歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

環境と生命 2

2005-11-19 |  宗教 Religion
 地球の生態学的危機については、近年その危険性がようやく自覚され、環境と開発に関する国際会議が随所で開催され、様々な行動計画(agenda)や国際協定が結ばれてはいる。 しかしながら、これらの行動計画を実行する上で、大きな妨げとなっているのが、「近代化」と「開発」を無条件で善と見なす国家のエゴイズムである。熱心に環境保全を唱えているのが主として先進諸国の非政府組織であり、この運動が現在国境の壁を越えて全地球規模で広がりつつあるとはいえ、国際政治を動かしているものは、依然として国家のエゴイズムである。そのかぎりではすでに近代化を達成し豊かな消費生活を享受している先進諸国と、国民総生産の増加によって先進諸国と同じ生活水準を達成することを国是とする開発途上国との間には、同じ環境保護の問題について協議するとしても、利害の対立を避けることはできない。環境問題の解決は、世界に於ける資源利用の不平等と所得格差をいかに是正するかという南北問題と切り離して考えることはできないのである。ここで、限られた地球上の資源をいかに再利用可能なかたちで維持し、如何にして「永続的な開発(sustainable development)」を可能にする経済体制を整備するかという地球経済学ないし家政学(earth economics)の問題を考察してみよう。

 地球上で利用可能な物質的資源とエネルギーの総量が一定であることが自覚されると、配分の公正さ(justice)の問題が倫理的かつ政治的課題として浮上してくるのは当然であろう。ここで、先進諸国の国民が享受しているような資源の浪費を前提とする生活様式は、はたして、地球が支えきれるような種類のものであるかと問うことは重要である。

 環境保護の運動は、国境を越えた拡がりを持つと言ったが、それは、国家の自己中心主義を克服する運動が、各地域で草の根的に出現してきたことを意味している。近代は何にもましてナショナリズムの時代であるが、環境問題は、我々に国家の壁を越えることをまず要求するのである。それはまた、少数の専門家の立案した経済政策にたよることによっても解決しないであろう。

 エコロジー的な経済学とは、いわば、我々の地球を一つの家(オイコス)として、その家の法(ノモス)と秩序を考察することであるから、国民経済学(national economics)の枠組みを越えることが要求されるのである。それは、すべての人間の問題であり、それぞれの人間が生活している具体的な場所、個々の家庭と地域の共同体の問題である。

 「地球規模で考え、身近なところから行動する(Think globally, and act locally)

とはエコロジー運動のスローガンである。現代は、家庭の日常生活の中で消費されたフロンガスが大気中のオゾン層を破壊し、将来生まれてくる世代に対して、取り返しのつかぬ危害を知らずに加えてきた時代であり、身近な一つ一つの行為が連係して、思いも寄らぬ結果を生む時代である。先進諸国の国民が当然視してきた行為が、実は、開発途上国の資源の乱獲によって地球の生態系に被害を与えているという事例はきわめて多いのである。  

我々は、「地球が病んでいるときは、そこにすむ我々自身もまた病んでいる」という言葉をつけ加えねばならぬだろう。

近年、ヨーロッパや米国の環境運動家の間で、「深いエコロジー(deep ecology)」という言葉がよく使われるようになった。それは、ヨーロッパの近代文明を支えてきたコスモロジーと人間中心主義的な価値観に対して根本的な反省を求める運動となっている。「深い」という言葉は、当然従来の環境保護運動の基本的な考え方を浅薄なものと見る価値判断を表している。それは、地球の生態学的危機の問題を根本的に人間自身の生き方の転回させ、従来とは違った生活様式(alternative life style)を広めることを意図している。それは、まず、環境倫理ないしエコロジーの倫理学(ecoethics)の問題として登場した。

 エコロジーの倫理学という考え方は、西欧の文明の伝統の中では、比較的に新しいものである。例えば、米国の環境運動の思想的原点とも言うべきA.レオポルドの「土地倫理(land ethics)」が構想されたのは1940年代の後半である。この倫理の出発点は、「大地の有機体としての複雑さ」であり、「山の身になって考える(thinking like a mountain)」ことであった。レオポルドの著作を読むと、彼が次第に人間中心的な功利主義のものの見方から、次第に生命中心的な平等主義の立場に移行していったことがよくわかる。 従来の環境保護の運動は、自然資源を賢明にかつ効率的に利用することをめざし、人間の長期的な利用のために、自然を制御し、人間の物質的利益に役立てることを意図していた。これに対して、レオポルドが提示し、後に急進的な環境保護運動の指導理念となったのは、人間以外の自然物もまた、生命を持つ有機体にほかならぬ大地の一部であって、それぞれが生きるための固有の権利を持つという考え方である。生態学的平等主義(ecological egalitarianism)ともいうべきこの新しい倫理思想は、後にノルウエーの環境哲学者の A.ネス によって、「あらゆる生命の諸形態は、その潜在的可能性を開花させる権利を平等に持つこと(the equal right to live and blossam)を原理として認める」立場として定式化された。 

これは、単なるロマン主義的な自然観と見るべきではない。 レオポルドは野生動物の保護を法的に確立するという文脈でこの考え方を提示しており、人間と自然の関係を倫理と法の問題として捉え直すことを意味しているのである。キリスト教の伝統に属するこれらの環境学者の考えの背後には、人類が新たに自然との間に契約を結ぶべきだと言う考え方がある。フランスの環境哲学者の M.セールの提言によれば、生態学的な平等主義は、「人間が従来の自然を排除する社会契約を破棄し、共生と相互性を旨とする自然契約(le contrat naturel)を結ぶ」ことを要請するのである。それは、人間だけが、個人又は集団で権利主体になりうると前提している法的権利の概念の見直しを要求し、従来の倫理学には欠如していた新しい問題を提起している。

  地球の生態学的危機の問題は、空間的には、人間がそこにおいて生きている地球を生きた有機体として捉え、そこで共に生きている様々な生命の諸形態に対して、その潜在的可能性を開花させる権利を認める考え方を呼び起こした。これに対して、時間的な問題、即ち、我々が過去の世代、および未来の世代と「共にある」ことを強調するのが、ドイツの哲学者ハンス・ヨーナスによって示された世代間倫理である。 産業廃棄物や、核廃棄物による環境汚染が影響するのは、今生きている世代である以上に、将来の世代である。それ故に、世代間倫理は、現代の世代の為す決断/選択は、過去の世代の価値ある遺産を継承し保護すると共に、未来の世代の創造的生活と多様な価値の選択の可能性を保証し維持する責任を負うべきことを強調するのである。

環境倫理にせよ、世代間倫理にせよ、そこでは、人間と自然との間の連帯性、現在の世代と過去および未来の世代のすべての生命ある存在のあいだの連帯性が問題となっている。それは、環境問題を専門家の解決すべき技術的問題と考えずに、我々自身の生き方の問題として捉え、同時に、人間の宇宙に於ける位置について、近代のヒューマニズムとは違った考え方をするのが特色である。

 深い意味でのエコロジーは、近代人の自然観や価値観の前提そのものを問う哲学的批判であると同時に、ポスト近代科学による自然認識の深化にふさわしい宇宙論を構築する積極的な試みでもある。それは自然環境と技術環境と人間の実践活動の三領域の調和と均衡に関する智である。 
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1 Comments

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Unknown (kyomutekisonzairon)
2006-04-30 02:01:10
大変深い洞察が展開されていて、感服しました。西欧人たちの環境問題に対する姿勢が、「新たな契約」と抑えられたのは、‘ なるほど ’と腑に落ちました。これが、彼らの限界でもあり、我らの伝統的思惟の独自性を発揮しなければならぬ場であろうと思います。合掌

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