講義要項
けふよりは詩編百五十 日に一編読みつつゆけば平和来なむか
(南原繁歌集『形相』所収)
80年前、無教会キリスト者の内村鑑三の平和主義から大きな影響を受けた南原繁の読んだこの短歌
は、東京大空襲の戦禍のさなかに詠まれたものですが、それはまた、敗戦後の日本が、平和な国として
再出発するには何をなすべきか、その理念と祈りを聖書の詩編にもとめたものでもありました。内村鑑
三と南原繁の平和への願いを想起しつつ、『詩編に聴く―聖書と典礼」という連続講義を行う予定です。
この講義は内村鑑三の連続講義『聖書の研究』を手本としていますが、私は、内村があまり問題としな
かった「(ユダヤ教・東方キリスト教・西方キリスト教の)典礼のなかの聖書」という視点をあらたに付
け加えました。
カトリックの「教会の祈り(新しい聖務日課)」では、詩編が中心的な位置を占めています。主日の典
礼、毎日の聖務日課(時課)に参加する者は、詩編150編のすべてを、様々な形態で、朗唱することに
なるでしょう。キリスト者の祈りは、ユダヤ教の典礼を母体としていますが、排他的な民族主義を克服
して、すべての民と被造物の救済を目指すカトリック信仰に基づいています。
聖グレゴリオの家で歌われるグレゴリオ聖歌のラテン語テキストは、初代のキリスト者の世界の共通
語であったギリシャ語聖書(七〇人訳聖書)に基づいています。新約聖書のなかの旧約聖書の引用は、
基本的には詩編も含めて、この七〇人訳ギリシャ語聖書によりますので、新約時代のキリスト者の信仰
を理解するためには、ユダヤ教正典のヘブライ語テキストだけでなく、ギリシャ語テキストに基づくキ
リスト者の詩編解釈の伝統を知ることも必要となってきます。
私の連続講義は2025年の復活祭の後から開始し、全部で十回を予定しています。
詩編の構成・作者・表題・内容の分類・キリスト者の詩編解釈の伝統・近代語訳(英語欽定訳など)日
本語訳の比較など、詩編釈義に伴う様々な諸問題を論じる予定です。カトリック教会の典礼ではグレゴ
リオ聖歌が中心的な位置を占めますが、この講義では、復活祭に関連する詩編、とくに「詩編51に聴
く―灰の水曜日の懺悔と賛美」「詩編118に聴く―ペテロの証し―受難の民の希望」「詩編148に聴くー
アッシジの聖フランシスコの祈り・ラウダート・シに寄せて」「詩編150に聴く―復活祭のアレルヤ
唱」など、カトリックの典礼と聖務日課に関連の深い詩編を幾つか選んで詳しく解説します。また、七
〇人ギリシャ語訳聖書の伝統を継承する正教会の典礼で詩篇がどのように歌われているかを知るため
に、日本でもよく知られているラフマニノフの「晚禱(徹夜禱)」を手引きとして、その背景にある正教
会の典礼で歌われる詩篇と新約聖書の賛歌を解説します。
福音歳時記 3月8日 聖ヨハネ病院修道会創設者記念日


福音歳時記 3月7日 聖ペルペトゥア 聖フェリチタス殉教者の日
獄中の夢は信實ペルペトゥア竜も剣(つるぎ)もおそれぬ自由
西暦203年3月7日にローマ皇帝セプティミウス・セウェルス下の迫害により殉教した二人の女性ペルペトゥアとフェリチタスについては、殉教者自身の筆録も含め、「ペルペトゥアとフェリチタスの殉教」と呼ばれる詳細な文書が残されている。ローマ皇帝によるキリスト教迫害と豊臣秀吉の伴天連追放という時代背景の違いはあっても、「勇敢な女性」の「殉教=信仰の証し」と言う点では、ペルペトゥアと細川ガラシャには共通点がある。それは、彼女たち自身の言葉が遺されており、またその殉教時の状況がさまざまな人によって記録されているからである。
ペルペトゥアの殉教録のなかには、棄教を促す父親と彼女との対話が含まれている。老境に入った父親は、家族や親戚、彼女の赤子への配慮を引き合いに出し、棄教を促す。ペルペトゥアはそのたびごとに大きく心を揺り動かされるが、「被告の席の上でも、神の思し召し通りのことが起こるでしょう。私たちが自分の力の中にではなく、神の力の中にいることを知って下さい(scito enim nos non in nostra esse potestate constitutos, sed in Dei) 」と父親に答え、信仰を捨てないことを告げる。
ローマ帝国の時代の殉教録に特徴的なのは、コロッセウムでの野獣刑である。これはおそらく異教の神々への人身御供という意味があったと思われるが、ペルペトゥアもまた、入場門のところで、サトゥルヌス神とケレス神の神官の祭服を着用するように言われるが、彼女は断固としてそれを拒否して次のように言う。
「私たちが自らこのようなことに進み来ているのは、自分の自由が奪われないためでした。私たちが自分の生命を献げるのも、こんなことをしたくなかったからでした。その点についてはあなた方も私たちと意見が一致して居るはずです」
結局、彼女の主張が認められ、異教の祭服の着用が免除されたので、彼女は詩編を歌い、行進して総督ヒラリアヌスの前に来ると、
「あなたは私たちを(裁くが)、しかし神があなたを(裁くでしょう)」と堂々と述べたために鞭打たれ、牝牛の角に突かれたあとで、剣闘士の剣によって最期を迎えたと書かれている。
ペルペトゥアの殉教録には、彼女の弟が、殉教が神意にかなうものであるのかどうか夢にて尋ねるように懇願したことも書かれている。当時は、夢の中で神意が告げられるという考えがあった。ペルペトゥアが獄中で見た夢は、梯子の乗り天上に赴くと、梯子の周りには刃の突いた武器、麓には竜がいたので、この夢によって彼女は自分がコロッセウムで殉教することが摂理なのだと知ったのであろう。
福音歳時記 2月の読書と黙想ーロシア聖歌と聖詠の伝統
キリル文字にて記されし聖詠は三位言祝ぐヘルヴィムの歌
2月14日は聖チリロ隠世修道者、聖メトディオ司教の祝日である。9世紀のギリシャに生まれたこの兄弟は、スラブ民族の土着の文化を尊重し、現地の言葉で典礼書を作成した。(そのときに使ったアルファベットが、のちにキリル文字と呼ばれるようになった)。
ヨハネパウロ二世は、回勅「スラブ人の使徒」のなかで、この二人の兄弟を、キリスト教の「文化内開花」の精神の先駆者として賞賛し、ヨーロッパの諸民族の一致と自由、相互の文化的伝統を尊重すべきことを説いた。
キリスト教の宗教音楽を語る場合、聖詠(詩編の朗詠)を重んじるロシア聖歌は、ローマ教会のグレゴリオ聖歌と並ぶ重要性を持っている。両者ともにアカペラで歌うのが本来の形であるが、器楽の伴奏を伴った宗教音楽として、西方にはビバルディ、バッハ、ヘンデル、モーツアルトといったの古典派の伝統があり、東方には、チャイコフスキー、ムソルグスキー、ラフマニノフ、スメタナ、ドヴォルザークらの国民楽派の伝統がある。それぞれが、各民族固有の文化の特色を持っている。
ロシア聖歌の伝統を受け継ぐとともに西欧音楽の作法にも通じていたチャイコフスキーの「ヘルヴィムの歌」は、東西の宗教音楽融合の傑作である。ヘルヴィムとは西方教会で言う「ケルヴィム」(旧約聖書に登場する天使)のことで、ロシア語で、「我等奥密にしてヘルヴィムをかたどり、聖三の歌を生命を施す三者に歌いて今この世の慮りを悉く退くべし」と歌う。
TCHAIKOVSKY - Hymn of the Cherubim
福音歳時記 2月の読書と黙想ー儒教からキリスト教へーその2
中江藤樹の儒教思想にキリスト教の影響があった可能性を指摘したのは、日本に於けるキリシタン研究の開拓者の一人でもあった宗教学者の姉崎正治である。姉崎は、1626年のイエズス会年報(ミラノ版)にもとづく、レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」の次の記載に注目した。
「四国には、一人の異教徒がいて、彼は支那の哲学とイエズス・キリストの教えとは同じだと信じ、ずいぶん前から、支那の賢人の道を守ってきたのであった。彼は、キリスト教の伝道師に会って、おのが誤りを知り、聖なる洗礼を受け、爾来優れたキリシタンとして暮らした。」
イエズス会年報の記事だけでは、キリスト者になった当該の儒者を藤樹と同定するのは単なる仮説の域を出ないが、秀吉による宣教師追放令と二十六聖人の殉教後ではあっても、四国伊予の大洲に、キリスト教の洗礼を受けた儒者がいたと云うことは、明確な歴史的事実として認められよう。
中江藤樹について、海老名弾正は「キリストの福音を聞かずして已にキリスト教会の長老なり」(「中江藤樹の宗教思想」、六号雑誌217、1899)と書いている。姉崎正治の仮説の信憑性を史実に即して検証するという課題を賀川豊彦から与えられた清水安三は、戦後間もない頃、その研究成果を「中江藤樹はキリシタンであったー中江藤樹の神学」という著書(桜美林学園出版部1959)に纏めている。
海老名弾正は同志社大学の第8代総長、清水安三は桜美林大学の創立者・初代学長であるから、二人ともキリスト教を建学の精神とする大學の教養教育に関係しており、中江藤樹の思想の中に,日本の宗教的文化的伝統の中にあって、もっともキリスト教に密接している教育思想を見いだしたという点が共通している。
中江藤樹の宗教思想がいかなるものであったのか、とくにキリスト教と関連のある箇所を『藤樹全集』のテキストに即して確認しておきたい。
◎中江藤樹の宗教思想の特徴ー「隠れたる所にいます まことの神」
資料-1 「大上天尊大乙神経序」(藤樹三十三歳ころの作)
趣旨:全知・全能・全善の完備なる徳を備えた唯一の神を礼拝すべき事―その神は本来、名を持たないが、昔の聖人は、それを「皇上帝」とか「大乙尊神」という名號で呼び、万物に生命を与え育み養ってくださるそのかたのご恩に報い、感謝を捧げるために、地上の天子以下すべての衆生にこの神を祀ることを教えられた。
(原文):大乙尊神は、書の所謂皇上帝なり。夫(か)の皇上帝は、大乙の神靈、天地萬物の君親にして、六合微塵・千古瞬息照臨せざる所なし。蓋し天地各々一徳を秉(と)つて、而して上帝の備れるに及ばず。日月各々時を以て明らかにして、上帝の恒なるに及ばず。日月晦なれども明虧けず。天地終れども壽竟らず。之を推して其の起を見ず。之を引いて其の極を知らず。之を息むれども其の機を滅せず。之を發して其の迹を留めず。一物として知らざるなく、一事として能くせざるなし。其の體太虚に充ちて聲なく臭なく、其の妙用太虚に流行して至神至靈、無載に到り無破に入る。其の尊貴獨にして對なく、其の徳妙にして測られず。其の本名號なし。聖人強ひて之に字して大上天尊大乙神と號して、人をして其の生養の本を知つて敬して以て之に事へしむ。夫れおもんみるに、豺獺は形偏氣を受くと雖ども、一點の靈明なほ昧(くら)からずして、獣を祭り魚を祭る。しかるを況んや人は萬物の靈貴なるをや。是を以て先聖報本の禮を修め、以て天下後世を教ふ。
(現代語訳-田中):大乙尊神は、『書経』で云う皇上帝である。その皇上帝は偉大なる唯一の神靈、天地万物の主君であり親であって、六号微塵(天地四方の大宇宙と微細なる小宇宙)、千古瞬息(永劫の時間と瞬間)において照臨しない場所がない。天地はそれぞれ一つの徳をとってはいるが、その完備なる徳には及ばない。太陽も月もそれぞれ輝くときがあるが、その永遠なる輝きに及ばない。太陽と月は暗くなるときがあるが、その明るさに欠けるときがなく、天地には終わりがあるが、その寿命は無限である。時間を遡ってもその生起はなく、時間を進めてもその終局を知らない。活動をやめてもその作用は滅びず、活動を始めても、その痕跡を留めない。(至上神は)一つとして知らない物はなく、一つとして出来ない事はない。(至上神の)本体は虚空に充ち、無声無臭、その徳は太虚に遍在し、至神至靈、それよりも大なるものを載せず(無載)、それよりも小なるものによって破られない(無破)。その尊く高貴なること、独り並ぶものなき絶対者である。その徳は測ることができない。その本体には名前がない。聖人は強いてそれに字(あざな)をつけて「太上天尊大乙神」と呼び、人々に命をあたえ養ってくださる根源を知らせ、この神を敬い、この神に仕えさせるのである。考えてみると、(獲物をならべて祀る)豺(やまいぬ)や獺(かわうそ)は、(正通の気を受ける人とちがって)偏塞の気を受ける劣った生物ではあるが、それでも一点の靈明が暗くないので、獣を祭り魚を祭るのである。まして人間は万物の靈貴(霊長)ではないだろうか。このゆえに、昔の聖人は、報恩感謝の礼法を修め、天下後世の人々に教えたのである。
資料-2中江藤樹の神道(唯一神の道)における神の礼拝の意味
〇感覚によっては捉えられない「至上至靈」の超越神やさまざまな鬼神を、目に見える「靈像」として礼拝することができるか、それは迂遠で人を欺くものではないかという問に対して、藤樹は、聖賢ならぬ凡俗の身であっても、明徳の心の眼によって靈像を視るならば、「仮真一致」すなわち「有形の仮像によって無形の真の本体を視ることができる」と主張する。
或人問ふ。「詩に曰く上天の載は聲も無く臭も無し。中庸に曰く、鬼神の徳たるや其れ盛んなるかな。これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず。體物遺すべからず。かくのごとくならば、即ち上帝鬼神は形色無かるべし。而るにその形を図画する者、迂にして誣ならずやと。」
曰く「上帝鬼神は形色の言うべきもの無し。無形色をもって神妙にして不測なり。万変に通じ万化に主たること明々霊々たり。是をもって聖賢は畏敬して違わず。....一旦豁然として開悟すれば則ち明徳をもって無形の神を視ること、猶ほ瞽者の昭明にして有形の尊者を見るがごとし。有形の仮像に依て無形の真體を見得れば則ち仮真一致しその別を見ざるなり。(『靈符疑解』)
資料3ー藤樹の摂理論:誠敬の心によって、先天的あるいは後天的な宿命を人は此の世で変化させ消滅することができるし、かりに此の世できなくとも来世で必ず幸福を受ける。
禍福壽夭皆一定の命有って、人を以て変ふべからず。然れども正あり変あり而して又始生の初に受けたる者有り、生后の行に由って受くるものあり。…天定の禍災と雖も、亦変消すべし。もし変消すること無ければ、必ず身后の幸あり」(『靈符疑解』)
資料4ー藤樹の「陰隲(いんしつ)」論―隠れたる神の仁愛の働き
心を無聲無臭の仁に居(をき)て毛頭の盲心雑念なく、真実無妄に人を利し物をあはれむことを行ふを陰隲となづく。たとひ人を救ひ物を助くる行ありとも、心を仁にたてず、妄心雑念あらば誠の陰隲にあらず。故に心を仁にをくを陰隲の大本とす。遇に随ひ感に応じ分の宜をはかって民を仁し物を愛するのことを行ふを陰隲の末とす。本末一貫真実無妄なるが陰隲の正真なり。この陰隲は百福の基本にして、禍を転じ福となすの妙術なり。(全集2巻ー藤樹書簡集より)
中江藤樹の儒教的な観点から再解釈され道徳化された神道は、八百万の神々を統合する唯一神、全知、全能、全善の至上至靈の神を、その隠された仁愛の働きに感謝しつつ礼拝するものであった。それは非人格的な宿命論から人を自由にする教えであり、天の仁愛のなかに自己の心につねに置くことによって、人と物(生きとし生けるもの)を愛することを教えるものであった。

再び忍べば五福皆駢(ならび)臻(いた) る
忍んで百忍に到 れば満腔の春
煕 煕 (きき)たる宇宙都(すべ) て真境
福音歳時記 2月の読書と黙想ー儒教からキリスト教へ-
キリストに通ずる儒者の説きし道天を敬ひ人を愛する
「敬天愛人」という言葉を最初に使った日本人は中村敬宇(正直)(1832-1891)である。慶応二年(1866)幕府の命により英国に留学した当時の彼は昌平黌の主席教授(御儒者)であった。日本を代表する儒者であった敬宇が、なぜわざわざ外国に留学したのか、その志は「留学奉願候存寄書付」(志願して留学する中村の意見書)につまびらかに書かれている。
その第一段で「儒者の名義を正す」として、「天地人に通ず、これを儒といふ」とし、学問は支那一国に限らぬ普遍的なものであると再定義した
第二段で、アヘン戦争後の中国の先例に触れ、西洋との交渉は通訳任せであってはならず、和漢の学に通じた者が留学すべきであると説いた。
第三段で、中村の考えていた西洋の学問について次のように述べる。
(引用)
「西洋開化の国にては凡その学問を二項に相分け申し候様に承り申し候。性霊の学、即ち形而上の学、物質の学、即ち形而下の学、とこの二つに相分け申し候ふ。文法の学、論理の学、人倫の学、政治の学、律法の学、詩詞楽律絵画彫像の藝などは性霊の学の項下に属し申し候。万物窮理の学、工匠機械の学、精錬点火の学、本草薬性の学、稼穡樹芸の学は物質の学の項下に属し申し候。」(/引用)
これまで蘭学者達が西洋から学んできたものは、専ら科学技術(物質の学・形而下の学)であって、実用的な利益を上げるための手段智にかぎられてきた。学問の根幹をなす倫理道徳の道(性霊の学・形而上学)、人倫の学、政治学、法学を学ぶためには、少年生徒による留学生では不十分であり、西洋の倫理の善悪を熟慮考察し、その正邪得失を判断するためには、東洋の道徳の基礎に通じたものでなければならない、と論じている。
いわゆる「和魂洋才」とか「東洋道徳西洋芸術」(佐久間象山)のごとき立場を越えて、西洋の物質文明の根底にある、人倫と政治の学問に関心を持った敬宇は、ミルの「自由論」(帰国後、敬宇はそれを「自由之理」として邦訳する)を読み、西洋民主主義の根本思想を学ぶ。
帰国後(明治元年)に書いた西国立志編の『緒論』では、
「君主の権は、その私有にあらざるなり」と述べ、「君主の令するところのものは、国人の行んと欲するところなり。君主の禁ずるところのものは、国人の行ふを欲せざるところなり」と、君主を馬車の御者、国民を馬車の乗客に譬えている。どちらに進むべきかは乗客の意向で決まるのであり、御者である君主は客の意向に従い車を走らせれば良いと云うのであ。
敬宇は、英国下院(House of Commons)を「百姓の議会」上院(House of Lords)を「諸侯の議会」、国会議員を「民任官」と翻訳し、理想的な国会議員を、「必ず学明らかに行ひ修まれるの人なり。天を敬し人を愛するの心ある者なり。多く世故を更へ艱難に長ずるの人なり」と規定した。
〇「敬天愛人」とは、このように明治元年、中村敬宇によって、人民によって国会議員に選ばれた者の心得という文脈で、日本で初めて使われたのである。
静岡の学問所で敬宇の講義を聴いた者の中に、薩摩藩士の最上五郎が居た。彼は敬宇の思想を西郷南州に伝え、西郷はそこにみられた思想に共鳴し、「敬天愛人」の書を多く遺すことになったのである。
静岡時代に敬宇の書いた『敬天愛人説』では、はじめに儒教の伝統の中で「敬天」と「愛人」に関する諸説を引用したうえで、それをキリスト教の倫理にも通じる普遍的な道徳であることを論じている。
①「天は我を生ずる者、乃ち吾父なり。人は吾と同じく天の生ずる所なるは、乃ち吾兄弟なり。天それ敬せざるべけんや、人それ愛せざるべけんや。」
②「何ぞ天を敬すると謂ふ。曰はく、天は形無くして知る有り。質無くして在らざる所無し。その大外無くその小内無し。人の言動、その昭監を遁れざること論なし。乃ち一念の善悪、方寸に動く者、またその視察に漏れず。王法の賞罰、時に及ばざる所有り、天道の禍福、遅速異なると雖も、而モ決シテ愆る所無し。」
③「蓋し天は理の活者、故に質無くして心有り。即ち生を好むの仁なり。人これを得て以て心と為せば、即ち人を愛するの仁なり。故に仁を行へば、則ち吾心安じて天心喜ぶ。不仁を行ヘば、則ち吾心安ぜずして天心怒る。」
④「それ天は肉眼を以て見る可からず、道理の眼を以てこれを観れば、則ち得て見るべし。天得て見るべくば、則ち敬せざらんと欲するも、何ぞ得べけんや。」
⑤「古より善人君子、誠敬を以て己を行ひ、仁愛を以て人に接す。境地の遇ふ所に随ひ、職分の当然を尽す。良心の是非に原き、天心の黙許に合ふを求む。」
⑥「故に富貴を極めて驕らず、勲績を立てて矜らず。窮苦を受けて憂へず、功名に躓きて沮らず。禍害を被リ阨災を受くると雖も、快楽の心、為に少しも損せず。これ豈に常に天の眼前に在るを見るに由るに非ずや。天道の信賞必罰を信ずるに由るに非ずや。」
⑦「若しそれ天を知らざる者、人と争ふを知るのみ、世と競ふを知るのみ。知識広ければ、則ち一世を睥睨し、功名成れば、則ち眼中人無し。願欲違へば、則ち咄咄空に書す。禍患及べば、則ち天を怨み人を尤む。自私自利の念、心胸に填塞して、人を愛し他を利するの心毫髪も存せず。これ豈に天を知らざるの故に非ざるか。」
⑧「是に由りて之を観るに、天を敬する者、徳行の根基なり。国天を敬するの民多ければ、則ちその国必ず盛んに、国天を敬するの民少なければ、則ちその国必ず衰ふ。」
「天は我を生ずる者、乃ち吾父なり」以下の文では「天」は人格的な性格が顕著であり、儒教の「天」よりもキリスト教のHeaven(=God)に近い用法である。敬宇は、帰国途上で読んだSamuel Smiles のSelf-Help(自助論)をのちに「西国立志編」として邦訳したが、そこでの「天はみずから助くるものを助く」の自主独立の精神の根底にあるものは儒教的な語で書かれたキリスト教倫理ともいえるものであった。
この「敬天愛人論」を呈された大久保一翁 は中村敬宇にあてた書簡のなかで、この言葉が、当時の蘭学者に知られていた聖書の漢訳に由来する者であることを指摘している。
しかし、一翁 は、当時禁教であったキリスト教の聖書に由来すると云っても、そこに書かれていることは儒教の教えと変わりなきものだから、これを刊行しても一向に差し支えないとして、次のように云っている。
(引用)「旧新約書中の語にても御稿の趣にては聊か嫌疑も有之間敷候、何の書出候とも其辺は唐土二帝孔夫子も同様と存候、……既に敬天愛人と四字並候西洋物漢訳書中より鈔し置き事に候。且御文の趣にては何の嫌疑も有間敷存候。」(/引用)
「文明」とは何か:「南洲翁遺訓」より
明治維新と共に「文明開化」の時代が始まるが、官軍に敗れた荘内藩士たちが、敗者に名誉を与えた西郷隆盛の遺徳を偲んで記録した文書「南州翁遺訓」には「まことの文明とは何か?」という根本的な問いが含まれている。
中村敬宇はすでに「西洋文明の倫理の善悪を熟慮考察し、その正邪得失を判断するためには、東洋の道徳に通じたものでなければならない」と論じていたが、佐藤一斎の『言志四録』を座右の書としていた西郷の文明論には、「文明開化」の名のもとに無批判的に西欧文明を模倣する明治新政府への批判と共に、西洋文明を支えてきたキリスト教倫理から学ぶべき積極的な「善」への評価がある。
西郷によれば、文明とは普遍的な「道」が民によって実践されることを意味するのであって、物質的繁栄を意味するのではない。西欧諸国の文明も、その基準によって判断すべきであって、慈愛をもととして解明に導かず未開の国を暴力によって植民地化した西欧諸国は「野蛮」である。たとえば、遺訓第1条で、南州は、物質的な文明、すなわち経済的な繁栄のごとき「外観の浮華」は「文明」の名に値しないというという儒教の伝統にしたがいつつ、次の如く平易な言葉で西洋的「文明」の偽善を指摘している。
(引用)「文明とは道の普く行はるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些とも分らぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、「西洋は野蛮じや」と云ひしかば、「否な文明ぞ」と争ふ。「否な否な野蛮ぢや」と畳みかけしに、「何とて夫れ程に申すにや」と推せしゆゑ、「実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇懇説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢや」と申せしかば、其の人口を莟めて言無かりきとて笑はれける。」(/引用)
西欧列強が、非西欧諸国にたいして「未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利する」というのは歴史的事実であり、それこそ文明の対極にある「野蛮」に外ならないという西郷の指摘である。しかし、彼は、かかる西欧列強の植民地主義を非難するだけで終わっているのではない。西洋の「刑法」の人道的な性格について西郷は次のように述べる。
(引用)「西洋の刑法は専ら懲戒を主として苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。故に囚獄中の罪人をも、如何にも緩るやかにして鑑誠となる可き書籍を与へ、事に因りては親族朋友の面会をも許すと聞けり。尤も聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心より鰥寡孤独を愍み、人の罪に陥いるを恤ひ給ひしは深けれども、実地手の届きたる今の西洋の如く有りしにや、書籍の上には見え渡らず、実に文明ぢやと感ずる也。」(/引用)
西郷は、ここで、西洋の刑法は、我が国の儒教の教えを我が国以上に実践している物であり、真に文明の名に値する、と述べるのを忘れていない。
犯罪人に対する過酷な取り調べと刑の執行の残虐さは、儒教の精神に反する物であるにもかかわらず、四書五経の訓詁注釈にかまけてきた儒者たちは、過酷な刑法を人道的なものとする努力を怠ってきた。これこそ、まことの文明として西欧から学ぶべきであるという指摘である。
そして、西郷は、論語「子罕」編の「絶四(恣意・無理押・固執・我意の四つの執着を絶つ)」の言葉を引用し「敬天愛人」が天地自然の道に従って、我意を離れた講学の道なることを説いた後で、次のように述べている。
(引用)「道は天地自然の物にして、人は之れを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。」「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。」(/引用)
「天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也」に要約される西郷の思想と実践について、内村鑑三は、『代表的日本人』のなかで、預言者の精神とキリストの教えに合致する「偉大な西郷の遺訓」がどこから由来するのか、知りたいと思うものがいるだろう、とコメントしている。
福音歳時記 ペトロの言葉ー詩編118の黙想
まず、マタイ21: 9では、エルサレム入城のイエスを頌える歌として「ほむべきかな主の名によって来るもの(詩118: 26)」が引照され、おなじくマタイ21:49では「家造りの捨てた石が隅の親石となった(詩118: 22)」が、イエス自身の言葉として語られている。この言葉は、使徒行伝4:11ではエルサレムで祭司長や長老達の尋問に答えたペトロのキリスト証言として繰り返される。
Psalm 118 in Hebrew, with Lyrics and transliteration
を物語るときにこの詩編2が引用されていることが分かる。
Psalm 2 (English), Gregorian Tone 1D
福音歳時記 2月3日 福者ユスト高山右近殉教者記念日
侘数寄を弥撒に代へたる侍(さむらひ)の道はひとすじ殉教の旅
千利休以後に始まる濃茶の回しのみ(すい茶)は、カトリックのミサで司祭と信徒が一つの聖杯から葡萄酒を共に飲む儀式によく似ており、茶巾と聖布(プリフィカトリウム)の扱いも酷似している。これは、裏千家家元の千宗室氏の云われたように、キリスト教が日本の茶道にあたえた影響と見て良いであろう。
利休には、高山右近をはじめ蒲生氏郷、瀬田掃部、牧村兵部、黒田如水などのキリシタン大名、あるいは、キリスト教と縁の深い門人(ガラシアの夫の細川忠興など)や、吉利支丹文化の影響をうけた茶人(古田織部など)が大勢いた。
高山右近の父の高山飛騨守は、畿内のキリスト教伝道に大きな役割を果たした盲目の琵琶法師ロレンソ了斎の影響でキリスト教に帰依した。當時少年であった次男の彦五郎(右近)も飛騨守の一族の者とともに受洗した。右近は父親から家督を譲られた後、1573年から85年まで高槻城主を務め、1585年に明石に転封された。1587年、博多にいた秀吉は、突然に禁教令を出し、まず高山右近に使者を送って棄教を迫った。宣教師の書翰によると使者に対して右近は次のように答えたという。
「予はいかなる方法によっても、関白殿下に無礼のふるまいをしたことはない。予が高槻、明石の人民をキリシタンにさせたのは予の手柄である。予は全世界に代えてもキリシタン宗門と己が霊魂の救いを捨てる意志はない。ゆえに予は領地、並びに明石の所領6万石を即刻殿下に返上する」(「キリシタン史の新発見」プレネスチーノ書簡から)
右近の強い意志を知った秀吉は時間を置かず第二の使者を出す。陣営にいた右近の茶道の師、千利休が使者に選ばれたのである。利休の伝えた内容は「領地はなくしても熊本に転封となっている佐々成政に仕えることを許す、それでなお右近が棄教を拒否するならば他の宣教師ともども中国へ放逐する」というものであった。右近はこの譲歩案も次のように謝絶したので、利休もそれに感ずるところがあって再び意見することはなかったという。(金沢市近世資料館にある『混見摘写』による)
「彼宗門 師君の命より重きことを我知らず。しかれども、侍の所存は一度それに志して不変易をもって丈夫とす 師君の命といふとも 今軽々に敷改の事 武士の非本意といふ。利休もこれを感じて再び意見に及ばずの由」。
追放後、右近は、博多湾に浮かぶ能古島、小豆島など、右近を慕う大名達によって匿われたのち、金沢の加賀前田家の客将として、能登で二万石を与えられた。しかしながら、1614年の徳川幕府の吉利支丹禁令のさいに国外追放となり、翌1615年2月3日にマニラで死去した。国外追放されたとき、右近は十字架と共に、最後に利休と分かれたときに渡された羽箒(茶道具)を所持していた。また、右近が細川忠興宛にあてた書状が、細川家の永青文庫に残っている。
近日出舟仕候 仍 此呈 一軸 致進上候
誠誰ニカト存候 志耳
帰ラシト 思ヘハ兼テ 梓弓
ナキ数ニイル 名ヲソ留ル
彼ハ向戦場命堕
名ヲ天下ニ挙是ハ
南海ニ趣命懸天名ヲ
流如何六十年之苦
忽別申候此中御礼ハ
中々不申上候々々恐惶
敬白
南坊
九月十日 等伯(花押)
羽越中様 参人々御中
(細川忠興にあてた右近の自筆書簡。)
『近々、出航いたすことになりました。ところで、このたび一軸の掛物をさしあげます。どなたにさしあげようかと思案しましたが、やはりあなた様にこそふさわしいもの、私のほんの志ばかりでございます。
帰らじと思えば兼ねて梓弓無き数にいる名をぞ留むる。
彼(正成)は戦場に向かい、戦死して天下に名を挙げました。是(私)は、今南海に赴き、命を天に任せた名を流すのみです。いかがなものでしょうか。六十年来の苦もなんのその、いまこそ、ここに別れがやって参りました。先般来の御こころ尽くしのお礼は、筆舌につくす事は出来ません。恐れながら申し上げます。
九月十日 南坊等伯(高山右近の茶人としての号)』
福音歳時記 2月2日 聖母マリアの清めの祝日
イグナチオ・デ・ロヨラの祈りの言葉
Anima Christi キリストの魂
Anima Christi, sanctifica me. キリストの魂、わたしを聖化し、
Corpus Christi, salva me. キリストの体、わたしを救い、
Sanguis Christi, inebria me. キリストの血、わたしを酔わせ、
Aqua lateris Christi, lava me. キリストの脇腹から流れ出た水、わたしを清め、
Passio Christi, conforta me. キリストの受難、わたしを強めてください。
O bone Jesu, exaudi me. いつくしみ深いイエスよ、わたしの祈りを聴きいれてください。
Intra tua vulnera absconde me. あなたの傷のうちにわたしをつつみ、
Ne permittas me separari a te. あなたから離れることのないようにしてください。
Ab hoste maligno defende me. 悪魔のわなからわたしをまもり、
In hora mortis meae voca me. 臨終の時にわたしを招き、
Et iube me venire ad te, みもとに引き寄せてください。
Ut cum Sanctis tuis laudem te. すべての聖人とともに、いつまでもあなたを
In saecula saeculorum. Amen ほめたたえることができますように。アーメン (ホセ・ミゲル・バラ神父による日本語訳)
イグナチオ・デ・ロヨラが自身の『霊操』の冒頭に記しているのこの祈りは、「イグナチオ・デ・ロヨラの憧憬」と呼ばれることもある。
「霊操」の初版にすでに言及され、第二版以後は全文が引用されているこの祈りは、様々な国の言葉に翻訳されてきたが、英語訳では、ニューマン枢機卿のものが良く知られている。ニューマンはこの祈りの終わりの部分を「汝の聖人と共に永遠に汝の愛を歌うことができますように」(’With Thy saints to sing Thy love,World without end.')と、単に「ほめたたえる」と訳すのではなく「愛を歌う」と意訳している。
「キリストの魂」という祈りの根本にあるものが、「愛の頌栄」であるということは、ロヨラの『霊操』がキリストの愛を主題とする点で、ヨハネの福音書や書簡と深い内的なつながりがあることを示すものである。『霊操」の最も新しい邦訳者である川中仁によれば、ヨハネ福音書と『霊操』は、「イエス・キリストの形姿を媒介とする神と読者との間の間主観的コミュニケーションの場」を開くという共通の構造があるという(「ヨハネ福音書とイグナチオ・デ・ロヨラの霊操」ー上智大学キリスト教文化研究所篇『さまざまに読むヨハネ福音書』所収、2011)。
また、臨済宗の室内の根本修行を通過(大事了畢)して参禅指導者の資格を得たイエズス会の門脇佳吉神父は、禅の接心の初めから終わりまでを貫く根本原理を「大死一番絶後に蘇る」というダイナミックな体験とし、『霊操』の第一週から第四集までを貫く根本原理を、「一粒の麦がもし地に落ちて死せざれば、ひとつにとどまる。もし死すれば多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書12-14)という「死と復活の」の経験としている。(岩波文庫の『霊操』門脇佳吉訳・解説参照)
単なる神秘的観想にとどまるのではなく、さらに一歩進んで、さまざまな社会的な奉仕活動に積極的に参加するイエズス会の精神ー「愛の利他行」ーをささえるものが『霊操』であり、その冒頭に置かれた「キリストの魂」の祈りであろう。
- Anima christi sanctifica me ( Chant Catholique )
詩編65[66]に聴く:主の公現後第二主日の入祭唱 “Omnis terra adóret te, Deus”のグレゴリオ聖歌から
まず公現後第二主日で歌われるグレゴリオ聖歌の入祭唱“Omnis terra adóret te, Deus”を聴こう。
INTROIT • 2nd Sunday after Epiphany (“Omnis terra adóret te, Deus”)
Vulgata Text:
Omnis terra adoret te, et psallat tibi; psalmum dicat nomini tuo. Jubilate Deo, omnis terra; psalmum dicite nomini ejus; date gloriam laudi ejus.
English Text used by Orthodox Church in America:
Let all the earth worship Thee, and chant unto Thee; let them chant unto Thy name. Shout with Jubilation unto the Lord all the earth; chant ye unto His name, give glory in praise of Him.
詩編[66]は、もともとは、民族としてのイスラエルの紅海における救い(6節)、捕囚からの救い(12-c節)を想起する「感謝の歌 מִזְמ֑וֹר שִׁ֣יר(šîr miz·mō·wr;)」であった。フランシスコ会聖書研究所訳に従うと、第1節から4節までは
1 すべての地よ、神に歓呼せよ 2 み名の栄えを ほめ歌い、はえある賛美を献げよ。3 「神よ、あなたのわざは恐るべきもの。敵はあなたの偉大な力の前に屈する。4すべての地はあなたを拝み、ほめ歌い み名をたたえて歌う」。
となっている。典礼では、順序が少し変わって、4節が歌われた後で、1-2節が歌われている。そして大切なことは、典礼で歌われていなくとも、この詩を初代のキリスト者が読むときにどのように解釈したかを知るために、16-19節を引用しよう。
16 いざ聞け、すべて神をおそれる者よ、神がわたしに何をされたかを語ろう。 17 わたしは口をもって神に呼び求め、舌をもって神をあがめた。18 わたしの心に よこしまがあったなら、主は聞き入れられなかったであろう。 18 まことに神は聞き入れて、わたしの祈りの声を心にとめられた。
ここでは、詩編記者は、詩の前半部分のように、イスラエル民族としての「我々」ではなく、一人称単数の「わたし」として、個人の救済を語っていることに注意したい。旧約の時代には、巡礼者の集まる民族的な祭儀ではまず団体的な感謝が行われ、次に個人的な感謝の奉献が行われたらしい。
新約の時代では、この詩編は、「キリストを信じる者の復活を喜ぶ」詩として歌われるようになった。それは、ギリシャ語訳の古い写本と、Vulgata訳では、この詩の表題が、ᾠδὴ ψαλμοῦ ἀναστάσεως Canticum psalmi resurrectionis (復活の頌栄)となっていることから知られるのである。
アウグスチヌスは『詩編注解」のなかで、この詩編65のキリスト者にとっての重要性を次のように説明している。
この詩編は表題として「終わりに、復活の頌栄」と書かれている。詩編が朗読されるとき、「終わりに」と言う言葉をあなたたちが聞くなら、「キリストにおいて」と理解しなさい。使徒は「というのもキリストは律法の終わり、信じる者にとって義となるものだからである(ロマ書10-4)」と述べている。だから、ここで復活がいかに語られ、誰の復活が語られているのか、主御自身が与え、啓示されることを嘉しとされる限りにおいて、聞きなさい。キリスト者の復活がわたしたちの頭(かしら)においてすでに成し遂げられたこと、また肢体においては将来起こることを私たちは知っている。教会の頭はキリストであり、キリストの肢体は教会である。頭において先行したことが、身体において続いて生じるのである。これはわたしたちの希望である。このことのゆえに、わたしたちは信じ、このことのゆえに、この世のかほどの悪意のなかで、忍耐し、堅忍するのである。希望が事柄として現実となる前は、希望がわたしたちを慰める。事柄が現実となるのは、わたしたちも復活し、天的な住まいへと変えられ、天使と等しき者にされる時である。真理が約束するのでなければ、誰が敢えてこれを希望するだろうか。
「終わりにin finem」とラテン語訳されたヘブライ語לַ֭מְנַצֵּחַ は、「(聖歌隊の)指揮者に」と訳されるのが普通であるが、七〇人ギリシャ語訳 εἰς τὸ τέλος に由来する in finem をアウグスチヌスは、単なる音楽上の指示などではなく、文字通り「終わりに(むけて)」と読み、終末における復活の希望に生きるキリスト者の希望を表現するものとしてこの詩篇を読んでいることが分かるのである。アウグスチヌスは、次に、マタイ傳22:23-30を引用し、復活を否定するサドカイ派に対するイエスの応答を引用し、死者の復活の希望をもっていたユダヤ人を励ますと共に、死者の復活が、キリストを信じる異邦人にも約束されていることを強調し、「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでである」(ロマ書11-25)というパウロの言葉を引用している。
ーーーーーーーーーEnglish translation---------------
Let's listen to the Introit for the 2nd Sunday after the Epiphany, ‘Omnis terra adóret te, Deus’, from the Gregorian chant.
Vulgata Text:
Omnis terra adoret te, et psallat tibi; psalmum dicat nomini tuo. Jubilate Deo, omnis terra; psalmum dicite nomini ejus; date gloriam laudi ejus.
English Text used by Orthodox Church in America:
Let all the earth worship Thee, and chant unto Thee; let them chant unto Thy name. Shout with Jubilation unto the Lord all the earth; chant ye unto His name, give glory in praise of Him.
Psalm 66 was originally a ‘song of thanksgiving’ (מִזְמ֑וֹר שִׁ֣יר, šîr, miz·mō·wr;) recalling Israel's salvation at the Red Sea (v. 6) and deliverance from captivity (vv. 12-c). Following the translation of the Franciscan Institute of Biblical Studies, verses 1-4
1. All the earth, sing to God with joy! 2. Sing to God with praise, and give him glorious praise. 3. ‘God's deeds are awesome. The enemy is defeated before his great power. 4. All the earth worships and praises him, and sings his name.’
In the liturgy, the order is slightly different, and verses 1 and 2 are sung after verse 4. And, importantly, even if it is not sung in the liturgy, let us quote verses 16-19 to see how the early Christians interpreted this poem when they read it.
16 Listen, all you who fear God, and I will tell you what he has done for me. 17 I called to God with my mouth and praised him with my tongue. 18 If my heart was wicked, the Lord would not have listened. 18 Surely God has listened and heard my prayer.
Here, the psalmist is speaking of personal salvation, using the first person singular ‘I’ rather than the ‘we’ of the first half of the psalm. In Old Testament times, it seems that at national festivals where pilgrims gathered, group thanksgiving was offered first, followed by individual thanksgiving.
In the New Testament era, this psalm came to be sung as a psalm of ‘rejoicing in the resurrection of those who believe in Christ’. This is known from the fact that in the Greek translation of the Old Testament and in the Vulgate, the title of this psalm is ᾠδὴ ψαλμοῦ ἀναστάσεως, Canticum psalmi resurrectionis (Hymn of the Resurrection).
In his ‘Commentary on the Psalms’, Augustine explains the importance of this psalm 65 for Christians as follows
This psalm is entitled ‘For the end, a resurrection hymn’. When you hear the words ‘for the end’ when the psalm is read, understand them to mean ‘in Christ’. The Apostle says, ‘For Christ is the end of the law and the righteousness of those who believe (Romans 10-4)’. So listen to what is said here about the resurrection and whose resurrection is being talked about, as far as the Lord himself is pleased to give and reveal. We know that the resurrection of the Christians has already been accomplished in our heads, and that in the members it will take place in the future. The head of the church is Christ, and the members of Christ are the church. What has preceded in the head will continue to occur in the body. This is our hope. Because of this, we believe, and because of this, we persevere and endure in the midst of the world's evil. Before hope becomes a reality, it comforts us. The reality will come when we too are resurrected, transformed into heavenly dwellings, and made equal to the angels. Who would dare hope for this if truth did not promise it?
The Hebrew word יִזְקַנְתִי, which is translated in Latin as ‘in finem’, is usually translated as ‘(choir) conductor’, but Augustine, who derived the word ‘in finem’ from the Septuagint Greek translation εἰς τὸ τέλος, read it literally as ‘towards the end’, and not as a mere musical instruction, and we can see that he read this psalm as expressing the hope of Christians living in the hope of the resurrection at the end of time . We can see that Augustine reads this psalm as expressing the hope of Christians living in the hope of the resurrection at the end of time. Augustine then quotes Matthew 22:23-30, Jesus' response to the Sadducees who denied the resurrection, and emphasises that the resurrection of the dead is also promised to the Gentiles who believe in Christ, while encouraging the Jews who had the hope of the resurrection of the dead, and quoting Paul's words that “it was because of the hardness of some of the Israelites that the whole Gentiles reached salvation” (Romans 11-25).
福音歳時記 1月28日 聖トマス・アクィナス司祭教会博士記念日
超自然なる聖体賛歌造りたるトマス博士の信知を想ふ
日本語版の新しい聖務日課「教会の祈り」では1月28日をトマス・アクイナスの記念日とし、「読書」としてhttps://inori.catholic.jp/doc/show/3/2025/01/28
聖トマス・アクィナス司祭の『使徒信経講解』を第二朗読で読む。
「神学大全」や「対異教徒大全」の著者としてだけでなく、トマスが司祭であって、聖書の釈義もしていたことを記念しているわけであるが、私は、トマスが、聖体賛歌 Tantum Ergo をはじめとする賛美歌の作者でもあったことを強調しておきたい。
トマスは当時最先端の哲学であったアリストテレスの注解を通じて自然なる理性の働きを学び、擬ディオニシウスの注釈を通じて、一者から発出して一者へと帰還する新プラトン主義の形而上学を学んだが、それ以上に重んじたのは、ギリシャ思想に欠けていたキリスト教信仰の「神秘」であった。彼の明晰判明なる一切の言説は、この神秘への配慮なくしては理解されないだろう。
トマスの聖体賛歌はグレゴリオ聖歌で歌われるのが伝統的であるが、そのほかにも、チェザレ・フランクによる「天使のパンPanis Angelicus」もよく演奏される。
古き時代のカトリックの聖体拝領では、今日では「私たちの日ごとのパンを今日もください」 と唱えている「主の祈り」を、マタイ傳6-11のラテン語訳「panem nostrum supersubstantialem da nobis hodie (我等の超自然的な麺麭を今日も与へ賜へ」と唱えていたことに由来している。「天使のパン」とは、自然的な糧である日常的なパンではなく、聖体として拝領する超自然的なパンのことである。
Tantum Ergo Sacramentum
福音歳時記 1月26日 吉満義彦・垣花秀武両先生を偲ぶ会
実存の深みより説く哲学は永遠(とわ)の詩人の命溢るる
1月26日に、四谷のサレジオ会管区長館で、吉満義彦(1904- 1945)と垣花秀武(1920 - 2017)両先生を偲ぶ会があり、サレジオ会の阿部仲麻呂神父の司式で追悼ミサが行われた後に茶話会があり、両先生のゆかりの方々とお話しをすることが出来た。
以前上智大学の宗教哲学フォーラムで、道元と吉満義彦を取り上げたことがあった。そのとき私は、二人のそれぞれに独特な文体のもつ奇妙な類似性に驚いた記憶がある。
永平清規にみられるような修道の実践面に於いては、道元の指示は驚くほど明晰である。しかし、正法眼蔵のような主著の思想の根幹部分は、仏道修行者にとってもっとも大切な「語り得ぬこと」を今此処に顕現させるための工夫辨道が様々な言語使用を駆使して為されている。それは、現代風に言えば、記述言語ではなく、様々な「言語ゲームの使用」によって、言説出来ない実在に覚醒させることを目指している。
吉満義彦も、キリスト教にとってもっとも大切な「信仰の神秘」を体験することを第一義としており、それに気づかせるために新トミズムから学んだ明晰な哲学的言説を使用している。それは神秘体験の後に神学大全の筆を折ったトマスから、神学大全のテキストを読み直すような試みである。
二人の思想には、勿論、時代や宗教的文化的背景の違いがあるのは当然であるが、ともに個的実存の深みから紡ぎ出される個性的な文体というところが類似しているのである。
写真は「偲ぶ会」に招待して下さった石上麟太郎氏の案内状から転載しました。
追記(1月29日)
詩人哲学者、吉満義彦とその時代」を読む
柩撃ち生死を問ひし預言者の聲あらためて聴く敗戦日本
「吉満義彦・垣花秀武両先生を偲ぶ会」の席で垣花理恵子さんから、『永遠の詩人哲学者 吉満義彦とその時代ー帰天五〇年に寄せて』(ドン・ボスコ社)のなかの垣花秀武の回想記「詩人哲学者、吉満義彦とその時代」のコピーを頂いた。「偲ぶ会」終了後、この回想記を読み、吉満義彦という稀有の「詩人哲学者」と彼の生き抜いた時代に思いを馳せた。
この告別式の受付を務めていた垣花秀武は、晩年の三谷隆正の弟子の一人であり、その平和主義、倫理性に響鳴していたという。しかし、彼は、三谷の無教会主義キリスト教には飽き足らず、吉満義彦のもとでカトリックの研究を本格的に始めたばかりの頃であった。そして、三谷隆正の告別式開始直前に、吉満義彦本人が「極めて緊張した面持ちで足早に現れ、丁寧に一礼した後、私(垣花)を見出し「君も此処に来ているの」とうれしげに微笑を投げかけ、ふりかえりざま「あなたの無教会主義からカトリックへの道はどうなったの」と言って、そのまま会場の中に消え去った」という。
「詩人哲学者、吉満義彦とその時代」の冒頭、1944年2月20日、女子学院講堂で行われた三谷隆正の告別式についての垣花秀武氏の回想はとくに興味深いものであった。日本の敗戦のほぼ半年前、この告別式の司会を務めた矢内原忠雄の式辞、南原繁の『三谷隆正君を弔す」という別辞が、ほぼ全文収録されている。
矢内原忠雄は、三谷隆正を「静かなる真理を学ぶ者としての僧侶の役目に加うるに、初代教会の熱烈なる信仰の証明者としての使徒の役目を兼ね備えた人」として紹介したあとで、
「我が三谷君は国を真の安全と興隆に導くべき義人でありました。君の生涯はうちに熱烈なるものを湛えた静けさであります。静かのなかに力の籠もったもの、熱さの籠もった静かさでありました。・・日本の義人を日本に返せ! 生命の所有者に生命を返せ! 私はそう言って喚きたいのであります」
と、文字通り怒号し、三谷隆正の柩を揺さぶって号泣したという。いかにも矢内原の人柄を彷彿とさせる記述である。
南原繁もまた、抑制した口調ではあったが、
「国家は実に君の如き至誠にして真理に忠実なる隠れた預言者的哲人によって真に栄え、その存立を堅固にし得るであろう。・・世界史的転換の偉大なる決算のこの歳にあたり、君はその愛する祖国の将来と人類の運命とを思うて、これが終局をその眼で親しく目撃したかったであろうし、又それを叶へしめなかったことは何としても吾等の恨事である。しかし、新しき日本と世界の曙光は既に見えつつある。君が生涯を賭けて闘った正義と道徳の勝利は確実であろうから。君の播いた真理の種子は将来の日本に必ずや成長し・・・」
と軍事国家日本の敗北崩壊を予想し、三谷隆正が生涯を賭けて闘った正義と道徳の上に立って新しい日本と世界の曙光が見えると聴衆に訴えたのであった。
私は、南原繁が、東京大空襲の時に詠んだ短歌
「けふよりは詩編百五十 日に一編読みつつゆけば平和来なむか 」に触発されて、「詩編に聴くー聖書と典礼の研究」という連続講義を聖グレゴリオの家で今年の復活祭の後から一年かけて行う予定である。その南原繁が三谷隆正に献げた別辞はまことに心にしみるものがあった。
また、「初代教会の熱烈なる信仰の証明者としての使徒」を三谷隆正のうちに見出す矢内原の言葉に大いに共感すると同時に、「静かなる真理を学ぶ永遠の詩人哲学者」としての吉満義彦への関心を新たにしたのである。
福音歳時記 1月25日 日本語オペラ「細川ガラシャ夫人」初演の日
天上の花は散るべき時を知るガラシア夫人の殉教の歌
上智大学の学長でもあったヘルマン・ホイベルス神父は、イエズス会に保存されていたガラシャのキリスト教信仰を伝える貴重な書簡をはじめとする一次資料をもとに、キリスト者としてのガラシャの歴史研究に多大な貢献をしました。演劇や音楽を重視するイエズス会の教育の伝統にもとづいて、ホイベルス神父御自身も「細川ガラシャ」をヒロインとする戯曲を書かれました。この戯曲は、サレジオ会の神父、ヴィンセント・チマッティによってオペラに編曲され、1940年1月25日に東京の日比谷公会堂で上演されました。チマッティ神父によるオペラ版は、能楽の「序破急」に倣った三幕構成になっています。
第一幕 「蓮の花」(序)第二幕 「桜の花」(破)第三幕 「天の花」(急)
このオペラは、十五世紀の日本の能楽師、世阿弥に由来する「花の美学」をキリスト教的精神に基づき摂取したもので、「蓮の花」は「汚水に染まらない純粋な美」、「桜の花」は「散り際の潔さ」、「天上の花」は「悲劇を越えた栄光」を象徴しています。また、それは、ガラシャの辞世の歌 「散りぬべき時知りてこそ世の中は花も花なれ人も人なれ」を踏まえたものでもありました。
この作品は、「日本語で歌われた最初のオペラ」として評価されるのが普通ですが、より適切に、そして作品の精神に即して云えば、それは日本文化の土壌に根ざした最初の「キリスト教的受難劇」と呼べるでしょう。
画像は玉造教会壁画の細川ガラシャ像(堂本印象)