歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

篝の舞楽

2018-08-12 | 日誌
 
 東西宗教交流学会に出張するついでに、8月4日夜は、大阪で前泊し、四天王寺講堂前庭で「篝の舞楽」を観賞した。飛鳥時代に中国から三韓経由で伝えられた舞楽であるが、現在は大陸では消滅し、ただ日本にのみ遺され保存されている貴重な文化遺産である。その構成は
「振鉾」(えんぶー鉾を振って天神地祇を鎮魂し事の成就を祈る。舞楽の序曲)、「篝の火入れ」、「桃李花」(初唐、曲水の宴で上演されたと云われる曲)、「林歌」(高麗楽による舞)、「還城楽」(林邑僧仏哲が伝えた林邑八楽の一つ)、「長慶子」(源博雅の作曲した慶祝の意を込めた終曲)という約一時間半の興行であった。
 グレゴリオ聖歌が西洋音楽のルーツにあるとすれば、聖徳太子の時代に伝えられた舞楽は、日本の伝統音楽、能や歌舞伎の演舞の源流を為すものだろう。
 「篝の舞楽」は一年に一回しか上演されないが、これを聴こうと思い立ったのは、シルクロードから中国、三韓を経由して日本に伝えられた音楽と舞の源流に触れることによって、典礼音楽に関する東洋の心を知りたいと思ったからである。
 ヤスパースの云う「枢軸時代」の中国には、ギリ...シャの音楽論や、アウグスチヌスの音楽論に劣らぬ、東洋独自の音楽論がすでに存在していた。例えば「論語」には次のような注目すべき音楽論がある。
 「子語魯大師樂,曰:「樂其可知也:始作,翕如也;從之,純如也,繳如也,繹如也,以成。」
 子魯の大師に樂を語りて曰く「樂は其れ知るべきなり:始めて作(お)こすに,翕如(きゅうじょ)たり;これを従(はな)ちて,純如(じゅんじょ)たり,繳如(きょうじょ)たり,繹如(やくじょ)たり,以って成る。」

 同時に複数の楽器が異なる音を演奏しながら、混沌に陥らずに見事なハーモニーが得られるということは、音楽のすばらしさである。その音楽のオーケストレーションの妙味を簡潔な言葉で表現したものが上で引用した論語「八佾第三」の文。

吉川幸次郎の論語注釈によると

翕如(きゅうじょ)=もりあがるような金属の打楽器の鳴奏
純如(じゅんじょ)=諸楽器の自由な参加(從之)によってかもしだされる純粋な調和
繳如(きょうじょ)=諸楽器がそれぞれに受け持つパートの明晰さ
繹如(やくじょ)=連続と展開
以成(いじょう)=音楽の完成
とのこと。

ここでは「如」という言葉がキーワード。孔子が人の眞實のあり方を指して言った「仁」とは、人と人との調和ある人格的関係をさすが、この関係を基盤とする社会的関係に調和と秩序をもたらしつつ、社会に於ける人格の完成を、時間的な生成の場において、「如實」に表現したものが音楽なのである。

すなわち、音楽は「一」なる始源から発し、「多」なるものへと展開発展した後に、再び一なる調和へと帰一していく宇宙と社会の調和の表現なのである。

 江文也の「孔廟大成楽章」の英訳者は、「迎神」の第一楽章、「送神」の第六楽章でいうところの「神」をthe Spirits と訳しているが、ここでいう「神」をどう捉えるべきであろうか。様々な見解があろうが、「怪力乱神」を語らぬ孔子を祭るときに「神」なる言葉を使うことの意味をさらに考察したいと思った。
 孔子は「神」について語ることを慎んではいたが、詩と音楽を媒介として、あたかも「神」がいますがごとく、「典礼」に与ることは重視していた。すなわち、孔子の倫理はあくまでも人間の立場を離れないが、超越へと開かれた人間存在をそこに読みとることが出来る。そして閉ざされた人間の自己中心性を越えるように促すものこそが音楽であり、それ故に音楽は人間の教養の完成に不可欠なものなのであった。

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夢の如き真實―五十嵐一君の思い出

2018-07-19 | 日誌

夢の如き真實―五十嵐一君の思い出 

田中 裕

 五十嵐一君と初めて会ったのは、本郷の理学部数学科への進学が決まったあとの駒場の教養課程二年生の秋学期、英語の授業の時であったと記憶している。五〇年以上前のことというと、すべてが夢のようでもあるが、反面、昨日の出来事よりも遙かに強いリアリティをもって思い出されるような気もする。短期記憶のあやしくなった老人の繰り言と思って聴いて頂きたい。

 あれは、グレハム・グリーンの短編小説を学生が順番に読むという演習であっただろうか、五十嵐君の番が来たときに、彼は、開口一番、担当の教師にむかって、「先日のシェークスピア学会ではお世話になりました」と言った。大学二年生の時にすでに日本シェークスピア協会の会員だった五十嵐君は、同じ研究者仲間としてその英語教師に挨拶したのだろう。大学院生ではなく学部生、それも理科一類の教養課程の学生が、単なる趣味でシェークスピアを読むというのではなく、学術的な場でシェークスピアについての研究活動を専門家と共にしていたというのは、にわかには信じがたいことのようにも思われようが、それが若き日の五十嵐君だったので、今回想してみるといかにも五十嵐君が言いそうな言葉であった。

 当時の駒場の教養課程は、旧制一高の面影をまだ十分に残していて、およそ実用とは縁のない古典のテキストが演習で使われていた。五十嵐君と同じく理科一類から数学科へ進学した私の場合でも、一年生の時に「ハムレット」、二年生の時に「ジュリアス・シーザー」および「十二夜」を講読する英語演習をとったのを覚えている。ジョン・ギールグッドを初めとする名優達の演ずるシェークスピア劇をテープレコーダーで聴かせながら、語学演習を指導する先生達ご自身も楽しみながら授業―というより雑談―をしていた。

 五十嵐君には、当時から、どこか「専門家を超えるアマチュア」という趣があった。大泉学園にあった彼の家の書斎には、古今東西の文藝や哲学の古典―それは翻訳ではなくほとんどが原書-がおいてあったにもかかわらず、彼は他人の学説を受け売りするディレッタントとはほど遠い存在だった。自由闊達なプラトン的対話術を身につけ、常に聴くものを楽しませながら古典の世界へと我々を啓発してくれたものである。

 本郷の理学部数学科に進学してまもなく、大学がバリケードで封鎖され、安田講堂に立てこもった「全共闘」の諸君が機動隊に排除された「学園紛争」の時代となった。数学科でも同級生のN君が機動隊に逮捕されたので、それを気遣って拘置所まで、仲間と一緒に衣類や日用品の差し入れに行った記憶がある。拘置所から戻ったN君―サルトルを引用した安田講堂での彼のアジ演説は今でもよく覚えている―を囲んで数学科の同級生が一席設けたことがあった。その席で五十嵐君は「ソクラテスはなぜ脱獄しなかったか」という話をしたのである。「中核」や「革マル」のイデオロギー的言説とはほど遠いソクラテスの話を五十嵐君がなぜしたのか、当時の私にはよくわからなかったが、いまにして思えば、要するに、「自分の持ち場を離れず、中途半端な妥協をするな」ということが言いたかったのかもしれない。学園紛争が終焉に向かい始めた時に現れてきた様々な妥協的・偽善的な動きに反発していた五十嵐君は、「衣の下に鎧を隠す」ような「民青」のやり方を嫌い、表裏のない「全共闘」のほうに共感していた。ノンポリであるが故に政治的な過激派以上にラジカル(根源的)たらんとするのが五十嵐君の立ち位置だったのだろう。

 学園紛争の時代の五十嵐君の話は、シェークスピアよりもソクラテス、プラトン、アリストテレスのギリシャ哲学であり、ホメ-ロスの叙事詩の世界が中心となっていた。彼は、翻訳や近代語訳を介さずに、所々ギリシャ語原文を引用しつつ、自分自身の言葉で独特のホメ-ロス解釈、プラトン解釈を語ってくれたものである。

 卒業が近くなった頃、五十嵐君と私、そしてのちに筑波大学で数学教授となられた木村達夫君の三人で、数学科の伊藤清三先生―ルベーグ積分についての先生の書かれた教科書は今でも使われている-のご自宅でご馳走になったことがあった。そのとき、木村君が披露したベートーベンの「月光ソナタ」のピアノ演奏とともに、五十嵐君のホメ-ロス、とくに「イーリアス」の冒頭部分のギリシャ語による朗唱がきわだって記憶に残っている。木村君が合気道の達人であることは知っていたが、まさかピアノが弾けるとは思っていなかったので、その文武両道ぶりに驚いたわけだが、五十嵐君の「イーリアス」の朗唱もそれにおとらず素晴らしく、まるで平家物語を物語る琵琶法師の物語を聴いているかのような感があった。Klyde Pharr のHomeric Greekを入手して、遅ればせながら私がギリシャ語の学習を始めるようになったのは、全く五十嵐君の影響であった。

 ギリシャ語の詩の世界の音韻の美しさもさることながら、プラトンの美学についての五十嵐君の独特の解釈にも大いに惹かれた。プラトンはソクラテスを主人公とする作品を書くことによって、「善のイデア」に向かう自己自身の人生を作品化したのだというのだ。その考え方にもとづいて、「神の友」となったプラトンについて五十嵐君は情熱を込めて語ってくれた。それはプラトン解釈という次元を超えて、各人が作者にして主人公に外ならない自己自身の人生を主題として書く文藝制作の作法(エクリチュール)の機微に触れるものだと思ったものである。

 五十嵐君も私も、『国家』の有名な「洞窟の譬喩」や、詩人追放論をどう解釈すべきかという問題に関心があった。ミメーシス(創作的模倣)の達人でもあったプラトンがなぜ詩人のミメーシスを批判したのか?国家のイデア論では、常識人が現実だと思っている世界は、真実在の「影」ないし「模造」である。詩人追放論では、詩人は、そのような感性的な現実の模倣をこととし、「模造」の「模造」を語るが故に、真実から二重に遠ざかるがゆえに追放されるべきだとプラトンが非難しているように見える。しかし、五十嵐君は、そういうのは皮相な解釈だと言っていたように記憶している。「影の影」であっても、下手な詩人の通俗的な仕方ではなく、イデアそのものを影現させ、読者に如実にそれを直観させる新しい語り方、あるいは書き方をプラトンが発見したと言うことだったのだろう。

 五十嵐君がなぜ数学科に進学されたのか、ご本人から聞いたことはなかったが、私の場合は非常に単純で、小林秀雄と岡潔の対談『人間の建設』を通じて、数学に関心を持ったからであった。リーマン全集、芭蕉の俳諧、道元禅師の正法眼蔵、そして浄土宗の改革者であった山崎弁栄の「無辺光」を座右の書としていた岡潔に、私は惹かれた。岡の「数学」は、単なる理性を超えた人間の心(情緒ないし霊性的自覚)に根ざしており、それがそのまま文藝と芸術と宗教の世界に通底していたことが一番の魅力だったからである。

 理学部数学科を卒業後、五十嵐君は本郷の文学研究科の大学院で美学を専攻され、私のほうは、当時駒場に新設されたばかりの科学史・科学基礎論の大学院で、「科学哲学」を専攻したので、直接的な交流の機会はすくなくなった。ただし、駒場の伊東俊太郎先生の「ティマイオス」演習には、五十嵐君も参加されたので、このプラトンの後期対話篇を共に読むことができた。語学に天賦の才をもっていた五十嵐君とはちがって、「ティマイオス」のギリシャ語は私には難解であったが、数学科出身の我々にとってこの対話篇は、大いに知的想像力を刺激するものであった。五十嵐君も私も、数学を独自の記号言語を駆使して書かれた一種の詩と考える点で共通していた。当時の英米哲学で流行していた論理実証主義や分析哲学の論理は、数学科出身の我々から見ればせいぜい初等数学のレベルであり、そんなものには魅力は感じなかったのである。分析的論理ではなく想像力こそ数学の生命であり、それも事実を再生する二次的な想像力ではなく、新たなる作品を制作する原初的な想像力が数学という営みを支えており、それはプラトンの「ティマイオス」のようなコスモロジーに直結するのである。

 私がホワイトヘッドとプラトンの研究に没頭しはじめた頃、五十嵐君はギリシャ語やラテン語の世界だけではあきたらなくなり、日本の哲学者達が無意識のうちに前提している西欧中心的な価値観を相対化するためだったのか、次第にイスラム研究に傾倒するようになった。 

 大学院修了後、五十嵐君は井筒俊彦先生の推挽でイラン王立アカデミーに留学され、医学・哲学からイスラムの神秘思想に至るまで幅広い学際的研究を継続された。イランで革命が勃発し王制が倒れた後で帰国したが、イスラム革命についての一般向けの啓蒙書を書く傍ら、イブン・スィーナーの『医事典範』の翻訳書、『知の連鎖―イスラムとギリシャの饗宴」「イスラーム・ルネッサンス」などを立て続けに出版し、私のもとにも贈ってくれた。それらの書物は、伊東俊太郎先生のアラビア科学史研究、井筒俊彦先生のイスラム神秘主義研究、井上忠先生のパルメニデス研究などの影響もたしかに認められたが、そういったあらゆる要素が統合されて、まさに五十嵐君でなければ書けない独創的な知的刺激に充ち満ちた本となっていた。

 五十嵐君から頂いた本の中で、私が最も好きな本は『神秘主義のエクリチュール』である。「桃李歌壇」という和歌と連歌の結社をWEB上に創設した私もまた、彼と同じように道元の著作と良寛の和歌や漢詩に関心を持っていたからである。

 道元の『典座教訓』に収録されている阿育王山の老典座との対話、良寛と貞心尼の相聞歌についての五十嵐君の解釈は、イスラム神秘主義の文献を参照しつつ、文字とは何か、修行とは何か、についての宗教の違いを超えた本物の神秘主義の著作のエクリチュール(文体、書法のエッセンス)を論じていた。

 五十嵐君は、日常性を離れた特殊な少数の人にしか体験できない場所に神秘主義を見いだすのではなく、万人が経験しているはずの日常性のただなかにこそ本物の神秘があるといっているように思う。

 学術の蘊奥を極めることは神秘主義とは無関係であり、宗教的エリートにのみ許された秘密の奥義の伝授などは「徧界曾て隠さず」と喝破した老典座の境涯とは無縁であり、「文字とは何か」と問われるならば、「一二三四五」のごとき幼児の初心に立ち返る学道にこそ凡てであるという簡明にして肺腑をえぐるような言葉がそこにあった。そこで、『神秘主義のエクリチュール』で引用されている良寛の歌を五十嵐君に捧げて、この思い出の結びとしたい。

それは、

君にかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬ夢かとぞ思ふ

という貞心尼の歌に対する良寛の返歌

夢の世にかつまどろみて夢をまた語るも夢もそれがまにまに

である。

 五十嵐君は同書の中で、この歌を

沫雪の中に立ちたる三千世界(みちあふち) またその中に沫雪ぞ降る

という良寛の歌と対比させて論じた歌人上田三四二氏の解釈を長文に亘って引用している。

 上田氏の解釈については、五十嵐君はその精緻さに感嘆しつつも、それは「超高級形而上学」の解釈になっているといって批判を加えている。この箇所は『神秘主義のエクリチュール』のなかでも特に興味深いところであるが、空間及び時間の中に無限包摂の「入れ籠構造」を見る上田氏に対して、五十嵐君は、主客の相互溶融、相互浸透という直接経験を重視されたようである。それは、「三千世界」を「一念三千」を説く天台宗の教学などと関係づけずに、「みちあふち」という「やわらかい」訓読を重視する読み方に関係している。五十嵐君に由れば「みち」は「道」であり「あふち」は「お家」である。要は、仏教的解釈よりも、「道」と「家」とそれを見る「私」が雪の中で相互溶解し相互浸透する直接経験の事実を重んじたのだろう。ここで「沫雪」を上田氏とは違って「牡丹雪」ではなく「粉雪」だと指摘しているところも面白かった。

 「蓮の露」の相聞歌については、五十嵐君自身は、「(貞心尼のひたむきな情熱を前にして)いささか良寛が照れているのが良い」という以上には言わなかったが、「夢の中で夢を語る」ことは、今、五十嵐君の思い出を語る私自身の心境に何か合致する者があることを感じている。

 私も、五十嵐君と同様に、上田三四二氏の歌の釈義には多くの点で共感するけれども、良寛が「夢の中に夢を見る」という場合、「夢の中の夢、その夢の中の夢、・・・・・」というような「入れ籠構造」は無いと思う。

 道元の『正法眼蔵』に「夢中説夢」という巻があるが、そこでは、われわれが堅固な実在だと思っている世界が、じつは夢の如きはかなき虚仮の世界であり、真の仏法の世界は、虚仮の世界の住人から見ると逆に「夢」のごとく見えるという趣旨の言葉がある。

 プラトンの「洞窟の譬喩」の如く、顛倒世界においては、真実在を説くものは役に立たない夢想家と見なされるが、道元は、むしろ「夢の中で夢を説く」ことの意義を理解しなければ、仏道はわからないと明言している。おそらく、影の影、夢の夢を如実に語るという詩人の行為のなかに、真実在の影現を見ることができるという読み方をするならば、良寛の返歌も、「夢の中で夢を語る」ことの大切さをさりげなく示した歌と言って良いであろう。

ー追記ー

 「五十嵐一 追悼集ー未来への知の連鎖に向けて」(五十嵐一追悼集編集局編 非売品)が2018年7月9日に 出版されました。本日、追悼編集局の伊東庄一さんより追悼集を送っていただきました。上記の文章は、この追悼集に私が寄稿したものです。

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特別セミナー『文明と経営』第二回(東京地区)の御案内

2018-07-14 | 日誌
特別セミナー『文明と経営』第二回(東京地区)の御案内
数理経済学会方法論部会・日本ホワイトヘッド・プロセス学会共催
日時: 2018年 7月15日(日)13:30ー
テーマ:文明と経営―その研究の方向/「哲学スル」とはどういうことか
会場: 明治学院大学 白金キャンパス 3号館 3101教室
プログラム:
13:30-14:30 講演 『文明と経営―その研究の方向』
講演者 村田晴夫 先生 (桃山学院大学前学長)
14:30-14:40 休憩
14:40-16:15  全体討論(予定討論を含む)
「哲学スル」とはどういうことか
(予定討論者: 長久領壱、鈴木 岳、福井康太、守永直幹、塩谷 賢、村田康常、司会: 浦井 憲)
16:30-18:00 懇親会 明治学院大学白金キャンパス内パレットゾーン懇親会(予定)
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日本ホワイトヘッド・プロセス学会の前会長の村田晴夫先生を囲むセミナーです。ホワイトヘッド哲学と経営・行政学との関連をテーマとする参考文献を二点紹介します。
 
(1)「経営思想研究への討究ー学問の新しい形」村田晴夫・吉原正彦編(文眞堂、2010)
(2) Integrative Process-Follettian Thinking from Ontology to Administration
by Margaret Stout, Jeannine M. Love
(Process Century Press, 2015 )
 
 
 
 
 
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法然上人絵伝を読む

2018-07-07 | 日誌

秋学期(十月四日開講、連続八回)の上智大学公開講座のテーマは「キリスト教と日本人の心」とする予定です。春学期の公開講座「仏教と日本人の心」のほうは昨日終了しましたが、春秋両学期とも受講を希望される方もいらっしゃるので、春学期の最終日の講義は「法然上人絵伝」の人物像をテーマとしました。私は、井上洋治神父の「法然ーイエスの面影をしのばせる人」に共鳴するところが多いので、日本人の心に深く記憶されている法然上人の伝記、教説と説法、門弟達の行伝、階級差別を乗り越えて感化を受けた民衆の物語りのなかに、イエスと「使徒のはたらき」、病を癒やされた民衆の純一な信仰など、新約聖書の様々な物語の面影を求めてみました。
 「絵伝」の第一巻に、父に遺恨を持つ者の夜襲を受け、重傷を負い、死の床で法然(幼名勢至丸)に遺した言葉が記されています。「敵を決して恨んではいけない、敵討ちをして遺恨に遺恨を重ねる世界に救いはない、それよりも仏門に入って此の世から解脱して父の菩提を弔ってほしい」という父の遺訓ー隣人も仇敵も、善人も悪人も差別せずに、その一人一人を愛する精神ーに従い、様々な...法難に遭遇しても自分を迫害した者を少しも恨まなかった法然のなかに、井上神父は、福音書の伝えるイエスの面影を見ています。
 「絵伝」には、当時の保守派の仏教徒たちの念仏停止の訴状に対する法然の弁明と門弟達への誡めも収録されています。「他宗派の誹謗中傷をせず、宗派的論争を避けるべき事、信心は一人一人の人間を大切にすることであり、「群集」は闘諍の因縁となる」という現代にも通ずる法然の遺訓が収録されています。 選択本願念仏の「選択」とは、ただひと筋の道に専念することですが、それは理論ではなく実践の問題であり、各人の自由な選択の事柄だというー宗教的な「選択」と他宗派への「寛容」を同事に主張するー考え方が、晩年の法然によって明確に述べられています。
 「絵伝」には、様々な階層の人にあてた法然の書簡と説法も収録されていますが、讃岐国に流罪が決まった法然が、弟子達の別れに際して、「自分に身に降りかかったことを少しも不幸とは思っておらず、自分に危害を加えようとした者こそ、むしろ哀れむべきだ」とのべるあたり、獄中のソクラテスが弟子達に語った言葉を想起させました。京都ではなく田舎の人々に念仏の教えを説くことこそ平素からの念願であったから、自分にとって流罪は恩恵のようなものだと語る法然の言葉どおり、「絵伝」は、船旅で四国に向かう途上、漁師の夫妻と「室の遊女」の求めに応じて法然の行った説法を記録しています。鈴木大拙は、『日本的霊性』のなかで、法然と遊女との出会は、「日本霊性史の上に記録すべき一事である」と述べていました。女人成仏は、法然の教えの根幹にあり、法然は式子内親王(正如房)や北条政子にも説法の消息を書いていますが、「絵伝」は、そのような天皇の息女や武家の頭領という身分の高い「女人」だけではなく、最も差別されていた女人ー遊女ーが、法然の親身な説法によって、一向専心に念仏することを教えられ「臨終正念」を得て、浄土に往生したことを伝えています。

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雪のサンタ・マリアーキリシタンの時代のマリア像

2018-06-30 | 日誌

「雪のサンタマリア」とは、キリシタン時代の絵画の小断片を掛軸に表装したもので、現在は長崎の日本26聖人記念館にあります。その記念館の館長をながらく勤められたレンゾ・デ・ルカ神父が、先月、上智のキリスト教文化研究所で、「信仰伝承の証しとしての<旅>を考える」というテーマで講演されましたが、そのときに使われたスライドの一枚が、この聖母像でした。ルカ神父によれば、当時の様々な文書資料から、この聖母像は、セミナリオで西洋絵画の手法の指導を受けた日本人によって描かれたものではないかとのことでした。たしかに、ここには、西洋のマリア像の作法に従いつつも日本の慈母の優しいまなざしを描いた作者の心を感じます。迫害時のキリシタンの心の支えとして長い間大切に保存されてきたこのマリア像が世に知られるようになったのは1973年以降とのこと。「雪のサンタマリア」の名称の由来は、諸説あるようですが、おそらく、日本布教の前にイエズス会の宣教師達が祈りをささげたサンタ・マリア・マジョーレ教会の伝承に由来するのでしょう。昔、マリア聖堂奉献をかんがえていたローマのある貴族に、聖母ご自身が夢に示現され、建設すべき場所を(真夏であるにもかかわらず)雪で示されたという伝承です。明治維新以後の浦上キリシタンに対する迫害、浦上天主堂の被爆へとつづく受難の歴史を思いつつ、あらためて信徒の苦しみと迫害をともにされた聖母ご自身の<旅>の歴史を感じた次第です。

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法華経の統合思想ー上宮王私集 法華義疏を読む

2018-06-12 | 日誌

 

 法華経の統合思想ー上宮王私集「法華義疏」を読む
 
「法華義疏」は、上宮王(かむつみやのみこ=聖徳太子)の真蹟が皇室の宝物としてほぼ完全な形で伝承されている。この書の成立は古事記や日本書紀よりも古い。おおよそ1400年も前に書かれたこの太子真筆の書を現在の我々が閲覧できることは奇蹟的であり、日本文化の貴重な遺産と言って良いであろう。(書かれた時期からすれば「勝鬘経義疏」のほうが古いが、現在は古写本のみが残存している)「法華義疏」は、「勝鬘経義疏」とおなじく、同時代の三韓と中国の代表的な注解(本義)、様々な対立する諸解釈を適宜に取捨選択したうえで、太子自身の主体的な意見(私見)を随所に記した簡潔ながらも優れた注解書である。
 
 法華義疏には後世の伝承者の但し書きが付記されていて、そこには「此は是、大委国上宮王(やまとのくにかむつみやのみこ)の私集(わたくしにあつむるところ)、海彼(わたのあなた)の本にはあらず」とある。「私集」という位置づけは、内容的に見て非常に剴切だと思った。
 
 推古天皇を始とする皇族達に講義するための覚え書きが義疏の原型であろう。様々に異なる注解の伝承をふまえ、適切な配列によって簡潔に要約したうえで、自己の主体的な解釈を述べるというのが太子の著作の作法(エクリチュール)である。太子以後の日本人がこの書を伝承するに際して、この「私集」が、海の向こうの本ではないと言ったとき、その心はやはり、「ここはこれまで次のように解釈されてきた。しかし私は・・・と考える」というこの義疏の独特の主体的なエクリチュールに感銘を受けたからに外ならない。
 
この自信に満ちたスタイルは、遣隋使を派遣するときに、朝貢国としての臣下の礼をとらず、隋と日本の「天子」を対等に見る国書をもたせたのと同じ精神の所産であり、世俗の皇帝に優先する普遍的な「仏法」を重んじた太子の思想からすれば、中国大陸を治める唯一無二の皇帝である煬帝も、日出る国の天子も、統治者としては対等でなければならない。このあたりが普遍的な世界宗教の立場に立つ仏法の力なのである。
 
それと同事に聖徳太子の時代にシルクロードを経由して中国と日本に伝えられた大乗仏教そのものが、すでに当時の諸宗教を統合する世界性をもっていたことにも注意すべきであろう。アレキサンダー大王のインド遠征は紀元前三二七年のことであったが、それ以降数百年に及ぶインドとギリシャとの交流は、貨幣の流通のような経済面のみならず、文化的宗教的な相互影響をもたらした。紀元前二世紀後半に成立した『弥蘭王問経』はギリシャ人の弥蘭王(メナンドロス)と仏僧那先比丘(ナーガセーナ)との間でなされたプラトンの対話篇を想起させる経典であり、おそらくこの経典の原典はギリシャ語で書かれ、それがパーリ語に訳されたものらしい。漢訳された「那先比丘經」は日本にも伝えられている。
 
上智大学哲学科で長らく仏教思想を担当していただいた河波昌教授の『形相と空』によれば、大乗仏教は、どこまでも釈尊以来の伝統的な『仏教の基盤にたちながらも、他方において全面的にギリシャ文化、あるいはペルシャを含むヘレニズム文化の交流を通じて発展していったのである。ギリシャの形相主義はキリスト教のうちに統合されて「キリスト教的プラトン主義」を生み出したが、おなじ形相主義が、インド仏教と接触することによって「高次の形相主義」とも言うべき大乗仏教を生み出したのである。
 
智慧の完成行(般若波羅蜜)の智慧とは、自己自身を知る覚知にほかならないが、それはまさにソクラテス以来、ギリシャ哲学が目指していたものに外ならない。また小乗仏教の説一切有部の存在論は、涅槃を永遠なる有(無為法)として対象化して捉える点で二世界説をとり、生死輪廻の世界から永遠なる世界の覚知によって解脱することをめざして修行する点で、プラトンのイデア説と同じ二世界説の世界観を採用していた。このような考え方が、後期プラトンの対話篇「パルメニデス」やアリストテレスによって批判され、それが新プラトン主義を経由してキリスト教に大きく影響したことは西洋哲学史ではよく知られている事実であるが、仏教の発達史を見ると、それと並行的な現象がプラトン主義の批判的摂取というかたちで大乗仏教の「高次の形相主義」に現れている。すなわち、身心の実体的分離の教説や二世界説は、龍樹以後の大乗仏教のなかでは絶対否定され、「般若波羅蜜」の智慧は、「色即是空、空即是色」の「即」に要約される身心一如を根本とするようになった。矛盾的相即 すなわち対立者の一致こそがクザーヌスのキリスト教的プラトン主義においても法華経と龍樹の思想に立脚する天台教学においても、普遍的な世界宗教としてキリスト教と仏教の核心を表す思想なのである。
 
般若心経の「色即是空。空即是色」はサンスクリット語では、rūpam śūnyatā śūnyatāiva rūpam であるが、それはrūpa=śūnyatāの等式の単なる倒置的反復ではなく、後半部分は「空なればこそ色なれ」と訳すのが剴切であり、そこには空の場において積極的に色を生かす「高次の形相主義」の主張が表明されている。仏舎利を礼拝する仏塔の建造は原始仏教以来行われていたが、大乗仏教はその礼拝をさらに推し進めて、仏像の製作と礼拝に意義を見いだすようになるが、そこには、有限な像を通じて無限なる法身である仏陀の現前を体験するという経験があった。この見仏(観仏)の経験(初期大乗経典では般舟三昧とよばれる)が、「空」(かたちなきもの)の場において色(かたちあるもの)を生かす大乗仏教へと発展していったのである。
 
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法華義疏第一 (影印の和訳)
 
姚秦の三蔵法師鳩摩羅什詔を奉じて訳す
 
此は是、大委国上宮王(やまとのくにかむつみやのみこ)の私集(わたくしにあつむるところ)、
海彼(わたのあなた)の本にはあらず
 
【総序】夫れ妙法蓮華経とは、蓋し是れ總じて萬善を取りて、合して一因と為るの豊田、七百(年)の近壽(『首楞嚴經』の説)轉じて長遠と成るの神薬なり。若し釈迦如来の此土に応現(機に応じて身を示現)したまえるの大意を論ずれば、将に宜く比経の教を演べて、同歸(万善同じく一如に帰す)の妙因を修し莫二(一乗平等)の大果を得せしめんと欲してなり。但し衆生の宿殖の善(前世からの善の種子)は微かにして神(精神)は闇く根は鈍く、五濁(劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁)は大機(大乗の機根)を障へ六弊(慳貪・破戒・瞋恚・懈怠・散乱・愚癡)は其の慧眼掩うを以て、卒かに一乗因果の大理(大乗の真理)を聞べからず。所以に如来は時の宜きに随ひ、初は鹿(野)苑(ムリガダーバ。今のベナレスの北方のサルナ―ト)に就いて三乗の別疏(声聞・独覚・菩薩の三乗の別々の道)を開いて各趣の近果(手近な悟り)を感ぜしめたまえり。此従り以来、復た平しく無相(空)を説いて同く(三乗の人が)修することを勧め、或は中道を明して褒貶(大乗を褒めて小乗を貶す)したまえり雖ども、猶を三因別果(三乗の因も、果も、各別なりと)の相を明かして物(衆生)の機(機根)を養育したまえり。是に於て衆生は年を歷て月を累て教を蒙り修行して漸漸に解を益し王城(王舎城、すなわち法華経説法の場所)に於て始て一(同一)の大乗の機(機根)を發すに至り、如来出世の大意にかなえり。是を以て如来は即ち萬徳の厳軀を動して眞金の妙口を開き、廣く萬善同歸の理の明かして莫二の大果(同一の大果)を得せしめたまえり。
 
【經題釈】<妙法>とは、外国には薩達摩(サッダルマ)といふ。然るに「妙」とは是れ麤(粗雑)を絶するの號(となえ)にして、法とは即ち此の経の中に説く所の一因一果(因も一乗、果も一乗)の法なり。言うこころは、此の経のなかに説くところの一乗因果の法は、超然として昔日の三乗因果の麤を絶するがゆえに、妙と称するなり、と。蓮華とは外国には分陀利華(プンダリーカ)という。この物の性たるや、花と実と倶に成(有)る。此の経は、因と果とならべて明かすこと、義は彼の花に同じ。故にもって譬えとなすなり。経とはこれ聖教の通名にして、仏語の美(別)号なり。
 
(花山信勝校訳 岩波文庫による)

 

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勝鬘経義疏と聖徳太子ー菩薩の大いなる願い

2018-06-08 | 日誌
勝鬘経義疏と聖徳太子ー菩薩の大いなる願い
 
 古書店で花山信勝校訳の勝鬘経義疏を入手。聖徳太子千三百六十年御忌、花山聖徳堂建立二十周年記念の栞があり、著者の自筆の献本署名が入っていた。はしがきに「終戦の詔勅によって、明治以来の武の日本が崩壊した。新しい日本の基盤は文でなければならぬと考える。そこで終戦の翌日から、わたくしはわが国最初の著書である勝鬘経義疏の校訳に微力を傾倒し始めた」とあった。
 吉川弘文館から昭和52年に刊行された花山先生の校訳本の優れたところは、敦煌本『勝鬘経義疏本義』慧遠撰『勝鬘経義記』、吉藏撰『勝鬘宝崫』などの当時の大陸の釈義との綿密な比較作業を経たのちに、上宮王、聖徳太子の自筆と推定される文章を選び出しているところにある。和訳は、現代語訳ではなく、漢文を大和言葉に読み換える伝統に沿った独特の書き下し文で非常に格調の高いものであった。勝鬘経義疏の素晴らしさは、日本書記や古事記よりも前の著作だという古さだけにあるのではなく、時代を超えて現在の我々の状況を照明する古典であることによる。
 内戦と海外出兵に起因する万民の苦しみ、百済の滅亡に伴う大量の難民の渡来、大国の隋と唐による帝国支配に抗して如何に自主的な対等外交を展開すべきかーこういう課題は太子の時代と現在に共通するのではないか。四天王寺に設置された悲田院を始めとする太子の社会福祉の理念は叡尊や忍性によって受け継がれた。仏教的な社会奉仕の原点は菩薩行であるが、そこにも「自分行」と「他分行」がある。菩薩の十の段階のうち八番目以上の段階は、自力でできるものではないので、仏の行としての慈悲行と即ち他分行と位置付けられている。浄土真宗の絶対的な本願他力の思想はまだないとはいえ、エゴイズムの克服を目指す菩薩行が、自然な人間の本性を超えるものから来るという思想は既に現れていると思った。17条憲法の精神も勝鬘経の十大受章、三大願章を抜きにしては十分に理解できないのではないだろうか。
 勝鬘経は、女人成仏を明確に説いている点で、大乗経典の平等思想を男女差別を超えて徹底させた経典として読むことができる。勝鬘夫人は将来、仏となって全ての人を救済する仏国土を建立するだろうということが釈尊によって保証される。仏教用語で受記とよばれるこの保証は、法華経でも重要な意味を持つ思想であるが、全ての衆生を仏としたいと言う心底からの願いが根底にあるに相違ない。これを本覚思想とか如来蔵思想などと言う後世の註釈家の用語でまとめる前に、テキストそれ自身をよく読む必要があるだろう。勝鬘経で「物」と言う語は「衆生」を意味していることに注意したい。したがって万人を救済することは万物を救済することにつながるのである。そこには、被造物の全てを救済しようとする新約聖書と東方キリスト教の教えに通底する救済観がある。如来が胎児のように我々のうちにあるという教えは、わたしには受胎告知と同じく、男性優位の社会で成立した宗教では奇跡としか言いようがない福音だったのではないだろうか。世俗の煩悩にまみれた身体の中の種子のごとき如来が、泥池の白い蓮のように花を咲かせ身を結ぶと言う教えは、世俗の只中に福音を見る教えでなくてなんであったのだろうか。
 勝鬘経の「一体三宝論」は、仏法僧の三宝のどれにも他の二つが内在するが故に一つのものであるという論であって、それはキリスト教の初代教父たちの論じた三位一体論に照応する仏教的な三一論として、非常に興味ふかい議論であった。
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「聖ベネディクトの戒律」と道元禅師の「永平大清規」

2018-05-14 | 日誌
「聖ベネディクトの戒律」と道元禅師の「永平大清規」
 
 五月一三日、「聖グレゴリオの家」のミサに参列。「主の昇天」の主日のミサの説教の後、ベネディクト会の「オブラーテ(献身者)」の入門式と誓願式が、来日中のドイツ聖オッティリエン大修道院のラバヌス・ペトリ神父の司式で行われました。オブラーテとは「聖ベネディクトの戒律」の精神に従って献身的な生活をする在俗の信徒のことをさします。 オブラーテの誓願式では、ベネディクト会の「戒律(regula=rule)」を記した書とともに、司祭から誓願者へと蝋燭の灯火を手渡す儀式が行われました。
 このところ、道元についてFBで書いてきましたが、道元には、主著『正法眼蔵』とおなじく和文で書かれた重要な著作として『永平大清規』があります。
 「清規」とは「修道者が守るべき規則」のことで、「清」とは「清衆」つまり修行道場の雲水のこと。
『永平大清規』と呼ばれる一連の著作を成立順に列挙すると、
1 「典座教訓」2 「対大己法」3 「辨道法」4 「知事清規」5 「赴粥飯法」 6「衆寮箴規」
で、道元三七歳の深草興聖寺に始まり、帝都を離れて山林に修行場を求めた道元が、越前吉峰寺、大仏寺、大仏寺改め永平寺にて著述した最晩年のものまで含みます。
 「聖ベネディクトの戒律」が単に修道会の規則にとどまらず、今日のカトリック教会では在俗信徒が、世俗の中の福音を実践するためにも良く読まれています。それと同じく、道元の「清規」もまた、出家者だけでなく、在家にあって「菩薩行」をおこなう人の生活の指針として読まれてきました。
 私は、とくに「典座教訓」という「永平清規」に惹かれます。道元の禅においては、料理や食事と云った日常生活の「作法」がそのまま仏道であるという教えが説かれています。入宋時の道元自身の体験を踏まえた大切なエピソードがあり、「修道」とはなにか、「文字とは何か」についての道元と老典座との対話問答が記されています。これについては、改めて次に、私なりに考えてみたいと思います。
 
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 「聖ベネディクトの戒律(古田暁訳)」はドン・ボスコ社からポケット版で、「典座教訓」は、故秋月龍珉老師の解説付きで大法輪閣または講談社学術文庫で読むことができます。
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黄泉に下る菩薩―道元の遺偈についての考察

2018-05-12 | 日誌
黄泉に下る菩薩―道元の遺偈についての考察
 
前に法華経の行者としての道元について語ったときにも言及したが、入滅を前にして道元は法華経神力品の一節を唱えながらそれを柱に記した。その翌朝、道元は居ずまいを正して次の遺偈(遺言としての詩)を弟子達に残したと云われている。(建撕記)
 
五四年第一天を照らす  この𨁝跳を打し大千を触破す
咦、渾身もとむるなし  活きながら黄泉に陥つ  
 
道元禅師の遺偈の遺偈、とくに「活陷黄泉」(活きながら黄泉に陥つ)の結びの言葉についていささか私見を述べたい。
 
生前に悟りを開いた人ならば、肉体の死は「無余涅槃」に入ることを意味するのだから、輪廻転生の世界から完全に解脱するはずである。浄土を信ずる他力門の人ならば、肉体の死後極楽往生が決まっているはずであるから、地獄に落ちる心配など無いであろう。それでは、道元禅師の遺偈の「活きながら黄泉に陥つ」とは何を意味するのであろうか? 
 
道元の遺偈は単独で考察するのではなく、師の如浄と弟子の懐奘の二人の遺偈との関連で考察するのが妥当であろう。六六歳でなくなった如浄禅師、八三歳でなくなった孤雲懐奘のどちらの遺偈にも「黄泉に陥つ」ないし「地泉に没する」の句があるからである。
 
如浄ー道元ー懐奘 と受け継がれたものは「菩薩戒」による仏道の実践であったと思う。菩薩の道は、「一切の衆生を救済しようという」大悲の誓願に基づく。如浄から嗣法した道元の仏道とは「見性成仏」だけの「禅宗」という宗派ではなく、菩薩道の実践としての大乗禅であった。
 
「黄泉に陷つ」とはマイナスのイメージを持つ言葉である。端的に言えば「地獄に落ちる」ことであり、悟りを開いた人が行くべき処ではないであろう。鈴木大拙によれば、「凡ての人を救うためならば、自分はたとえ地獄に落ちてもかまわない」という心構えが菩薩道だとのこと。上求菩提下化衆生の菩薩の誓願をさらに徹底した禅師の言葉として道元の遺偈を読み直してみたい。
 
「五十四年 照第一天 打箇𨁝跳 觸破大千」
 
大千とは三千世界のことで、法華経の行者でもあった道元は、第一天から地獄に至るまで、一瞬にしてこの世界すべてに触れ、それらを突破したであろう(一念三千の徹底)。
 
「渾身無覓 活陷黄泉」
 
菩薩はあえて涅槃に入らず、地獄に落ちた罪人を救うために自ら黄泉に下っていく。「無覓」とは「求むること無し」という意味であるが、それは「自分一身の幸せを求むること無く」と解したい。
 
「渾身」という言葉は、「身の全体をあげて」という意味であるが、道元の「正法眼蔵」の「摩訶般波羅密」で引用されている如浄禅師の「風鈴頌」のキーワードでもある。道元はこの詩について「これ仏祖嫡嫡の談般若なり。渾身般若なり。渾他般若なり。渾自般若なり。渾東西南北般若なり」と云っている。般若心経の「般若」とは仏の智慧を意味するが、単なる分別知などではなく、「一切の苦しみを度する智慧」「一切を差別せずに救済する知恵」であり、菩薩道では「大悲」となって働く。
 
如浄の遺偈には「罪犯彌天」、懐奘の遺偈には「一生罪犯覆弥天」の言葉がある。これは罪の懺悔であるが、菩薩の懺悔は、衆生の犯したすべての罪を自己自身の罪として引き受けるところから発する。それこそが縁起(自己と無関係なものは何一つない相互依存性)を活きる菩薩の実感なのであろう。
 
如浄から菩薩戒をうけて嗣法した道元の遺偈を、この意味で「黄泉に下る菩薩」のことばとして読むのが妥当であろう。
 
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  如浄禅師の遺偈
 
六十六年 罪犯彌天 打箇𨁝跳  活陷黄泉 
咦 従来生死不相干
 
  道元禅師の遺偈
 
五十四年 照第一天 打箇𨁝跳 觸破大千 
咦 渾身無覓 活陷黄泉  
 
  孤雲懐奘の遺偈  
 
八十三年如夢幻   一生罪犯覆弥天 而今足下無糸去  
虚空踏翻没地泉
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仏祖の座禅と菩薩道―道元最期の在家説法について

2018-05-12 | 日誌
仏祖の座禅と菩薩道―道元最期の在家説法について
 
建長五年(一二五三)、道元は波多野義重および弟子達の請願に従って上洛、西洞院の覚念の邸で病気療養のかたわら在家の人々に説法していた。ある日、邸中で経行しつつ妙法蓮華経神力品の巻を低声にて唱えた後、それを自ら面前の柱に書付け、その館を妙法蓮華経庵と名付けたと言われる(建撕記巻下などの伝承による)。そこには次のような言葉がある。
 
「僧坊にあっても、白衣舎(在俗信徒の家)にあっても、殿堂にあっても山谷曠野にあっても、この処が即ち是れ道場であるとまさに知るべきである。諸仏はここにおいて法輪を転じ、諸仏はここにおいて般涅槃す」
 
僧坊にあっても在家の弟子の家であっても、今自分がいるその場所こそが「道場」であり、転法輪の場所であり、完全なる涅槃に入る場所であるというのが、道元の最期の在家説法の趣旨であろう。
 病中でありながら在家説法を続けていた道元によせて、私は、なぜか宮沢賢治が病死する直前まで農民の相談に乗っていたことを思い出した。
 晩年の道元は厳しい出家主義の立場であったといわれることが多いが、私は、道元は最期まで在家の信徒のことを忘れていたわけではないと思う。
 
道元禅には菩薩道の実践という意味があったことは、「傘松道詠」所収の次の和歌からもうかがわれる。
 
 愚かなる我は仏にならずとも衆生を渡す僧の身ならん
 草の庵に寝ても醒めても祈ること我より先に人を渡さん
 
道元の師、如浄禅師もまた、「座禅の中において衆生を忘れないこと」一切の衆生を慈しみつつ座禅の功徳を廻向する」ことの大切さを説いている。
 
「いわゆる仏祖の座禅とは、初発心より一切の諸仏の法を集めんことを願ふがゆえに、座禅の中において衆生を忘れず、衆生を捨てず、ないし昆虫にも常に慈念をたまひ、誓って済度せんことを願ひ、あらゆる功徳を一切に廻向するなり。」
(『宝慶記』ー入宋沙門道元自身が記録した如浄との問答記録ーによる)
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道元の男女平等観ー「礼拝得髄」再読

2018-05-12 | 日誌
道元の男女平等観ー「礼拝得髄」再読
 
「平等」は「博愛」と「自由」とならんでフランス革命以後の西欧近代の人権思想を特徴付ける基本語であるが、その意味するところが真に理解されているとは言いがたい。人権思想はキリスト教に由来する欧米の価値観の表現に過ぎず、それ以外の宗教を背景に持つ東洋の文明には無条件で適用できないということが、日本の伝統思想を重んじると自負する人から語られることが多い。しかし、日本思想を形成した仏教の古き伝統にさかのぼることによって、「平等」「博愛」「自由」という三つの基本語の意味するものに、単に西洋近代にのみ限定された特殊なイデオロギーではなく、古今東西を超えた普遍思想を見いだすことはできないであろうか。
 
まずはじめに「平等」について、それも最近問題となっている「女人禁制」の宗教的制度の批判や仏教に於ける「男女平等」について考えてみたい。
 
道元は正法眼蔵の「礼拝得髄」の巻で次のように「女人禁制」の「結界」を批判している。
 
「日本国にひとつの笑ひごとあり。いはゆる、あるいは結界の地と称し、あるいは大乗の道場と称して、比丘尼・女人を来入せしめず。邪風ひさしくつたはれて、ひとわきまふることなし。稽古の人あらためず、博達の士もかんがふることなし。あるいは権者の所為と称し、あるいは古先の遺風と号して、さらに論ずることなき、わらはば人の腸もたえぬべし。権座とはなにものぞ。賢人か聖人か、神か鬼か、十聖か三賢か、等覚か妙覚か。また、ふるきををあらためざるべくば、生死流転をば捨つべきか」
 
女人禁制は、「邪風(誤った風習)」であるにもかかわらず、長い間おこなわれているために何人もその間違いを知らず、「稽古の人(伝統を考慮する人)」も改正せず、博学達識の人が考慮も論議もしないのは、腸がよじれるほど可笑しなこと、古くからのしきたりであると言うだけで現状維持に甘んじてそれを変革しないというのは、生死流転の世に執着してそれを捨てないのと同じだ、という道元の舌鋒は鋭い。
 
 男性中心的な価値観の浸透した社会で制度化された仏教には様々な女性差別が行われてきたことは歴史的事実であるが、道元は、「極位(最高位)の功徳は(男女)差別せず」
とのべたあとで、優れた女人の仏弟子の実例を挙げ、「阿羅漢(聖者)となった尼僧は多く、女人が既に仏となったときには、その仏の功徳は世界中に充満しただろう」とまで言っている。
 
 最近、相撲の土俵の上に女性をあげることの是非が新聞を賑わせたが、相撲はもともと「神事」であり、レスリングのような単なる格闘技ではない。土俵の上は聖なる空間と俗なる空間を区別する「結界」の意味がある。したがって「結界」の持つ宗教的意味を考慮しないで単に世俗の男女平等倫理だけで女人禁制について論じることはできないであろう。それでは仏教者として男女平等論を説く道元は、「結界」についてどう言っているのか。
 
 道元は「諸仏の結びたもう結界に入る者が諸仏も衆生も大地も虚空もあらゆる繋縛から解脱して諸仏の妙法に帰源すること」を重視し、結界という小世界のみを清浄な場所として女人を排除するのではなく、「一方や一区域を結するときは宇宙全体が結せられる」ことをわきまえ、「済度摂受に一切衆生みな化を蒙らん功徳を礼拝すべし」と結んでいる。
 
 「諸仏の妙法」という根源に帰ったところから看れば、結界に女人を入れないという差別思想が入り込む余地はない。
 
 以前、道元から深く学んだ岡潔の思想について述べたときにも言及したように、「無差別智」をもって真智とし、差別構造を生み出す「分別知」を妄知として退ける仏教的智の伝統を我々は思い起こす必要があるだろう。それこそが、男女の平等を実践する宗教的基盤を与えていると思う。
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阿闍世王の懺悔と救済の物語

2018-03-26 | 日誌

宗教哲学フォーラム
ー日本の宗教思想と宗教的思惟からの霊性ー

シンポジウム提題:田中 裕  (2018/3/25 於上智大学)

阿闍世王の懺悔と救済の物語

考察の課題―五逆の罪を犯したり、正しい仏法を誹謗した者にも救済はあるか。

『無量寿経』の第一八願の願文の末尾に「唯除五逆誹謗正法」とあり、これは従来「ただ五逆の罪と誹謗正法の罪だけは救いの対象から除外する」という排除規定として読まれてきた。そうすると摂取不捨という弥陀の本願と矛盾しないだろうか?

伝統的解釈

すでに曇鸞の時代に、この問題は意識され、道綽の安楽集では、の第一八願趣意では、排除規定は省略されている。善導は、これを排除の意味ではなく如来の願いを込めた抑止門とされ(謗法・闡提・廻心皆往)未造の者に対する抑止、已造の者は廻心さえすれば救うという意味に解釈する。除外規定は教育的配慮として付加されたというのが伝統的解釈では支配的である。

新しい読み方―本文批評にもとづき罪悪と罪を犯した人を区別する

「五逆」も「誹謗正法」も犯した人をいうのではなく、「罪そのもの」を指す。したがって、この文は「五逆と誹謗正法の罪を犯した者を救いの対象から除外する」という排除規定ではなく「五逆と誹謗正法の罪そのものを取り除く」と理解する。観無量寿経に

「除八十億劫生死之罪」「除無量億劫生死之罪」「除却千劫極重悪業」・・・の文があり、多く「除・・」は極悪人を救いから排除するという意味ではなく、罪そのものを端的に除くという意味である。[1]

親鸞の解釈

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふ言葉なり、五逆の罪人をきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんためなり。(『尊号真像銘文』)

五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪をけすまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらしめんがためなり。(『唯信証文意』))

『教行信証』は信巻の根本テーマとして、「逆謗摂取釈」を取り上げている。そして、浄土三部経だけでなく涅槃経の「阿闍世王懺悔」の物語を長文に亘って引用している。

それ仏、難治の機を説きて、涅槃経に云わく。迦葉、世に三人あり、その病治し難し。一には謗大乗、二には五逆罪[2]、三つには一闡提[3]なり。かくのごときの三病、世の中に極重なり。悉く声聞縁覚菩薩のよく治するところにあらず。善男子、譬えば病あれば必ず死するに治することなからんに、もし瞻病・随意の医薬あらんがごとし。もし瞻病[4]随意の医薬なからん、かくのごときの病、定めて治すべからず。まさに知るべし、この人必ず死せんこと疑わず。まさに知るべし、この人必ず死せんこと疑わずと。善男子、この三種人、またまたかくのごとし。仏菩薩に従いて聞治を已りて、すなわちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発せん。(『涅槃経』現病品からの引用)

阿闍世王の物語の引用

また言わく、その時、王舎大城に阿闍世王あり。その性弊悪にしてよく殺戮(せつろく)を行ず。口の四悪[5]、貪・恚・愚痴を具して、その心、熾(し)盛(じょう)なり。….しかして眷属のために現世の五欲の楽に貪著するが故に、父王、辜なきに横ざまに逆害を加す。父を害するに因りて、己が心に悔熱を生ず。…..時に大臣あり、名付けて月称という。王の處に往至して、一面にありて立ちて申さく。大王、何が故ぞ憔悴して顔容悦ばざる。身痛むとやせん、心痛むとやせん。王臣に答えて言わく、われ今身心に豈痛まざることを得んや。我が父辜なきに、横さまに逆害を加す。われ知者に従いて嘗てその義を聞き「世に五人あり、地獄を免れずと。言わく五逆の罪なり」と。我今已に無量無辺阿僧祇の罪あり。いかんぞ身心をして痛まざることを得ん。また良医の我が身心を治するものなけん。(「涅槃経」梵行品からの引用)

一 臣下達のアドバイスと当時の「尊師」と評判の高い人たちの教え

月称のアドバイス(尊師 富蘭那を王に推薦)

〇王のようにいつも憂い苦しむものは憂いが増すばかりで無益この上ない。

〇王は地獄に落ちることを恐れているが、地獄とは、だれもそれを見た者はなく、実際には存在しないのに、世の人が勝手に想像しているだけである。だから、地獄落ちを恐れる必要なない。

蔵徳のアドバイス(尊師 末伽梨句賖梨子(まかりくしゃりし)を推薦)

〇 世間の法にも迦羅羅虫や騾馬の子が母親のからだを害して生まれる例があるから、王のしたことを不自然だと言うことはできない。

〇仏法では人間以外の衆生を殺害することでも罪になるが、王法は仏法とは違う。国を治めるものは、父王を殺して王になったとしても王である立場には変わりはない。父王が死んだ後、その子が王になるのは当然である。

実徳のアドバイス(尊師 冊闍耶毘羅緹子(さんじゃやびらていし)を推薦)

〇父王は前世のカルマによってそのような死に方をしたまでであって、阿闍世王が罪を犯したわけではない。すべては前世の宿業によるのだから、阿闍世王は罪の意識を持つ必要はないし、悩み苦しむ必要もない。

悉知義のアドバイス(尊師 阿耆多翅舎欽婆羅(あぎたししゃきんばら)を推薦)

〇(唯物論の立場から)地獄も餓鬼も天界も存在しない。

〇 前世の業が因縁となって次の世に果報となるなどと言うことはない。

〇 阿闍世王のように父王を殺して王位を継いだ者は過去にも現在にもたくさん居る。だから罪を感じて悩む必要はない。それは世間にはよくあることだから。

吉徳のアドバイス(尊師 迦羅鳩駄迦旋延(からくだかせんえん)を推薦)

〇 大地の一切は破壊されるものだから、何を破壊しても罪にはならない

〇 父は殺害されて天界にいくことができたのだから、それは悪いことではない。

〇 殺生はかえって新しい命を得ることなのだから、罪ではない

〇 有我の立場をとると、自我という実体は永遠不変だから、肉体を殺してもその人の本体は死んでいない。

〇無我の立場をとると、殺す人も殺される人もそもそも存在していないのだから、罪は成立しない。

〇 火が除木を焼き、斧が木を切り、刀が人を殺してもそれらには罪はない。直接に害を加えた者に罪がないのだから、間接に手を下したものに罪はない。

無所畏のアドバイス (尊師 尼乾陀若提子(にけんだにゃだいし) を推薦)

〇 先王は沙門を重んじ婆羅門をうけいれなかったが、王は沙門と婆羅門を平等に受け入れ人民を安んずるために先王を殺害したので、それは罪ではない。

〇 殺害とは寿命を奪うことであるが、命は風気であり、風気の本質は殺害できるものではない。

耆婆のアドバイス (自身が医師であった耆婆が、彼が帰依していた釈尊を推薦)

〇 慚愧こそが人をして人たらしめる。

慚とは自らが罪を作らないこと。愧とは他人に罪を作らせないこと。また

慚とは自ら恥じること、愧とは人に向かって自らの罪を告白することである。また

慚とは人に対して恥じること、愧とは天に対して恥じることである。

慚愧のないものは人とは呼ばず、畜生と呼ぶ。慚愧があるから父母、師や年長の人を敬い、父母、兄弟姉妹の関係も保たれる。

 

阿闍世王の懺悔の物語の構成

〇 耆婆のアドバイスに続き、誹謗正法の重罪を犯した提婆達多の物語が語られる。

〇 亡父 頻婆沙羅(びんばしゃら)の声が天上より聞こえる。

阿闍世の犯した悪業の罪は決して逃れられないこと、速やかに仏陀のみもとにいくべきこと。仏陀以外の誰もおまえを救うことはできない。誤った考えを持つ六人の大臣の言葉に従ってはならない。

〇 涅槃を前にした仏陀の言葉の引用

「善男子、わが言うところのごとし、阿闍世の為に涅槃に入らず。かくのごときの密義、汝いまだ説くこと能わず。何を以ての故に。われ為と言うは、一切凡夫、阿闍世とは普くおよび一切五逆を造るものなり。また為とは即ちこれ一切有為の衆生なり。われついに無為の衆生の為にして世に住せず。何を以ての故に。それ無為は衆生にあらざるなり。阿闍世とは即ちこれ煩悩等を具足せるものなり。」

 

親鸞の教行信証のみならず、道元もまた鎌倉行化に際して書き残した文書、いわゆる「白衣舎の示誡」のなかで涅槃経の上記の部分をそのまま引用している。鎌倉行化の目的は、おそらく北条時頼に菩薩戒を授けるためと想定されるが、時頼もまた阿闍世王と同じく若くして覇権を守るために権力親族を殺害した権力者であった。

 

菩薩行としての道元禅について

いわゆる仏祖の座禅とは、初発心より一切の初仏の法を集めんことを願ふがゆえに、座禅の中において衆生を忘れず、衆生を捨てず、ないし昆虫にも常に慈念をたまひ、誓って済度せんことを願ひ、あらゆる功徳を一切に廻向するなり。(『宝鏡記』)

 

道元の道詠歌(一七四六年に面山瑞方が編集した『傘松道詠』所収)

  

愚かなる我は仏にならずとも衆生を渡す僧の身ならん

草の庵に寝ても醒めても祈ること我より先に人を渡さん

 

正法眼蔵 「授記」の巻―成仏の保証

 

佛祖單傳の大道は授記なり。佛祖の參學なきものは、夢也未見なり。その授記の時節は、いまだ菩提心をおこさざるものにも授記す。無佛性に授記す、有佛性に授記す。有身に授記し、無身に授記す。……

釋迦牟尼佛藥王に告げたまはく、又、如來滅度の後、若し人有つて妙法華經を聞きて、乃至一偈一句に、一念も隨喜せん者に、我れ亦た阿耨多羅三藐三菩提の記を與授すべし……

我身是也の授記あり、汝身是也の授記あり。この道理、よく過去現在未來を授記するなり。授記中の過去現在未來なるがゆゑに、自授記に現成し、他授記に現成するなり。

 

道元最後の旅―法華経行者としての道元

 

夜もすがらひねもすになす法の道みなこの経の声と心と

道元の伝記である建撕記など道元の和歌を収録した古写本の巻頭にある歌で、「法華経五首」という題が付されている歌の一つである。「夜もすがらひねもすになす法の道(通霄終日作法道)」とは夜も昼も不断に「法道(のりのみち)」を行ずること。この歌は、その行仏が、皆、法華経の語りかける声であり、法華経の心に他ならないと詠んでいる。道元は「行仏」という言葉をよく使うが、それは法華経の言葉を聞くこと、法華経の心に「感応道交」して「仏を行ずる」ことを意味しているようだ。正法眼蔵「唯仏与仏」に「仏の行といふは、尽天地とおなじく行ひ、尽衆生とともに行ふ。もし尽一切にあらぬは、仏の行ひにてはなし」とある。 「行仏」を可能ならしめる根拠は「唯仏与仏」によれば、自己に先立つ現実の「仏の行」である。 「谿声山色」に仏の声を聞き、「而今の山水は古仏の道現成なり」という正法眼蔵のことばが対応している。

 最晩年、道元禅師は療養のために滞在していた京都で、病状の予想外の悪化に直面し入滅の近きを悟り、法華経「如来神力品」の次の句を誦しつつ、面前の柱に書き付けた。(建撕記)

若於園中(もしくは園中において) 若於林中(もしくは林中におおいて) 若於樹下(もしくは樹下において)若於白衣舎(もしくは白衣の舎)若在殿堂(もしくは殿堂にありて)若山谷曠野(もしくは山谷曠野)

是中皆応起塔供養(是の中皆まさに塔を起て供養すべし)

所以者何当地是処(ゆえいかんとなれば、まさに知るべし是の処は)

即是道場諸仏於此(すなわち是れ道場にして、諸仏は此において)

得阿耨多羅三藐三菩提(阿耨多羅三藐三菩提を得)

諸仏於此転於法輪(諸仏はここにおいて、法輪を転じ) 

諸仏於此而般涅槃(諸仏はここにおいて般涅槃す)

 

道元の遺偈

五十四年 照第一天 打箇𨁝跳  觸破大千 咦 渾身無覓 活落黄泉

(五四年第一天を照らす この𨁝跳を打して 大千を触破す 咦(にい)

 渾身もとむるなく 活きながら黄泉に落つ) 

「活きながら黄泉に落つ」の解釈―究極の菩薩道として

「黄泉に下る菩薩」と「地涌の菩薩」(法華経「従地涌出品」)という二つの対比的イメージ

原始キリスト教の使徒信条―「苦しみを受け、十字架につけられて死し、黄泉に下り、三日の後に死者の内から復活するキリスト」を信じる信仰との比較  

  



[1] 北村文雄著『教行信証と涅槃経』、永田文昌堂 参照

[2] 五逆:殺母・殺父・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧

[3] 一闡提:icchantika 断善根・信不具足の極悪罪人

[4] 瞻病:看病することまたは看病人 

[5]四悪:妄語・両舌・悪口・綺語

 

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第11回目の国際ホワイトヘッド会議ーポルトガル・アゾレス島にて

2017-07-24 | 日誌

7月25日よりポルトガルのアゾレス島で第11回目の国際ホワイトヘッド学会が開催されます。基調講演を依頼されたので、少し早めに出発し、リスボン経由でアゾレス島に着いたところです。会場の下見に行ったところ、会議の主催者であるマリア・テレサ・テイクセラ先生より、彼女の翻訳したホワイトヘッドのProcess and Reality のポルトガル語訳をいただきましたので、アップします。今回の国際会議のテーマはNature in Process です。私は基調講演の他に初日のプレナリー・セッシオンのパネリストも依頼されましたが、このパネルの主題は ローマ教皇フランシスが一昨年に出した回勅 「ラウダート・シーともに暮らす家を大切に」における統合的エコロジーの問題です。エコロジーの様々な次元、単に生態学的なレベルだけでなく、人間、社会そして宗教のすべての次元を統合し、「他者のために他者とともに生きること」の意味を問うわけですから、私としては上智大学で宮本久雄神父とともに行ってきた共生学の理念が漸くローマ教皇の回勅でも取り上げられたという感慨を持っています。そして、ホワイトヘッドのProcess and Reality のコスモロジーは西田幾多郎と田辺元に由来する京都学派の哲学とともにアゾレス島での国際会議においても重要な意味を持つものとして再評価されるでしょう。

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西田幾多郎とゲーテ: 「汎神論者よりも大なるもの」の自覚

2017-06-24 | 日誌
「ゲーテが<エペソ人のディアナは大なるかな>といえる詩の中にいった様に、人間の脳中における抽象的の神に騒ぐよりは、専心ディアナの銀龕(ぎんがん)を作りつつパウロの教を顧みなかったという銀工の方が、ある意味においてかえって真の神に接して居たともいえる。」(西田幾多郎『善の研究』、岩波文庫新版253頁)
 西田は四高のドイツ語と倫理学の教師をしていたころ、ゲーテの詩劇「ファウスト」を輪読し、「自然のなかに神を、神の中に自然を見る」ゲーテの詩の世界に傾倒していた。
「吾人は基教の所謂有神論者にあらずして無神論者なり、無神論者にあらずして汎神論者なり、汎神論者にあらずして汎神論者よりも大なるもの也」とは、若き日の鈴木大拙が書いた『新宗教論』の根本思想のひとつであるが、
西田の『善の研究』の宗教論の一つの課題は、この「汎神論者よりも大なるもの」の立場を究明する事にあったと言って良い。
その場合、ゲーテの詩劇と叙情詩が、藝術の創作(ポイエーシス)に於て西田の課題を表現するものとして、関心を惹いたのであろう。1905年2月1日の西田の日記には、「鈴木大拙からオープン・コート社の雑誌が送られてきた」という記述がある。この雑誌に編者のポール・ケーラスによる論説「ゲーテの多神教とキリスト教」が掲載されており、ケーラス自身によるゲーテの当該の詩の英訳(Great is Diana of the Ephesians) とドイツ語のゲーテ著作集にあるH.Knackfuss のイラストが掲載されている(その挿絵をここに転載ー日本の仏師にも通ずる印象深い畫である)。
 ゲーテの詩に触発された西田は「一幅の画、一曲の譜において、その一筆一声いずれもいずれも直に全体の精神を現さざるものはなく、また画家や音楽家おいてに一つの感興である者が直に溢れて千変万化の山水となり、紆余曲折の楽音ともなるのである。斯くの如き状態に於ては神は即ち世界、世界は即ち神である」と書く。
 不注意な読者にはスピノザ的な汎神論と響くであろうが、私の理解するところでは、そこには既に「汎神論者よりも大いなるもの」の立場がいかなるものであるかが予感されている。「芸術家の創造作用は、それが行であると共に知である。筆の先、鑿の先に眼があると云うべきであろう。我々はこの立場に於て、知識によって達することの出来ない世界を歩みつつあるのである」という藝術論(『藝術と道徳』(全集3-468))が、純粋経験を根本実在とし、そこから真善美の統一を求めた西田の創造作用論から帰結するのである。
 この時期の創造作用論は、「無の場所の自覚」を創造作用とした中期西田の「絶対無の自覺的限定の神学」、そして最晩年の「場所的論理と宗教的世界観」へと展開していく。それは、「汎神論者よりも大いなるもの」の宗教的自覚の展開であった。
 西田は「神は即ち世界」「世界は即ち神」と書いた。この「即」は、決して否定を含まぬ即自的な一体性を表現しているのではない。「即」は「即非」によって成りたつ。「神は即ち世界であり、世界は即ち神である」の倒置反復語法(キアスムス)に深い意味がある。
 絶対否定の峻厳さを忘れぬ「即」の意味こそが、「西田幾多郎と鈴木大拙と共に考えるもの」の課題であり、それは大乗仏教の枠組みを超えた普遍性、キリスト教にも通ずる普遍性を持たねばなるまい。鈴木大拙の「即非」、西田の「矛盾的自己同一」の場所的論理の試みは、「汎神論」と「超越神論」「一神教」と「多神教」の抽象的な対立、「我々の頭の中で捏造された宗教の教義上の対立」を越えた活きた宗教的世界のロゴスとなりうるのである。
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若き日の西田幾多郎ー「我尊会有翼文稿」から

2017-05-31 | 日誌

大日本帝国憲法公布の日(明治22年2月11日)に撮影された7人の第四高等学校学生たちの記念写真がある。後列右から二人目が西田幾多郎(当時19歳)、前列右端の山本(旧姓:金田)良吉は「頂天立地自由人」と書かれた旗幟をもっている。後列左端福島淳吉のもつ旗幟には「Destroy, destroy」とある。彼等は、明治憲法に対して、また当時の自由民権運動に対してどのような考えをもっていたのか。当時の西田の思想をうかがい知ることのできる貴重な資料がいくつか残されている。

「頂天立地自由人」の旗幟をもっている山本良吉はこの写真を撮影した後にまもなく、明治憲法発布当時の薩長政府による学制改革に反発して退学している。明治22年5月に、退学した金田良吉を含むサークル「我尊会」が、西田、藤岡、松本らによって設立された。評論・漢詩・小説などを会員が和紙に毛筆で書き、それを回覧して批評し合った文書である。この「我尊会」に「有翼」というペンネームで投稿した西田幾多郎の文章が「我尊会有翼文稿」として西田幾多郎全集に収録されている。

「有翼」とは若き日の西田幾多郎のペンネームの一つ。天馬空をゆく自由人としての境涯を荘周にならってユーモラスに自称したものであろう。「有翼」という雅号の由来を尋ねた客人に答えるという趣向で西田が書いた「答賓戯」という文がある。当時の西田は、「有翼の天馬」よりも「鈍牛」のごとき存在と友人から評されていたが、おそらく畏友山本良吉の影響を受けて、「有翼」に、自由奔放にして如何なる権威をも恐れない自己の理想的なありかたを託したものと思われる。

西田は明治22年7月、行状点が100点萬点中8点という成績のため落第が決まるが、「我尊会有翼文稿」には、「行軍あれば則去り、体操あれば則去り・・」という言葉がある。薩長政府による中央集権的な学制改革で新たに導入された兵式体操や行軍という軍隊式の教練に西田は参加しなかったのである。落第が決まった後、恩師北条時敬に諭されたこともあって、留年して第一学年をやりなおすが、結局、山本良吉の後を追うような形で明治23年春に四高を中退している。「我尊会有翼文稿」には、西田の書いた最初期の文章が幾つか収められている。幾つか紹介しよう。
「余が最愛スル諸君ヨ」―西田は冒頭に「旧約全書第一葉」を引用して、人が万物の霊長たる所以は、「人が道理(Reason)の動物」たるところにあると述べる。次に西儒「麻鴻礼(Thomas Macaulay1800-1859 大英帝国の歴史家、詩人、政治家で「イングランド史」の著者)」のボルテールと「彌兒頓(Milton )」の評言を引き、腕力や武力よりも「道理の力」の大なることを説いたもの。西田は、この文の中で、ときの薩長政府による国家主義的な学制改革による教育方針を反啓蒙的な武断主義として嘲笑している。
「Jean 「Jauques Rousseau」―仏蘭西革命を引き起こした「悪人」としてルーソーを糾弾することの愚かなることを英仏の歴史家の書を西田が引用したもの。野蛮なる遺風たる「天子神権」を「道理の力」によって克服した人類の恩人であり「真箇ノ英雄である」としてルーソーを讃える文である。文末に「世間で世間に従って生きることは易しい。孤独の中で自己の孤独に従って生きることも易しい。しかし偉大なる人間は大衆の只中にあって孤独なる独立精神を完璧な優美さをもって保持する」というエマーソンの言葉を西田は英語でそのまま引用している。西田は後年次のように回想している。(「山本晁水君の思い出」1942)。

第四高等中学となってから、校風が一変した。つまり地方の家族的な学校から天下の学校となったのである。当時の文部大臣は森有礼という薩摩人であって、金沢に薩摩隼人の教育を注入するというので、初代校長として鹿児島の県会議長をしていた柏田(盛文)という人をよこした。その校長について来た幹事とか舎監とかいうのは、皆薩摩人であって警察官などをしていた人々であった。師弟の間に親しみのあった暖かな学校から、忽ち規則づくめな武断的な学校に変じた。

山本良吉とともに西田の生涯の友となった鈴木大拙(貞太郎)は、明治憲法発布の日に撮影した写真には姿がないが、このとき大拙は経済的な困窮が原因ですでに退学していた。西田は、その大拙のために「與鈴木兄」と題し漢詩を二首詠んでいる。

挽風微動清涼催 名月懸空似玉珠 哲学妙玄人無識 清宵月下夢韓図  (韓図=カント)
除去功名営利心 独尋閑處解塵襟 窓前好読道家册 月明清風払俗塵

第一首で「カントを夢見る」人物は西田自身であるのかも知れない。ただし、高等学校の学生時代の西田が、カントの思想について西田がどの程度の理解と評価をもっていたかは分からない。第二の「功名や営利の心を除去」して月光のさす窓辺で「道家の書物」を読むのは、西田よりも鈴木大拙のイメージによくあっている。

明治23年9月、西田は自分に先立って高校を中退した金田良吉、病気で留年した藤岡作太郎らとともに「我尊会」の精神を受け継ぐサークル「不成文会」を結成した。西田の関心は数学から哲学に向かい、政治的な自由主義思想から内面的な精神の自由を目指す哲学的探求へと転換した。中退後独学の時代に、眼病にかかり読書をしばらく禁止されるという試練に遭った西田は、当時の心境を次の漢詩に託している。

    高節自許波斗曼 功業独冀大俚爾 両眼雖病志益固 久枕哲書待他日
                            *俚爾(ヘーゲル) *波斗曼(ハルトマン) 

注釈:

波斗曼(エドワルド・フォン・ハルトマン1842-1906)はヘーゲルとショーペンハウアーの思想を統合した「無意識の哲学」によって独自の美学思想を展開したドイツの哲学者である。ショーペンハウアーの著作が再評価された世紀末のヨーロッパでは、彼の著作は英仏語に翻訳され、ドイツ以外の国でも国際的かつ学際的に著名であった。日本でもその名は早くから知られ、明治22年刊行の三宅雄二郎の「哲学涓滴」には、「ショーペンハウアー氏すでに意志をもってヘーゲルの知恵に代えし上は、両々あい反対し合い抵拝せざるを得ざる勿論にして、これを総合してさらに豊富の意見を立つるは、すなわちハルトマンの任なるが如し」とある。西田が入学した頃の東京大学の哲学科教授であった井上哲次郎も、欧州留学中にハルトマンと親交を結び、それが機縁となって、後に、ハルトマンが推薦したラファエル・フォン・ケーベル(1848-1923)を東京大学哲学科に外国人教師として招聘した。ケーベルは、ハイデルベルグ大学でショーペンハウアーにかんする学位論文を書き、その後継者としてのハルトマンの哲学史に於ける重要性を、シュベーグラーの「哲学史」の増補校訂者となったときに強調している。ケーベルは、東大哲学科に明治26年に着任すると、ショーペンハウアーの晩年のエッセイ「パレルガ・ウント・パラリポメナ」を講義で使用し、西田もそれを聴講している。

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