goo blog サービス終了のお知らせ 

歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

福音歳時記 2月の読書と黙想ーロシア聖歌と聖詠の伝統

2025-02-14 | 福音歳時記

福音歳時記 2月の読書と黙想ーロシア聖歌と聖詠の伝統

   キリル文字にて記されし聖詠は三位言祝ぐヘルヴィムの歌

 2月14日は聖チリロ隠世修道者、聖メトディオ司教の祝日である。9世紀のギリシャに生まれたこの兄弟は、スラブ民族の土着の文化を尊重し、現地の言葉で典礼書を作成した。(そのときに使ったアルファベットが、のちにキリル文字と呼ばれるようになった)。
  ヨハネパウロ二世は、回勅「スラブ人の使徒」のなかで、この二人の兄弟を、キリスト教の「文化内開花」の精神の先駆者として賞賛し、ヨーロッパの諸民族の一致と自由、相互の文化的伝統を尊重すべきことを説いた。

 キリスト教の宗教音楽を語る場合、聖詠(詩編の朗詠)を重んじるロシア聖歌は、ローマ教会のグレゴリオ聖歌と並ぶ重要性を持っている。両者ともにアカペラで歌うのが本来の形であるが、器楽の伴奏を伴った宗教音楽として、西方にはビバルディ、バッハ、ヘンデル、モーツアルトといったの古典派の伝統があり、東方には、チャイコフスキー、ムソルグスキー、ラフマニノフ、スメタナ、ドヴォルザークらの国民楽派の伝統がある。それぞれが、各民族固有の文化の特色を持っている。

 ロシア聖歌の伝統を受け継ぐとともに西欧音楽の作法にも通じていたチャイコフスキーの「ヘルヴィムの歌」は、東西の宗教音楽融合の傑作である。ヘルヴィムとは西方教会で言う「ケルヴィム」(旧約聖書に登場する天使)のことで、ロシア語で、「我等奥密にしてヘルヴィムをかたどり、聖三の歌を生命を施す三者に歌いて今この世の慮りを悉く退くべし」と歌う。

TCHAIKOVSKY - Hymn of the Cherubim

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福音歳時記 2月の読書と黙想ー儒教からキリスト教へーその2

2025-02-07 | 福音歳時記
福音歳時記 2月の読書と黙想ー儒教からキリスト教へーその2
     萬物に及ぶ仁愛説く藤樹 儒教に伝へし隠れたる神

 中江藤樹の儒教思想にキリスト教の影響があった可能性を指摘したのは、日本に於けるキリシタン研究の開拓者の一人でもあった宗教学者の姉崎正治である。姉崎は、1626年のイエズス会年報(ミラノ版)にもとづく、レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」の次の記載に注目した。

「四国には、一人の異教徒がいて、彼は支那の哲学とイエズス・キリストの教えとは同じだと信じ、ずいぶん前から、支那の賢人の道を守ってきたのであった。彼は、キリスト教の伝道師に会って、おのが誤りを知り、聖なる洗礼を受け、爾来優れたキリシタンとして暮らした。」
 当時藤樹は、近江の父母の元を離れて、学問研鑽のために四国の伊予で仕官していた祖父と共に暮らしており、祖父の後を継いで郷里の近江に帰ったのが1634年であったから、姉崎はここの記事を手がかりとして、英文の著作'History of Japanese Religion' (1930)のなかで、中江藤樹が切支丹の医者と交友があったという物語伝承に基づいて、「支那の哲学とイエズス・キリストの教えとは同じだと信じ、キリシタンのある伝道師から洗礼を受けた儒者とは中江藤樹であったかもしれない」と指摘したのである。

 イエズス会年報の記事だけでは、キリスト者になった当該の儒者を藤樹と同定するのは単なる仮説の域を出ないが、秀吉による宣教師追放令と二十六聖人の殉教後ではあっても、四国伊予の大洲に、キリスト教の洗礼を受けた儒者がいたと云うことは、明確な歴史的事実として認められよう。

 中江藤樹について、海老名弾正は「キリストの福音を聞かずして已にキリスト教会の長老なり」(「中江藤樹の宗教思想」、六号雑誌217、1899)と書いている。姉崎正治の仮説の信憑性を史実に即して検証するという課題を賀川豊彦から与えられた清水安三は、戦後間もない頃、その研究成果を「中江藤樹はキリシタンであったー中江藤樹の神学」という著書(桜美林学園出版部1959)に纏めている。
 海老名弾正は同志社大学の第8代総長、清水安三は桜美林大学の創立者・初代学長であるから、二人ともキリスト教を建学の精神とする大學の教養教育に関係しており、中江藤樹の思想の中に,日本の宗教的文化的伝統の中にあって、もっともキリスト教に密接している教育思想を見いだしたという点が共通している。

 中江藤樹の宗教思想がいかなるものであったのか、とくにキリスト教と関連のある箇所を『藤樹全集』のテキストに即して確認しておきたい。

◎中江藤樹の宗教思想の特徴ー「隠れたる所にいます まことの神」

資料-1 「大上天尊大乙神経序」(藤樹三十三歳ころの作)

趣旨:全知・全能・全善の完備なる徳を備えた唯一の神を礼拝すべき事―その神は本来、名を持たないが、昔の聖人は、それを「皇上帝」とか「大乙尊神」という名號で呼び、万物に生命を与え育み養ってくださるそのかたのご恩に報い、感謝を捧げるために、地上の天子以下すべての衆生にこの神を祀ることを教えられた。

(原文):大乙尊神は、書の所謂皇上帝なり。夫(か)の皇上帝は、大乙の神靈、天地萬物の君親にして、六合微塵・千古瞬息照臨せざる所なし。蓋し天地各々一徳を秉(と)つて、而して上帝の備れるに及ばず。日月各々時を以て明らかにして、上帝の恒なるに及ばず。日月晦なれども明虧けず。天地終れども壽竟らず。之を推して其の起を見ず。之を引いて其の極を知らず。之を息むれども其の機を滅せず。之を發して其の迹を留めず。一物として知らざるなく、一事として能くせざるなし。其の體太虚に充ちて聲なく臭なく、其の妙用太虚に流行して至神至靈、無載に到り無破に入る。其の尊貴獨にして對なく、其の徳妙にして測られず。其の本名號なし。聖人強ひて之に字して大上天尊大乙神と號して、人をして其の生養の本を知つて敬して以て之に事へしむ。夫れおもんみるに、豺獺は形偏氣を受くと雖ども、一點の靈明なほ昧(くら)からずして、獣を祭り魚を祭る。しかるを況んや人は萬物の靈貴なるをや。是を以て先聖報本の禮を修め、以て天下後世を教ふ。

(現代語訳-田中):大乙尊神は、『書経』で云う皇上帝である。その皇上帝は偉大なる唯一の神靈、天地万物の主君であり親であって、六号微塵(天地四方の大宇宙と微細なる小宇宙)、千古瞬息(永劫の時間と瞬間)において照臨しない場所がない。天地はそれぞれ一つの徳をとってはいるが、その完備なる徳には及ばない。太陽も月もそれぞれ輝くときがあるが、その永遠なる輝きに及ばない。太陽と月は暗くなるときがあるが、その明るさに欠けるときがなく、天地には終わりがあるが、その寿命は無限である。時間を遡ってもその生起はなく、時間を進めてもその終局を知らない。活動をやめてもその作用は滅びず、活動を始めても、その痕跡を留めない。(至上神は)一つとして知らない物はなく、一つとして出来ない事はない。(至上神の)本体は虚空に充ち、無声無臭、その徳は太虚に遍在し、至神至靈、それよりも大なるものを載せず(無載)、それよりも小なるものによって破られない(無破)。その尊く高貴なること、独り並ぶものなき絶対者である。その徳は測ることができない。その本体には名前がない。聖人は強いてそれに字(あざな)をつけて「太上天尊大乙神」と呼び、人々に命をあたえ養ってくださる根源を知らせ、この神を敬い、この神に仕えさせるのである。考えてみると、(獲物をならべて祀る)豺(やまいぬ)や獺(かわうそ)は、(正通の気を受ける人とちがって)偏塞の気を受ける劣った生物ではあるが、それでも一点の靈明が暗くないので、獣を祭り魚を祭るのである。まして人間は万物の靈貴(霊長)ではないだろうか。このゆえに、昔の聖人は、報恩感謝の礼法を修め、天下後世の人々に教えたのである。

資料-2中江藤樹の神道(唯一神の道)における神の礼拝の意味

〇感覚によっては捉えられない「至上至靈」の超越神やさまざまな鬼神を、目に見える「靈像」として礼拝することができるか、それは迂遠で人を欺くものではないかという問に対して、藤樹は、聖賢ならぬ凡俗の身であっても、明徳の心の眼によって靈像を視るならば、「仮真一致」すなわち「有形の仮像によって無形の真の本体を視ることができる」と主張する。

或人問ふ。「詩に曰く上天の載は聲も無く臭も無し。中庸に曰く、鬼神の徳たるや其れ盛んなるかな。これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず。體物遺すべからず。かくのごとくならば、即ち上帝鬼神は形色無かるべし。而るにその形を図画する者、迂にして誣ならずやと。」

 曰く「上帝鬼神は形色の言うべきもの無し。無形色をもって神妙にして不測なり。万変に通じ万化に主たること明々霊々たり。是をもって聖賢は畏敬して違わず。....一旦豁然として開悟すれば則ち明徳をもって無形の神を視ること、猶ほ瞽者の昭明にして有形の尊者を見るがごとし。有形の仮像に依て無形の真體を見得れば則ち仮真一致しその別を見ざるなり。(『靈符疑解』)

資料3ー藤樹の摂理論:誠敬の心によって、先天的あるいは後天的な宿命を人は此の世で変化させ消滅することができるし、かりに此の世できなくとも来世で必ず幸福を受ける。

禍福壽夭皆一定の命有って、人を以て変ふべからず。然れども正あり変あり而して又始生の初に受けたる者有り、生后の行に由って受くるものあり。…天定の禍災と雖も、亦変消すべし。もし変消すること無ければ、必ず身后の幸あり」(『靈符疑解』)

資料4ー藤樹の「陰隲(いんしつ)」論―隠れたる神の仁愛の働き

 心を無聲無臭の仁に居(をき)て毛頭の盲心雑念なく、真実無妄に人を利し物をあはれむことを行ふを陰隲となづく。たとひ人を救ひ物を助くる行ありとも、心を仁にたてず、妄心雑念あらば誠の陰隲にあらず。故に心を仁にをくを陰隲の大本とす。遇に随ひ感に応じ分の宜をはかって民を仁し物を愛するのことを行ふを陰隲の末とす。本末一貫真実無妄なるが陰隲の正真なり。この陰隲は百福の基本にして、禍を転じ福となすの妙術なり。(全集2巻ー藤樹書簡集より)

中江藤樹の儒教的な観点から再解釈され道徳化された神道は、八百万の神々を統合する唯一神、全知、全能、全善の至上至靈の神を、その隠された仁愛の働きに感謝しつつ礼拝するものであった。それは非人格的な宿命論から人を自由にする教えであり、天の仁愛のなかに自己の心につねに置くことによって、人と物(生きとし生けるもの)を愛することを教えるものであった。
 
 
画像は藤樹の自作の詩ー忍字に題す
これは「忍」という言葉に題した藤樹の詩であるが、人間にとって自然な感情(七情)を越える宗教的な徳として「忍耐」を説いている。
一忍七情皆中和 再忍五福皆駢臻 忍到百忍滿腔春 煕煕宇宙都眞境
ひとたび忍べば七情皆 中和す
再び忍べば五福皆駢(ならび)臻(いた) る
忍んで百忍に到 れば満腔の春
煕 煕 (きき)たる宇宙都(すべ) て真境
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福音歳時記  2月の読書と黙想ー儒教からキリスト教へ- 

2025-02-06 | 福音歳時記

福音歳時記  2月の読書と黙想ー儒教からキリスト教へ- 

  キリストに通ずる儒者の説きし道天を敬ひ人を愛する

「敬天愛人」という言葉を最初に使った日本人は中村敬宇(正直)(1832-1891)である。慶応二年(1866)幕府の命により英国に留学した当時の彼は昌平黌の主席教授(御儒者)であった。日本を代表する儒者であった敬宇が、なぜわざわざ外国に留学したのか、その志は「留学奉願候存寄書付」(志願して留学する中村の意見書)につまびらかに書かれている。
 
その第一段で「儒者の名義を正す」として、「天地人に通ず、これを儒といふ」とし、学問は支那一国に限らぬ普遍的なものであると再定義した
 第二段で、アヘン戦争後の中国の先例に触れ、西洋との交渉は通訳任せであってはならず、和漢の学に通じた者が留学すべきであると説いた。
 第三段で、中村の考えていた西洋の学問について次のように述べる。

(引用)
「西洋開化の国にては凡その学問を二項に相分け申し候様に承り申し候。性霊の学、即ち形而上の学、物質の学、即ち形而下の学、とこの二つに相分け申し候ふ。文法の学、論理の学、人倫の学、政治の学、律法の学、詩詞楽律絵画彫像の藝などは性霊の学の項下に属し申し候。万物窮理の学、工匠機械の学、精錬点火の学、本草薬性の学、稼穡樹芸の学は物質の学の項下に属し申し候。」(/引用)


 これまで蘭学者達が西洋から学んできたものは、専ら科学技術(物質の学・形而下の学)であって、実用的な利益を上げるための手段智にかぎられてきた。学問の根幹をなす倫理道徳の道(性霊の学・形而上学)、人倫の学、政治学、法学を学ぶためには、少年生徒による留学生では不十分であり、西洋の倫理の善悪を熟慮考察し、その正邪得失を判断するためには、東洋の道徳の基礎に通じたものでなければならない、と論じている。
 いわゆる「和魂洋才」とか「東洋道徳西洋芸術」(佐久間象山)のごとき立場を越えて、西洋の物質文明の根底にある、人倫と政治の学問に関心を持った敬宇は、ミルの「自由論」(帰国後、敬宇はそれを「自由之理」として邦訳する)を読み、西洋民主主義の根本思想を学ぶ。
 帰国後(明治元年)に書いた西国立志編の『緒論』では、
「君主の権は、その私有にあらざるなり」と述べ、「君主の令するところのものは、国人の行んと欲するところなり。君主の禁ずるところのものは、国人の行ふを欲せざるところなり」と、君主を馬車の御者、国民を馬車の乗客に譬えている。どちらに進むべきかは乗客の意向で決まるのであり、御者である君主は客の意向に従い車を走らせれば良いと云うのであ。

 敬宇は、英国下院(House of Commons)を「百姓の議会」上院(House of Lords)を「諸侯の議会」、国会議員を「民任官」と翻訳し、理想的な国会議員を、「必ず学明らかに行ひ修まれるの人なり。天を敬し人を愛するの心ある者なり。多く世故を更へ艱難に長ずるの人なり」と規定した。

〇「敬天愛人」とは、このように明治元年、中村敬宇によって、人民によって国会議員に選ばれた者の心得という文脈で、日本で初めて使われたのである。

 静岡の学問所で敬宇の講義を聴いた者の中に、薩摩藩士の最上五郎が居た。彼は敬宇の思想を西郷南州に伝え、西郷はそこにみられた思想に共鳴し、「敬天愛人」の書を多く遺すことになったのである。
 静岡時代に敬宇の書いた『敬天愛人説』では、はじめに儒教の伝統の中で「敬天」と「愛人」に関する諸説を引用したうえで、それをキリスト教の倫理にも通じる普遍的な道徳であることを論じている。

①「天は我を生ずる者、乃ち吾父なり。人は吾と同じく天の生ずる所なるは、乃ち吾兄弟なり。天それ敬せざるべけんや、人それ愛せざるべけんや。」
②「何ぞ天を敬すると謂ふ。曰はく、天は形無くして知る有り。質無くして在らざる所無し。その大外無くその小内無し。人の言動、その昭監を遁れざること論なし。乃ち一念の善悪、方寸に動く者、またその視察に漏れず。王法の賞罰、時に及ばざる所有り、天道の禍福、遅速異なると雖も、而モ決シテ愆る所無し。」
③「蓋し天は理の活者、故に質無くして心有り。即ち生を好むの仁なり。人これを得て以て心と為せば、即ち人を愛するの仁なり。故に仁を行へば、則ち吾心安じて天心喜ぶ。不仁を行ヘば、則ち吾心安ぜずして天心怒る。」
④「それ天は肉眼を以て見る可からず、道理の眼を以てこれを観れば、則ち得て見るべし。天得て見るべくば、則ち敬せざらんと欲するも、何ぞ得べけんや。」
⑤「古より善人君子、誠敬を以て己を行ひ、仁愛を以て人に接す。境地の遇ふ所に随ひ、職分の当然を尽す。良心の是非に原き、天心の黙許に合ふを求む。」
⑥「故に富貴を極めて驕らず、勲績を立てて矜らず。窮苦を受けて憂へず、功名に躓きて沮らず。禍害を被リ阨災を受くると雖も、快楽の心、為に少しも損せず。これ豈に常に天の眼前に在るを見るに由るに非ずや。天道の信賞必罰を信ずるに由るに非ずや。」
⑦「若しそれ天を知らざる者、人と争ふを知るのみ、世と競ふを知るのみ。知識広ければ、則ち一世を睥睨し、功名成れば、則ち眼中人無し。願欲違へば、則ち咄咄空に書す。禍患及べば、則ち天を怨み人を尤む。自私自利の念、心胸に填塞して、人を愛し他を利するの心毫髪も存せず。これ豈に天を知らざるの故に非ざるか。」
⑧「是に由りて之を観るに、天を敬する者、徳行の根基なり。国天を敬するの民多ければ、則ちその国必ず盛んに、国天を敬するの民少なければ、則ちその国必ず衰ふ。」

「天は我を生ずる者、乃ち吾父なり」以下の文では「天」は人格的な性格が顕著であり、儒教の「天」よりもキリスト教のHeaven(=God)に近い用法である。敬宇は、帰国途上で読んだSamuel Smiles のSelf-Help(自助論)をのちに「西国立志編」として邦訳したが、そこでの「天はみずから助くるものを助く」の自主独立の精神の根底にあるものは儒教的な語で書かれたキリスト教倫理ともいえるものであった。

 この「敬天愛人論」を呈された大久保一翁 は中村敬宇にあてた書簡のなかで、この言葉が、当時の蘭学者に知られていた聖書の漢訳に由来する者であることを指摘している。
 しかし、一翁 は、当時禁教であったキリスト教の聖書に由来すると云っても、そこに書かれていることは儒教の教えと変わりなきものだから、これを刊行しても一向に差し支えないとして、次のように云っている。

(引用)「旧新約書中の語にても御稿の趣にては聊か嫌疑も有之間敷候、何の書出候とも其辺は唐土二帝孔夫子も同様と存候、……既に敬天愛人と四字並候西洋物漢訳書中より鈔し置き事に候。且御文の趣にては何の嫌疑も有間敷存候。」(/引用)

 

「文明」とは何か:「南洲翁遺訓」より



 

 明治維新と共に「文明開化」の時代が始まるが、官軍に敗れた荘内藩士たちが、敗者に名誉を与えた西郷隆盛の遺徳を偲んで記録した文書「南州翁遺訓」には「まことの文明とは何か?」という根本的な問いが含まれている。

 中村敬宇はすでに「西洋文明の倫理の善悪を熟慮考察し、その正邪得失を判断するためには、東洋の道徳に通じたものでなければならない」と論じていたが、佐藤一斎の『言志四録』を座右の書としていた西郷の文明論には、「文明開化」の名のもとに無批判的に西欧文明を模倣する明治新政府への批判と共に、西洋文明を支えてきたキリスト教倫理から学ぶべき積極的な「善」への評価がある。

 西郷によれば、文明とは普遍的な「道」が民によって実践されることを意味するのであって、物質的繁栄を意味するのではない。西欧諸国の文明も、その基準によって判断すべきであって、慈愛をもととして解明に導かず未開の国を暴力によって植民地化した西欧諸国は「野蛮」である。たとえば、遺訓第1条で、南州は、物質的な文明、すなわち経済的な繁栄のごとき「外観の浮華」は「文明」の名に値しないというという儒教の伝統にしたがいつつ、次の如く平易な言葉で西洋的「文明」の偽善を指摘している。

(引用)「文明とは道の普く行はるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些とも分らぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、「西洋は野蛮じや」と云ひしかば、「否な文明ぞ」と争ふ。「否な否な野蛮ぢや」と畳みかけしに、「何とて夫れ程に申すにや」と推せしゆゑ、「実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇懇説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢや」と申せしかば、其の人口を莟めて言無かりきとて笑はれける。」(/引用)

 西欧列強が、非西欧諸国にたいして「未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利する」というのは歴史的事実であり、それこそ文明の対極にある「野蛮」に外ならないという西郷の指摘である。しかし、彼は、かかる西欧列強の植民地主義を非難するだけで終わっているのではない。西洋の「刑法」の人道的な性格について西郷は次のように述べる。

(引用)「西洋の刑法は専ら懲戒を主として苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。故に囚獄中の罪人をも、如何にも緩るやかにして鑑誠となる可き書籍を与へ、事に因りては親族朋友の面会をも許すと聞けり。尤も聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心より鰥寡孤独を愍み、人の罪に陥いるを恤ひ給ひしは深けれども、実地手の届きたる今の西洋の如く有りしにや、書籍の上には見え渡らず、実に文明ぢやと感ずる也。」(/引用)

 西郷は、ここで、西洋の刑法は、我が国の儒教の教えを我が国以上に実践している物であり、真に文明の名に値する、と述べるのを忘れていない。
 犯罪人に対する過酷な取り調べと刑の執行の残虐さは、儒教の精神に反する物であるにもかかわらず、四書五経の訓詁注釈にかまけてきた儒者たちは、過酷な刑法を人道的なものとする努力を怠ってきた。これこそ、まことの文明として西欧から学ぶべきであるという指摘である。

 そして、西郷は、論語「子罕」編の「絶四(恣意・無理押・固執・我意の四つの執着を絶つ)」の言葉を引用し「敬天愛人」が天地自然の道に従って、我意を離れた講学の道なることを説いた後で、次のように述べている。

(引用)「道は天地自然の物にして、人は之れを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。」「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。」(/引用)

「天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也」に要約される西郷の思想と実践について、内村鑑三は、『代表的日本人』のなかで、預言者の精神とキリストの教えに合致する「偉大な西郷の遺訓」がどこから由来するのか、知りたいと思うものがいるだろう、とコメントしている。

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福音歳時記 ペトロの言葉ー詩編118の黙想

2025-02-05 | 福音歳時記

福音歳時記 ペトロの言葉ー詩編118の黙想

   家作り捨てたる石は不思議にも隅の親石使徒の誉れよ
 
 詩編118は、新約聖書のなかで繰り返し引用され、最初にイエスをキリスト(救世主)と宣言した信徒の心を如実に伝えてくれる詩である。
 まず、マタイ21: 9では、エルサレム入城のイエスを頌える歌として「ほむべきかな主の名によって来るもの(詩118: 26)」が引照され、おなじくマタイ21:49では「家造りの捨てた石が隅の親石となった(詩118: 22)」が、イエス自身の言葉として語られている。この言葉は、使徒行伝4:11ではエルサレムで祭司長や長老達の尋問に答えたペトロのキリスト証言として繰り返される。
その言葉の意味は、ペトロ書簡Ⅰ(2: 7)の「人々からは見捨てられたキリストが、神にとっては選ばれた尊い生きた石なのだから、あなたがたも生きた石として用いられ、霊的な家に造りあげられるようにしなさい」というペトロ自身の言葉に示されている。
 この詩にはまた「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。主はわたしの味方、人間がわたしに何をなしえよう」「人間にたよらず、主をさけどころとしよう。君侯にたよらず、主をさけどころとしよう」のように、主にたいして一人称で語る「わたし」が、一切の地上の権威を恐れずに主に拠り頼む心意気も示されている。
 「全てのものの上に立つ自由な主人であって、いかなる人間的権威にも従属しない」と同時に「すべてのものに奉仕するしもべである」ところに、キリスト者の「自由なる奉仕活動」を見いだしたマルチン・ルターが、この詩編を愛唱したことはよく知られているが、プロテスタントではないわたしもまた、この詩編の言葉に鼓舞される。それは、もっとも個人的にしてもっとも普遍的なキリスト信仰のありかたを旧約聖書の中で預言した詩編のひとつだと思うからである。
詩編118は日本の典礼聖歌87番で(抜粋して)うたわれている。歌詞は次の通り。
答唱:きょうこそ神が造られた日 よろこび歌えこの日を共に
1 恵み深い主に感謝せよ そのあわれみは永遠   イスラエルよ叫べ 神のいつくしみはたえることがない。
2 神の右の手は高くあがり どの右の手は力を示す わたしは死なずわたしは生きる かみのわざを告げるために
3 家造りの捨てた石が 隅の親石となった これは神のわざ 人の目にはふしぎなこと
この歌詞の答唱(繰り返し歌われる箇所)の「今日こそ神が造られた日」とは、復活の主日、あるいは復活祭の第二主日(白衣の主日)を指している。
復活祭の時に受洗したひとが白衣を着けた故事にならって「白衣の主日」と呼ぶのであるが、女性の場合は白いベールを付けるという習慣もここに由来するのであろう。その心は、洗礼を受けた人は「新しい人として、キリストを着るものとなった」こと、「神の国の完成を待ち望みながらキリストに倣って歩む人」を力づけ祝福するためである。
 
 旧約聖書の時代にこの詩編がどのように歌われたかはよく分からないが、ヘブライ語で朗唱された詩編がどんなものであったかをある程度窺わせる朗詠がYoutubeにある。とくに、「家造りの捨てた石が 隅の親石となった これは神のわざ 人の目にはふしぎなこと」という詩をヘブライ語で聴くことができるのは有難い。
現代的な伴奏が付けられているにもかかわらず、受難と亡国の危機に抗して信仰を守り抜いたユダヤ教徒の心の歌が、現代に至るまで脈々と受け継がれていると感じた。

Psalm 118 in Hebrew, with Lyrics and transliteration

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福音歳時記 主の奉献の主日:詩編2の黙想

2025-02-04 | 福音歳時記
福音歳時記   主の奉献の主日:詩編2の黙想
 
   永遠と時間の両義「今日」といふ日の典礼詩編朗詠す
 
 新約聖書のなかで旧約聖書はギリシャ語で引用されるが、そのなかでも詩編2に由来する引用例は多い。
 共観福音書ではーマルコ(1:9-11)マタイ(3:17)ルカ(3:21-22)では、イエスの受洗の場面で、「天が開け、神の霊が鳩のかたちで下り」天から「これは愛する我が子、我が心にかなうものである」という声がしたとある。また山上の変容の場面-マルコ(9:7-8)マタイ(17-5)ルカ(9:29-36)では、光り輝く雲の中から「これは我が愛する子、我が心に適うものである。(ルカ傳では、「我に選ばれたものである」)彼に聞け」と言う声が聞こえたとある。
 また、使徒行伝(13:33)ではピシデヤのアンティオキアの会堂でのパウロの説教のなかで、復活後にイエスが神の子の栄光を受けたことを宣言するときに、詩編2の「あなたはわが子、わたしは今日あなたを生んだυἱός μου εἶ σύ, ἐγὼ σήμερον γεγέννηκά σε.= Filius meus es tu, ego hodie genui te.」を引用している。
 このように、イエスの生涯の重要な出来事ー受洗、山上の変容、十字架の死/復活の栄光ー
を物語るときにこの詩編2が引用されていることが分かる。
  
  詩編2は、元来は、イスラエルの王の即位式のために書かれた「王の詩編」と呼ばれるのが普通である。それは、
(1)イスラエルの新王に対して、諸々の国の王が空しい反逆をする (2)それに対する神(ヤーウエ)の嘲笑と怒り (3)諸々の国の王の上に立つ権威が神に由来するという新王の答え (4)新王に対する反逆は破滅をもたらし服従は幸福をもたらすのが神の摂理である
という構成から分かるように、隣接する国々の上に立つイスラエルの王の御稜威の由来を、父なる神(ヤーウェ)にもとめる詩であった。
 
 新約時代のキリスト者たちは、ここでいわれている「新しい王」こそ、十字架につけられたのちに復活したイエスその人であると主張するために、この「王の詩編」を引用したと考えられる。王を神の子として認める即位式の宣言が、イスラエルという民族のみを特権化するものではなく、異邦人を含めたすべての人類の救世主イエス・キリストの神の子としての権能を表すものであったというのが、使徒継承の初代教父たちの解釈であった。
 
 アウグスチヌスは、この詩編2のなかの「今日、わたしはあなたを生んだ」の「今日」と「生んだ」という言葉について次のような興味深い解釈をしている。
 
これは、イエス・キリストが人間として生まれた日が預言において語られていると思われるかも知れない。しかし、「今日」というのは現在を意味しているのであるし、しかも永遠に於いては、存在しなくなってしまったいかなる過去というものもなく、眞田存在していない未来というものもなく、そして永遠なるものはすべて存在しているのだから、現存するものだけが常に存在しているのである。それゆえ、「今日」というのは、「今日、わたしはあなたを生んだ」という言葉に従って、神に関することであると解される。この苦においては、この上なく純粋なカトリックの信仰が、独り子である神の力と知恵の永遠の誕生を宣告しているのである。
 
「今日わたしはあなたを生んだ」とは、神からの神、子なる神の父なる神からの永遠の発出を意味するのであるが、そのような神学に聖書的な根拠を与えるものが詩編2の該当箇所であったと言うことが出来よう。これはイエスキリストの神性にかんする事柄であるが、アウグスチヌスは、詩編2の次の箇所はイエス・キリストの人性、すなわち歴史的時間に関するものと解釈している。
 
「わたしに求めよ。わたしは異邦人をあなたへの嗣業として与えるであろう」(詩編2:8)。もはや、この句は受肉した人に関する時間的な意味を表している。その方はすべての犠牲に代わって自分自身を犠牲として献げたのであり、私たちの為にも執り成して下さるのである(ロマ書8:34)。それゆえ、「わたしに求めよ」という言葉は、人類のために定められた時間的な全統治そのものに関するものである。すなわち、それは、異邦人はキリストの名のもとに統合され、かくて異邦人は死から救われて、神に受け継がれることになるだろう、ということである。「わたしは異邦人をあなたへの嗣業として与えるであろう」とは、あなたが異邦人を救うために、異邦人を受け継ぎ、そして異邦人はあなたのために霊の実を結ぶであろう、ということである。
 
アウグスチヌスは、ここで、異邦人の使徒パウロの歴史的使命に言及すると同時に、神からの神、父なる神から子なる神の永遠の発出という出来事が、歴史的な「今日」ではなくと永遠の現在である「今日」をさすものであり、それはパウロに時代のみならず、あらゆる時代に当て嵌まる出来事であることを示しているのである。
 
以下のYoutube ビデオは「王であるキリスト」を歌う詩篇2をグレゴリオ聖歌風に英語で朗詠したもの。

Psalm 2 (English), Gregorian Tone 1D

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福音歳時記 2月3日 福者ユスト高山右近殉教者記念日 

2025-02-02 | 福音歳時記

福音歳時記 2月3日 福者ユスト高山右近殉教者記念日 

 侘数寄を弥撒に代へたる侍(さむらひ)の道はひとすじ殉教の旅

千利休以後に始まる濃茶の回しのみ(すい茶)は、カトリックのミサで司祭と信徒が一つの聖杯から葡萄酒を共に飲む儀式によく似ており、茶巾と聖布(プリフィカトリウム)の扱いも酷似している。これは、裏千家家元の千宗室氏の云われたように、キリスト教が日本の茶道にあたえた影響と見て良いであろう。



 利休には、高山右近をはじめ蒲生氏郷、瀬田掃部、牧村兵部、黒田如水などのキリシタン大名、あるいは、キリスト教と縁の深い門人(ガラシアの夫の細川忠興など)や、吉利支丹文化の影響をうけた茶人(古田織部など)が大勢いた。

 高山右近の父の高山飛騨守は、畿内のキリスト教伝道に大きな役割を果たした盲目の琵琶法師ロレンソ了斎の影響でキリスト教に帰依した。當時少年であった次男の彦五郎(右近)も飛騨守の一族の者とともに受洗した。右近は父親から家督を譲られた後、1573年から85年まで高槻城主を務め、1585年に明石に転封された。1587年、博多にいた秀吉は、突然に禁教令を出し、まず高山右近に使者を送って棄教を迫った。宣教師の書翰によると使者に対して右近は次のように答えたという。

「予はいかなる方法によっても、関白殿下に無礼のふるまいをしたことはない。予が高槻、明石の人民をキリシタンにさせたのは予の手柄である。予は全世界に代えてもキリシタン宗門と己が霊魂の救いを捨てる意志はない。ゆえに予は領地、並びに明石の所領6万石を即刻殿下に返上する」(「キリシタン史の新発見」プレネスチーノ書簡から)

 右近の強い意志を知った秀吉は時間を置かず第二の使者を出す。陣営にいた右近の茶道の師、千利休が使者に選ばれたのである。利休の伝えた内容は「領地はなくしても熊本に転封となっている佐々成政に仕えることを許す、それでなお右近が棄教を拒否するならば他の宣教師ともども中国へ放逐する」というものであった。右近はこの譲歩案も次のように謝絶したので、利休もそれに感ずるところがあって再び意見することはなかったという。(金沢市近世資料館にある『混見摘写』による)

「彼宗門 師君の命より重きことを我知らず。しかれども、侍の所存は一度それに志して不変易をもって丈夫とす 師君の命といふとも 今軽々に敷改の事 武士の非本意といふ。利休もこれを感じて再び意見に及ばずの由」。

  追放後、右近は、博多湾に浮かぶ能古島、小豆島など、右近を慕う大名達によって匿われたのち、金沢の加賀前田家の客将として、能登で二万石を与えられた。しかしながら、1614年の徳川幕府の吉利支丹禁令のさいに国外追放となり、翌1615年2月3日にマニラで死去した。国外追放されたとき、右近は十字架と共に、最後に利休と分かれたときに渡された羽箒(茶道具)を所持していた。また、右近が細川忠興宛にあてた書状が、細川家の永青文庫に残っている。



 近日出舟仕候 仍 此呈 一軸 致進上候
 誠誰ニカト存候 志耳
 帰ラシト 思ヘハ兼テ 梓弓
 ナキ数ニイル 名ヲソ留ル
 彼ハ向戦場命堕
 名ヲ天下ニ挙是ハ
 南海ニ趣命懸天名ヲ
 流如何六十年之苦
 忽別申候此中御礼ハ
 中々不申上候々々恐惶
 敬白
    南坊
 九月十日 等伯(花押)
 羽越中様 参人々御中
(細川忠興にあてた右近の自筆書簡。)

『近々、出航いたすことになりました。ところで、このたび一軸の掛物をさしあげます。どなたにさしあげようかと思案しましたが、やはりあなた様にこそふさわしいもの、私のほんの志ばかりでございます。

 帰らじと思えば兼ねて梓弓無き数にいる名をぞ留むる。

彼(正成)は戦場に向かい、戦死して天下に名を挙げました。是(私)は、今南海に赴き、命を天に任せた名を流すのみです。いかがなものでしょうか。六十年来の苦もなんのその、いまこそ、ここに別れがやって参りました。先般来の御こころ尽くしのお礼は、筆舌につくす事は出来ません。恐れながら申し上げます。  
  九月十日  南坊等伯(高山右近の茶人としての号)』

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福音歳時記 2月2日 聖母マリアの清めの祝日

2025-02-02 | 福音歳時記

福音歳時記 2月2日 聖母マリアの清めの祝日


 喜びと悲しみの伴侶(とも)聖マリア 蝋燭灯し祝ひまつらむ

2月2日の「聖母の清めの祝日」では(ルカ福音書に基づき)シメオンがキリストを迎えたように、蝋燭を灯して聖母とイエスに祈ります。次々と手渡しされる灯は、闇夜を照らす光ー信仰、希望、愛に導くキリストの象徴でしょう。

 この日に聖家族が従ったユダヤ教の儀式は、元来は、出産後の母親を清め、長男を主に捧げるというものでした。ユダヤ人たちは、律法の義務を果たすことで神への敬意を示し、母親たちは謙虚に清めを受け入れていました。
しかし、イエスを救い主と信じるキリスト教徒にとっては、この「清めの日」は、主の「奉献の神秘」という新しい意味を持つようになりました。

 この日の様子を描いた西洋の聖画では、天使たちが登場し、驚嘆の念を抱きつつ、神殿がこれまでに目撃した中で最大の出来事であるかのように聖母子を見守っています。

 ルカ福音書によれば、誕生したばかりのイエスには十字架の受難が予定されています。そして、聖母マリアの苦しみと悲しみもまた予示されています。主の奉献は「喜びの神秘」に数えられますが、聖母の「悲しみの神秘」でもあります。

 聖霊に導かれたシメオンは、その神秘を理解し、マリアもまた理解しました。救い主を初めて目にしたときの喜びの感情が去ると、シメオンは彼らを祝福し、母に向かってこう言いました。「この子は、イスラエルの多くの者の倒れるべき時と復活の時、また、反対されるしるし、彼ら自身の魂が剣で刺し貫かれる時、多くの人の心の中の思いが明らかにされるでしょう」と。

この預言は、マリアが常にイエスの運命と結びついており、イエスと喜びと悲しみを分かち合う伴侶であったことを思い出させます。

この祝日の起源は古く、エルサレム教会が最初にこの祭りを祝い、コンスタンティヌス帝の時代にはバシリカへの行列も行われまたと言う記録があります。アルメニアでは今でも(古い暦にしたがって)2月14日にこの日を祝っており、「神の子の神殿入場」と呼んでいるということです。



In Purificatione Beatae Mariae Virginis - INTROITUS

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする