歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

詩編に聴くー「聖書と典礼の研究」 聖グレゴリオの家での講演( 2021/2/18)から

2021-02-17 | 日誌

詩編に聴くー聖書と典礼の研究

田中裕

けふよりは詩編百五十 日に一編読みつつゆけば平和来なむか 

(南原繁歌集『形相』所収)

 75年前、無教会キリスト者の内村鑑三の平和主義から大きな影響を受けた南原繁の読んだこの短歌は、東京大空襲の戦禍のさなかに詠まれた歌ですが、それはまた、敗戦後の日本が、平和な国として再出発するには何をなすべきか、その理念と祈りを聖書の詩編にもとめたものでもありました。内村鑑三と南原繁の平和への願いを想起しつつ、これから、『詩編に聴く』というテーマで「聖書と典礼」の研究を続けようと思っています。

この研究は内村鑑三の『聖書の研究』を一つの手本としていますが、内村があまり問題としなかった「典礼(ユダヤ教・東方キリスト教・西方キリスト教)のなかの聖書」という視点をあらたに付け加えました。内村はフィリピの信徒への手紙4:8 を引用した後で、諸宗教の伝統に敬意を表して次のように言っています。

「キリスト教徒は、すべての人や物事のうちに真理を探り出さずにはいられないのだから。他の宗教に欠点を見いだして喜ぶキリスト教の代表者達は実に哀れな人たちである。キリスト教徒というものは、仏教であれ、儒教であれ、道教であれ、何であれ、そこに良いものを見いだしたなら喜ぶはずだ。彼の目は光を見いだすことには鋭敏であるが、闇を見ることには消極的なのだから。このようにキリスト教は、その真価を発揮するときには、世界のうちに最良のものを発見する力となる」

(日本と世界の友へーThe Japan Christian Intelligencer 創刊の辞, 1926)

聖書と典礼の時間

詩編51-聖灰水曜日の懺悔と賛美
詩編118-ペテロの証しー受難の民の希望
詩編148-天と地の交響ーアッシジのフランシスのLaudato Siへ
詩編150-復活祭のハレルヤ唱ーキリストとともに復活した人間と宇宙の大詠唱
51→118→148→150  昨日→今日→明日
150→148→118→51  明日→今日→昨日
今日を中心として三位一体的な時間を生きること

詩編150に聴くー復活祭のアレルヤ唱

旧約聖書「詩篇」の最後に置かれた150番は、ヘブライ語のハレルヤで始まりますが、キリスト教の典礼では、この詩篇は復活祭の時に必ず歌われます。「宇宙の大栄唱」とも呼ばれるこの詩篇を、ヨッピヒ指揮、「聖グレゴリオの家」の合唱隊の聖歌で聴きましょう。

 

1 Laudate Dominum in sanctis ejus;                            聖所で 主を賛美しよう

laudate eum in firmamento virtutis ejus.                    大空の砦で 主を賛美しよう

2 Laudate eum in virtutibus ejus;                               力強き御業のゆえに 主を賛美しよう

laudate eum secundum multitudinem magnitudinis ejus. 大きな御力のゆえに 主を賛美しよう

3 Laudate eum in sono tubæ;                                     角笛を吹いて 主を賛美しよう

laudate eum in psalterio et cithara.                             琴と竪琴を奏でて 主を賛美しよう

4 Laudate eum in tympano et choro;                            太鼓に合わせて踊りながら 主を賛美しよう

laudate eum in chordis et organo.                                弦をかき鳴らし笛を吹いて 主を賛美しよう

5 Laudate eum in cymbalis benesonantibus;               シンバルを鳴らし 主を賛美しよう

laudate eum in cymbalis jubilationis.                           シンバルを響かせて 主を賛美しよう

6 Omnis spiritus laudet Dominum!                            霊に息吹かれたものが、こぞって主を賛美する!

 

 教父アウグスチヌスの詩編注解によると、第一節の 'in sanctis eius' 「主の聖なる場所」は、地上の「聖所」ではなく、「主キリストに倣って聖とされた人」を指します。エルサレムの第二神殿のように、どれほど豪壮な建造物といえども、人の手で作られたものは滅びを免れません。しかし、キリストという「聖なる場所」において生きる人は、主の死と復活にあずかり、全ての被造物と共に「ハレルヤ」を復活祭で歌うことができます。

 この讃歌は、天と地の全ての被造物とともに歌うので「宇宙讃歌」とも呼ばれます。第三節にあるように「角笛の音」が明瞭に響き渡ると、主を賛美する歌が交響唱和します。ここで登場する弦楽器、管楽器、打楽器は、地上の演奏に呼応して天上からも響きわたり、その交響は、朽ちるべき地上の肉体が、もはや朽ちることのない身体に換えられることを示し、詩編を唱える人を祝福している、というのがキリスト教の復活祭の典礼でこの詩篇が歌われる理由になっています。日本の『典礼聖歌』では、14番と15番が詩篇150からの抜粋です。

詩編148とアッシジのフランシスの祈り-ラウダート・シに寄せて

フランシス教皇の回覧書簡「ラウダート・シ(御身は頌えられよ)ー共に暮らす家を大切に」の冒頭で引用されたアッシジのフランシスの賛歌は、宗教と宗派の区別を越えて人々の宗教心に訴えかけてきた歌です。小鳥にむかってキリストの教えを説くフランシスの画像はインドでも日本でも人気があった。 彼が、囀る小鳥達に向かって「小さい姉妹達よ、もしあなたたちがおしゃべりしたいことが終わりましたら、今度は私の方が話を聞いて頂く時なのです」と話しかけると、小鳥たちは静かに説教に耳を傾けた、というエピソードも伝承されています。そこには、共に大地に住む生きとしいけるもののすべてを祝福する福音伝道者フランシスの精神が良く現れています。このような精神が、自然環境破壊の危機に直面した現代の我々にとっても必要であることは、ヨハネ・パウロ二世が、アッシジのフランシスを「環境保護の聖人」と頌えたことにも良く現れています。 

「御身は頌えられよ」という讃歌の前半部分が、旧約聖書詩編148を踏まえていることは良く指摘されています。天と地、太陽と月と星など、創造されたすべてのものを通して主を賛美する「ハレルヤ」詩編は、旧訳の民の典礼の祈りであり、フランシスコの時代にも、とくに、夜明けの頃の祈りとして歌われていたでしょう。現代のキリスト教会の典礼で読まれる新共同訳聖書では、次のように訳されている詩編です。

ハレルヤ。天において主を賛美しよう。

高い天で主を賛美しよう。

御使いらよ、こぞって主を賛美しよう。

主の万軍よ、こぞって主を賛美しよう。

日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美しよう。

天の天よ 天の上にある水よ主を賛美しよう。 主の御名を賛美しよう。

主は命じられ、すべてのものは創造された。

主はそれらを世々限りなく立て越ええない掟を与えられた。

地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ 火よ、雹よ、雪よ、霧よ

御言葉を成し遂げる嵐よ 山々よ、すべての丘よ 実を結ぶ木よ、杉の林よ

野の獣よ、すべての家畜よ 地を這うものよ、翼ある鳥よ 地上の王よ、諸国の民よ

君主よ、地上の支配者よ 若者よ、おとめよ 老人よ、幼子よ。

主の御名を賛美しよう。主の御名はひとり高く 威光は天地に満ちている。 

主は御自分の民の角を高く上げてくださる。

それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。

主に近くある民、イスラエルの子らよ。

ハレルヤ。 

次にアッシジのフランシスの賛歌を「賛歌」を原語(イタリア語ウンブリア方言)と日本語訳(黒田正利)で引用します。

    

Altissimu, omnipotente bon Signore,          いとも高く、万能にして、恵み深き主よ

Tue so le laude, la gloria e l'honore et onne benedictione.   賛美、栄光、ほまれ、すべての恵みは主のものなれ       

Ad Te solo, Altissimo, se konfano,               いと高き主よ、こはみな主のものにして、

et nullu homo ène dignu te mentouare.          人はそのみ名を呼ぶにも足らず

Laudato si, mi Signore cum tucte le Tue creature,       ほむべきかな、主よ、主のつくりませる物みなと、

spetialmente messor lo frate Sole,             ことに昼を与へわれらを照り輝かす

lo qual è iorno, et allumini noi per lui.         はらから太陽と。

Et ellu è bellu e radiante cum grande splendore: 日は美しく眩しきまでに照り渡る、

de Te, Altissimo, porta significatione.         かれこそは主の御姿、ああ高きにいます主よ

Laudato si, mi Signore, per sora Luna e le stelle:   ほむべきかな、わが主よ、わがはらから月は星は、

in celu l'ài formate clarite et pretiose et belle.主はこれをみ空に作りたまひ、すみて貴く美はし

Laudato si, mi Signore, per frate Uento.        ほむべきかな、わが主よ、風は、

et per aere et nubilo et sereno et onne tempo, 大気は、雲は、曇りてはまた晴るる日和(ひより)は

per lo quale, a le Tue creature dài sustentamento.これによりて主はその造りまししものを育みたまふ

Laudato si, mi Signore, per sor'Acqua,         ほむべきかな、わが主よ、やさしきはらから水は

la quale è multo utile et humile et pretiosa et casta. いと役立ちて、低きにつき貴く清らなり

Laudato si, mi Signore, per frate Focu,         ほむべきかな、わが主よ、はらから火は

per lo quale ennallumini la nocte:           夜のくらきを照らし   

ed ello è bello et iucundo et robustoso et forte. 美はし、たのし、たけくつよし 

Laudato si, mi Signore, per sora nostra matre Terra,     ほむべきかな、わが主よ、はらから母なる大地は       

la quale ne sustenta et gouerna,            われらを育みわれらを治め、

et produce diuersi fructi con coloriti fior et herba. 木の実を結び、花を装ひ、草をはぐくむ 

Laudato si, mi Signore, per quelli ke perdonano per lo Tuo amore ほむべきかな、主よ、主の愛によりて人を許し

et sostengono infirmitate et tribulatione.     病にたへて憂き艱(くるしみ)忍ぶものは

Beati quelli ke 'l sosterranno in pace,      めぐみあれ 主によって静かに耐ふるものに

ka da Te, Altissimo, sirano incoronati.   いと高き主よ、主の冠はかれにあらん

Laudato si mi Signore, per sora nostra Morte corporale,    ああほむべきかな わが主よ、はらから死は、

da la quale nullu homo uiuente pò skappare: 誰か死をのがれん いけるもの皆は。

guai a quelli ke morrano ne le peccata mortali; いたはしきかな罪の死に滅ぶ者は      

beati quelli ke trouarà ne le Tue sanctissime uoluntati, されどほむべきかな 主の聖意にすむ者は

ka la morte secunda no 'l farrà male.     第二の死の害ふことはあらじ

Laudate et benedicete mi Signore et rengratiate  主を頌めたたへ、主に感謝せよ

e seruiteli cum grande humilitate.        いとへりくだりて主に仕えよ  

 

 12世紀のイタリアの方言で書かれたこの「歌」の邦訳は、やや古めかしい印象を受けますが、もとの歌の醸し出す雰囲気を、可能な限り典雅な大和言葉で簡潔に再現しています。 しかし、この明るいイタリア語の響きで歌われた歌詞の終わりの四連の内容は、作者のフランシスがまさに重病で床につき、目もほとんど見えなくなった時期のものであったことを示しています。

詩編148は中世以来良く歌われていた賛歌でしたが、アッシジのフランシスのLaudato Si には、全被造物に創造主の賛歌を呼びかけているに留まりません。

 まず彼は、被造されたものたちを、すべて人格化して「兄弟姉妹」と呼びかけています。そして、「ほむべきかな、主よ、主の愛によりて人を許し、病にたへて憂き艱(くるしみ)忍ぶものは」「めぐみあれ 主によって静かに耐ふるものに、いと高き主よ、主の冠はかれにあらん」というキリスト者の受難と忍耐の歌を付け加えています。

 伝承に拠れば、眼病で目の見えなくなったフランシスに手術のために灼熱した鉄の棒をあてる必要が生じたときに、彼は、十字を切って、「兄弟なる火よ、自分は汝を神の最も美しい被造物としてこよなく愛した。どうかあまり自分を痛めつけないで欲しい」と云ったという。そして、最後には最もおそるべき肉体の「死」にむかっても「はらから」と呼びかけています。 

詩編118に聴く-ペテロの証言と受難の民の希望

詩編118は、新約聖書のなかで繰り返し引用され、最初にイエスをキリスト(救世主)と宣言した信徒の心を如実に伝えてくれる詩となっています。

 まず、マタイ21-9では、エルサレム入城のイエスを頌える歌として「ほむべきかな主の名によって来るもの(詩118-26)」が引照され、おなじくマタイ21-49では「家造りの捨てた石が隅の親石となった(詩118-22)」が、イエス自身の言葉として語られている。この言葉は、使徒行伝4-11ではエルサレムで祭司長や長老達の尋問に答えたペトロのキリスト証言として繰り返される。その言葉の意味は、ペテロ書前書2-7の「人々からは見捨てられたキリストが、神にとっては選ばれた尊い生きた石なのだから、あなたがたも生きた石として用いられ、霊的な家に造りあげられるようにしなさい」というペテロ自身の言葉に示されている。

 この詩にはまた「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。主はわたしの味方、人間がわたしに何をなしえよう」「人間にたよらず、主をさけどころとしよう。君侯にたよらず、主をさけどころとしよう」のように、主にたいして一人称で語る「わたし」が、一切の地上の権威を恐れずに主に拠り頼む心意気も示されています。

「全てのものの上に立つ自由な主人であって、いかなる人間的権威にも従属しない」と同時に「すべてのものに奉仕するしもべである」ところに、キリスト者の「自由なる奉仕活動」を見いだしたマルチン・ルターが、この詩編を愛唱したことはよく知られています。もっとも個人的にしてもっとも普遍的なキリスト信仰のありかたを旧約聖書の中で預言した詩編のひとつがこの詩であるいえるでしょう。

 

詩編118はカトリックの典礼聖歌87番で(抜粋して)歌われています。歌詞は次の通り。

答唱:きょうこそ神が造られた日 よろこび歌えこの日を共に

1 恵み深い主に感謝せよ そのあわれみは永遠   イスラエルよ叫べ 神のいつくしみはたえることがない。

2 神の右の手は高くあがり どの右の手は力を示す わたしは死なずわたしは生きる かみのわざを告げるために

3 家造りの捨てた石が 隅の親石となった これは神のわざ 人の目にはふしぎなこと

  この歌詞の答唱(繰り返し歌われる箇所)の「きょうこそ神が造られた日」とは、復活の主日、あるいは復活祭の第二主日(白衣の主日)を指しています。

復活祭の時に受洗したひとが白衣を着けた故事にならって「白衣の主日」と呼ぶのですが、女性の場合は白いベールを付けるという習慣もここに由来するのでしょう。そのこころは、洗礼を受けた人は「新しい人として、キリストを着るものとなった」こと、「神の国の完成を待ち望みながらキリストに倣って歩む人」を力づけ祝福するためです。

旧約聖書の時代にこの詩編がどのように歌われたかはよく分かりませんが、ヘブライ語で朗唱された詩編がどんなものであったかをある程度窺わせる朗詠を紹介します。とくに、「ほむべきかな主の名によりて来る者」とか「家造りの捨てた石が 隅の親石となった これは神のわざ 人の目にはふしぎなこと」という詩をヘブライ語の原語で聴くことができます。

 現代的な伴奏が付けられているにもかかわらず、受難と亡国の危機に抗して信仰を守り抜いたユダヤ教徒の心の歌が、現代に至るまで脈々と受け継がれていると感じました。

 詩編51に聴く-ダビデ王の懺悔/賛美と灰の水曜日の聖歌

詩編51(ダビデ王の懺悔/賛美)が、エルサレム第二神殿でどのように伴奏付きの合唱隊によって歌われていたのかはよく分かりませんが、現代のユダヤ教徒が、この詩に曲を付けてヘブライ語で朗詠する事例はたくさんあります。そのなかでも私が特に心動かされたのは、Christene Jackmanの作曲した「Choneni Elohim(主よ、我をあはれみたまへ)」である。歌詞はヘブライ語聖書の詩編51から抜粋されたものに、現代風な伴奏が付けられているが、ラテン語詩編のmiserere mei Deus にあたるChoneni Elohimのリフレインが非常に印象的であった。詩編は、ヘブライ語では「賛美」を意味するTehillim とよばれるので、どのような深刻な嘆きや悩み、病めるものの苦しみが歌われていても、また、時には教訓や処世の知恵を主題とする場合でも、基本的に「賛美の詩編」なのであり、単にユダヤ教徒だけのものでなく、キリスト教が、ユダヤ教から受け継いだ聖書の啓示を集約的に含むものであると同時に、あらゆる宗教と宗派の区別を越えて、全ての人の宗教心に直接に響く音楽であるといってよいでしょう。

講演「細川ガラシャの時代の典礼聖歌」のなかで、私はレオポルド一世作曲の詩編51の解説をしましたが、それは器楽による伴奏付きの典礼聖歌のなかで最もよくもとの詩の内容を良く捉えた曲であると思ったからです。悲嘆の底から、懺悔を通じて主の賛美へと大きく転換するヘブライ詩編のダイナミックな心の動きをどのように音楽で表現するか、レオポルド一世はその課題を一つの作品としてみごとに結実させている。たとえば、教会の朝の祈りで唱えられる「主よわが唇を開きたまえ、わが口は御身をほめ歌わん(domine labia mea aperies, et os meum annuntiabit laudem tuam)」の詩句は、まさにそのような深き淵に沈んだ詩人の心底からの叫びが聞き届けられ、懺悔が賛美へと転ずる臨界点で歌われる詩でした。作曲者のレオポルド一世は、この一行の詩句を何度も繰り返しつつ様々な声部でうたわせるが、深き淵の底から天上に叫ぶコロラツーラ・ソプラノの表現は音楽的な美しさを越えて、聴く者の魂をゆさぶるような旋律です。

1 Miserere mei, Deus   1 神よ、あなたのいつくしみによって、
 Secundum magnam misericordiam tuam わたしをあわれみ、

Et secundum multitudinem miserationum tuarum あなたの豊かなあわれみによって、
2 Dele iniquitatem meam  わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。

 Amplius lava me ab iniquitate mea  2 わたしの不義をことごとく洗い去り、

 Et a peccato meo munda me   わたしの罪からわたしを清めてください。

3 Quoniam iniquitatem meam ego cognosco3 わたしは自分のとがを知っています。
 Et peccatum meum contra me est semperわたしの罪はいつもわたしの前にあります。

4 Tibi soli peccavi  4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、
 Et malum coram te feci あなたの前に悪い事を行いました。
 Ut iustificeris in sermonibus tuis それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、
 Et vincas cum iudicaris あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。

5 Ecce enim in iniquitatibus conceptus sum 5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。
 Et in peccatis concepit me mater mea わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。

6 Ecce enim veritatem dilexisti incerta 6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。

Et occulta sapientiae tuae manifestasti mihi それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。

7 Asparges me hysopo et mundabor 7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。

Lavabis me et super nivem dealbabor わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。

Auditui meo dabis Gaudium  8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、

8 Et laetitiam exultabunt ossa humiliate あなたが砕いた骨を喜ばせてください。

9 Averte faciem tuam a peccatis meis9 み顔をわたしの罪から隠し、 
Et omnes iniquitates meas deleわたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。

15 Domine labia mea aperies15 主よ、わたしのくちびるを開いてください。

 Et os meum annuntiabit laudem tuamわたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。

16 Quoniam si voluisses sacrificium dedissem 16 あなたはいけにえを好まれません。
 utique holocaustis non delectaberis たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。

17 Sacrificium Deo spiritus contribulatus 17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。

Cor contritum et humiliatum  Deus non spernet神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。

18 Benigne fac Domine in bona voluntate tua Sion18 あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、

Et aedificentur muri Hierusalemエルサレムの城壁を築きなおしてください。

19 Tunc acceptabis sacrificium iustitiae19 その時あなたは義のいけにえと燔祭と、

  oblationes et holocausta全き燔祭とを喜ばれるでしょう。

 Tunc inponent super altare tuum vitulos. その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。

 

 バロック時代のイタリアが生んだ詩編51の典礼音楽としては、アカペラで歌われるアレグリ作のミゼレーレもよく知られています。1630年代に作曲されたこの作品が、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂だけで聴くことをゆるされた「秘曲」であったが、それを少年モーツアルトが二度聴いただけで写譜したというエピソードはあまりにも有名です。

 この曲の特徴は、答唱の部分も先唱の部分も、すべてラテン語訳詩編の言葉を用いているところでしょう。曲の旋律は同一であることによって答唱であることを示されているが、歌詞はそれぞれ異なっていて、すべて詩編のラテン語訳からとられています。そして天才モーツアルト以外の人間には譜面化不可能だと思われる答唱部分は9声部をもつ複雑な構造をしていますが、ここでも、レオポルド一世のmiserere mei と同じように、ソプラノの天上世界へと突き抜けるような高い声部が印象的です。

 

日本では、カトリックの典礼聖歌6,7番「あなたのいぶきをうけて」が詩編51(の抜粋)への答唱です。答唱の言葉「あなたのいぶき」は、聖書的文脈では「聖霊」を意味し、神の御前に原罪を認めて告白した人(詩人としてのダビデ王)が「聖霊に息吹かれ」て、新しい人として、再び創造されることを意味しています。

 

答唱:あなたの いぶきを うけて わたしは あたらしくなる

6-1 神よ いつくしみ深く わたしをみ 豊かなあわれみによって 私のとがを るしてください。

         罪に染まった わたしを 洗い 罪深い わたしを 清めてください。

6-2   わたしは 自分のあやまちを め、 罪はわたしの目の前に る。

        あなたが わたしを さばかれる き、 そのさばきは いつも しい。

6-3  わたしは生まれた日から悪に み   母の胎に宿ったときから罪に れていた

  あなたは まごころを び  心の深みに知恵を けられる

6-4  ヒソプで水を り注ぎ わたしの罪を りさって

  わたしを洗い めてください  雪より白く るように

6-5  わたしに喜びと楽しみの声を し うち砕かれたわたしを また 喜びで満たしてください

   わたしの罪を つめず 犯した悪をすべて ぐいさってください。

7-1  神よ わたしのうちに い心を造り あなたの いぶきでわたしを強め らたにしてください

  わたしを あなたのもとから 退けず 聖なるいぶきを わたしから り去らないでください

7-2  救の喜びをわたしに し あなたのいぶきを送って 喜び仕える心を さえてください

  わたしは あなたへの道を えよう 罪人があなたのもとに るように

7-3  あなたは いけにえを まれず はんさいを ささげても ばれない

 神よ わたしのささげものは 打ちくだかれた こころ あなたは悔い改める心を 見捨てられない。

7-4  み旨のままにシオンを恵みで し エルサレムの城壁を たにしてください

  その時あなたは 正しいさげものを皆 ばれ わたしは あなたの祭壇で えるようになる

 

日本語でこの詩編を朗詠するときの注意は、典礼聖歌集の終わりの部分に掲載されていますが、それによると

歌詞でゴシックで書かれたところは、行の途中の音の変わり目を示し(下の高田三郎作曲の譜面参照)

変わる前にすこし速度をおとして、丁寧に歌うこと、「ます」「さい」「メン」の歌詞表記は、

大文字をいくらかのばして、小文字を軽く付けるように歌うこと、などの指示があります。

追記

聖グレゴリオの家宗教音楽研究所での教会音楽科で聖灰水曜日の翌日(2021年2月18日)におこなわれた講義の記録をコロナ禍の緊急事態宣言のためにこられなかった方々のためにアップしました。(YOUTUBEの限定公開) 

 

詩編に聴く-聖書と典礼の研究講演録

聖グレゴリオの家宗教音楽研究所での教会音楽科で聖灰水曜日の翌日(2021年2月18日)におこなわれた講義の記録です。コロナ禍の緊急事態宣言の...

youtube#video

 

 

 橋本周子先生から、アッシジのフランシスの「太陽の歌」に言及した日本語の文献をドイツの修道院の方に伝えたいので、どういう本が良いか教えて欲しいと言われたので、私が影響を受けた次の本を紹介しました。
①『アシジの聖フランシスコの小品集(フランシスコ会叢書4)』庄司篤・浜村富哉共訳、中央出版、1974年
②『アシジの聖フランシス』(キリスト教歴史叢書9)下村寅太郎著、南窓社、1991年
③ 『マザー・テレサ』(人と思想44)和田町子著、清水書院、1998年
特に①はフランシス自身の書いた書簡や当時の聖務日課も伝えてくれますので、私の「詩篇に聴くー聖書と典礼の研究」の続編で紹介したいと思っています。
 
Comment

佐々木力氏の『数学的真理の迷宮ー懐疑主義との格闘』を読んで

2021-01-14 | 哲学

 北海道大学出版会から上梓された『数学的真理の迷宮』(2020年12月10日発行)を著者から献呈され、その礼状を書こうと思っていた矢先、12月4日に著者の逝去の報に接し、この本は文字通り著者の遺作となり、私の感想を生前の著者に伝えることができなくなった。そこで、「回想」と「書評」というかたちで、著者がこの本で課題とした事柄自体を、私の立場から論じることで、故人への応答に替えたい。

 2021年年明け早々、『科哲』(東大科哲の会会誌)第22号が送られてきた。時局を反映して、新型コロナに関する寄稿が多かったが、『地球大の数学史をめざして』という佐々木氏の特別寄稿があり、これも、彼の遺稿になってしまった。(『科哲』の編集者は佐々木氏の急逝について全く言及していない)
 私は、佐々木氏の本と遺稿を読んでいるうちに、彼よりも前に東大駒場の「科哲」の教授であった廣松渉の最後の著作、『マルクスの根本意想は何であったか』(1994年、状況出版)が、廣松氏の葬儀の日に出版されたことを思い出さないわけにはいかなかった。当時の廣松氏は61歳、志半ばにしての突然の逝去であった。

 ソ連が崩壊したのはマルクス主義の「根本精神」を忘却したからだ、といえば分かりやすいが、「精神」や「理念」という語は唯物論者である廣松氏にはそぐわない。「根本意想」とは聞きなれない言葉であるが、トーマス・クーンのいう「パラダイム」にヒントを得て、廣松氏がよく使われていた「ヒュポダイム」という語とほぼ同じ意味であろう。

 ソビエト連邦が崩壊した時点で、ことさらにマルクスを持ち出すという「反時代的」考察にどんな意味があったのかーこういう疑義は当然提出されるだろう。しかし、ソ連が崩壊したからこそ、「マルクス主義とは何であったか」と問うことに意味があった。廣松氏はマルクス主義の終焉という如き歴史認識を聊かももっていなかった。マルクス自身が直面していた資本主義の問題状況、自由放任の市場経済によって貧富格差が拡大し、労働は劣悪な条件に置かれるという問題が、新自由主義的政策が席捲していた資本主義経済においても、根本的には解決されていないからである。

 廣松氏が急逝してから四半世紀が経った。多国籍企業と自由市場経済、グローバリズムとナショナリズムの対立、核開発による世界戦争と環境危機の時代、異なる文明間の軋轢と南北の経済格差の深刻化、情報革命の時代が直面する人間疎外等々ーこれらの多元的にしてますます複雑化した状況を前にして、現代の「マルクス主義者」は何を言うことができるのだろうか。

 佐々木氏は、プリンストン大学大学院でマイケル・S・マホーニイやトーマス・クーンの薫陶を受けた数学史の専門家であるが、彼の「マルクス主義科学論」(みすず書房、1997)が廣松氏の逝去後に上梓されたとことが象徴的に示しているように、廣松氏のマルクス主義理解から大きな影響を受けていた。数学史ないし数学哲学という専門領域に限定されていたとはいえ、ソ連や中国の共産党の「官製」マルクシズムではなく、マルクスの「根本意想」に立ち返りつつ、現代という時代をそれによって捉えようとする意図を共有していた。「マルクスと哲学の間」で思索した廣松氏に倣って、佐々木氏は「マルクスと数学史(数学哲学)の間」で思索し、様々な場で啓蒙教育活動をおこなっていたと思う。

 当然のことであるが、佐々木氏の中には廣松氏とは異なる部分もある。スターリンによって粛正されたトロツキーを高く評価し、「いまこそ正統と異端は役割交代する番である」と言う趣旨のことを佐々木氏は何度も述べている(『マルクス主義科学論』序文iii,『生きているトロツキー』5頁参照)。中国のマルクス主義に関しても、彼が最も評価していたのは毛沢東ではなくて陳独秀であった。

 こういう視点は佐々木氏に固有のものであるが、マルクス主義者などではない私のような読者からみれば、「誰が正統的なマルクス主義者なのか」と問うこと自体に、前近代的なイデオロギー信仰の古めかしさを感じる。ただし、「多数派」を僭称する専従の革命家のイデオロギーを信用せず、そのような「多数派」(ボルシェビキ)によって言論を封殺され、粛清された「少数派」の「マルクス主義者」のなかに、未来を切り開く実践を導く「ヒュポダイムー根本意想」を見出すということであるならば、その限りに於いて、佐々木氏の思想史へのアプローチは一般の読者にとっても価値あるものとなるだろう。

 多元的な科学史・科学哲学へのアプローチを採用しつつも、「多元を越える一」を強調するところは、クーン流のパラダイム論や単なる相対主義では説明のつかぬ事柄である。佐々木氏の場合は、そのような回帰すべき「一なる原点」がマルクスであった。その意味で、マルクスに立ち返ることによってマルクス主義を超えて、現実の科学の発展の歴史に即して、内的かつ外的に社会的な考察をすることを忘れない佐々木氏の科学論、とくに数学にかんする歴史的考察は知的刺激に満ちたものである。

『数学的真理の迷宮ー懐疑主義との格闘』という著作は、第一部「真理という迷宮」、中間考察「基礎づけのない多様な数学的知識ーウイトゲンシュタインにとっての数学的真理」、第二部 「古代ギリシャにおけ公理論的数学の成立と数学革命論」という二部構成である。

 第一部は数学史に詳しくない非専門家を念頭に置いた啓蒙的著作、第二部は数学史家を念頭に置いた専門的著作のスタイルー脚注の懇切丁寧なところが専門家むきーで書かれている。そして中間考察は、ウイトゲンシュタインの「言語ゲーム」というアイデアを、数学における「基礎の危機」を克服するために提示された「論理主義」、「直観主義」、「形式主義」の三つの立場の対立に関係づけた上で、佐々木氏の数学論の根幹にある考え方ー「基礎づけなしで懐疑主義を克服する多様なる数学の哲学」ーの基本的な方向性を確認したものであって、第一部と第二部とを媒介する役割をも持っている。

 本書でもっとも読みごたえのあるのは、「ユークリッド幾何学の起源」を「エレア派の哲学者」に求めるサボー・アルバートの学説を、彼以後に登場したギリシャ数学史研究の諸文献を精査したうえで、その問題性を明らかにし、サボー説の「改訂版」ともいうべきものを佐々木氏自身の言葉で提示している箇所であろう。

 ユークリッドの公理論的幾何学を、第一次的な文献に乏しいパルメニデスやゼノンのようなエレア派の哲学者にではなく、プラトンにはじまり、アリストテレスを経由してプロクロスに至るギリシャ哲学の基本的なテキスト群を綿密に読み解きつつ、ユークリッドの生きたヘレニズム時代に優勢であった「懐疑主義」との格闘の所産として考証する議論は非常に面白かった。とくにユークリッドとアリストテレスの数学論との関係を論じている箇所は一読に値する。

 佐々木氏はアリストテレスの分析論後書第一巻3章(72b5-18)における議論ー「無限遡行」「仮設」、「循環ないし相互依存」を主張する懐疑主義を論破するアリストテレスの議論を重視し、その三つの立場は現実にアカデーメイアで起こった論争を背景としたものであると推測したうえで、アリストテレスの弁証法的議論に、懐疑主義を克服するヒントを見出している。

 あらゆることに論証をもとめることが「無限遡行」に陥ること、暫定的な「仮設」をたてて論証する「仮設の道」は、その仮設の真理性を保証するものは何かが問題となること、前提と結論が循環してもかまわないという「循環論」は、無意味な悪循環とそうでない(生産的な)循環論(相互性)との区別が明瞭でないということ、要するに、「基礎づけにかんするトリレンマ」が、アリストテレスに於いて既に明晰に自覚されていたと考えた上で、アリストテレスの分析論後書の論証科学に対する考察がユークリッドに与えた影響を佐々木氏は強調している。

 アリストテレスとユークリッドの幾何学原論との関係については、私自身も、「アリストテレスの幾何学観」(『科学哲学』15巻、1982年)という論文で書いたことがある。私の論文は38年も昔に書いたものであるが、佐々木氏が存命ならば、そこで私が論じた問題について、是非とも意見を聞きたいところであった。

 佐々木氏の遺著には、多くの自伝的な回想が含まれている。たとえば、学生時代にトーマス・クーンの「科学革命の構造」に触発された佐々木氏は、プリンストン大学でそのクーンから直接に薫陶を受け、「歴史的な科学哲学」の研究プログラムを数学史に適用するというを着想を得た。そして、クーンから「数学に革命があることは間違いないが、数学の古い定理のすべてが保持されるのがどの程度なのか」という課題を与えられ、それに対する応答として書かれたものが、本書の最終章の「数学における革命とはどういうものか」である。このような回想記は、佐々木氏が数学史の研究を志す若い世代の研究者に向けて書いたものかもしれない。、佐々木氏が自分の仕事を生成の途上にある未完結のプロジェクトとして回想していることの意味もそこにあるのだろう。佐々木氏は「ユークリッド幾何学の真理価値は、ある意味でたしかに保持されるのであるが、全面的にではない。古代ギリシャのユークリッドの平行線公準をもつ幾何学は、ヒルベルトの1899年の『幾何学の基礎』の出版後には異なる意味を持つようになった」と述べた後で、クーンの考え方を今後も数学に適用し続けると宣言して、この著書の結びとしている。

 本書は、プラトン、アリストテレスにはじまり、古代懐疑主義との格闘として出現したユークリッドの幾何学原論、近代懐疑主義の克服として顕れたデカルトやパスカルの哲学的省察、ウイトゲンシュタインの言語ゲーム論によって開かれる「基礎づけなき数学」の豊穣なる多元性、ユークリッドの幾何学原論を絶対的規範とする保守的なオックスフォードの数学者チャールズ・R・ドジソンではなくて、『不思議の国のアリス」の著者、ルイス・キャロルのほうが現在では脚光を浴びていることに注目して書かれた序論など、それぞれ別個の読み物として読んでも面白い。しかし、全体を通して著者が伝えたかったことー数学というもっとも抽象的に見える学問も、「歴史内存在」としての人間の具体的な生活の場に他ならない時代的社会的背景の中で営まれていることを忘れるべきではないだろう。 

Comment

Principia Mathematica の「論理」とは何であったかーホワイトヘッドの視点からの再考

2021-01-11 | 哲学

『数学原理』の射程---新しい論理学へ

1 ラッセルとホワイトヘッド

「ホワイトヘッドはイギリスでは数学者として知られていた。哲学者としての彼を見いだしたのはアメリカである」 

とはバートランド・ラッセルの言葉である。(『自伝的回想』)

 ラッセルがケンブリッジ大学で数学の特別研究員(fellow)の資格を得るときの試験官も勤めたのがホワイトヘッドであって、二人は最初は師弟として後には共同研究者として、大著『数学原理』を公刊したわけであるが、「数理」哲学ではなくて、広い意味での哲学的著作を公刊したのはラッセルの方が早かった。一九八九年に、ラッセルはケンブリッジ大学のヘーゲル主義の哲学者マクダガードの代わりに「ライプニッツ哲学」についての講義を担当し、一九〇〇年にはそれを著書として出版している。もともとラッセルの処女作は一八九六年の『ドイツ社会民主主義』であって、そのときの二四歳という年齢を考えると、若いときから彼が様々な領域に広い関心を示し旺盛な著作活動を展開していたことに驚かされる。それと比較すると、ホワイトヘッドは、一見したところ、いかにも晩熟の哲学者に見えるかも知れない。一九〇三年に二人が『数学原理』に向けて共同研究を開始したとき、十一歳年少のラッセルは既に四冊の書物(数学基礎論に関するものが二冊、哲学研究書が一冊、政治論が一冊)を刊行していたが、ホワイトヘッドは一八九八年の『普遍代数論』ただ一冊を刊行したのみであったから。

 しかしながら哲学教授としてハーバード大学に招聘されてアメリカに渡った一九二四年以後は、今度はホワイトヘッドの多産な哲学的な著述活動が際だってくる。第一次大戦後に反戦活動や社会運動に没頭した関係で、哲学的にオリジナルな著作が少なくなったラッセルと比べると、ホワイトヘッドの哲学的著書のかなりの部分は、日本流に言えば還暦を過ぎた後に書かれたものなのである。

 正確に言えば、ホワイトヘッドの哲学的活動はアメリカに行く前、彼がロンドン大学で教えていたときから始まっている。いわゆる科学哲学三部作、『自然認識の諸原理)』『自然という概念』『相対性原理』を出版したのはロンドン大学時代であり、その仕事が認められてハーバードで招聘されたわけであった。

 アインシュタインの相対性理論が発表され、特に第一次大戦後の日食観測によるその検証という出来事は、ラッセルにもホワイトヘッドにも共に大きな衝撃を与え、彼らに数学だけでなく物理学の基礎付けという共通の課題を与えた。従ってこの時期は、ラッセルも『物質の分析』や『外的世界は如何にして知られるか』など、自然を対象とする哲学的著書があり、二人がまだ共通の関心を持っていたことが分かる。そのころの両者の関係を示すものに、ホワイトヘッドからラッセルに当てた書簡(一九一七年一月八日)が、ラッセルの自叙伝に収録されている。

バーティ学兄、とても残念なことですが、私の考えの要点があなたにはよく認識されていないように思われるのです。私は、私の考えが、現在の所、私の名においてにしろ、他の誰かの名においてにしろ、普及されることを望みません---即ち、今のところ論文のかたちでは。その結果は、不完全で誤解のもとになるような出し方になるのが関の山でしょうし、私が出版したいと思うときに、その最終的な発表の成功をだめにするのは避けられないでしょう。  私の考えや方法は、あなたのとは異なったふうに成長しているのです。その孵化期間は長いのです。そして、その結果、最後の段階において、理解しやすいかたちに到達するのです。私は、あなたが、各章にわたって、理解しやすくなっている私の草稿を、私が全面的な真理とは考えないような一連のものに陥れるようなことをしていただきたくないのです。あなたが、私のこのノートの助けを借りないでは仕事に取りかかることができないと思われることは、誠に残念です。

ラッセルは、率直に、次のようなコメントをこの手紙に付けている。

第一次世界大戦が始まる前に、ホワイトヘッドは外的世界に関する我々の認識についての覚え書きを記しており、私はそれを利用して、このテーマで本を書いた。もちろんホワイトヘッドが私に伝えてくれた思想については当然の謝辞をつけたのではあるが。この手紙は、ホワイトヘッドがこのことに頭を悩ませたことを示している。実際、このために私たちの共同作業は終わりを告げてしまった。

 『数学原理』を共同で執筆したときには、どの原稿も二人が共に目を通していた。おそらく、その延長線上というつもりで、ラッセルは数学的対象がいかにして経験的な所与から抽象されるかを明らかにした「延長的抽象の方法(the method of extensive abstraction)」に関するホワイトヘッドのノートの借用を申し込んだ。そして、ホワイトヘッドに先んじて一九一四年に『外的世界はいかにして知られるか』という著作の中で、このアイデアがホワイトヘッドによるものであるとの断り書きを付けて発表した。しかし、この手法についてホワイトヘッド自身が詳しく説明したのは一九一九年の『自然認識の諸原理』だった。

私の草稿を、全面的な真理とは考えられないような一連のものに陥れるようなことをしていただきたくないのです」というホワイトヘッドの懸念は、二人の哲学者の気質の違いを非常に良く表しているようである。

  ラッセルについて、T・S・エリオットは、「永遠に早熟である(permanently precocious)」という評言を吐いたことがあるが、それをもじって言えば、ホワイトヘッドは「永遠に晩熟である」ということになるだろうか。還暦を過ぎた老人が、アメリカという新天地で、それまでに書いた著作とは段違いに大部の著書を次々と刊行していったその有様はなかなか壮観である。『過程と実在』は『純粋理性批判』とほぼ同じ程度の分量であるが、やはり老齢になってから哲学的主著を公刊したカントと同じく、ホワイトヘッドも又すぐに自分の着想を発表するよりは、ゆっくりと時間をかけてそれが自然に熟するのを待つタイプの思想家であったと言えるだろう。

 ラッセルは、そのホワイトヘッドについて次のように回想している。(『自伝的回想』)

ホワイトヘッドは驚くほど関心の広い人で、彼の歴史上の知識はよく私を吃驚させたものだ。あるとき私は、彼が非常に重要だが風変わりな作品であるパオロ・サルピの『トレント公会議の歴史』を枕頭の書にしているのを見つけた。歴史的なことが問題になると、いつも彼には教えられるものがあった。たとえば、バークの政治的意見とロンドン市における彼の利害との関係や、フス派的異端とボヘミヤの銀鉱山との関係など。

 この回想は『数学原理』を共同で執筆している頃のものである。彼ら二人の関心は、高度に専門的な数学的論理学の執筆中でも、決してその世界に閉じこもっていたわけではなく、様々な問題について論じあっていたことがこの引用から伺える。ここで言及されている「トレント公会議の歴史」がホワイトヘッドの著書で引用されるのは、十年以上たってから刊行された「科学と近代世界」第一章「近代科学の起源」である。科学史と深くかかわる著作を後に自分が書くなどということはホワイトヘッド自身予想していなかったであろうが、若年からの広範な領域に亘る読書と友人との対話の習慣が、文明の諸相を扱う晩年の著作を書くに際して役立ったことは間違いない。

 ホワイトヘッドは、ラッセルと同じく多読の人であり談論を好んだ。おそらく、二人ともケンブリッジ大学の学生の知的サークルであった「使徒団(The Apostles)」のメンバーであったときに、自由でとらわれのない対話によって学ぶ習慣が身に付いていたのだろう。一般教育を英語ではリベラルアートというが、そこでは、専門を離れて自由に討論を戦わせることの出来る知的習慣が大切である。この習慣がホワイトヘッドの関心の広さと、多面的な精神の働きを説明するだろう。

 ケンブリッジ大学のトリニティカレッジと言えば、イギリス経験論の始祖とも言うべきジョン・ロックが論敵として念頭に置いていたケンブリッジ・プラトニストの伝統を継ぐ学寮でもある。使徒団の自由な対話は、そのまま古典期のギリシャの哲学の精神を彷彿とさせ、ヨーロッパの哲学の濫觴ともいうべきプラトンの対話編の世界を偲ばせるものであった。

2 いわゆる「論理主義」の立場

 『数学原理』は二十世紀の論理学と数学基礎論の歴史に一時代を画した著作として著名である。 この著作は、ホワイトヘッドとラッセルとの共著であるが、ラッセルがホワイトヘッド没後に、哲学誌「マインド」のなかで語ったように、イギリスの哲学者の間では、「二人の共同作業のホワイトヘッドの分担部分を実際よりも小さなものと考える傾向があった」。 実際は、全三巻のすべてを通じて「共同作業の結果でないようなものはなかった」のであるが、それにも関わらず、哲学者の間では、『数学原理』の基本的な哲学思想をラッセルに関連づけるのが一般的であった。その理由は、哲学や論理学関連の様々な雑誌に、『数学原理』の基本的な論理思想を発表し論陣を張ったのがラッセルであったのに対して、ホワイトヘッドは、哲学的論争をほぼラッセルに一任して、論理学の基本原理から数学の全体系を構築するという、困難なしかし壮大な体系構築に没頭していた感があるからである。

  ある一つの旗幟鮮明な哲学的テーゼを建てて論争をすることと、そのテーゼを現実化して自己完結的な体系を構築する作業は別のものである。ホワイトヘッドは、『数学原理』を執筆しているときには、他の数理哲学の立場、たとえば、直観主義や公理主義を批判する哲学的論争に参加することはなかったのである。そのために、人々はこの著作の哲学的な解釈に関する限り、どうしてもラッセルの哲学、すなわち、のちに論理実証主義など英米の分析哲学に受け継がれていく立場から論じることとなった。

 数学基礎論の分野では、二人の基本的立場を「論理主義」として要約することが多いのは事実である。この「論理主義」という言葉は、じつを言うと問題がないわけではない。ホワイトヘッド自身は、『数学入門』という啓蒙的な書物の中で、そのような表現を使って自己の数学観を特徴づけていないことに留意すべきであろう。 もともとホワイトヘッドは、論理学者ではなく応用数学者であったわけだから、彼が数学という名のもとに考えていたものは、応用を度外視した純粋数学ではなく、広く物理学に適用される豊かな経験的拡がりのあるものであった。

 論理学と数学を峻別して、論理的真理は分析判断であるが数学的真理は先天的総合判断によって基礎づけられると述べたのは、カントであった。「純粋数学はいかにして可能か」というのはカントの『純粋理性批判』の主要課題の一つでもあった。ラッセルや、後の論理実証主義者達が標的にしたものは、まさに、このような、カント哲学の数学論であったのである。

 しかし、「論理主義」という用語を用いるときには、そこでいう「論理」の内容が問題である。数学的論理学に余り高い価値を認めなかったポアンカレなどは、「数学が論理学にすぎないものであるならば、あれほど多くの数学書で探求されている事柄が、膨大な同語反復(トートロジー)にすぎぬ事になるが、そんなことをどうして信じられよう」と言っている。

 論理学的な命題の特徴は、経験的な世界に言及することなくして、その真偽が決定可能なことである。「明日雨が降るか降らぬか、いずれかである」とか、「明日雨が降るものであるならば、明日雨は降るであろう」という命題は、明日になることを待たずして(空虚に)真となる。これが論理的真理の特徴であり、言語の形式のみによって真偽は決定可能となる。日常的な語り方の中では、同語反復というものがこれに該当する。そして、数学的な公理体系を構築するにあたって、「一群の公理がもし真であるならば、そこから導き出されるこれこれの定理も真である」という仮言的命題を作るならば、その真理性、すなわち推論の妥当性もまた、論理的真理(同語反復)に依存しなければならない。この真理は必然的な真理であるが、その必然性は、同語反復の真理のもつ必然性である。

 ここまでは、別に数理哲学などをもちださなくても、ある程度数学に親しんだものならば、だれでも認めるであろう。議論が分かれるのは、我々が公理体系などを知る以前から了解している単純な数学的命題、たとえば、「1+1=2」は、そのような意味での論理的な真理か、と言うことである。

 カントは、「1+1」という主語概念は2という述語概念を含まぬ以上、「1+1=2」の真理性は「述語が主語に含まれる」分析的な判断ではなく、直観に基づく必然命題であると考えた。その直観は、数学に固有のものであり、決して論理学の一般的原理から帰結するものとは考えられなかったのである。このカントの立場は、オランダの数学者ブラウアーの直観主義に受け継がれる。彼は、論理学の一般原理を借りずに、数論的対象の独自な性格を、時間の系列の中で遂行される有限な構成によって基礎付けようとする。

 直観主義では、排中律(SはPであるかないか、いずれかである)のような論理学的原理ですら、我々が数論的な構成によって確認できない場合は無条件で適用しないことが求められる。無限個の対象を一挙に把捉することは、有限な人間の時間直観ではあり得ないからである。 しかし、この直観主義の立場を厳格に適用すると、物理学などの経験世界に適用された解析学の大部分を、疑わしいものとして放棄するという大きな代償を支払わねばならないのが問題であった。「論理主義」のテーゼとは、直観主義の制限を超えて、数学を時間直観から切り離し、論理学上の一般原理だけから、数学の全体系を構築しようと言う試みであった。それは、有限な時間直観にもとづく帰納法に訴えることなく、一般原理からの演繹によって数学を基礎づけようと言う試みでもある。

 ポアンカレは、『科学と仮説』の中で、数学は演繹だけではなく「数学的帰納法」という手法によって、特殊な事例から一般的な定理を導出する以上、論理学だけでは説明の付かぬ原理に立脚していると述べたが、『数学原理』では数学的帰納法そのものが、自然数の定義から導出される論理的原理として扱われている。そこでは、直観的には数え尽くすことの出来ない「超限数(transfinite number)」から自然数を区別する特徴の一つとして、数学的帰納法が扱われるのである。

 直観主義が厳格な有限の立場を固守する立場であるとするならば、論理主義は自由な無限の立場である。この立場が、哲学者によっては「論理主義」ではなくて「プラトン主義」の名をもって呼ばれるのも故なしとしない。

数学基礎論における主要な三つの立場、すなわち

(1)論理主義(プラトン主義)(2)公理主義 (3)直観主義 

は中世の論理学における三つの立場、すなわち

(1)実在論 (2)唯名論 (3)概念論 

になぞらえて議論される場合がある。ここで実在論というのは、普遍者(普通名詞で名指される対象)の実在を主張する論理学上の立場であるが、数学基礎論では、集合の実在性にコミットする立場がこれにあたる。

 数が特別の直観的意味を持たない論理主義では、一般に集合の持つ基本的な性質から数の概念が演繹される。その場合、もとになっている集合の実在性が前提されるならば、結局の所は、数学的言語は全く指示対象を持たない名前にはならない。これに対して、ヒルベルト等が主張した形式主義の数学観では、外的世界の指示関係を抜きに、数学的記号の使用規則そのものに意味を求めている点で、唯名論的である。 数学が対象とすべき普遍者が、世界に実在しようとしまいとそのこととは無関係に、純然たる言語の規則によって公理体系から定理を演繹する事のみが関心事となる。もはや、「真理」は不要となり、「証明可能」という言葉がそれに置き換えられる。 直観主義と概念論との対応は、前二者と比べると明確ではないが、数学を時間直観という人間の心理的な働きに基礎づける点で、普遍者の実在性を「概念」という心的対象に求めた概念論と対応するであろう。

 ここで、大切なのは、「論理主義」でいう論理学がどのような性格のものであったかと言うことだろう。数学を論理学に還元するというとき、そこでいう論理学は、いかなる意味でも実在への関わりを持たない唯名論的なものではなかったことに注意する必要がある。なるほど、『数学原理』では、集合が実在することはあからさまには主張されていなかったが、論理学者のクワインの言い方を借りるならば、『数学原理』の体系は述語のタイプと次元の区別を持つ「高階述語論理」であったが、二階以上の述語の量化を認めるという意味で、明確に、普遍者の実在にコミットしていた。(クワイン 『論理学的観点から』)すなわち、『数学原理』は基本的には、普遍に関する実在論の立場で書かれた書物なのである

 もっとも、「述語」という語は『数学原理』の本来の用語ではない。『数学原理』では、それは、「命題関数 (propositional function)」と呼ばれている。即ち、命題の構造を分析する場合に、主語と述語という区別に立脚するのではなく、引数(argument)と関数(function)という、元来は数学において用いられていた用語を援用しているところに、『数学原理』の特色があるのである。

 「実体から機能(関数)へ」とは、カッシーラーの科学論の著作のタイトルであるが、それは『数学原理』の著者達の仕事の性格を説明するのにも役立つだろう。主語―述語の区別を命題にとって基本的なものとする論理学が、主語によって名指されるものを実体化する形而上学と深い関係にあるが、『数学原理』のように、主語も述語も関数として捉える考え方は、非実体論的な存在論を準備するものであったといえる。

 もっとも、ラッセルから論理実証主義への哲学的な潮流においては、存在論を含めて伝統的な哲学そのものに対する無関心のために、このような可能性は探索されはしなかった。この点において、ボヘンスキーが、『現代のヨーロッパ哲学』の中で、数学的論理学に一章をあてて、「数学的論理学は新実証主義と同一視してはならない。フレーゲ、ホワイトヘッド、(『数学原理』執筆当時の)ラッセル、ルカシェビッツ、フラエンケル、ショルツなど、その創設者達はみなプラトン主義者であった」と指摘しているのは正鵠を得たものであろう。

 ホワイトヘッドは、後に相対性理論の専門書を書いたことからもわかるように、純粋数学ではなくて応用数学の専門家であった。彼の処女作、『普遍代数論』の序文は次のように述べている。

数学の理想は、思考や外的経験の事象の諸系列がはっきりと確認され、明晰に述べることのできるあらゆる領域に結びついた推論を容易ならしめる演算体系(calculus)を樹立することである。哲学と帰納的推論と想像的な文学を除外して、すべての真剣な思索は演算体系によって展開された数学となるべきである。(『普遍代数論』)

 ホワイトヘッドの『普遍代数論』はその書名からして、ライプニッツの『普遍的記号論』を意識して書かれたものであるが、普遍的言語としての数学(代数学)の射程は、単なる四則演算の領域にとどまらず、思考と外界の経験的事象の諸法則の表現の全領域にわたるのである。

 数学的論理学は、応用を考慮しない純粋数学の一分野というように見なされることが多いが、それは、正しい捉え方ではない。ホワイトヘッドが『普遍代数論』を書いてから、半世紀ほど後にノイマンによってコンピュ―ターの基礎原理が発明される。そして、ウイーナーによって通信と制御の一般理論であるサイバネティックスが提唱され、シャノンによって情報理論が展開される。これらは、その後のいわゆる情報革命を準備するものとなったが、ノイマンもウイーナーも『数学原理』を学んで、そこから深く影響された数学者であった。

 ホワイトヘッドが『普遍代数論』と呼んだものと、コンピュータの言語とは密接な関連がある。例えば、前に言及した「関数」の概念は、コンピューターの汎用言語として著名なC言語では、中心的な位置を占めている。「引数」に「定数」が代入されると、さまざまな「値(value)」をかえす「関数」の概念が、人間のあらゆる種類の知的活動を表現する広義の「演算体系」となることこそ、ホワイトヘッドがコンピュータによる情報革命が起きるよりも半世紀前に予見したことであった。

 数学が、このように人間の知的活動で、規則性が明瞭に表れるすべての領域で使用される「演算の体系」と見なされるならば、それが、従来論理学者にゆだねられてきた領域をも含むのは当然であろう。ホワイトヘッドの立場から『数学原理』を見ると、そこでいう論理学は、伝統的なアリストテレスの形式論理学ではなくて、「普遍代数」として数学化された論理学になっているのである。

 関数の概念が数学的論理学において中心的な役割を持つといったが、そのことを、アリストテレス論理学との対比において、説明してみよう。

典型的なアリストテレス論理学における主語―述語命題として、「人間は理性的動物である」を例にとる。 ここで、主語である人間は、種の名称であり、動物という類にそれが帰属し、「理性的」という主語によって、人間の本質的な定義が為されている。この命題は、いわゆる定言命題であって、何ら仮定的なものは存在しない。これを、『数学原理』の著者達のやり方で言い換えるならば、

「もし、xが人間であるとすれば、xは理性的動物である」という命題関数は、あらゆる引数xの値に対して、真である、

となる。

ここで、「人間(x)」を「xは人間である」,

「理性的(x)」を「xは理性的である」、

「動物(x)」を「xは動物である」

をそれぞれ表す命題関数であるとすると、

「人間は理性的動物である」は、次のような形式で書かれる。

(x)(人間(x)⊃(理性的(x)&動物(x)))

この定式で、「(x)(....⊃...)」の部分は「形式的含意(formal implication)」と呼ばれ、数学の定理であれ、自然法則であれ、およそ法則というものが持つもっとも普遍的な形式を表している。

 

 言い換えれば、プラトンーアリストテレスの伝統において、「エイドス」とか「形」とか呼ばれたものが、『数学原理』ではすべて命題関数として、関数的に定式化され、主語と述語の定言命題は、命題関数の関係にほかならぬ形相的含意によって表現されているのである。

 伝統的な論理学で主語の位置に来るものは、『数学原理』では、関数の引数(argument)である。そして、関数値として真理値をとるものが命題関数であるから、主語―述語の論理学は、広い意味での関数理論の一部に取り込まれることになるのである。

3 無限への挑戦

 ボヘンスキーが言ったように、数学的論理学の創始者のうち多くのものはプラトン主義者であった。ここで、プラトン主義という言葉の意味は、単に普遍者の実在にコミットすると言うだけでなく、「数とは何であるか」という本質定義の問題が重要な意味を持っていると言うことである。「....とは何であるか」という問いは、哲学の出発点をなす問いである。数学基礎論と数理哲学を分かつものがあるとすれば、この問いが真剣に問われているか否かが決め手であると言っても良い。

 ラッセルは、『数理哲学序説』のなかで、第二章を「数の定義」にあてて次のように言っている。

 「数とは何か」という問題は、従来よく問われてきたものであるが、正しい答えが与えられたのは我々の時代になってからのことである。その答えは、フレーゲによって、一八八四年に「算術の基礎(Grundlagen der Arithmetik」で与えられた。この書物は、短く、容易で、しかも最高の重要性を持つにも関わらず、ほとんど注目されず、そこに含まれている数の定義は、同じものが筆者によって1901年に再発見されるまでは、ほとんど知られていなかった。

 ここで、最初にフレーゲが発見し、のちにラッセルが再発見した数の定義は、集合の概念に依拠するものであった。数とは何かという問題に対して、最初に、「ある集合の数」という概念を「その集合に相似なすべての集合からなる集合(the class of all those classes that are similar to it)」で定義し)、「数」を、「ある集合の数である任意のもの(anything which is the number of some class)」として定義する方法は、集合という普遍者の実在にコミットしていた。この点が、論理実証主義やアメリカの実用主義者達の数学観と大きく異なっている[1]

 集合は、ここでは、多くの要素を持つ一つのものとして了解されており、それ自身が上位の集合の要素となりうるものである。ラッセルとホワイトヘッドが『数学原理』の中で数を定義するとき、有限な数(finite number)と超限数(transfinite number)の両者に共通する数の定義を与えていることは注目に値する。有限の集合も無限の集合も集合であるという点に関しては同一の論理に従うと言うことが、このような数の定義にとって本質的なことである。

 『数学原理』執筆当時のラッセルとホワイトヘッドは、無限集合を客体化することを認める「積極的無限論」の立場を受け継いでいた。もし、有限なる知性が、直観に基づいて一つ一つ対象を枚挙していくというやり方を採用するならば、そこで取り扱うことのできるのは、どれほど多数であっても常に有限なるもののみである。無限なるものは、ただ「数え尽くせぬもの」として否定的に規定できるだけである。

これに対して、カントールに始まりボルツァーノを経由して『数学原理』に受け継がれた「積極的無限論」では無限集合が「肯定的に」定義され、有限集合は、逆に「否定的に」定義されている。何故、そのような発想の逆転が可能になるのか。その鍵は、「対応(correspondence)」という概念にある。

 無限集合が実在すると仮定すると、有限集合では起こらない矛盾した性質を認めなければならないと言うことは、カントール以前にも知られていた。例えば、自然数の全体からなる一つの集合が実在するとすると、偶数の集合は、その部分集合となるが、この部分集合は、全体集合である自然数全体と、「余すところなく一対一に対応づける」事ができる。その意味で、無限なる集合では、部分が全体に「相似(similar)」であるということが起こりうる。同様に、どのような短い長さの線分も、もし無限個の点からなる連続体として考察するならば、その線分を含むどれほど長い直線とも、どれほど広い平面とも、またどれほど大きな立体とも、「相似」なものになりうる。もし、「部分はいかなる意味でも全体に等しくはない」と言うことを、ユークリッドの幾何学原論で言え言われているような意味で、数学の公理と見なすならば、無限なる集合は、もしそれが実在すると考えるならば、この公理に背反するのである。

  このような逆説を避けるために、「無限なる集合は実在しない」という立場を「消極的無限論」の立場であるとするならば、「積極的無限論」の立場は、そこで避けられた逆説そのものを、無限なる集合の積極的「定義」へと転換したところに成立する。即ち、無限なる集合とは「全体と相似な真部分を持つ集合」であり、有限なる集合とは、「いかなる部分集合も全体と相似ではない集合」である。そこでは、無限なる集合の定義の否定として、有限なる集合が規定されている。

 カントールに始まる「積極的無限論」は、あきらかに無限なるものを扱う際に、数学者に対してパラダイムの変換を強いるものであった。ラッセルは、このような新しい数学に出会ったときの衝撃を次のように回想している。

(はじめてカントールの著書を読んだとき)私は、その議論の骨子ををノートに書き写していった。最初の内、私は、著者の議論は、独創的ではあるが、根本的に間違っていると思っていた。しかし、最後まで読み通したときに、間違っていたのは、私の方であったことに気づいた。(『自伝的回想』)

 後に、カントールと文通するようになったラッセルは、カントールからカント哲学の手厳しい批判を聞くことになる。カントの第一批判では、「純粋数学はいかにして可能であるか」ということが課題の一つとして提起されていたが、カント自身は、その可能性を有限なる人間の感覚的直観の形式に求めたために、カントールが目指しているような無限なる集合の数学は最初から排除されてしまうからである。

「無限なる集合の数学はいかにして可能か」という問題こそ、『数学原理』の著者であるラッセルとホワイトヘッドの主要課題であった。この課題を忘却して、『数学原理』の目的を単に、数学を論理学に還元することをめざしたものというように矮小化することはただしくない。

 たとえば、1+1=2という誰もが知っている有限なる算術の命題が、『数学原理』という著書のどこで証明されているかを見てみると、それは、じつに第一巻第二部セクションAの第五三節であって、それまでに論理学と集合と関係に関する一般的理論が展開された後で、はじめて証明されるのである。

 1+1=2のごとき誰にもよく知られている命題が、膨大な論理学的準備を行った後で、証明されると言うことは、何を意味しているのであろうか。それは、我々にとって自明なものが、事柄自体において自明とは限らないと言うこと、有限なる数の算術も無限なる数の算術も共に従うべき論理と集合と関係についての一般理論が確立した後で、始めて証明されるべき命題として提示されると言うことが、『数学原理』の体系構成の大きな特徴となっているのである。

それでは、数学基礎論の歴史において一時代を画したと言われる記念碑的な著作である『数学原理』の構成を更に詳細に見てみよう。

 『数学原理』は全体で三巻、総ページ数約二千頁の大著であり、それを読み通すのは容易ではないが、きわめて整然とした構成をもっている。全体が六部形式で、

第一部 数学的論理学

第二部 基数の算術の序説

第三部 基数の算術

第四部 関係―算術(relation-arithmetic)

第五部 系列(series)

第六部 量

となっている。

 幾何学に関する部分がさらに続く予定であったが、結局のところ、それは刊行されず、量の一般理論が提示されただけで終わっている。即ち、この著作は完結したものではなく、後に幾何学と物理学へと展開する壮大な体系への序論という性格をもっていたのである。

 今日では、論理学は、「具体的な経験内容を書いた純然たる形式的な推論の学」として、自然科学のような経験科学とは一線を画するのが習慣となっているが、『数学原理』はそのような立場で書かれてはいないと言うことは、強調しておく必要がある。それは、自然科学の基礎的かつ形式的な諸部分と連続性をもっており、一般性の度合いにおいて違うだけなのである。

 『数学原理』の続編は、それがもし書かれたとすれば、そこで構築された論理学的手法を用いて、幾何学や物理学の基礎にまで及ぶ壮大な体系となるべきものであった。しかしながら、実際には、二人の共著という仕事を続行不可能としたいくつかの事情があった。一つは集合論の基礎に潜んでいた「ラッセルの逆理」を回避するために、『数学原理』の体系を手直しするのに非常な手間がかかったこと。もう一つは、逆理の発見以後、ますます実証主義的かつ唯名論的立場に傾斜していくラッセルとホワイトヘッドとの間で微妙な意見の対立があったことがあげられる。

 第一節で、ホワイトヘッドの研究ノートの借用を申し込んだラッセルに、ある懸念を表明しながらもそれに応じたホワイトヘッドの書簡を引用したが、この書簡の時期あたりから、二人の哲学的な意見の差が顕著なものとなっていった。ラッセルがホワイトヘッドの研究ノートを借りたのは、「延長的抽象化」の手法を知りたかったためであったが、この方法は、「大きさを持たない点」や「幅のない線」の様な幾何学の抽象的要素が、経験において与えられる延長を有する対象から、いかにして抽象されるかという問題を解くためのものであった。

 ラッセルは、この方法を更に一般化して、「実体は必要以上にふやしてはならない」というオッカムの唯名論的な原理と結びつけ、「推論された存在を論理的な構成によって置き換える」という科学哲学の第一原理に変容させる。彼の立場は、感覚与件を唯一の出発点とし、そこから外的世界や他人の心を、あとから論理的に構成していくという点で、基本的には、形而上学を排除した論理実証主義者達と同一の路線をとっていたといって良い。実際、カルナップは、『世界の論理的構成』という著作で、ほぼラッセルの考え方を受け継いでいたのである。

 これに対して、ホワイトヘッドの科学哲学は、形而上学を排除するものではなかった。『自然認識の諸原理』の第二版の序文は、「近い将来、(科学哲学)三部作の見地をより完全な形而上学的研究に包括することを望む」と明言していた。『数学原理』で開発された、論理学的な手法は、実証主義と結びつくのではなく、近代科学の中に潜んでいた抽象的な諸前提を批判し、新しい自然哲学を展開するための道具として使われたのである。我々の直接に知覚する世界から出発して、物理学の基礎原理の経験的根拠を反省し、それと共に、近代科学で前提されていた科学的唯物論を批判すること、実体中心的な世界観から相互関係の網の目のうちにある「出来事」を中心的とする世界観へ転換するという事が、科学哲学三部作の基本的な構図であった。

 

[1] 現代論理学では、クラス(class)と集合(set)を区別し、上位のクラスのメンバーになりうるクラスを集合と呼ぶが、ここでは意味内容上、classを集合と訳した。

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「プロセス思想」創刊号の巻頭言を読むー二十一世紀の文明の構築に向けて

2021-01-09 | 日誌

 南山大学で第二回国際ホワイトヘッド学会が開催されたのは1985年でしたが、その翌年に日本ホワイトヘッド・プロセス学会(創設は1979年)の学会誌『プロセス思想』が創刊されました。巻頭言として初代会長の山崎正一先生の「創刊に寄す」が掲載されています。 

 山崎先生は、日本哲学会の会長を勤められましたが、ホワイトヘッド学会の初代会長でもありました。東京谷中の(臨済宗)興禅寺の住職でもあった先生は、大学院でカントの「純粋理性批判」講読と、道元の「正法眼蔵」講読の二つの演習を担当されていました。先生が1973年に退官されるまで、私もこの二つの演習に参加していましたが、当初は、イギリス哲学とカント哲学の専門家として知られていた山崎先生がなぜ道元を演習のテキストに使われていたのか、理由がよく分かりませんでした。しかし、先生が、東京谷中にある由緒ある古刹、興禅寺の住職であることをあとになってから知りました。

 仏教的な智は近代西洋哲学とは違って、死を免れない人間の生き方を直接に問題とすること、近代人が忘却した人間存在の有限性の自覚、僧堂生活の中で伝承された「戒・定・慧」の「三学」による全人的な教育、とくに道元の「修証一等」の修道論の意味の再発見ということを、私は山崎先生の演習から学んだと思っています。

 山崎先生の『プロセス思想』巻頭言は、36年前に書かれましたが、現在でも古さを全く感じさせません。とくに近代産業社会が姿を現した一九世紀以来の文明社会を特徴付ける三つの対立関係が、「錯乱の人間(homo demens)」ともいうべき偏頗な人間像を輩出し、それが二〇世紀の文明の危機的状況を生み出したという認識は手厳しい。それは、大学で専門分化した学問を学ぶだけで、社会倫理と宗教を忘却した人間に対する警鐘ともなりましょう。

 現代文明の危機を克服するために、二十一世紀以降の人類に求められているのは、第一に、自然と人間との調和であり、第二に、人間相互の間の調和であり、第三に、人間における知性と感情との間の調和であるということを山崎先生は巻頭言で説かれています。そのような観点から、「古代以来の人類の正統的な知恵の探究」に棹さすホワイトヘッド哲学の意義とその歴史的社会的使命をとくあたり、まことにホワイトヘッド学会の創立の理念に相応しい内容であると思いました。

 プロセス思想創刊号は、まだ電子化されていないので、以下にその全文を再録します。 

ーーーーーーーーー創刊に寄す(山崎正一)ーーーーーーーーーーー          

 近代産業社会が姿を現した一九世紀初頭以来、現代の文明社会は、三つの対立関係を基本的枠組( パラダイム) --fundamental presuppositional scheme(framework)--として運営せられている。
 第一は、自然と人間との対立である。人聞は、自然の内に、自然の一部として生れた存在でありながら、自然界から自己を引きはなし、自己を自然界から自立させ、そして、自然界を征服し管理し統御すべきものとせられる。人間は自然を開発し、自然界の力を、統制し運営する。そこに人間存在の意義を、人間の人間たる所以を、見出そうとする。
 第二は、人間相互の対立である。個性を重んじ、個的主体性・人格性を尊重する。相互に競争することによって、個人にとっても、社会にとっても、よりよき進歩が得られると考える。相互に相手を、自己と同様に尊重することを理想とし建て前とする。個人と個人との相克を調停するのは、正義公正の原則である。こうして、階級対立のない差別なき平等な民主的社会が実現せられると考える。
 第三は、人間における「知性」と「感情」(情念)との対立である。合理的知性は、非合理的感情(情念)を、規制し制御すべきものとせられる。これによって、人間生活を合理的に開明化し、社会生活における非合理的な人間関係と呪術信仰を排除すべきものと考える。
 以上、三つの対立関係を抜本的枠組(パラダイム)として、人間は、自然を征服し、人間世界をたえず拡大して前進してゆくべきものとせられ、相互に個性を尊重し正義公正の原則に基いて民主的社会を運営し、非合理を排して合理的に整序せられた理性的人間の社会をめぎして進歩しゆくべきものとせられた。
 しかしながら、結果において、もたらされたものは何であったか 。 二十世紀において明らかとなったことは、第一に、大規模な自然環境の破壊の進行であった。またそれは、人間の生理的身体を破壊し、さらに遺伝子に影響を与えて、将来の子孫の存在までも危うくすることが明らかになったことである。
 第二に、人間は、相互に相手を尊重することを建て前としながら、実状においては、相互に相手を圧服し征服し統御しようとする。個人では力が弱いということになれば、徒党を組み、団結し、組織を作り、こうして徒党や組織体が互いに対抗し争い合う。それは相互不信と相互抗争の世界である。個人にとって国家は敵であるが、国家にとっても他の国家は敵である。
 第三、人間存在は、理性的であるのみではなく、依然として情念的存在であるから、理性によって抑圧された情念は、様々な精神障害を惹き起す。それは内攻して内圧力を高め、吐け口を求めて一挙に噴出する。それは暴動ともなり、あるいは組織的なる反抗運動ともなる。この場合に、情念を鼓舞激励するのは「力は正義なり」という理念である。
 以上、一連の事象の意味するところは何か。それは、人間存在が主体的な理性的存在であるという点を一面的に強調することによってもたらされた「逸脱」--diviation--の世界であるということである。それはホワイトヘッドの言葉を借りれば、「具体者置き違いの誤謬」---fallacy of misplaced concreteness---ということになるであろう。即ち、それは、人間存在の在るべき姿の或抽象的な一面を描き出し、これを具体的なものと思い錯覚した誤謬である。このような誤謬に陥った人間が、<homo denens>(錯乱の人間)に他ならない。思うに、それは主体的合理主義の<<近代的>>誤謬であって、人間存在が存在するための必要条件にのみ注目しその充分条件を見失った誤謬ということができよう。
 人間存在の充分条件は、「対立」ではなく、むしろ「調和」(harmonia)である。人間存在のあるべき姿として、二十一世紀以降の人類に求められているのは、
第一に、自然と人間との調和であり、第二に、人間相互の間の調和であり、第三に、人間における知性と感情との間の調和である。
 ホワイトヘッドの「有機体の哲学」が目指しているのは、このような新しい世界を開く基本的スキームであるということができよう。それはまた、前一千年紀以来、地中海域から、オリエント、インド、中国シナの古代文明の知性か求めた「知恵」(wisdom)の探究の伝統につながるものである。私の考えでは、このような知恵の探究は、実のところ、根源的には、石器時代以来、人類が、世海と人間とに対して抱いた基本的想念を手がかりとし、これに基づくものである。
 正義公正の原則は、人間の共同存在のための必要条件を示すものにすぎない。人間間共同存在の充分条件となるものは信愛である。そして何よりも、人類はみづからが有限な存在であることを思い、謙虚にみづからを省みるところがなければならない。そのときに、はじめて人々は、現代文明社会において見失った善美なる価値の世界をふたたび見出すことができ、近代科学も、在るべき価値秩序の中に、自己の在るべき位置を見出すことができるであろう。
 今回創刊の機関誌が、古代以来の人類の正統的な知恵の探究に棹さすものであることを想い、ここに、その出立を祝うものである。

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ちなみに、『プロセス思想』創刊号の目次は以下の通りです。

創刊に寄す    
山﨑正一  -------1

大乗仏教とホワイトヘッド哲学ー特に中観と瑜伽行唯識の基本的問題について--------5  
武田龍精

ハヤトロギアとホワイトヘッドのプロセス思想-------19  
田中裕

ホワイトヘッド形而上学における神の観念について-------33  
京屋憲治

バルト神学とホワイトヘッド哲学-------43  
大島末男

出来事・有機体・現実的実質とシステムーホワイトヘッド哲学とシステム哲学の概念比較------55  
伊藤重行

ギリシャ教父に見る万有在神論ーエイレナイオス、マキシモス、パラマスの場合------65      
木鎌安雄

ホワイトヘッド国際シンポジウム回想 relevancy and genius------79  
松延慶二

Japanese Universities and their Function in National Development ------86 
Keiji Matsunobu

 

 

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エキュメニカルなカトリック (国境と宗派を越えた普遍の教会)

2020-12-17 | 日誌
エキュメニカルなカトリックというと、私は
 
「Strangers No Longer, Together on the Journey of Hope
ともに希望の旅の途上にある我等は もはや異邦人ではない」
 
という言葉を思い出します。これは、アメリカのカリフォルニア州クレアモント大学(昔、鈴木大拙が「禅と日本文化」の講義をした大学)の近くにあった「聖母被昇天教会」のミサに与ったときに目にしたスローガンでした。
 そこは實に多国籍、多民族の人々からなる教会でした。22年前に私がはじめてこの教会に来たときの司祭はアイルランド人でしたが、二度目に来た時の司祭は、アフリカ出身の方でした。信徒でもっとも多いのは米国在住のヒスパニック系の移民、つぎに中南米から米国に職を求めてきた人々、そして旧南ヴェトナムからの難民です。日本人には逢いませんでしたが、中国系、韓国系の人々もたくさん参列していました。こういう様々な人種の人々が「一つのミサ」に与る。それが、本来の「普遍の」教会の姿ではないかという印象を持ちました。  
 ミサの式次第は日本と全く同じです。もちろんすべてが英語になっている点は違いましたが。私が参列した時のミサは教会暦年間第30番目の主日で、旧約聖書はエレミヤ記第31章、詩編126、使徒書はヘブル書5章、福音書はマルコ伝10章。聖書こそ典礼の基礎であるという点では、じつはローマン・カトリックもプロテスタントも変わりはありません。
 
 エレミアの朗読を聞きながら、私は内村鑑三のことを思い出さないわけにはゆきませんでした。預言者の情熱、その祖国に対する愛、それはまさしく内村が共鳴したものでしたから。紀元前のユダヤ民族のシオンにたいする思い、捕囚より解放された喜びが、エレミヤや詩編の様々な章から、長い歴史の隔たりを越えて聞こえてきます。そして、古代のイスラエルの民の「愛国心」は、キリストによって浄化され、普遍化され、全人類の精神的な遺産となっています。
 
 ユダヤ教からキリスト教への展開は、ユダヤ民族の伝統と愛国心のもつ自己中心性、民族的エゴイズムを一度は徹底的に否定したあとで、再び、新しい精神の中でその民族の伝統を受容するというダイナミックな転回でもあったと私は理解しています。  内村鑑三は真の愛国者でした。日清戦争を正しき戦争として擁護したあとで,日本政府の欺瞞的な政策に同調したことへの徹底した自己批判。日本中が「愛国心」の狂騒のなかで日露戦争を支持したまさにその時に、非戦論を国家の取るべき方策として提言したことこそ、キリスト者としての内村の真の愛国心のしからしめるところでした。自国が道を誤ったときに批判できるものこそが真の愛国者といえるのです。
 
 いわゆるWASPが多数派であるアメリカで、カトリックはマイノリティです。しかし、私は、真のカトリックは、国家の中に於いてマイノリティであるときこそ、云うならば「地の塩」としての役割を果たすことが出来ると思っています。
   「Strangers No Longer, Together on the Journey of Hope   
   ともに希望の旅の途上にある我等は  もはや異邦人ではない」
 
という標語は、キリスト者の立場から、政府の排外的な移民政策に反対するエキュメニカルなカトリックの姿勢がよく出ていましたが、それにしても    
 
「ともに希望の旅の途上にある(我等)」
 
というのは実に良い言葉であると思いました。
 
 キリストの存在する場所は、特定の民族や国家に限定されない。様々な民族や人種や国家が、その違いを超えて一つになるところに、すなわち多なるものがその個性を失わずに一つとなるところに、世界宗教としてのキリスト教の成立する場所があると思っています。
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創造的無と宇宙の歴史性ー歴程の哲学からみた現代宇宙論

2020-12-17 | 哲学

創造的無と宇宙の歴史性ー歴程の哲学からみた現代宇宙論

田中 裕

はじめに

 

「天地は万物の逆旅にして光陰は百代の過客なり」とは人口に膾炙した古人の詩句であるが、もし天地を宇宙(コスモス)の意味に取るならば、現代の物理学は、宇宙そのものもまた永遠なるものではなく過客(旅人)であるという認識に達したように見える。天と地の挟間にあって束の間の生をうけた個々の人間のみならず、乾坤も、行き交う年(時間)もまた旅人に他ならない。西欧中世においては、万物はその被造性のゆえに永遠なるものを本性的に必要とすることが教えられ、この世界の偶然性(contingentia mundi)の自覺こそがキリスト教信仰への道の一つであった。我々が以下に考察するのは、我々のすまう世界が根源的に歴史的過程(以下「歴程」と呼ぶ)に貫かれており、宇宙そのものが決して永遠不変のものではないこと、存在するために自己以外の何ものをも必要としないような必然的な存在では有り得ないという事実の有つ意味である。

1 現代宇宙論の展開

 相対性理論と量子力学を基礎とするコスモロジーは現代科学の最先端の一つである。そこでは、我々の宇宙が約140億年前のビッグバンに始まる歴史をもつという証拠(宇宙の背景輻射の存在)の発見とともに、宇宙の起源と終末に関する問題が、神話や単なる形而上学の問題としてではなく、科学の問題としても議論される段階に到達したように見える。

 曾ては、創世紀の七日間の天地創造の物語を熱心に論じたのは中世のキリスト教の神学者達であったが、今日では、創造後の『最初の3分間』を現実の歴史として語ったのは、素粒子の統一理論でノーベル賞を受賞した物理学者のスチーブン・ワインバーグである。さらには、単にビッグバン以降の宇宙の歴史を物語るだけにとどまらず、宇宙の始まりという特異点を解消するという問題もまた物理学の最前線では課題の一つとなった。「無からの創造」(creatio ex nihilo)はキリスト教神学の知解を越える教義であったが、まさしくこのような教説が、ビッグバンの特異点を解消する理論の一つの理論的な可能性として、物理学者によって議論されるようになった。

 ビッグバン理論によれば、宇宙の歴史の始源においては極大の宇宙は極微の宇宙でもある。それゆえに、宇宙の起源を正しく認識するためには、マクロ宇宙を記述する一般相対性理論とミクロ宇宙を記述する量子力学とを統一する理論が必要となる。重力、電磁気力、弱い相互作用、強い相互作用の4種類の異なる自然力を統一する究極の物理理論が検証される領域は、人間が地上で実験可能なエネルギーのレベルを遥かに越えており、初期宇宙のような極限的な状況こそ統一理論の試金石になるのである。このように、量子論と一般相対性理論という20世紀の物理学の歴史を根底から変えた二大理論を更に高いレベルで統一するという理論物理学の課題が、『宇宙がどこから来てどこへ行くのか』という歴史の黎明期から人類が問い続けてきた形而上学的問題の探求と結び付いたものが現代宇宙論なのである。

  ビッグバン以後の膨張する宇宙とは、境界をもたぬ有限の大きさの宇宙が膨張して行くことを意味している。人間の感覚を遥かに越える宇宙も単なる大きさだけでは人間を凌駕するものではなく、我々は物理的宇宙のスケールよりも寧ろその宇宙の全体を捕らえ得た人間の精神の宏大さのほうに驚嘆すべきかもしれない。それと同時に、宇宙の全体を捕らえる人間自身は、当然のことながら、時間的にも空間的にもその宇宙の内部にいる訳であるから、そのような『宇宙内存在』としての人間が、宇宙の全体を捕らえ得ることが如何にして可能となるかが問題とされねばならない。人知の限界を探求する形而上学の可能性の問題として、カントの『純粋理性批判』の課題が装いをあらたにして蘇ったというべきであろう。

 カントの批判哲学が形而上学の批判を通じて深く自然神学の問題にかかわっていたように、我々を含む宇宙の全体を学問的に問題とする現代宇宙論も、こうして間接的に自然神学上の問題にコミットせざるをえないのである。 更に、この大宇宙が創造されて間もないころは量子力学が適用されるような極微のスケールをもっていたということ、すなわち初期宇宙における極大と極小の一致ということもまた、現代宇宙論の含意する事柄の一つである。我国の代表的な宇宙論学者として知られる佐藤文隆氏と佐藤勝彦氏が共同で書かれた啓蒙的な論文に『宇宙が1センチだったころ』という表題をもつものがあるが、その意味は、一つ一つが約1000億個の星を含む星雲を何兆個も含む100億光年にもわたる宏大な拡がりと膨大な量の物質を含む現在の我々の宇宙が、創造後10-36秒の時点においては半径1cm以内の微小領域におさまっていたということである。佐藤文隆氏によれば、我々の宇宙の歴史のこの時期までは、物理学者が実証性をもって溯れるということである。そして、それ以前の極微の宇宙の状態がいかなるものであったかについては、現在実験によって確認できる領域を越える高エネルギーの物理学を必要とするために、物理学者のあいだで意見が一致している訳ではなく、さまざまな仮説が提案されている状況であるという。無限の拡がりをもつように見える現在の宇宙が高々1cmの大きさしかもたなかった時期があったなどということですら門外漢には驚嘆すべき主張であるが、現在の宇宙論学者の理論的関心は、さらにその先まで行っているということであろう。専門の物理学者が宇宙の始まりについて積極的に発言すること自体が、一昔前までは考えられないことであったことを想起すれば、量子宇宙論に対する物理学者の間での最近の関心の高まりは、現代科学が、ある決定的な段階にさしかかっていることを象徴しているのかもしれない。

 ビッグバンの特異性を解消して、物理学の内部で『宇宙の創造』という出来事そのものを記述しようとする試みの二つの代表的な例として、ロシア生まれの米国の物理学者アレクサンダー・ビレンキンと英国の物理学者スチーブン・ホーキングの理論があるが、彼らの述べていることは、理論の数学的な構造の類似性とは対照的に、日常言語に翻訳され解釈された地平においては正反対の主張のように見える。その理由は、『無』や『創造』にかんする日常的な概念も、また伝統的な哲学的概念もともに、現代宇宙論の遭遇した状況を表現するには不十分であるということに求められるのではないだろうか。

 『無からの創造』は曾てはキリスト教神学のドグマであり、『無からは何も生じない』という古代ギリシャの原子論以来の自然哲学の根本原理に反するものと考えられて来たが、ビレンキンの理論は、量子力学と相対性理論に両方に立脚する物理学においては、『無からの創造』は自然な形で表現されるということを述べている。彼の理論は、『真空のエネルギーの揺らぎ』によって極微の時間幅において物質の創造が行われるという理論-相対論的な場の量子論では実証済みの考え-を宇宙全体に適用することを提案したエドワード・トライオンの着想(1973)をさらに展開したものである。この理論では、宇宙の全物質のもつエネルギーは重力場の負のエネルギーと相殺してゼロとなり、物質的な宇宙の総体は、言わば『真空』の表現とみなされる。ビレンキンが1982年に米国の専門学術誌のフィジックス・レターズに発表した『宇宙の無からの創造』という論文では、宇宙が不安定な『無』の揺らぎから生まれる数学的機構を提示して、誕生したばかりの宇宙の大きさを具体的に計算している。それによれば、『無から誕生した』瞬間における宇宙の大きさは10-26cmのオーダーであり、この種子のごとき宇宙が、極めて短期間に指数関数的に拡大する『インフレーション期』を経た後に、標準的なビッグバン理論に従って膨張したものが我々の宇宙である。ここで、ビレンキンが無という言葉で何を言おうとしているのかを理解するのは容易ではない。米国の物理学者ハインツ・パージェルは、この宇宙創造以前の『無』について次のように解説している。

 宇宙の創造『以前』の無とは、我々が想像し得るもっとも完全な空虚であるーそこには空間も時間も物質もない。それは、場所も持続も永遠もなき世界である.しかし、この思考不可能な空虚が、存在の充実へと自らを変容させることー   これが物理法則の必然的な帰結なのである。これらの法則は、その空虚のどこに書き込まれていたのであろうか。あたかも空虚ですら法則に、すなわち時間と空間以前に存在する論理に従うかのようである。

 ビレンキンと同じように、『虚時間』という量子論の数学的技法を使って原始宇宙がトンネル効果によって真空中に出現する確率を計算したホーキングは、ビレンキンが『無』とよんだものを寧ろ『有』と呼び換えて、量子宇宙の波動関数によって記述される初めも終わりもない実在を表現している。ここでは、ホーキングは一昔前の物理学者ならば、単なる計算上のトリックに過ぎぬものとして『実在性』を否認したかもしれないような『全宇宙の波動関数』や『虚時間』のような数学的概念が、あたかも我々人間が巨視的尺度で経験する時間的な生成変化の世界よりも根源的な実在に対応しているかのように語っている。彼の考える量子宇宙モデルは、空間的に境界がないばかりか『虚時間』において『始めも終わりももたぬ』自己完結的な世界である。ニュートンの『プリンキピア』後300年にあたる1986年に出版された記念論文集『重力の300年』のなかで、ホーキングは自分自身の量子宇宙論の立場をビレンキンのそれと対比させて次のように要約している。

 宇宙は極小の半径をもって『無から創造された』ということもできよう(ビレンキン、1982)。しかしながら、『創造』という語の使用は、宇宙がある瞬間以前には存在せず、その瞬間ののちに存在したかのような時間概念を含意するように思われる。しかるに、アウグスチヌスが指摘したように、時間はただ宇宙の内部でのみ定義され、その外部では存在しないものである。彼はこう言っている:『天地を創造する以前には神は何をしていたか。私は、かってある人が冗談で述べたように、神はそのような質問をするもののために地獄を用意していたなどとは答えまい。時間そのものも神によって作られたがゆえに、いかなる時刻においても、神は何も作られはしなかったのである。』 現代の見方もこれと非常に良く類似している。一般相対性理論では、時間は宇宙の中の出来事にラベルを貼る座標にすぎない。時間は、時空の多様体の外部ではいかなる意味ももたない。宇宙が始まる前に何が起きたかを問うことは、地球上で北緯91度の点はどこかと問うようなものである。そのような点は単に定義されていないのである。創造され、おそらくは終末に達する宇宙について語る代わりに、人は単に次のように言うべきだろう:宇宙はあると(The universe is)。 

 これとほぼ同じ思想は、ホーキングの書いた啓蒙書である『時間の短い歴史』のなかでも繰り返されているが、それによると彼はこのアイデアを1981年にバチカンでイエズス会が催した宇宙論会議の席で最初に発表したという。カトリック教会は、宇宙の永遠性を否定する神学的教義と一致することを理由に、ビッグバン理論にたいして初めから好意的であったことは良く知られている。しかしながら、会議の終わりに参加者に謁見したローマ教皇ののべた言葉、すなわち『ビッグバン以後の宇宙の進化を研究するのは大いに結構だが、ビッグバンそれ自身は探求してはならない、それは創造の瞬間であり、神の御業なのだから』という言葉にたいするホーキングのコメントはかなり辛辣である。

 ここではホーキングは自分の提案した自己完結的な宇宙をあたかも創造神を必要としないかのように語っている。読者には、ガリレオ以来の科学とキリスト教神学との対立関係がここでも顔を覗かせているように見える。ローマ教皇とホーキングの思想の微妙な対立をどのように考えるべきであろうか。どちらかの見方が誤っているのであろうか。それともどちらとも、科学と神学のそれぞれの領分において正しいと考えるべきだろうか。『無からの創造』を説き、それの間接的な支持を現代物理学に求める考えのほうを撤回すべきなのか。それとも『創造』も『無』もありえず、端的に宇宙の『有』を説くことによって創造主を無用とする考え方のほうを改めるべきなのか。

 『始めも終わりもない宇宙』といっても、それは巨視的なレベルでの宇宙が現在と同じ姿で永遠の昔から未来永劫に至るまであり続けるということではないから、曾ての唯物論者が想定したような意味で、宇宙は自己完結的なのではない。ホーキングの世界においても、巨視的世界における『実時間』においては、やはり宇宙の始まりは存在するのである。ホーキングと同じくビッグバンの特異性の解消を意図したビレンキンの論文の表題が『無からの創造』であったことを想起すれば、寧ろ我々は、ここでは、神と宇宙との関係について、このような意見の対立そのものを止揚する新しい観点をとることを要請されていると考えるべきであろう

 

2. 現代宇宙論とキリスト教神学

 現代宇宙論が人類にもたらす世界観の革命的な変化は、ヨーロッパ近代の黎明を告げた地動説のひきおこしたいわゆる『コペルニクス的転回』に匹敵するであろう。ガリレオの異端審問官の一人であった枢機卿ベラルミーノにとって、地動説は一定の目的にとって便利で有効な単なる『数学的仮説』にすぎず、厳密な意味での真理の名に値しないものであった。ガリレオは地動説を単なる数学的な仮説としてではなく真理として主張したために裁かれたというのがガリレオ裁判のポイントの一つであった。確かに、多くの科学史家が指摘しているように、ガリレオの時代の地動説はまだ洗練されたものではなく、現代科学の目から見れば、その細部においては多くの誤謬もあったことは事実である。しかし、この理論が近代の世界観の革命を引き起こし、科学の飛躍的進歩をもたらしたことを否定することはできないだろう。それと同様に、現代宇宙論も、その科学上の詳細においては将来修正される部分をもつことは当然予想されるが、それが人類にもたらす世界観上の革命的変化については、そのような修正可能な詳細とは独立に論じなければなるまい。

 夥しい数の啓蒙書が書かれているにもかかわらず、現代宇宙論の提起する宗教的および神学的問題が何であるかについては、いまだ十分に論じられてはいない。主として欧米の科学者や神学者によって、『新しい物理学』が神学に対してもつ意味が論じられた例はたしかにあるし、ビッグバンの先駆的理論とも言うべきル・メートルの宇宙論をひいて『現代自然科学に照らした神の証明』を書いたローマ教皇ピオ12世のような例もある。また、最近では、宇宙の進化を目的論的に説明する『人間原理』を要請することによって、宇宙における人間の位置に中心的な役割を回復させると同時に、宇宙の進化の過程において新たに生じる情報と秩序の源泉として神の存在を間接的に論証する議論もある。

 しかしながら、一般に科学者はこのような神学的な問題の考察には不慣れであって、それを科学上の具体的な問のレベルに還元して答えようとする傾向があることは否定出来ないし、彼らが『神』について語る場合でも、現代の神学的議論に関する無関心のゆえに、神と世界に関するまことに古色蒼然とした思想を前提にして議論をしてしまう傾向がある。これと同様に、神学者のほうもまた、現代科学の諸理論が、時空、物質、因果性にかんする科学者の常識をいかに変化させたかということに無知であるために、現代宇宙論の提起する諸問題を、彼らのやはり古色蒼然とした科学観の内部で処理しようとする傾向がある。そのために、両者の議論が常にかみ合っているとは言いがたいのである。カール・セーガンは、前述の『時間の短い歴史』に寄せた序文のなかでつぎのように述べている。

これはまた、神についての書物でもある-ひょっとすると、神の不在についての本かもしれないが。いたるところに神という言葉が現れる。宇宙を創造するとき、神にはどんな選択の幅が有ったのか、というアインシュタインの有名な問いに答えるべく、ホーキングは探求の旅に出た。少なくともこれまでのところ、この努力から導かれた結論は全く予想外のものだったー空間的に果てがなく、時間的に始まりも終わりもなく、創造主の出番のない宇宙。 

 ここでは、セーガンは、ビッグバン宇宙論の特異性(宇宙の始めと終末)を量子論と『虚時間』という円環的時間概念の導入によって解消することを意図したホーキングの量子宇宙論の基本的アイデアを、ホーキング以上にあからさまに、あたかもそれが無神論を支持するかのように、あるいはすくなくとも有神論を無用のものとするかのように語っている。

 勿論、ここで、ホーキングやセーガンが『神』について語ったとしても、彼らが真の意味で宗教的な神について語っていると考える必要はかならずしもない。それよりは寧ろ、本来『神』抜きでも語り得るような物理学上の専門的な問題、例えば、一般理論の内部では決定出来ない任意性(初期条件や物理定数の値)をどこまでなしですませることができるかというような問題を通俗的に語るための一つの便法として、彼らは『神』を持ち出していると考える方が妥当であろう。しかし同時に、我々自身を含む世界の全体を主題とする宇宙論においては、通常の自然科学の内部では遭遇しない形而上学的な問いに直面させられることも事実であり、このような問いそのものが、自然科学そのものを通じて宗教の根本的な問題領域に我々を導くことも否定出来ないのである。 

 ホーキングの著書から直ちに無神論的な結論を出したセーガンの議論は、神学者によって反論されている。例えば、オランダの神学者ウィレム・ドリーは、ホーキングの宇宙論は世界を神の被造物とみる有神論的な見方と矛盾しないという趣旨の論文を書いている。確かに、セーガンの議論には幾つかの隠された前提、ないしは偏見とも言うべきものがあって、それらを共有しないものにとっては、どうして現代宇宙論が神の出番を必要としないのか理解に苦しむであろう。言い換えれば、新しい物理学から神の存在を追放するセーガンの無神論的な議論も、ル・メートルの宇宙論から有神論的な結論を出したピオ12世の議論と同様に、純粋な物理学の内部では用いられていないある種の独断的な狭い形而上学的命題を既に前提したうえで、物理学の解釈を行っているのである。

 たとえば、宇宙に絶対的な意味での始まりがあるということが事実であるならば、それは有神論を支持するが、その逆に初めも終わりもない宇宙の永遠性が事実であるならば、それは無神論を支持するという類いの議論を取り上げてみよう。この種の議論は、宇宙の始まりを想定するル・メートルの宇宙論を支持したピオ12世の議論においても、また始めも終わりも無い円環的な『虚時間』の想定によってビッグバンの特異性を消去したホーキングの理論を根拠に造物主としての神を無用視したセーガンの議論においても、暗黙のうちに前提されていたようにみえる。たしかに、この種の前提ないし偏見には長い歴史があり、それこそ神と世界の関係を考える中世以来の基督教神学者の多くによって、またそれに敵対した唯物論者の多くによって共有されていたといってよい。しかしながら、筆者がここで主張したいのは、このような考え方は、過去の独断的な神学の名残であり、現在ではむしろ克服されるべき考え方だということである。 

 ガリレオ裁判以前の中世の基督教神学の世界では、宇宙の無限性を主張することはジョルダーノ・ブルーノの自然哲学がそうであったように異端審問の嫌疑をかけられるような事柄であった。それは、宇宙が時間的にも空間的にも有限であって、その存在が必然性をもたず、全くの無から創造されたということが正統派の見解であった基督教の神学的伝統に由来するのである。 

 宇宙の空間的無限性のみならず、その永遠性を説くこともまた中世の基督教神学の伝統の中では異端の嫌疑を招く教説であった。13世紀のドイツのスコラ哲学者にして基督教神秘主義者としても著名なマイスター・エックハルトは、時の教皇ヨハンネス22世によって異端者として断罪されたが、その告発理由のなかには、エックハルトが『世界の永遠性』と『魂の非被造性』を主張したことがあげられている。現存するエックハルトのラテン語著作の一つである『創世紀注解』を見ると、『何故神はもっと早く世界を創造しなかったのか』という問にたいして、エックハルトは『神が神であるまさにその時において、また神が万物の中にご自身に等しく永遠なる御子を誕生させたその同じ時に、神は世界を創造した』という見地から、神が時間の中で世界の創造のときを待っているかのような素朴な見解を退けて、ある意味では『世界が存在しない時には神も存在しない』という大胆な見解を述べている。

 これは、神の根底(神性)と一つである我々の自身の根底(霊性)への突破と、霊における神の子の誕生を説くエックハルトの他の教説とともに、中世の基督教神学のドグマの限界を越えた大胆な思弁であったが、神と世界を区別したうえで、世界を神に一方的に従属させる西欧の神学的伝統の中ではあくまでも異端の教説とされたのである。

  しかしながら、第二バチカン公会議以後の現在のカトリック教会における神学を、中世の独断的な神学と同一視するのは時代錯誤であろう。ガリレオを名誉回復すべきことがローマ教皇ヨハネパウロ二世によって正式に表明されたことはまだ記憶に新しいし、エックハルトもその全集の発行以来、その深い霊性が再認識されているといって良い。キリスト教以外の他の宗教的伝統のなかで啓示された真理にたいする敬意とともに、現代科学との対話を重んじることは、多元的な価値観の尊重において成り立つ近代化された社会におけるカトリック神学に不可欠の条件となっている。元来『カトリシズム』とは、普遍的な信仰の真理を意味する言葉であって、特殊な信仰者の共同体のなかでのみ通用するような疑似宗教的イデオロギー(idioV logoV=特殊言語)の否定において成り立つものである。キリスト教信仰は科学上の真理と矛盾するものではなく、それを完成させるべきものであることは、トマス・アキナス以来のカトリック神学の重要な課題の一つであった。それゆえに、もし我々が、過去の神学的ドグマにとらわれる事なく、神と世界の関係を問題として考察したとしても、それはこのような広い意味でのカトリシズムの精神には合致すると考えて良かろう。 神と世界の関係を、世界の側から、あくまでも世界に内在的な観点から考察する神学のことを、カトリシズムのキリスト教の伝統では『自然神学』と呼んでいる。それは、神の特殊な啓示から天下り的に議論を始める『啓示神学』と相補的な関係にあるキリスト教神学の伝統の一つである。

 宇宙の存在に初めがあるとするならば、それは造物主の存在を証明することになるというような単純な議論の背後に隠されている宗教的前提を明らかにするためには、我々は、このカトリックの自然神学の伝統をもっと良く知る必要があろう。

 現代フランスのカトリシズムの伝統に立つ神学者であるクロード・トレモンタンの『天体物理学と形而上学』という論文は、このカトリシズムの自然神学の伝統を踏まえたうえで、現代宇宙論の問題を論じている。彼はこの論文の中で、宇宙の存在そのものを問う形而上学の三つの類型を人類の思想史のなかからとりあげて、それらを対比している。

 第一の類型は、物理的宇宙は見せかけのものに過ぎず、経験科学が研究の対象とするような『客観的現実』は、実際には単なる仮象であって、夢、幻のごとき、まったく実体のないものであると考える。古代インドの形而上学の伝統やプロチノスの新プラトン主義の形而上学などはこの類型に属するという。 

第二の類型は、物理的宇宙が『存在そのもの』であり、存在するすべてのものの総体であって、他に存在するものは何もないと考える。ここでは宇宙こそが絶対的な存在であって、宇宙の存在は必然的である。そして、この宇宙における生成変化が認められる場合でも、宇宙の不可逆的進化の事実は否定され、常に永遠の循環が考えられる。その意味で、物理的宇宙には、始まりも終わりもなく、真の意味での生成も進化も歴史もない。パルメニデスやヘラクレイトスに代表される古代ギリシャの自然哲学や、機械論的な唯物論者の形而上学もまたこの類型に属するという。 

第三の類型は、物理的宇宙は、客観的かつ現実的に、それを認識する人間の意識とは独立して存在する実在であるが、宇宙それ自身は決して自己充足的な完全な存在ではないと考える。ここでは、絶対者の存在と物理的な宇宙の存在とが厳密に区別される。経験に与えられた現実の全体、すなわち物理的宇宙とそのなかにあるすべてのものを非神格化したヘブライ人に由来する超越神論の形而上学の伝統がこの類型に属する。宇宙が神によって創造されたという思想は、このように、絶対存在でも神的存在でもない宇宙の存在をどう理解したら良いかという文脈で生まれたものであるという。  このトレモンタンの言う形而上学の三類型は、後で述べるようにそれだけで人類の形而上学的遺産のすべてを尽くしているとは言い難いが、聖書の伝統に基づくキリスト教の形而上学が、宇宙を非神格化することによって、それを科学的に探求する道を開いたという視点を提供している点で、歴史的には興味深いものである。

 この宇宙が『無から創造された』というキリスト教の教義の核心は、この宇宙のどこを探しても、そこで我々の出会うのは、神ならぬ被造物のみであるということである。そしてこの世界を創造した全能の絶対者の似姿として作られた人間は、すくなくとも原理的には、一切の神的なものを剥奪されたこの宇宙の法則を完全に認識することができるであろう。我々は、呪術とは明確に区別される近代的な意味での自然科学を生み出したのが、宇宙に宗教的な意味を見いだす文化圏ではなく、宇宙から神的な意味を奪った基督教文化圏においてであったことの意味をもう一度よく考えてみる必要があるだろう。

 トレモンタンは上に述べたような形而上学の三類型以外のものは、人類はいまだ見いだしていないと信じており、そういうものがあるならばぜひ教えてほしいと明言している。そして彼は、現代宇宙論はかれの言う第三番目の類型に属する形而上学の真理性を、経験的な論拠に基づいて証明していると確信しているようである。この点に関する限り、筆者は率直に言って彼に同意することはできない。筆者は形而上学には無限に多くのバリエーションの可能性があると同時に、神と世界の捕らえ方には、この三類型のどれにも帰着しない重要なものがあると考えるものである。さらに、キリスト教の教義に合致するかしないかは別としても、経験科学がアポステリオリな論拠に基づいて特定の形而上学のみを支持すると考えるのは、科学と形而上学との生産的な関係を損なう危険があるだろう。ある特定の形而上学的な先入観が、科学の発展を助長することは有り得ることであるが、それは同時にその後の科学の進歩を妨害するということも十分に起こり得るだろう。地動説を唱道したのが、カトリックの司祭であったコペルニクスであったとすれば、同様にガリレオを迫害したのも基督教の教会であった。スピノザの『永遠の観点に立つ』形而上学を愛好していたアインシュタインは、最初の宇宙論的考察において、いわゆる宇宙項を付加することによって宇宙の膨張という動的な事態を予見することができなかったことは有名な科学史上の事実である。トレモンタンが言う意味での『宇宙の存在そのものを問う』形而上学といえども、実際には、融通のきかぬ単なるイデオロギーの体系に転落する危険を秘めているであろう。真の意味での形而上学の任務の一つは、我々の思考を束縛するものから我々を解放する普遍性を獲得することである。そこで、筆者は次の章で、トレモンタンが考慮していない形而上学的立場の新しい可能性を提示することによって、自然神学と現代宇宙論の双方を射程に収め得るような、新しい視点と概念の枠組みを検討することにしたい。 

3 「無」の哲学再考

 前章で引用したトレモンタンの言う形而上学の三類型のいずれにも帰着しない、独自の類型として、西田幾多郎の絶対無の哲学を考察し、その立場から現代宇宙論と宗教との関係を以下で論じてみよう。この西田哲学の終着点ともいうべき宗教論の特徴は、特定の宗教的伝統や特殊な民族や人物にのみ下された神の啓示の内容に拘束されることなく、万人に対して平等に開かれた経験の直接性のみをより所にして神を論じている点にある。西田の晩年の宗教論を英訳したデビット・ディルワースは、西田を『我々の時代におけるおそらく最初の世界的神学者(the first world-theologian)』と呼んだが、それは西田の宗教論の出発点が、特殊な天啓を記したと称される聖典のみを原理とする啓示神学ではなくて、世界的な宗教の様々な伝統に通底するものを、万人が自分自身の経験の中で本来確認できる事柄として捕らえる最も普遍的な意味における自然神学であったことを意味している。

 われわれがここで注目したいのは、科学と宗教との関係について、内在神論と超越神論、汎神論と創造神論というような神学上の二元的対立そのものを止揚する宗教的立場が何であるかについての徹底した考察を西田が展開していることである。それは、『善の研究』のなかでは、純粋経験の立場であり、『自覚における直観と反省』では、直観と論理的反省を統合する自覚の立場に移行し、『働くものから見るものへ』では場所の立場となり、そして最後には、平常底と逆対応によって特徴づけられる絶対矛盾自己同一の立場となるが、それらは、神、宇宙、人間の三つの存在領域をどのように相互連関において捕らえるかという形而上学の根本問題に関する思索を、主客未分以前の徹底して具体的かつ直接的な経験の現場において展開するものであった。それは、この宇宙を夢や幻のごとき実体の無いものとは考えない。われわれによって経験される世界は、そのあるがままの姿で実在性をもっており、その背後にさらに優れ意味での実在を隠しているという意味での形而上学ではない。また、この世界のみが唯一の絶対存在であるという独断からもこの哲学は自由である。なぜなら、世界を必然的な存在と同一視する考えは、不生不滅の実体の存在を前提するが、西田のいう意味での絶対無の場所の哲学は徹底した非実体論であって、宇宙にはそのような実体は存在せず、すべての有は相互関係の網目に解体されると同時に、『作られたものから作るものへ』という方向性をもった因果の文脈でとらえられる。またこの哲学は、宇宙の外部にそれよりも優れた意味での『有そのもの』を独断的に構想しない点において、単なる超越神論ではない。有の総体としての宇宙それ自身が無限に開かれた絶対無の場所においてあるという意味では、西田哲学は決して宇宙の存在をもって終結するわけではないが、有を存在せしめる原理そのものを、再び有という範疇で捕らえないからである。絶対無の場所において有を捕らえる西田哲学は、宇宙と神と人間を有としてあるいは実体として捕らえる神学的伝統に対する徹底した批判の所産なのである。

 『善の研究』において西田は、『超越的神があって外から世界を支配する』というごとき神学的立場を『啻に我々の理性と衝突するばかりではなくて、かかる宗教は宗教の最深なるものとは言われない』という考えを表明している。  彼が基督教神学の伝統の中で評価したのは、スコートス・エリゥーゲナ、マイスター・エックハルト、ヤコブ・ベーメ、ニコラウス・クザーヌスなど、神秘主義の伝統に立つものであったが、その理由は、これらの神学者たちが、我々の直接経験の事実において、『翻された眼』をもって神を認め、『宇宙の外にたてる宇宙の創造者とか指導者』というごとき独断的に『仮定された神』をもって満足しなかったからである。これらの思想家は、確かに西欧のキリスト教神学の伝統においては少数派であり、ときに異端の嫌疑さえかけられた神学者ではあったが、我々がキリスト教の特殊な啓示の絶対主義に捕らわれずに、宗教的視野を拡大して、世界宗教のさまざまな伝統において与えられた多様な霊的経験に通底するものを考慮すれば、これらの思想家は狭い意味でのキリスト教神学を越える普遍性をもった場所において、神と宇宙と人間の問題を論じていたということはできないであろうか。 

 さて、西田哲学に導かれた我々の立場からすれば、一方において、自然科学の進歩によって基礎が揺らぐような自然神学は脆弱な基盤のうえにたつものといわなければならない。

 しかし、他方において、自然神学は、自然科学が歴史的に進歩することによって更に深い内的統一を獲得できるような世界観的基盤を提供すべきものであって、自然科学の進歩から切り離された孤立した場所で営まれるべきではない。自然科学の『道』も、宗教の『道』もその根底においては一つの『道』であることを示すことこそ自然神学の課題である。それはまた、そのような自然神学は、いわゆる特殊啓示を一切含まずとも、究極においては啓示神学と矛盾することはないであろう。『恩寵は自然を破棄せずに完成させる』というのが伝統的なカトリックの神学的立場であるが、我々はこれと逆対応的な命題として『自然は恩寵を破棄せずに、却ってこれを完成する』ということもまた、同等の権利をもって主張できるであろう。

3.歴程宇宙の遠近法

 一般相対性理論では、宇宙時間とよばれる特別な時間が定義され、とくにビッグバン宇宙論の標準モデルでは、この宇宙時間によって、宇宙全体の歴史が語られる。そして、その語り方は、例えば、百数十億年前に溯る宇宙の歴史の中での銀河や太陽系の形成の時期について語り、また将来、宇宙の膨張が続くか、それが収縮に転ずるかなどということが語られる。その語り方は、あたかもニュートンの絶対時間が復活したかのようであり、アインシュタインの相対性原理の理念、すなわち、この宇宙にあるどの基準系も原理的に対等であるという原理に反するように見える。空間的に世界の「絶対的な中心」というものが無いのと同じように、時間的にも、他の様々な瞬間とは違った「世界の始まり」というごとき特異点が存在することは、相対性の原理に反するように見えるからである。

 アインシュタインが1905年に特殊相対性理論の基礎においた同時性の相対性という概念は、最初は、世界全体に広がった客観的時間経過という観念を物理学から追放したかに見えた。そのかわりに、それぞれの観測者は固有の時間系列をもつこととなったが、この複数の時間系列のどれ一つとして、客観的な時間経過を表示するという特権を主張出来なかったのである。

 しかるに、それから4半世紀がたつと、相対性理論に関連する物理的なアイデアや数学的技法をつかった宇宙論学者が、アインシュタインが退けた概念そのものを再び導入するようになったのである。ここで言う宇宙時間の本性は如何なるものであるのか、とくに、それが相対性理論で否定されているニュートン的な絶対時間とどこが違うのか、このことについて明瞭な理解をもつことは、現代宇宙論の理解にとって必要であろう。 

 宇宙時間は、物質の重力効果を無視できる特殊相対性理論では登場しないが、一般相対性理論を宇宙の全体に適用する場合には、物質分布に適切な条件を施した場合に限り、登場することが知られている。 宇宙時間は、宇宙全体の出来事を直線的に秩序だてる普遍的な時間を表すという意味で、特別の役割をはたすものではあるが、それは、絶対時間の存在を否定する相対性理論の内部で定義されたものであって、ニュートン的な時間の絶対的な遠近法を与えるものではない。それゆえに、宇宙の開闢のときと今此処との間の時間的な隔たりを表す百数十億年という悠久の時の経過をあらわす数字は、宇宙が空間的に一様でかつ等方的に見えるような観測者の時間を基準にしているという点で、標準的な時間であると言えるが、ニュートン物理学においてそうであったように、あらゆる基準座標系に共通する絶対時間であることはできない。この宇宙時間において『同時的』な二つの出来事は、ニュートン的な意味で同時的であることはできず、互いに因果関係を全くもたないという意味で、基準系の取り方によっては遠い未来にも、遠い過去にも属するからである。 たとえば、 ビッグバン宇宙論からインフレーション宇宙論への展開のひとつの契機となった有名な『地平線』の問題は、相対性理論の枠組みの中でのみ意味をもつ事柄である。我々から見て、同時に見える二つの宇宙領域が、過去において因果的に関係をもつことが可能であるためには、その領域は空間的に限られた狭い領域(粒子的地平の内部)になければならない。例えば、宇宙黒体輻射のやってくる領域についていえば、電波望遠鏡で数度離れた二つの領域は、過去において因果関係をもち得なかった領域である。それゆえにその2領域が全く同じ輻射を与えるということが問題となった訳であるが、この問題自体が、相対性理論の時空概念を離れては意味を失うことに注意すべきであろう。

 宇宙を時間的な層によって直線的に系列化する宇宙時間で同時的な二つの領域は、因果的には独立であるということが、ニュートン物理学の絶対時間と根本的に異なるのである。

 我々は、次に、宇宙の歴史の長さを測る尺度について考察しよう。ビッグバン宇宙論で、宇宙の歴史が百数十億年であると言う意味は、物質の平均的な運動に従う基本観測者の位置する系(共動系)を基準にするということである。ニュートン物理学では、二つの出来事のあいだの時間的間隔は、基準座標系の選択に依存しない絶対的な値をとるが、一般相対性理論では、それらの二つの出来事を結ぶ世界線の選択によって、それらの世界線に沿って積分されたそれぞれの固有時間の総和は異なる値をとることはよく知られている(双子の逆説)。その理由は、宇宙の物質全体に対する関係が、二つの基準系の間で異なるからである。この双子の逆説を宇宙規模で考えるならば、宇宙開闢の時から現代に至るまでの時の経過を、原理上は、無限に短いものと見なすことのできる基準系があってもかまわぬということになろう。その意味で、この百数十億年という数字は、ニュートン物理学でもち得るような絶対的な時間の経過を表す量ではないのである。

 しかしながら、ここで注意すべきことは、ビッグバン宇宙論の時間は、絶対時間ではないにしても、(もし宇宙に特異点や事象の地平がなければ)我々が地球上で使用している時間を宇宙の全体へ外挿し普遍化することを可能にするという意味で、普遍的時間の資格をそなえているということである。相対論的宇宙論では、宇宙が空間的に一様でありかつ等方的であること(宇宙原理)を仮定したうえで、至るところでこの空間的な超曲面と直交する普遍時間として宇宙時間を定義したのである。

 さて、宇宙の物質とエネルギーの分布はどこから見ても同じであるという宇宙原理が正しいかどうかは、最終的には観察によって決定されるべきアポステリオリな問題である。従って、宇宙時間が存在するかどうかも、相対性理論の枠組みの中では決定されておらず、事実問題として決着をつけるべき問題である。相対性理論の要請をすべて満たしながらも宇宙時間の定義できない宇宙モデルを構成したゲーデルの言葉を借りるならば、物質の分布というような偶然的な事情に依拠するような時間は、絶対時間とは呼べないであろう。

 この宇宙時間の存在がアポステリオリな理由によって正当化されるならば、宇宙時間がそこにおいて成り立つような基準系は、他の基準系とくらべて特権的な意味をもつことが可能なのである。 従って、『あらゆる基準系が対等である』ことを要求する相対性原理の述べている『対等』の意味は、『事実上の対等』ではなくて、あくまでも『権利上の(法則上の)対等』であると理解すべきであろう。それは、『物理学のもっとも普遍的な法則が、どのような基準系でも平等な形で成り立つこと』を原理的に要請するが、事実問題として、宇宙の特殊な歴史について語るというような具体的目的のためには、ある特権的な基準系が、他の基準系に優先するということを妨げないのである。

 例えば、ビッグバン以後の歴史を語る場合には、宇宙背景輻射が完全に等方的であるような基準系が特別の意味をもち、われわれは、この基準系に対して、地球がどのような運動をしているかを計算することもできるのである。この事情は、天動説と地動説の対立というような問題の考察のレベルでも既に現れていた事柄である。太陽と惑星の相互作用を扱う天体物理学の問題を記述するというような具体的な問題では、我々は、太陽を静止していると見なす基準系(地動説)を選択し、地球を静止するとみなす基準系(天動説)を選びはしない。しかし、そのことをもって、地球基準系と太陽基準系の原理的な対等性を要求する相対性原理が成り立たないと主張することはできないであろう。宇宙背景輻射が等方的になるような基準系は、ビッグバン以後の宇宙の歴史をかたるという目的にとって、最適の基準系であるがゆえに、特権的な位置を占めているのである。

 したがって宇宙時間においては、宇宙の歴史が100数十億年であると語ることには普遍的な意味があることが認められるが、それは決して「絶対的な」意味を持つものではない。それどころか、相対論的に思考するならば、ある特別の意味においては、宇宙の開闢という遙か昔の出来事は、「今此処」の出来事に近接しているということも可能なのである。 そのことを言うために、相対性理論において二つの出来事が時空的に遠くにあるとか近くにあるということが何を意味するかということを明らかにしておく必要があろう。

 話を簡単にするために、我々は宇宙に於ける二つの出来事の間の四次元的な距離に関するアインシュタイン・ミンコフスキーの基本的な考え方から出発しよう。

 相対性理論では光円錐というものが基本的な役割を演じることは周知の通りである。光円錐とは四次元距離がゼロであるような時空点の集合であり、宇宙に於ける光の軌跡を表現している。この四次元距離がゼロであるということの経験的な意味は何であろうか。

 我々が夜空の星を見上げる場合のことを考えてみよう。我々が肉眼ないし望遠鏡で観測している天体は、我々にとってのその都度の現在の宇宙の姿なのではない。例えば、冥王星は5時間前の、ケンタウロス座のaは4年前の、アンドロメダ星雲は150万年前のというように、過去に向かう時間的な奥行きをもった対象の姿を、今此処で見ているのである。過去の光円錐とは時間の奥行を持った三次元の空間であるが、それは決して抽象的な数学的概念などではなく、現在的直接性という様式を以て知覚される我々の経験的事実と密接に結びついているのである。

 四次元世界の出来事間の隔たりをdsであらわすならば、相対性理論では、それは時間的な隔たりdtと空間的な隔たりdlを統合したものであって、dtもdlも単独では絶対的な不変量ではなく、ただdsのみが不変であることに注意したい。

 そして、四次元宇宙に於ける遠近法を語る場合、|ds|<e によって、出来事のe近傍について語ることができるであろう。そのときに、相対性理論では、古典物理学では生じない独特の事情を考慮しなければならない。

 まず、近傍に、time-like な近傍と、space-like な近傍の二種類があるという事である。ここでtime-like な近傍とは、ある特別な基準系では、時間的な成分のみで表示される近傍のことで、spce-like な近傍とは、或る特別な「基準系では、空間的な成分のみで表示される近傍のことである。それらのふた通りの近傍を図示すれば下記のようになるであろう。

  この図が意味するように、相対論には、時間的且つ空間的に閉じた領域ではなく、双曲的に開かれた近傍の概念があり、それは無限の過去と無限に未来にむかって開かれた領域になっているのである。そしてこの近傍の概念にしたがうならば、たとえば、100万年前に百万光年離れた星雲で起きた出来事の方が、昨日、私の部屋で起きた出来事よりもtime-likeな意味に於いて「近くに」あると言うことに客観的な意味を与えることが可能なのである。

 曾て、禅学者の鈴木大拙は、キリスト教徒の集会で講演したときに、『天地の創造のときに、神が光りあれと言われたら、光があったというが、一体それをだれが見ていたのか』と尋ねたと言われている。これは、臨済禅の伝統を踏まえた大拙がキリスト教徒に提示した宗教的公案とも言うべきものであるが、その趣旨は、おそらく、旧約聖書の天地創造の物語が、個々のキリスト者の今此処における宗教的実存とどのようにかかわっているのかという事であったと思われる。

 この公案を、キリスト教徒に対してではなく、相対性理論を基礎として宇宙の始まりについて論じている現代物理学に提示したら、どうであろうか。  現代の物理学者は、ビッグバン理論において、『宇宙の初めの最初の3分間』について、まるで直接に見てきたかのように語っているが、そのころの宇宙の光を一体だれが見ていたのか、と問うことは現代宇宙論の認識批判という見地から意味のあることであろう。

 聖書やプラトンのティマイオスの記述が神話であるのと同じく、物理学者の天地創造の物語りも、真実らしい装いを施された現代の神話であるというような批判に対して、どう答えるべきであろうか。我々はこの物理学の『公案』に対して、次のように答えることができるだろう。

『我々は、宇宙の開闢の時の光を、今此処で見ており、そしていつでも何処でも見続けるであろう』と。

 もちろん、『見る』といっても、それは宇宙背景輻射というマイクロ波の形においてであるから、文字どおり肉眼で見える訳ではなく、電波望遠鏡で遥か遠方の銀河の遠い過去の姿を見るというのと同じような類比的な意味においてであるが。

 宇宙の開闢時の状況(正確に言えば、物質と光の相互作用の均衡が破れて光が自由に運動可能になったビッグバン以後数百万年後の頃の状況) を示す観測データは、今此処に与えられている。一九六〇年代にこの宇宙背景輻射が発見されたことが、相対論的宇宙論を実証的な科学として認知するきっかけとなったのは理由のあることなのである。キリスト者にとって聖書の記述が決して神話ではなく、彼らの宗教的実存に照らして実証可能な霊的真理であるのと同様に、相対論的宇宙論の基本思想を受容した物理学者にとって、宇宙開闢の物語は、決して検証不可能な神話なのではなくて、原理的には今ここで起きている出来事と直結し、いまここで成り立つ物理法則を使って実証可能な事柄である、ということができよう。

あとがき

2006年10月に、米国カリフォルニア州クレアモント大学院大学で、Cosmology and Process Philosophy という国際シンポジウムにパネリストとして参加しました。パネリストの一人である、アレクセイ・ヴィレンキン氏に触発されて書いたのが、この「無の場所の創造性ー歴程の哲学からみた現代宇宙論」という論文です。
 ヴィレンキン氏は、旧ソビエト連邦からの亡命物理学者で、当時タフツ大学の教授でしたが、Multiple Worlds in One という著書を出したばかりなので、クレアモントではホーキングと同じくらい有名でした。ヴィレンキン氏は、ビッグバーンの特異性を解消する論文を書いたことでも有名で、現代物理学者の中ではじめて「無からの宇宙創造」を、量子論的トンネル効果によって説明する論文を書きました。ホーキングと共著で「大宇宙と小宇宙」という本を出し、また最近では「人間原理」にかんする批判的考察で著名な南アフリカ共和国の物理学者エリス氏もパネリストの一人でした。 私は「無からの創造」というキリスト教的世界観の歴史性と,東洋的なコスモロジーの円環的空間性を統合する哲学を、科学哲学と宗教哲学のふたつの分野で構想していましたので、ヴィレンキン氏の理論に大いに触発されました。彼の「無からの宇宙創造論」は、私が以前書いた論文(『現代宇宙論と宗教』、岩波講座(宗教と科学)第4巻、岩波書店、1992)でも引用しましたが、その後の彼の理論の展開、とくにeternal inflation理論と、多重宇宙論の話を直接聞くことが出来き、いろいろな点で興味をそそられました。

 

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西田幾多郎と田辺元の数学論ー「場所的論理」からみた数学の基礎と「数理の歴史主義展開」

2020-12-15 | 哲学
「数理の歴史主義展開」(田辺元)と「場所的論理」による数学の基礎の省察(西田幾多郎)
 
 先日の西田哲学会で「『自覚における直観と反省』と初期田辺の数理哲学」というタイトルで学会報告をされた山本舜氏の発表の司会を務めました。田辺が京都大学に提出した博士論文は数理哲学に関するもので、審査を務めたのが西田幾多郎でした。したがってこの頃の田辺と西田は『自覚』の立場で数学の基礎を省察するという点で共同作業をしていたという趣旨の興味深い発表でした。
 発表の焦点は、初期田辺の立場に限定されていましたので、私は、初期田辺だけではなく、後期田辺の歴史主義の立場からなされた数学基礎論と晩年の西田幾多郎の「場所的論理」からみた数学基礎論をどう評価しますか、という質問をしましたが、それはこれからの研究課題だとのことでした。私自身は、1997年の日本哲学会で行った講演「田辺元の科学哲学と宗教哲学」のなかで、最晩年の田辺元の「数理の歴史主義展開」という遺稿のもつ意味を考察していたので、後期田辺と西田の数学論のもつ現代的な意味というテーマの方に関心があります。
 おりしも、佐々木力氏から最新刊「数学的真理の迷宮」(北海道大学出版会)を献本されたばかりの時でしたので、「数学とは何か」について哲学的に再考することを促されたような気がしました。
 
  歴史的現実に即した数学論の試みという点で、佐々木氏の数学論ーとりわけデカルトとパスカルに焦点を合わせた懐疑主義との関係ーは、田辺や西田の数学論と共通するものを感じました。
  西田と田辺の数学論が二人の哲学と切り離しがたく結びついていることは、たとえば「逆対応」という西田の宗教哲学のキーワードの初出が「哲学論文集第六」に収録された「数学の哲学的基礎づけ」であったことにもよく現れています。数理、自然、精神(心)、芸術と宗教と科学の三つの領域を貫く「実在の自己表現形式」としての「論理」ないし「言葉」の探究こそは、古くて常に新しい哲学の問題と言えるでしょう。
 参考までに私の1997年の日本哲学会講演の原稿を紹介します。
 
 
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松本馨のキリスト教伝道誌『小さき声』に聴く

2020-12-10 | 宗教
 
 
 松本馨のキリスト教伝道誌『小さき声』に聴く

 多磨全生園の自治会長として、らい予防法の改正・廃止の運動に早くからかかわってきた松本馨さんについては、荒井英子さんの書かれた「ハンセン病とキリスト教」 (岩波書店 1996) を通じて知ったが、「信仰と人権の二元性」を越えるキリスト者の実践のあり方を知る上で、彼の無教会主義キリスト教の信仰がいかなるものであったのか知りたいと思った。

 松本さんは関根正雄に教えられた無教会主義キリスト教の道を歩むようになり、1962年から無教会の個人伝道誌「小さき聲」を発刊する。 この伝道誌を読んでいくと、最初はご自身の救済、自己の回心経験をつづることが主になっているが、次第にその内容が変化していく。その変化は、「私の救い」だけでは なく、「私たちの救い」、つまり療養所で自分と共にかつて生きてきた人たちのために、そし て現在、療養所の中と外で、「私とともに」生きている人たち、そしてそういうひとたちが 将来直面するであろう様々な問題のために書くというように、松本さんの関心が、個人的な 信仰を出発点としつつも、療養所の内から外へ、そして日本だけでなく世界全体へと広がっ ていく、そういう社会性の広がりと同時に深まりを読むものに感じさせる。
  個人の魂の救 済を原点に据えながらも、そこにとどまらずに、個人のもつ掛け替えのない生きる権利を大 切にして社会運動をすると言う、教会の壁の中に閉じ籠もらない普遍的なキリスト教信仰 のあり方を示しているように思う。

  松本さんが1962年(昭和37年)から1986年(昭和61年)にかけて毎月一回刊行された個人誌「小さき聲」 の原本のコピーを纏めて製本したものが全生園の図書館にある。私は「小さき聲」の最初の100頁ほどを読んだが、その内容に強く惹かれた。  

 松本さんは1918年4月25日、埼玉県に生まれ、1935年、17歳の時にハンセン病と診断されて、全生病院に収容され、2005年5月23日に、87才でなくなられるまで、70年の間、療養所で過ごされた。プロミンが開発される前の戦前の療養所、戦中のもっとも苦しい暗黒の時代、戦後まもなく起きた最初の予防法改正運動、1960年代後半の自治会再建の呼びかけ、療養所の歴史を療養者の目から纏めた「倶会一処」の刊行、ハンセン病図書館の創設、など療養所の過去の歴史をつぶさに体験しつつ、そのただなかで活動された方である。 戦後まもなく、奥様が若くしてなくなられたあと、御自身も1950年に失明されるという大きな試練に出会われたが、関根正雄の無教会主義キリスト教との出会いによって立ち直られ、1962年から一信徒としての伝道の書「小さき声」を24年にわたって刊行された。

  松本さんの伝道活動は、全生園のなかでの自治会活動と不可分の関係にある。世俗の直中において福音を証するという無教会主義の思想の実践者として、1968年に自治会の再建を呼びかけ、1974年から87年までの13年間、自治会長として、また全国の療養所の支部長会議と連帯しつつ、らい予防法の改正ないし廃止の必要性を訴えられた。そういう活動も、多磨誌への寄稿も、「小さき声」の刊行も、すべて、盲目と肢体麻痺というハンディキャップを乗り越えて、多くの方々の協力を得て為されたものである。

 晩年の松本さんは、口述筆記故の誤植を含むこの個人誌を推敲した上でもういちど出版したいという願いをもっておられたようで、2003年5月から前田靖晴さんのご協力を得て読み上げの作業を続けられた。 2004年7月にこの作業が一応終了したので、前田さんは修正ずみの原本を拡大コピーし、数部を製本された。現在ハンセン病図書館にあるものはそのうちの一部であるとのことであった。 松本馨さんの公刊された著作(単著)は、

(1)「この病は死に至らず」(1971)  キリスト教夜間講座出版部 
(2)「十字架のもとに」(1987)   キリスト教図書出版社 
(3)「生まれたのは何のために―ハンセン病者の手記」 (1993) 教文館 
(4)「零点状況―ハンセン病患者闘いの物語」     (2003) 文芸社 
の4点である。 (1)(2)(3)はハンセン病資料館で閲覧可能。また(4)は新刊として入手可能だが、あとはなかなか書店から入手するのも、一般の図書館で閲覧するのも難しい。

  これらの著作の内、創作である(4)以外は、すべて「小さき聲」に掲載されたものを中心として編集・出版された。たとえば(1)の第一部は、松本さんの「回心記」であって、「小さき聲」の一号から二四にわたって連載された。松本さんはこの「小さき聲」を毎月刊行しつつ、自治会の激務をこなされ、同時に、「多磨」誌におおくの評論を寄せているが、そういう自治会活動にかかわる評論も(1)の第三部に収録されている。

  「小さき声」という伝道の書の「小さき」が何を意味するかについて考えてみた。列王記上19章のホレブに於ける預言者エリヤが「主」とであった経験を叙述する箇所につぎのような文がある。

 「見よ、主が過ぎゆかれ、主の前に強い大風が山を裂き、を砕いた。しかし、風の中には主はいまさなかった。風の後に地震があったが、地震の中には主はいまさなかった。地震の後に火があったが、火の中に主はいまさなかった。火の後でかすかな沈黙の声があった」

  この「かすかな沈黙の声」のなかに、預言者エリヤは、主の言葉を聞いた。この声こそ、松本さんの「小さき声」そのものではないだろうか。大風、地震、火のような天変地異、大げさな現象の中には主はいない。むしろ、その後の、「かすかな沈黙の声」のなかでエリヤは主とであう、という内容である。  そういう「かすかな沈黙の声」、そのなかに主の声を聞いたエリヤに倣って、松本さんの「小さき声」のメッセージに虚心に耳を傾けたい。
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ホワイトヘッドの平和論の現代的意義ー核兵器と原理主義の時代を超えて

2020-12-09 | 哲学

はじめに

「ホワイトヘッドの平和論」を語る前に、私は、嘗てケンブリッジ大学でホワイトヘッドに数学を学び、特別研究員(Fellow)の資格を得た後で、ホワイトヘッドと共に数理哲学の記念碑的な大著「数学原理(Principia Mathematica)」を著したバートランド・ラッセルの平和論、とくに、その基本的な思想を表明した「ラッセル・アインシュタイン宣言」の中で、決議文の前に置かれた次の文の引用から議論を始めたい。[1]

我々の前には、幸福、知識、知恵の絶えざる進歩の道があって、我々の選択を待っている。我々が諍いを忘れられないからといって、その代わりに、死を選択すべきなのであろうか? 我々は、人間として人間に向かって訴える― 諸君の人間性を想起し、他のことを忘れよ。もしそれが可能ならば、新しき楽園(a new Paradise)への道が開かれる。もし不可能ならば、諸君のまえには全面的な死の危険(the risk of universal death)がある。

 1955年7月9日に湯川秀樹博士をふくむ多数のノーベル賞受賞科学者とともに書かれたこの決議文は、戦後の東西冷戦の時代、アメリカとソ連の全面的核戦争が人類の絶滅を招きかねないという歴史上嘗て存在しなかった新たなる事態をふまえて書かれたものである。 この宣言を受けて1957 年、米ソをはじめ世界から科学者 22名がカナダの漁村パグウォッシュに集まり、核兵器の危険性、放射線の危害、科学者の社会的責任について真剣な討議を行おこなった。爾来、「対立を超えた対話と科学的根拠を政策決定者に提供する」という科学者の社会的責任に立脚した活動が継続され、最近では、2015年に、第61回目のパグウォッシュ会議が長崎で開催され、原子力発電所の存否と核兵器との関連を問わねばならぬ現代の歴史的状況を踏まえた上で「長崎宣言」が出されたことが記憶に新しい。

 さて、ラッセル・アインシュタイン宣言のなかの、「人間として人間に向かって、諸君の人間性を想起せよ」と訴える、上記の宣言文を、65年後の現在において振り返ってみたときに、再考しなければならない問題が多々あると思う。

 ひとつは、東西冷戦の終結が世界大戦と核戦争の危機の終焉を意味しなかったという歴史的現実である。現在では、超大国であるアメリカとロシアないし中国が核戦争をするという危険は以前よりも薄れたかも知れないが、それにかわって、北朝鮮やイスラム国のような全体主義的国家ないし疑似国家が核戦争ないし核によるテロ攻撃を始める危険性が現実味を帯びている。従って「長崎を最後の被爆地に」という長崎宣言の標語は決して色褪せてはいない。

 さらに、プルトニウムの軍事利用のために作られた原子炉の商業的転用であったという歴史的経緯から見ても、原子力発電を「核の平和利用(atom for peace)」と位置づけることは大きな問題を孕む。子々孫々に至るまで、未来の世代に危険な放射性廃棄物の處理を押しつけるという問題が解決されない以上、核兵器のみならず原子炉を廃絶することこそ、反核運動の目的となるべきだという認識は、日本では福島の原子力災害以前では少数派であったが、そのような考え方もまた近年では真剣に取り上げられるようになった。

 これらの問題群については、既に多くの論者が様々な議論を展開しているので、私は、ここではそのような議論に深入りするつもりはない。そのかわりに、そのような政治的ないし技術的な問題の背後にある「人間の問題」をあらためて取り上げたいのである。つまり、「諸君の人間性を想起せよ」と「人間として人間に向かって呼びかける」場合に、そこで前提されている、「人間」ないし「人間性」とは何を意味するかという問題である。その場合、「人間」を「人間を越えるもの(超越者)および人間以前のもの(自然)」との関わりから切り離して、「人間」にむかって、その「人間性」に訴えるのではなく、むしろ超越者(神あるいは仏)と自然とのダイナミックな聯関において、個々の人間が生きてきている具体的な歴史的生の文脈において捉えることが肝要であろう。

 今日では穏健なイスラム諸国は、西ヨーロッパ主導の人権概念を基本的に受け入れるようになったとはいえ、イスラム教の原理主義者からすれば、神から独立に、理性の限界内で「人間が固有の権利を持つ」ことを人間が演繹することを決して受け容れないであろう。西洋の人権思想の歴史においても、たとえば、仏蘭西革命を経験したドイツ理想主義の哲学者フィヒテは、啓示宗教を理性の名において批判し、個人の基本的な人権を、超越者の権威に依存せずに、カント的な実践理性の内的な根本原理から演繹したが、そのように普遍的道徳を宗教の上に置く理性の立場は当時、無神論として告発されたという歴史的事実がある。つまり、外的な権威への服従を説く制度化された宗教と実践的理性のあいだには、避けがたい緊張関係があり、既成の宗教の批判を抜きにして、単に「人間性」に訴えるだけでは不十分だということである。「人間性」とは、歴史的な状況に根ざした個々の活きた人間存在のうちに実現されねばならず、「人類」という如き抽象的存在にとどまるかぎり、その議論は地に着いたものにはならないのである。    

ホワイトヘッドの宗教論の現代的意義

 数理哲学、科学哲学に関しては共同研究者であったラッセルとホワイトヘッドは、宗教については、一見すると正反対の立場であったように見える。ラッセルはキリスト教の批判者として著名であり、理性を越える如何なる外的権威も認めない「自由人の崇敬(Free Man’s Worship)」を説いた哲学者である。これに対して、ホワイトヘッドの米国に於ける継承者は基本的にリベラルなキリスト教の神学者達が多く、彼らはホワイトヘッドの後期形而上学に立脚した「プロセス神学」という米国独自の神学運動を起こしたことで知られている。

 ホワイトヘッドは、みずからを二〇世紀に於けるプラトン主義の復興者であると位置づけており、「科学的唯物論」と機械論的な世界像の批判者でもあり、同時に、藝術と宗教と科学の調和をめざす新たなるコスモロジーの創設をめざしていた。年代的にはホワイトヘッドはラッセルよりも前の世代に属し、イギリスの講壇哲学がドイツ理想主義の形而上学的思弁の影響下にあった時代に属しており、彼自身、英国の精神文化を受け継ぎつつもそれを普遍化したニューマン枢機卿の影響を若い頃に受けていた。このように、後期のホワイトヘッド哲学を見る限り、ラッセルとはいかにも対照的であるが、ラッセルと同じくホワイトヘッドの哲学には、宗教のドグマと宗教的狂信の批判が含まれていることを指摘したい。

 しかしながら、ホワイトヘッドにはラッセルにまだ残存している科学的理性への楽天的な信頼はない。それゆえに、ホワイトヘッドは、ラッセル流の「自由人の崇敬」の立場からの宗教批判を踏まえた上で、ラッセルがいまだに囚われていた科学的な合理性への信頼をも批判する立場を内包するが故に、むしろラッセルの後に読まれるべき哲学者なのである。

 「人間にとって最も大切なものは宗教である」とは、カトリック教会の昔の「公教要理」の冒頭の言葉であった。ここで云う「宗教」を普通名詞であると解するならば、それは人間の究極的な関心の所在を表現している。この命題の後で、「真実の宗教はキリスト教である」とか「真実の宗教はイスラム教である」という主張が続くならば、それはそれぞれの宗教の神学上のドグマ(独断)となるであろう。しかし、歴史的に与えられた宗教が文明に与えた役割を反省する場合、独断的にみずからの属する宗教を「真実の宗教」と主張する前に、他宗教のみならず自宗教も含めて、「宗教」の哲学的批判が先行しなければなるまい。ホワイトヘッドは、とくに普遍的な倫理・道徳との関係を論じる次のような言葉から、彼の『宗教とその形成』における宗教批判を始めている。

宗教は決して必然的に善ではない、それは非常な悪であり得る。悪の事実は世界の仕組みとからみあうと、それは事物の本性の中になお堕落をうむ力が残っていることを示している。諸君が契約を結んだ神は、諸君の宗教的経験において、破壊の神であるかもしれない。すなわち、すなわち、通り過ぎた後に、より大きな実在の喪失を残す神であるかもしれない。宗教を考える場合、我々はそれが必然的に善であるという観念にとりつかれてはならない。これは危険な幻想である。注意すべき点は宗教の超越的重要性であり、この重要性の事実は歴史に訴えることによって十分に明らかである。[2]

90年前に書かれたこの文章に、ホワイトヘッド研究者は、存在するものの彼方にある「善のイデア」の立場から同時代の反道徳的な宗教を批判したプラトンの現代的反響を見いだすであろうが、「諸君が契約を結んだ神は、諸君の宗教的経験において、破壊の神であるかもしれない」という一節は、宗教的狂信とテロリズムとの結びつきを指摘したものとして、現代的なリアリティをも感じさせる。それは、ヨーロッパで教育を受けながら世俗化した近代世界に空虚さを覚えてイスラム原理主義に帰依し、テロリズムに走った若い世代のイスラム教徒や、オウム真理教に荷担した日本の若き科学者達の特殊な事例を我々に想起させるが、それだけでなく、いかなる宗教にも潜在的に内在する原理主義のもつ破壊性を自覚すべきことを指摘したものである。ただし、ここで注意すべきことは、このような宗教批判は、宗教の持つ「超越的重要性」を決して否定するものではないということである。宗教を無視するもの、単にそれを否定するものは、自らが、科学技術の成果の物神崇拝や、異民族排斥によって国家の結束を図るナショナリズムという疑似宗教に絡め取られる危険を免れないであろう。

それでは、破壊と戦争をもたらす宗教ではなく、創造と平和をもたらす宗教としてホワイトヘッドはどのようなものを考えていたのか。『宗教とその形成』ではそれを次のように語っている。

宗教とは、孤独性(solitariness)である。諸君が孤独でなければ、諸君は決して宗教的ではない。集団的熱狂、信仰復興運動、宗教団体、教会、儀式、聖書、行動の成典は宗教の外飾物であり、その移行的な形式である。それらのものは有益であるか、あるいは有害である。それらは権威を以て定められることもあろうし、あるいは単なる一時的な便法であるかもしれない。しかし宗教の目的はこれら一切を超えている。…  
 信仰と合理化が十分に確立されて後、初めて孤独性が宗教的重要性の中心を為すものとして認められるのである。文明化された人間の想像力に絶えず浮かんでくる偉大な宗教的諸概念は孤独性の情景である。岩に縛られたプロメテウス、砂漠で黙想するマホメット、仏陀の瞑想、十字架上の孤独の人がそれである。神によってさえ、見捨てられたと感じたことこそ宗教的精神の深さに属する。[3]

 一読すると上記のような宗教観は、孤独性(単独者)を強調する点で、キルケゴールのような実存主義的なキリスト教を連想させるであろう。しかしながら、孤独性と人間の連帯性ないし社会性という相対立するものの間の動的な聯関を考える点で、ホワイトヘッドは単なる実存主義者ではない。人間の孤独性を深い意味での理性と結びつけ、最も個的なるものと最も普遍的なものとの逆対応的な動的統合を考えるところに彼の哲学の主題があるのである。ホワイトヘッドを実存主義の文脈で捉えた批評家のひとりにコリン・ウィルソンがいる。彼が1957年に出版した「宗教とアウトサイダー」の最終章でホワイトヘッドに言及し、次のように指摘しているのは、卓見であろう。

いくら英国人が形而上学に無関心であるとは言え、驚くべきことにホワイトヘッドが彼独自の実存主義を創造したと言う事実に気づいた人は一人も居ない。しかも彼の実存主義は、ヨーロッパ大陸の如何なる思想家のそれよりも充実したものなのである。『科学と近代世界』は二〇世紀の『非学問的後書き』にほかならず、おまけにそれは読むに値するという利点を有している。[4]

『科学と近代世界』は『宗教とその形成』とほぼ同時期に執筆された姉妹編とも云うべき著作であり、前者が科学批判を後者が宗教批判を扱っている。コリン・ウィルソンは前者をキルケゴールの「非学問的後書き(unscientific postscript)」にそれをなぞらえているが、ホワイトヘッドの場合、それはあくまでも否定ではなく批判であって、我々が「科学」や「宗教」として考えているところのものを、具体的な生活世界の現場に立ち戻ることによって、そこから批判的に考察し、科学を科学のドグマから、宗教を宗教のドグマから解き放つことを目的として書かれた二つの書物なのである。

 我々は、科学の発達が人類の幸福を保証するという楽天的な進歩史観のリアリティが失われた時代を生きている。知識と技術は加速度的に進歩したが、知恵(wisdom)においてもそうであるというわけにはいかない。「宗教が必然的に善である」と考えてはならないのと同じように、我々は、「科学の進歩が必然的に善である」と考えてはならないであろう。すくなくとも科学の進歩によって、地上に「新しき楽園(a new Paradise)」が構築されるなどと云う楽天的な考え方そのものを批判しなければならない時代を我々は今生きているのである。 人類の存続そのものの危機は、核戦争だけによってもたらされるものではなく、現在では地球の環境危機という新たなる問題が登場している。この問題は、「自然と人間との共生」の問題、すなわち「エコロジー文明」の創出という新しい研究課題を哲学に与えるものとなったが、この問題にいち早く対応したのが、米国でホワイトヘッドの影響を受けたプロセス神学者達であった。

           文明の転換期における平和の重要性

 すでに四半世紀前になるが、1987年にアメリカのバークリーで開催された、仏教とキリスト教の対話を主題とする国際会議のテーマは、「地球の癒し(Global healing)」であった。 この国際会議を主導した米国のプロセス神学者のジョン・カブは、クレアモント大学あるホワイトヘッド研究のメッカともいうべきProcess Centerの創設者でもあるが、彼はホワイトヘッドのコスモロジーが地球の環境危機を考察する上で極めて重要であるという認識を早くから持っていた。彼はこの国際会議の基調演説で次のように述べた。

宗教的な観点から死について語る場合、従来は、ほとんど個人的な次元にとどまっていて、私という個人の死、あるいは、死後の世界はどのようなものであるかという観点から、この問題が扱われた。今日では、我々は、地球全体に死が広がりつつあるという状況に直面している。このことは、もはや、様々な宗教的伝統に属する人間にとって、避けられない問題となっている。[5] 

 地球全体に「死」が拡がりつつあるということは、あくまでも人間的な比喩、もしくは、神話的象徴によって語られていることであって、科学的事実の客観的な記述ではない言う意見があるかもしれない。普通に我々が理解している自然科学には「病」とか、「死」という語は登場しない。もし、自然科学の最も基底的な言語に、生死(生成と消滅)、価値、目的というような範疇が存在しないならば、自然科学的な事実を根拠として、「病める」地球の「癒し」について語ることはできないであろう。健康であったり、病気であったりするのは、あくまでも人間についていえるのであって、他の生物種や無生物について言うのは無理であるとも思われよう。 しかしながら、「健康」や「病」を人間にのみあてはまる特殊な述語と考え、自然そのものを人間の外部に対象化された単なる物質の運動に還元するような自然観そのものが、現在の生態学的危機と密接に結びついているとしたらどうであろうか。 宗教が人間の個人的な内面的生の問題のみに関わり、科学が自然を外部から操作可能な物質の機械論的システムに還元するとき、自然と人間の関わりを問う「環境問題」を、「科学的にかつ宗教的に」語るという道はほとんど閉ざされていたと言ってよい。ホワイトヘッドの自然哲学のコスモロジーはまさにそのような近代に固有の機械論的自然観と、科学から切り離された実存的宗教観の断絶を克服するために亭主すされたものであった。すなわち、人間の生死を、ひろく生きとし生けるもの生命のつながりにおいて捉え、自然を外部から操作し、意識を持つ人間の自己中心的な価値に奉仕させる道具的存在と見做す考え方そのものを批判することが『科学と近代世界』の根本的テーマの一つであった。

 単なる科学的な理性は、手段知としていかに優れていても、無知の自覚において成りたつ本来の哲学的智の基準からすれば、人間と自然との間の分離不可能な依存関係について、また自己と他者との社会的依存関係に対しても、甚だしき無智と共存しうるのである。

 ホワイトヘッドの哲学は、自然を支配する道具として理性を見る立場が批判されるだけでなく、「存在するために他者を必要としない」実体の哲学的概念が迷妄として斥けられている。これは、これまでの西欧のプラトン主義やアリストテレス主義にはなかった哲学の新しい考え方であり、仏教の縁起説に通じる徹底した実体否定論を説いている。このような実体否定論に基づいて、ホワイトヘッドは、自然の外部から神の如き立場で干渉する人間の科学的理性の「暴力」を斥けるだけでなく、一神教の中にあってこれまで無批判的に受容されてきた神概念、すなわち世界に全く依存しないが、世界のほうは全面的に依存する絶対的な実体としての神の概念、万有を外部から専制君主のように支配する神の概念を、一神教に特有の偶像崇拝として批判し、またその偶像崇拝に基づく暴力の是認を、平和を脅かす宗教的イデオロギーとして斥けるのである。

 ホワイトヘッドは、『過程と実在』の「神と世界」の関係を論ずる章で次のように伝統的な「万軍の主」の神概念を批判している。

「不動の動者」としての神の観念は、すくなくとも西欧思想に関するかぎりアリストテレスに由来する。「勝義にリアルな実体」としての神の観念は、キリスト教神学好みの説である。此等二つの神の観念が結合して、根源的で、勝義にリアルな超越的な創造主-その命令一下、世界が成立し、それが課した意志に世界が服従する超越的な創造主の説になるのであるが、これは、キリスト教とイスラム教の歴史に悲劇を注入してきた誤謬である。西欧世界がキリスト教を受け容れたときにローマ皇帝が勝利を収めたのであるし、西欧の神学の受け取ったテキストは、ローマ皇帝の法律家達によって編集された。ユスティニアヌス法典とユスティニアヌス神学とは、人間精神の一つの運動を表現している二巻である。ガリラヤの謙譲についての簡潔なヴィジョンは、諸時代を貫いて、不確かに明滅した。キリスト教の公式化においては、救世主に対して誤解を抱いたということを、唯ユダヤ人だけのものとみなす些末な形をとった。しかし、神をエジプト、ペルシャ、そしてローマの皇帝のイメージにかたどって作るという、より深刻な偶像が保持された。教会は、もっぱら皇帝に属しているいろいろな属性を付与したのである。[6]

 ここでユダヤ人が救世主に対して誤った観念を抱いたというのは、失われた王国をダビデの子孫として復興する王としてのメシアというユダヤ人中心の考え方であり、民族の壁を越えて異邦人をも救済するという普遍的な救済の教えではなかったことを指している。しかし、ホワイトヘッドは、誤解したのはユダヤ人のみならず、初期のキリスト教の神学者達もまた、神を皇帝のイメージにかたどるという、より深刻な偶像崇拝に陥っていたというのである。

 嘗ての西欧文明がキリスト教を非キリスト教国に宣教する場合でも、歴史はその布教活動が帝国主義的な政治的支配と分かちがたく結びついていたことを示している。この点がホワイトヘッドのいう一神教のなかでまだ克服されていない深刻な偶像崇拝のポイントであろう。ホワイトヘッドがキリスト教において重視するのは、「統治する皇帝でも、呵責のない道徳家でも、不動の動者でもなく」、「世界の内で、ゆるやかに、そして静謐の内に働く」「ガリラヤの謙遜(humility)」、すなわち福音書に記されているキリストのケノーシス(自己譲与の愛のはたらき)である

 先に名前を挙げたプロセス神学者のジョン・カブは、ホワイトヘッドの哲学が、キリスト教だけでなく仏教にも深い関わりを持っていることを理解し、米国宗教学会で仏教とキリスト教との宗教間対話を積極的に推進した人でもあった。ホワイトヘッドは、大乗仏教については知識を持たず、当時英訳された倶舎論に示されていたような小乗仏教的を論じただけにとどまったが、彼自身が『過程と実在』で展開した宗教哲学が、小乗仏教の二世界説的形而上学を克服した大乗仏教の根本思想と通底するものであることは、日本のホワイトヘッド研究者もまた詳細に指摘している。[7] 

 ホワイトヘッドが積極的な意味での平和を語っているのは、『観念の冒険』の文明論においてである。ここで云う平和(Peace) は「平安」とも訳しうるが、単に個人の心の内面的な世界だけにとどまるものではない。平和は、宗教論の文脈では外的なものに優先する個の内面に関わるが、内的なものは常に外化され他者によって受容され、継承されるという意味で、内なる世界と外なる世界は互いに動的に転換するという働きがあるからである。言い換えるならば個人の魂に平安のないところに、政治的・外的な意味での平和も到来することはないのであり、地の平和のないところに、魂の平安もあり得ないのである。

 まず、ホワイトヘッドは、文明を「まこと(Truth)」「美しさ(Beauty)」「冒険(Adventure)「藝術(Art)」の四つの徳性がいかに実現されているかによって特徴付ける。美を重視するのは、ホワイトヘッドに特徴的であって、広義の美的判断がそれ自身において価値あるものを我々に伝える点で、また最も具体的な生に直接に関わるという意味で、倫理学の形式的な当為判断よりも実質的な重要性を持つというホワイトヘッドの考え方が現れている。しかし、此等の特質をひとつひとつ彼自身の哲学の立場から論じた後で、ホワイトヘッドは次のように「平和」の重要性を説くのである。

我々が探し求めているのは、他の四つの徳性を総括し、それらの徳性に実際しばしばつきまとってきたやむことのない自我主義を文明の観念から排除するような、<調和の調和>の観念である。「非人格性」は死語でありすぎるし、「優しさ」は、狭すぎる。私は破壊的な騒々しさを鎮静し、文明を完成させる<調和の調和>に対して、<平和>という用を選ぶ。こうして社会が文明化されていると呼ぶことができるのは、そのメンバーが五つの徳性―<まこと><美しさ><冒険><藝術><平和>に関与する場合である。

 ここで云われている文明は、近代科学の成立以後に意味されているような機械文明ではない。それは精神的な文明であり、構成員が関与する徳性である。<冒険adventure>は、未来の方から到来して過去を刷新する力を表わしており、進取の気性をもつ自由人としての個人の気概を表現するものである。しかし、真理を探究する科学も、美を探求する藝術も、冒険を重んじる起業家の気概も、それだけでは文明を構成しはしない。それらの徳性、古い哲学の用語を使うならば、知的卓越性や倫理的卓越性を統合する宗教的卓越性の根本を表現するものが、ホワイトヘッドにあっては「調和の調和( Harmony of Harmonies)」としての「平和」なのである。ここでいう「平和」は消極的な概念ではなく、「魂の生命と躍動の花冠である積極的な感情(positive feeling)」である。それは「未来に対する希望」ではなく、「現在の細々したものへの興味」でもない。言葉で表現することは難しいが、「人格性の超越を伴う、相対的な価値の逆転」であり、「目的の制御を越えた賜物として到来するもの」である。この<平和>は抑止の除去であって、抑止の導入ではない

 転換期に於ける文明を特徴付ける徳性としてのこのような「平和」の概念は、諸宗教で伝統的に語られてきた「平和の概念」でもある。即ち、創造の御業を完成し休息された神に倣う「安息日の平和(シャローム)」、キリスト教のミサで唱えられる「主の平和」、そして、生死の苦しみに満ちた世界から逃避して来世に希望を託す消極的な涅槃ではなく、衆生の苦の世界をみずから積極的に引き受けて、生死の世界との往還のダイナミズムにおいて捉えられた大乗仏教的な涅槃(無住處涅槃)など、様々な宗教的叡智の伝統につながる「平和」である。このような宗教的伝統のなかで育まれた叡智の伝統を尊重しつつ、なお既成の宗教や疑似宗教的イデオロギーのなかに認められるさまざまな偶像崇拝的要素を除去し、そのような集団的エゴイスムを乗り越える「平和」を、文明論の転換という文脈で論じたものがホワイトヘッドの平和論である。



[1] ラッセル・アインシュタイン宣言の英語原文は、日本パグウォッシュ会議のHP

http://www.pugwashjapan.jp/ 参照 ただし、日本語訳は私自身のものである。

[2] Alfred North Whitehead, Religion in the Making, 1926, Newyork: Fordham UP, 1996, p.7 ホワイトヘッド著作集7巻『宗教とその形成』(齋藤繁雄訳)松籟社7頁

[3] 前掲書 p.9 邦訳8頁

[4]Colin Wilson, Religion and the Rebel, Littlehampton Book Service, 1957

『宗教とアウトサイダー』、中村保男訳、河出文庫、1992,下巻271頁、 

[5] この国際会議については、拙著『ホワイトヘッド』講談社、1998、183頁以下を参照

[6] A.N.Whitehead, Process and Reality, 1929, Corrected Edition. New York:Free Press, 1978,p.342 ホワイトヘッド著作集第11巻『過程と実在』下、山本誠作訳、松籟社、610頁 

[7] 武田龍精、「大乗仏教とホワイトヘッド哲学―特に中観と瑜伽行唯識に関して」、「プロセス思想」創刊号、1985,5-18頁は、ホワイトヘッド哲学でいう創造性を大乗仏教の動的な「空」の理解に結びつけている。

Comment

ホワイトヘッドの教育論の現代的意義―古典教育と科学の統合

2020-12-08 | 哲学

ホワイトヘッドの教育論の現代的意義―古典教育と科学の統合

田中 裕

1 ホワイトヘッド自身が受けた古典教育の「公共性」 

 1861年に生まれたホワイトヘッドは「自伝的覚書」[1] のなかで、南部イングランド・ドーセットシャー州のシャーボン校で自分が受けた古典語学習と一体化した教養教育について語っている。10歳でラテン語を12歳でギリシャ語を学び始めたホワイトヘッドは、19歳6ヶ月に至るまで、休日以外毎日、ギリシャ・ラテンの古典的著作について数頁ずつ解釈しつつ文法を学んだおかげで、登校前には何頁ものラテン語文法規則をすべてラテン語で暗唱、引用文で例証することができるようになったという。後にケンブリッジで数学を専攻したホワイトヘッドは、数学の学習を間に挟みつつ、ヘロドトス、クセノポン、ツキディデスなどの歴史書を含む古典の学習によって、ペリクレス時代のアテネの民主制を大英帝国の民主主義と重ね合わせつつ、「近代生活を古代文明と無意識のうちに比較させる古典の授業」が如何に楽しいものであったかを回想している。さらに、このような古典教育は人文教育だけではなく宗教教育も包含していた。ベネディクト修道会の教育機関として西暦741年に創立されたという伝承を持つシャーボン校は、古典語による教養教育のなかに、キリスト教的な宗教教育を統合していた。毎週日曜午後と月曜日朝の聖書の授業では、英訳聖書(欽定訳聖書)ではなく、新約聖書はギリシャ語原文、旧約聖書はアレクサンドリアのユダヤ人達がキリスト教成立以前にヘブライ語からギリシャ語に翻訳し、新約聖書のギリシャ語にも多大の影響を与えた「七〇人訳聖書(Septuaginta)」が読まれた。「学校で誰かが聖書を英語で読んでいるなどと聞いたこともなかった」と言うホワイトヘッドは、「ギリシャ語で宗教を学ぶものにおのずから備わる中庸の美徳(Golden Mean)」を重視し、「プラトンの薫陶を受けていたアレクサンドリアのユダヤ人たちが、五月のドーセットシャー州の修道院の建物(シャーボン校の校舎でもあった)と私の心の中で溶け合っている」と当時を回想している。

 ギリシャ語聖書による宗教教育と古典重視の人文教育を少年時代に受けたということは、東方教会の霊性に由来するキリスト教的プラトン主義の伝統とホワイトヘッドの晩年の宗教哲学との関係を考える上で重要である。ホワイトヘッドの祖父はイギリスの国教会の牧師であったが、この教会は、ローマ・カトリック教会と同じく「カトリック(普遍の教会)」を名乗る「聖公会」であり、キリスト教教会の持つ古き「伝統」と「公共性」を大切にしていた。聖公会の聖職者達は、「教会と国家によって神に奉仕する」ことをモットーとしていたが、彼等は、ラテン語を公共語とする西方教会の伝統だけではなく、ギリシャ語を公共語とする東方教会(ギリシャ正教)の霊性的伝統もまた重視したのである。

 ホワイトヘッドの晩年の宗教哲学は、『過程と実在』の最終章「神と世界」で展開されているが、そこで彼が使用しているキーワードは「神化(テオーシス)」である[2] この語は対象化しえぬ神の活動(エネルゲイア)と、恩寵に基づく人間の自由な「協働(シュネルギア)を重視する東方教会の霊性的伝統に由来するものである。有限なる世界と無限なる神との活きた相互関係にもとづく「万有の神化」を主題とするホワイトヘッドの形而上学は、東方教会の「受肉の形而上学」を独自な形で20世紀において刷新し展開したものだということができるだろう。

 ところで英国の中高等教育をになう代表的な学校は「公共学校(public school)」と呼ばれるが、これは日本でいうならば「公立学校」ではなく「私立学校」である。国家や行政の支配から独立した「私立」学校が、なぜ英国では「公共学校」と呼ばれるかは、学校教育の公共性にかんするひとつの大切な視点を与えているように思う。それは単に私的利益を求めない公共機関ではあることを示すという税法上の理由だけではなく、「普遍のキリスト教」の宗教的な教育理念が根底にあると考えるべきではなかろうか。

 キリスト教の信仰告白の起源に他ならない初代キリスト教徒の「使徒のしるし」は、一人称単数形で「私は信じる credo」という形で宣言する。「普遍の教会」に所属するものは、「一個人の立場」で「公に」信仰を宣言するのであって、「我々は信じる」という複数形で特殊な宗派団体への帰属関係を宣言するのではない。言い換えれば、最も普遍的な公共性は、一人称単数の「私」の告白を原点としており、その立場からすれば、個人を越えるように見える組織や政府のもつ公共性よりも更に普遍的な公共性の理念の表明という性格をもっている。このような「個の人格」を重視する立場は、個人の人権の尊重や信仰の自由を支える「公共性」を重視する立場であり、公共性の名を借りて私的利益を追求する特殊な集団的イデオロギーを批判することを可能ならしめる「個に具体化した普遍」の立場であろう。このように何処までも自由なる個の単独者性に立脚しつつ、他者との連帯を求め、常に異質なもの対立するものの統合を自己と公共世界に於て求める立場こそ、ホワイトヘッドの宗教哲学と文明論および教育論の根底にあるものであるが、その淵源のひとつは、彼が受けた「公共学校」での教養教育にあったと言って良いであろう。 

ケンブリッジ大学の「使徒団」とプラトン的対話による自己啓発 

 1880年にホワイトヘッドは19歳でケンブリッジ大学のトリニティカレッジに入学するが、そこでは「純粋数学と応用数学以外の教室に足を踏み入れたことはない」と述べている。彼は、ケンブリッジ大学では専門教育の科目のみを受講したわけであるが、実は講義は教育の一面に過ぎず、午後6時か7時頃夕食と共に始まり、十時頃まで続く友人達とので、知的会話が、その専門教育を補うものとしてあった。この知的会話を行った友人達は専門科目の一致によって作られたのではなく、古典語による教養教育を受けてきた仲間達と共に政治、宗教、哲学、文学の全ての領域が論じたという。ここでの知的刺激を受けて、ホワイトヘッドは1885年に数学専攻の特別研究員(フェロウ)になるまえにカントの純粋理性批判の一部を殆ど暗唱するまでになっていた。それは、「プラトンの対話の日常版」という様相を呈していた当時のケンブリッジ式の教養教育の特徴であった。そして、1820年代後半に詩人テニスンが友人達と共に始めた「学会(ザ・ソサイアティ)」―外部からは「使徒団(アポスルズ)」と呼ばれていた―の例会は、学生のみならず、卒業生―とくにケンブリッジに週末を過ごしに来た判事、科学者、国会議員―も含めて、毎土曜日午後10時から翌朝まで、プラトンの方法を踏襲する自由な哲学的討論の場があった。後にホワイトヘッドの勧めで1892年に「使徒団」に加えられたバートランド・ラッセルによれば、

「この集会で議論するに当たっては、何のタブーも設けないこと、何の制限もおかないこと、どんなことを言ってもショッキングなこととは考えないこと、いかなる推測も理論も絶対に自由であって何等の妨げもないこと」[3]

が根本方針であった。「使徒団」という通称は、創始者達が12人であったということに由来するが、そこでは特定のイデオロギーを宣伝することが目指されていたのではない。「使徒のしるし」はいかなるドグマも究極のものと見做さない「知的誠実」ということであり、「画一性の福音」も「力の福音」も斥けられた。[4] すなわち、自己の思想と根本的に対立する異論にも謙虚に耳を傾け、自己が公理として暗黙の下に前提していたことを認めないものを積極的に対話の相手とすることによって理性的な討議を続行するという意味での「プラトン的な弁証法・対話術(ディアレクティケー)」の実践が重んじられたのである。清教徒的な息苦しい家庭の雰囲気の下で育てられたラッセルは、後に彼の自伝の中で、この「使徒団」の一員となったことが彼の精神を如何に自由にしてくれたかを感激を以て語っている。

  プラトン哲学の神髄は、イデア説や二世界説のような所謂プラトン主義のドグマにあるのではなく、我々自身が「公理」と考えてきたものを、異質な思想を持つ他者の前で常に批判的な吟味に晒し、そのような「公理」のもつ独断的性格を乗り越えて、自己と他者の対立するドグマをさらに越えていく「普遍性」をめざす探求にほかならないからである。プラトン対話編の自由な精神の働きを直観するものにとっては、アリストテレスのイデア説批判であれ、ニーチェの反ソクラテス主義であれ、プラトン主義に対する有名な反論ないし異論は、すでにプラトン自身によって、「対話編」の中で先取りされていること、そのような徹底した自己吟味の精神こそがプラトンの弁証法(対話術)の精神であることに気づくであろう。このことは、「西洋哲学の伝統をプラトンの対話編の脚注」として要約したホワイトヘッドのプラトン理解の根本的特徴であったが、そのルーツをたどっていくならば、ケンブリッジ大学の「使徒団」での自由討論の習慣がそれを涵養したといえるだろう。

 ホワイトヘッド自身の受けた古典的教養教育は、現代の我々から見れば嘗ての大英帝国の民主制が「大衆支配」の衆愚政治に陥らないように、その制度を実質的に支えてきた知的エリートのものであって、宗教の世俗化、学問の専門化、大学の大衆化がすすみ、科学技術の進歩による国力の増大を至上命令とする近代国家には適合しないのではないかという見方もあるであろう。

 1869年に『教養と無秩序』を書いたマシュー・アーノルドは、オックスフォード大学の詩学教授を務めた詩人でもあったが、彼のいう「教養」の背景にあるものは、ホワイトヘッドが受けた古典教育と通底するものがあったと言って良かろう。アーノルドは、ヘブライズムの道徳的宗教性とギリシャ哲学の知的誠実性を統合する「完全性の追求」をもって「教養」の定義し、「この世を我々が見いだしたものよりも、よりよく、より幸福にしてゆこうとする崇高な理想」のもとに「理性と神の意志を世におこなわしめる」こと、すなわち旧約聖書の道徳的エネルギーをプラトン的理想主義に結合することを力説したからである。[5]

 しかしながら、1888年になくなったアーノルドの「教養主義」の理念とおなじようなものを繰り返すことだけがホワイトヘッドの教育論の特質ではない。文学と芸術の価値を力説する点では、ホワイトヘッドもアーノルドと同じであるが、ホワイトヘッドは同時にケンブリッジ大学とロンドン大学では応用数学と理論物理学を研究する科学者でもあった。「科学と近代世界」の関係を主題としたことは、アーノルドとは異なるホワイトヘッドの文明論と教育論の特質である。それは、あくまでも伝統的な教養教育の意義を保持しつつも、科学技術の発達が文明の行方を左右するようになった近代において生じる複雑な課題に対応するものでもあった。そのような教育論はとくにケンブリッジ大学を退職して彼が務めたロンドン大学時代の教育論の特質でもあった。 

3 ロンドン大学時代のホワイトヘッドの教育論―教育の目的と自己啓発の三段階 

 1880年からホワイトヘッドは、最初は特待生として、次は特別研究員兼主任講師としてケンブリッジ大学に在籍し、弟子のバートランド・ラッセルとともに数理哲学の歴史に於ける記念碑的な大著「數學原理」第一巻を1910年に出版したが、その直後、彼はケンブリッジ大学を退職してロンドン大学に移った。1911年から1914年夏にかけてユニバーシティ・カレッジで、1914年から1924年夏までインペリアル理工カレッジの教授を務めたが、この時期に彼はロンドン大学理学部長、ロンドンの教育行政を司る学術評議会議長、市会議員、ゴールドスミス・カレッジ評議会長、大ロンドン自治区ポリテクニーク評議員など大学及び理工学校を含むロンドンの教育行政に深く関わるようになった。近代社会が直面する教育上の様々な問題について、ホワイトヘッドは次のように回想している。

 14年にわたりロンドンの抱えている諸問題を経験したことは、近代産業社会における高等教育の問題にかんする私の考え方を変えた。大学の機能については狭い見解をとることが当時の風潮であったーまだ消えてはいないが。オクスフォード=ケンブリッジ型」とドイツ型とがあり、他のあらゆるタイプは無知から来る蔑視の対象となった。知的啓蒙をもとめる職工大衆、適切な知識を求めるあらゆる社会層の青年達、彼等のもたらす各種の問題―これらはみな、文明社会に於ける新たな要因であった。しかし、学問の世界は過去に浸りきっていた。ロンドン大学は、近代生活のこのあらたな問題に対処するための相異なる各種の施設の連合体である。(中略)実業家、弁護士、医師、科学者、文学者、学部長達―このあらたな教育問題に専任ないし兼任の男女のグループが、焦眉の急だった改革を達成しつつあった。こうした企画は彼等のものだけではなかった。アメリカでも、異なる状況の下で同様なグループが同様な諸問題を解決していた。教育のこのあらたな適応は文明を救済する要因の一つであると言っても言い過ぎではない。[6]

 ロンドン大学時代のホワイトヘッドの教育論は、さまざまな機会に彼が行った講演が主体であるが、ここでは、まず、1916年にホワイトヘッドがイギリス数学者協会会長に就任したときの記念講演「教育の目的」を取り上げよう。この講演で、ホワイトヘッドは教養(culture)を、「思惟の能動性(Activity of thought)であり、美と人情に対する受容性(receptiveness to beauty and humane feeling)」と定義する。様々なテーマについて広く浅い断片的知識をもつ単なる「物知り」は、彼が定義する「教養」とは無縁である。自己啓発(self-development)の能力としての教養は、専門知識を哲学のように深め、芸術のように高めるものであるとのべる。

 ホワイトヘッドのロンドン大学時代の教育論でもう一つ特筆すべきものは、1922年、ロンドン師範学校協会でおこなった「教育のリズム」と題した講演であろう。[7]音楽論はアウグスチヌスやプラトンにまで遡るヨーロッパの伝統的な教養教育の要諦であったが、ホワイトヘッドはその伝統を換骨奪胎して、近代の産業化時代の教養教育に適応させようとして居る点が注目される。

 ホワイトヘッドはまずヘーゲルの正反合の三組みにもとづく知的成長の三段階に言及した後で、「教育理論にヘーゲルの考えを応用した場合、かかる名称は内容を伝えるのに適切なものとは思えぬ」と批判した上で、彼自身の知的成長の三段階説を提唱している。それは、「ロマンスの段階」「精密化の段階」「普遍化の段階」である。

 第一段階の「ロマンスの段階」とは、「生の事実から出発して、いまだとらえられていない個々の関係がいかなるものかについての認識へと移行する過程で生じる」ロマンチックな感動である。第二段階の「精密化の段階」とは、言語や文法を習得し、認識相互の関係を正確に秩序立てることによって知識の範囲を広げ、諸事実の分析方法を教え込むことによって分析に適した多くの新事実を与える段階である。そしてホワイトヘッドが強調するのは、現場の教育でもっとも避けなければならないのは、第一段階抜きで第二段階から始めることである。その理由は、たとえ漠然としたものであっても、幅広い全体的な理解がなされていなかったならば、事象を分析したところで、抽象的で他との関連もない空虚な事実を無意味に叙述しただけで終わってしまうからである。そして最後の「普遍化の段階」とは、秩序立てられた概念や適切な処理がなされた専門的知識をもってするロマンチシズムへの復帰であり、前の二つの段階を統合するものである。ホワイトヘッドは、このようなリズム重視の教育論を、「自由と規律とのリズミックな要求」という論文の中でも更に詳しく展開しているが、主知主義的なヘーゲルの三段階の理性的なものの弁証法と違う点は、美的感性の涵養と情操教育が理性の発達に先行すべきだと言う論点である。それは大学に於てなされる教育活動のなかで、惰性的で応用力のない細分化された知識が無目的に学生に注入されていく結果、学生の創造性が低下し、思考が麻痺していく有様への警鐘でもあった。 

4 ハーバード大学時代のホワイトヘッドの哲学における「宇宙の直観と感情」 

 ホワイトヘッドは1924年63歳の時にハーバード大学から哲学科教授として招聘され、以後1936年名誉教授になるまでアメリカで活動したが、この時期は、『科学と近代世界』、『宗教とその形成』、『過程と実在』『観念の冒険』といった彼の哲学上の主著が書かれた時代である。ケンブリッジ大学の時代が論理学と数学の哲学、ロンドン大学の時代が自然哲学であるのに対して、ハーバード大学の時代は形而上学と文明論をテーマとしていると言って良いであろう。この時代は、『科学と近代世界』の最終章をのぞけば主題的に教育を語った論文は少ないとはいえ、我々の宇宙と社会にかんする普遍的な理論を展開したかれの後期哲学は、教育の問題にもロンドン時代におとらず多大の示唆を与えるものである。

 西洋の哲学史をプラトンの対話編の脚注にすぎないと喝破したホワイトヘッドは、同時に自己の提示する「有機体の哲学」が20世紀のプラトニズムの復興であるという自覚を持っていた。ドイツ理想主義が仏蘭西革命以後の時代の近代ヨーロッパに於けるプラトン主義の復興という側面をもっていたことと類比的に言えば、ホワイトヘッドの場合は、第一次世界大戦というヨーロッパの文明の危機と試練の経験を踏まえた上で、文明の未来のために、あらためてプラトンの哲学の精神を復興させようとしたものであるといってよかろう。

 ホワイトヘッドの後期哲学がイギリスの経験論だけではなくシェリングやヘーゲルに代表されるドイツ理想主義との関わりが深いということは従来たびたび指摘されてきた[8]が、ホワイトヘッドに先立つこと約100年前、ドイツ理想主義の全盛期、ベルリン大学の創設時に、国家や教育行政から独立した大学の学問の自由を力説し、ヘーゲルと対立しつつヘーゲルは異なる意味での「弁証法」―プラトン的な開かれた対話の精神―と、「解釈学」の始祖でもあったシュライエルマッハーの思想と対比することが、ホワイトヘッドの後期哲学と、それが教育の問題に対して有する意味をよりよく理解ならしめるであろう。[9]

 ホワイトヘッドの後期形而上学とその宗教論を理解する鍵のひとつは、「宇宙(universe)」と「世界」との間の厳格な区別である。キリスト教の神学者は「世界」と「神」の区別と関係を強調し、有神論と汎神論の選択肢を立てた上で「有神論」の優位を主張するものであるが、ホワイトヘッドは『宗教とその形成』でキリスト教のみならず仏教にも世界宗教としての普遍性を認めていた関係上、『観念の冒険』の文明論および宗教論では、「現実世界」と区別されつつも、「現実世界」と不可分の関係にある「宇宙」のほうを「神」にかわるキーワードとして使っているのである。[10]

 「宇宙」という語のこのようなホワイトヘッド的用法は、シュライエルマッハーの『宗教論』にその先駆的な形をもっていることに注意したい。「宗教を軽蔑する教養人への講話」として書かれたシュライエルマッハーの『宗教論は』、啓蒙主義とロマン主義の洗礼を受けた教養人との対話のために、キリスト教的教義学の用語を使わず、また倫理道徳や政治からは独立の領域に宗教を確保するために、有限な個が無限なる宇宙を直観し感受するところに宗教の本質を見たが、このような「宇宙の直観と感情」こそは、ホワイトヘッドの形而上学の原点でもあった。ホワイトヘッドにとって、哲学とは一言で要約するならば「無限なる宇宙を有限なる言葉で表現しようとする試み」であり、そのような有限なる人間の理性的な営みにふさわしい作業は「対話において開かれた諸々のシステム(Open Systems in Dialogue」の統合にほかならないのである。[11]

 「直観」という語は、シュライエルマッハーの場合は、おそらくシェリングの知的直観と同一視されることを恐れたためであろうか、『宗教論』の第二版以後では使用を差し控えるようになったし、「感情」もまた、哲学的な範疇としてではなく、「絶対依存の感情」として説かれるようなったこと、そのために彼の宗教論は、反理性主義という批判を浴びるようになったことは良く知られており、この点はホワイトヘッドとは違うところであろう。ホワイトヘッドの場合は、このような反理性主義の立場をとるものではなく、むしろ反理性主義の立場を否定せずに、それとの対話によって刷新された新たなる理性主義という性格を持つものである。したがって、彼の形而上学では、「宇宙の直観と感情」は、根本的な哲学的範疇となっている。たとえば宇宙の「直観envisagement」は『科学と近代世界』においては、現実の与件を越えて新しきものを創造していく創造性(基底的な活動力)を可能ならしめる「見る」働きとして、無限なるプラトン的形相の領域の三重の「直観」として表現されている。[12]

ホワイトヘッドの場合は、宇宙に於ける「感情feeling」もまた、諸々の活動的な個と、それぞれの個の内に多様なパースペクティブのもとに対象化された現実世界とを可能ならしめる「無限なる宇宙」の活きた関係性をあらわす根源語である。それは、ヘーゲルがシュライエルマッハーを揶揄したときに意味したような単に主観的かつ心情的な概念などではなく、主客の対立以前にあって主観と客観の双方を成立せしめる活動であり、自己と世界を結ぶ宇宙を貫く根源的にして具體的な関係性である。[13] 

5 日本の教養教育の今後とホワイトヘッド―岡潔の思想との対比を通して 

 私はこの論文の第3節で、ロンドン時代のホワイトヘッドが理工系の大学で数学の専門教育を行う教員を対象とした講演会で、「美と人情に対する受容性」の涵養を重視したことに言及した。科学教育の基礎にある数学と美的感性と情意との間に存する密接な関係を指摘している点で、数学を情緒とは無縁の論理にのみ立脚する学問と見做す一般的通念とは全く異なったユニークな見解とも思われよう。しかし、これは決してホワイトヘッドだけの特殊な数学論ないし教養論なのではない。

 日本の代表的な数学者の一人であり、多変数解析関数論の独創的な世界的業績によって文化勲章を受章した岡潔の数学論と教養論はホワイトヘッドの思想に深く通底するものがある。岡潔にとって、数学教育は情操教育と切り離すことが出来ず、情緒の涵養こそが、「ないものからあるものを作る」数学者の創造活動の根本であった。岡潔は、数学者リーマンの全集とともに道元禅師の「正法眼蔵」を座右の書として常に参照しており、また浄土教の明治時代の刷新者の一人であった山崎弁栄上人の念仏三昧の実践者でもあった。彼は、大乗仏教の唯識教学にも造詣が深く、学問的知識が人間に謙虚さを忘却させ自我への執着によって無意識のうちに抑圧と差別の構造を産み出すこと、そしてそのような「妄知」としての「分別知」を乗り越えることのできる「眞智」としての「無差別智」を重視していた。彼は、さらに座右の書として芭蕉の七部集と蕉風俳論をあげており、自分でも連句の実作を行っていたが、このような文学的教養が、小林秀雄との対話「人間の建設」や、蕉風俳諧についての山本健吉との文学的対談を可能ならしめたものであった。[14]

 岡潔は晩年、様々な場所で日本の教育システムにかんする提言をしているが、そのひとつは、日本人の心を伝統的に形成してきた古典の教育によって情緒を涵養することが大切にすることがあげられている。ホワイトヘッドが人格形成をおこなった英国のパブリックスクールの教養教育の基礎はギリシャ語とラテン語であったが、それに対応するものは日本の場合は、漢文と古文による古典教育であろう。グローバリゼーションという掛け声のもとで、近代語の一つに過ぎない英語の学習に没頭する以前に、日本人の精神文化を形成した伝統を伝えるということが教育の一つの大切な務めである。ホワイトヘッドは英語ではなくギリシャ語で聖書を読んだが、それは漢文で仏典を読んできた我々日本人の父祖達の伝統と対応するであろう。仏教は日本だけではなく東アジアの精神文化の規定を為すものであり、イデオロギーを越えた普遍宗教としての大乗仏教の伝統に基づく教養教育は、科学的な専門知や形式的な倫理学だけでは与えることの出来ない宇宙論と社会論の深き教養の基盤を与えるであろう。

 ホワイトヘッドの哲学は、ヨーロッパの人権や自由にかんする理念の根底にある宇宙論と社会論が何であったかを教えるものであった。「自由・平等・博愛」といった民主政治の根本理念を、単に外来思想の受売りないし押しつけと考えるのでは、排外的な国粋主義に顛落するであろう。それらを真に日本の伝統的な精神文化に受肉するためには、その背後にある「普遍のキリスト教」の精神的伝統から学ぶことが必要である。「自由(自在ないし無礙)」も「平等」も元来は大乗仏教に由来する宇宙的な広がりを持った概念であったことをおもえば、私は、キリスト教と仏教という二つの世界宗教を視野においたホワイトヘッドの哲学こそは、岡潔の力説したような「日本人の心」にさらなる宇宙的普遍性を与えると考えるものである。 



[1] Alfred North Whitehead, “Autobiographical Notes” in Science and Philosophy, A Philosophical Paperback, New York , 1948, pp.9-21

[2] Alfred North Whitehead, Process and Reality, Corrected Edition, Ed.by David Griffin and Donald Scherburne, The Free Press, 1978, pp.342-351

[3] Bertrand Russell, Autobiography 1872-1914, George Allen and Unwin LTD, 1967, pp.68-69

[4] 人間の魂による思想の冒険を欠いたGospel of Uniformity も、他者の自由を尊重する説得ではなく暴力に訴えるGospel of Force も共にホワイトヘッドは文明の衰退をもたらすものと考えていた。A.N.Whitehead, Science and the Modern World, The macmilllan Company 1925, The Free Press, 1953, Chap.XIII pp.193-208参照

[5] マシュー・アーノルド、多田英二訳、「教養と無秩序」、岩波文庫、2015, 58頁参照

[6] Alfred North Whitehead, “Autobiographical Notes” (前掲書) pp.18-19

[7] Alfred North Whitehead, The Aims of Education, The Free Ppress, 1925, pp.15-28

[8] Whitehead und deutsche Idealismus, herausgegeben von R.Lucas, Jr. Antoon Braeckman, Peter Lang, Berlin・Frankfurt am Mein・New York・Paris, 1990

[9] シュライエルマッハーの思想史的意義については、山脇直司、「シュライエルマッハーの哲学思想学問体系」、廣松渉監修 講座「ドイツ観念論」弘文堂、第四巻「自然と自由の深淵」(1910)所収 (218-258頁)参照。また、シュライエルマッハーの解釈学や弁証法とホワイトヘッド哲学との関係については、Schleiermacher and Whitehead-Open Systems in Dialogue, Edited by Christine Helmer, Walter de Gruyer-・Berlin・NewYork, 2004 参照

[10] ホワイトヘッド自身の形而上学の用語を使って表現するならば、「現実世界(actual world)」とは一個の活動的生起(an actual occasion)において対象化された「既成の」現実的諸存在(actual entities)の「全体」をさすのであって、当該のその活動的生起に相対的に定まる有限なる結合体(nexus)である。このような閉じた有限な存在である「現実世界」に対して、「宇宙」とは、現在生成しつつある一個の活動的生起と現実世界との活きた相互関係がそこにおいて成りたつ「無限への開け」を示す言葉である。そしてこの「無限への開け」は第一義的には直観され感じられるものなのであって、我々の意識や悟性によって対象化されるものではないということがポイントである。

[11] 2003年にクレアモントで開催された「システムと生命―シュライエルマッハーとホワイトヘッド」という学術会議において、プロセス神学者のジョン・カブはシュライエルマッハーの『宗教論』を、多元主義の時代における宗教間対話(それは宗教を否定するものとの対話をも含む)」の可能性を示した先駆者として位置づけている。Schleiermacher and Whitehead-Open Systems in Dialogue, Edited by Christine Helmer, Walter de Gruyer-・Berlin・Newyork, 2004 pp.315-333参照。

[12] 三重の直観とは(1)永遠的客体の直観(2)もろもろの永遠的客体の総合という点から見た価値のもろもろの可能性の直観(3)未来を待ってはじめて成就される境位全体に加わらなければならない現実的事実の直観である。(SMW 105)ホワイトヘッドの言う直観(envisagement)は、フッサールの本質直観や範疇的直観と同じように、我々の経験が単なる感性的直観の所与を越えていくことを可能ならしめるものである。

[13]感情(feeling)とは、既存の他者と他者の世界をすべて肯定的に抱握(prehend)することによって新たなる主体としての自己を形成するはたらきである。実体的な自己が先ず存在して、それが他者を「感じる」というのではなく、諸々の「感情」が、感じる主体を目指すのである。ホワイトヘッドの宇宙的感情は、彼がカントの三批判書のなかで第三批判をもっとも重視し、「純粋理性批判」ではなく、「純粋感情批判(the critique of pure feeling)」こそが、第一批判(科学批判)と第二批判(道徳批判)の根底になければならぬと言ったことに対応している。

 

[14] 情緒の涵養を重視する岡潔の数学論・教育論・宗教論については、高瀬正仁、『岡潔とその時代』―評伝岡潔 ⅠおよびⅡ(医学評論社)2013が詳しい。

追記

本論稿は「教養教育と統合知」(山脇直司編、東京大学出版会、2018)に寄稿したものであるが、若干の改訂と補足をおこなった。

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多元的一性ー「創造的経験と統合体の哲学」のために

2020-12-05 | 宗教

第42回日本ホワイトヘッド・プロセス学会Symposium提題は

「有機体を支える知の枠組みをあたえる方法―多元的一性の視点から」でした。
「多元的一性」という術語に対してシンポジウム企画者の田村高幸氏は次のような説明を与えています。

〇多元的一性 ***多元であるものが相互に関係し合い相互に育みあうことを可能ならしめるシステム(一ということにする)のもつ性質
〇多元的一 ***多元である各々の成長によって、多元である各々によって支えられているものであり、多元である各々、そこから生まれる諸関係等を包み、多元である各々を相互に関係することや関係を見通し合うことを可能ならしめ、相互に助け合うことをも可能なならしめるもの
 
 さて、田村氏のこの説明を聞いて、これは、なんらかの組織体を維持しつつ創造的に発展させる為の「管理の哲学」として非常に有効であると思いました。   田村氏のいう「多元的一性」の思想を、私の言葉で言い換えるならば、「統合的一性」ないし「多元的な統合性」となりますが、それは「創造的な経験論」の思想を、「管理の哲学」という実践的な社会哲学に応用したものであるということができるでしょう。『管理の哲学』とはホワイトヘッド学会前会長の村田晴夫氏の著書の題名でもありました。
 
 ホワイトヘッドのいう「有機体の哲学」は、「創造活動と一と多」の織りなす三一的な力動的コスモロジーですが、それは、ヘーゲルの言う「思弁的哲学」の理念、すなわち「論理学、自然哲学、精神哲学」を円環的に相関させる「統合学」の試論と考えることができます。
 
  ホワイトヘッド学会が継承すべき遺産の一つは、このような「管理の哲学」ないし「人間の学としての経営学」ともいうべき社会哲学であったことを想起しつつ、これを踏まえて現在という歴史的瞬間(カイロス)においてそれを活用し、将来へむけて「統合体の哲学」を創造的に進展させることが我々の学会の歴史的・世界的使命でしょう。
 
 ホワイトヘッド学会が継承すべきもうひとつの遺産は、京都学派の宗教哲学とホワイトヘッドに由来する哲学的神学(プロセス神学)との統合です。  これには我々の学会達のすぐれた先駆的仕事、クレアモントやルーバンでプロセス神学を学ばれた多くの先達による先行研究があります。
 我々の学会員達の宗教哲学は、決して米国のプロセス神学とおなじものではないことに注意すべきでしょう。
  たとえば、延原時行氏は、渡米する前に開拓伝道をしつつ滝沢克己に師事されたラジカルなプロテスタントであり、「西田哲学とホワイトヘッドの間」で思索しつつ「仏教的なキリスト教の真理」を探求されました。
   我々の学会の顧問である武田龍精氏は、浄土真宗の宗学とプロセス神学をともにまなばれ、科学時代の宗教のあり方、核戦争と環境破壊という「危機の時代」における宗教哲学の思索を続行されています。
    このほか、山本誠作氏、花岡永子氏、尾崎誠氏など、ここでくわしくその貴重な仕事を紹介する余裕はありませんが、多くのわれわれの先達もまた、京都学派の宗教哲学思想とホワイトヘッドを手引きとしつつ、「歴史的世界の課題」を引き受ける試みをされた先駆者でした。
  私自身は、ホワイトヘッド学会のほかに、「東西宗教交流学会(The Japan Society for Buddhist Christian studies)」にも関係していますが、宗教間対話の原則として、「多元的一」という概念の重要性を認識しています。
 宗教間対話では、exclusivism, inclusivism, pluralism という三つの立場の内、最後のpluralism のみが真の対話を可能ならしめるという考え方が次第に一般的となっていますが、このような宗教多元主義に対しては、それは相対主義ないし折衷主義にすぎないから世界宗教のもつ普遍性ないし絶対性の要求と相容れないという批判がありました。キリスト教やイスラム教のような一神教の世界観では、宗教多元主義を否定する見方が主流であるとも言えるでしょう。
     これに対して、私は、絶対者は(原理主義者のように)肯定的に主張されるときはかならず偶像崇拝になると考えますが、そのような偶像から解放されるためには、むしろ「相対に徹底」することによって、単なる多元主義を越える方法が必要です。
 
  ホワイトヘッドの『有機体の哲学』やプロセス神学者のジョン・カブの『対話を越えて』に示唆されて、個々の宗教の文化形成的な活力を尊重し、他の諸宗教から学ぶことによって自己の属する宗教の独自の価値を再発見し、自己を創造的に刷新する道があることに気づき、「統合的多元論inclusive pluralism」 あるいは「多元的統合論plural inclusivism」 という考え方を、私は次第にとるようになっています。
 
  自己と異なる宗教ないし文化に属する他者を、自己から隔離して「棲み分ける」のではなく、自他の境界を突破して、他者と対話することの意義を解明し、そしてその「対話によって/対話をこえて」、自己自身を創造的に変革することが大切です。

 「多元的一」の「一」とは、静的な「モナド」ではなく、多と一の間の生成と存在の転換のリズムを伴った「一」です。それは、「特異性をもった一(singularity)」、すなわち「どのひとつも他とは異なる代替不可能な一」ですが、孤立した「モナド的な窓なき一」ではなく、すべての他者をうちに含むことによって「主體的一」として生成し、みずからを「新たなる客体的一」として、「すべての他者に自己自身を与えます。私は『統合体の哲学』で表現された「多元的な一」の力動性をこのように要約してみましたが、如何でしょうか。
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ザビエル帰天記念日に寄せて

2020-12-03 | 日誌

 

スペイン出身の司祭で日本に帰化された結城了悟師の「ザビエル」史伝には、時代を隔てて受け継がれた宣教師の精神と日本の文化を大切に思う気持ちに溢れています。この本の表紙のザビエル像は、結城了悟師が館長をつとめておられた日本26聖人記念館にあるものですが、いかにも東洋の使徒にふさわしいイメージだと思いました。

 

 

 都を目指したザビエルの目的のひとつは比叡山に行くことでした。このときの彼は貧しい托鉢僧の身なりで(アッシジのフランシスと同じく)裸足で雪道を歩くという苦行を自らに課していました。そのときの乞食同然のザビエルの姿は、布教許可を獲得するという彼の目的には全くかなわないものでしたが、それでも堺の商人たちとの出会いと彼らの助力が後の日本布教に大いに手助けとなりました。時の権力者に贈呈する高価で珍しい進物や、西欧の王侯の使節と見まがうばかりの豪奢な装いをする南蛮の宣教師のイメージとは程遠い、このときのザビエルの乞食姿のほうに、私は惹かれます。

 

 ザビエルに出逢ったポルトガルの商人でのちにイエズス会に入会し、西洋医学を初めて日本に伝えるとともに、日本の漢方医と協力して、貧民救済のための病院施設を造営したアルメイダは、訪日前のザビエルの印象を次のように記している。

 

『ある日、突然インドの俗僧のような黒衣をまとい、腰帯も長衣もつけていないみすぼらしい人がこの島(モルッカ諸島)にあらわれました。彼の行動を見てみますと、現地人たちをさかんにイエズス会に改宗させようとして働いているのです。どうして南方のこんな野蛮で未開な僻地の島々にまで来て、何のためにあんなに命がけで改宗の仕事に従事しているのか。彼の行動は、不思議であり、私には謎のような人物に見えました。そのとき彼はしばしば、アモール(愛)ということばを話していました。この日本では「アモール」という言葉はありません。この「アモール(愛)」に相当する言葉は、「Taixet(大切)」であると、あとになってから知りました。この黒衣をまとった人物こそフランシスコ・ザビエルでした・・・・・

 そしてこのザビエル師の行動の中から、ひとつのたしかな心の安らぎになるような生き方を教えられました。それは「Taixetyni moyuru(大切に燃ゆる」というものでした。私はこのザビエル師の処世の信条である「大切に燃ゆる」という生き方に強く心を動かされました。そのころ私は帆船の船主という身分で万に届くほどの莫大なクルサド貨幣を獲得していましたが、なぜか心の中は空しく、強い罪悪感のようなものがうごめいていました。私はこのことについてザビエル師に告解しました』

 

『一五五四年夏、ドアルテ・ダ・ガーマらの船主たちと共同経営で、四隻の商船に財貨ー唐生糸、絹織物、琥珀織を満載し、日本に向かったところ、まもなくひどい暴風雨に遇いました。そのとき生まれて初めて自然の脅威と神の恐ろしさに戦慄しました。勇壮だった私の帆船の大きな白布はずたずたに破れ、マストは捻れるように折れ曲がり、竜骨だけがむきだしに残りました。マストの下方には船員や雇用兵たちが溺死しないようにしかりと躰をマストにくくりつけていましたが、最後の祈りのまま、無慚な姿で息絶えていました。その悲惨な光景を見た瞬間、それまで私が執拗に憧れ求めたもの、それがどんなに儚い幻のようなものであったかということが一瞬のうちに私の全身を貫きました。そのときザビエル師がつねづね申されていたマタイの言葉が大きく耳底で聞こえました。(一五五五年九月一五日付フロイスの書簡)

 

  ここでいうマタイの言葉とは、「人、もし、全世界を得るとも、その魂を失わば何の益があろうか」(16:26)でしょう。 

 アルメイダは、貿易商人として成功する前、一五四六年に母国で外科医の資格を取得していたので、回心後に豊後に、社会から見捨てられた人々のための病院を作ることを発願します。

 

『私が豊後に来て Nossa Senhora da Piedade (慈悲の聖母の住院)のため病院を創りたいと思ったのも、ひとつにはそれまでのおろかだった私のデウスに対するせめてもの贖罪のようなものでした。

 私が南の香料の島でザビエル師からこの目で学んだ「大切に燃ゆる(Taixetni moyuru)」これが病院創設の発願の動機になったように思います。・・・・

 私は「病める人間」の治療には「肉体の薬」と「魂の薬」の二通りの薬を併用しなければならないということを知りました。しかし、現在の私の力では、少しばかりの肉体の薬を与えることしかできません。必ず死ぬ運命にある人間の治療には「魂を癒やす薬」こそ最高の薬だと思っています。』

(ガゴ、トルレス、ビレ等、アルメイダの書簡)

 

使徒行伝と福音書を書き残したルカも、パウロによって「愛する医師ルカ」(コロサイ4-14)と呼ばれているように医者でした。時代は変わって、パウロやルカの時代ではなく日本の戦国時代でしたが、アルメイダもまた、当時のイエズス会の宣教師を財政的に援助するために全財産を抛って当時の日本社会で差別されていた人々を収容する病院を豊後(いまの大分県)に創設したのです。

 

ここで「大切(愛)に燃ゆる」キリスト者ザビエルの心を最もよく表現している祈りを紹介させてください。それは、『純一なる愛の働き』actus puri amoris というザビエルの祈りです。
 
「ああ、神よ、私はあなたを愛します!私を救けてくださるから、愛するのではありません、あなたを愛しないものを永遠の劫火に罰するから、愛するのでもありません。私の主、イエスよ、あなたは、私が受けなければならない罰の全てを、十字架の上で受けて下さいました。釘付けにされ、槍で貫かれ、多くの辱めを受け、限りない痛み、汗、悩み、そして死までも、私のため、罪人なる私のために、忍んでくださいました。どうして、私が、あなたを愛しないわけがありましょうか。ああ、至愛なるイエスよ、永遠にあなたを愛します、それは、あなたが天国に私を救ってくださるからではありません、永遠に罰せられるからでもありません、何か報いを希望するからでもありません。ただ、あなたが私を愛してくださったように、私もあなたを永遠に愛するのです。それは、あなただけが私の王であり、私の神であるからです」
 
 ザビエルは、自分が神を愛するのは、天国へゆくことへの期待からでもないし、永劫の罰を受けることへの恐怖からでもない、とはっきりと言っています。何か報いを受けることを希望するがゆえに神を愛するのではないのです。そういうことを望むのは、「純一なる愛の働き」ではなく、ただひたすらに私への愛のために十字架につけられたイエスへの愛のみが歌われています。私はこの祈りこそ、イエスのために殉教した日本人の心に直接に訴えたものだと思いました。
 
ザビエルの祈りの原文も紹介します。
 
   Actus Puri Amoris
 
O Deus amo te!
Nec amo te ut salves me,
Aut quia non amantes te
Aeterno punis igne;
Tu, mi Iesu, totum me
Amplexus es in cruce.
Tulisti clavos, lanceam,
Innumeros dolores,
Sudores et angores
Ac mortem, et haec pro me,
Ac mortem, et haec pro me,
Ac pro me peccatore!
Cur igitur non amem te,
O Iesu amantissime,
Non ut in caelo salves me,
Aut ne in aeternum damnes,
Nec praemii ullius spe,
Sed sicut tu amasti me;
Sic amo et amabo te,
Solum quia Rex meus es,
Et splum quia Deus es!
Amen.

 

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自己物語りと救済ー明石海人、北條民雄、東條耿一の生と死ー(そのⅠ)

2020-11-30 | 文学

自己物語りと救済ー明石海人、北條民雄、東條耿一の生と死ー
(そのⅠ)

 

 以下の文は、『彼方からの声』(シリーズ物語り論』(東京大学出版会、2007年)に寄稿した『復生の文学』および『東條耿一作品集 いのちの歌』(新教出版社、2009年)の解題に書いたことの再録である。内容は15年以上前に書かれたものであるが、現在の私から見た、いくつか新しい感想も追加した。東條耿一と岩下荘一の関係など、その後あきらかになったこともあるので、適当な機会にそれについても書く予定である。

 明石海人と北條民雄の名前は戦前の「療養所文学」の代表的作家としてよく知られているが、東條耿一についてはよく知らないという人が多いかもしれない。

 東條耿一は、戦前のハンセン病療養所、多磨全生園の文芸誌「山桜」に数々の優れた詩を発表していた詩人である。その彼が、晩年にみずからの生涯を回想しつ つ カトリックのキリスト者としての心境を綴った手記を書き残していたことを知ったのは平成十六年の春のことであった。 四谷の聖三木図書館の書棚の奥にあった「聲」の昭和一六年のバックナンバ ーに「癩者の父」に始まる東條耿一の一連の手記が掲載されていたのである。

 私は、その内容に深く突き動かされた。それは、戦後間もない 頃に書かれた「長崎の鐘」 や「亡びぬものを」のような永井隆博士の手記が、すこしも古びることのない 時代の人の証言であるのと同じように、 ハンセン病が「不治の病」として恐怖されてい た苦難の時代を生きた一詩人の回心の記録であったからである。

 それから五年の間、 東條の詩作品の素晴らしさを教えて頂いた俳人の村井澄枝氏とともに、 私は、東條耿一の全著作の編集に取りかかった。途中から、戦後の全生園の園誌「多磨」の編集長を務められ、北条民雄について優れた評論を書かれた野谷寛三氏にも加わって頂き、平成二十一年九月四日に東條耿一作品集「いのちの歌」 の出版を果たすことが出来たのである。

 ハンセン病については、隔離政策の持つ 差別と人権侵害の問題が、国賠法訴訟で問題となっ た。これについては多くの人が語ってきた。それは、たしかに重大な社会的・ 政治的問題であるが、差別の撤廃も人権の回復も、我々が生き延びること、我々の「生」を前提としている。 しかし、 生きる希望が全く奪われ、苦痛と死が不可避であるような極限的な状況というものがある。 そういう場合、人は、人権の問題を問う以前に、そうい う苦しみに満ちた現実をどのように受容し、 その苦しみの果てにある不可避の「死」 をどのように迎えるかという、より根本的な問題に直面せざるを得ないのである。

 ここで論じた明石海人、北條民雄、東條格一の生涯とその作品を理解するためには、 その日本各地にハンセン病の療養所が置かれていた時代の背景、当時の療養所の実態、 当時のカトリッ ク教会と療養所との関わりなどについて、 ある程度の予備知識を持つ ことが必要ではある。 しかし、筆者は、彼らをいわゆる「療養所文学」 ないしは「ハンセン病文学」の作者として論じるつもりはない 。その理由は、 こういう名称は、それ自身差別的であるし、 彼等の書いたものは、そういう特殊なカテゴリーを越える普遍性を持っていると信じてい るからである。ハンセン病が治癒可能な普通の病気になった現在に於いても、 治癒不可能な他の難病は存在するし、 今後もそういう難病に苦しむ人は絶えないであろう。不幸にして、 そういう病に自己自身が、あるいは自分の家族、ないし自分に親しい人が罹患したとき、ひとはどうするのか。
 それは、 いつの時代にも人間が直面しなければならない問題である。 明石海人の短歌集「白描」とその序文、北條民雄の『いのちの初夜』や川端康成との往復書簡、東條耿一の詩集と晩年の手記などは、すべての人に通じる「いのち」 の根柢にある苦しみ、 死に至る病の苦しみの現実と格闘し、そこからの救済を求めた魂の記録である。彼らは、文藝の創作活動によって、あるいはキリスト教の信仰によって、古き自己を乗り越えようとした。闇の中に光明を、 絶望の中に希望を見出した明石海人や東條耿一の自己物語りは、それを読む者自身が、他人事ではなく自己自身の問題として生と死の問題を自覚する手がかりになるだろう。すくなくとも私は、若くして帰天したこれ等の作家から、古稀を過ぎた現在の私自身が学ぶことができることを有り難く思っている。

 (1)短歌―明石海人「白描」について

 昭和十二年に改造社が明治・大正・昭和三代にわたる新万葉集全十一巻を企画したときに、一人二十首以内で公募があった。昭和十三年に出版されたその第一巻に、ハンセン病療養所長島愛生園の明石海人の歌が十一首入選している。      

 皇太后陛下、癩患者御慰めの御歌並びにお手許金御下賜記念の日、遙かに大宮御所を拝して

そのかみの悲田施薬のおん后今も坐すかとをろがみまつる

みめぐみは言はまくかしこ日の本の癩者に生れて我が悔ゆるなし

   父の訃、子の訃共に事過ぎて月余の後に来る。帰り葬はむよすがもなくて

送りこし父がかたみの綿衣さながら我に合ふがすべなさ

童わが茅花ぬきてし墓どころその草丘に吾子はねむらむ

世の常の父子なりせばこころゆく嘆きもあらむかかる際にも

たまたまに逢ひ見る兄や在りし日の父さながらのものの言ひさま(面会)

梨の実の青き野径に遊びてしその翌の日を別れきにけり

子を守りて終らむといふ妻が言身には沁みつつなぐさまなくに

監房に狂ひののしる人のこゑ夜深く覚めて聞くその声を (病友)

   眼神経痛頻りに至る。旬日の後眼帯をはづせば視力すでになし

拭へども拭へども去らぬ眼のくもり物言ひかけて声を呑みたり

更へなずむ盗汗の衣やこの真夜を恋へばはてなしははそはの母よ

この第一首と第二首は、救癩事業を推進した皇太后の御恩に感謝する歌で、当時の療養所の短歌会では毎年のように兼題として出されていた。貞明皇太后は、昭和7年11月10日、大宮御所の歌会で、「癩患者をなぐさめて」という兼題をだし、自ら

    つれづれの友となりても慰めよ ゆくこと難きわれにかはりて

という歌を詠んでいた。海人の歌は、この皇太后の歌に対する返歌であると見て良い。

 この歌は発表当時評判となり、のちに長島愛生園の歌碑にも刻まれ、また当時の国の救癩政策の柱であった「皇室の仁慈」にいかに療養所の人々が感謝しているかを示すために縷々利用されることとなった。戦後は、その反動であろうか、「幻の明石海人」という評論を書いた光岡良二も「慟哭の歌人」を書いた松村好之も、ともに、晩年の海人の歌を代筆した伊郷芳紀の証言を引用しつつ、この歌の「儀礼的性格」を強調し、海人の代表作とは見なしていない。たしかに、海人自身が編集した「白描」では、この歌は療養所の生活を綴った多くの歌の中の一つとして扱われ、特別に巻頭に於かれているわけではない。 

 しかしながら、戦前戦後のイデオロギーや価値観の劇的変化なるものを括弧に入れて、この歌自体を眺めてみると、単なる「儀礼の歌」として片づけられないものがある。皇太后からの「御恵み」を感謝する返歌は療養所の歌人達によって数多く詠まれているが、海人のように「癩者に生れて我が悔ゆるなし」と力強い「万葉調」で堂々と言い切った歌は殆ど無い。これは皇室の恩恵をひたすら受動的に有難がっているような感謝の歌では決してない。この下の句は、返歌という儀礼を超えて、海人自身が自分の運命を積極的に受容した宣言のように思われる。海人は、のちに、歌集「白描」の序文で、

          癩は天刑である。

加はる笞(しもと)の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるひは呻吟しながら、私は苦患の闇をかき捜って一縷の光を渇き求めた。

― 深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何處にも光はない ―

さう感じ得たのは病がすでに膏肓に入ってからであった。

齢三十を超えて短歌を学び、あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、己が棲む大地の如何に美しく、また厳しいかを身をもって感じ、積年の苦渋をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞(べんぶ)しながら、肉身に生きる己れを祝福した。人の世を脱れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。

 癩はまた天啓でもあった。

と書いたが、「癩者に生れて我が悔ゆるなし」という大胆な言葉を海人に言わせたものは、皇室であれ誰であれ、他者から与えられた恩恵への感謝という以前に、それに絶対的に先行していた、「自らが燃えなければ何處にも光はない」という海人自身の魂の奥底からの叫びであったろう。

 昭和一二年に改造社によって企画され、昭和一三年に第一巻が出版された新万葉集は、明治大正昭和の代表的な短歌を収録している。審査員と当時まだ活躍していた著名な歌人には新たに五〇首以内の自薦歌の投稿が求められ、物故した歌人のよく知られた歌も縁故者によって提出された。

  明石海人の歌は、第一巻に収録されている。この巻に収録された他の歌人の歌をあげると、石川啄木は、「東海の小島の磯の白砂に我なきぬれて蟹とたはむる」をはじめとする五十首、伊藤左千夫は「牛飼が歌よむときに世の中の新しき歌大いに起こる」をはじめとする五十首がある。また、歌人とは言えないが、芥川龍之介の短歌も収録されているなど、プロの歌人に留まらず、様々な職業や背景を持った人が、それぞれの自己の世界を表現している。この歌集の特徴は、作者ごとに複数の短歌が収録されているので、新万葉集という大宇宙の中に、一人一人の作者の小宇宙があるというような印象を受ける。

 ただし、いわゆる有名歌人の歌の織りなす小宇宙は、かならずしも生彩があるとは言えない。たしかに一首一首は人口に膾炙した歌であるが、五〇首を並べてみても、そのあいだに作者の人格から放射するような統一性を必ずしも感じない。これは、とくに新作を投稿した有名歌人の連作についていえる。

 新万葉集の聊か精彩を欠く職業歌人の歌群のなかにあって、海人の連作短歌のなかには、はるかに切実にして緊密な統一がある。これは、海人が最晩年に出版した歌集「白描」の場合は、さらにはっきりと言えることであるが、何度も推敲し磨き上げられた作品のみが持つ統一が、作者の個の一貫性がつよくでている。海人の短歌には叙事詩的な情念のうねりがあり、それが読むものに地底から響くような情念のカタルシスを与える。これまで、日本の歌人で、このような、すぐれた悲劇作品のみが持ちうるようなカタルシスと存在の真実を詠い得た歌人、「白描」序文に見られるような自己自身への思索と詩的世界を統一した歌人がどれほどいたであろうか。   「白描」は、次の歌から始められている。 

医師の眼の穏(おだし)きを趁(お)ふ窓の空消え光りつつ花の散り交ふ 

 春たけなわの頃、自然が生命力に満ちあふれ、桜の花の美しさに惹かれて大勢の人が行楽にくりだす季節に、海人は東大病院で診察を受け、医者の穏やかな眼を追いながら診断の結果を聴く、そのつかの間を捉えた歌である。この歌が「白描」の巻頭。そして、この歌を口述筆記した伊郷芳紀の回想に寄れば、この歌の姿を定めるのを海人は最後まで引き延ばしていたとのこと。「歌集」の最初におかれた歌は、実は、最後にそのかたちを与えられたのである。

 「不治の病」という宣告を受けたとき、これから自分はどのようにすればよいのか。どうしようもないではないか。海人の短歌に頻出する「すべなさ」(どうしようもなさ)ということばに象徴される運命的な事実がはっきりと告げられる、その直前の光景である。これに続く歌との関わりだけを見れば、いかにも人生の無常、不条理、真昼の花の輝きの中に突如侵入した暗黒を描くための序奏のようにもみえるが、この歌は、決してそのような側面だけから見られるべきものでない。

 この巻頭の歌は、「癩者」としての彼の生の始まりを意味するだけでなく、「白描」におさめられたすべての歌を、その生の始まる直前の一点に収斂させるような働きを持っている。そういう自分自身の過去の一瞬を回想において遡りつつ描き出そうとしている海人自身は、どういう状況にあったか。彼を診断し、喉の切開手術を担当した内田守医師の言葉によれば、「およそ癩者が死ぬまでに経験しなければならない一切の苦しみを引き受けている」凄絶な状態にあったとのこと。カニューレ(呼吸補助のため喉につっこんで使用する器具)をとおしてかすかに判別されるような嗄れた声で、最後の力を振り絞りながら、伊郷に口述していたのが、この歌である。

  伊郷によると、「白描」の歌をまとめあげ、原稿の発送の間際まで、海人は巻頭歌の下の句を「消え光りつつ花の散り交ふ」にするか「さくら白花真日にかがよふ」にするか、決めかねていたが、次のように云って、前者に決定したとのことである(松村好之著「慟哭の歌人」による)。     伊郷が伝える海人の言葉は以下のようなものであった。

「さくら白花真日にかがよふ」では真日にかがよふているにしても、花がじっと停止して日光を受けている、いわば静の風景だ。「消えひかりつつ花の散り交ふ」だったら、花は生きて爛漫と咲き、やがて生命を終えて散ってゆく・・・・散り交ふ花びらに生きた感情の生動を実感する。「散り交ふ」に決めよう。

 散る桜に、単なる無常ではなく、存在と生命の充足による死を彼が見ていたことがこの言葉から分かる。「花」は日本の和歌の伝統では特別の意味を持っている。西行の和歌にとってそれは日本の風土、そこにいきる人々の心のあり方の象徴でもある。本居宣長の云う大和心もしかり。海人には桜の花を詠んだ次の歌もある。

      さくら花かつ散る今日の夕ぐれを幾世の底より鐘のなりくる

 長島愛生園をついの住処と思い定め、ハンセン病者としてその地で生を終えることを受容しなければならない境遇にありながらも、春になれば、日本の自然の美しさを見、日本の悠久の歴史に思いを馳せることができる。そういうとき、桜の花を詠んだ幾世代もの日本人の心を自分自身のうちに実感することがあったであろう。この歌は、海人の故郷、沼津の千本松原に歌碑として刻まれている。「幾世の底より」という言葉が、この歌に日本文化の基底を流れる桜花への想いを感じさせる。幾世の「世」は、悠久の歴史を表すが、その「底」という言葉は、地底より響き渡るような日本文化の深層を感じさせる。

 

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自己物語と救済ー明石海人、北條民雄、東條耿一の生と死(その2)

2020-11-30 | 文学

自己物語と救済ー明石海人、北條民雄、東條耿一の生と死(その2)

(2)小説―北條民雄の「いのちの初夜」とその後

 ハンセン病療養所で書かれた文藝作品として、明石海人とともにもっともよく知られているのは北條民雄の小説「いのちの初夜」であろう。 そのなかに、療養所に入所したばかりの患者であり、療養所での「最初の一夜」に重病棟の患者と共に過ごした衝撃がさめやらぬ主人公の青年尾田に、重病棟の付添をしながら文藝の創作をしている佐柄木という年長の青年が、病苦になすすべもなく死の床にある重病棟の患者達を前にして語るつぎのような一節がある。

僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがぴくぴくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。

けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活そう復活です。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか。

 

「ハンセン病文学全集」の小説の部を編集した加賀乙彦は

「いのちの初夜」こそ、北條民雄の最初の優れた小説だということになる。この作品は、今回の『ハンセン病文学全集』の小説の中でも第一等の秀作である。作者自身も、多くのハンセン病小説家も、これを越える作品を書けなかったのは、不思議だが、事実がそうなのだから仕方がないというのが私のつぶやきである。(中略)

かつて日本の近代文学にこれほどの深い絶望、これほどの極限にまで苦悩した文学があつたであろうか。この作品を今度の文学全集の冒頭に置くことには、十分な意味があると私は考えている。

と言っている。この小説のなかで、佐柄木という人物は非常に印象的に描かれているが、おそらく、それは北條民雄が療養所で文藝活動をしていた諸先輩達から受けた印象をもとに、みずからのあるべき姿として造形した者と言って良いであろう。

 昭和11年2月に「文学界賞」を受賞した「いのちの初夜」は、一躍北條民雄の名前を文壇に知らしめることとなったが、北條自身は、その文学的成功を必ずしも喜ばなかったことが、友人達の証言によって知られている。

 北條民雄は、文学界賞受賞後の作品として、100枚を越える長編を二篇書いている。しかしながら、これらは、いずれも公表されず、彼の死後に刊行された北條民雄全集にも収録されていない幻の作である。しかし、川端康成の「いのちの初夜」跋から、我々は、その作品のあらましを推測することが出来る。

 その一は「いのちの初夜」にひとたび得た生命観をさらに深く懐疑否定し、その彼方に光明を探ろうとするものであった。その二は、社会運動に携わってゐた青年が、さういふ世と切り離された癩院に入って、尚、プロレタリアの為に反省苦悩し腐れゆく身であくまでもその社会理想を信じて生きるものであった。

 この二作とは北條の川端康成宛の書簡(昭和十一年六月十日)によれば、「ただ一つのものを」と「監房の手記」である。どちらも、作者の生死を賭けた作品というべきものであり、北條はつぎのように自分の心境を川端に述べている。

この作(監房の手記)には、ほんとに命を賭けました。書き始めるとき、それまで手許にあった長編の書きかけも、短編の書きかけも全部破り捨てました。これは遺書のつもりだったのです。これが書きあがったら死のう、と決心して筆を執りました。けれども書き進むうち、死んではならないことだけが分かりました。死ぬつもりで書き始めながら、書き終わった時には、生きることだけになりました。進歩か転落か、それは分かりません。ただ、先生の御評を頂きとうございます。「いのちの初夜」を書いた折、生か死かの問題は解決がついたかのようにお手紙しましたけれど、あの場合はほんとに解決したつもりでいましたのですけれど、つぎつぎと襲ってくる苦しみはあの解決をぶちこわしてしまいました。(中略)それからこの作は検閲をうけずにお送り致します。検閲をうければ、発表禁止にされてしまうのです。それで検閲なしで発表して、僕はこの病院を出る覚悟に決めました。富士山麓の復生病院の院長岩下氏が僕の「いのちの初夜」に感激したと申されて、先日フランスのカトリック司祭コッサール氏が参りましたので、その人の紹介で右病院に入る予定です。自分にとっては、小説を書く以外になんにもないのに、その小説すら思うように書いてはならないとすれば、なによりも苦痛です。検閲証の紙を一しょに同封して置きますけれど、實に激しい屈辱感を覚えます。一つの作に對してこれだけ多くの事務員共の印を必要とするのです。[3]

「監房の手記」は検閲を無視して密かに川端に送った作品で、このとき北條は官立の癩療養所の内部で「癩になりきって生きる」ことを欺瞞であると考え直し、自殺を覚悟のうえで多磨全生園を飛び出し、カトリックの施設へ逃げ込むことを考えていたことが分かる。岩下壮一が自分の文学の理解者であると聞いたこと、カトリックの神山復生病院は友人の詩人東條耿一が嘗ていた病院なので、そこへ移れば、多磨全生園よりは小説執筆に自由な環境が得られると考えたのだろう。

 結局、このアイデアは実現しなかったが、北條が官立の療養所という閉鎖された場所―強制収容所という一面をもっていた-で文学活動をすることにいかに疑問を抱いていたかが分かる。

 病院に監房があることが官立の癩療養所の特徴であった。全生園はもともと放浪する患者を強制的に収容する監獄として建設されたので、初代院長は警察官あがりであった。1931年度以降、一般の患者を収容するようになってからも、そのシステムは基本的に同じであった。 のちに全生病院の院長となった光田健輔がまだ医長であった時分に、すでに「院長が患者を検束し懲戒することは違法である」とのべて抵抗した患者がいたことが報告されている。(内田守の回想)

 そういう監房の中に閉じこめられた社会運動家の苦悩を描いた「監房の手記」が検閲を通るはずがないし、そのようなものを書いたと言うことが発覚すれば、北條自身が処罰されたであろう。したがって、北條は、自分の作家としての生命を賭けてこれを書き、川端に送ったということがわかる。川端は、検閲の厳しい当時の出版状況を考慮し、また北條の作品自体、まだ大いに推敲の余地有りと判断したので、結局、これらの作品は発表されず、原稿も残ってはいないが、北條自身が真に書きたかった作品がいかなる種類のものであったかを我々に教えるであろう。彼は自分の作品が「癩文学」として読まれること、特異な環境にある特異な生を描いたものとして読まれることに反対であった。自分は文学そのものを書いているのであり、「癩文学」などというものが特別にあるわけではない-これが北條の信念でもあった。

 創元社から出版された北條民雄全集では、彼の日記が収録されているが、これは、療養所の雑誌「山桜」に北條や彼の友人である東條耿一が発表した作品と共に、当時の療養所の内部を活写すると共にかれらの内面生活を伺わせる貴重な文献である。

 とくに「山桜」という機関誌は、官立の療養所を管理する国の基本的な思想を浸透させるために刊行されていた雑誌であるが、そこには文芸欄が設けられ、詩歌や俳句、小説などの創作の発表も許されていた。患者が療養所の医療政策に対して批判がましいことを述べるような言説は、原則として、事前検閲によって掲載されては居ないが、昭和12年1月、すでに腸結核を併発して病床にあった北條民雄は、「井の中の蛙の感想」と題する分を寄稿している。この文は、前年の昭和11年8月の「長島騒擾事件」に言及して、ストライキをした患者達を「井の中の蛙」と批判した日本MTL(mission to lepra という当時の「救癩」団体)理事の塚田喜太郎の文章に対する反論である。

 「長島事件」については、ハンセン病問題に関する検証作業の一環として現在ではその状況が解明されている[4]が、当時国家的なキャンペーンとして行われていた「無癩県運動」のために、国立療養所愛生園が定員を大幅に超過し、患者の医療・生活条件が極度に悪化したために起きた患者の作業ボイコット事件であった。[5]

 塚田は次のように書いている。(昭和十一年 「山桜」10月号)

 井の中の蛙大海を知らず、とか。実際、井の中の蛙の諸君には、世間の苦労や不幸は分からないのであります。(中略)蛙は蛙らしく井のなかで泳いでいればよいのであります。また、大海も蛙どもに騒がれては、迷惑千万であります。身の程をしらぬといふことほど、お互いに困ったことはないのであります。(中略)患者諸君が、今回のごとき言行をなすならば、それより以前に、国家にも納税し、癩病院の費用は全部患者において負担し、しかる後、一人前の言ひ分を述ぶるべきであると。国家の保護を受け、社会の同情のもとに、わずかに生を保ちながら、人並みの言い分を主張する等は、笑止千万であり、不都合そのものである。

塚田のこの見解に対する北條のコメントが、翌年の山桜の一月号に「井の中の正月の感想」と題して掲載されている。

 諸君は井戸の中の蛙だと、癩者に向かって断定した男が近頃現れた。勿論、このやうな言葉は取り上げるにも足るまい。かやうな言葉を吐き得る頭脳といふものがあまり上等なものでないといふことはもはや説明の要もない。しかしながら、かかる言葉を聞く度に私はかつていったニイチェのなげきが身にしみる。「兄弟よ、汝は軽蔑といふことを知ってゐるか、汝を軽蔑する者に対しても公正であれ、といふ公正の苦悩を知ってゐるか」
 全療養所の兄弟諸君、御身達にこのニイチェの嘆きが分かるか。しかし、私は二十三度目の正月を迎えた。この病院で迎える三度目の正月である。かつて大海の魚であった私も、今は何と井戸の中をごそごそと這い回るあはれ一匹の蛙とは成り果てた。とはいへ、井のなかに住むが故に、深夜沖天にかかる星座の美しさを見た。大海に住むが故に大海を知ったと自信する魚にこの星座が判るか、深海の魚類は自己を取り巻く海水をすら意識せぬであろう、況や-

 

 40年以上経過した後からであるが、津田せつ子は、「北條さんの思出」というエッセイの中で、この文を引用し、「いまのように、職員や社会人に自由にものがいえる時代とは違い、すべてが検閲制度で束縛されていた時代であったから、私はずばりと言い得たその勇気に感動した。清涼剤に似た清々しさで思い起こされる。そして北條さんは若かったなといまにして思う。あのいきりたつ若さは古い患者にはもてない感覚である」と回想している。[6]

 北條民雄が昭和12年に腸結核で亡くなった後で、川端康成は彼の遺稿や日記も蒐集して、創元社から北條民雄全集を刊行したが、そのことは必ずしも療養所の管理者にとって歓迎すべき事ではなかった。 北條民雄が昭和12年に腸結核で亡くなった後で、川端康成は彼の遺稿や日記も蒐集して、創元社から北條民雄全集を刊行したが、そのことは必ずしも療養所の管理者にとって歓迎すべき事ではなかった。 たとえば、北條民雄日記の中にもたびたび登場する療養所の医師日戸修一は、次のような文を、全集刊行後に書いている。[7]

しかし、検閲するものがどうであろうと、とにかく国家が養って国家が食はせて衣食住すべてを心配しそのかげに癩を早く撲滅しやうといふ目的があるんだから、この目的に不利なものはどしどし取り締まってゆくのが当然の話で文句を言ふほうが間違ってゐる。(中略)文学なんか癩の撲滅事業のためにはおよそ屁の訳にもたたない。まして北條のやうな変な反抗ばかりしてゐるものには検閲制度は当然必要なんだと思ふ。(中略)ああいふ全集(北條民雄全集)を余り思慮なしに出した川端康成氏等の軽率な罪はとにかく非難してもいい。あまりいい癩文学などは実際からいふと必要はない。黙って患者を収めて、ぢっとして消滅する日を待てばそれでよからうといふものである。予防協会あたりは一人でも多く患者を収容できるやう費用を出せばよいので変なパンフレットや文学の話などは絶対にしない方がいいといふものである。必要なのは癩のなくなることだ。だつて一向に癩がなくならないではないか。

 この日戸の文は、当時としても極端な意見とみなすべきものであろうが、官立の療養所で営まれていた文藝活動の困難さを我々に伝えるものである。北條民雄の日記には、彼が、療養所文學-当局の管理のもとで、慰安と教化の方針のもとに編集された文学-を如何に嫌っていたか、また、自分の文学をそのような意味での「癩文学」として読まれることを拒絶していたか-そういう記述が随所に見られる。そして、そういう北條のいわば「本音」の部分は、戦前に公刊された全集では、多くの場合、伏せ字とされていたために理解不可能なものとされていたことに注意したい。

たとえば、昭和12年度の北條民雄日記には、次のような文がある。[8]

1月28日。民衆から・・・・[9]を奪ったら何が残るか。なんにも残りはしないのだ。彼等はこの言葉の中に自己の心の在り場所を求めようとしてゐる。それは何千年かの間に築かれた××であるにしろ、しかし彼等はこの・・・・[10]によって、心の安定を得てゐるのだ。それは国家そのものに対す態度である。現在の彼等にとっては、これのみが残された唯一の・・・・[11] なのだ。重要なのはこの点だ。

2月1日。夜、光岡良二来る。十時近くまで語る。一七歳のとき、・・・・[12]の洗礼を受けた自分は、一切の「権威」といふものを失ってしまひ、そのために心の置き場なく揺らぎ続けてゐるのだ。彼は形而上のもの、即ち神を持ってゐる。しかし自分には神はない。人間すらも信じきれぬ。

 この北條日記(昭和12年)には、療養所の検閲制度への批判、マルクス主義への共感、天皇が民衆の偶像であることを記した記事等があるので、日記を預かった友人の東條耿一は、当局に没収されることをおそれ、総てを書写したうえで川端のもとに送り、もとの日記を手元に置いていた。創元社の全集では問題の箇所はすべて伏せ字にしたうえで公表された。この自筆日記は、東條耿一の妹の津田せつ子より某カトリック司祭の手にわたり、戦後しばらくのあいだ行方が分からなかったが、1993年になって漸く高松宮記念ハンセン病資料館開設に際して、(還俗した)この司祭より返還され、時在は、ハンセン病記念館に展示されている。

 

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自己物語と救済ー明石海人、北條民雄、東條耿一の生と死(その3)

2020-11-30 | 文学

自己物語と救済ー明石海人、北條民雄、東條耿一の生と死(その3)

(3)詩―北條民雄の「いのちの友」東條耿一とキリスト教

 昭和12年2月の「山桜」には、北條民雄がその日記の中で「いのちの友」と呼んだ東條耿一の「初春のへど」という文章が掲載されている。昭和12年1月の「山桜」には、北條民雄の「井の中の正月」がでていたことを考えると、この文も又、昭和11年の「長島騒擾事件」、ストライキをした患者を「井の中の蛙」と批判した塚田喜太郎の文章に露骨に見られるような療養所の文藝の「あり方」に対する根本的な批判であるという、そういう文脈の中に置いて読むことが出来る。

 塚田喜太郎が昭和十一年の山桜に発表した文と、それに反論した北條の「井の中の正月」という文は、所謂療養所文藝がいかなる時代に如何なる状況の下で書かれていたかを知る重要な資料である。この時期の東條耿一と北條民雄の文学に対するスタンスは非常に近いという印象がある。

「文学をしなければ生きられないが、同時にその文学を軽蔑せずにはいられない」というジレンマに二人とも直面していた。それは、北條民雄の日記の中にはっきりと現れている。とくに療養所文學ー当局の管理の中で、慰安と教化の方針のもとに編集された文学-の限界を彼等は感じていたはずである。

 北條民雄は、マックス・シュティルナーの「唯一者と所有」一冊をもって療養所の外に飛び出し、自殺を常に念頭におきながらの放浪の後で、どうしても死にきれずに療養所に舞い戻り、再び文芸の創作に戻る。しかし彼は、心身の疲労から腸結核になって、昭和12年から重病棟に入る。こういう北條を東條耿一は側にいて、つぶさに見ていた。この時期のふたりの文章に、このシュティルナーとニーチェへの言及が見られるのは、この西欧の思想家の書いたものに共感するものがあったからだろう。「初春のへど」は様々な二律背反に苦しむ東条の分裂した姿を提示している。

  東條耿一が「初春の反吐」のなかでいっている「義務の文学」とは聞き慣れない言葉である。もっと分かりにくいのは「現実の負担を軽くする義務」という言葉であろう。何かを東条はそういう言葉で伝えようとした。誰かの思想、たとえば悲劇の哲学、不安の哲学を説き、ドストエフスキーとニーチェを論じたシェストフの本などの影響があったのかも知れないが、あくまでも東條自身の生の文脈に即して、この言葉の意味をもういちど考えてみよう。

 「現実の負担を軽くする権利」と言うのならば、現代の我々にはわかりやすい。病人には、病苦を軽減する措置を療養所に求める「権利」がある。しかし、東条は「権利」ではなく「義務」といっている。底本を確かめてみたが、これは誤植ではない。
 すると「現実の負担を軽くする義務」というのは、どういう意味か。それは文学作品、詩歌の世界に逃避して、慰めを得るということでは決してないだろう。それでは「慰安の文学」になってしまい、北條や東條がもっとも唾棄したものとなってしまうだろうから。

 おそらく、「現実の負担」は、そこから逃避することによっては、決して解決されない、それを軽減するためには、その負担を負うことを自らの義務として引き受ける事によってのみである、という決意のようなものが、そこで語られているのではないか。

 私は、この「義務」という言葉の使用そのものに、外的な権利主張とは異なるもの、きわめて内面的なもの、彼自身に固有なものにたいする責任、あえていえば「自己の存在に対する責任」を感じる。北條民雄も又、川端康成宛書簡で次のように言っている。

この作、自分でも良く出来ているような気がしますけれども、また、大変悪いんではあるまいかと不安もございます。結局自分では良く判断が出来ません。けれど、書かねばならないものでした。(中略)先生の前で申し上げにくいように思いますが、僕には、何よりも、生きるか死ぬか、この問題が大切だったのです。文学するよりも根本問題だったのです。生きる態度はその次からだったのです。

 

「最初の一夜(いのちの初夜)」は、自分の生死を賭した問題に迫られて、「書かなければならぬ」ものであるから書いたと、北條ははっきりと言っている。文藝作品としての善し悪しなどは、二の次であった。北條のこの代表作こそ、彼が自分の存在に対して責任を負い、そこから逃避せずに、負担に満ちた現実を真正面から引き受けて書いた作品、東条の言い方を借りれば、「義務の文学」の初心に貫かれた作品のように思われる。
 更に、この「初春のへど」で注目されるのは、三好達治の詩を引用して

君よ、この詩を心ゆくまで味わつて見給へ。この一篇の作品の中に、清澄な音楽と、渺茫とした味はひが如何に巧みに秘められ表現されてゐることだらう。この詩の情操してゐるものは作者がその心の中に、魂のもの侘しい薄暮を感じ、頬白の啼いてゐる風景の中で、その心に擴がつて來る薄暮の影を、侘しく悲しげに凝視してゐるのである。

と書いているところであろう。東条はこういう三好の様な詩を書くことを目標にしていたからである。
 三好から東條が何を学び、それを自分の詩の世界で如何に展開していったかを知るために、まず「繍眼兒」という表題をもつ三好の詩を見てみよう。

     繍眼兒めじろよ 気軽なお前の翼の音 身軽なお前の爪の音
     嘴を研ぐ微かな剥琢はくたく日もすがら私の思想を慰める
     お前の唱歌 お前の姿勢  さてはお前の曲芸
     それら 願わくば なみされたお前の自由よ やがて私の歌となれ

 昭和10年11月に四季社から刊行された「山果集」に収録された三好達治のこの詩の反響を東條耿一の作品集にたしかに認めることが出来る。三好達治からの詩法、ないし詩語の影響を受けつつ、東條はみずからの生活世界の直中に於いて、それを受けとめ、その意味するものを変容させ、新しい世界を造形している。ここでは、昭和15年に書かれた東條耿一の短歌「静秋譜」から、おなじく繍眼兒を主題とするものを紹介しよう。


  黐棒の尖端さきに小鈴をつけむ小禽ことり来て宿らば忽ち呼鈴べるとならむか
  わが眼はや十尺とさか前方あまりはおぼつかな黐棒はがの小鈴の鳴りをし思ほゆ
  一枚の木の葉の如くぶらさがり繍眼兒は黐はに驚かずをり


 黐棒(はが)というのは、メジロをつかまえる鳥もちの棒のことである。多磨全生園は当時も今も野鳥の多いところで、北條民雄も、とりもち棒で野鳥を捕らえようとする入園者の姿を短編小説に書いている。
 第一首は、その棒の先に小鈴を付ければ、それに小鳥がとまって「盲人を導く鈴」(盲導鈴)となってくれるだろう、という意味である。当時は、作者の目が悪化し、10尺前方もみえなくなってしまった、そのころの歌。
 この短歌に出てくる繍眼兒(メジロ)は、三好の詩に於けるのと同じく、本来ならば大空を自由に飛び回る詩魂の象徴だろう。こころならずも療養所の不自由舎で盲目に近い生活をしなければならない当時の作者は、メジロに自分の姿を見ていたに違いない。

 「願わくば なみされたお前の自由よ やがて私の歌となれ」という三好の言葉は、三好自身の生活世界の中で発せられた「言葉」であるが、それは、療養所で生活していた東條自身によって切実なものとして受容され、東條の世界に於いてあらたに生命を得て、その独自の心の世界の表現ともなり得た。 

 昭和12年に病床にあった北條民雄に、東條耿一は「樹々ら悩みぬ」という詩を捧げている。(文末脚注参照[i]) この詩には「北條民雄に贈る」というサブタイトルが付いている。期せずして、追悼の詩にもなったが、この詩を書いた時点では、東條耿一は、まだ、北條が昭和12年の12月に急逝するということを全く予想していなかったと思う。東條耿一の詩の最後のスタンザでは、天頂高く皓々と照らす月の光のもとで天に向かって「翔け昇らん」とする樹々が、上への超越を目指す作者とその「こころの友」の象徴となっている。大地は二人の安住の場所では、もはやないにもかかわらず、その重力が強く「霊魂の飛翔」を妨げている-その二律背反的な苦しさが詠われている。

 北條民雄は、療養所からの脱出を試み、各地を彷徨したのちに療養所に戻り、昭和12年正月より重病棟に入った。それまでの彼の苦しみに満ちた試みを、仮に「水平的な脱出」というならば、それは不可能であった。
 日本の何処にも北條を受け容れてくれる場所はなく、彼は柊の垣根のなかに舞い戻らねばならなかった。この苦い挫折の思いは、外出許可をもらっても決して故郷には帰らなかった東條自身にもあてはまるだろう。彼らが安住できる場所は何処にもなかったのである。水平的な意味での「脱出」が閉ざされた場合、ひとは垂直的な「超越」をめざす。 西洋の詩の場合ならば、たとえばダンテの「神曲」。政治的に失脚し、行動の自由も未来への楽天的な希望も奪われたダンテは、地獄への下降と天国への上昇という垂直方向の超越に賭けて「神曲」を書いた。この大作の内容は、日常的な時間に翻訳すれば、纔か三日間くらいの出来事である。日常的な時間を縦断するような別種の時間意識がそこにあり、そのような時間に於ける、地獄から天国までの垂直方向への下降と上昇、その緊張を孕んだ運動による魂の救済が「神曲」のテーマである。

 東條の詩に於て、樹々が登攀しようとしている「月」は、天頂高く冴えわたった冬の月である。樹木は、武蔵野にはいまでも随所に見られる欅などの高木などを思わせる。深夜、その高木が、寒月に向かって身を捩らせている。作者はその樹木に向かって、さらに高きところをもとめて登攀せよと呼びかけている。この詩では、晩年の彼の手記に見られる様な、カトリックのキリスト教の復帰という様な具体的な形をとっているわけではないが、「月に攀じよ」という、「いのちの友」への呼びかけのなかに、読者は、東條の垂直的な超越への切実な志向を読みとることができよう。

 東條耿一は昭和15年に「閑雅な食欲」という詩を「山桜」に発表しているが、このタイトルそのものは、大正12年刊行「青猫」に収録されている萩原朔太郎の詩から借りたものである。表題が同じと言うことは、耿一が朔太郎の影響を受けたことを窺わせるが、その内容は非常に異なっている。そこで、この二つの詩を比較することによって、晩年の東條耿一の詩の世界の特質を考えてみたい。

 光岡良二は、「昭和10年代の全生園作家達」というエッセイのなかで、全生詩話会で盛んに詩を発表していた頃の東條は「背徳的で、朔太郎やボードレールに傾倒していた」が「病勢が次第に進み、盲目になるに及んで、静謐なカトリック信仰に入っていった」と書いている。 「詩人から信仰者へ」という要約はやや図式的に過ぎるし、光岡自身が晩年の東條を直接には知らなかったということに留意する必要があるが、初期の習作時代に東條耿一が様々な詩人達の影響を受けたことは明らかであるし、とくに東條環や環眞沙緒子の名前で投稿した詩編には、「朔太郎やボードレール」の影響は確かに認められる。

 しかし、後期の詩群、とくにここで紹介した東條の詩には、「環」時代の詩とははっきりと異なった傾向が顕著になっている。初期の詩の特質は、自己が療養所で詩を書いていると言うことを否定するようなところがある。むしろ、療養所の現実を離脱し、様々な「仮面をつけて」詠うこと-詩的言語の世界のみに没入し、そこに虚構されたもうひとつの現実を生きること-が希求されている。これに対して、北條民雄がなくなった後に書かれた詩群においては、療養生活をしている自己の現実そのものを凝視し、そこに素材を求めることが多くなっている。

 そのことは、昭和15年に書かれた東條の詩「閑雅な食欲」にもよく現れている。嘗て彼が影響を受けていた萩原朔太郎の詩から、晩年の東條耿一の詩がどれほど隔たっているかを見てみよう。(文末脚注参照[ii]


 朔太郎の詩「閑雅な食欲」の場合は、あくまでも、現実には存在しない「追憶の夢の中の珈琲店」での食事が、言葉によって造形されている。これに対して、東條耿一の詩の場合は、療養所での朝の食事の有様が、そのまま詠まれている。戦争直前の物資の欠乏している頃の療養所の食事がどれほど貧しいものであったか、我々は当時の記録から知っている。古米と麦飯、一汁一菜の貧しい食事、刑務所の場合と大差のないものだったであろう。それを朔太郎がかつて追憶の中で詠った詩のイメージを借りて東條は「閑雅な食欲」をもって「おろがみたい気持ち」で感謝とともに頂いている。

 戦争中の食糧難の時代、飢えの体験、それらを直接経験でなく、あとから回想するのであれば、我々は過ぎ去ったこととして、懐かしむことも出来るだろう。追想の場合は、現在の直接性から距離を置くことができるから。東條の詩「閑雅な食欲」の特徴的なことは、そのような苦しい現実を、我々が過去を回想するときの様な平静さで、作者が受容していることではないか。ユーモアとは、「・・・にもかかわらず笑うこと」であるとは、ホスピスや緩和医療の臨床の中で思索されたデーケン氏の言葉であるが、そのような「逆境に於けるユーモア」をこの詩から感じる。


 私は朔太郎のオリジナルな詩よりも、東條の書いた「閑雅な食欲」のほうに惹かれる。詩の技法とかイメージの配合などの点では、たしかに東條は随所で達治や朔太郎から学んでいるが、東條の詩には技法以上のものがある。藝術作品には「意匠」も大切ではあるが、それ以上に、一人の人間が詩を書くときの根本的な視座のほうを問題にしたい。
  たとえば朔太郎の「閑雅な食欲」は、現在そのものを詠んでいるのではなく、「夢の様な追憶」の中で、ある意味で理想化され美化された過去の情景が詠みこまれている。これにたいして、東條の場合は、過去でも未来でもない、「現在」の現実そのものを強く感じる。ただ、その現在の現実とは、たんなる移ろいゆく現在ではない-すぐ過去になり、未知なる未来の不安に戦いている相対的な「現在」ではなくなっている。敢えて言うならば、自分の療養生活の一こまーこまの移ろいゆく姿を、東條は、揺れ動くこと無い「現在」-絶対的な「現在」-から、見ている。


     生きることが何がなし
    嬉しいことだと考へる
    死ぬことは生きることだと考へる


 このさりげなく挿入された言葉に、私は惹かれる。とくに「死ぬことは生きることだと考へる」の一行に。

 詩や小説の創作の中で、作者は「物語る」行為の直中に於いて自己を確認する。それは自画像を描く事に似ている。これは、自己の現実から逃避して詩の中に別世界を建立することで慰安を見出していた初期の東條の詩群にも、療養所の自己の生活を直視して、それをあるがままに詩の中に詠み込もうとした後期の東條の詩群にもひとしく当て嵌まる。その場合、描かれる自己と描く自己との関係は如何なる者であろうか。  

 ここでは、彼が、療養所での直接体験を素材としたと思われる二つの物語-散文詩ともいえる-を比較することによって、物語的な自己同一性について考察してみたい。

 比較のポイントは、自己が自己を物語る場合、物語る主体としての自己のあり方が、描くことを通じて新たに再生すると言うことである。とくに、作品の推敲ないし改作という事態を詳しく検討してみると、作者の旧い自己が脱ぎ捨てられ、新しい自己が生まれるその現場に立ち会うという、稀な事態にも出くわすことがある。作品の改訂ないし推敲のプロセスの中に、読者は物語の作者の自覚の深まりを読みとることが出来るからである。

 我々が問題とする物語の一つは、「山桜」昭和12年10月号に掲載された「晩秋」で、これは同じ号に掲載された「夕雲物語」の続編になっている。

 東條耿一が昭和12年10月に「山桜」に発表した「晩秋」と、昭和16年6月に「聲」の発表した手記「鶯の歌」の最後の部分を比較してみたい。(文末脚注参照[iii]

 「晩秋」では「ハルちゃん」という女の子が、「鶯の歌」では、「三郎君」という少年に変わっている。このハルちゃんという少女には実在のモデルがいて、全生病院では評判の少女であったようで、北條民雄の随筆にも登場する。東條は、「鶯の歌」では、そういう、実在のモデルの登場するゴシップ的な内容になることを避けて、登場人物を孤児の少年に変えている。少女を少年にかえたことの理由としては、もうひとつ、新作に登場するこの少年がある意味で東條の分身であること、すなわち彼も又、東條自身の自画像でもあることを暗示しているのかも知れない。

 同一の素材が、4年後に異なる物語として語り直されるとき、それは作者自身の自己認識が大きく変容したことを意味している。たとえば、「晩秋」では、その最後のスタンザは

ああ肩の上の少女の聲に

しみじみと自省す はんぎやくの虚心・・・・・。

で終わっていたものが、「鶯の歌」では

少年は眞赤に燃えた夕雲を指して見せた。そして私が肯くと、肩の上に立上がるやうにしてバンザーイと叫んだ。私も大きく胸を張つて「ラボニ」と叫んだ。

 

と変わっている。(ここで、ラボニ(師よ)とは、新約聖書でイエスに向かって弟子達が呼びかける尊称の一つ) 短調で奏でられた「晩秋」の最後の聯が、「鶯の歌」では、一転して、肯定的な長調の協和音となってフィナーレを迎えたという印象を与える。 憂いに満ちた短調の「晩秋」が、力強い長調の調べをもつ「鶯の歌」へと変貌したこと、当然の事ながら、4年間の間に語り手である東條自身が変わったと言うことを意味するだろう。

 旧い方の作品では、少女の子供らしい信仰の世界は、作者にとってはまだ疎遠なものである。いうなればおとぎ話の世界を少女に物語る役割を自ら演じているのであり、そういう自己を東條は「肩の上の少女の聲にしみじみと自省す はんぎやくの虚心」という言葉で描いている。少女に語って聞かせた世界は、カタカナで表記されている。これは、暗に、それが仮想された世界であり、作者にとっては心底からは信じられないものであることを示している様だ。これに対して作者の自己自身の世界は平仮名で表記されている。そこには少女の物語と作者の現実との分離が表されている。物語の夢から覚めてみれば、現実の作者は「はんぎゃくの虚心」しかもちえない自己に直面せざるを得ない。そういう自己への「反省」こそがこの物語の主題であろう。

 新しい物語からは、カタカナの表記が消えているが、それは物語る世界(信仰)と物語る作者の現実を隔てていた壁が突破されたことを意味している様だ。以前の物語行為に於いては単なる夢物語に過ぎなかったものが、ここでは作者の現実そのものとなり、物語られる世界こそを現実として肯定する「ラボニ!」という叫びが、語り手の意志、新しく獲得した信仰の世界において再生した作者自身の実存の表現になっている。

 我々は、常に自己自身の過去を物語ることによって、その都度、自己が如何なる人間であるかを確認する。そしてそういう自己確認-最近の物語論ではnarrative self-identityと言うことが多くなったが-こそが、本質的に時間的な存在である我々自身のありかたを示すものなのである。 

 「自覚とは自己が自己に於いて自己を映すことである」とは西田幾多郎の言葉であるが、その自己は、實は、その都度、自らのそれまでの経験を集約統合し、それまでに遭遇した他者との出逢いを含みつつ、自己同一を獲得する。我々の自己確認は、自己の世界を、その都度一なるものとして再組織化することを意味する。そして、物語という言語行為は、それ自身が創造行為であり、その都度、自己と世界を、読者という他者の前に、作品として与えるものであるといって良いだろう。

 昭和16年の「山桜」3月号に載った「落葉林にて」という東條耿一の詩(文末脚注参照[iv])は、同じ年の「聲」一月号に載った手記「癩者の父」とあわせて読むべき作品だろう。

手記「癩者の父」を東條は次の言葉で結んでいる。

こちらに來て、私もカトリツクに復歸してみると、又老いた父母のことが氣になつてならない。恵まれなかつた生涯だけに、救霊の方法を是非講じてやらなければならぬと思つた。私は又父に對して長文の手紙をかいた。父からは何の返信もなかつた。私は重ねて手紙を書いた。その父も胃癌で今は重湯も飲めない。医師は既に餘命幾何もないと宣してゐる。若し神の存在が考へられず永生と云ふものが我々に約束されてゐないとしたら、私は父を思ふに忍びないであらう。私は主の御前に額づいて祈るばかりである。それだけが私に與へられた唯一の道であり孝心である。

 かつて父親から剃刀を渡され自害することを勧められたこと、また復生病院へ行く途中、この父親と心中したかもしれないというようなことなど、想像を絶するが如き状況を生きてきた父と子の姿が「癩者の父」では、ありしままに綴られている。

 東條自身の「親不孝」を云う以前に、子供を殺して自害したかも知れないと云う点では、父もまた息子に対する殺人未遂の罪をまぬかれない、そういう極限的な状況を嘗て共有した父と子なのである。その父のことを、東條は、昭和16年以前では殆ど作品に於いて言及していない。しかし、その父が胃癌に苦しんでいるという報せを聴き、自分自身もまた死期を予感しつつあった東條は、その父に対する情念を、この詩では、誰に憚ることもなく吐露している。

 胃癌に苦しみ「心むなしくやみたまふ」父に対して、救いの手を差しのべることが出来ない自分を、「親不孝者」として詰ること、そのような自責の念をぶちまけることこそが彼にとっては、父親に対する愛情の表現であったのであろうか。

 そのかぎりない悔恨が、落葉のなかに埋もれていく父の幻影として、あるいは落葉林を吹きすさぶ風のなかに聴きとめた呻吟する父の声によって示されている。「癩者の父」の末尾に置かれた短歌二首は、この執拗な幻影・幻聴を鎮める祈りの言葉のように思われる。

  三人の癩者の父と生れまして心むなしく病みたまひけむ

  ふたたびは生まれることなしうつし世に仕へる時よつひにあらぬかも

 この歌を詠んだとき、東條は自分のみではなく、父の魂が遂に平安を得ていないこと、自分が何一つ父のためになることができぬうちに父がなくなることがもっとも気掛かりであった。この肉親の父への切々たる思いを抜きにして、「父なる神」と子の和解というテーマをもつ遺稿「訪問者」第二編は充分には理解できないのではないだろうか-そういう思いが私の心中を去らない。

 次に東條耿一の遺稿集から「訪問者」という詩を取り上げよう。[v]

 東條耿一は、「癩者の父」という自伝的回想と「落葉林にて」という詩の中で、実の父とのあいだの過酷な関係と心の葛藤を表現していたが、この遺稿「訪問者」の「父」は、「父なる神」である。

 東條は、神山復生病院で受洗したが、退院後、カトリック信仰から離れ、文藝の創作のほうに生き甲斐を見出すようになる。北條民雄の葬儀後、カトリック教会に復帰したが、その時の心境をテーマにしたものが、この詩であろう。 この詩の中では、

 

吾今より汝が裡に住まむ

汝もまた吾が裡に住むべし

父よ、忝けなし

われ、何をもておん身に謝せむ

わが偽善なる書も、怯懦の椅子も

凡て炉に投げ入れむ

わが父よ、いざ寛ぎて、暖を取りませ

 

という箇所に注目したい。つまり、冬の寒い日の戸外で佇んでいた「父なる神」に暖をとってもらうために、自分が安逸を求めて坐っていた椅子と、自分がもっとも重んじていた過去の創作を炉にくべるという箇所である。 

 そこには、非キリスト教的な文学と訣別して、信仰の道を一筋に歩もうとする彼の決意があった。妹の津田せつ子によれば、実際に東條は自分の未公開の詩作品を焼いてしまったという。そのために、彼の遺稿には、この訪問者以外の詩が残っていない。

 この詩では、東條自身の「父なる神」との和解が、東條を訪れた訪問者のイメージを借りて詠われるが、それは同時に地上に於いて「三人の癩者の父」として辛酸をなめつくした肉身の父のイメージを借りて表現されているようだ。嘗て父に対して門を閉ざした子は、信仰に目覚めぬ一人の人間の姿でもあるが、それと同時に、肉親の父を拒絶した東條自身でもあったろう。凩の吹き荒ぶなか戸外で佇む父、「久しく凩の門辺に佇ちて、汝を呼ぶことしきりなれば、吾が手足いたく冷えたり」と語る父は、なんと「落葉林にて」の父と似ていることだろうか。

 父なる神との和解は、「父よ、われをしてこの歓喜の裡に死なしめよ/父よ、われをしてこの希望の裡に生かしめよ」という言葉で示されているが、父なる神との和解の祈りが、同時に、それを通して、肉身の父との和解と救済への祈りになっているように感ぜられる。

アッシジの聖フランシスの「平和の祈り」には、

我等は、与えるが故に受け、ゆるすが故にゆるされ、

おのが身を捨てて死するが故に、永遠の生命を得る

という言葉がある。これは、カトリック教会、とくにフランシスコ会の教会ではミサの後でよく唱える祈りであるが、「死するが故に永遠の生命を得る」とは、ヨハネ伝の「一粒の麥」の譬えとおなじく、新約聖書の核心にあるメッセージである。

 東條耿一の昭和17年7月の「山桜」に掲載された「病床閑日」という詩を最後にとりあげよう。東條は同年9月4日に亡くなっているから、遺稿「訪問者」を別にすれば、これが東條の最後の詩であるといってもよいかも知れない。

  病床閑日

私はけふ 晝のひと時を

庭の芝生に下りてみた

陽はさんさんとそゝぎ 近くの樹立に松蝉が鳴いてゐた

私は緑のやは草を踏みながら 踏みながら

そのやはらかな感觸を愛しんだ

不思議なほど 妖しいほど 私の心にときめくもの

一体この驚きは何だらう

思へ寝台の上にはやも幾旬――

もうふたたび踏むことはあるまいと思つてゐた

この草 この緑 この大地

私の心は生まれたばかりの仔羊のやうに新しい耳を立てる

新しい眼を瞠る そうして私は

私の心に流れ入る一つの聲をはつきり聞いた

それは私を超え 自然を超えた

暖いもの 美しいもの

ああそれは私のいのち いのちの歌

(「山桜」昭和17年7月号)

 私は、この詩の最後に出てくる、「いのちの歌」という言葉に撃たれた。これこそ、かつて北條民雄が「いのちの友」と呼んだ東條耿一の作品の精神をもっともよく表すものではないだろうか。

 東條はこの詩が発表されてから二ヶ月後に亡くなったが、結核性の腹膜炎を併発し、非常に体調が悪い時期であった。この詩は、そういう苦しい病床の中で、比較的、病が小康状態であったときに詠まれたものである。 

 この詩で、「新しい眼を瞠る」という箇所に注目したい。作者は、もはや「古い眼」で外なる自然を見ているのではない。そこで「私を超え、自然を超えた」声、鳥たちの囀りを聴いていると、それは、もはや「束の間の消えゆくもの」としてではなく、「永遠のいのち」として、そして同時に「私のいのち」として聴かれている。「この草 この緑 この大地」は、この世のものであるが、そこにおいて、「永遠なるもの」が先取されているような、そういう響きがある。 

 アッシジのフランシスの平和の祈りには、様々なバージョンがあるが、あるバージョンでは「永遠の生命を得る」ではなく「永遠の生命に目覚める」となっている。眠りから覚めて、新しい眼を瞠るとき、どういう情景が見え、どのような聲がきこえるのか。それは決してまだ訪れない未来のこととしてのみ語られているのではない。そういう未来は、必ず訪れるべきものとして、病床の中にいる東條の「新しい眼」において、直接に経験されている-そういう強い印象をこの詩は読むものに与えるのである。

 最後に、 東條耿一の遺稿「癩者の改心」を取り上げよう。 全生園のハンセン病図書館が閉鎖され、その書籍をハンセン病資料館に移転することが自治会によって決定されたとき、 私は、図書館の利用者の一人として、旧い書籍の整理の手伝いをしていた。そのおりに偶然、 カトリッ ク愛徳会の旧いガリ版刷りの園誌「いづみ」のなかに、 この東條耿一の遺稿を発見したのである。

 

 この遺稿の内容は、「癩者の父」 にはじまる東條耿一の手記と並んで、 彼の最晩年の心境を伝える貴重なものであっ た。当時のカトリック教会の聖務日課の祈りが引用を中心に配して、東條は死を前にして、「改心」した自己自身について次のように語っている。

主の御胸によりかかりて
福音のきよき流れを、主の
御胸の聖き泉より飲みぬ、かくて
神の御言葉の恩寵を全世界にそそぎいだせり。
(福音史家聖ヨハネの聖務日課の答唱)

 私は苦痛の重荷を感ずると何時も、ヨブ記を繙くことにしています。 これはヨブ記に自己の苦しみを紛らせる為でなく、 ヨブの如く苦しみを愛したいが為であります。 ヨブが神の試みに逢ってサタン の手に渡され、 その持物、 羊、 駱駝、 馬、 夥しい 僕(しもべ)等をことごとくサタンの手により奪われ、家は覆され、身は癩になって了い、かくして激しい苦杯を舐め、惨苦のどん底に突き落されたのでありますが、 ヨブはなお天を仰ぎ地に伏してエホバの御名は讃むべ きかなと神に光栄を帰しています。 惜しみなく奪う神の愛をヨブははっきりと知っていたに違いありません。 
 私は基督教的苦しみの忍従が限りなき喜びであり愛の勝利への転換であることを述べましたが、 私の貧しい言がどれだけあなたの心を掴み得たかと思うと甚だ心淋しさを覚えます。 私は己に苦しみを望みませんが与えられる苦痛は神の愛として肯定し、 喜んで力の限り愛したいと思います。 苦痛を愛の忍従に転嫁してヨブの如く生きたいと思います。 惜しみなく恩恵を奪われた者のみ、よく真に神の愛を感ずる事が出来るでしょう。 苦痛を愛の忍従に転嫁してヨブの如く生きたいと思います。
   私を癩者に選び給いし神は讃むべきかな。

 この最後の言葉、「私を癩者に選び給いし神は讃むべきかな」は、 東條耿一が我々に残してくれた作品集の最後の言葉となった。それはきわめて重い言葉である。いまの読者は、このような東條の言葉をどううけとめるであろうか。「癩」という言葉すら差別語として禁句となり、 聖書の翻訳でもそれを「重い皮膚病」 と置き換えるようになってはいるが、今回出版された東條耿一作品集では、 現在の基準では差別語として使われない 言葉であっても、東條が使った言葉をそのまま収録したのである。
 いうまでもなく「癩病」 を「ハンセン病」と言い換えるようになったのは、この病が治癒可能な病気となっ たことを一般の人々に告知徹底するという啓蒙的な意味があった。「不治の業病」 というイメージの固着した「癩病」 という言葉を使用禁止にし、 ハンセン病と言い換えることは、 病の意味づけを変更し、 偏見を打破する必要から積極的に推し進められたのである。 それは時代の要請であったし、 また社会復帰者を支援するとい う意味からも当然のことであった。

 しかし、 文学や宗教が問題となっているときには、 機械的に言葉の置き換えを行うことによっ て失われるものも多い。 とくにこの病に苦しんできた旧い 世代の回復者の中には、 自分の罹患した病気が「重い皮膚病」と呼ばれることに納得できない ひとも居るのである。 また、 ヨブ記の主人公のかかっ た病気は、 医学的に考えるならば、現在我々が理解してい るとおりの「ハンセン病」ではなかったかもしれない 。 しかし、その病は歴史的に「ハンセン病」 として理解されてきたことは事実であるし、 東條自身もそのように読んでいたのである。 大事なことは、 ヨブの受難の意味であり、 その医学的な病名が何であったかということではない 。
 東條耿一は、「癩者」という差別と偏見に充ち満ちた言葉を忌避せずに、 それを全面的に引き受けた上で、その世間的な意味を宗教的に転換して、神の讃美と感謝の祈りとしている。 これ以上の回心があるだろうか。 「癩者の改心」 は、時代を超えて読者に宛てられた、 東條耿一の内面を吐露した書簡なのである。

 

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