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歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「武士道」とキリスト教 1

2007-02-01 |  宗教 Religion

 序

明治維新に際して封建領主を失った旧藩士の中から、プロテスタントのキリスト教に改宗した多くの先達があったが、そのなかでも、札幌農学校で共に学んだ新渡戸稲造と内村鑑三は、日本人の民族的な伝統にしっかりと根ざしたキリスト教を表現するために、「武士道」を基盤とすべき事を強調した。そこで言われている武士道は、キリスト教到来以前より神によって準備された「古き契約」であるといわれ、その土台のうえに「接ぎ木」されたキリスト教のほうが、西洋近代の世俗化したキリスト教よりも優れており、それこそが日本人が選び取るべきキリスト教であると言う点では二人は共通している。しかしながら、日本人の心の深層にあった武士道的な忠誠心を考える場合、どうしても明治以後に国家宗教として帝国日本の精神的支柱としての役割を担った天皇制との関係を考えないわけにはいかない。 武士道の倫理が、天皇という現人神への信仰に吸収されていく過程のなかで、日本のキリスト者、とくに日本独自のキリスト教を唱道した信徒は如何なる対応を迫られたか、これはいうなれば戦前のキリスト者の「踏み絵」とも言うべき困難な問題であった。日本民族に固有の精神的伝統を自覚し、その大地に福音という「新しい契約」を樹立すること-これは現代の日本のキリスト者も直面している問題である。キリスト者という個的実存と、民族の伝統という特殊、世界宗教という普遍とのあいだの関係が問われているだけでなく、武士道によって表現された封建時代の倫理を、絶対君主でもあった現人神への信仰に収斂させた「天皇制」との関係を分析せずに、武士道とキリスト教について語ることはできないであろう。これは難しい問題であるが、避けて通ることは出来ない。今は、この問題を十分に論じるだけの余裕がないので、さしあたり、問題点の指摘だけになるが、まずは、新渡戸稲造の『武士道』のつぎの文から始めよう。

哲学的かつ敬虔なる心には各人種は神の書きたまいし記号であって、あるいは黒くあるいは白く、彼らの皮膚の色のごとく明らかに跡を辿りうる。もしこの比喩にして佳ならんか、黄色人種は金色の象形文字をもって記されたる貴重の一頁をなすものである! 一国民の過去の経歴を無視して、宣教師らはキリスト教は新宗教だと要求する。 しかるに私の考えでは、それは「古き古き物語」であって、もし理解しうべき言葉をもって提供せられるならば、すなわち一国民がその道徳的発達上熟知する語彙をもって表現せられるならば、人種もしくは民族のいかんを問わず、その心にたやすく宿りうるものである。アメリカ的もしくはイギリス的形式のキリスト教-キリストの恩寵と純粋よりもむしろより多くのアングロ・サクソン的恣意を含むキリスト教―は武士道の幹に接木するには貧弱なる芽である。[i]

「アングロ・サクソン的形式に於けるキリスト教」とは誤解を招きやすい表現だが、近代の資本主義社会を生み出しつつも、そこにおいて世俗化したキリスト教という含意があるだろう。そういう近代西欧に結びついたキリスト教ではなくて、近代以前に遡る「古き古き物語」であるキリスト教こそ、日本の古き物語でもある武士道精神の幹に接ぎ木するにふさわしいものではないか―そういう問いかけがある。

 ここには検討を要する様々な問題が伏在している。新渡戸自身の倫理的なバックボーンは武士道に根ざす教育の伝統であったとはいえ、江戸時代の武士道精神は明治以後の世代にとっては過去の「古い物語」である。そういう物語は、常に、それを物語る人の生きていた時代のほうを映しだすこと、言い換えれば、新渡戸の語る武士道の伝統というのは、明治時代において理想化された上で過去に投影されたモラルなのであって、戦国時代や江戸時代に生きていた武士が現実に従っていたものとは区別しなければならないだろう。

 明治以後、武士道的な忠誠心を捧げるべき対象は、統帥権をもつ「天皇」へと収斂していく。維新以前の天皇は軍事とは無関係であり、武士が忠義を捧げるべき相手はそれぞれの地方の藩主なのであって、決して「日本」という「帝国」の統治者なのではなかった。明治以後の天皇制や華族制度は、ヨーロッパの帝政を模倣して生まれたので、基本的には近代のナショナリズムの所産なのであって、決して古くからの日本の伝統そのものではなかったのである。国粋主義者達の言う「日本古来の伝統」と云うものの多くは、実は明治以後に創作された「物語としての歴史」である。乃木大将の自決が武士道の作法にのっとって行われたことが、武士道と天皇制との、明治以後に強化された独特の結びつきを象徴している。捕虜となることを恥と見なす武士道倫理が、太平洋戦争では徴兵された兵士にまで強要されたことを想起するならば、武士道という物語に、ロマンチックな中世道徳にたいする憧憬ないし郷愁のみで接することは、不可能である。天皇制にたいするキリスト者の態度と言うことには見過ごせない問題がある。 たとえば新渡戸は天皇について次のように述べている。

「我々にとりて天皇は法律国家の警察の長ではなく、文化国家の保護者でもなく、地上において肉身をもちたもう天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備し給うのである」

 こういう天皇観は、新渡戸が当時の多くの日本人と共有していたものであるが、武士道的な忠誠心(Loyalty)が、この天皇という「肉身をもちたもう天の代表者」に向けられることに対して、新渡戸はとくに問題を感じていないように見える。すくなくとも、当時の天皇崇拝に対して内村鑑三が抱いたような危惧の念をもっていなかったことが伺える。当時発布されたばかりの教育勅語の礼拝を拒んだとして、その家族もろとも天皇崇拝者の迫害を受け、ついには、この「不敬」事件を契機として教職を失った内村は、以後は在野の言論人として、また無教会主義という「ただ聖書のみ」に立脚する預言者的な生の軌跡を我々に残している。この内村と札幌農学校以来の友人であった新渡戸の生き方は、旧約聖書の言葉を用いるならば、ラジカルな「預言者」のものではなく、いうなれば政治的支配者と協力しつつ、その固定された枠組みの中で「より良きもの」を目指して「王」に助言する「祭司」的なるものであった。新渡戸は天皇制を日本の古き良き伝統を体現するものとして積極的に受容し、その枠組みの中で「帝国臣民の義務」を忠実に、そして新渡戸のうちにあっては「キリスト教的に」遂行する道を選択したように思われる。

 しかし、軍事的な統帥権を持つ天皇という大日本帝国の君主を「神聖にして侵すべからず」とする日本の復古主義のイデオロギーをキリスト者としていささかも否定せずに受容したことの意味は、新渡戸自身が置かれていた時代的な制約や、彼と皇室との個人的な関わり方を考慮しつつ、あらためて問われねばならないだろう。

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武士道とキリスト教 2

2007-01-31 |  宗教 Religion

 近代のキリスト教は、国民の統合の象徴としての「聖なる国王」の物語を否定するという側面をもっている。明治時代の天皇制は、当時のヨーロッパに残存していた帝政の模倣であったが、「天皇は神聖に侵すべからず」とするそのイデオロギーもまた、近代化の激動と混乱を乗り切るために持ち出された嘗ての西欧の絶対王政のイデオロギー-王権神授説―を思わせる。たとえば、英国のジェームズ王が一六一〇年に議会で行った演説を引用しよう。

地上に於いて君主国家は最も尊いものである。なんとなれば国王というものは単に神の代理人として玉座に座しているだけではない。神 (God)御自身によって国王は神々(gods) と呼ばれているのである。国王は地上に於いてまさに神の権力に類似するやり方で力を行使するが故に神々と呼ばれているのである。もし汝等が神の属性を考察するならば、それが国王の人格といかに一致するものであるかが解るであろう。[i]

God自身によって、国王はgodsと呼ばれ」「国王は神の代理人である」というイデオロギーこそイギリスの王室と教会を結びつけたものであり、キリスト教的に潤色された王権神授説にほかならぬが、こういう考え方こそ、国王を処刑し市民革命を推進したイギリスの急進的なキリスト教徒によって否定されたものであった。新渡戸が蔑視した「アングロ・サクソン的」キリスト教には、こういう君主制とキリスト教との安易な結合を全面的に否定するものが含まれていた。一七世紀の民主主義革命を市民自ら遂行したイギリスには、キリスト教の名において王権神授説的な復古主義と戦うキリスト教の精神があった。その精神は、チャールズ国王を民衆が裁判に掛けて処刑したことの正当性を主張したジョン・ミルトンのピューリタニズムにとどまらない。王政復古をへて名誉革命を経験したイギリスの穏健なる民主主義思想の範型となったジョン・ロックの政治論もまた、ロバート・フィルマーの「家長論」を聖書を典拠として駁論することから始まっていることを想起すればよいであろう。 

不幸にして、近代化の道を歩み始めた日本においては、英国とは違って、王権神授説的なる古代的イデオロギーが正統派の見解であって、それは敗戦を経験するまで圧倒的な支配力を民衆の間にふるったのである。その基本的な政治的・宗教的枠組みを新渡戸が肯定したということは、日本に於けるキリスト教を、武士道という幹に接木するという彼の思想―すなわち日本という「旧約」を土台として、キリスト教を土着化させるという『武士道』の思想―に対して基本的なる問題を投げかけている。すなわち、人々の武士道的「忠誠心」を天皇に向けさせた軍国主義・帝国主義のイデオロギーに対して、はっきりと「否」といえるような精神が、残念ながら、新渡戸の『武士道』からは生まれなかったということ、従って、そのような武士道は、依然としてキリスト教以前の「古き契約」のもとにとどまっていたのではなかったか、という問題である。

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武士道とキリスト教 3

2007-01-30 |  宗教 Religion

一 新渡戸と尊皇の思想

 新渡戸稲造は幕末に武士として生まれたのであって、教育勅語以後の明治政府の教育システムの中で天皇崇拝をたたきこまれた世代には属していない。従って彼の天皇にたいする限りなき敬意はより内発的なものであったとみなすべきいくつかの理由がある。 

 佐藤全弘氏は「新渡戸稲造の皇室観」という論文において、一八七六年に行われた天皇の東北巡幸が新渡戸の生涯に深刻な影響を及ぼしたことを指摘している。天皇は青森県三本木の新渡戸家を仮行在所とした。そのとき明治天皇は、新渡戸家の祖父や父が十和田湖の水を荒地であった三本木原に引き三千石の美田を拓いたことを讃え、「今後とも一族が農に励むように」と述べた。それは稲造にも伝えられ、彼はこの言葉に奮起して、農業に方向転換して、彼が札幌農学校へ進路変更する機縁となったという。そして、天皇の御下賜金の一部は東京で勉学中の新渡戸に送られ、彼はそれによって英文聖書を購入したという。つまり、新渡戸にとって、明治天皇と自分の一族との出会いが生涯の転機を形作り、彼自身の職業選択と宗教信仰の形成に大きな影響を与えたということである。新渡戸が『武士道』を執筆した動機は、もともとは、外国の友人や妻に日本文化と封建時代の日本人の道徳について説明したいというもっぱら個人的なものであったが、日露戦争に於ける日本の勝利とともに諸外国で日本にたいする関心がたかまるにつれて、この書が様々な言語に翻訳されるようになると、明治政府にとっても、そのキリスト教的な含意は除外して、日本古来の武士道精神を諸外国に伝えるものとして評価されるようになる。こうして、一九〇五年には新渡戸は妻とともに明治天皇に拝謁し、英文『武士道』を直接に献上する。いわゆる「天覧の栄」に浴したわけであるが、そのときの上書が三年後に邦訳された『武士道』の巻頭に載っている。つまり、武士道は、単に、外国人に古来の日本人の倫理を紹介するものとしてではなく、まさに同時代の日本人の教育のためにも役立つ書として再認識されたのである。新渡戸は、教育勅語に呼応するかに思われる古色蒼然たる文体で、次のように書いている。

上英文武士道論書

  伏して惟るに

皇祖基を肇め

列聖緒を継ぎ、洪業四表に光り、皇沢蒼生に遍く、声教の施す所、徳化の及ぶ所、

武士道茲に興り、鴻を輔けて、国風を宣揚し、衆庶をして忠君愛国の徳に帰<o:p></o:p>

せしむ。(中略、このあと、新渡戸家の盛岡藩での治水事業のことが書かれる) 

聖上東北を巡狩し、三本木駅にて、畏くも稲造の居宅を仮行在所に充て給ひ、爾時父祖の追賞を蒙り、子孫国事に奉ずべしとの聖諭を拝せり。稲造等一族感泣く措く所を知らず、各身を殖産の道に立て、父祖の遺志をつぎて、皇恩に報い奉らんことを誓へり。(中略、次に稲造のこれまでの経歴が書かれる)

稲造短才薄識、加ふるに病笶、宿志未だ為すところあらず、上は

聖恩に背き、下は父祖に愧づ。唯僅に卑見を述べて此書を作る。庶幾くは

皇祖皇宗の遺訓と、武士道の精神とを外邦に伝へ、以て国恩の万一に報い

  奉らんことを。謹んで此書を上り、乙夜の覧を仰ぎ奉る      

                           誠頓首明治三八年四月>

京都帝国大学法科大学教授従五位勲六等農学博士 新渡戸稲造 再拝白

  このような上書は、当時の格式に従ったものとはいえ、武士道が、新渡戸の著作自体にはなかった「皇祖皇宗の遺訓」と併置され、「以て国恩の万一に報いる」ために書かれたかのように思わせる。実際、新渡戸自身は、著作の中では武士道を遠い過去の道徳として語りながらも、「天覧の栄」に浴するようになると、教育勅語に呼応しつつ、国民の忠誠心を天皇に向ける「尊皇」思想のうちに、中世の武士道精神の繼承を見いだしているのである。この点、札幌農学校の同窓であった内村鑑三が、新渡戸と同じく武士道に共感を寄せつつも、尊皇思想とは一線を画し、日本への愛国心を直ちに天皇崇拝と結びつけなかったこと、いうなれば彼等の愛国心の質の違いに留意すべきであろう。

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武士道とキリスト教 4

2007-01-29 |  宗教 Religion

二 武士道という「旧約」

 内村鑑三の自伝「余は如何にして基督者となりしか」に、札幌農学校に入学してすぐに「イエスを信じるものの契約」に署名したころの記述がある。 今日の我々にとっていささか不思議に思われるのは、キリスト教については殆ど何も知らなかった少年達が、なぜかくも短期間に「イエスを信じるものの契約」に署名し、その後、受洗して信者となっただけでなく、伝道者となったのは何故かということである。この「新しき契約」は、「少年よ大志を抱け」という言葉を残して帰米したクラークの起草したものであったが、それは次のような文で始まる「契約」であった。

以下に署名する札幌農学校の学徒は、キリストの命に従い、彼への信仰を宣言し、キリスト者のすべての義務を至誠を以て果たすことを願う。それは、十字架の死を以て我等の罪を贖われた尊き救主にたいする我等の愛と感謝を表すためである。我等はまた、キリストの王国を人々の間に推進し、キリストが代わりに死に給ふた人々の救済を促進するために、今より以後、神とともに、また我等相互に、厳粛なる契約を結ぶ。我等はキリストの忠実な弟子となり、その教えの文字と精神に厳格に従って生活し、適切な機会が与えられるときはいつでも、試問と洗礼を受けて福音教会に入ることを約束する。

 このあと、キリスト教の基本的教理と、モーゼの十戒に対する信仰が宣言されているが、内村がこれに署名したのは、上級生に強制されたからであって、決して自発的な意志ないし、内的な欲求によってではなかったと、内村が回顧しているところが面白い。内村は決して好きこのんでキリスト教徒になったのではなかったのである。この「イエスを信じるものの契約」に署名したとき、内村は、まだ一六歳であり、新渡戸はさらに年少であった。彼等は、言うなれば、札幌農学校の「恩師」クラークに敬意を払うべしという上級生達の圧力に屈したのであるが、それだけでなく、当時の札幌農学校の学生達の間には、西洋文明の実用的な結果だけではなく、その根底を成す精神に他ならぬキリスト教をこれから学ぶべきであるという思いが有ったものと思われる。

 もっとも、札幌農学校の内村の同期生はすべてこの文書に署名させられたとはいえ、実際に洗礼を受けてキリスト者になったのは一部であった。つまり署名は単なる入学時の通過儀礼という側面もあったのであろう。しかし、内村にとっては、この文書に署名したと云うことは決定的な意味を持っていた。彼は、一八歳で洗礼を受けたのであるが、そのときに次のような言葉を日記に記している。

ルビコン川はこうして永久に渡られた。われわれは新しい主人たるキリストに忠誠を誓い、われわれのひたいには十字架のしるしが刻まれた。いざこの後は、地上の主君のために教えられてきた忠誠の念を以てキリストに仕え、王国また王国と征服しながら進んでいこう。  
   地のいやはてに住む民もメシアの聖名を学ぶまで
ひとたび回心して信者となったわれわれは、こうしてさらに伝道者となったのである。しかしそのためにはまず何よりも教会を作らねばならぬ。

この日記を書いている内村にとって、受洗は自らの決断である。彼は、自己の私的願望に従う信仰ではなく、私心を離れて、世のため人のために、キリストを新しき「主」として、その忠誠の対象とすると生き方を自ら選択したのである。つまり、内村の場合は、キリスト教徒になるということは、キリストと主従関係の契約を結ぶことであったといってよいだろう。それは文字どおり新しい契約であったのであるが、注目すべき事は、新渡戸にせよ内村にせよ、自分たちは、キリスト者になる以前に、天地の創造主である「主」と、旧き契約をむすんでいたと考えていたことである。そのように考えることがいかにして可能となったのか。それを次に考察しよう。

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武士道とキリスト教 5

2007-01-28 |  宗教 Religion

内村鑑三の英文著作「代表的日本人」の西郷隆盛の章に、次のようなくだりがある。

西郷を討った側の者もみなその死を悼んだ。涙ながらに彼の遺体は埋葬され、今日に至るまで涙にくれて墓参する人はあとを絶たない。かくして最も偉大なる人物、おそらくは「最後のサムライ」(the last of the samurai) ともいうべき人物がこの世から姿を消したのである。

 何故、基督者の内村鑑三が「最も偉大で、おそらくは最後のサムライ」として西郷隆盛を論じたのか、それは説明を要する。西郷の言葉と行動のうちには、内村の心に深く訴えかけるものが有ったに違いない。 「代表的日本人」は英語で書かれたが、西郷の人生観を要約する言葉―「敬天愛人」―と西郷の詩文を内村はいくつか翻訳して引用している。

「天は人も我も同一に愛し給ふが故に、我を愛する心を以て人を愛するなり」(Heaven loveth all men alikeso we must love others with the love with which we love ourselves.)という西郷の言葉には、律法と預言者の思想が込められており、西郷がそのような壮大な教えをどこから得たのか興味深いところである。

内村は、西洋の宣教師によってキリスト教が明治の日本に伝えられる遙か以前から、万物の創造主である神が、日本人にそのこころをつたえなかった訳ではないと考える。言うなれば、神は、ユダヤ人に対してのみ「旧き契約」を結ばれただけでなく、世界の諸民族に対しても、その伝統と文化に応じた形で、その天意を伝え、キリストの教えにたいする準備をされていたはずである。 内村は、福音書のイエスの言葉に呼応する言葉が、西郷の遺文にあるのを見出す。それは、「天にいます主」によって直接に、「代表的日本人」の一人である西郷に伝えられたに違いないーつまり内村は、言うなれば匿名のキリスト者として、西郷を描いているのである。
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武士道とキリスト教 6

2007-01-27 |  宗教 Religion

封建道徳という時代の制約の下にありながらも、その道徳(旧き契約)を突きぬけるような死生観が西郷の言葉と実践の中にある。それは「最も偉大なる、おそらくは最後のサムライ」の死として過去のものになったとはいえ、完全に姿を消したわけではない。それは、基督者である内村自身の中に、明治という新しい時代の日本の基督者としての内村自身の中にも、その「最後のサムライ」の精神が、かたちを新たにして生きているーそういう印象を受ける。

 内村が引用している西郷の詩文に次のようなものがある。(内村の英訳を付する)  

一貫唯唯諾す         Only one way, "Yea and Nay";  
従来鉄石の肝         Heart ever of steel and iron.  
貧居傑士を生じ        Poverty makes great men;  
勲業多難に顕わる                   Deeds are born in distress,  
雪に耐えて梅花麗しく      Through snow, plums are white,  
霜を経て楓葉丹し        Through frosts, maples are red;  
もしよく天意を識らば      If but Heaven's will be known,  
あに敢えて自ら安きを謀らん   Who shall seek slothful ease!  
地古く、山高く        Land high, reccesses deep  
夜よりも静かなり       Quietness is that of night
人語を聞かず         I hear not human voice,
ただ天を看るのみ       But look only at the skies

 この詩文の最後の二節は、その前の詩文の、「もしよく天意を識らば、あに敢えて自ら安きを謀らん」と呼応している。それは、単に山に籠もって自然に親しむと云うだけでなく、世俗の人の声を離れて、唯天を仰いで、神の声を聞くという意味に、内村は解釈していたと思う。それは、この著作を書いた当時の内村自身の心境でもあったろう。

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武士道とキリスト教 7

2007-01-26 |  宗教 Religion

 このように、新渡戸稲造の「武士道」よりも先に出版された「代表的日本人」には、武士道のなかに「旧き契約」をみいだすという新渡戸と共通する発想がみられるが、内村は、旧き契約として考えていたものは、武士道だけではない。そこには、新日本を建設した「最後のサムライ」だけでなく、封建領主として上杉鷹山、農民聖者としての二宮尊徳、村の教師としての中江藤樹、仏僧の日蓮が論ぜられているからである。武士道を含みつつも、それよりもさらに広い視野から日本人の精神的遺産を自覚しようと云う姿勢がみられる。これらについて今は詳論する余裕がないが、西郷隆盛と同じく陽明学の影響を強く受けた中江藤樹に関する章で、内村が謙譲の美徳について語っている点は注目に値する。内村は次のように云う。 

何ものも懼れずに独立不羈の人であった藤樹の倫理体系の中で、何よりも注目すべきは、彼が「謙譲の徳(the virtue of humility)」を最高位に置いたことである。藤樹にとって謙譲の徳とはすべての源となる根源的な徳であり、謙譲の徳がない人間ならば、すべてを欠いているのとおなじであった。「學者はまず慢心を捨てて、謙譲の徳を求めないならば、どれほど学識や才能があっても、凡庸な迷妄を越え出る資格がないのである」「充実は損失を招き、謙遜は天の法である。謙譲は虚である(Humility is emptiness)。心が虚であるならば、善悪の判断は自ずから生じる」。藤樹は、虚という言葉の意味を説明して、次のように述べる。「昔より真理を求めるものは、この言葉につまずく。霊的(spritual)なるがゆえに虚(empty)であり、虚であるがゆえに霊的である。このことを良く考えよ。

 キリスト教倫理をギリシャ的な倫理から分かつものは、謙譲の美徳に他ならない。アリストテレス的な中庸の美徳では、謙譲は傲慢と同じく極端であって、決して美徳とはされない。それがキリスト教倫理で美徳とされるのは、イエス自身の「ケノーシス」(虚しくすること)の行為に倣うがゆえにである。この美徳を中江藤樹の思想の中に見出した内村は、、単なる武士道の倫理よりも更に一層キリスト教倫理に近づいたものを、日本人の精神文化の内に見出したといって良かろう。内村が、藤樹の和歌を、次のようにキリスト教的に翻訳している。

上もなくまた外もなき道のために

身をすつるこそ身を思ふなれ

He loves  his life forsakes

For Ways that no like or higher know

「代表的日本人」は、内村自身にとっては過渡期の著作である。それは彼が聖書に基づいて非戦論唱える前に書かれたものであり、内村自身によれば「キリスト者としての私がその上に接ぎ木されたところの台木を示している」と位置づけられた。しかしながら、内村は同意に次の言葉を付け加えることを忘れてはいない。

日蓮、法然、蓮如その他の敬虔な尊敬されるべき人々がすでに私の先輩であり、宗教の本質を私に教えてくれたのである。藤樹らがわが国の教師であり、鷹山らが藩主、尊徳らが篤農家、西郷らが政治家であったのは、私をして、かつてーナザレの神の人の足もとにひれ伏すべく召し出される前に私があった通りのものにするためである。

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武士道とキリスト教 8

2007-01-25 |  宗教 Religion

三 晩年の新渡戸と日本の軍国主義

 新渡戸稲造の晩年におきた松山事件の経緯をたどることは戦時に於ける軍国主義批判が当時の日本においていかに取り扱われたかを知る上で興味深い。満州事変以後、政府の不拡大方針の声明にも関わらず日本は軍部の独走によって泥沼のごとき戦争に深入りしていった。この暗黒の歴史のただ中において為された新渡戸の発言は、現代ならばきわめて正鵠を得たものとして 評価される種類のものである。「我が国を滅ぼすのは共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」というのが新渡戸の真意であったが、それは、文字通りその後の歴史の歩みを先取りしているからである。この警世の発言は、残念ながら、当時の超国家主義の世論のまえでは、新渡戸の不用意な「放言」として処理された。狂信的な右翼によって生命の危険を感じた新渡戸が、帝国在郷軍人会で陳謝するというかたちで決着がはかられたそのいきさつは、現在に至るまで改められているとは言い難い日本の「斉一主義」の思想的圧力を思わせるものである。

 しかしながら、後世のものにとっていささか不可解なのは、新渡戸が、この松山事件の後に私人として渡米し、米国で日本の外交政策の正当性を弁明する発言をしていることである。なぜ、新渡戸は、対日感情が最悪であった時期のアメリカに出かけたのか。そして、そこで、なぜ、満州国の建設が日本にとって必要であったことを訴えるなど、日本の帝国主義を擁護するような発言をあえて行ったのであろうか。その結果、彼は米国に於ける多くの友人達の信頼を裏切ることになるのであるが、この矛盾に満ちた言動を理解するひとつの鍵が、新渡戸が編集余録に託した次のような告白にある。>

私の訪ねるべき国(アメリカ)は、全く暗黒と見えた。私はいわば目をこらして、私を導き慰めるべき光りを探した。一条の光線も見つからないので、私の心はうち沈み、その任務を放棄したい気になった。そのとき、一つの声が私のうちで叫んだのだ――行け、汝のうちなる光りをたよりに。私は大いに勇気づけられた思いがした。というのも、私の心中、利欲や野心はひとかけらも宿してはいなかったからだ。

 米国において日本の立場を弁明することがいかに困難であっても、それが自己の義務であると考えたことが上の記事から伺える。新渡戸の米国での弁明にたいして、「新渡戸稲造博士にたいする公開状」と題する記事を出したR・ビュエルは「あなたほどの経歴の持ち主がこのようなことを自分の意見として述べるとはまことに情けない」とのべ「現在の日本の政体を考えた場合、あなたが沈黙してしまうというなら我々は理解できるが、まるで無批判に日本の軍国主義を弁護するという態度は理解できない」と批判した。

 たしかに、個人の良心を国家の要請よりも重んじる欧米の個人主義の視点からすれば、なぜ新渡戸が日本帝国の政策の弁護をあえて米国で行おうとするのか、理解しがたい事であったろう。しかしながら、新渡戸は「内なる光」が、米国に行くことを彼に命じたと言っている。

 この「内なる光」とはいったい何を意味したのか、それは、もともとクエーカーの用語であったが、この文脈では新渡戸の考えた「日本人の魂」に内在する光、すなわち帝国臣民として武士道を説いた新渡戸の歩むべき道を照らし出す光を意味すると見て良いだろう。米国で日本のために弁護するという誰も望まぬような困難な役割を引き受けることが、天皇に仕える一臣民としての自己の義務であると考えたことが新渡戸を渡米させた最大の理由のように思われる。それは、日本の国内だけで通用するような偏狭なる愛国心の宣揚のために謝罪を迫った在郷軍人会にたいする新渡戸流の答えでもあったのかもしれない。しかしながら、そのような新渡戸の苦渋に満ちた選択は結局実を結ぶことなく、彼は、失意のうちに帰国を余儀なくされる。その直後に、日本は国際連盟を脱退を通告し、世論もまた、急速に超国家主義へと傾斜していく。渡米の結果を昭和天皇に報告した一週間後の太平洋クラブでの昼食会で、新渡戸は、国際連盟を離脱した政府の外交政策を基本的には支持しつつも、「連盟が世界の将来の福祉にとって最大の希望である」という彼の信念を吐露している。そして、この信念とは矛盾する政府の諸政策を、帝国の一臣民として国外に対して支持し続けるという甚だしき矛盾をついに解決することなく、彼は米国で客死したのであった。

 新渡戸にとって、クエーカーの言う「内なる光」の日本民族に於ける現れは、日本人の魂に内在し、その倫理的な行動に指針を与える武士道の精神であった。新渡戸は『武士道』の序文の中で、そういう趣旨のことを個人的な信念として示唆しているが、各民族が、キリスト教が伝道される以前に、その民族固有の「旧約」をもつという思想そのものは、決して特異なものではない。問題は、そのいわゆる各民族の「旧約」から「新約」への「転換」がいかにとらえられるかということである。ヘレニズム時代のギリシャやローマも、またキリスト教を受け入れたゲルマン民族も、それぞれの民族の宗教的伝統とキリスト教との関係の問題を考慮しないわけにはいかなかった。カトリックのキリスト教には、「恩寵は自然を破棄せずにかえってこれを完成させる」という有名な定式がある。これはキリスト教伝道以前の「自然なる立場」において為された倫理的かつ文化的な伝統を全面的に否定することなく、これをキリスト教を準備するものとして再解釈する道を示している。新渡戸の思想は、クエーカーの「内なる光」という考えから影響されたものであるが、それは、キリストによって与えられた神の恩寵は、遡及的にキリスト以前のキリストを知らぬ民族の間にも、それと自覚されることなく働いたという神学思想(retroactive grace)に立脚しているように見える。歴史的にあとからくるものが先立つものに影響を及ぼすという恩寵の働きとは、古き道徳が本来言わねばならなかったことが何であったかがキリスト教の福音に接して、はじめてよく了解されると言うキリスト者自身の経験に基づくものであろう。歴史をいまだ完成されざる絵画にたとえるならば、新しく付け加えられた色調が、画の図柄そのものを一変させてしまうことは十分に起こり得る。したがって、武士道という古き物語の描かれた画が、キリスト教の宣教に接することによって、その面目を一新するということを新渡戸が期待したことには決して不自然ではない。 

しかしながら、武士道からキリスト教の福音への転換とは、単に古きものの価値を新しきものにおいて再発見すると言うだけではない。もともと旧約から新約への転換とは、民族ないし国家は個人の忠誠の捧げられるべき究極的な対象ではなく、それを乗り越えて、異邦人もユダヤ人も差別することなく神のまえに平等であるという立場に立脚するものであった。キリスト教とは、その意味では「普遍の信仰」なのであって、その「普遍」は、民族や国家という「種的な特殊性」を媒介とするものではあっても、それを越えて人類の立場に立つことを要求するものである。この世界宗教は、第一義的には「個人」と「普遍」との間に成立する。天皇に忠誠を誓う武士道という「古き契約」は、あくまでも「種的特殊」にほかならぬ立場を絶対視するものである以上、それに固執することは、キリスト教の見地からすれば偶像崇拝なのである。

 宗教において、普遍と個を枢軸として考えるか(世界宗教)、あるいは、種的存在、すなわち民族や国家のような共同体を枢軸として考えるかという問題は、新渡戸稲造と同時代の哲学者であった西田幾多郎と田辺元との間の論争点の一つでもあった。新渡戸の場合には、これは哲学の思索の問題としてではなく、むしろ実践上の困難な課題であったと言えよう。 

 キリスト教信仰を通して米国人の女性を妻とし、外交官として、日本と米国の間に「太平洋の橋」を築かんとしたこと-これは新渡戸の生涯の中に、家族や民族という「種的特殊」を越える普遍的なるものの促しがあったことを示している。『武士道』は英語で書かれた書物であるが、日本の文化について英語で書くという作業もまた、そのような普遍的な視座を要求したものと思われる。しかしながら、次第に国家主義へと傾斜した日本の歴史自体が、そのような自由な立場から「太平洋の架け橋」となることを新渡戸に許さなかったし、新渡戸自身も又、日本の超国家主義を、キリスト教の普遍的立場から批判することは出来なかった。日本という「旧約」のもつ限界が露呈されるためには、近代日本の挫折に他ならぬ敗戦という事態を待たなければならなかったのである。

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自然と歴史-歴程の哲学の意味するもの 1

2006-11-01 |  宗教 Religion

はじめに

私は、「過程」の哲学ではなく、「歴程」の哲学という概念によって、ホワイトヘッドがその主著Process and Reality で展開したコスモロジーを批判的に継承することを心がけている。なぜ、「歴程」という語を使うか。

それは、ホワイトヘッドの哲学的コスモロジーの要諦は、米国のprocess theologian のいうprocess の概念によっても、またホワイトヘッド自身のいう「有機体の哲学」という概念によっても十分に良く表現されないと考えるからである。

たとえば、「有機体の哲学」という言葉では、個的実存の自律性・独立性というものが表現されず、常に個物が全体に従属するカテゴリーとなるという含意がある。しかし、ホワイトヘッドの云う活動的存在(actual entity)は、自己創造的であり、自己原因的である。すなわち、活動的存在は個物であり、真の意味で実存する物(res vera)なのであるから、決して「世界」を構成する一要素にすぎない物ではない。活動的存在は個的な実存として世界をうちに含むことによって世界をその都度超越する存在なのである。

Process theology でいうところのprocess の概念を、ホワイトヘッドの Process and Reality の原点にたちかえってもういちど批判的に吟味し、継承すべき優れた洞察が何であり、批判すべき点はなんであるかを再考する必要があろう。

「歴程」という語を私が使用する理由は、それが単なるコスモロジーだけではなく、我々の実存的な歴史をも表現することが出来るからである。いや、むしろ話は逆であって、個的実存を本質的に特徴づける歴史性が、人間のみならず、人間がそこにおいて存在する世界、そして諸々の世界の総体に他ならぬ宇宙そのもののもつ本質的な特性であるというべきかもしれない。コスモロジーと個的実存の思索の双方を射程に収め得る概念として、私は「歴程の哲学」という用語を使用したのである。

「歴程」には、日本語ではさらに別の含意がある。それは戦前と戦後を通じて日本の現代詩をになってきた詩誌の名前でもあった。草野心平、中原中也、高橋新吉、逸見猶吉等が昭和10年に刊行したこの詩誌は、イデオロギーの拘束抜きで、個々の詩人の個性を重んじた詩的サークルを形成し、現在に至っている。そこで「歴程」ということばは、なによりも個々の人が経過した人生の軌跡、個人史を表すものであり、それぞれの詩人の実存の歴史にほかならない。

「過程」という日本語には、「歴程」とは違って、そのような個的実存の歴史を表すという含意がない。また、「過程」には、過ぎゆくもの、途上にあるものという意味が強すぎて、その都度完結し、作品として結実する生の航跡という意味が表されない。つまり「過程」は、その過程によって生み出された「作品」も、また「過程」において自己形成する作者自身を表現することが出来ないのである。

ホワイトヘッドがProcess という言葉を使うとき、それは、単に「途上にある」もの、「初めと終わりの中間」にある「過ぎゆくもの」を表しているのではない。Process は、實は、自己を形成し、創造し、自己の作品のなかにその都度、自己の存在の航跡を表現していく我々自身の生の歩みを一般化した語なのである。 我々は、みな、自己の生に於いては、脚本家であり、演出家であり、主役なのである。各人は、自己の歴程の主人公であるが、その主人公自身が、歴程において、他者と出会い、他者の世界を自己の世界へと内面化しつつ(抱握しつつ)、自らを他者に対して作品として与える存在なのである。

そういう自己創造のプロセスとその成果を現すのに「歴程」という日本語が最も相応しいのではないだろうか。 我々の世界の根柢を「ポイエーシスの世界」と呼び、作られたものから作るものへと動いていく創造的世界と捉えたのは西田幾多郎であるが、ホワイトヘッドの歴程の哲学の趣旨も、まさしく創造的世 界とその創造的要素である個物(actualentity)にほかならない。 それでは、かかるポイエーシス世界の構造は、のようにして哲学的に表現されるのか。単に藝術作品の創造という意味での狭い意味でのポイエーシスにとどまらず、実践(プラクシス)も理論(テオーリア)もすべて、そこにおいて表現されるべきポイエーシスの世界とは如何なるものであるのか-これが歴程の哲学の主題である。

「天地は万物の逆旅にして光陰は百代の過客なり」とは人口に膾炙した古人の詩句であるが、もし天地を宇宙(コスモス)の意味に取るならば、現代の物理学は、宇宙そのものもまた永遠なるものではなく過客(旅人)であるという認識に達したように見える。天も地の挟間にあって束の間の生をうけた個々の人間のみならず、乾坤も、行き交う年(時間)もまた旅人に他ならない。

西欧中世においては、万物はその被造性のゆえに永遠なるものを本性的に必要とすることが教えられ、この世界の偶然性(contingentia mundi)の自覺こそがキリスト教信仰への道の一つであった。我々が考察すべき課題は、我々のすまう世界が根源的に歴史に貫かれており、宇宙そのものが決して永遠不変のものではないこと、
存在するために自己以外の何ものをも必要としないような必然的な存在では有り得ないという事実の有つ意味である。

「偶然性は「この場所」「この瞬間」における独立なる二元の邂逅として尖端の危うきに立って辺際なき無に臨むものである」とは九鬼周造の言葉であるが、この「無」を無限なる物に意味にとり、有限なる世界がそこにおいてある場所と了解するならば、それはまさに歴程の哲学の視点である。この場所・この瞬間に於ける個的実存こそが歴程の哲学の基礎である。個的実存は、つねにそれに対して、その都度、相対的な世界を有つ。個的実存は、その世界を前提として現成するが、世界の内に有るのではない。世界内存在というだけでは個的実存は規定されない。それは世界を内在させることによって、世界を超越する。個的実存は時に於いて生起するのではなく、それ自身が時である。

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自然と歴史-歴程の哲学の意味するもの 2

2006-11-01 |  宗教 Religion

恩寵と自然

信仰と理性という問題は、キリスト教の伝統に於いては恩寵と自然というより広い枠組みに於いて捉えられていた。救済は理性によってもたらされるものではなく、信仰によるものであるが、その信仰そのものもまた恩寵によるのであって、我々自身の内からでるものではないというのがその意味するところである。

「自然」という言葉は、哲学・科学・宗教・文藝の諸領域に於いて、様々な意味で使用されてきた。それは決して一義的な語ではない。そこで、多義的なものを統一性を全く欠いた偶然的な多義性として放置するのではなく、ある基底的・焦点的な意味を定め、そこから、様々なる「自然」の意味を系統的に整序したうえで、それらを批判的に考察することを試みたい。

まず、さまざまな自然概念に共通して「ものの自体的なあり方」が合意されることに注意したい。列子の張湛の注に「自然とは、外より資らざるなり」とあるが、そこでは「自然とは他の力を借りないで、自ずからそうなること、もしくはそうであること」が含意されている。この意味での「自然」は、ギリシャ語の physis の用法に近い所がある。アリストテレスは「自己自身の内に運動の原因をもつもの」として physis を定義したが、そういう意味での自然概念には、運動ないし変化の原因を、外に求めずに内在化する考え方が現れている。

しかしながら、こういう哲学的議論は、我々の具体的なる経験の現場を離れて次第に抽象化され、やがては、我々自身の経験の現場を離れて、自然が対象化され、実体化されていく傾向性があることに注意しなければならない。そのように対象化された議論の枠組みにおいて、両立しがたい様々な体系――形而上学的なるものと反形而上学的なる物の双方がある――が構築されるからである。

たとえば、荘子の注釈者として著名な郭象の「無因自然」論をとってみよう。そこでは、「万物には主宰者は存在せず、個々の事物は、それぞれに存在根拠をもち、他者の介入を許さない」という意味での「自然」が強調される。これは、単に、万物の主宰者の存在を否定するという意味での無神論であるだけでなく、そもそも事物には原因なるものは存在しないと言う意味で包果を撥無する議論でもあった。これは形而上学を拒否する自然主義の一事例である。

それとは対照的に、単なる個物の感覚的認識ではなく、ものの原理と原因の認識を持って学的認識の特徴とするアリストテレスにおいては、いわゆる四原因論こそが自然学の基本となる。因果性を撥無するところには科学は生まれない。そして、自然界の全体的な認識のためには、第一の原因・原理の探求こそが要求されるのであって、かかる原因の探求は、究極するところでは、形而上学において完結する。それゆえにアリストテレスの伝統を継承する自然学は、最終的には、自己自身を越える根拠としての第一哲学=神学(テオロギケー)を必要とするのである。こちらのほうは形而上学に対して開かれた自然主義の事例である。

哲学的な思索においては、事物の原因の探求、あるいは事物の本来的なありかた、生成消滅の根拠と言う文脈において「自然」が語られるが、宗教においては、それと同時に、我々の救済の根拠を求めるという文脈で、「自然」という言葉が語られる。

仏教に於いては、「自然」という語は、良い意味でも悪い意味でも使われると言う点で両義的な用語である。救済の究極的な根拠を表現する場合にも使われるが、救済が実現されるためには否定されるべきものとして語られる場合もある。 中国仏教に於いては、無因自然のごとき考え方は、仏教の基本にある縁起説、因果の理法とは相容れぬものと扱われた。道教のいわゆる「無為自然」は「自然外道」と等置され、だから、仏教的な「空」の立場との混同を戒める議論も行われた。他方に於いて、親鸞の晩年の言葉を筆録した『末燈抄』では、「自然法爾」が、絶対他力の信心の究極を表す言葉として使用されている。

「自然といふは、自はおのづからと言ふ、行者のはからひにあらず、しからしむといふ言葉なり。然といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。…すべて、人のはじめてはからざるなり。このゆゑに、他力には義なきを義とす、としるべきなり」

『歎異抄』にも「わがはからはざるを自然とまうすなり。これすなはち他力にまします」
ということばがあり、ここでは、自然は、人為のはからいを捨てて絶対他力に帰依信心のありかたを指しているのである。

キリスト教の場合、カトリックとプロテスタントの神学の相違点の一つは、啓示神学に
たいする自然神学の位置づけである。バルトに於いて典型的に見られるように、聖書原理を重視するプロテスタントの神学は、基本的な傾向として、自然神学というものの価値を認めない。聖書の啓示こそが神学の与件であり、その与件に基づいて神学体系を組織する啓示神学のみが、本来の意味での神学である.その他に神学なるものはない。あるとすれば、それは神学の装いのもとに展開された世俗の哲学に過ぎない。

これに対し、カトリシズムの伝統に於いては、基本的に、自然神学の価値を承認する。それは、さしあたっては特定の経典に立脚せずに、異教徒にもキリスト者にも共通するもの、いわば両者が共に認める自然なる与件としての世界から議論を組み立てる。それは、古くはプラトンやアリストテレスのこころみた哲学的な神学(テオロギケー)の系譜を引くものであって、キリスト者と非キリスト者とが、ともに共通の場において議論可能な地平をもつ神学である。

すなわち、自然を重視し、そこから神学的な思索を行うことは、自己と異なる伝統に由来する他宗教との対話のために必要なことがらであり、自己の宗教のもつ特殊性、独自性を超える普遍性を獲得するために、必要な営みなのである。

自然の概念は、このように、仏教に於いてもキリスト教に於いても両義的である。このような両義性の由来を追尋することは、キリスト教的な創造論や救済論の文脈で自然を語る場合に於いても、あるいは大乗仏教に於ける仏性論との関係で自然を語る場合においても避けて通ることのできぬものであろう。さらに、如何なる宗教的な価値にたいしても中立的な自然科学的な意味での「自然」概念があり、これは宗教的な自然概念と如何に関係するかと言うことも、考察されるべき問題である。

「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成する」

というトマス・アクィナスの言葉がある。歴史的に見れば、この言葉は、キリスト教が自然を学問的に研究するアリストテレスの哲学を受容したあとで、信仰と理性という相反する二つの立場を、信仰の側から統合する立場を表明したものである。これは、カトリシズムに於ける啓示神学と自然神学との根本的な関係を表明したものとして良く引用される。この言葉は、単に西欧のキリスト教の歴史のある段階に於いて発せられた特殊な命題であるにすぎないものではない。およそ、恩寵という言葉が宗教的な救済の出来事を表すものであり、自然という語が、我々の本性に由来する物を表すとするならば、この言葉は、宗教の成立する根幹にかかわる問題を指示している。いいかえれば、それは現在に於いても、我々に対して、思索を促すだけの普遍性をもっているのである。

この言葉は、トマスの言う意味での「普遍の信仰」の立場を述べたものであるから、それを単に、中世西欧のキリスト教的思惟という歴史的な文脈で理解するだけではなく、時代と思想の風土も異なる現代の日本において、我々の思索を促すものとして採り上げよう。すなわち、我々は、あらためて、次のように問うのである。

「恩寵は自然を破棄せずに、却って完成させる」という、そのことは、如何にして可能となるのであろうか。

さしあたっては、我々が事物を経験するときの、そのものの「自然なありかた」、および経験する主体である我々の「自己のありかた」の様態を形容するものとして、すなわち「ものはどのように生成するのか」、「私はどのように生きているのか」を言い表す語としての「自然」に焦点を定めたい。そういう考察に於いては、経験する主体を捨象したうえで対象化された事物の総体としての自然ではなく、対象と経験する主体との間の不可分なる具体的な関係性そのものが問題となろう。

このような「生成の〈如何に〉」を表現する「自然」は、「しぜん」というよりも「じねん」と言う、より古い読み仮名で表現する方が適切であるかもしれない。今日、「自然(しぜん)」は、主体抜きの純然たる客体、ないし客体の総体としての世界、即ち近代以後の自然科学の対象世界を指す意味で使われることが多くなったからである。しかし、自然科学が扱う自然の概念を如何に位置づけるかと言うことも我々の議論の射程に入る。現代に於いては、自然科学で言う意味での自然概念が如何にして生まれるかという問題を追尋することなくして、自然一般を論じるだけでは不充分である。自然科学で対象化された自然も又「生成の〈如何に〉」を表示する基底的な自然概念から派生するものとして議論することが出来るものでなければならない。

「生成の〈如何に〉」を表す意味での自然を第一義とする場合、それは、神と世界という二元的な対立図式の片方のみ、すなわち神から区別された世界のあり方のみを指すと固定して考えるべきではない。「自然(じねん)」を専ら神と区別された世界に限定することは、ひとつの先入主である。それは、神と世界をそれぞれ別個の「もの」として実体化した後で、時間的生成という働きを世界の側に帰し、神を自然的世界から峻別された非時間的なる存在として捉える考えを既に前提してしまっているからである。しかるに「生成する神」の概念は受肉と歴史が本質的な意味を持つキリスト教にとって必要不可欠である。

ここで、現代に於ける自然神学の一つの試みとして、神学に於ける「自然」概念の根柢は、「世界の自然」にではなく、「神の自然」にあるという考え方を提唱したい。

この提唱は、直接的には、先程提示した「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成する」というトマスの言葉の可能根拠を指し示すものである。すなわち、恩寵とは「神の自然」に他ならず、普通言われる意味での「世界の自然」を完成するという意味である。

もちろん、こういったからといって、トマスの命題の意味するところ、その意味の全幅的な射程を覆い尽くしたなどと主張するつもりはない。そうではなくで、トマスの命題を受容し、そこから、形而上的なるもの(神的なるもの)へと開かれた自然主義の、新しい形態を出きる限り明晰に述べること、そのために必要な概念を提示するひとつの試みなのである。

そういう概念の適合性ないし有効性を判定する基準は、あくまでも我々自身の直接経験の現場以外にはない。各自が、自己自身の宗教的経験が、はたして有効に解釈され照明されるか、それを判定していただかなければならない。

「神の自然」は、「自然」というそのありかたにおいて「世界の自然」と通底している。
そのゆえに、かかる「世界の自然」のありかたを深く捉えることが、「神の自然」を捉えることに繋がり、かかる「神の自然」を捉えることによって、始めて「世界の自然」の捉え方が完成する――これが、「神の自然」という概念の意味するところである。

もし、このような言い方が許されるとするならば、「恩寵」とは、まさに、かかる「神の自然」の働きに他ならず、この「神の自然」の働きこそが、「世界の自然を破棄せずに、これを完成させる」ことの可能なる所以を与えるのではないか。

しかしながら、この間題はさらに突き詰めて考察する必要があろう。神と世界の「自然」について論ずることは、両者の区別と関係性を如何に語るかという問題の考察を要求するからである。

世界の「自然」が、単に「自己自身のうちに生成の根拠を持つ」ことにつきるのであるならば、「恩寵」はそのような自己を否定するという意味を持つはずである。仏教徒の表現を借りるならば、「自力作善」の立場が根柢から否定されると言うことが、「恩寵」には本来含まれる。神の「自然」には、世界の「自然」の自己充足性を突破するものが含まれているのでなければならない。したがって、我々は、神と世界との区別と関係性を、如実に述べるために必要にして適切なる範疇とは何であるか、それを省察することを求められるのである。我々にとっては「世界の自然」の方が先立つものであるが、事柄自体としては、「神の自然」こそが「世界の自然」に先行し、それを可能ならしめるものである。しかし、そのことは、我々にいかに如実に経験されるのか、それが経験される場というのはいかなるものであるのかが指示されなければならない。

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自然と歴史-歴程の哲学の意味するもの 3

2006-11-01 |  宗教 Religion

自然と歴史

我々は、前節に於いて、自然を客体として対象化する以前に、第一義的には「生成の〈如何に〉」を表現するものとして論じた。客体としての「存在」が何であるかは、この「生成の〈如何に〉」によって、そこから論じられねばならない。前節において、「神の自然」と「世界の自然」について語ったが、その場合、神の「存在」と世界の「存在」を実体的に区別して、両者の関係を述べるという文脈で、自然について語ったのではない。実体―属性という範疇は、ここで問題にしている自然が、第一義的に語られる場ではないからである。

西谷啓治は、「自然」について語られる場は、実体という範疇では捉えられぬことを次のように指摘する。 (H・ヴァルデンフェルス『絶対無』180頁、西谷啓治『宗教とは何か』141頁以下参照)

「有の枠」がない「自然」では、aはa自体であり、bはb自体でありながら(a=a、b=bでありながら)同時にaとbとが相入している。いはゆる「自他不二」である。固定してゐなくて、a・bの間が「融通無碍」である。(a=b、むしろa←→bである)。aのうちにもbのうちにも「有の枠」はない。仏教的に言えば、aもbも「無自性」であり「無自性空」である。aがa自身であり、bがb自身であることと、abの不二ということとは、形式論的には矛盾ですが、「自然的」な有では矛盾ではなく、却って同じ事の両面であるといふことにあります。それは有が「有の枠」のない有だからです。仏教で「色即是空、空即是色」といふのが、さういふあり方を指してゐると思ゐます。それが、「おのずから」にして「みずから」に、つまり「ひとりで」にあるというふ有り方、「おのずからしかある有り方」といふことになります。

ここでは、「自然」は、「有の枠」を越えて、事物が「不一不二」のありかたで、すなわ
ち西谷が外のところで「回互的関係」とよぶありかたで、「おのずからしかある」ことが、「空の場」において考察されている。二つのものが「相入」しつつ、「一つ」ではないという「あり方」、諸事物が互いに妨げあうことなしに調和ある全体を為すというコスモロジーが語られている。華厳の「事事無礙法界」という存在把握を現代化したともいうべき西谷の言葉を手掛かりとして、さらなる考察を続けよう。

実体的な「有の枠組」を外して、事物を「事事無礙」の相でみることは、それだけでは、まだ、「自然」にとって本質的な、事物の「生成」が言及されていない。「空の場」において、時間や歴史というものが語られ得るためには、かかる回互的な「物の有り方」を述べるだけでは不十分である。ものの「生成」という次元を捨象せずに語ること、言うなれば非時間的な永遠の相において語られる「円環的な限定」においてのみ事事無礙を語るのではなく、同時に時間や歴史という「直線的限定」を語ることが必要である。それは、「無常」の相に於いてある自然なる時間的世界を如実に見るために、万物が一即一切、一切即一であることを語る「即」の論理にとどまることなく、この「即」の一字によって言い表されている事態をさらに具体的に、生成変化するものの位相において語ることである。かつてのキリスト教神学が、父と子と聖霊の内的な三位一体のペリコーレーシス(相互内在)だけではなく、歴史的世界に於てもまた三位一体論的な思索を展開したように、我々は、ひとり神こついてだけ語るのではなくて、世界について語るときにも、三位一体論的な思索を必要とするからである。

「自然」というあり方に歴史性を見ると言うことは、歴史的世界を、人為的なる世界に
限定せずに、それを越えて万物のあり方にまで一般化する事を意味する。「自然」は、その根柢に於いて歴史的であり、歴史的生成ということをその中に含む――このことが強調されねばならない。それは、近代の科学で前提されてきたような自然概念――歴史なき必然的法則に支配される世界という概念――から、我々の言う自然を理解すべきではなく、逆に、近代の自然科学が立脚していた自然概念のほうが、我々のいう意味での「自然」把握からの一面的なる抽象の所産であることを意味している。

万物が歴史的世界においてあると言うことは、二〇世紀後半の自然科学によって見いだされた新しい自然観でもある.物質には歴史があり、その諸元素は歴史的なプロセスの中で生成した物であって、永遠の昔から存在していた物ではない。宇宙全体が、不可逆的に進化するシステムであり、その進化のプロセスから、生命と意識を持つ人間が登場したこと、人類の歴史は、かかる広大なる宇宙の歴史過程のなかに位置づけられるべき事――これらは、アポステリオリに認識された科学的知見ではあるが、歴史性の欠如した近代科学の自然概念を根本的に修正するものである。存在するものの総体としての宇宙は不可逆的な歴史をもち、未来に向かって開かれている。そのような歴史性が、生物に於いて、そして人間のような高度に進化した有機体に於いて、はじめて自覚されるようになる。ポスト近代的なる自然科学で扱われる自然については、いまここで詳しく論じる余裕はないが、すくなくも、近代科学で前提されていた非歴史的自然という概念は、一面的な抽象に過ぎなかったことは、今日では自然科学自身が明らかにしている。

さて、自然が根柢に於いて歴史的であり、進化するものであると言うことを、自然科学の議論ではなく、一般的なる形而上学の議論として採り上げる場合、それは次の様な提題として定式化できるであろう。

歴史的世界に於いては、「ものが生成する」と言うことが、そのものの現実的な活動を第一義的に言い表すものであり、それが「対象として存在する」ということは、第二義的なことである。諸々の対象的存在とは常に既成の存在であり、新たなる個々の生成を制約する諸条件を形作る。ものの相互内在と言うことは、生成という次元を考慮して始めて抽象性を免れ、現実的な意味を獲得するのである。すなわち、どのものも既成の存在として、あらたなる個々の生成のための歴史的な条件として機能する、という意味で、そのものは一切の生成する事物の中に内在している。しかしながら、将来の生成が如何なるものであるかは、既成の過去の存在によって制約されはしても、決定されているわけではない。その意味での未来の開放性は、歴史的世界の存立のための不可欠の条件である。

しかしながら、過去の既定性と未来の開放性がそこに於いてある現在の活動そのものは、歴史のただ中にあって歴史を越えるものに直結している。現在は、過去とは違って未来の生成のための条件なのではなく、それ自身が常に完結し、充実した活動である。それは、我々自身の自己と切り離された対象的事物の生成変化ではなく、一切の対象的事物の変化が、そこにおいて語られる場所である。このような活動そのものを、対象的事物の単なる生成変化から区別して、「現成」と呼ぶことにしよう。

この語は、日本仏教の中で独自の時間論を展開した道元の用いたキーワードでもあった。道元の《正法眼蔵》の要語索引によれば、『現成』は単に『現成公案』の巻だけでなく、全体にわたって実に二六二箇所にわたる用例があり、すべてが絶対に肯定的意味で使用されている。これに対して、『無』はたかだか三〇の用例を、『空』は虚空という日常的な意味を含めても五一の用例を数えるのみで、それらは肯定的な文脈で使用されることもあれば、『無にあらず、有にあらず』『空を破し有を破す』というごとく否定的な文脈でも使用されている。これは、道元にとっては、有と無との相対的対立を越えるものを指す根源語は『(絶対)無』や『(真)空』ではなくて、寧ろ『現成』であったことを示唆している。

「現成」がたんなる対象的事物の「生成」から区別される点は、それが時間に於いて生じる出来事ではなくて、時間そのものを可能ならしめる出来事であるということである。しかし、それは単なる「有」と「無」という二つの相反する範疇を統合する「生成」の現実態であるがゆえに、「現成」を「有」というも「無」というも、ともに一面的な抽象となる。

かかる意味での「現成」においては、無限に生成と消滅を繰り返す直線的な時間的限定そのものが、その都度の「今此処」において統合され、現実化される。その意味で、世界の自然に於ける「生成の如何に」は、かかる円環的な生成にほかならぬ「現成」によって、一切の潜在性をもたぬ完全現実態となる。その意味ではそれぞれの「今―此処」は完結しており、その都度、歴史に一つの区切りをつける非連続性であるが、このような区切りが入ること、そのことによって、過去は破棄されるわけではなく、反復・継承というかたちで復活する。すなわち、歴史的世界に於ける直線的なる限定そのものが、「現成」という円環的限定によって可能となるのである。

「生死即涅槃」あるいは「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成させる」ということは、仏教的に言うならば「生死」の世界、すなわち生成と消滅によって特徴付けられる世界、キリスト教的に言うならば、福音のめぐみに与る以前の自然的世界を、実在性を欠いた単なる仮象として破棄しないということである。そのような世界の「自然」というあり方が、世界の内部において自己充足するものではなく、「神の自然」によって根拠付けられており、それによって可能となるものであること――それことは、まさに時間の中において生きている我々の直接経験から、すなわち「真理がそこに住まう内なる人」に還り(アウグスチヌス)、自己そのものの現成に他ならぬ時間性に徹底することによって知られるべき事柄であろう。

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「代表的日本人」と「武士道」との違い

2006-10-27 |  宗教 Religion


新渡戸稲造の「武士道」よりも先に出版された「代表的日本人」には、武士道のなかに「旧き契約」をみいだすという新渡戸と共通する発想があるが、内村が、「旧き契約」として考えていたものは、武士道だけではない。そこには、新日本を建設した「最後のサムライ」だけでなく、封建領主として上杉鷹山、農民聖者としての二宮尊徳、村の教師としての中江藤樹、仏僧の日蓮が論ぜられてる。武士道を含みつつも、それよりもさらに広い視野から日本人の精神的遺産を自覚しようと云う姿勢がみられる。

これらについて今は詳論する余裕がないが、西郷隆盛と同じく陽明学の影響を強く受けた中江藤樹に関する章で、内村が「謙譲の美徳」について語っている点は注目に値する。内村は次のように云う。

何ものも懼れずに独立不羈の人であった藤樹の倫理体系の中で、何よりも注目すべきは、彼が「謙譲の徳(the virtue of humility)」を最高位に置いたことである。藤樹にとって「謙譲の徳」とはすべての源となる根源的な徳であり、謙譲の徳がない人間ならば、すべてを欠いているのとおなじであった。「學者はまず慢心を捨てて、謙譲の徳を求めないならば、どれほど学識や才能があっても、凡庸な迷妄を越え出る資格がないのである」「充実は損失を招き、謙遜は天の法である。謙譲は虚である(Humility is emptiness)。心が虚であるならば、善悪の判断は自ずから生じる」。藤樹は、虚という言葉の意味を説明して、次のように述べる。「昔より真理を求めるものは、この言葉につまずく。霊的(spritual)なるがゆえに虚(empty)であり、虚であるがゆえに霊的である。このことを良く考えよ。

新渡戸稲造の「武士道」に出てくる倫理項目には、「謙譲の徳」(humility)というものはない。そこでは「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」などの儒教倫理が語られている、「謙譲」という徳目はないのである。これに対して、内村は、中江藤樹がこの徳を最高位に置いたことに注目している。

西洋では、キリスト教倫理をギリシャ的な倫理から分かつものは、「謙譲の美徳」に他ならぬ。ただし、そこでいう謙譲とは世俗の徳ではなく、信仰・希望・愛という対神徳に人を導くものとして位置づけられている。アリストテレス的な「中庸」を重んじる世俗の道徳概念では、「謙譲」は「傲慢」と同じく、避けるべき極端であって、決して美徳とはされなかった。謙譲は奴隷にこそ要求されるものであり、自由な市民に相応しくないというのがむしろギリシャ人やローマ人の考え方の主流であった。

「謙譲」がキリスト教倫理で美徳とされるのは、イエス自身の「ケノーシス」(虚しくすること)の行為に倣うがゆえにである。この美徳を中江藤樹の思想の中に見出した内村は、単なる武士道の倫理よりも更に一層キリスト教倫理に近づいたものを、日本人の精神文化の内に見出したといって良いであろう。

内村が、藤樹の和歌を、次のようにキリスト教的に翻訳しているのは興味深い。

  上もなくまた外もなき道のために
  身をすつるこそ身を思ふなれ
   He loves his life who his life forsakes
   For Ways that no like or higher know


「代表的日本人」は、内村自身にとっては過渡期の著作である。それは彼が聖書に基づいて非戦論を唱える前に書かれたものであり、内村自身によれば「キリスト者としての私がその上に接ぎ木されたところの台木を示している」と位置づけられた。しかしながら、内村はそれとともに次の言葉を付け加えることを忘れてはいない。

日蓮、法然、蓮如その他の敬虔な尊敬されるべき人々がすでに私の先輩であり、宗教の本質を私に教えてくれたのである。藤樹らがわが国の教師であり、鷹山らが藩主、尊徳らが篤農家、西郷らが政治家であったのは、私をして、かつてーナザレの神の人の足もとにひれ伏すべく召し出される前に私があった通りのものにするためである。

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新しき契約ー札幌農学校と内村鑑三

2006-10-24 |  宗教 Religion

内村鑑三の自伝「余は如何にして基督者となりしか」に、札幌農学校に入学してすぐに「イエスを信じるものの契約」に署名したころの記述がある。 今日の我々にとっていささか不思議に思われるのは、キリスト教については殆ど何も知らなかった少年達が、なぜかくも短期間に「イエスを信じるものの契約」に署名し、その後、受洗して信者となっただけでなく、伝道者となったのは何故かということである。この「新しき契約」は、「少年よ大志を抱け」という言葉を残して帰米したクラークの起草したものであったが、それは次のような文で始まる「契約」であった。

“The undersigned members of S. A. College, desiring to confess Christ according to his command, and to perform with true fidelity every Christian duty in order to show our love and gratitude to that blessed Savior who has made atonement for our sins by his death on the cross ; and earnestly wishing to advance his Kingdom among men for the promotion of his glory and the salvation of those for whom he died, do solemnly covenant with God and with each other from this time forth to be his faithful disciples, and to live in strict compliance with the letter and the spirit of his teachings; and whenever a suitable opportunity offers we promise to present ourselves for examination, baptism and admission to some evangelical church.  

以下に署名する札幌農学校の学徒は、キリストの命に従い、彼への信仰を宣言し、キリスト者のすべての義務を至誠を以て果たすことを願う。それは、十字架の死を以て我等の罪を贖われた尊き救主にたいする我等の愛と感謝を表すためである。我等はまた、キリストの王国を人々の間に推進し、キリストが代わりに死に給ふた人々の救済を促進するために、今より以後、神とともに、また我等相互に、厳粛なる契約を結ぶ。我等はキリストの忠実な弟子となり、その教えの文字と精神に厳格に従って生活し、適切な機会が与えられるときはいつでも、試問と洗礼を受けて福音教会に入ることを約束する。

このあと、キリスト教の基本的教理と、モーゼの十戒に対する信仰が宣言されているが、内村がこれに署名したのは、上級生に強制されたからであって、決して自発的な意志ないし、内的な欲求によってではなかったと、内村が回顧しているところが面白い。内村は決して「好きこのんでキリスト教徒になった」のでなかったのである。この「イエスを信じるものの契約」に署名したとき、内村は、まだ16歳であり、新渡戸はさらに年少であった。彼等は、言うなれば、札幌農学校の「恩師」クラークに敬意を払うべしという上級生達の圧力に屈したのであるが、それだけでなく、当時の札幌農学校の学生達の間には、西洋文明の実用的な結果だけではなく、その根底を成す精神に他ならぬキリスト教をこれから学ぶべきであるという思いが有ったものと思われる。

もっとも、札幌農学校の内村の同期生はすべてこの文書に署名させられたとはいえ、実際に洗礼を受けてキリスト者になったのは一部であった。つまり署名は単なる入学時の通過儀礼という側面もあったのであろう。しかし、内村にとっては、この文書に署名したと云うことは決定的な意味を持っていた。彼は、18歳で洗礼を受けたのであるが、そのときに次のような言葉を日記に記している。

ルビコン川はこうして永久に渡られた。われわれは新しい主人たるキリストに忠誠を誓い、われわれのひたいには十字架のしるしが刻まれた。いざこの後は、地上の主君のために教えられてきた忠誠の念を以てキリストに仕え、王国また王国と征服しながら進んでいこう。  
   地のいやはてに住む民もメシアの聖名を学ぶまで
ひとたび回心して信者となったわれわれは、こうしてさらに伝道者となったのである。しかしそのためにはまず何よりも教会を作らねばならぬ。

この日記を書いている内村にとって、受洗は自らの決断である。彼は、自己の私的願望に従う信仰ではなく、私心を離れて、世のため人のために、キリストを新しき「主」として、その忠誠の対象とすると生き方を自ら選択したのである。

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武士道という「旧き契約」ー「代表的日本人」から

2006-10-23 |  宗教 Religion

トムクルーズ主演のアメリカ映画に「ラストサムライ」と題するものがあったが、武士道は、封建時代の日本のサムライの倫理であるにもかかわらず、現代アメリカの映画監督の琴線にさえも訴えるところがあったようだ。何故だろうか。

ところで、この「ラスト・サムライ」という言葉についてであるが、實は、内村鑑三の「代表的日本人」の西郷隆盛の章に、次のようなくだりがある。   

西郷を討った側の者もみなその死を悼んだ。涙ながらに彼の遺体は埋葬され、  今日に至るまで涙にくれて墓参する人はあとを絶たない。  かくして最も偉大なる人物、おそらくは「最後のサムライ」(the last of the samurai) ともいうべき人物が  この世から姿を消したのである。

映画の「ラストサムライ」の話は別にして、何故、基督者の内村鑑三が「最も偉大で、おそらくは最後のサムライ」として西郷隆盛を論じたのか、それは説明を要する。西郷の言葉と行動のうちには、内村の心に深く訴えかけるものが有ったに違いない。 「代表的日本人」は英語で書かれたが、西郷の人生観を要約する言葉-「敬天愛人」-と西郷の詩文を内村はいくつか翻訳して引用している。  

 「天は人も我も同一に愛し給ふが故に、我を愛する心を以て人を愛するなり」 (Heaven loveth all men alike;so we must love others with the love with which we love ourselves.) という西郷の言葉には、律法と預言者の思想が込められており、  西郷がそのような壮大な教えをどこから得たのか興味深いところである。

内村は、西洋の宣教師によってキリスト教が明治の日本に伝えられる遙か以前から、万物の創造主である神が、日本人にそのこころをつたえなかった訳ではないと考える。言うなれば、神は、ユダヤ人に対してのみ「旧き契約」を結ばれただけでなく、世界の諸民族に対しても、その伝統と文化に応じた形で、その天意を伝え、キリストの教えにたいする準備をされていたはずである。 内村は、福音書のイエスの言葉に呼応する言葉が、西郷の遺文にあるのを見出す。それは、「天にいます主」によって直接に、「代表的日本人」の一人である西郷に伝えられたに違いないーつまり内村は、言うなれば匿名のキリスト者として、西郷を描いているのである。

封建道徳という時代の制約の下にありながらも、その道徳(旧き契約)を突きぬけるような死生観が西郷の言葉と実践の中にある。それは「最も偉大なる、おそらくは最後のサムライ」の死として過去のものになったとはいえ、完全に姿を消したわけではない。それは、基督者である内村自身の中に、明治という新しい時代の日本の基督者としての内村自身の中にも、その「最後のサムライ」の精神が、かたちを新たにして生きているーそういう印象を受けた。

内村が引用している西郷の詩文に次のようなものがある。(内村の英訳を付する)  

一貫唯唯諾す         Only one way, "Yea and Nay";  
従来鉄石の肝         Heart ever of steel and iron.  
貧居傑士を生じ        Poverty makes great men;  
勲業多難に顕わる              Deeds are born in distress,  
雪に耐えて梅花麗しく     Through snow, plums are white,  
霜を経て楓葉丹し       Through frosts, maples are red;  
もしよく天意を識らば      If but Heaven's will be known,  
あに敢えて自ら安きを謀らん Who shall seek slothful ease!  

地古く、山高く         Land high, reccesses deep  
夜よりも静かなり       Quietness is that of night  
人語を聞かず         I hear not human voice,  
ただ天を看るのみ       But look only at the skies

この詩文の最後の二節は、その前の詩文の、「もしよく天意を識らば、あに敢えて自ら安きを謀らん」と呼応している。それは、単に山に籠もって自然に親しむと云うだけでなく、世俗の人の声を離れて、唯天を仰いで、神の声を聞くという意味に、内村は解釈していたと思う。それは、この著作を書いた当時の内村自身の心境でもあったろう。

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主の祈りについて(続き)

2006-05-01 |  宗教 Religion
「わたしたちの日毎の糧を今日もお与えください」(カトリック教会・聖公会共同口語訳)
この箇所、私ならば、原文のギリシャ語を
「私達のいのちのパンを今日お与え下さい」
と訳す。

「日用の」「日毎の」「毎日の」と訳されている原文のギリシャ語「エピウーシオン」は、特殊な言葉で、マタイ伝とルカ伝の主の祈りに表れるだけで他の箇所には出てこない。新約聖書以外の文献にも殆どみられない語である。現代では、この箇所を「毎日食べるパンを今日も下さい」と訳すことが多い。しかし、昔から、そのように訳していたわけではない。

古代の教会では、現在では「毎日の」と訳されている「エピウーシオン」という言葉を、ラテン語に直訳して、「supersubstantialem (形あるものを超える)」と訳していた。例えば、ヒエロニュモスのヴルガタ訳聖書では、おそらく古代の典礼の伝承を受けたと思われるが、そのように訳している。

「形あるものを超えるパン」とは何か。この言葉では直訳に過ぎて難しいので、私はそれをヨハネ伝の言葉を借りて「いのちのパン」と訳すのが良いと思う。

ヨハネ伝6-27には「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」

つまり、マタイ伝の主の祈りで言われている「パン」は、第一義的には、ヨハネ伝6-27で言われている「永遠の命に至る食べ物」の事である。

また、マタイ伝の「主の祈り」のすぐ後に、次の言葉がある。(6-25)

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」

「何を食べようか、何をのもうかと思い悩むな」と言うイエスの言葉を「主の祈り」の直後に置いているマタイが、「パンを下さい」というイエスの言葉を伝えたとき、はたして、彼は「形あるパン」のことだけを言っていたであろうか。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」という聖書の言葉もある。

カトリック教会では、聖体拝領の直前にこの祈りを唱えるが、それは、主の祈りのときに頂くパンを、神の言葉としてのキリストと同一視する古代教会の伝承に従っているからではないだろうか。

それゆえに、私は、主の祈りの正しい日本語訳は、

「私達のいのちのパンを今日お与え下さい」

だと思う。

「いのちのパン」という訳語ならば、意味の範囲が広く、文字どおり、私達が毎日食べているパン(これは通常の解釈)を意味することも出来るし、また、「私達を生かす神の言葉」という聖書的な意味も表すことができるし、また聖体拝領の時に頂くパン(キリストの体)を意味することも出来るからである。

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