歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

キリスト者と靖国神社

2005-08-24 |  宗教 Religion
自由民主党が憲法改正案なるものを公表したその日に、「諸君」第9月号に、曽野綾子氏が、「一人の国民として、一人のキリスト者として、靖国に参ります」という文を寄稿していたことを、私は、朝日新聞紙上の広告で知った。

 ちなみに、この九月号は、「8・15歴史の分岐点に立って」という特集号である。 また、「正論」の9月号にも又、富岡幸一郎氏が、「キリスト信徒の靖国体験」という一文を寄稿しているという話も側聞した。私は普通は「諸君」とか「正論」のごとき雑誌は読まないのであるが、曽野綾子氏や富岡幸一郎氏が、それぞれ何を述べられているのか気になったので、書店にてこの二つの雑誌を購入した次第であった。

  まず、両方の雑誌の目次を見て驚いた。これは、あたかも「日本人はみんな靖国神社に参拝しましょう」といった「靖国応援団」のエールばかりが谺する編集内容であることが一目瞭然であった。総理の靖国神社参拝を批判する論文などは全く掲載されていない。 たとえば、曽野綾子氏の論文の前は、「陛下、後参拝を・・!」という石原慎太郎と佐々淳行との対話であり、以下、派手派手しい内容空疎な政治的デマゴギーの連続である。

こういう雑誌に寄稿するキリスト者というもののいかがわしさ、というものを曽野綾子氏も富岡幸一郎氏もさほど気にしてはいないようだ。それどころか、とくに曽野氏の場合はむしろ確信犯的に政治的キャンペーンにコミットしているように思われた。

曽野綾子氏は、嘗て「諸君」に「ある神話の背景」というドキュメンタリーを連載したが、それは、日本軍による沖縄住民の集団自決命令ということには根拠がないということを立証しようとするものであった。昭和46年―47年の頃の執筆である。このかなり昔の曽野氏の文書が、どうやら今年になって亡霊の如く再登場したらしい。 

 今月の「正論」のなかで、ある戦後生まれの弁護士が「沖縄戦・集団自決は軍が命じたというウソ」という論文を寄稿していたが、彼は、「靖国応援団」の一員として大江健三郎氏と岩波書店を旧日本軍に対する名誉毀損で大阪地裁に訴え出たとのことであった。そして、名誉毀損と考える論拠として彼は、曽野綾子氏の昔書かれた「ある神話の背景」を挙げていたのである。このように、今月の「諸君」や「正論」の形成しているイデオロギー軍団の執筆者達の間では、曽野綾子氏は、「靖国応援団」の有力な一員として数えられているようである。

「一キリスト者として靖国に参ります」という見出しは、私には、本人ではなく編集者が勝手に付けたものかも知れぬとも思われたので、本文も良く精読させて頂いたが、やはりその内容は、表題通りのものであった。 では、曽野氏が靖国神社を参拝する理由は何であるのか。彼女は次のように言う。
私(曽野綾子)は今年8月15日には、夫と二人だけで靖国に参る。カトリック教徒が靖国に参るのか、とまた非難するひとがいるが、私は「その人が望むことはできることなら叶えてあげなさい」と修道院の付属学校で、イギリス人やドイツ人の修道女先生から教えられたのである。この言葉の背後を支える思想は、聖パウロの書簡に記されている。国家のために命を捧げた人々に感謝を忘れた国家は必ず衰退する。国家などなくても人はやっていける、という人がいるがそれは間違いだ。国家なしで生きている人々など、私が歩いた世界の百二十カ国ほどのどこにも私は見たことがない。愛国心なしでは生きて行けないのだ。これが国家といえるのか、というほどの汚職と貧困に喘いでいる國でも、人々は愛国心を持っている。何時も言っていることだが、愛国心というのは、高級な信条ではないのである。その人が生きていくために必要な鍋釜なみの必需品なのである。
 「一キリスト者として靖国に参ります」という曽野綾子氏が主張していることはこの文に尽きるのである。

 子供の時に自分にキリスト教を教えた外国人の修道女が、靖国に参拝することに反対しません、といったこと、つまりその時代に彼女が受けた宗教教育を、現在でも、後生大事に守っているという以上の理由を曽野氏は語っていないのである。

 「修道院の付属学校で、イギリス人やドイツ人の修道女先生から教えられた」とあるが、そういう文脈からすると、「その人が望むこと」というのは、戦前の時代、日本のカトリック教会が、信徒の靖国神社参拝を認めたことを指している。つまり「その人」とは、愛国心に溢れる日本人であろう。そういう日本人の愛国者が「お国のために戦死した人を追悼したい」という意志を持っているならば、外国人である神父やシスター達はそれを禁止しないということであったのだろう。

 第二次大戦という異常なる時期においては、キリスト者にも又、靖国神社参拝が義務づけられたことは周知の事実である。既成の教会は、その大部分が、カトリック・プロテスタントを問わず、神父も牧師も靖国神社に参拝しなければならなかった。そうしなければ、外国人の神父は国外追放されたであろう。キリスト教のような「外来の宗教」の場合、またフランスやカナダの神父や修道士は敵性国家の聖職者であったわけだから、教会の存続のためには、そのような政治的妥協が必要とされたのである。しかし、そういう異常な時代に発せられた外国人の修道女の言葉を、曽野綾子氏が引用しているというアナクロニズムは注意すべきである。

 しかし、戦前のような軍国主義の時代にあっても、真に普遍的な信仰を持つものならば(カトリックとは「普遍の教会」というのが原義である)、日本という特殊な国家の神格化、外国を侵略して聊かも罪の意識を感じない帝国主義のイデオロギーを美化した「現人神」崇拝、こういう制度の中に潜む「疑似宗教性」をただちに見抜いたはずである。

信者の生活と生命を守るために妥協することはやむを得ない場合があったであろうが、たとえそのような妥協をしたとしても、キリスト者が、みづからすすんで「靖国神社に参拝すべきである」というキャンペーンに加わるとすれば、それは「普遍の教会」にもとる大いなる愚行である。

 「この言葉の背後を支える思想は、聖パウロの書簡に記されている」と曽野綾子氏は言うが、これもパウロ書簡の曲解である。たとえば、ロマ書13・1をみると、その日本語訳を読む限り、為政者に政治的な反抗することを戒めているように解釈されるかも知れない。しかし、それは、為政者がキリスト教の根幹にかかわること否定しない限り、という限定付きで解釈すべきものである。このパウロ書簡は、為政者に迎合するキリスト者によって良く引用されるものであるが、それが不適切な讀解に依拠するものであることを指摘することは、無駄ではあるまい。

 そこで引用されたロマ書13-1のギリシャ語原典ou gar estin exousia ei mh upo qeou, ai de ousai upo qeou tetagmenai eisin は、「神の下にあるのでなければ、それは権威ではなく、実に神の下にある権威こそ決定を下すものなのです」と読まなければならない。

  「国家のために命を捧げた人々に感謝を忘れた国家は必ず衰退する」と曽野氏は言うが、むしろ、盲目的な愛国心こそが国家を滅ぼすのである。

 靖国神社というものが、明治時代になって、近代国家として出発した日本が人工的に制作した国家宗教であるという歴史的事実を我々は直視しなければならない。それは、日本人の大地に根ざした宗教性とは区別されるべきものである。

 北朝鮮に於ける金日成崇拝と同じく、近代化の途上において、民族国家を一つに纏め、軍国主義を貫徹するために必要とした偶像が戦前の天皇制であり、天皇のために死んだ死者を慰霊し顕彰することが、靖国神社の果たした政治的・疑似宗教的役割であったのである。
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1 Comments

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ロマ書13-1について (柳田信二)
2005-11-04 14:43:37
ロマ書13-1の解釈、同感です。それと同時に、政治的に中立を装いながら、実際には、支配階級に奉仕してきた教会的キリスト教にも問題があると思いました。
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