歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「場所的論理と宗教的世界観」を読む

2007-06-09 |  宗教 Religion

371_2: 宗教は心霊上の事實である。哲學者が自己の體系の上から宗
教を捏造すべきではない。哲學者はこの心霊上の事實を説明せなけれ
ばならない。それには、先づ自己に、或程度にまで宗教心と云ふもの
を理解してゐなければならない。眞の體驗は宗教家の事である。併し
芸術家ならざる人も、少くも芸術と云ふものを理解し得る如くに、人
は宗教と云ふものを理解し得るであらう。

私は上の言葉を、誰か特定の哲学者ーたとえば田辺元ーへの批判として述べたと云うよりは、西田自身をふくめた哲学者の自戒の言葉として受け取っている。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造するのではなく、哲学に先立ってある心霊上の事実を説明することーこれが西田の宗教論の第一の特質である。場所の論理と言っても、そういう論理が概念的に先行させて、それに経験の事実をあてはめているわけではない。もちろん、西田にもそういう傾向は免れなかったであろうし、まして西田の影響を受けて彼の言語をそのまま譲り受けて議論を展開する注釈家にとってはそういう傾向はなかなか免れがたいものであったろう。また、371_1および371_3では西田が、倫理も藝術も宗教も、選ばれた人間だけのものではなくて、潜在的には万人のものであることを指摘していることにも注意したい。良心をもたぬ人間がいないのと同じく宗教心を持たぬ人間はいないのである。宗教心と言う言葉を西田は良心と対にして「つかっている。西田は自分を「宗教を説く資格のあるもの」とは位置づけていない。彼は哲学者であって宗教家ではない。しかし、哲学者は、宗教の説教はしないが、宗教という「心霊上の事実」を説明することはできる。その説明が適切なものであるかどうかは、読者が各自の宗教心の深浅に応じて判定するであろう。

372_2: 宗教と云ふものを論ずる前に、我々は先づ宗教とは如何なる
ものかを明にせなければならない。宗教とは如何なるものなるかを明
にするには、先づ宗教心とは、如何なるものなるかを明にせなければ
ならない。神なくして、宗教と云ふものはない。神が宗教の根本概念
である。

神が宗教の根本である、と西田は云う。「善の研究」以来、西田は宗教論では絶対者を「神」と呼ぶのが原則である。西田自身の宗教的な背景は、臨済禅と浄土真宗であったは、仏ではなく神を以て宗教の根本概念とするところが、西田の宗教哲学の特徴である。この点は、いわゆる京都学派に属する西谷啓治、阿部正雄らの「禅的な」宗教哲学、無神論的な宗教哲学とは異なる点である。ここでいう「神」は、西欧キリスト教でいう「神」に限定されず、たとえば浄土真宗の「阿弥陀仏」のように、人格性をもった仏をも含む広義の「神」であると理解するのが適当であると思われる。

373_4: それでは宗教的意識、宗教心とは、如何なるものであるか。
此の問題は主観的に又客観的に深く究明すべきであらう。併し私は今
かゝる研究に入らうとするのではない。唯、私は對象論理の立場に於
ては、宗教的事實を論ずることはできないのみならず、宗教的問題す
らも出て来ないと考へるのである。

この論文では、宗教的意識、宗教心の問題は主題的には論じられず、ただ、宗教的事実を論じるには対象論理の立場ではなく、それをよりも深くかつ普遍的なる場所的論理の立場が必要であることが指摘される。

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