講義要項
けふよりは詩編百五十 日に一編読みつつゆけば平和来なむか
(南原繁歌集『形相』所収)
80年前、無教会キリスト者の内村鑑三の平和主義から大きな影響を受けた南原繁の読んだこの短歌
は、東京大空襲の戦禍のさなかに詠まれたものですが、それはまた、敗戦後の日本が、平和な国として
再出発するには何をなすべきか、その理念と祈りを聖書の詩編にもとめたものでもありました。内村鑑
三と南原繁の平和への願いを想起しつつ、『詩編に聴く―聖書と典礼」という連続講義を行う予定です。
この講義は内村鑑三の連続講義『聖書の研究』を手本としていますが、私は、内村があまり問題としな
かった「(ユダヤ教・東方キリスト教・西方キリスト教の)典礼のなかの聖書」という視点をあらたに付
け加えました。
カトリックの「教会の祈り(新しい聖務日課)」では、詩編が中心的な位置を占めています。主日の典
礼、毎日の聖務日課(時課)に参加する者は、詩編150編のすべてを、様々な形態で、朗唱することに
なるでしょう。キリスト者の祈りは、ユダヤ教の典礼を母体としていますが、排他的な民族主義を克服
して、すべての民と被造物の救済を目指すカトリック信仰に基づいています。
聖グレゴリオの家で歌われるグレゴリオ聖歌のラテン語テキストは、初代のキリスト者の世界の共通
語であったギリシャ語聖書(七〇人訳聖書)に基づいています。新約聖書のなかの旧約聖書の引用は、
基本的には詩編も含めて、この七〇人訳ギリシャ語聖書によりますので、新約時代のキリスト者の信仰
を理解するためには、ユダヤ教正典のヘブライ語テキストだけでなく、ギリシャ語テキストに基づくキ
リスト者の詩編解釈の伝統を知ることも必要となってきます。
私の連続講義は2025年の復活祭の後から開始し、全部で十回を予定しています。
詩編の構成・作者・表題・内容の分類・キリスト者の詩編解釈の伝統・近代語訳(英語欽定訳など)日
本語訳の比較など、詩編釈義に伴う様々な諸問題を論じる予定です。カトリック教会の典礼ではグレゴ
リオ聖歌が中心的な位置を占めますが、この講義では、復活祭に関連する詩編、とくに「詩編51に聴
く―灰の水曜日の懺悔と賛美」「詩編118に聴く―ペテロの証し―受難の民の希望」「詩編148に聴くー
アッシジの聖フランシスコの祈り・ラウダート・シに寄せて」「詩編150に聴く―復活祭のアレルヤ
唱」など、カトリックの典礼と聖務日課に関連の深い詩編を幾つか選んで詳しく解説します。また、七
〇人ギリシャ語訳聖書の伝統を継承する正教会の典礼で詩篇がどのように歌われているかを知るため
に、日本でもよく知られているラフマニノフの「晚禱(徹夜禱)」を手引きとして、その背景にある正教
会の典礼で歌われる詩篇と新約聖書の賛歌を解説します。
イグナチオ・デ・ロヨラの祈りの言葉
Anima Christi キリストの魂
Anima Christi, sanctifica me. キリストの魂、わたしを聖化し、
Corpus Christi, salva me. キリストの体、わたしを救い、
Sanguis Christi, inebria me. キリストの血、わたしを酔わせ、
Aqua lateris Christi, lava me. キリストの脇腹から流れ出た水、わたしを清め、
Passio Christi, conforta me. キリストの受難、わたしを強めてください。
O bone Jesu, exaudi me. いつくしみ深いイエスよ、わたしの祈りを聴きいれてください。
Intra tua vulnera absconde me. あなたの傷のうちにわたしをつつみ、
Ne permittas me separari a te. あなたから離れることのないようにしてください。
Ab hoste maligno defende me. 悪魔のわなからわたしをまもり、
In hora mortis meae voca me. 臨終の時にわたしを招き、
Et iube me venire ad te, みもとに引き寄せてください。
Ut cum Sanctis tuis laudem te. すべての聖人とともに、いつまでもあなたを
In saecula saeculorum. Amen ほめたたえることができますように。アーメン (ホセ・ミゲル・バラ神父による日本語訳)
イグナチオ・デ・ロヨラが自身の『霊操』の冒頭に記しているのこの祈りは、「イグナチオ・デ・ロヨラの憧憬」と呼ばれることもある。
「霊操」の初版にすでに言及され、第二版以後は全文が引用されているこの祈りは、様々な国の言葉に翻訳されてきたが、英語訳では、ニューマン枢機卿のものが良く知られている。ニューマンはこの祈りの終わりの部分を「汝の聖人と共に永遠に汝の愛を歌うことができますように」(’With Thy saints to sing Thy love,World without end.')と、単に「ほめたたえる」と訳すのではなく「愛を歌う」と意訳している。
「キリストの魂」という祈りの根本にあるものが、「愛の頌栄」であるということは、ロヨラの『霊操』がキリストの愛を主題とする点で、ヨハネの福音書や書簡と深い内的なつながりがあることを示すものである。『霊操」の最も新しい邦訳者である川中仁によれば、ヨハネ福音書と『霊操』は、「イエス・キリストの形姿を媒介とする神と読者との間の間主観的コミュニケーションの場」を開くという共通の構造があるという(「ヨハネ福音書とイグナチオ・デ・ロヨラの霊操」ー上智大学キリスト教文化研究所篇『さまざまに読むヨハネ福音書』所収、2011)。
また、臨済宗の室内の根本修行を通過(大事了畢)して参禅指導者の資格を得たイエズス会の門脇佳吉神父は、禅の接心の初めから終わりまでを貫く根本原理を「大死一番絶後に蘇る」というダイナミックな体験とし、『霊操』の第一週から第四集までを貫く根本原理を、「一粒の麦がもし地に落ちて死せざれば、ひとつにとどまる。もし死すれば多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書12-14)という「死と復活の」の経験としている。(岩波文庫の『霊操』門脇佳吉訳・解説参照)
単なる神秘的観想にとどまるのではなく、さらに一歩進んで、さまざまな社会的な奉仕活動に積極的に参加するイエズス会の精神ー「愛の利他行」ーをささえるものが『霊操』であり、その冒頭に置かれた「キリストの魂」の祈りであろう。
- Anima christi sanctifica me ( Chant Catholique )
詩編65[66]に聴く:主の公現後第二主日の入祭唱 “Omnis terra adóret te, Deus”のグレゴリオ聖歌から
まず公現後第二主日で歌われるグレゴリオ聖歌の入祭唱“Omnis terra adóret te, Deus”を聴こう。
INTROIT • 2nd Sunday after Epiphany (“Omnis terra adóret te, Deus”)
Vulgata Text:
Omnis terra adoret te, et psallat tibi; psalmum dicat nomini tuo. Jubilate Deo, omnis terra; psalmum dicite nomini ejus; date gloriam laudi ejus.
English Text used by Orthodox Church in America:
Let all the earth worship Thee, and chant unto Thee; let them chant unto Thy name. Shout with Jubilation unto the Lord all the earth; chant ye unto His name, give glory in praise of Him.
詩編[66]は、もともとは、民族としてのイスラエルの紅海における救い(6節)、捕囚からの救い(12-c節)を想起する「感謝の歌 מִזְמ֑וֹר שִׁ֣יר(šîr miz·mō·wr;)」であった。フランシスコ会聖書研究所訳に従うと、第1節から4節までは
1 すべての地よ、神に歓呼せよ 2 み名の栄えを ほめ歌い、はえある賛美を献げよ。3 「神よ、あなたのわざは恐るべきもの。敵はあなたの偉大な力の前に屈する。4すべての地はあなたを拝み、ほめ歌い み名をたたえて歌う」。
となっている。典礼では、順序が少し変わって、4節が歌われた後で、1-2節が歌われている。そして大切なことは、典礼で歌われていなくとも、この詩を初代のキリスト者が読むときにどのように解釈したかを知るために、16-19節を引用しよう。
16 いざ聞け、すべて神をおそれる者よ、神がわたしに何をされたかを語ろう。 17 わたしは口をもって神に呼び求め、舌をもって神をあがめた。18 わたしの心に よこしまがあったなら、主は聞き入れられなかったであろう。 18 まことに神は聞き入れて、わたしの祈りの声を心にとめられた。
ここでは、詩編記者は、詩の前半部分のように、イスラエル民族としての「我々」ではなく、一人称単数の「わたし」として、個人の救済を語っていることに注意したい。旧約の時代には、巡礼者の集まる民族的な祭儀ではまず団体的な感謝が行われ、次に個人的な感謝の奉献が行われたらしい。
新約の時代では、この詩編は、「キリストを信じる者の復活を喜ぶ」詩として歌われるようになった。それは、ギリシャ語訳の古い写本と、Vulgata訳では、この詩の表題が、ᾠδὴ ψαλμοῦ ἀναστάσεως Canticum psalmi resurrectionis (復活の頌栄)となっていることから知られるのである。
アウグスチヌスは『詩編注解」のなかで、この詩編65のキリスト者にとっての重要性を次のように説明している。
この詩編は表題として「終わりに、復活の頌栄」と書かれている。詩編が朗読されるとき、「終わりに」と言う言葉をあなたたちが聞くなら、「キリストにおいて」と理解しなさい。使徒は「というのもキリストは律法の終わり、信じる者にとって義となるものだからである(ロマ書10-4)」と述べている。だから、ここで復活がいかに語られ、誰の復活が語られているのか、主御自身が与え、啓示されることを嘉しとされる限りにおいて、聞きなさい。キリスト者の復活がわたしたちの頭(かしら)においてすでに成し遂げられたこと、また肢体においては将来起こることを私たちは知っている。教会の頭はキリストであり、キリストの肢体は教会である。頭において先行したことが、身体において続いて生じるのである。これはわたしたちの希望である。このことのゆえに、わたしたちは信じ、このことのゆえに、この世のかほどの悪意のなかで、忍耐し、堅忍するのである。希望が事柄として現実となる前は、希望がわたしたちを慰める。事柄が現実となるのは、わたしたちも復活し、天的な住まいへと変えられ、天使と等しき者にされる時である。真理が約束するのでなければ、誰が敢えてこれを希望するだろうか。
「終わりにin finem」とラテン語訳されたヘブライ語לַ֭מְנַצֵּחַ は、「(聖歌隊の)指揮者に」と訳されるのが普通であるが、七〇人ギリシャ語訳 εἰς τὸ τέλος に由来する in finem をアウグスチヌスは、単なる音楽上の指示などではなく、文字通り「終わりに(むけて)」と読み、終末における復活の希望に生きるキリスト者の希望を表現するものとしてこの詩篇を読んでいることが分かるのである。アウグスチヌスは、次に、マタイ傳22:23-30を引用し、復活を否定するサドカイ派に対するイエスの応答を引用し、死者の復活の希望をもっていたユダヤ人を励ますと共に、死者の復活が、キリストを信じる異邦人にも約束されていることを強調し、「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでである」(ロマ書11-25)というパウロの言葉を引用している。
ーーーーーーーーーEnglish translation---------------
Let's listen to the Introit for the 2nd Sunday after the Epiphany, ‘Omnis terra adóret te, Deus’, from the Gregorian chant.
Vulgata Text:
Omnis terra adoret te, et psallat tibi; psalmum dicat nomini tuo. Jubilate Deo, omnis terra; psalmum dicite nomini ejus; date gloriam laudi ejus.
English Text used by Orthodox Church in America:
Let all the earth worship Thee, and chant unto Thee; let them chant unto Thy name. Shout with Jubilation unto the Lord all the earth; chant ye unto His name, give glory in praise of Him.
Psalm 66 was originally a ‘song of thanksgiving’ (מִזְמ֑וֹר שִׁ֣יר, šîr, miz·mō·wr;) recalling Israel's salvation at the Red Sea (v. 6) and deliverance from captivity (vv. 12-c). Following the translation of the Franciscan Institute of Biblical Studies, verses 1-4
1. All the earth, sing to God with joy! 2. Sing to God with praise, and give him glorious praise. 3. ‘God's deeds are awesome. The enemy is defeated before his great power. 4. All the earth worships and praises him, and sings his name.’
In the liturgy, the order is slightly different, and verses 1 and 2 are sung after verse 4. And, importantly, even if it is not sung in the liturgy, let us quote verses 16-19 to see how the early Christians interpreted this poem when they read it.
16 Listen, all you who fear God, and I will tell you what he has done for me. 17 I called to God with my mouth and praised him with my tongue. 18 If my heart was wicked, the Lord would not have listened. 18 Surely God has listened and heard my prayer.
Here, the psalmist is speaking of personal salvation, using the first person singular ‘I’ rather than the ‘we’ of the first half of the psalm. In Old Testament times, it seems that at national festivals where pilgrims gathered, group thanksgiving was offered first, followed by individual thanksgiving.
In the New Testament era, this psalm came to be sung as a psalm of ‘rejoicing in the resurrection of those who believe in Christ’. This is known from the fact that in the Greek translation of the Old Testament and in the Vulgate, the title of this psalm is ᾠδὴ ψαλμοῦ ἀναστάσεως, Canticum psalmi resurrectionis (Hymn of the Resurrection).
In his ‘Commentary on the Psalms’, Augustine explains the importance of this psalm 65 for Christians as follows
This psalm is entitled ‘For the end, a resurrection hymn’. When you hear the words ‘for the end’ when the psalm is read, understand them to mean ‘in Christ’. The Apostle says, ‘For Christ is the end of the law and the righteousness of those who believe (Romans 10-4)’. So listen to what is said here about the resurrection and whose resurrection is being talked about, as far as the Lord himself is pleased to give and reveal. We know that the resurrection of the Christians has already been accomplished in our heads, and that in the members it will take place in the future. The head of the church is Christ, and the members of Christ are the church. What has preceded in the head will continue to occur in the body. This is our hope. Because of this, we believe, and because of this, we persevere and endure in the midst of the world's evil. Before hope becomes a reality, it comforts us. The reality will come when we too are resurrected, transformed into heavenly dwellings, and made equal to the angels. Who would dare hope for this if truth did not promise it?
The Hebrew word יִזְקַנְתִי, which is translated in Latin as ‘in finem’, is usually translated as ‘(choir) conductor’, but Augustine, who derived the word ‘in finem’ from the Septuagint Greek translation εἰς τὸ τέλος, read it literally as ‘towards the end’, and not as a mere musical instruction, and we can see that he read this psalm as expressing the hope of Christians living in the hope of the resurrection at the end of time . We can see that Augustine reads this psalm as expressing the hope of Christians living in the hope of the resurrection at the end of time. Augustine then quotes Matthew 22:23-30, Jesus' response to the Sadducees who denied the resurrection, and emphasises that the resurrection of the dead is also promised to the Gentiles who believe in Christ, while encouraging the Jews who had the hope of the resurrection of the dead, and quoting Paul's words that “it was because of the hardness of some of the Israelites that the whole Gentiles reached salvation” (Romans 11-25).
聖書と典礼の研究:ダニエル書の「アザルヤと三人の若者の歌」
聖務日課の先唱、「主よ、私の口を開いて下さい」という祈りの言葉の背景には、旧約聖書によってキリスト者に伝えられたどのような状況が想定されていたのだろうか? 祈りも我々の身勝手な欲求からするものではなく、神の先導による受動から始まり、神の賛美に終わるという教えがそこにあると思われるが、それだけであろうか?
この問いに対するひとつの答えは、聖ベネディクトに由来する荘厳朝課で歌われる「アザルヤと三人の若者の賛歌」(ダニエル書3:24-90)にある。
この賛歌は、七〇人ギリシャ語訳やVulgataラテン語訳の旧約聖書に含まれる「ダニエル書」(3:24-90)にあり、カトリック教会と東方正教会の典礼の歴史の中では非常に尊重された賛歌である。
「アザルヤと三人の若者の賛歌」では、異教徒の残忍な王ネブカドネザルによって燃えさかる炉に投げ込まれたアザルヤが、
今や、私たちは口を開くことができません。恥と屈辱が、あなたの僕ら、あなたを礼拝する者たちに降りかかりました
と「火の中で」語る。彼は、イスラエルの民の不信を痛悔したあとで、「罪の故に異教徒の王の手にかかり、今日、全地で賤しい者となりはてた民が、<打ち砕かれた魂とへりくだる心によって>神に受け入れられること」を祈るのである。
アザルヤの祈りに続いて、ダニエル書は、主によって奇跡的に救済されたことを感謝する「三人の若者の詠頌(Benedictiones)」を記録しているが、それは、この世界のすべての被造物に呼びかける賛歌となっている。
Benedicite omnia opera Domini, Domino:
Laudate et superexaltate eum in saecula・・・
主の造られたすべてのものよ、主を賛美せよ
世々に主をほめ頌え、崇めよ・・・・
カトリック教会でも東方教会でも典礼で重視してきたこの「三人の若者の詠頌」は、ユダヤ教のマソラ本に従うプロテスタント教会の旧約聖書には欠落しているので、その内容を更に詳しく確認しておきたい。それは、詩編の最後におかれた詩編148-150の「ラウダ(宇宙賛歌)」や、後で論じるアッシジのフランシスコの「太陽の歌」の賛歌の背景にあるものを理解する上で必要だからである。
「三人の若者の詠頌」は、ありとあらゆる被造物―天、天使、天の上の水、万軍、太陽と月、天、星、雨と露、風、火と熱、寒暖、露と霜、夜と昼、光と闇、氷と寒さ、霰と雪、稲妻と雲、大地、山と丘、地にはえるすべてのもの、海と川、泉、海の巨大な生き物と水中に動くすべてのもの、空のすべての鳥、地のすべての獣と家畜、人の子ら、イスラエル、祭司たち、僕たち、義人たちの心と魂、聖なる心の謙虚なものーに呼びかけ、Benedicite (賛美せよ)とLaudate (ほめ頌えよ)の交唱のなかで祈り続けた後で、
主が私たちを陰府(よみ)から救い、死の手から救い出して下さった。また燃える炎の炉から解放し、火の只中から解放して下さった
と救済の奇跡を伝え、
Laudate et confitemini ei : quia in omnia saecula misericordia eius
(ほめ頌え、感謝せよ、主の憐れみは永遠)と感謝の言葉でこの詠頌を終えている。
Benedicite (Latin chant, with translation)
℟. Et os meum annuntiábit laudem tuam.
Deus in adiutórium meum inténde.
℟. Dómine, ad adiuvándum me festína.
Glória Patri, et Fílio, * et Spirítui Sancto.
Sicut erat in princípio, et nunc, et semper, * et in sǽcula sæculórum. Amen.
Allelúia.
Gloria 'n cielo e pace 'n terra "Laudario di Cortona, Italian anonymous, 13th century"
コルトナ賛歌
詩編を祈る-詩編は聖書に於ける祈りのシンフォニー
教皇フランシスコは、6月19日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で、水曜日恒例の一般謁見を行われた。
この日、教皇は「聖霊と花嫁。聖霊は神の民をわたしたちの希望イエスとの出会いへと導く」を主題とするカテケーシスで、
「聖霊は花嫁に祈ることを教える。詩編、聖書における祈りのシンフォニー」をテーマに話された。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
**********
来たる2025年の聖年の準備において、わたしは2024年を「大きな祈りのシンフォニー」とするように招いた。今日のカテケーシスを通し、教会がすでにもっている祈りの交響曲を思い出そう。聖霊によって編まれたこのシンフォニー、それは「詩編」の書である。
それぞれの交響曲には様々な「動き」があるように、詩編には様々な種類の祈りがある。それらは、個人の、あるいは民の合唱の形をとった、賛美、感謝、嘆願、嘆き、語り、叡智に満ちた考察などである。
詩編は新約聖書において特別な位置を占めている。実際、新約聖書と詩編を一緒に掲載したものがかつてあり、今も存在する。全詩編が、また各詩編の全体が、キリスト者によって繰り返し唱えられたわけではない。従って現代の人々にはなおさらである。今日の人々は、ある歴史的状況やある種の宗教的メンタリティーを、もう自分たちのものではないと考えている。しかし、それは彼らが詩編からインスピレーションを受けていないことを意味しない。古い掟の多くの部分のように、啓示のある期間・段階において、人々は詩編と結ばれていると言える。
わたしたちに最も受け入れられている詩編は、かつてイエスや、マリア、使徒たち、またすべての時代のキリスト者たちが祈っていたものである。わたしたちがこれらの詩編を唱えるとき、神は諸聖人の交わりという偉大な「オーケストラ」によってそれを聴かれる。「ヘブライ人への手紙」によれば、イエスは「御覧ください。わたしは来ました[…]神よ、御心を行うために」という詩編の一節を胸に世に来られ(参照 ヘブライ10,7、詩編40,9)、「ルカ福音書」によれば、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という詩編の言葉と共にこの世を去られた(参照 ルカ23,46、詩編31,6)。
新約聖書において詩編が使われたことに、教父たちや全教会も倣った。それによって、詩編はミサと教会の祈りにおいて定着した要素となった。
しかし、わたしたちは過去の遺産だけで生きてはいけない。詩編を「わたしたちの」祈りとする必要がある。ある意味、詩編は、それを祈りながら自分のものとし、わたしたち自身が「詩編作者」となるために書かれたといえる。
もし、自分の心に語りかける詩編が、あるいはその一節があるならば、それを一日の中で繰り返し、祈るのは素晴らしいことである。詩編は「オールシーズン」の祈りである。あらゆる気持ちや必要が、詩編の言葉を祈りに変える。他の祈りと異なり、詩編は繰り返すことで効力を失わず、むしろそれを強める。なぜなら、それは神の霊から来るものであり、信仰をもって読むたびに神に「刺激を与える」ものだからである。
わたしたちが良心の呵責や罪に苦しめられているならば、ダビデと共にこう繰り返そう。「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐みをもって」(詩編51,3)。また、わたしたちが神との強い絆を表したいときは、こう言おう。「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは、乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています」(詩編63,2)。そして、恐れや不安に襲われたときは、この素晴らしい言葉がわたしたちを救いに来てくれる。「主は羊飼い、[…]死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」(詩編23,1.4)。
詩編は、わたしたちの祈りが、「わたしにください、わたしたちにください」という単なる要求の繰り返しにならないように助けてくれる。「日ごとの糧」を願う前に、「み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」と言う「主の祈り」から学ぼう。詩編は、賛美、祝福、感謝の祈りといったように、自分だけを中心にすることのない祈りに心を開かせてくれる。そして、賛歌の中に被造物を関わらせることで、わたしたちに全被造物の声を代弁させてくれる。
聖霊は、花嫁である教会に、神なる花婿に祈るための言葉を贈ってくださった。さらに、聖霊は、それを今日の教会に響かせるように、また、聖年を準備するこの年を祈りのシンフォニーとするように助けてくださる。
Pope at Audience: The Psalms, 'the prayer of Jesus,' are for all seasons
During his Wednesday General Audience, Pope Francis encourages the faithful to engage in a 'symphony of prayer' by praying the Psalms, as Jesus did.
By Deborah Castellano Lubov
"It is necessary to make the Psalms our prayer, making them ours and praying with them," urged Pope Francis during his Wednesday General Audience in the Vatican.
As the Holy Father continued his catechesis series on the Holy Spirit, this week he reflected in a special way on the Psalms.
The Pope had begun by recalling that in preparation for the 2025 Jubilee, he had proclaimed 2024 a Year of Prayer.
Symphony of prayer
"With today’s catechesis," he therefore explained, "I would like to recall that the Church already possesses a symphony of prayer, whose composer is the Holy Spirit, and it is the Book of Psalms."
The Book of Psalms, like any symphony, he observed, "contains various “movements,” that is, various genres of prayer: praise, thanksgiving, supplication, lamentation, narration, sapiential reflection, and others, both in the personal form and in the choral form of the whole people".
These, he said, "are the songs that the Spirit Himself has placed on the Bride’s lips."
All the Books of the Bible, the Pope reiterated, are inspired by the Holy Spirit, but the Book of Psalms, he added, is especially "full of poetic inspiration" and have had a special place in the New Testament.
"What most commends the Psalms to our attention is that they were the prayer of Jesus, Mary, the Apostles and all the Christian generations that have preceded us."
When we recite Psalms
When we recite them, the Holy Father explained, "God listens to them with that grandiose “orchestration” that is the community of saints."
He recalled that Jesus, according to the Letter to the Hebrews, entered into the world with a verse from a Psalm in His heart: 'Lo, I have come to do thy will, O God' (cf. Heb 10:7; Ps 40:9), and He left the world, according to the Gospel of Luke, with another verse on His lips: 'Father, into thy hands I commit my spirit' (Lk 23:46, cf. Ps 31:6).
The use of psalms in the New Testament, the Pope added, is certainly followed by that of the Fathers and the entire Church, but has an important role in our world today.
"We cannot only live on the legacy of the past," he argued, saying, "it is necessary to make the Psalms our prayer. It was written that, in a certain sense, we must ourselves become the “scribes” of the Psalms, making them ours and praying with them."
For all seasons
When Psalms, or verses, "speak to our heart," he said, "it is good to repeat them and pray them during the day."
Since they are prayers “for all seasons,” he said, "there is no state of mind or need that does not find in them the best words to be transformed into prayer." Unlike other prayers, the Pope stated, they do not lose their effectiveness by being repeated, but, "on the contrary, they increase it."
This is so, he said, because "they are inspired by God and 'breathe' God, every time they are read with faith."
Always a Psalm to accompany us
The Pope insisted that if we feel oppressed or fearful, or loving and joyful, there is a Psalm that can help accompany us, and enrich our prayer by not reducing it merely to requests.
They help us, he said, open ourselves to a prayer that is less focused on ourselves, and rather on praise, blessing, and thanksgiving.
Pope Francis concluded by praying that the Holy Spirit "make this year of preparation for the Jubilee a symphony of prayer."
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開祭の儀 0:00 使徒言行録12:11 Ritus Initiales Antiphona ad introitum (ACT 12,11)

詩編に聴くー聖書と典礼の研究
田中裕
けふよりは詩編百五十 日に一編読みつつゆけば平和来なむか
(南原繁歌集『形相』所収)
75年前、無教会キリスト者の内村鑑三の平和主義から大きな影響を受けた南原繁の読んだこの短歌は、東京大空襲の戦禍のさなかに詠まれた歌ですが、それはまた、敗戦後の日本が、平和な国として再出発するには何をなすべきか、その理念と祈りを聖書の詩編にもとめたものでもありました。内村鑑三と南原繁の平和への願いを想起しつつ、これから、『詩編に聴く』というテーマで「聖書と典礼」の研究を続けようと思っています。
この研究は内村鑑三の『聖書の研究』を一つの手本としていますが、内村があまり問題としなかった「典礼(ユダヤ教・東方キリスト教・西方キリスト教)のなかの聖書」という視点をあらたに付け加えました。内村はフィリピの信徒への手紙4:8 を引用した後で、諸宗教の伝統に敬意を表して次のように言っています。
「キリスト教徒は、すべての人や物事のうちに真理を探り出さずにはいられないのだから。他の宗教に欠点を見いだして喜ぶキリスト教の代表者達は実に哀れな人たちである。キリスト教徒というものは、仏教であれ、儒教であれ、道教であれ、何であれ、そこに良いものを見いだしたなら喜ぶはずだ。彼の目は光を見いだすことには鋭敏であるが、闇を見ることには消極的なのだから。このようにキリスト教は、その真価を発揮するときには、世界のうちに最良のものを発見する力となる」
(日本と世界の友へーThe Japan Christian Intelligencer 創刊の辞, 1926)
聖書と典礼の時間
詩編51-聖灰水曜日の懺悔と賛美
詩編118-ペテロの証しー受難の民の希望
詩編148-天と地の交響ーアッシジのフランシスのLaudato Siへ
詩編150-復活祭のハレルヤ唱ーキリストとともに復活した人間と宇宙の大詠唱
51→118→148→150 昨日→今日→明日
150→148→118→51 明日→今日→昨日
今日を中心として三位一体的な時間を生きること
詩編150に聴くー復活祭のアレルヤ唱
旧約聖書「詩篇」の最後に置かれた150番は、ヘブライ語のハレルヤで始まりますが、キリスト教の典礼では、この詩篇は復活祭の時に必ず歌われます。「宇宙の大栄唱」とも呼ばれるこの詩篇を、ヨッピヒ指揮、「聖グレゴリオの家」の合唱隊の聖歌で聴きましょう。
1 Laudate Dominum in sanctis ejus; 聖所で 主を賛美しよう
laudate eum in firmamento virtutis ejus. 大空の砦で 主を賛美しよう
2 Laudate eum in virtutibus ejus; 力強き御業のゆえに 主を賛美しよう
laudate eum secundum multitudinem magnitudinis ejus. 大きな御力のゆえに 主を賛美しよう
3 Laudate eum in sono tubæ; 角笛を吹いて 主を賛美しよう
laudate eum in psalterio et cithara. 琴と竪琴を奏でて 主を賛美しよう
4 Laudate eum in tympano et choro; 太鼓に合わせて踊りながら 主を賛美しよう
laudate eum in chordis et organo. 弦をかき鳴らし笛を吹いて 主を賛美しよう
5 Laudate eum in cymbalis benesonantibus; シンバルを鳴らし 主を賛美しよう
laudate eum in cymbalis jubilationis. シンバルを響かせて 主を賛美しよう
6 Omnis spiritus laudet Dominum! 霊に息吹かれたものが、こぞって主を賛美する!
教父アウグスチヌスの詩編注解によると、第一節の 'in sanctis eius' 「主の聖なる場所」は、地上の「聖所」ではなく、「主キリストに倣って聖とされた人」を指します。エルサレムの第二神殿のように、どれほど豪壮な建造物といえども、人の手で作られたものは滅びを免れません。しかし、キリストという「聖なる場所」において生きる人は、主の死と復活にあずかり、全ての被造物と共に「ハレルヤ」を復活祭で歌うことができます。
この讃歌は、天と地の全ての被造物とともに歌うので「宇宙讃歌」とも呼ばれます。第三節にあるように「角笛の音」が明瞭に響き渡ると、主を賛美する歌が交響唱和します。ここで登場する弦楽器、管楽器、打楽器は、地上の演奏に呼応して天上からも響きわたり、その交響は、朽ちるべき地上の肉体が、もはや朽ちることのない身体に換えられることを示し、詩編を唱える人を祝福している、というのがキリスト教の復活祭の典礼でこの詩篇が歌われる理由になっています。日本の『典礼聖歌』では、14番と15番が詩篇150からの抜粋です。
詩編148とアッシジのフランシスの祈り-ラウダート・シに寄せて
フランシス教皇の回覧書簡「ラウダート・シ(御身は頌えられよ)ー共に暮らす家を大切に」の冒頭で引用されたアッシジのフランシスの賛歌は、宗教と宗派の区別を越えて人々の宗教心に訴えかけてきた歌です。小鳥にむかってキリストの教えを説くフランシスの画像はインドでも日本でも人気があった。 彼が、囀る小鳥達に向かって「小さい姉妹達よ、もしあなたたちがおしゃべりしたいことが終わりましたら、今度は私の方が話を聞いて頂く時なのです」と話しかけると、小鳥たちは静かに説教に耳を傾けた、というエピソードも伝承されています。そこには、共に大地に住む生きとしいけるもののすべてを祝福する福音伝道者フランシスの精神が良く現れています。このような精神が、自然環境破壊の危機に直面した現代の我々にとっても必要であることは、ヨハネ・パウロ二世が、アッシジのフランシスを「環境保護の聖人」と頌えたことにも良く現れています。
「御身は頌えられよ」という讃歌の前半部分が、旧約聖書詩編148を踏まえていることは良く指摘されています。天と地、太陽と月と星など、創造されたすべてのものを通して主を賛美する「ハレルヤ」詩編は、旧訳の民の典礼の祈りであり、フランシスコの時代にも、とくに、夜明けの頃の祈りとして歌われていたでしょう。現代のキリスト教会の典礼で読まれる新共同訳聖書では、次のように訳されている詩編です。
ハレルヤ。天において主を賛美しよう。
高い天で主を賛美しよう。
御使いらよ、こぞって主を賛美しよう。
主の万軍よ、こぞって主を賛美しよう。
日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美しよう。
天の天よ 天の上にある水よ主を賛美しよう。 主の御名を賛美しよう。
主は命じられ、すべてのものは創造された。
主はそれらを世々限りなく立て越ええない掟を与えられた。
地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ 火よ、雹よ、雪よ、霧よ
御言葉を成し遂げる嵐よ 山々よ、すべての丘よ 実を結ぶ木よ、杉の林よ
野の獣よ、すべての家畜よ 地を這うものよ、翼ある鳥よ 地上の王よ、諸国の民よ
君主よ、地上の支配者よ 若者よ、おとめよ 老人よ、幼子よ。
主の御名を賛美しよう。主の御名はひとり高く 威光は天地に満ちている。
主は御自分の民の角を高く上げてくださる。
それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。
主に近くある民、イスラエルの子らよ。
ハレルヤ。
次にアッシジのフランシスの賛歌を「賛歌」を原語(イタリア語ウンブリア方言)と日本語訳(黒田正利)で引用します。
Altissimu, omnipotente bon Signore, いとも高く、万能にして、恵み深き主よ
Tue so le laude, la gloria e l'honore et onne benedictione. 賛美、栄光、ほまれ、すべての恵みは主のものなれ
Ad Te solo, Altissimo, se konfano, いと高き主よ、こはみな主のものにして、
et nullu homo ène dignu te mentouare. 人はそのみ名を呼ぶにも足らず
Laudato si, mi Signore cum tucte le Tue creature, ほむべきかな、主よ、主のつくりませる物みなと、
spetialmente messor lo frate Sole, ことに昼を与へわれらを照り輝かす
lo qual è iorno, et allumini noi per lui. はらから太陽と。
Et ellu è bellu e radiante cum grande splendore: 日は美しく眩しきまでに照り渡る、
de Te, Altissimo, porta significatione. かれこそは主の御姿、ああ高きにいます主よ
Laudato si, mi Signore, per sora Luna e le stelle: ほむべきかな、わが主よ、わがはらから月は星は、
in celu l'ài formate clarite et pretiose et belle.主はこれをみ空に作りたまひ、すみて貴く美はし
Laudato si, mi Signore, per frate Uento. ほむべきかな、わが主よ、風は、
et per aere et nubilo et sereno et onne tempo, 大気は、雲は、曇りてはまた晴るる日和(ひより)は
per lo quale, a le Tue creature dài sustentamento.これによりて主はその造りまししものを育みたまふ
Laudato si, mi Signore, per sor'Acqua, ほむべきかな、わが主よ、やさしきはらから水は
la quale è multo utile et humile et pretiosa et casta. いと役立ちて、低きにつき貴く清らなり
Laudato si, mi Signore, per frate Focu, ほむべきかな、わが主よ、はらから火は
per lo quale ennallumini la nocte: 夜のくらきを照らし
ed ello è bello et iucundo et robustoso et forte. 美はし、たのし、たけくつよし
Laudato si, mi Signore, per sora nostra matre Terra, ほむべきかな、わが主よ、はらから母なる大地は
la quale ne sustenta et gouerna, われらを育みわれらを治め、
et produce diuersi fructi con coloriti fior et herba. 木の実を結び、花を装ひ、草をはぐくむ
Laudato si, mi Signore, per quelli ke perdonano per lo Tuo amore ほむべきかな、主よ、主の愛によりて人を許し
et sostengono infirmitate et tribulatione. 病にたへて憂き艱(くるしみ)忍ぶものは
Beati quelli ke 'l sosterranno in pace, めぐみあれ 主によって静かに耐ふるものに
ka da Te, Altissimo, sirano incoronati. いと高き主よ、主の冠はかれにあらん
Laudato si mi Signore, per sora nostra Morte corporale, ああほむべきかな わが主よ、はらから死は、
da la quale nullu homo uiuente pò skappare: 誰か死をのがれん いけるもの皆は。
guai a quelli ke morrano ne le peccata mortali; いたはしきかな罪の死に滅ぶ者は
beati quelli ke trouarà ne le Tue sanctissime uoluntati, されどほむべきかな 主の聖意にすむ者は
ka la morte secunda no 'l farrà male. 第二の死の害ふことはあらじ
Laudate et benedicete mi Signore et rengratiate 主を頌めたたへ、主に感謝せよ
e seruiteli cum grande humilitate. いとへりくだりて主に仕えよ
12世紀のイタリアの方言で書かれたこの「歌」の邦訳は、やや古めかしい印象を受けますが、もとの歌の醸し出す雰囲気を、可能な限り典雅な大和言葉で簡潔に再現しています。 しかし、この明るいイタリア語の響きで歌われた歌詞の終わりの四連の内容は、作者のフランシスがまさに重病で床につき、目もほとんど見えなくなった時期のものであったことを示しています。
詩編148は中世以来良く歌われていた賛歌でしたが、アッシジのフランシスのLaudato Si には、全被造物に創造主の賛歌を呼びかけているに留まりません。
まず彼は、被造されたものたちを、すべて人格化して「兄弟姉妹」と呼びかけています。そして、「ほむべきかな、主よ、主の愛によりて人を許し、病にたへて憂き艱(くるしみ)忍ぶものは」「めぐみあれ 主によって静かに耐ふるものに、いと高き主よ、主の冠はかれにあらん」というキリスト者の受難と忍耐の歌を付け加えています。
伝承に拠れば、眼病で目の見えなくなったフランシスに手術のために灼熱した鉄の棒をあてる必要が生じたときに、彼は、十字を切って、「兄弟なる火よ、自分は汝を神の最も美しい被造物としてこよなく愛した。どうかあまり自分を痛めつけないで欲しい」と云ったという。そして、最後には最もおそるべき肉体の「死」にむかっても「はらから」と呼びかけています。
詩編118に聴く-ペテロの証言と受難の民の希望
詩編118は、新約聖書のなかで繰り返し引用され、最初にイエスをキリスト(救世主)と宣言した信徒の心を如実に伝えてくれる詩となっています。
まず、マタイ21-9では、エルサレム入城のイエスを頌える歌として「ほむべきかな主の名によって来るもの(詩118-26)」が引照され、おなじくマタイ21-49では「家造りの捨てた石が隅の親石となった(詩118-22)」が、イエス自身の言葉として語られている。この言葉は、使徒行伝4-11ではエルサレムで祭司長や長老達の尋問に答えたペトロのキリスト証言として繰り返される。その言葉の意味は、ペテロ書前書2-7の「人々からは見捨てられたキリストが、神にとっては選ばれた尊い生きた石なのだから、あなたがたも生きた石として用いられ、霊的な家に造りあげられるようにしなさい」というペテロ自身の言葉に示されている。
この詩にはまた「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。主はわたしの味方、人間がわたしに何をなしえよう」「人間にたよらず、主をさけどころとしよう。君侯にたよらず、主をさけどころとしよう」のように、主にたいして一人称で語る「わたし」が、一切の地上の権威を恐れずに主に拠り頼む心意気も示されています。
「全てのものの上に立つ自由な主人であって、いかなる人間的権威にも従属しない」と同時に「すべてのものに奉仕するしもべである」ところに、キリスト者の「自由なる奉仕活動」を見いだしたマルチン・ルターが、この詩編を愛唱したことはよく知られています。もっとも個人的にしてもっとも普遍的なキリスト信仰のありかたを旧約聖書の中で預言した詩編のひとつがこの詩であるいえるでしょう。
詩編118はカトリックの典礼聖歌87番で(抜粋して)歌われています。歌詞は次の通り。
答唱:きょうこそ神が造られた日 よろこび歌えこの日を共に
1 恵み深い主に感謝せよ そのあわれみは永遠 イスラエルよ叫べ 神のいつくしみはたえることがない。
2 神の右の手は高くあがり どの右の手は力を示す わたしは死なずわたしは生きる かみのわざを告げるために
3 家造りの捨てた石が 隅の親石となった これは神のわざ 人の目にはふしぎなこと
この歌詞の答唱(繰り返し歌われる箇所)の「きょうこそ神が造られた日」とは、復活の主日、あるいは復活祭の第二主日(白衣の主日)を指しています。
復活祭の時に受洗したひとが白衣を着けた故事にならって「白衣の主日」と呼ぶのですが、女性の場合は白いベールを付けるという習慣もここに由来するのでしょう。そのこころは、洗礼を受けた人は「新しい人として、キリストを着るものとなった」こと、「神の国の完成を待ち望みながらキリストに倣って歩む人」を力づけ祝福するためです。
旧約聖書の時代にこの詩編がどのように歌われたかはよく分かりませんが、ヘブライ語で朗唱された詩編がどんなものであったかをある程度窺わせる朗詠を紹介します。とくに、「ほむべきかな主の名によりて来る者」とか「家造りの捨てた石が 隅の親石となった これは神のわざ 人の目にはふしぎなこと」という詩をヘブライ語の原語で聴くことができます。
現代的な伴奏が付けられているにもかかわらず、受難と亡国の危機に抗して信仰を守り抜いたユダヤ教徒の心の歌が、現代に至るまで脈々と受け継がれていると感じました。
詩編51に聴く-ダビデ王の懺悔/賛美と灰の水曜日の聖歌
詩編51(ダビデ王の懺悔/賛美)が、エルサレム第二神殿でどのように伴奏付きの合唱隊によって歌われていたのかはよく分かりませんが、現代のユダヤ教徒が、この詩に曲を付けてヘブライ語で朗詠する事例はたくさんあります。そのなかでも私が特に心動かされたのは、Christene Jackmanの作曲した「Choneni Elohim(主よ、我をあはれみたまへ)」である。歌詞はヘブライ語聖書の詩編51から抜粋されたものに、現代風な伴奏が付けられているが、ラテン語詩編のmiserere mei Deus にあたるChoneni Elohimのリフレインが非常に印象的であった。詩編は、ヘブライ語では「賛美」を意味するTehillim とよばれるので、どのような深刻な嘆きや悩み、病めるものの苦しみが歌われていても、また、時には教訓や処世の知恵を主題とする場合でも、基本的に「賛美の詩編」なのであり、単にユダヤ教徒だけのものでなく、キリスト教が、ユダヤ教から受け継いだ聖書の啓示を集約的に含むものであると同時に、あらゆる宗教と宗派の区別を越えて、全ての人の宗教心に直接に響く音楽であるといってよいでしょう。
講演「細川ガラシャの時代の典礼聖歌」のなかで、私はレオポルド一世作曲の詩編51の解説をしましたが、それは器楽による伴奏付きの典礼聖歌のなかで最もよくもとの詩の内容を良く捉えた曲であると思ったからです。悲嘆の底から、懺悔を通じて主の賛美へと大きく転換するヘブライ詩編のダイナミックな心の動きをどのように音楽で表現するか、レオポルド一世はその課題を一つの作品としてみごとに結実させている。たとえば、教会の朝の祈りで唱えられる「主よわが唇を開きたまえ、わが口は御身をほめ歌わん(domine labia mea aperies, et os meum annuntiabit laudem tuam)」の詩句は、まさにそのような深き淵に沈んだ詩人の心底からの叫びが聞き届けられ、懺悔が賛美へと転ずる臨界点で歌われる詩でした。作曲者のレオポルド一世は、この一行の詩句を何度も繰り返しつつ様々な声部でうたわせるが、深き淵の底から天上に叫ぶコロラツーラ・ソプラノの表現は音楽的な美しさを越えて、聴く者の魂をゆさぶるような旋律です。
1 Miserere mei, Deus 1 神よ、あなたのいつくしみによって、
Secundum magnam misericordiam tuam わたしをあわれみ、
Et secundum multitudinem miserationum tuarum あなたの豊かなあわれみによって、
2 Dele iniquitatem meam わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
Amplius lava me ab iniquitate mea 2 わたしの不義をことごとく洗い去り、
Et a peccato meo munda me わたしの罪からわたしを清めてください。
3 Quoniam iniquitatem meam ego cognosco3 わたしは自分のとがを知っています。
Et peccatum meum contra me est semperわたしの罪はいつもわたしの前にあります。
4 Tibi soli peccavi 4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、
Et malum coram te feci あなたの前に悪い事を行いました。
Ut iustificeris in sermonibus tuis それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、
Et vincas cum iudicaris あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
5 Ecce enim in iniquitatibus conceptus sum 5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。
Et in peccatis concepit me mater mea わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
6 Ecce enim veritatem dilexisti incerta 6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。
Et occulta sapientiae tuae manifestasti mihi それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
7 Asparges me hysopo et mundabor 7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。
Lavabis me et super nivem dealbabor わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。
Auditui meo dabis Gaudium 8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、
8 Et laetitiam exultabunt ossa humiliate あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
9 Averte faciem tuam a peccatis meis9 み顔をわたしの罪から隠し、
Et omnes iniquitates meas deleわたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
15 Domine labia mea aperies15 主よ、わたしのくちびるを開いてください。
Et os meum annuntiabit laudem tuamわたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。
16 Quoniam si voluisses sacrificium dedissem 16 あなたはいけにえを好まれません。
utique holocaustis non delectaberis たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。
17 Sacrificium Deo spiritus contribulatus 17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
Cor contritum et humiliatum Deus non spernet神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。
18 Benigne fac Domine in bona voluntate tua Sion18 あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、
Et aedificentur muri Hierusalemエルサレムの城壁を築きなおしてください。
19 Tunc acceptabis sacrificium iustitiae19 その時あなたは義のいけにえと燔祭と、
oblationes et holocausta全き燔祭とを喜ばれるでしょう。
Tunc inponent super altare tuum vitulos. その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。
バロック時代のイタリアが生んだ詩編51の典礼音楽としては、アカペラで歌われるアレグリ作のミゼレーレもよく知られています。1630年代に作曲されたこの作品が、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂だけで聴くことをゆるされた「秘曲」であったが、それを少年モーツアルトが二度聴いただけで写譜したというエピソードはあまりにも有名です。
この曲の特徴は、答唱の部分も先唱の部分も、すべてラテン語訳詩編の言葉を用いているところでしょう。曲の旋律は同一であることによって答唱であることを示されているが、歌詞はそれぞれ異なっていて、すべて詩編のラテン語訳からとられています。そして天才モーツアルト以外の人間には譜面化不可能だと思われる答唱部分は9声部をもつ複雑な構造をしていますが、ここでも、レオポルド一世のmiserere mei と同じように、ソプラノの天上世界へと突き抜けるような高い声部が印象的です。
日本では、カトリックの典礼聖歌6,7番「あなたのいぶきをうけて」が詩編51(の抜粋)への答唱です。答唱の言葉「あなたのいぶき」は、聖書的文脈では「聖霊」を意味し、神の御前に原罪を認めて告白した人(詩人としてのダビデ王)が「聖霊に息吹かれ」て、新しい人として、再び創造されることを意味しています。
答唱:あなたの いぶきを うけて わたしは あたらしくなる
6-1 神よ いつくしみ深く わたしを顧み 豊かなあわれみによって 私のとがを ゆるしてください。
罪に染まった わたしを 洗い 罪深い わたしを 清めてください。
6-2 わたしは 自分のあやまちを 認め、 罪はわたしの目の前に ある。
あなたが わたしを さばかれる とき、 そのさばきは いつも 正しい。
6-3 わたしは生まれた日から悪に 沈み 母の胎に宿ったときから罪に 汚れていた
あなたは まごころを 喜び 心の深みに知恵を 授けられる
6-4 ヒソプで水を ふり注ぎ わたしの罪を 取りさって
わたしを洗い 清めてください 雪より白く なるように
6-5 わたしに喜びと楽しみの声を 返し うち砕かれたわたしを また 喜びで満たしてください
わたしの罪を 見つめず 犯した悪をすべて ぬぐいさってください。
7-1 神よ わたしのうちに 清い心を造り あなたの いぶきでわたしを強め あらたにしてください
わたしを あなたのもとから 退けず 聖なるいぶきを わたしから 取り去らないでください
7-2 救の喜びをわたしに 返し あなたのいぶきを送って 喜び仕える心を ささえてください
わたしは あなたへの道を 教えよう 罪人があなたのもとに 帰るように
7-3 あなたは いけにえを 望まれず はんさいを ささげても 喜ばれない
神よ わたしのささげものは 打ちくだかれた こころ あなたは悔い改める心を 見捨てられない。
7-4 み旨のままにシオンを恵みで 潤し エルサレムの城壁を 新たにしてください
その時あなたは 正しいささげものを皆 喜ばれ わたしは あなたの祭壇で 仕えるようになる
日本語でこの詩編を朗詠するときの注意は、典礼聖歌集の終わりの部分に掲載されていますが、それによると
歌詞でゴシックで書かれたところは、行の途中の音の変わり目を示し(下の高田三郎作曲の譜面参照)
変わる前にすこし速度をおとして、丁寧に歌うこと、「ます」「さい」「メン」の歌詞表記は、
大文字をいくらかのばして、小文字を軽く付けるように歌うこと、などの指示があります。
追記

復活祭のグレゴリオ聖歌 アレルヤ(Alleluja) 詩編150番
復活祭のグレゴリオ聖歌から、アレルヤ 詩編150番です。 演奏は 聖グレゴリオの家聖歌隊 指揮は ゴーデハルト ヨッピヒ 聖グレゴ...
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詩編51(ダビデ王の懺悔/賛美)が、エルサレム第二神殿でどのように伴奏付きの合唱隊によって歌われていたのかはよく分からないが、現代のユダヤ教徒が、この詩に曲を付けてヘブライ語で朗詠する事例はたくさんある。そのなかでも私が特に心動かされたのは、Christene Jackmanの作曲した「Choneni Elohim(主よ、我をあはれみたまへ)」である。歌詞はヘブライ語聖書の詩編51から抜粋されたものに、現代風な伴奏が付けられているが、ラテン語詩編のmiserere mei Deus にあたるChoneni Elohimのリフレインが非常に印象的であった。詩編は、ヘブライ語では「賛美」を意味するTehillim とよばれるので、どのような深刻な嘆きや悩み、病めるものの苦しみが歌われていても、また、時には教訓や処世の知恵を主題とする場合でも、基本的に「賛美の詩編」なのであり、単にユダヤ教徒だけのものでなく、キリスト教が、ユダヤ教から受け継いだ聖書の啓示を集約的に含むものであると同時に、あらゆる宗教と宗派の区別を越えて、全ての人の宗教心に直接に響く音楽であるといってよいだろう。

Choneni Elohim, from Psalm 51 (Be Gracious to me O G-d)
www.ShuvStore.com Choneni Elohim (Be Gracious to Me, O G-d), From Psal...
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講演録画「細川ガラシャの時代の典礼聖歌1-3」のなかで、私はレオポルド一世作曲の詩編51の解説をしたが、それは器楽による伴奏付きの典礼聖歌のなかで最もよくもとの詩の内容を良く捉えた曲であると思ったからである。悲嘆の底から、懺悔を通じて主の賛美へと大きく転換するヘブライ詩編のダイナミックな心の動きをどのように音楽で表現するか、レオポルド一世はその課題を一つの作品としてみごとに結実させている。たとえば、教会の朝の祈りで唱えられる「主よわが唇を開きたまえ、わが口は御身をほめ歌わん(domine labia mea aperies, et os meum annuntiabit laudem tuam)」の詩句は、まさにそのような深き淵に沈んだ詩人の心底からの叫びが聞き届けられ、懺悔が賛美へと転ずる臨界点で歌われる詩である。作曲者のレオポルド一世は、この一行の詩句を何度も繰り返しつつ様々な声部でうたわせるが、深き淵の底から天上に叫ぶコロラツーラ・ソプラノの表現は音楽的な美しさを越えて、聴く者の魂をゆさぶるような旋律である。

(音楽付)細川ガラシアの時代の典礼音楽ーその1- 3
ーダビデ王の懺悔ー Domine, labia mea aperies 22:15 Gloria Patri 35:10 ...
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バロック時代のイタリアが生んだ詩編51の典礼音楽としては、アカペラで歌われるアレグリ作のミゼレーレもよく知られている。1630年代に作曲されたこの作品が、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂だけで聴くことをゆるされた「秘曲」であったが、それを少年モーツアルトが二度聴いただけで写譜したというエピソードはあまりにも有名である。
この曲の特徴は、答唱の部分も先唱の部分も、すべてラテン語訳詩編の言葉を用いているところであろう。曲の旋律は同一であることによって答唱であることを示されているが、歌詞はそれぞれ異なっていて、すべて詩編のラテン語訳からとられているのである。そして天才モーツアルト以外の人間には譜面化不可能だと思われる答唱部分は9声部をもつ複雑な構造をしているが、ここでも、レオポルド一世のmiserere mei と同じように、ソプラノの天上世界へと突き抜けるような高い声部が印象的である。

Miserere Mei Deus
This piece is Psalm 51, but first set to music by Allegri around 1630....
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日本では、カトリックの典礼聖歌6,7番「あなたのいぶきをうけて」が詩編51(の抜粋)への答唱である。
答唱の言葉「あなたのいぶき」は、聖書的文脈では「聖霊」を意味し、神の御前に原罪を認めて告白した人(詩人としてのダビデ王)が「聖霊に息吹かれ」て、新しい人として、再び創造されることを意味している。
答唱:あなたの いぶきを うけて わたしは あたらしくなる
6-1 神よ いつくしみ深く わたしを顧み 豊かなあわれみによって 私のとがを ゆるしてください。
罪に染まった わたしを 洗い 罪深い わたしを 清めてください。
6-2 わたしは 自分のあやまちを 認め、 罪はわたしの目の前に ある。
あなたが わたしを さばかれる とき、 そのさばきは いつも 正しい。
6-3 わたしは生まれた日から悪に 沈み 母の胎に宿ったときから罪に 汚れていた
あなたは まごころを 喜び 心の深みに知恵を 授けられる
6-4 ヒソプで水を ふり注ぎ わたしの罪を 取りさって
わたしを洗い 清めてください 雪より白く なるように
6-5 わたしに喜びと楽しみの声を 返し うち砕かれたわたしを また 喜びで満たしてください
わたしの罪を 見つめず 犯した悪をすべて ぬぐいさってください。
7-1 神よ わたしのうちに 清い心を造り あなたの いぶきでわたしを強め あらたにしてください
わたしを あなたのもとから 退けず 聖なるいぶきを わたしから 取り去らないでください
7-2 救の喜びをわたしに 返し あなたのいぶきを送って 喜び仕える心を ささえてください
わたしは あなたへの道を 教えよう 罪人があなたのもとに 帰るように
7-3 あなたは いけにえを 望まれず はんさいを ささげても 喜ばれない
神よ わたしのささげものは 打ちくだかれた こころ あなたは悔い改める心を 見捨てられない。
7-4 み旨のままにシオンを恵みで 潤し エルサレムの城壁を 新たにしてください
その時あなたは 正しいささげものを皆 喜ばれ わたしは あなたの祭壇で 仕えるようになる
日本語でこの詩編を朗詠するときの注意は、典礼聖歌集の終わりの部分に掲載されているが、それによると
歌詞でゴシックで書かれたところは、行の途中の音の変わり目を示し(下の高田三郎作曲の譜面参照)
変わる前にすこし速度をおとして、丁寧に歌うこと、「ます」「さい」「メン」の歌詞表記は、
大文字をいくらかのばして、小文字を軽く付けるように歌うこと、などの指示がある。
詩編118は、新約聖書のなかで繰り返し引用され、最初にイエスをキリスト(救世主)と宣言した信徒の心を如実に伝えてくれる詩である。
まず、マタイ21-9では、エルサレム入城のイエスを頌える歌として「ほむべきかな主の名によって来るもの(詩118-26)」が引照され、おなじくマタイ21-49では「家造りの捨てた石が隅の親石となった(詩118-22)」が、イエス自身の言葉として語られている。この言葉は、使徒行伝4-11ではエルサレムで祭司長や長老達の尋問に答えたペトロのキリスト証言として繰り返される。その言葉の意味は、ペテロ書前書2-7の「人々からは見捨てられたキリストが、神にとっては選ばれた尊い生きた石なのだから、あなたがたも生きた石として用いられ、霊的な家に造りあげられるようにしなさい」というペテロ自身の言葉に示されている。
この詩にはまた「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。主はわたしの味方、人間がわたしに何をなしえよう」「人間にたよらず、主をさけどころとしよう。君侯にたよらず、主をさけどころとしよう」のように、主にたいして一人称で語る「わたし」が、一切の地上の権威を恐れずに主に拠り頼む心意気も示されている。
「全てのものの上に立つ自由な主人であって、いかなる人間的権威にも従属しない」と同時に「すべてのものに奉仕するしもべである」ところに、キリスト者の「自由なる奉仕活動」を見いだしたマルチン・ルターが、この詩編を愛唱したことはよく知られているが、プロテスタントではないわたしもまた、この詩編の言葉に鼓舞される。それは、もっとも個人的にしてもっとも普遍的なキリスト信仰のありかたを旧約聖書の中で預言した詩編のひとつだと思うからである。
詩編118はカトリックの典礼聖歌87番で(抜粋して)うたわれている。歌詞は次の通り。
答唱:きょうこそ神が造られた日 よろこび歌えこの日を共に
1 恵み深い主に感謝せよ そのあわれみは永遠 イスラエルよ叫べ 神のいつくしみはたえることがない。
2 神の右の手は高くあがり どの右の手は力を示す わたしは死なずわたしは生きる かみのわざを告げるために
3 家造りの捨てた石が 隅の親石となった これは神のわざ 人の目にはふしぎなこと
この歌詞の答唱(繰り返し歌われる箇所)の「きょうこそ神が造られた日」とは、復活の主日、あるいは復活祭の第二主日(白衣の主日)を指している。
復活祭の時に受洗したひとが白衣を着けた故事にならって「白衣の主日」と呼ぶのであるが、女性の場合は白いベールを付けるという習慣もここに由来するのであろう。
そのこころは、洗礼を受けた人は「新しい人として、キリストを着るものとなった」こと、「神の国の完成を待ち望みながらキリストに倣って歩む人」を力づけ祝福するためである。
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高田三郎作曲のこの典礼聖歌はYoutubeで聴けます。
旧約聖書の時代にこの詩編がどのように歌われたかはよく分かりませんが、ヘブライ語で朗唱された詩編がどんなものであったかをある程度窺わせる朗詠がYoutubeにあります。とくに、「ほむべきかな主の名によりて来る者」とか「家造りの捨てた石が 隅の親石となった これは神のわざ 人の目にはふしぎなこと」という詩をヘブライ語の原語で聴くことができました。
現代的な伴奏が付けられているにもかかわらず、受難と亡国の危機に抗して信仰を守り抜いたユダヤ教徒の心の歌が、現代に至るまで脈々と受け継がれていると感じました。

Psalm 118 sung in Hebrew - א֭וֹדְךָ - תְּהִלִּים קיח [NEW HALLEL TUNE]
Enjoy this new Hallel tune for Odekha (א֭וֹדְךָ כִּ֣י עֲנִיתָ֑נִי), Ps...
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