歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

クレアモントから 2 民衆神学と恨の神学

2007-03-12 | 日誌 Diary
クレアモントというのは多くのカレッジが集まった大学町であるが、米国やヨーロッパの多くの大學がそうであるように、神学院(Divinity School)が大學の中心になっている。当地の神学院には韓国のメソディストの神学生が大勢留学している。私が泊まっている宿舎も、管理人は韓国のメソディストの牧師で、現在、神学博士号と取得するために当地の大学院で勉強中とのことであった。幸い、今年の五月12日までに学位の取得の見通しがついたとのこと。なお、彼の娘さんもクレアモントの大学生。5月に当地の大學を卒業後は大学院に進学の予定。彼女は、ハーバードとイエールの大学院を受けて両方とも合格したとのことで、大変な才女である。

昨年秋にクレアモントに滞在したときは、食事は自炊か外食であったが、今回は、管理人の奥さんが毎晩、米飯を用意してくれるので大いに助かった。

 クレアモント大學では、最近の傾向として、台湾や中国本土からの留学生も増えてきたとのこと。もっとも、皆、英語でしゃべっているので、良く聴いてみないと相手が韓国出身なのか中国出身なのかは解らない。さらにヒスパニック系の人、ヴェトナムやアフリカ出身のひとと話すことが多い。クレアモントの町のひとは、当地の大学を University と呼ばずに Multiversity とよんでいますが、その理由は、おそらく様々な国籍・文化の人がここに集まっているからだろうか。

今日は大學で韓国の若い學者による Minjung Theology にかんする講演を聞き、おおいに教えられた。

Minjungとは漢字で書けば「民衆」だから、「民衆神学」といって良いのだが、日本語の民衆とはちがって、「受難の民」という含意があるようだ。つまり、日本の帝国主義的統治と朝鮮戦争による受難を被った民衆、故郷も家も、およそ頼るべきものをすべて喪失した「受難の民」の立場から、主体的にキリスト(救世主)を語るというのが、韓国のキリスト者が云う「民衆神学」とのこと。

 それと同時に、民衆神学では、圧政に苦しむ韓国の民衆の心を「恨(Han)」という言葉で表現する。したがって、民衆神学は「恨の神学」として語られることもある。「恨」は、抑圧され、暴政に苦しむ民衆の心情の根柢にある情念を表現するものだが、それが否定的に表現されるばあいは、「怨恨(Won-Han)」と呼ばれ、創造的・積極的に表現される場合には「情恨(Chong-Han)」と呼ばれる。情恨は韓国の文化、藝術、宗教を根本的に特徴づけるものであって、その立場に立つキリスト教神学が「恨の神学」である。

この日の講演者は、ホワイトヘッドの哲学にも影響を受けた人であり、「歴程神学と民衆神学との対話」を主題とするものであった。その内容は、私自身の関心とも重なるが、いずれにしても、日本とくらべれば圧倒的にキリスト者の数がおおいい韓国の神学者から、韓国独自のキリスト教神学の話を聞き、おおいに啓発された。

民衆という言葉は日本語では抑圧された地の民という含意がつたわらない。民衆神学の創始者である安炳茂(アン・ビョン・ム)氏は新約聖書のマルコ伝に出てくる民衆(オキュロス)を念頭におきつつ、そこに韓国の「受難の民」のイメージを重ねているようだ。しかし、民衆の「衆」という概念には曖昧さが有る。民衆こそキリストであるというそのメッセージは、決して群集がキリストであると言うことではなかろう。群集はキリストを十字架に付けることに同意する存在でもあったし、民主主義の担い手であると共に、独裁者に自己の自由を譲り渡すのも群集であるから。つまり、民衆とは、けっして多数の「群集」を意味するものであってはならず、むしろ場合によっては抑圧された少数者、さらには一個の人格に代表される声なき「民」であることもあるのではないか。

そしてキリスト教というのは、たしかに「民の声」を地盤とするけれども、その民は数の多さを頼みとする群集にではなくて、むしろ、民の中に埋もれてしまう一人一人の人格に直接に「我-汝」の関係において訴えかけるものではないか--こういう疑念も民衆神学についての説明を聞きながら同時にもったことも事実である。
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