歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

歴程の哲学について

2006-10-30 | 日誌 Diary
このブログのタイトルは「プロセス日誌」であるが、「プロセス」とはどんな意味なのか、と聞かれることがある。最近、感ずるところがあって、「プロセス」というカタカナ語を、多くの文脈で「歴程」という日本語に置換えるようにしている。
ヒントは、中華民国の「方東美」研究所の所長であるSuncrates氏が、ホワイトヘッドの著作に言及するときに「歴程」の語を使っていたのに示唆されたのである。さすがに、中国人は文字について良いセンスをもっているなと実感した。

「歴程」とは、日本語ではさらに別の含意がある。それは特に戦前と戦後を通じて日本の現代詩をになってきた詩誌の名前でもある。草野心平、中原中也、高橋新吉、逸見猶吉等が昭和10年に刊行したこの詩誌は、イデオロギーの拘束抜きで、個々の詩人の個性を重んじた詩的サークルを形成し、現在に至っている。そこで「歴程」ということばは、なによりも個々の人が経過した人生の軌跡、個人史を表すものであり、それぞれの詩人の実存の歴史にほかならない。

「過程」という日本語には、「歴程」と違って、そのような個的実存の歴史を表すという含意がない。また、「過程」には、過ぎゆくもの、途上にあるものという意味が強すぎて、その都度完結し、作品として結実する生の航跡という意味が表されない。つまり「過程」は、その過程によって生み出された「作品」も、また「過程」において自己形成する作者自身を表現することが出来ないのである。

ところがホワイトヘッドがProcess という言葉を使うとき、それは、単に「途上にある」もの、初めと終わりの中間にある「過ぎゆくもの」のみを表しているのではない。Process は、實は、自己を形成し、創造し、自己の作品のなかにその都度、自己の存在の航跡を表現していく我々自身の生の歩みを一般化した語なのである。

我々は、みな、自己の生に於いては、脚本家であり、演出家であり、主役なのである。各人は、自己の歴程の主人公であるが、その主人公自身が、歴程において、他者と出会い、他者の世界を自己の世界へと内面化しつつ(抱握しつつ)、自らを他者に対して作品として与える存在なのである。そういう自己創造のプロセスとその成果を現すのに「歴程」という日本語が最も相応しいのではないだろうか。

我々の世界の根柢を「ポイエーシスの世界」と呼び、作られたものから作るものへと動いていく創造的世界と捉えたのは西田幾多郎であるが、ホワイトヘッドの歴程の哲学の趣旨も、まさしく創造的世界とその創造的要素である個物(それをホワイトヘッドは活動的存在actual entityと呼ぶ)にほかならない。

それでは、かかるポイエーシス世界の構造は、のようにして哲学的に表現されるのか。単に藝術作品の創造という意味での狭い意味でのポイエーシスにとどまらず、実践(プラクシス)も理論(テオーリア)もすべて、そこにおいて表現されるべきポイエーシスの世界とは如何なるものであるのか。これが歴程の哲学の一つの主題である。

2 「創造」とは何か

「無からの創造」はキリスト教の世界観の根柢にあるものであるが、これに対して「無からは何も生まれない」とはアリストテレスに代表される希臘哲学の根本原理である。どちら正しいか、答えは簡単な二者択一では与えられない。なぜなら、答えるものが如何なる立場に立っているか、この問そのものが如何なる文脈でたてられたものであるか、と云うことが、ここで問題になるからである。

近代科学に創造と云うことがあるであろうか。實は、ガリレオやニュートンに代表される近代科学のボキャブラリーには、決定的に不足している概念がある。それは、「創造」である。
 たとえば、近代自然科学の基礎をなす物理学の基本法則は保存則である。これは時間の経過によって影響を受けない普遍性を表すものであるが、保存則は、物理法則が時間座標と空間座標の座標変換によって不変であるべきであるという要請からアプリオリに同室できるものなのである。したがって、物理法則は時間軸の未来と過去の反転に関して対称性を保持すべきと言う大前提のもとに法則が書かれているのであるから、もともと時間に対して非対称な構造を持つ「創造」という出来事を表現することは出来ないのである。言い換えれば、近代物理学の世界には、時間座標はあっても時間はないと言っても良い。
 しかしながら、20世紀の宇宙論はビッグバーン宇宙論の観測的検証によって、宇宙の進化をを主題とせざるを得なくなり、インフレーション理論以後、「無からの創造」は物理学ではむしろ正統説となってきたといえるであろう。
 無からはなにも生じないのではなく、無からの創造が語れるのは、無そのものが創造的であるからである。
 「創造的無」ないし「能造的無」という概念は、京都学派の久松真一が「東洋的無」という論文の中で提示した概念であるが、いまや、それは現代物理学の最先端の課題であるに他ならない。
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「代表的日本人」と「武士道」との違い

2006-10-27 |  宗教 Religion


新渡戸稲造の「武士道」よりも先に出版された「代表的日本人」には、武士道のなかに「旧き契約」をみいだすという新渡戸と共通する発想があるが、内村が、「旧き契約」として考えていたものは、武士道だけではない。そこには、新日本を建設した「最後のサムライ」だけでなく、封建領主として上杉鷹山、農民聖者としての二宮尊徳、村の教師としての中江藤樹、仏僧の日蓮が論ぜられてる。武士道を含みつつも、それよりもさらに広い視野から日本人の精神的遺産を自覚しようと云う姿勢がみられる。

これらについて今は詳論する余裕がないが、西郷隆盛と同じく陽明学の影響を強く受けた中江藤樹に関する章で、内村が「謙譲の美徳」について語っている点は注目に値する。内村は次のように云う。

何ものも懼れずに独立不羈の人であった藤樹の倫理体系の中で、何よりも注目すべきは、彼が「謙譲の徳(the virtue of humility)」を最高位に置いたことである。藤樹にとって「謙譲の徳」とはすべての源となる根源的な徳であり、謙譲の徳がない人間ならば、すべてを欠いているのとおなじであった。「學者はまず慢心を捨てて、謙譲の徳を求めないならば、どれほど学識や才能があっても、凡庸な迷妄を越え出る資格がないのである」「充実は損失を招き、謙遜は天の法である。謙譲は虚である(Humility is emptiness)。心が虚であるならば、善悪の判断は自ずから生じる」。藤樹は、虚という言葉の意味を説明して、次のように述べる。「昔より真理を求めるものは、この言葉につまずく。霊的(spritual)なるがゆえに虚(empty)であり、虚であるがゆえに霊的である。このことを良く考えよ。

新渡戸稲造の「武士道」に出てくる倫理項目には、「謙譲の徳」(humility)というものはない。そこでは「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」などの儒教倫理が語られている、「謙譲」という徳目はないのである。これに対して、内村は、中江藤樹がこの徳を最高位に置いたことに注目している。

西洋では、キリスト教倫理をギリシャ的な倫理から分かつものは、「謙譲の美徳」に他ならぬ。ただし、そこでいう謙譲とは世俗の徳ではなく、信仰・希望・愛という対神徳に人を導くものとして位置づけられている。アリストテレス的な「中庸」を重んじる世俗の道徳概念では、「謙譲」は「傲慢」と同じく、避けるべき極端であって、決して美徳とはされなかった。謙譲は奴隷にこそ要求されるものであり、自由な市民に相応しくないというのがむしろギリシャ人やローマ人の考え方の主流であった。

「謙譲」がキリスト教倫理で美徳とされるのは、イエス自身の「ケノーシス」(虚しくすること)の行為に倣うがゆえにである。この美徳を中江藤樹の思想の中に見出した内村は、単なる武士道の倫理よりも更に一層キリスト教倫理に近づいたものを、日本人の精神文化の内に見出したといって良いであろう。

内村が、藤樹の和歌を、次のようにキリスト教的に翻訳しているのは興味深い。

  上もなくまた外もなき道のために
  身をすつるこそ身を思ふなれ
   He loves his life who his life forsakes
   For Ways that no like or higher know


「代表的日本人」は、内村自身にとっては過渡期の著作である。それは彼が聖書に基づいて非戦論を唱える前に書かれたものであり、内村自身によれば「キリスト者としての私がその上に接ぎ木されたところの台木を示している」と位置づけられた。しかしながら、内村はそれとともに次の言葉を付け加えることを忘れてはいない。

日蓮、法然、蓮如その他の敬虔な尊敬されるべき人々がすでに私の先輩であり、宗教の本質を私に教えてくれたのである。藤樹らがわが国の教師であり、鷹山らが藩主、尊徳らが篤農家、西郷らが政治家であったのは、私をして、かつてーナザレの神の人の足もとにひれ伏すべく召し出される前に私があった通りのものにするためである。

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新しき契約ー札幌農学校と内村鑑三

2006-10-24 |  宗教 Religion

内村鑑三の自伝「余は如何にして基督者となりしか」に、札幌農学校に入学してすぐに「イエスを信じるものの契約」に署名したころの記述がある。 今日の我々にとっていささか不思議に思われるのは、キリスト教については殆ど何も知らなかった少年達が、なぜかくも短期間に「イエスを信じるものの契約」に署名し、その後、受洗して信者となっただけでなく、伝道者となったのは何故かということである。この「新しき契約」は、「少年よ大志を抱け」という言葉を残して帰米したクラークの起草したものであったが、それは次のような文で始まる「契約」であった。

“The undersigned members of S. A. College, desiring to confess Christ according to his command, and to perform with true fidelity every Christian duty in order to show our love and gratitude to that blessed Savior who has made atonement for our sins by his death on the cross ; and earnestly wishing to advance his Kingdom among men for the promotion of his glory and the salvation of those for whom he died, do solemnly covenant with God and with each other from this time forth to be his faithful disciples, and to live in strict compliance with the letter and the spirit of his teachings; and whenever a suitable opportunity offers we promise to present ourselves for examination, baptism and admission to some evangelical church.  

以下に署名する札幌農学校の学徒は、キリストの命に従い、彼への信仰を宣言し、キリスト者のすべての義務を至誠を以て果たすことを願う。それは、十字架の死を以て我等の罪を贖われた尊き救主にたいする我等の愛と感謝を表すためである。我等はまた、キリストの王国を人々の間に推進し、キリストが代わりに死に給ふた人々の救済を促進するために、今より以後、神とともに、また我等相互に、厳粛なる契約を結ぶ。我等はキリストの忠実な弟子となり、その教えの文字と精神に厳格に従って生活し、適切な機会が与えられるときはいつでも、試問と洗礼を受けて福音教会に入ることを約束する。

このあと、キリスト教の基本的教理と、モーゼの十戒に対する信仰が宣言されているが、内村がこれに署名したのは、上級生に強制されたからであって、決して自発的な意志ないし、内的な欲求によってではなかったと、内村が回顧しているところが面白い。内村は決して「好きこのんでキリスト教徒になった」のでなかったのである。この「イエスを信じるものの契約」に署名したとき、内村は、まだ16歳であり、新渡戸はさらに年少であった。彼等は、言うなれば、札幌農学校の「恩師」クラークに敬意を払うべしという上級生達の圧力に屈したのであるが、それだけでなく、当時の札幌農学校の学生達の間には、西洋文明の実用的な結果だけではなく、その根底を成す精神に他ならぬキリスト教をこれから学ぶべきであるという思いが有ったものと思われる。

もっとも、札幌農学校の内村の同期生はすべてこの文書に署名させられたとはいえ、実際に洗礼を受けてキリスト者になったのは一部であった。つまり署名は単なる入学時の通過儀礼という側面もあったのであろう。しかし、内村にとっては、この文書に署名したと云うことは決定的な意味を持っていた。彼は、18歳で洗礼を受けたのであるが、そのときに次のような言葉を日記に記している。

ルビコン川はこうして永久に渡られた。われわれは新しい主人たるキリストに忠誠を誓い、われわれのひたいには十字架のしるしが刻まれた。いざこの後は、地上の主君のために教えられてきた忠誠の念を以てキリストに仕え、王国また王国と征服しながら進んでいこう。  
   地のいやはてに住む民もメシアの聖名を学ぶまで
ひとたび回心して信者となったわれわれは、こうしてさらに伝道者となったのである。しかしそのためにはまず何よりも教会を作らねばならぬ。

この日記を書いている内村にとって、受洗は自らの決断である。彼は、自己の私的願望に従う信仰ではなく、私心を離れて、世のため人のために、キリストを新しき「主」として、その忠誠の対象とすると生き方を自ら選択したのである。

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武士道という「旧き契約」ー「代表的日本人」から

2006-10-23 |  宗教 Religion

トムクルーズ主演のアメリカ映画に「ラストサムライ」と題するものがあったが、武士道は、封建時代の日本のサムライの倫理であるにもかかわらず、現代アメリカの映画監督の琴線にさえも訴えるところがあったようだ。何故だろうか。

ところで、この「ラスト・サムライ」という言葉についてであるが、實は、内村鑑三の「代表的日本人」の西郷隆盛の章に、次のようなくだりがある。   

西郷を討った側の者もみなその死を悼んだ。涙ながらに彼の遺体は埋葬され、  今日に至るまで涙にくれて墓参する人はあとを絶たない。  かくして最も偉大なる人物、おそらくは「最後のサムライ」(the last of the samurai) ともいうべき人物が  この世から姿を消したのである。

映画の「ラストサムライ」の話は別にして、何故、基督者の内村鑑三が「最も偉大で、おそらくは最後のサムライ」として西郷隆盛を論じたのか、それは説明を要する。西郷の言葉と行動のうちには、内村の心に深く訴えかけるものが有ったに違いない。 「代表的日本人」は英語で書かれたが、西郷の人生観を要約する言葉-「敬天愛人」-と西郷の詩文を内村はいくつか翻訳して引用している。  

 「天は人も我も同一に愛し給ふが故に、我を愛する心を以て人を愛するなり」 (Heaven loveth all men alike;so we must love others with the love with which we love ourselves.) という西郷の言葉には、律法と預言者の思想が込められており、  西郷がそのような壮大な教えをどこから得たのか興味深いところである。

内村は、西洋の宣教師によってキリスト教が明治の日本に伝えられる遙か以前から、万物の創造主である神が、日本人にそのこころをつたえなかった訳ではないと考える。言うなれば、神は、ユダヤ人に対してのみ「旧き契約」を結ばれただけでなく、世界の諸民族に対しても、その伝統と文化に応じた形で、その天意を伝え、キリストの教えにたいする準備をされていたはずである。 内村は、福音書のイエスの言葉に呼応する言葉が、西郷の遺文にあるのを見出す。それは、「天にいます主」によって直接に、「代表的日本人」の一人である西郷に伝えられたに違いないーつまり内村は、言うなれば匿名のキリスト者として、西郷を描いているのである。

封建道徳という時代の制約の下にありながらも、その道徳(旧き契約)を突きぬけるような死生観が西郷の言葉と実践の中にある。それは「最も偉大なる、おそらくは最後のサムライ」の死として過去のものになったとはいえ、完全に姿を消したわけではない。それは、基督者である内村自身の中に、明治という新しい時代の日本の基督者としての内村自身の中にも、その「最後のサムライ」の精神が、かたちを新たにして生きているーそういう印象を受けた。

内村が引用している西郷の詩文に次のようなものがある。(内村の英訳を付する)  

一貫唯唯諾す         Only one way, "Yea and Nay";  
従来鉄石の肝         Heart ever of steel and iron.  
貧居傑士を生じ        Poverty makes great men;  
勲業多難に顕わる              Deeds are born in distress,  
雪に耐えて梅花麗しく     Through snow, plums are white,  
霜を経て楓葉丹し       Through frosts, maples are red;  
もしよく天意を識らば      If but Heaven's will be known,  
あに敢えて自ら安きを謀らん Who shall seek slothful ease!  

地古く、山高く         Land high, reccesses deep  
夜よりも静かなり       Quietness is that of night  
人語を聞かず         I hear not human voice,  
ただ天を看るのみ       But look only at the skies

この詩文の最後の二節は、その前の詩文の、「もしよく天意を識らば、あに敢えて自ら安きを謀らん」と呼応している。それは、単に山に籠もって自然に親しむと云うだけでなく、世俗の人の声を離れて、唯天を仰いで、神の声を聞くという意味に、内村は解釈していたと思う。それは、この著作を書いた当時の内村自身の心境でもあったろう。

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