歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

松本馨の信仰と自治会活動 その1

2007-09-12 |  宗教 Religion
松本馨のキリスト教信仰と自治会活動―(全生園での講演記録)

唯今ご紹介に与りました田中と申します。簡単に自己紹介いたしますが、私は、ここから自転車で40分くらいかかる東久留米市に住んでおります。日曜日には、とくに特別な用がなければ、ハンセン病図書館の近くにあるカトリック教会に来ております。今日は、朝の9時という大変早い時間にお集まり頂きましたが、日曜日のこの時間帯には、いつも全生園にいることが多いのです。
全生園では、ミサに出た後で、私は毎日曜日にする仕事の一つとして、三年ほど前から、入園者の方が、戦前ないし終戦直後のもっとも困難な時代に、書き残された文藝作品や宗教的な手記等を編集、あるいは製本するという作業を続けてきました。
昨年の3月は、北條民雄の友人であり、彼によって「いのちの友」と呼ばれた詩人、東條耿一さんの作品を収録した著作集を編集しまして、そしてその当時はお元気でした川島教さんに印刷して頂き、山下道輔さんのところで製本したものをハンセン病図書館に収めました。その時に、たいへんハンセン病図書館にお世話になりましたし、また、関連する多くの資料を読ませて頂きました。私は図書館友の会の会員の一人として、この図書館が閉鎖されることなく、今迄と同じように、これからも一般の人々に利用できるようになることを心から望んでおります。
東條耿一は昭和17年に亡くなっています。松本馨さんは、東條耿一のことを知っていますが、基本的に東條耿一は戦前の時代、松本馨さんは戦後の時代を生きたかたです。二人ともキリスト者ですが、一方はカトリックであり、他方は無教会というようにその宗派的な立脚点は異なっていますが、どちらもそれぞれの於かれた時代的な状況を誤魔化すところなく真正面から引き受けて、文藝の創作やキリスト教の伝道を通じて、自己の成り立つ根源をどこまでも探求しようとしたところは共通していました。
松本さんは1962年から「小さき声」という無教会の個人的な伝道誌を毎月刊行されるようになりますが、最初に書かれたものは、松本さんご自身の回心の記が主体になっていますが、そのほかにご自身の書かれた詩や小説も含まれています。小説は、おそらくドストイェフスキーの作品からヒントを得られたのでしょうが、「死の家の記録」というタイトルで連載されています。その小説は、松本さんが出会われた戦前戦中の療養者の方々がモデルになっており、それに託してなんらかの形で、当時の療養者の生活の記録を後世に伝えたいと考えられたようです。
この連載が終わった後で、松本さんの自治会活動が始まり、その後「小さき声」は、伝道活動と自治会活動の二つが主となり、文藝の創作は影を潜めますが、松本さんは自治会活動を辞められた後で、「零点状況」と言う小説を書かれています。この小説に、「1パーセントの神」という付録があることから分かりますように、松本さんの書かれる文藝作品は、彼のキリスト教伝道活動と不可分の關係がありましたが、それと同じように、彼の自治会での活動もまた、松本さんの内面に於いては、独自の形で実践された無教会のキリスト教の信仰と別々のものではありませんでした。
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松本馨の信仰と自治会活動 その2

2007-09-11 |  宗教 Religion
一昨年に松本さんが亡くなられた後で、追悼講演会が全生園でありました。 そのとき私は司会を致しましたが、そのとき講演者の大谷藤郎先生から、松本馨さんの伝道誌「小さき聲」を本にして再刊したいものだというお話しがありました。 松本さんご自身も、口述筆記故の誤植を含むこの個人誌を推敲した上で出版したいという願いをもっておられたので、2003年5月から、今日この会場にお見えになっている前田靖晴先生のご協力を得て、校正と推敲の作業が行われました。諸般の事情で、復刻版の出版というわけにはいきませんでしたが、2004年7月に、松本さんご自身によって修正された原本を拡大コピーし全巻を製本したものが数部作成され、一部が全生園のハンセン病図書館に収められました。無教会キリスト教の施設、今井館教友会の図書室にも、初出の「小さき聲」をそのまま複写・製本したものが全巻収められています。また、「小さき聲」の一部はWEB(http://members2.jcom.home.ne.jp/yutaka_tanaka/matumoto/matumoto_index.htm)上でも復刻されていますので、それらを私達は自由に閲覧することが出来ます。
「小さき聲」は、1962年9月17日より1986年の3月1日までの24年間、これが第一期ですが、その間ほぼ毎月刊行され、全部で276号になります。自治会を辞められてから、これは、松本さんご自身が出版を意図されて書かれたと思いますが、第二期の「小さき聲」が、1987年6月15日から1991年の4月15日まで、全部で35号が発行されています。おそらく松本さんが書かれた本の中で最も読まれたものと思いますが、1993年に教文館から出版された「生まれたのは何のために」という本の中に、この第二期の「小さき聲」の一部が収録されています。
それ以外にも松本さんは1971年に、「この病は死に至らず」という本をキリスト教夜間講座出版部から出されています。この本はハンセン病図書館にはありますが、現在では入手しにくい本になっています。この本は、二つの部分から構成されていて、ひとつは第一期の「小さき聲」最初の9年間に書かれたものからの抜粋であり、もう一つは、「多磨」誌に掲載された松本さんの論説が七つ収録されています。その論説は、皆さんに配布された「ハンセン病資料セミナー2007年」という製本された資料にも入っております。つまり1971年当時、松本さんが最初に本を出版されたときに、どうしても一般の方に読んで頂きたい論説として、選んだものです。そのなかに「世界医療センター」、「最後の一人のために」があり、松本馨さんの当時の将来構想の基本になる論文があります。また、「全生園は病んでいる」「組合が強くなるとなぜ患者が泣くのか」のようにセミナー資料には入っていない時局的な論文、「自由を奪うもの」という重要な論文があります。
この「自由」という言葉が、伝道誌「小さき聲」でも多磨誌に書かれた評論でもキーワードになっています。「小さき聲」ではキリスト者の自由とは何かということが繰り返し問われ、また多摩誌に書かれた評論では、隔離された療養所の患者運動の原則はなんであるか、それは自由を求めることであるいう文脈で使われています。つまり自由という言葉が信仰と療養所の患者運動の二つの領域を結びつける役割を果たしています。
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松本馨の信仰と自治会活動 その3

2007-09-10 |  宗教 Religion
「この病は死に至らず」に含まれている四番目の評論「世界医療センター」は、いうなればリアルタイムで書かれたものです。1971年当時、まだ松本さんは、自治会長ではなく総務部長でした。1966年に自治会が解散された後で、3年間自治会のない状態が続いたので、松本さんは、自治会を再建することが自分の使命であると考えられたようです。そのことは当時の多磨の評論や「小さき聲」を読むとただちに分かります。
今日はキリスト者としての松本さんについて詳しくお話しすることは出来ませんが、キリスト者の自由ということについて、三つのことを申し上げたいと思います。
松本さんは1918年に生まれ、17歳の時、つまり1935年に慈恵医大でハンセン病であるという診断を受けます。そして、その当時の多くの患者さんと同じく、自殺しようと思ったと書かれています。松本さんの少年時代に、兄が自殺をしており、それを目撃した松本さんは大きな衝撃を受けたのですが、後になってから自分と同じ病であったことが分かります。松本さんご自身も荒川の吊り橋から身を投げようとしたのですが、その瞬間に、「一体俺は何のために生まれたんだろうか」という疑問を起こし、どうしてもその答を知りたいと思い自殺を思いとどまったということを書かれています。そして、多磨の療養所に入所された。先ほど云いました「生まれたのは何のために」という本のタイトルは、このときの問いかけから来ているのですが、松本さんは、その問の解答が別に得られたわけではなかったけれども、実はその答えは問の中にあったのだと云うことを最後に書かれています。つまり神様は、そういう問を自分に与えることによって、今まで自分を生かながらえさせて下さったのだというのです。そういう問を問い続けることこそが、17歳の時より80歳になるまでの自分の生涯であったと言っておられます。
入所間もなく、松本さんは療養所の図書館に行って、一人で岩波文庫の文学書・哲学書を数十冊のノートに書き写しながら、勉強を開始します。とくにドストエフスキーの小説に登場する人物に共感し、彼の作品を通じて次第に聖書に対する関心が目覚め、「俺は何のためにうまれたのか」という問いにたいする答えは聖書の他にはないと思うようになります。またキリスト者の原田嘉悦さんから大きな影響を受け、内村鑑三の著作に接します。このころの集中的な勉強が、のちに失明の障害を克服して文書伝道するときに大いに役だったと書かれています。
松本さんは1941年に当時開設された全生常会の役員だった原田嘉悦さんに依頼されて少年舎の寮父となり、学校の先生の代わりを勤めます。そのときの松本さんの教育方針は、子供達に自己を表現する習慣を付けさせるために、毎月、作文と詩を一編づつ作り、短歌や俳句は二首以上作るというものでしたが、このような作文重視の教育の背後には

「苦難のただなかで言葉ももたず、獣のように死んでいくほど悲惨なことはない」

という松本さんの思いがありました。松本さんから教えられた人達に、山下道輔さんや、谺雄二さんがいます。
少年舎の療父を引き受けたのを機会に、松本さんは洗礼を受けて秋津教会の教会員になります。当時の心境を、松本さんはあとになってから回想して、「罪と罰」の登場人物であるソーニャが、教会の門を叩くことをすすめてくれたのだと書いています。律法によれば石で撃ち殺される罪の女であるソーニャの「神」とは、「カラマーゾフの兄弟」の大審問官によって捨てられたイエスにほかならない、松本さんはそのように文学的に直観されたのです。そして、松本さんは、自己が執拗に問い続け、求めていたものは自己のうちにはなく、この捨てられたイエスにあることに心の目がひらかれたのだと書かれています。
ずいぶんと文学的な書き方ですし、教会の門の中に入っても、洗礼や信仰告白などの形式に躓き、そこではまだ決して生きた信仰には触れることができなかったとも書かれていますが、50年後に過去を振り返って、松本さんは、「ソーニャの神は捨てられたイエスに他ならない」というそのときの直観は、決して間違ってはいなかったと云っています。
松本さんは秋津教会で、のちに結婚される田中義子さんと知り合うのですが、義子さんは、目黒慰廃園から転園してきた方でした。当時は、療養所の整理統合が進んでおり、米国からの資金援助が途絶えた目黒慰廢園が解散され、療養者がすべて強制的に全生園に転園させられました。松本さんは原田嘉悦さんの薦めで、義子さんと1945年に結婚されましたが、この結婚生活は長くは続きませんでした。奥様は結核も併発しており、新薬プロミンの副作用もあって、1950年に結核性腹膜炎で亡くなられます。そして松本さんご自身もその後すぐに失明されます。このときに松本さんの経験された大きな試練と苦しみについては、「小さき聲」の自伝的回想、のちに書かれた「生まれたのは何のために」などに詳しく書かれていますが、このような悲惨な境遇に出会われたとき、松本さんはそれを、偶然的な不運によるものとは決して考えず、そこには必然的な理由があること、それは自己の無信仰の罪の結果だったのだと受け止められたようです。松本さんがおののいていたのは「自己を裁く神」であり、そのような神をリアリティを以て受け容れたときに十字架のイエスによる「赦し」が、はじめて分かったと書かれています。
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松本馨の信仰と自治会活動 その4

2007-09-08 |  宗教 Religion
1950年代といいますと、ハンセン病療養所は、そのありかたをめぐってまさに激動の時代を迎えていました。それは新薬プロミンによって生きる希望を与えられた療養者達が、新憲法で保証された人権の保障をもとめて、国家に対して団結して、らい予防法改正運動を推し進めていった時期に当たります。松本さんは、1970年代以降、自治会と全患協の活動に深くコミットするようになった後では、「患者運動の原点は、らい予防法改正運動であり、これをはずしてしまった単なる処遇改善運動は、もはや患者運動ではない」ということを強調されますが、1952年、53年の予防法改正運動の頃は、ご自身は活動に参加できる状況では有りませんでした。失明と肢体の不自由さという身体的な条件に加えて、心の支えであった妻の死、二重三重の苦しみの中で、自己の魂の救済を第一に考えること、どうしたら自己自身の罪と無信仰、「死に至る病」である絶望から癒されるのか、そういうことのほうが当時の松本さんにとっては根本問題であったのです。
松本さんは1950年に、友人にロマ書3章21―26節を朗読してもらっているときに、「自己を苦しめた審判の神と、祈っても叫んでも遂に答えなかった隠れた愛の神が、十字架の一点で一つになった」という回心経験をします。そしてその後、松本さんが始めたことは、聖書を心に一字一句刻みつけることでした。教会の方々の朗読の助けを借りて、松本さんは四福音書とパウロ書簡、詩編、そしてヨブ記を暗誦されたと書かれています。
そのころ松本さんのために聖書を朗読した友人の一人が野上寛二さんですが、彼を通じて松本さんは関根正雄の「預言と福音」を読むようになり、1952年に全生園に来られた関根正雄の聖書講義を聴きます。そして、関根正雄との出会いが、松本さんにとって第2の転機となります。松本さんがキリスト教信仰に基づいて自治会活動を始めるようになったことは、関根正雄の無教会主義キリスト教の精神に触れたことが大きな機縁となっていたと思います。
松本さんは、第一回目の回心の後では、神を愛することかけては誰にも負けないつもりであったが、他人を愛することがどうしてもできなかったと告白しています。 他人からは、「十字架狂い」といわれるくらい、ただ一筋に信仰を求めていったけれども、自分の身近にいる他者を愛することが、どうしてもできないという事実に非常に苦しまれたのです。そのような自己中心的な信仰、他のものをすべて犠牲にしてひたすらその中に逃避しようとした信仰そのものが全く否定されて、そういう自己自身に絶望したときに初めて、魂に十字架の刻印が捺されるのだ、ということを関根正雄から初めて聞かされます。松本さんは、その説教に深く共鳴します。そして、ただひとりになって、十字架の言葉を受け取りつつ祈っているときに、松本さんは第二回目の回心を経験したと書かれています。
その後、信仰による決断に従って、松本さんは関根正雄に教えられた無教会主義キリスト教の道を歩むようになり、1962年から無教会の個人伝道誌「小さき聲」を発刊されます。この伝道誌を読んでいきますと、最初はご自身の救済、自己の回心経験をつづることが主になっていますが、次第にその内容が変化していきます。その変化は、「私の救い」だけではなく、「私たちの救い」、つまり療養所で自分と共にかつて生きてきた人たちのために、そして現在、療養所の中と外で、「私とともに」生きている人たち、そしてそういうひとたちが将来直面するであろう様々な問題のために書くというように、松本さんの関心が、個人的な信仰を出発点としつつも、療養所の内から外へ、そして日本だけでなく世界全体へと広がっていく、そういう社会性の広がりと同時に深まりを読むものに感じさせます。個人の魂の救済を原点に据えながらも、そこにとどまらずに、個人のもつ掛け替えのない生きる権利を大切にして社会運動をすると言う、教会の壁の中に閉じ籠もらない普遍的なキリスト教信仰のあり方を示しているように思います。
そのことは、とくに自治会活動にコミットされ始めたころから「小さき声」にもうけられた療養通信という記事によく示されています。そこでは、狭い意味でのキリスト教に関することではなく、当時の全生園の自治会や、松本さんが支部長を務められた全患協のなかで、療養者の生きる権利を守るためにどのような運動がなされているか、またそこにはどんな困難な問題がまだ未解決なものとして残されているのか、そのことを療養所の外部にいる人たちにも伝えるという意味を持っていました。いうなれば、それは、松本さんの伝道誌を通じて、松本さん個人だけではなく全生園そのものの社会復帰をめざす活動でもあったわけです。
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松本馨の信仰と自治会活動 その5

2007-09-07 |  宗教 Religion
関根正雄のいう「無信仰」の徹底的な自覺ということ、自己が信仰であると思っていたものを捨て去ったときに、始めてキリストの信仰が与えられ、「魂に十字架を刻印された」ということ-それが、松本さん自身の如実なる体験として繰り返し語っていることです。
そして、このようなキリスト教の原点が確立された後、松本さんは、自己の問題だけでなく、療友のための活動に邁進するようになります。強制隔離に対する補償要求、生活と医療の改善を求める自治会活動に精魂を傾けるようになります。それは、松本さんにとって、「世俗に於ける福音」の実践でもありました。松本さんは、既成のキリスト教の枠組みを超えて、共産党系の活動家を含む全患協のメンバー達とも連帯して、独自の視点から自治会の再建を呼びかけたのです。
松本さんは何故、自治会再建を呼びかけたのでしょうか。それを示すものとして、
「多磨」誌への寄稿のなかに、「自由を奪うもの(1967年4月)」という評論があります。これは、隔離医療から解放医療へとむかう混乱期のなかで自治会が解散された頃に書かれたものですが、キリスト教的な主題である「自由」の問題を、入所者の生活と直結した政治上の問題としての「自由」に重ねて論じたものといってよいでしょう。
 この論文の冒頭で、松本さんは、バビロンの捕囚から解放されたユダヤ人の心情を吐露した旧約聖書の次の言葉を引用しています。
「あなたがたの神は言われる。「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」
松本さんにとって、囚われ人に解放を告げるこの聖句が、そのまま、敗戦直後の日本へのメッセージとなります。米国も又、広島と長崎への原爆投下という大量殺戮を犯した戦争犯罪の責任は決して免れるものではありませんが、米国の日本に果たした歴史的役割は、嘗て、キュロス王がユダヤ民族に果たした役割と類比的であって、結果的には、迫害され抑圧されたものに解放の福音をあたえることととなった、と松本さんは言います。
治らい薬がもたらされ、選挙権と人権を保障する憲法が制定されたことによって、療養所に隔離されたものに自由への希望が生まれた。しかしながら、閉鎖的な隔離医療から、解放医療への転換にともなう混乱状況の中で、療養者の「自由」を妨げているものが厳然としてある。それは何であるのか、というのが松本さんの問です。
 そして、このエッセイには、隔離政策を推進した光田健輔への松本さんの批判が述べられています。医師としての光田の業績と献身を松本さんは決して否定するわけではありません。しかしながら、解放医療の思想に反対して光田の復権を叫ぶ一部の声に対して、松本さんは次のように明言しています。
「彼のあやまちを指摘することは監房で首を縊って死んだものや、監督の下でうらみをのんで世を去っていった先輩に対して、残っている私たちの義務でもある。自由の行き過ぎと、光田の隔離政策を礼讃する反動的な人たちの動きに対して、私たちは警戒し、自由を守らねばならない」
このエッセイの中に、シュワイツアーの名前が出てくるのは、おそらく、当時、光田を「シュワイツアー以上の偉人」として顕彰した内田守のことを念頭においているのでしょう。
 また、閉鎖された嘗ての自治会のあり方に対しても松本さんは手厳しい批判の言葉を述べている。自治会活動が、かならずしも療養者の爲を思って為されたわけではなかったということを率直に認めて、その原因を徹底して明らかにした上で、見せかけの開放感に浸ることなく、療養者の真の自由がどのようにして得られるかを問いつつ、
青空は一時的なもので、台風の目の中なのである。こうした中で、われわれは、自由を奪うものは誰か、自己に問い続け、その答えを求めなければならない。
という言葉でこのエッセイは締めくくられています。
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松本馨の信仰と自治会活動 その6

2007-09-04 |  宗教 Religion
次に、松本さんの評論「最後の一人のために」を取り上げます。これは、いまから、37年前に書かれたもので、当時の全患協の運動に呼応して、再建されるべき自治会の活動の基本について述べたものです。この論文の冒頭に明記されているように、松本さんは

一、強制隔離政策による損失補償。
二、身体障害者-老令者をも含む-に、拠出年金に替る特別措置を考慮してもらうことと日用品費の増額。
三、作業賃の増額。
四、居住様式の改善。
五、治療棟と病棟の改築

という全患協多磨支部の主張を引用・支援しつつ、独自の論陣を張っています。
ここでとくに注目すべきは、1の強制隔離政策による損失補償の項目でしょう。松本さんは、強制隔離による損失補償に消極的な意見を要約して次のように云っています。

「強制隔離収容によって、私も家族も損失を受けたおぼえは無い、かえって助かったのだ。もし、隔離収容所が無かったならば、家族は私の一生の面倒を見なければならず、それによって受ける家族の犠牲は、金銭で量ることはできない。もし又、私の病気が世間に知れれば私は家を出て、生命の尽きるまで、あてもなく地をさ迷わなければならなかったであろう。強制隔離は、私にとって救いだったのである。」

このような考え方は、国賠法訴訟の裁判が終わった現在では、影を潜めましたが、35年前においては、まだまだ根強い意見であったと思います。それに対して松本さんは次のように反論しています。

もし隔離収容所がなかったらと云う前提のもとに、強制隔離を肯定することは、強制隔離の是非とは無関係である。現実の悲惨を、それよりも更に重い悲惨を過去に想像して、美化することもありうるからである。私が問題にしているのは、半世紀の歴史を持つ隔離収容所で、何が行なわれ何が起つたかと云うことである。

そして、次に、米国のキング牧師の例を挙げ、

黒人指導者キングは兇弾に斃れて既にこの世には居ないが、黒人の抗議デモは今後も継続されるであろう。それの止む時は死か、白人と平等の自由を獲得した時である。キングは私達にもまた、如何にして人間を回復するか、国民と平等の自由を確保するか、を教えている。それは諸要求に対する運動を通してのみ受取らされるのである。損失補償要求が出来るか出来ないかは、その人が人間性を回復しているか、回復していないか位、私にとっては重要なことに思われる。

と云っています。また、戦前から引き続いて行われていた軽症患者による重症患者の介護という制度を、患者自身の「相愛互助」の精神によるものと美化してきた考え方が、如何に実情とかけ離れたものであったか、その背後に患者が労働しなければ生活できない現実があり、患者の労働に頼らなければ運営できなかった療養所の実態があったことを指摘しています。
松本さんは、また、医療センターについての独自の構想についても言及し、

一万人の内の二十分の一、三十分の一、或いは最後の一人のために医療センターは設立しておかねばならない。生活の諸要求の声に消されてしまっている病棟の奥深くに、医療センターの設立を望む人達が居るのである。死と斗っている人達である。この人達のためにも、医療センターは設立させなければならないし、その責任が療養所に関係する総ての人にある。その声は弱く細く、小さければ小さいほど、関係者は謙虚に耳を傾けなければならない。私達もまた謙虚に病友の細き声に聞かなければならない。人の生命は世界よりも重い、それはキリストの教えなのである。

と結んでいます。「小さき声」とは、松本さん御自身の伝道文書のタイトルですが、それがここでは、ご自身だけではなく、病苦に悩む療友の「細き声」に聴こうという意味で使われています。
  それでは、この論文の中で言及されている医療センターについて松本さんはどのような構想を持っていたのでしょうか。
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松本馨の信仰と自治会活動 その7

2007-09-02 |  宗教 Religion
「世界医療センター-療養所の終末」という松本さんの「将来構想」を示す基本的な論文は、1967年12月に発表されたものですが、そのときの松本さんの肩書きは、「本園入園者」です。これは自治会が再建される前に発表されたもので、療養所が終末期を迎えて、医師不在の場所になりつつある現実を踏まえて書かれたものですが、その議論を要約すると次のようになるでしょう。

1 療養所が「終末」に近づいたからと言って、療養所の統廃合はすべきでないこと。不自由舎にいる長期療養者の心情を考慮しなければならない。
2 「医師不在の療養所」という将来的に差し迫った危機に対処するために、また、統廃合に替わる対策として、全生園を医療センターとして整備することを提案する。
3 その医療センターは、沖縄をも含めた国立療養所と私立病院とを傘下におさめた医療センターでなければならない。場所は、全生園の敷地の約半分をそれにあてる。
4 その医療センターは、総合医療センターであり、療養者の生活の場からは切り離す。
5 その医療センターは、将来的には、「世界医療センター」として、アジア・アフリカの救癩センターとしての機能を持たせるようにする。

当時(1967年6月)の全患協ニュースをみますと、第14回定期支部長会議(多磨支部は欠席)の運動方針の最初に「療養する権利を守り医療を充実させる運動」があげられ、その第二項に「二 十一施設毎に高度な医療専門的治療を充実させる。なおその他に最高度の専門医療が受けられる治療センターを設ける。医療の充実。機能療法士。職能療法士。義肢技工士の定員化」という文言がある。また自治会閉鎖のため欠席した多磨支部へのメッセージがあります。
このころ入所者の平均年齢は当時50歳です。これはほぼ当時の松本さんの年齢ですが、療養所の医師の平均年齢はそれよりも数歳上であり、あらたに療養所に緒勤務を希望する医師がきわめて少なかったので、そのまま放置すれば療養所は医師のいない療養所になってしまうと言う危機感が背景にあります。さらに療養所では高度の医療は受けられず、療養所の外部の病院を利用することが、らい予防法のもとでは困難であった時代において、療養者の医療を充実させることが焦眉の課題であったわけです。
また、全患協ニュース(1967年1月―1967年6月)に連載された、「療養生活研究委員会」の答申書「将来の療養所像について」の四項に

「ハンセン氏病の治療が、今後解放医療に向かうとしても、治療の主力機関は既存の療養所に置くべきである。したがって、欠陥に満ちた既存療養所の施設、スタッフ、システム(体系)の確立が先決である。なお、その他に最高度の専門医療(基本治療、一般治療、整形、形成外科的治療)が受けられる治療センター(病院形態)を設けて、外来および入院治療を行いうるようにすることが望ましい。」

これはいうなれば40年前の全患協の将来構想といってもよいでしょう。
松本さんが多磨誌に1967年12月に書かれた「世界医療センター」という論文と同時期の全患協の「将来構想」とを具体的に比較してみますとつぎのような顕著な違いがあります。
まず、「療養生活研究会」の答申では、資料の主力機関は既存の療養所に置くべきであるとなっていますが、松本さんの提案は、医師不足が深刻化していた当時において、事実上日本全体の医療センターの役割を云わされていた全生園に、入園者の生活の場からは独立した大きな医療センターを設置するというものでした。そして将来的には、そこを日本のみならず世界のハンセン病者のための医療センターとして整備するという提案を含んでいます。日本ではハンセン病の療養所は週末を迎えているけれども、その経験を生かして世界の病者のために貢献できる施設を設置するということ、そういう意味で、目を日本だけに向けるのではなく地球的な規模で考えているところが、松本さんの論文の独自性です。  
そこには、日本でハンセン病医療を志す医師を確保するという目的もありました。があり、若い医師にとってハンセン病医療の重要性を訴えるという意味があります。
松本さんは自治会が再建されますと、1967年の世界医療センターの設置を提案した論文で述べたご自身のアイデアを実現するための具体的な行動に出られます。それは、「小さき声」第二期 22号のなかで、松本さんご自身が次のように当時を回想していますので、それを紹介しましょう。

自治会発足間もなく、会長の平田(平沢)と私は、厚生省陳情を行なったが、多摩支部が単独で陳情を行なったのは、創立以来初めての事であった。ライ予防法闘争以後、厚生省陳情の道は開かれ、各支部は単独陳情を行なっていたが、多摩支部は全患協本部所在地として全体の事を考え、単独陳情はしなかった。
陳情の目的は、11万坪の敷地の一部を売って多摩研究所を合併し、ライセンターとして全生園の全面的整備をしてもらうことであった。現実に、多摩全生園は医療センターとしての機能を果たしてきた。
プロミンが科学治療薬として採用されたのは1949年で、20年経過していた。沖縄を除く本土では新発生患者はゼロになろうとしていた。それに合わせるかの様に、各施設共医師の欠員が目立っていった。特に、ライの専門医が不足し、基本治療科の充実した全生園に全国の新発生患者が送られてきた。また、各園共児童の新発生患者がなくなり小中学校を閉鎖していったが残りの小中学生もまた、全生園に集められた。それでも10人に達しなかった。急速に、療養所は終焉に向かっていたのである。
この他に、僻地の施設では治療できない者もまた、全生園に一時転院し治療を受けた。社会復帰者もまた全生園を利用し常時30人前後が病棟に居た。外来患者の利用者も年間1000人を超えていた。これに対して、センターとして正式に認められていなかったが為に、厚生省は必要な予算処置をとらず、全生園の患者と職員の犠牲によって運営し、両方から不満が出ていた。
平田と私は厚生省ロビーで野津療養所課長外4名と会った。陳情書は私が作成し、前もって課長の元へ届けておいたので、平田と私が陳情書に基づいて交互に説明したが、第一回は課長にしてやられた、という思いを強くした。
「終息に向かっている療養所にセンターが必要であろうか?」
と軽くあしらわれてしまったのである。
終息に向かっているが故にセンターは必要なのである。
現状のまま放置しておけば患者が居なくなる前に医師看護婦が居なくなってしまうだろう。既にその兆候が表われ、危機的状況に追い込まれていたのである。第一回の陳情は、厚生省優勢の中に何の成果も得ずに終った。帰りの車の中で平田は、「これからだ」と言った。「初めての経験で僕も固くなってたけれども、課長も固くなっていた様な気がする……」「僕達が恐がったのだよ。今頃はロビーの消毒で大騒ぎしているだろう。」平田と私は笑った。日頃近寄り難い恐い存在である役人の消毒姿が滑稽に思えたのだった。

ここでは、「終息に向かっている療養所にセンターが必要であろうか?」という当時の厚生省の官僚の言葉と、「終息に向かっているが故にセンターは必要なのである」という松本さんの考え方の対比が実に明瞭に出ています。当時の入所者の平均年齢は50歳で、これは松本さんの年齢でもありました。これに対して療養所の医師の平均年齢はそれよりも数歳上であり、療養所に勤務を希望する若い医師が以内という現実をどうするか、この問題をふまえて、世界医療センターという論文が書かれたわけですが、そこには、多磨療養所の土地の一部を売却してその資金を得るという具体的な提言も含まれていたわけです。
この「世界医療センター」というアイデアは、のちに成田先生によって、ライセンター構想として取り上げられ、松本さんもそれに賛成されて、その実現のために努力されましたが、様々な反対にあって結局の所は実現しませんでした。その間の事情については、松本さんの書かれた「生まれたのは何のために」に松本さんの立場から要約されています。現実には、全生園には東部地区の医療センターの役割を果たす病棟が新設されたわけですが、松本さんは、それが将来的には世界医療センターとなるべきものだという希望は持ち続けられたようです。たとえば、1979年の全患協ニュースの「将来の療養所の在り方について」特集号に、松本さんは、「世界医療センター」と題してつぎのような投稿をしています。

多磨全生園を利用した外来客は1971年が990人であるが、72年は11月現在ですでに1000人を超えている。入院者は病棟整備のため制限したが71年よりも増えている。 このことは斜陽化の一途をたどっている療養所の医療の枯渇化と、多磨全生園のセンター的性格が年毎に深められていることを意味する。
 一九支部長会議は、東部五園の医療センターとして多磨全生園を指定したが、私の希望は未開発国に集中している幾百万という病友に、医療の手をさしのべるセンターとして設立されることである。多磨の敷地内には世界で唯一のハ氏病研究所と高等看護学院がある。 周辺には国立療養所や大学があり、医療提携と進んだ技術を導入することができる。
 国内の医療センターとして整備されても、若い医師の魅力とはならない。海外の医療派遣、国際的知名人の医学者や留学生を招くことによって、眠り勝ちなハ氏病医学界の目をさますと共に、若い医師や看護婦に希望を与えることになるだろう。
 この考えの背景には日本の救らい事業が外国宣教師によって行われたこと、それに報いて欲しいという願望がある。世界の同病者が癒されるまで私達は共に苦しみ、医療センター運動を続けなければならない。

現実に実現した医療センターは、松本さんが本来考えておられたものとはほど遠いものであったとはいえ、松本さんのアイデア自身は、あとで講演されます國本さんの「国際ハンセン病センター」へと引き継がれていきましたので、それについては次の講演でお話があると思います。
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松本馨の信仰と自治会活動 その8

2007-09-01 |  宗教 Religion
当時の松本さんのお考えをもっともよく表している文章として、「小さき声」(1976年9月)を引用しておきたいと思います。それは、松本さんがご自身の自治会活動の目的をはっきりと語っている文章です。

私(松本馨)は自治活動をする上で、いくつかの目標を立てて来ました。唯、漫然と自治活動をするには、犠牲があまりにも大きく、それを払うだけの意義なり、目的がなければなりません。その目標は、一つは斜陽の道を辿っているハンセン病療養所の医療を守るためのセンターを作ることです。このセンターは、日本に於けるハンセン病患者の医療の最後をみることになるでしょう。二つには、ハンセン病患者の文献を収集し後世に残しておくことです。私が自治活動を決意したのは、自治会を閉鎖した時で、1966年のことです。自治会閉鎖の原因は種々ありますが、そのひとつは不良職員追放という不幸な事件が大きな要因となっていました。決意したときから10年になり、自治会を再建してから7年になります。そして私の願ったセンターの基礎となるべき治療棟の落成式が、8月10日に厚生省療養所課長、地方医務局次長、近接の国立療養所所長等を迎えて行われました。私はその席上で、センターはハンセン病医療の最後を見る責任を負っていること、センターの内容作りには多磨研究所と全生園、基礎医学と臨床医学が協力しなければならないこと、そのために両者が統合をも含めた協力を真剣に考えるよう訴えました。ハンセン病文庫の図書館は、9月に着工し、12月には完成することになっています。7年目にして私の願ったことは実現することになりました。それゆえに何時でも自治会を辞めたいと思っていますが、昨年頃より私の使命は、センターとハンセン病図書館だけでは終わっていないことに気がつきました。癩予防法というハンセン病患者の社会復帰を妨害している問題があることに気づいたからです。
私達は全国ハンセン病患者協議会という組織をもっていますが、この協議会は、強制隔離収容によって奪われた人権を回復するための組織です。その根源にあるものが癩予防法であり、そこに規定されている内容は、患者の人間としての権利をことごとく奪っております。その骨子は、患者を終身隔離すること、健康保険の利用を禁止していること、精神病患者とおなじように、ワゼクトミーを規定していること等です。患者運動は、この法律によって奪われているもの、つまり強制隔離収容所の解放、所長の懲戒検束権および監房の廃止、強制労働からの解放、日用品費の確立、収容所の病院化等、全患協が獲得してきた成果は数え切れないほどですが、最後に突き当たるものは、癩予防法でした。癩予防法は、昔も今も変わることなく、患者の諸権利を認めていません。その権利とは、社会人として復帰するための条件を言います。
私は自治活動をするのに二つの目標、日用品費の確立をいれると三つになりますが、今日まで活動を続けてきた訳ですが、これだけでは目標に達しないことに気が付きました。目標に達しないとは、私の考えの根柢にあるものは、ハンセン病の終末であり、その終末的立場から目標を掲げ、運動をしてきたわけですが、その終末的目標とは癩予防法を廃案にする事です。このことが実現しない限り、ハンセン病患者に対する偏見と差別は日本から無くなることはないでしょう。
患者運動の目標が癩予防法の改正にあるとは既に書きましたが、このことが実現しない限り、患者運動の終わるときがないでしょう。たとえ患者がいなくなっても、癩予防法が存在する限り、運動を継続しなければなりません。癩予防法は患者の人権を侵害し、抑圧しているからです。
会員のなかには、現在解放政策がとられ、外出は自由であり、日用品費は確立し、医療面でも或る程度向上し、あまり大きな不満はない。患者の平均年齢は57歳であり、先が見えた今日、現状の変更を望む必要はない、と考えているものが多くいます。つまり癩予防法を存続させるほうが現状を守るためには有利だと判断しているのです。癩は不治の病として、世が忌み嫌っても、現実には癩から解放されており療養するには何等障害となっておらず、苦しみもありません。それ故に今更改正をする必要は無いというのです、名をすてて実をとる、ということなのです。或いは既成事実をつくることによって、らい予防法を死文化していくのだ、とも言っています。
私は、このような考え方には真っ向から反対します。それは自ら人間であることを放棄し、奴隷の地位に甘んじることだからです。高い処遇を受けられ、外出の自由が保障されるならば、癩予防法が存続しても構わない、ということは、私には自ら人間を放棄する事に思われます。癩予防法の廃止によって、私達が貧しく苦しい生活が待っているにしても、それによって死が来るとしても私はらい予防法の廃止を強く望みます。それが今日の癩からの解放でありましょう。しかし、こうした私の考えに賛成するものは、ごく少数であります。このような考えは信仰がないと理解に苦しむからです。
「キリストは自由を得さしめる為に我等を解放したまえり。さらば固く立ちて再び奴隷のくびきに繋がれるな」
とパウロはガラテヤ書のなかで書いています。癩予防法は私達を縛る奴隷のくびきであります。それからの解放が癩からの解放でありましょう。現在日本には9千人の患者が施設にいますが、この人達は癩によって拘束されているのではなく、なぜなら、その80%は菌陰性者であり患者ではないからです。この人達を拘束しているもの、隔離しているもの、自由を奪っているもの、それが癩予防法だからです。

長い引用ですが、松本さんご自身に語って頂きました。ここではっきりと言われているように、松本さんにとって患者運動の原点はらい予防法の廃止です。ご承知のように1976年の時点では、全患協のなかではこれは少数意見でした。らい予防法を存続させたうえで療養所の処遇の改善を図るということが患者運動の実態であったわけですが、松本さんはあくまでも運動の原点が予防法の廃止にあったことを強調されています。私たちは予防法が廃止され、国賠法訴訟の判決が出た後で、療養所の将来構想を現在問題にしているわけですが、松本さんの場合は、その順序がまったく逆であったと言うこともいえます。
つまり、強制隔離による損失補償として、当時の劣悪な医療環境、生活環境を改善するための運動が最初になされました。松本さんは、損失補償を要求することの正当性を明確に主張された。つぎに療養所の将来、とくに医療危機に備えて医療センターを作り、それと同時に、日本だけでなく世界のハンセン病者のために我々は何をすべきかを考えて、世界医療センターというアイデアをしめされた。そして、療養所の将来構想を示された後で、もろもろの問題の根源にあるらい予防法を廃止すべきであるという主張を、最後になされたのです。
ところで、「将来構想」という言葉自体は、松本さんご自身は使われていないということに注意する必要があります。とくに「構想」という言葉には、何か、官僚的な響きがありますので。厚生省とか所長連盟とか、そういうところからは「構想」という言葉がお役所言葉として出てくるのは当然と思いますが、終末に直面している療養者自身から「構想」という言葉が自然に出てくるとは思われません。むしろ、療養所を管理する立場、あるいは療養所ではたらく職員の立場から、「将来構想」なるものが先行的に提示され、それに対して療養者自身が自分たちの問題としてどのようなかたちで応答するかという文脈で、後を追いかける形で論議されることが多いように思います。
これに対して、松本さんの場合は、来たるべき療養所の終末に備えて、自分たちは何をなすべきか、という視点から常に語ります。松本さんが、療養所の将来について語ることは、療養所の過去について語ることと切り離されていません。過去の療養所の人権を奪われた世代に対して自分たちはどんな責任を負っているか、それをきちんとふまえた上で、将来の世代に対して、自分たちは何を残すことができるか、と言う文脈で、来るべき療養所の終末にそなえて「共同の闘いをおこなう」(「小さき聲」創刊の辞)ことが松本さんの基本的な考え方なのです。したがって、松本さんは、自治会長をつとめられたときに書いた評論「創立七十周年に寄せて」のなかで、ハンセン病図書館を残すこと、患者自身の立場から全生園の歴史を書き残すこと、東村山の市民のために全生園を緑の森として残すこと、提案され、それを実行されたわけです。松本さんの「将来構想」としての「世界医療センター」も、療養所の終末に直面して、自分たちのことだけではなく、将来の世代に向けて自分たちは何を遺すことができるか、という視点のあることに留意して読むべきであると私は思いました。
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