歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

永井隆「滅びぬものを」を読む

2008-09-15 | 日誌 Diary
 永井隆については多くのことが語られてきた。今年は生誕100年にあたるということで、各地で講演会や展示会が催されたとのこと。今年も8月7日に長崎純心大学で、山内清海氏が「永井隆博士の思想を語る-神の摂理-」と題して講演された。永井隆については語らねばならぬことが非常にあるが、同時に安直なる語りかたを決して為すべきではないと云う思いから逃れられない。そこで、今日は、従来、あまり論ぜられることの無かった永井の従軍医師としての体験を綴った遺著「滅びぬものを」を取り上げたい。永井は長崎で被爆する前に、従軍医師として満州と華北に二度にわたって中国に渡り、「河北、河南、山東、そ江、せつ江、安き、広東、広西、ノモンハン」と中国大陸を縦断して、医療活動をした後に、昭和15年2月に下関に帰還した。当時、内地の日本人には、大陸での戦況は正確に伝えられていなかった。永井は、次のように帰還直後の体験を語っている。

出雲の古里の家に父はなく、大きなさみしさが隆吉を迎えた。近所の人々は集まって、凱旋祝いをするからと言った。隆吉はかたくそれを断った。人々はびっくりして、なぜ祝いしてはいけないのか、となじった。隆吉は、

「今は祝いなんかしておられる時じゃありません。広西省の山のなかで、私の部下はきょうも血と泥にまみれている。わたしひとりが帰還して、どうして祝い酒なんか飲んでおられましょう。それに日本は勝ってはいないのです。また勝つという確信もないのです」

「それでも、我が軍は破竹の勢いで、あれだけ広い地域を占領したではありませんか?」

「無理強引にかなたこなたと押し歩いたのが勝利ですか? どれだけたくさんの墓標があとに残されたか、ご存じですか? あの調子で行けば、この村の青年は一人残らず引き出されますよ。人の口車に乗って景気よくドンチャン騒ぎをしているうちに財布はからになり、あっと青くなるようなことが起こらなければいいですが・・・」

「しかし、我が軍の情報部の発表によれば-」

「ああ、その発表がねえ・・・。正確な記録ではなくて、空想小説のように私には思われるのですが・・・」

隆吉は、国民に真相が知らされていないのを初めて知った。

(中略)

大陸の戦場で多くの庶民が塗炭の苦しみをなめ、両軍の無邪気な青年達が頭を割られ、腹を裂かれ、足をちぎられ、血と泥の中にのたうちまわっている、あの悲惨な姿を知らないから、内地では、どこへ行っても戦争景気で飲めやうたえの馬鹿騒ぎをしているのだ。軍需工場の連中は、戦争はもうかるものだと思いこみ、肩で風を切って街をねりあるき、利権屋どもは大きな折りカバンをふくらませて、大陸への連絡船に乗っている。戦地で毎日のように聞かされた、天皇陛下のためというのは、真実であったろうか?

永井が帰還した昭和15年2月は、南京に汪兆銘による「遷都式」が行われる前の月である。日本の「勝利」が喧伝され、上海には利権を求める日本人が大勢中国に渡っていった時期に当たる。永井は従軍医師として日中戦争の現場を体験していたが、上官から広東乗船するときに「軍医は戦争の犠牲について真相を知っているが、これは国民に知らさないように注意しなければならない」と警告され、下関では憲兵から再度おなじ趣旨の警告を受け、広島で招集解除されたときも同じ命令を繰り返させられたという。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする