間敷候、何の書出候とも其辺は唐土二帝孔夫子も同様と存候、……既に敬天愛人と四字並候西洋物漢訳書中より鈔し置き事に候。且御文の趣にては何の嫌疑も有間敷存候。」(/引用)
「文明」とは何か:「南洲翁遺訓」より
明治維新と共に「文明開化」の時代が始まるが、官軍に敗れた荘内藩士たちが、敗者に名誉を与えた西郷隆盛の遺徳を偲んで記録した文書「南州翁遺訓」には「まことの文明とは何か?」という根本的な問いが含まれている。
中村敬宇はすでに「西洋文明の倫理の善悪を熟慮考察し、その正邪得失を判断するためには、東洋の道徳に通じたものでなければならない」と論じていたが、佐藤一斎の『言志四録』を座右の書としていた西郷の文明論には、「文明開化」の名のもとに無批判的に西欧文明を模倣する明治新政府への批判と共に、西洋文明を支えてきたキリスト教倫理から学ぶべき積極的な「善」への評価がある。
西郷によれば、文明とは普遍的な「道」が民によって実践されることを意味するのであって、物質的繁栄を意味するのではない。西欧諸国の文明も、その基準によって判断すべきであって、慈愛をもととして解明に導かず未開の国を暴力によって植民地化した西欧諸国は「野蛮」である。たとえば、遺訓第1条で、南州は、物質的な文明、すなわち経済的な繁栄のごとき「外観の浮華」は「文明」の名に値しないというという儒教の伝統にしたがいつつ、次の如く平易な言葉で西洋的「文明」の偽善を指摘している。
(引用)「文明とは道の普く行はるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些とも分らぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、「西洋は野蛮じや」と云ひしかば、「否な文明ぞ」と争ふ。「否な否な野蛮ぢや」と畳みかけしに、「何とて夫れ程に申すにや」と推せしゆゑ、「実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇懇説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢや」と申せしかば、其の人口を莟めて言無かりきとて笑はれける。」(/引用)
西欧列強が、非西欧諸国にたいして「未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利する」というのは歴史的事実であり、それこそ文明の対極にある「野蛮」に外ならないという西郷の指摘である。しかし、彼は、かかる西欧列強の植民地主義を非難するだけで終わっているのではない。西洋の「刑法」の人道的な性格について西郷は次のように述べる。
(引用)「西洋の刑法は専ら懲戒を主として苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。故に囚獄中の罪人をも、如何にも緩るやかにして鑑誠となる可き書籍を与へ、事に因りては親族朋友の面会をも許すと聞けり。尤も聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心より鰥寡孤独を愍み、人の罪に陥いるを恤ひ給ひしは深けれども、実地手の届きたる今の西洋の如く有りしにや、書籍の上には見え渡らず、実に文明ぢやと感ずる也。」(/引用)
西郷は、ここで、西洋の刑法は、我が国の儒教の教えを我が国以上に実践している物であり、真に文明の名に値する、と述べるのを忘れていない。
犯罪人に対する過酷な取り調べと刑の執行の残虐さは、儒教の精神に反する物であるにもかかわらず、四書五経の訓詁注釈にかまけてきた儒者たちは、過酷な刑法を人道的なものとする努力を怠ってきた。これこそ、まことの文明として西欧から学ぶべきであるという指摘である。
そして、西郷は、論語「子罕」編の「絶四(恣意・無理押・固執・我意の四つの執着を絶つ)」の言葉を引用し「敬天愛人」が天地自然の道に従って、我意を離れた講学の道なることを説いた後で、次のように述べている。
(引用)「道は天地自然の物にして、人は之れを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。」「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。」(/引用)
「天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也」に要約される西郷の思想と実践について、内村鑑三は、『代表的日本人』のなかで、預言者の精神とキリストの教えに合致する「偉大な西郷の遺訓」がどこから由来するのか、知りたいと思うものがいるだろう、とコメントしている。
Psalm 118 in Hebrew, with Lyrics and transliteration
Psalm 2 (English), Gregorian Tone 1D
福音歳時記 2月3日 福者ユスト高山右近殉教者記念日
侘数寄を弥撒に代へたる侍(さむらひ)の道はひとすじ殉教の旅
千利休以後に始まる濃茶の回しのみ(すい茶)は、カトリックのミサで司祭と信徒が一つの聖杯から葡萄酒を共に飲む儀式によく似ており、茶巾と聖布(プリフィカトリウム)の扱いも酷似している。これは、裏千家家元の千宗室氏の云われたように、キリスト教が日本の茶道にあたえた影響と見て良いであろう。
利休には、高山右近をはじめ蒲生氏郷、瀬田掃部、牧村兵部、黒田如水などのキリシタン大名、あるいは、キリスト教と縁の深い門人(ガラシアの夫の細川忠興など)や、吉利支丹文化の影響をうけた茶人(古田織部など)が大勢いた。
高山右近の父の高山飛騨守は、畿内のキリスト教伝道に大きな役割を果たした盲目の琵琶法師ロレンソ了斎の影響でキリスト教に帰依した。當時少年であった次男の彦五郎(右近)も飛騨守の一族の者とともに受洗した。右近は父親から家督を譲られた後、1573年から85年まで高槻城主を務め、1585年に明石に転封された。1587年、博多にいた秀吉は、突然に禁教令を出し、まず高山右近に使者を送って棄教を迫った。宣教師の書翰によると使者に対して右近は次のように答えたという。
「予はいかなる方法によっても、関白殿下に無礼のふるまいをしたことはない。予が高槻、明石の人民をキリシタンにさせたのは予の手柄である。予は全世界に代えてもキリシタン宗門と己が霊魂の救いを捨てる意志はない。ゆえに予は領地、並びに明石の所領6万石を即刻殿下に返上する」(「キリシタン史の新発見」プレネスチーノ書簡から)
右近の強い意志を知った秀吉は時間を置かず第二の使者を出す。陣営にいた右近の茶道の師、千利休が使者に選ばれたのである。利休の伝えた内容は「領地はなくしても熊本に転封となっている佐々成政に仕えることを許す、それでなお右近が棄教を拒否するならば他の宣教師ともども中国へ放逐する」というものであった。右近はこの譲歩案も次のように謝絶したので、利休もそれに感ずるところがあって再び意見することはなかったという。(金沢市近世資料館にある『混見摘写』による)
「彼宗門 師君の命より重きことを我知らず。しかれども、侍の所存は一度それに志して不変易をもって丈夫とす 師君の命といふとも 今軽々に敷改の事 武士の非本意といふ。利休もこれを感じて再び意見に及ばずの由」。
追放後、右近は、博多湾に浮かぶ能古島、小豆島など、右近を慕う大名達によって匿われたのち、金沢の加賀前田家の客将として、能登で二万石を与えられた。しかしながら、1614年の徳川幕府の吉利支丹禁令のさいに国外追放となり、翌1615年2月3日にマニラで死去した。国外追放されたとき、右近は十字架と共に、最後に利休と分かれたときに渡された羽箒(茶道具)を所持していた。また、右近が細川忠興宛にあてた書状が、細川家の永青文庫に残っている。
近日出舟仕候 仍 此呈 一軸 致進上候
誠誰ニカト存候 志耳
帰ラシト 思ヘハ兼テ 梓弓
ナキ数ニイル 名ヲソ留ル
彼ハ向戦場命堕
名ヲ天下ニ挙是ハ
南海ニ趣命懸天名ヲ
流如何六十年之苦
忽別申候此中御礼ハ
中々不申上候々々恐惶
敬白
南坊
九月十日 等伯(花押)
羽越中様 参人々御中
(細川忠興にあてた右近の自筆書簡。)
『近々、出航いたすことになりました。ところで、このたび一軸の掛物をさしあげます。どなたにさしあげようかと思案しましたが、やはりあなた様にこそふさわしいもの、私のほんの志ばかりでございます。
帰らじと思えば兼ねて梓弓無き数にいる名をぞ留むる。
彼(正成)は戦場に向かい、戦死して天下に名を挙げました。是(私)は、今南海に赴き、命を天に任せた名を流すのみです。いかがなものでしょうか。六十年来の苦もなんのその、いまこそ、ここに別れがやって参りました。先般来の御こころ尽くしのお礼は、筆舌につくす事は出来ません。恐れながら申し上げます。
九月十日 南坊等伯(高山右近の茶人としての号)』
福音歳時記 1月28日 聖トマス・アクィナス司祭教会博士記念日
超自然なる聖体賛歌造りたるトマス博士の信知を想ふ
日本語版の新しい聖務日課「教会の祈り」では1月28日をトマス・アクイナスの記念日とし、「読書」としてhttps://inori.catholic.jp/doc/show/3/2025/01/28
聖トマス・アクィナス司祭の『使徒信経講解』を第二朗読で読む。
「神学大全」や「対異教徒大全」の著者としてだけでなく、トマスが司祭であって、聖書の釈義もしていたことを記念しているわけであるが、私は、トマスが、聖体賛歌 Tantum Ergo をはじめとする賛美歌の作者でもあったことを強調しておきたい。
トマスは当時最先端の哲学であったアリストテレスの注解を通じて自然なる理性の働きを学び、擬ディオニシウスの注釈を通じて、一者から発出して一者へと帰還する新プラトン主義の形而上学を学んだが、それ以上に重んじたのは、ギリシャ思想に欠けていたキリスト教信仰の「神秘」であった。彼の明晰判明なる一切の言説は、この神秘への配慮なくしては理解されないだろう。
トマスの聖体賛歌はグレゴリオ聖歌で歌われるのが伝統的であるが、そのほかにも、チェザレ・フランクによる「天使のパンPanis Angelicus」もよく演奏される。
古き時代のカトリックの聖体拝領では、今日では「私たちの日ごとのパンを今日もください」 と唱えている「主の祈り」を、マタイ傳6-11のラテン語訳「panem nostrum supersubstantialem da nobis hodie (我等の超自然的な麺麭を今日も与へ賜へ」と唱えていたことに由来している。「天使のパン」とは、自然的な糧である日常的なパンではなく、聖体として拝領する超自然的なパンのことである。
Tantum Ergo Sacramentum
福音歳時記 1月26日 吉満義彦・垣花秀武両先生を偲ぶ会
実存の深みより説く哲学は永遠(とわ)の詩人の命溢るる
1月26日に、四谷のサレジオ会管区長館で、吉満義彦(1904- 1945)と垣花秀武(1920 - 2017)両先生を偲ぶ会があり、サレジオ会の阿部仲麻呂神父の司式で追悼ミサが行われた後に茶話会があり、両先生のゆかりの方々とお話しをすることが出来た。
以前上智大学の宗教哲学フォーラムで、道元と吉満義彦を取り上げたことがあった。そのとき私は、二人のそれぞれに独特な文体のもつ奇妙な類似性に驚いた記憶がある。
永平清規にみられるような修道の実践面に於いては、道元の指示は驚くほど明晰である。しかし、正法眼蔵のような主著の思想の根幹部分は、仏道修行者にとってもっとも大切な「語り得ぬこと」を今此処に顕現させるための工夫辨道が様々な言語使用を駆使して為されている。それは、現代風に言えば、記述言語ではなく、様々な「言語ゲームの使用」によって、言説出来ない実在に覚醒させることを目指している。
吉満義彦も、キリスト教にとってもっとも大切な「信仰の神秘」を体験することを第一義としており、それに気づかせるために新トミズムから学んだ明晰な哲学的言説を使用している。それは神秘体験の後に神学大全の筆を折ったトマスから、神学大全のテキストを読み直すような試みである。
二人の思想には、勿論、時代や宗教的文化的背景の違いがあるのは当然であるが、ともに個的実存の深みから紡ぎ出される個性的な文体というところが類似しているのである。
写真は「偲ぶ会」に招待して下さった石上麟太郎氏の案内状から転載しました。
追記(1月29日)
詩人哲学者、吉満義彦とその時代」を読む
柩撃ち生死を問ひし預言者の聲あらためて聴く敗戦日本
「吉満義彦・垣花秀武両先生を偲ぶ会」の席で垣花理恵子さんから、『永遠の詩人哲学者 吉満義彦とその時代ー帰天五〇年に寄せて』(ドン・ボスコ社)のなかの垣花秀武の回想記「詩人哲学者、吉満義彦とその時代」のコピーを頂いた。「偲ぶ会」終了後、この回想記を読み、吉満義彦という稀有の「詩人哲学者」と彼の生き抜いた時代に思いを馳せた。
この告別式の受付を務めていた垣花秀武は、晩年の三谷隆正の弟子の一人であり、その平和主義、倫理性に響鳴していたという。しかし、彼は、三谷の無教会主義キリスト教には飽き足らず、吉満義彦のもとでカトリックの研究を本格的に始めたばかりの頃であった。そして、三谷隆正の告別式開始直前に、吉満義彦本人が「極めて緊張した面持ちで足早に現れ、丁寧に一礼した後、私(垣花)を見出し「君も此処に来ているの」とうれしげに微笑を投げかけ、ふりかえりざま「あなたの無教会主義からカトリックへの道はどうなったの」と言って、そのまま会場の中に消え去った」という。
「詩人哲学者、吉満義彦とその時代」の冒頭、1944年2月20日、女子学院講堂で行われた三谷隆正の告別式についての垣花秀武氏の回想はとくに興味深いものであった。日本の敗戦のほぼ半年前、この告別式の司会を務めた矢内原忠雄の式辞、南原繁の『三谷隆正君を弔す」という別辞が、ほぼ全文収録されている。
矢内原忠雄は、三谷隆正を「静かなる真理を学ぶ者としての僧侶の役目に加うるに、初代教会の熱烈なる信仰の証明者としての使徒の役目を兼ね備えた人」として紹介したあとで、
「我が三谷君は国を真の安全と興隆に導くべき義人でありました。君の生涯はうちに熱烈なるものを湛えた静けさであります。静かのなかに力の籠もったもの、熱さの籠もった静かさでありました。・・日本の義人を日本に返せ! 生命の所有者に生命を返せ! 私はそう言って喚きたいのであります」
と、文字通り怒号し、三谷隆正の柩を揺さぶって号泣したという。いかにも矢内原の人柄を彷彿とさせる記述である。
南原繁もまた、抑制した口調ではあったが、
「国家は実に君の如き至誠にして真理に忠実なる隠れた預言者的哲人によって真に栄え、その存立を堅固にし得るであろう。・・世界史的転換の偉大なる決算のこの歳にあたり、君はその愛する祖国の将来と人類の運命とを思うて、これが終局をその眼で親しく目撃したかったであろうし、又それを叶へしめなかったことは何としても吾等の恨事である。しかし、新しき日本と世界の曙光は既に見えつつある。君が生涯を賭けて闘った正義と道徳の勝利は確実であろうから。君の播いた真理の種子は将来の日本に必ずや成長し・・・」
と軍事国家日本の敗北崩壊を予想し、三谷隆正が生涯を賭けて闘った正義と道徳の上に立って新しい日本と世界の曙光が見えると聴衆に訴えたのであった。
私は、南原繁が、東京大空襲の時に詠んだ短歌
「けふよりは詩編百五十 日に一編読みつつゆけば平和来なむか 」に触発されて、「詩編に聴くー聖書と典礼の研究」という連続講義を聖グレゴリオの家で今年の復活祭の後から一年かけて行う予定である。その南原繁が三谷隆正に献げた別辞はまことに心にしみるものがあった。
また、「初代教会の熱烈なる信仰の証明者としての使徒」を三谷隆正のうちに見出す矢内原の言葉に大いに共感すると同時に、「静かなる真理を学ぶ永遠の詩人哲学者」としての吉満義彦への関心を新たにしたのである。
福音歳時記 1月25日 日本語オペラ「細川ガラシャ夫人」初演の日
天上の花は散るべき時を知るガラシア夫人の殉教の歌
上智大学の学長でもあったヘルマン・ホイベルス神父は、イエズス会に保存されていたガラシャのキリスト教信仰を伝える貴重な書簡をはじめとする一次資料をもとに、キリスト者としてのガラシャの歴史研究に多大な貢献をしました。演劇や音楽を重視するイエズス会の教育の伝統にもとづいて、ホイベルス神父御自身も「細川ガラシャ」をヒロインとする戯曲を書かれました。この戯曲は、サレジオ会の神父、ヴィンセント・チマッティによってオペラに編曲され、1940年1月25日に東京の日比谷公会堂で上演されました。チマッティ神父によるオペラ版は、能楽の「序破急」に倣った三幕構成になっています。
第一幕 「蓮の花」(序)第二幕 「桜の花」(破)第三幕 「天の花」(急)
このオペラは、十五世紀の日本の能楽師、世阿弥に由来する「花の美学」をキリスト教的精神に基づき摂取したもので、「蓮の花」は「汚水に染まらない純粋な美」、「桜の花」は「散り際の潔さ」、「天上の花」は「悲劇を越えた栄光」を象徴しています。また、それは、ガラシャの辞世の歌 「散りぬべき時知りてこそ世の中は花も花なれ人も人なれ」を踏まえたものでもありました。
この作品は、「日本語で歌われた最初のオペラ」として評価されるのが普通ですが、より適切に、そして作品の精神に即して云えば、それは日本文化の土壌に根ざした最初の「キリスト教的受難劇」と呼べるでしょう。
画像は玉造教会壁画の細川ガラシャ像(堂本印象)
福音歳時記 2025年1月ガザ停戦
難民の帰還待ちたるガザの朝 瓦礫のなかに光る十字架
ガザ地区の聖家族教会は、イスラエル軍の空爆で、教会の屋根にある貯水タンクやソーラーパネルが破壊され、自動車や小教区の建物も被害を受けた。ガザ地区のキリスト教徒のほとんどが避難したという。状況は非常に厳しいが、修道女たちは戦争による深刻な苦難の中で人々の世話を続けている。そうしたなかで、イスラエルとハマスとの間に捕虜交換、ガザ地区からのイスラエル軍の撤退などいくつかの段階をへて実施される停戦協定が漸く結ばれた。これに対してエルサレム・ラテン総大司教庁は「ガザ停戦に関するカトリック司教団の宣言」を1月16日に発表した。https://www.kirishin.com/2025/01/17/71175/
福音歳時記 西坂の丘で殉教した聖パウロ三木
迫害を加へし者の救済を祈る侍(さむらい)主の十字架に
1597年2月5日に長崎西坂の丘で処刑された二十六人のひとりパウロ三木の言葉がフロイスによって記録されている。
処刑されたキリシタンの罪状書きには、「これらの者はルソンから来た者で、禁制の教えを説いた者である」と記されていた。パウロ三木は処刑のときに、かれが侍として仕えていたイエスに倣い、十字架の上から次のように語った。
「私はルソン人ではなく、れっきとした日本人で、イエズス会の修道士です。私は何の罪も犯してはいませんが、ただ主イエス・キリストの教えを説いたために殺されるのです。私はこのような理由で死ぬことを、主がわたしに与えた大きな恵みであると思っています。 今この時にあたって、私はあなたがたを欺こうとはしていないことを信じていただきたいのです。私の願いは皆さんがキリシタンとなって救われることです。私は自分の処刑を命じた人と処刑に関わったすべての人を赦します」(「日本二十六聖人殉教記」
(ルイス・フロイス 著、結城了悟 訳)より
1597年2月5日、三木パウロ33歳のとき、十字架上からの信仰の証しであった。
下の絵は長谷川路可の描いたフレスコ画 「St Paul M.I.K.I