歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

上智大学公開講座輪講〔感情の哲学〕予告

2019-10-28 | 日誌 Diary
上智大学公開講座輪講〔感情の哲学〕予告
11月11日から始まる輪講〔感情の哲学〕(佐藤直子先生企画〕には私も参加します。
日本思想のユニークな特徴のひとつに「情意の世界(表現的一般者/行為的一般者)」において「もののあはれ」を感じて、そこから相互主体的な芸術製作/形而上的な宗教性の表現に向かうことが挙げられます。そのような日本の伝統文化と世界宗教との関係を思索の課題として、「情意における<創造的空>」というテーマでお話ししたいと思っています。
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「聖ベネディクトの戒律」と道元禅師の「永平大清規」─ 聖グレゴリオの家教会音楽科 特別講義

2019-10-19 |  宗教 Religion
「聖ベネディクトの戒律」と道元禅師の「永平大清規」:聖グレゴリオの家、教会音楽科講義(2019/10/16)
田中 裕
はじめに
 
道元には、主著『正法眼蔵』とおなじく重要な一連の実践的著作として『永平大清規』がある。「清規」とは「修道者が守るべき規則」のことで、「清」とは「清衆」つまり修行道場で共同生活をする修道僧を意味する。『永平大清規』と呼ばれる一連の著作は、宋から帰国した道元の道場となった深草興聖寺で出家者や在家者のために制定した規則に始まり、後に帝都を離れて山林に修行場を求めた道元が、越前吉峰寺、大仏寺(永平寺)にて著述した最晩年のものまで含む。
 「聖ベネディクトの戒律」が単に修道会の規則にとどまらず、今日のカトリック教会では、世俗の中で福音伝道する献身者(オブラーテ)にも読まれているのと同じく、道元の「清規」もまた、出家者だけでなく、在家にあって「菩薩行」をおこなう人の生活の指針として読まれてきた。
 道元を高祖とする曹洞宗の峰岸正典老師は、ドイツのオッティリエン修道院とのあいだでの東西霊性交流を1979年から現在まで続けて実践されているが、同修道院でベネディクト会士と共同生活した経験を踏まえて、ベネディクト会の修道院と道元の清規にしたがう禅の修道生活に通底するものを次のように要約している。
  • 早朝起床、坐禅・朝課・朝食。午前は作務・坐禅・勤行・昼食。午後は作務・坐禅・晩課・夕食。夜坐そして入眠という修行道場の一日と早朝起床・全体での祈り・個人の祈りミサ・朝食。労働・昼の祈り・昼食小憩後労働・夕方の祈り・夕食・夜の祈り・入眠といった修道院のサイクルはよく似ている。
  • 「時の勤行、四時の坐禅」という定めを持つ修行道場と「聖務日課」に規定される修道院ではきわめて似た時間意識とリズムにおいて一日が過ごされている。加えて生涯をかけての修行・修道を志すという共通性もある。
  • また、「我を張らない(無我)」ということは禅の修行の眼目であるが、修道士も自己を極端に主張してはならない。聖ベネディクト会則では「謙遜の実践」が「修道の全課程に欠かせない」ことが示されている。
  • 集団での坐禅や祈りという宗教的行を務め、作務・労働をするという形態の中に、信仰対象や宗教共同体への自己帰入が希求されている。こうした希求は、諸々の宗教的行為において身体を通じて表現され、自らを小さなものとして、大いなるものに対して畏れと敬意を表す。
  • 聖ベネディクト会則(第七章)でも修道士は神への謙遜という「こころ」を日常生活の中で「かたち」に表すことを要請されている。禅でも身体的行為には「仏作仏行」としてより積極的な意味がある
  • 修行道場と修道院において最終的に求められているものが、教義の学術的理解というよりも、むしろ宗教的実践、求道(辨道)であり、生涯を通じて行じられる「生き方としての宗教」が大切にされている。換言すれば、修行僧と修道士は宗教的な生き方を宗教共同体の中で深めようとする者同士として本交流において邂逅したのであり、だからこそ、異なった信心や信仰体系を持つ宗教者同士といえども、両者の間に深い共感が生まれたと言えよう。[1]
また、イエズス会の門脇佳吉神父は、道元の清規に従って生きる「行道」のことばの実践にこそ、自然環境破壊を克服するエコロジーの実践を導く「形而上学」があることを強調してつぎのように云っている。[2]
道元は、第一に、自然と人間を結ぶ原初的な関係を道(仏の御いのち)のはたらきによって根拠づけ、自然の全体と人間の渾身の感覚的結びつきを中心に含みながらも、知恵によって形而上学的エコロジーともいうべき道理を確立したのである。このようなエコロジーは知恵に基づくから、西洋世界にも通用するだけでなく、西洋のエコロジー神学の抽象性を克服し、自然と人間との感覚的結びつきを大切にすると共に、知恵(sapientia)による「道なるキリスト」のはたらきでそれを根拠づけることによって、形而上学的エコロジーの確立に道を開くのである。
 
永平大清規にみられる道元の修道論
 
永平大清規とは、道元(1200-1253)の定めた次の六つの清規をさす。
『典座教訓』、嘉禎3年(1237):僧院で台所仕事を司る典座の心得と作法。
『辨道法』、 寬元3年(1245):僧堂における坐禅中心の修道生活の規範
『赴粥飯法』、寬元4年(1246):僧堂で粥(朝食)と飯(昼食)を喫するときの作法 
『衆寮箴規』、宝治3年(1249):修行僧が看経(読書)や行茶(喫茶の行礼)を行う「衆寮」での規則と誡め 
『對大己法』、寬元2年(1244):「大己」(目上の人)への礼法。謙遜の誡め。 
『知事清規』、寬元4年(1246):僧院で様々な業務を担当する指導者(知事)の責務と選任の仕方 
 
 ここでは、とくに、道元が宋に留学僧として聞法の旅に出たときに出会った阿育王寺の老典座との対話が収録されている『典座教訓』に注目したい。そこには、在家と出家の区別を越えた道元の修道論の原点が明確に示されているからである。
 嘉定十六年癸未(みずのとひつじ)(1223)の五月中、慶元府に停泊する船内で、道元が日本船の船長と話をしていたおり、一人の老僧がやってきた。年は六十歳程度である。まっしぐらに船に来て、日本人に尋ねて椎茸を買い求めた。道元は彼を招待して茶をふるまい、その所在を尋ねたところ、阿育王山の寺の典座和尚ということであった。以下、道元と老典座との問答を『典座教訓』に記された通りに再現してみよう。
老典座: 私の出身は西蜀(四川省)です。郷里を離れて四十年になりまして、今年で六十一歳です。これまであちこちの修行道場をあらかた経験してきました。先年、孤雲道権禅師が住持している阿育王寺を訪ね、正式に修行することになりましたのに、無為に過ごしてしまいました。ところが去年の夏の修行期間の後、阿育王寺の典座に任ぜられました。明日は端午の日なので、一つご馳走しようと思ったものの適当なものが何もありません。麺汁を作ろうと思うのですが、椎茸がなかった。そこで特別にやってきて椎茸を買い求め、各地より集まった雲衲[3]に供養するつもりです。
道元:いつ頃阿育王寺を出てきたのですか? 老典座:昼食の後です。
道元:阿育王寺はここからどれくらいの距離ですか? 老典座:三十四五里[4]です。
道元:いつ寺へ帰るのですか? 老典座:今しがた椎茸を買いましたので、すぐに帰ります。
道元:今日は期せずしてお会いし、のみならず船内でお話しすることができました。これは素晴らしいご縁ではございませんか。私道元が典座禅師にご馳走いたしましょう。
老典座:いけません。私がもし管理しなかったら、明日の食事が駄目になってしまうでしょう。
道元:阿育王寺には、典座寮の仲間で、朝昼の食事を理解・会得している人がいるでしょうに。典座和尚が一入不在であっても、何の不備がありましょうか。
老典座:私は老年にてこの職に就いたのです。つまり、おいぼれの弁道です。どうして他人にその職務を譲れましょうか。それに来るときに、一泊の許可を得て来ませんでした。
道元:典座和尚はご高齢であられる、どうして坐禅弁道したり、語録を読んだりしないのですか。典座職務に煩わされ、ひたすら肉体労働をして、どんないいことがあるというのですか?
老典座:(大笑いして)
 外国の好青年よ、あなたはまだ弁道というものを解っていないし、まだ文字というものを知らないのです。(外国好人、未了得弁道、未知得文字在)
道元:(老典座のその言葉を聞いて、ハッと自分を恥じ畏れおののき)
文字とはどういうものでしょうか、弁道とはどういうものでしょうか?(如何是文字、如何是弁道)
老典座:あなたが質問したところを見過ごさずにいれば、そういう人(文字を知り弁道を体得した人にならないということがどうしてありましょう。(若不蹉過問処、豈非其人也)
道元:(その意味が解らず)・・・・・
老典座:もし解らなかったならば、後日いつか阿育王寺に来てください。一つ、文字の道理について語り合いましょう。(そう話した後、すぐに起ち上がって)日が暮れてしまった。急いで帰ろう。(と言って帰ってしまった)
その年の七月、道元は天童山景徳寺で修行をしていた。時にあの典座がやって来て、道元に会って
「夏の修行が終わったので典座職を退いて、郷里に帰ることにしました。たまたま同門の者が、あなたがここにいる、と言っているのを聞きました。どうして来て会わないでいられましょう」と言った。
道元は小躍りして喜び感激し、彼を接待して会話をした折、先日の船内における文字・弁道の因縁について聞いてみた。
老典座:文字を学ぼうとする人は、文字の意味を知ろうとするし、弁道に努める人は、弁道の意味を会得しようとします。
道元:文字とはどういうものですか? 老典座:一、二、三、四、五
道元:弁道とはどういうものですか? 老典座:「世界は何一つ秘蔵しません(徧界曾(かつ)て蔵(かく)さず)[5]
 
道元は、23歳の時に宋で出会った老典座から学んだことについて、『典座教訓』のなかで次のように云っている。「私が多少なりとも文字を知り弁道を会得できたのは、この典座の大恩のおかげである。これまでの経緯を亡き師匠、明全禅師に話したところ、明全禅師はただただ大変に喜ばれた」
 
参考資料ー「蓮の露」の良寛と貞心尼との相聞歌
 
 道元没後約五百年、永平録の「ことば」を読み、感涙にむせて書物を濡らしてしまったという体験[6]を漢詩「讀永平録」に詠んだのは良寛であったが、彼の漢詩や短歌には道元からまなんだ「ことば」がさりげなく読み込まれている事が多い。とくに良寛の弟子になることを志願した貞心尼とのあいだに交わされた次の相聞歌は有名である。(のちに貞心尼自身が編纂した歌集「蓮の露」に収録されている)
 
貞心尼:(師常に手鞠をもて遊び給ふると聞きて奉るとて)
これぞこれ ほとけのみちに あそびつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ
良寛:(御かへし)
 つきてみよ ひふみよいむなや ここのとを 十とおさめて またはじまるを[7]
貞心尼:(はじめてあひ見奉りて)
きみにかく あひ見ることの うれしさも まださめやらぬゆめかとぞおもふ
良寛:(御かへし)
 ゆめのよに かつまどろみて ゆめをまた かたるもゆめも それがまにまに[8]
 
菩薩の修道について
 
道元は在家出家を問わず「菩薩戒」を重要視した。小乗仏教のこまごまとした戒律ではなく、戒律の精神を生きること、とくに菩薩として生きる大乗仏教徒は、大乗にふさわしい戒律を生きるべきであるという伝教大師最澄の教えにしたがい、入宋にさいして小乗仏教に由来する「具足戒」を道元は受けなかった。男性出家者の場合は250戒、女性出家者の場合は348戒もある小乗仏教由来の戒律は、「・・・すべからず」という微に入り細をうがつ禁止条項をふくむ小乗仏教由来の戒律であり、道元の生きていた時代には単なる建前だけの慣行にすぎず、厳密にそれをまもるものは少なかった。
さらに「人は本来仏である」とか「一切の衆生は悉く仏の本性をもっている」という大乗仏教の根本的な教えは、戒律の事実上の無視を正当化する危険があった。道元は、労働を仏道修行に必要な修行として取り入れた百丈慧海、それにもとづく「禅苑清規」を参考にしつつ、日本の修行僧に適した清規を制定したのである。戒・定・慧を三学とする仏教の修道は、坐禅(只管打坐)を根本とし、禅定によって生まれる(あらゆる二元性と対立を越える無差別の)智の働きと、(一切の衆生を救済しようとする)菩薩行をすすめる「菩薩戒」にもとづくものとなった。
道元の修道論の根本的な特徴は、「修行は仏になるために行うのであって、一度悟りを開いて仏になればもはや修行は必要ない」と考えるのではなく、「本来人は仏であるからこそ修行するのである」というところにある。修行を証(悟り)の手段と見る二元的な見方を越えた「修証一等」ないし「本証妙修」が道元の修道論の根本であるが、従来見落とされてきたことは、修行は自分一人が成仏するためにするのではなく、一切の衆生が救われることを願って為されるのであるという「菩薩」の誓願があると云うことである。このような「大悲」の「誓願」が道元の坐禅の背景にあること、道元が「禅宗」という呼び名を拒否して、普遍的な救済をめざす大乗仏教の根本精神に立ち返るべき事を説いたことは、とかく禅宗の一つの宗派である「曹洞宗」の開祖として道元を位置づける仏教史家の陥穽ではないだろうか。
 
在家の修道者の行道の手引き─菩提薩埵四攝法について
 
 在家の信徒のために道元は様々な修道の手引きを残している。普通、在家の仏教信徒に要求されるものは、(1)不殺生(2)不偸盗(3)不邪淫(4)不妄語(5)不飲酒 の所謂五戒であるが、これらは消極的な戒律である。ところが道元は、菩薩道の実践を積極的なにするために、「・・・するな」という戒律ではなく「・・・・しよう」という積極的な「法」を説いた。それが「菩提薩埵四攝法」である。「摂法」とは「他者を真理に導く四つの法」というだけでなく、「四つをばらばらに実践するのではなく一つの統合的な法として実践しよう」という提言である。
その四摂法とは、(一)布施(ふせ)、(二)愛語(あいご)、(三)利行(ウぎよう)(四)同事(どうじ)である。
 布施とは、不貧(ふとん)(むさぼらないこと)である。むさぼらないとは、「人の気に入ろうとしないこと」、また「人の感謝をむさぼらないこと」である。道元は、「自分が捨てるつもりであった財物を、見知らぬ人に施すように、気前よく布施をする」ことを勧める。現在では、布施とは専ら在家者が出家者に与えることだけを指す意味となったが、道元の云う「布施」には在家と出家の差別はない。与えるものが軽少であるかどうかが問題なのではなく、それが相手の役に立つかどうかが問題なのである。道元は与える者と与えられる者を差別する二元性を突破して次のように云う。
「〔布施は〕自分を本当の自分とし、他者を本当の他者とするのである。布施の現わす力は、遠く天界や人間界にも及び、悟りを得た賢聖たちにも通じる。」
「舟を浮かべ、橋を渡すのも、布施の行いである。さらに深く学ぶならば、生きることも死ぬことも布施である。暮しの道を立てることも、生産に携わることも、布施でないものはない。」
「アショーカ大王がわずか半箇のマンゴーで数百の僧たちを供養して、供養の力の広大さを示したことを、布施をする人たちは、よくよく学ぶべきである。」
「衆生のこころを動かすことはむずかしい、そのため一財でも与えて、道が成就するまで導いて行くのである。それは必ず布施によって始めるべきである。そのため布施は、求道者が完成すべき六つの行為(布施、持戒、忍辱、精進、静慮、智慧)の一番はじめにあるのである。」
仏教の伝統では「愛」ということばは「執着」を示すものとして否定的な含意があった。しかし道元は「愛」に肯定的な意味をこめて「愛語」を「布施」とともに菩薩の法と考えた。
 道元の云う「愛語」とは、さしあたっては、「人に会った時に 慈愛の心を起して、やさしいことばをかけること」である。決して暴言や悪言を用いず、「お大切に」とか「御機嫌いかがですか」といって相手の安否を問うことを意味するが、それだけに留まらず、「愛」の「ことば」に深い宗教的な含意があることを述べている。
「仇敵どうしを柔らげ、徳のある人たちを仲よくさせるには、愛語がその基本である。向かいあって愛語を開く人は顔を歓ばせ、心を歓ばせる。蔭で愛語を聞く人は、肝に銘じて忘れない。愛語は愛心より起り、愛心は慈非心をもととしているのである。愛語が天をも回らす力を持っていることを知りなさい。愛語は、相手の長所をほめる以上のことなのである。」
西洋近代の功利主義は、自利と利他の計量比較によって「利」の最大をめざす社会倫理を構築しようとしたが、道元の云う「利行」は、自分の利益と他人の利益の差別、身分の高低による差別を越えた宗教的徳として語られている
 「利行というのは、身分の高い人に対しても低い人に対しても、相手の利益になることをすることである。例えば相手の遠い未来や近い未来に気をくばって、その人の利益になることをするのである。昔、ある人は籠のなかの亀を助け、ある人は病気の雀を介抱した。彼らはなんの報酬も期待せず、ただ利行をするという気持にかられて、それをしたのである。」
「怨みを持ったものに対しても親しいものに対しても、同じように利益を与えなさい、それが自分をも他人をも利することなのである。もしそのことがわかれば、草木風水に対しても、休むことのない利行がなされるであろう。真理の道を知らない人々を救うために、ひたすら努めなさい。」
日本人の社会倫理では、自分だけが特別であろうとしないこと、が重んぜられる。このような、出る釘は打たれる、ことを用心するような消極的な処世訓とは違って、道元の云う「同事」は、次のように他者に対する積極的な関わりを求める菩薩行である。
 「同事ということがわかれば、自分も他人も一体となるのである。白楽天の唱った「琴・詩・酒」は、人を友とし、天を友とし、神を友としている。人は琴・詩・酒を友としている。琴・詩・酒は、琴・詩・酒を友としている。人は人を友とし、天は天を友としている。このような道理を学ぶことが、同事ということを学ぶことである。」
 「同じ事をするということは、作法にかなった事、おごそかな事をすることであり、すぐれた態度を持つことである。それには、他入を自分の方へ回心させて、自分と同じことをさせることもあろうし、自分が他人と同じ事をすることもあろう。自他の関係は、時に応じて自由自在なのである。」
「管子がいっている。「海が大きいのは、水を拒まないからである。山が高いのは、土を拒まないからである。すぐれた君主が多勢の人を治めているのは、入をいとわないからである」。海が水を拒まないことが同事なのである。更には、水が海を拒まないことを知るべきである。」
「人が集まって国となり、勝れた君主を待ち望んでいる。しかし勝れた君主が勝れているのは、人をいとわないからだということを知る人は稀である、そのため人は、勝れた君主にいとわれないことばかり望んで、自分たちが勝れた君主をいとわないことには気がつかない。しかし、同事ということは、君主の方からも、凡人の方からも、両方からなされることである。
「従って、求道者たちは、それ(四摂法)を行うことを願うのである、どうかあなたがたも、柔和な顔をして、すべてのことに向かいなさい。これら四つの行いが、それぞれ四つの行いをふくんでいるから、それは十六の行いである。」
 
黄泉にまで下る菩薩の道ー道元の最後の在家説法と遺偈
 
建長五年(1253)、道元は波多野義重および弟子達の請願に従って上洛、西洞院の覚念の邸で病気療養のかたわら在家の人々に説法していた。ある日、邸中で経行しつつ妙法蓮華経神力品の巻を低声にて唱えた後、それを自ら面前の柱に書付け、その館を妙法蓮華経庵と名付けたと言われる(建撕記巻下などの伝承による)。そこには次のような言葉がある。
「僧坊にあっても、白衣舎(在俗信徒の家)にあっても、殿堂にあっても山谷曠野にあっても、この処が即ち是れ道場であるとまさに知るべきである。諸仏はここにおいて法輪を転じ、諸仏はここにおいて般涅槃す」
僧坊にあっても在家の弟子の家であっても、今自分がいるその場所こそが「道場」であり、宗教的な廻心〔轉法輪〕の場所であり、「完全な平和(般涅槃)」に入る場所であるというのが、道元の最期の在家説法の趣旨であろう。[9]
その翌朝、彼は居ずまいを正して次の遺偈を弟子達に残した。(建撕記)
五四年照第一天(五四年第一天を照らす)
打箇𨁝跳 触破大千(この𨁝跳を打して大千(三千大世界)を触破す)咦(にい)
渾身無覓 活落黄泉 (渾身に覓むる無し 活きながら黄泉に陥つ)
道元禅師の遺偈の「活陷黄泉」(活きながら黄泉に陥つ)という結びの言葉は、何を意味するのであろうか。この遺偈を単独で考察するのではなく、師の如浄と弟子の懐奘の二人の遺偈との関連で考察したい。六六歳でなくなった如浄禅師、八三歳でなくなった孤雲懐奘のどちらの遺偈にも「黄泉に陥つ」ないし「地泉に没する」の句があるからである。
如浄禅師の遺偈:六十六年 罪犯彌天 打箇𨁝跳  活陷黄泉 咦 従来生死不相干
(六六年の生涯、罪犯は天に満ちている。この肉体を打って、活きたまま黄泉の国に陥る。従来の生死は相干しない)
孤雲懐奘の遺偈:八十三年如夢幻 一生罪犯覆弥天 而今足下無糸去 虚空踏翻没地泉
(八三年の私の生涯は夢幻のようだ。一生の罪犯は弥天を覆っている。そして今私は足下に糸なくして去り、虚空を踏まえ翻って地下の泉に没する)
如浄─道元─懐奘 と受け継がれた一連の遺偈に通底するものを、徹底した菩薩行として、衆生の罪を一身に引受けて黄泉に下る菩薩の懺悔道と捉えることができる。菩薩の道は、一切の衆生を救済しようという大悲の誓願に基づいている。如浄から嗣法し、懐奘に伝えた道元の仏道は「見性成仏」を云う「禅宗」の禅ではなく、大悲の誓願に基づく菩薩行としての坐禅であったことは、如浄が道元に語った次の言葉が示している。
 
いわゆる仏祖の坐禅とは、初発心より一切の初仏の法を集めんことを願ふがゆえに、座禅の中において衆生を忘れず、衆生を捨てず、ないし昆虫にも常に慈念をたまひ、誓って済度せんことを願ひ、あらゆる功徳を一切に廻向するなり。(『宝鏡記』)
 
如浄の遺偈には「罪犯彌天」、懐奘の遺偈には「一生罪犯覆弥天」の言葉がある。この菩薩の懺悔は、衆生の犯したすべての罪を自己自身の罪として引き受けるところから発する言葉である。それこそが、自己と無関係なものは何一つない縁起の法を生きる菩薩の心であろう。
 面山瑞方が編集した『傘松道詠』に収録されている道元の道詠  
 
愚かなる我は仏にならずとも衆生を渡す僧の身ならん
草の庵に寝ても醒めても祈ること我より先に人を渡さん
 
もまた、菩薩行を説くものであるから、如浄から菩薩戒をうけて嗣法した道元、その道元との対話を記録した懐奘の遺偈もまた「黄泉に下る菩薩」の「行道」の言葉として読むことができよう。
 
脚注
 

[1] 「宗教研究」84巻4輯「宗教的共感の源泉ー東西霊性交流の場合」pp.205-6(2011)

[2] 「正法眼蔵三参究ー道の奥義の形而上学」岩波書店271頁(2008)

[3]雲衲とは衲(のう)(継ぎはぎだらけの僧衣)を纏った雲水(禅僧)のこと

[4] 當時の中国の1里はだいたい540メートルくらい。老典座は19キロ位の道のりを徒歩でやってきた。

[5] 「弁道(辯道、辨道)」とは「修道がなんであるかをわきまえる」ことと「修道に精進する」ことの二つの意味がある。「文字」とは、先覚者によって書きしるされた真理のことばである。

「世界は何一つ秘蔵しない(徧界曾(かつ)て蔵(かく)さず)」とは、森羅万象すべてが何一つとして「道」を説く対象にならぬものはないことを云う。「典座教訓」のなかで、特殊な少数の人にしか体験できない非日常的な場所に奇蹟や神秘を求めることをせず、台所仕事のような日常茶飯の世界の只中に顕現する真理の「ことば」を聴き、その「ことば」に活かされ生きる事を求めている。

[6] 春夜蒼茫二三更….慕古感今労心曲 一夜燈前涙不留 湿尽永平古仏録…..(読永平録)

[7] 「手鞠遊び」に興じる良寛に入門を願い出た貞心尼の歌への返歌。

「突きて見よ、一二三四五六七八九十(ひふみよいむなやここのと)を十とおさめてまた始まるを」は、道元の典座教訓の中の「文字(ことば)」についての問答を踏まえている。始(一)と終(十)がある手鞠遊びは10回ついただけでは終わらない。常に初心に返って修行を繰返す遊びの中に、「清規」の「ことば」に活かされ生きる修道の心を詠込んだ歌である。

[8] 道元の『正法眼蔵』に「夢中説夢」という巻があるが、そこでは、我々が堅固な実在だと思っている世界が、じつは夢の如き虚仮の世界であり、真の仏法の世界は、虚仮の世界の住人から見ると逆に「夢」のごとく見えるという言葉がある。顛倒世界においては、真実を説くものは役に立たない夢想家と見なされるが、道元は、むしろ「夢の中で夢を説く」ことの意義を理解しなければ、仏道はわからないと明言している。良寛の貞心尼への返歌も、「夢の中で夢を語る」ことの大切さをさりげなく示した歌と言って良いであろう。

[9]病中でありながら在家説法を続けていた道元によせて、私は、なぜか宮沢賢治が病死する直前まで農民の相談に乗っていたことを思い出した。晩年の道元は厳しい出家主義の立場であったといわれることが多いが、私は、道元は最期まで在家の信徒のことを忘れていたわけではないと思う。

 

参考文献

ポケット版 「聖ベネディクトの戒律」 古田堯訳  ドン・ボスコ社

 
 
道元禅師の「典座教訓」を読む  秋月龍珉著 春秋社
 
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キリスト教と日本人の心─内村鑑三の上杉治憲(鷹山)論

2019-10-07 |  宗教 Religion

「伝国の辞」と「視民如傷」-人民のための共和政治

参考文献:上杉治憲(鷹山)(1751-1822)の米沢藩政改革についての一次資料は、新貝卓次編輯『羽陽叢書』(明治15-16年、山形県刊行)であるが、内村鑑三が直接に依拠したのは、民権派の機関紙『朝野新聞』の主筆川村惇(1862-1930)著の『米沢鷹山公』であったと思われる。明治5年に西郷従道(西郷隆盛の実弟)と共に東北地方を視察し、米沢の地で名君として尊敬されていた上杉鷹山公の藩政改革の事蹟を知って大きな感銘を受けた川村惇が、『羽陽叢書』を抜粋要約して、全国の一般読者向けに纏めた著書が『米沢鷹山公』(明治26(1893)年、朝野新聞社)であった。そして内村鑑三の『代表的日本人』によって、米沢藩の窮状を救った鷹山公が、封建時代の日本の模範的な啓蒙君主として、欧米の読者に初めて紹介されることとなった。[1]

 1伝国の辞:日本史に於ける独自の共和政治の理念の表明

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私(われわたくし)すべき物にはこれ無く候

一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物にはこれ無く候

一、国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれ無く候

右三条御遺念有間敷候事   

これは天明五巳年(1785年)二月七日に上杉治憲(鷹山)が、次の藩主となるべき上杉治広に伝えた「伝国の辞」である。そこには、国家の歴史的な継続性、国家に属する人民の私物化の禁止、国家人民のために君主が立てられたのであって、君主のために国家人民が立てられたのではないこと、の三箇条が、米沢藩主の忘れてはならぬ心得として語られている。[2]

 2 「視民如傷」人民の父母たる君主の責務

鷹山の座右の銘は「視民如傷」であったが、これは江戸米沢藩邸で暮らしていた若き日の治憲が儒学の師、細井平洲から学んだ言葉であった。出典は『春秋左氏傳─哀西元年』の「臣聞國之興也、視民如傷、是其福也:其亡也、以民為土芥、是其禍也」あるいは、『孟子─離婁章句下』の「文王視民如傷、望道而未之見」と思われる。この言葉は、「病人を憐れむように民を良くいたわる」という意味に解されることが一般的であるが、内村鑑三は、「Be ye as tender to your people as to a wound in your body(民をいたわること、汝の体の傷のごとくせよ)」と英訳している。君主が人民の苦しみを、他ならぬ自分自身の体の「傷」として視るという視点は、それまでの漢学者の読み方を越えた新しい解釈と云って良いだろう。

 

3 滅亡の危機に直面した米沢藩の再建

米沢藩は、関ヶ原の合戦後、上杉景勝が当主の時(慶長六(1601)年)に徳川幕府によって米沢に移され、一二〇万石の大名から三〇万石に減封された。しかし、名家としての体面を保つために家臣団の数を減らさなかった為に、米沢藩は深刻な財政危機に直面し、負債が年々増加していった。夭折した三代目藩主上杉綱勝の後継者を決めるに際しての不手際が幕府によって咎められ、吉良上野介の長男が、養子として上杉家の家督を継ぐときに、一五万石に減封された。このとき、一二〇万石当時と変わらぬ数の家臣の給与の総額が一三万三千石に達し、歳入の九割近くが人件費となる異常な事態となり、米沢藩の負債の総額は、二十万両(現在の通貨で二百億円位)にもおよんだ。

しかしながら、米沢藩の重臣達は、格式と儀礼を重んじ、名家の体面を保つための出費を削減せず、領地の農民の年貢を厳しく取り立てる以外の方策を持ち合わせていなかった。生活苦のために領民の他藩への逃亡が絶えず、また間引きによる人口減によって、農民の数が著しく減少したために、第8代藩主重定は、藩の財政破綻を救うために領地を幕府に返上する案も検討したほどであった。

この時点で嫡男に恵まれなかった上杉重定は、日向国高鍋藩(上杉家と母方が遠縁であった)の次男が、きわめて英邁な子供であることを聴き、その子供が10歳になったときに、重定の娘、幸姫の婿養子に迎えた。これが後に第9代藩主となった上杉治憲(鷹山)である。 

4 治憲の誓詞

江戸桜田の米沢藩邸にて二歳年下の幸姫と共に暮らしながら、儒者の細井平洲から将来の藩主に相応しい教育を受けた後、十六歳で元服し、従四位下に叙せられ弾正大弼に任官し、翌年、明和4年(1767)十七歳のときに治憲は江戸藩邸にて上杉家の家督を継いだ。

治憲はこのときに秘かに米沢本国の春日神社に使を送って、つぎのような誓詞を奉納した。[3]

一 文学壁書之通 無怠慢相務可申候 武術右同断(文武の修練は定めに随い怠りなく励むこと)

二 民之父母之語 家督之砌 歌にも詠候へば[4]此事第一思惟可仕事(民の父母となることを第一の務めとすること)

三 居上不驕則不危 又恵而不費と有之候語 日夜忘間敷候

  次の言葉を日夜忘れぬこと 「贅沢(に驕ること)無ければ危険なし」「施して浪費するなかれ」

四 言行不斉 賞罰不正 不順無礼之様 慎可申候 

言行の不一致、賞罰の不正、不実と虚礼、を犯さぬようつとめること

右以来堅相守可申候 若於怠慢仕者 忽可蒙神罰 永可家運尽者也 仍如件

これを今後堅く守ることを約束する。もし怠るときは、ただちに神罰を下し、

家運を永代にわたり消失されんことを。 

5 自分自身の生活を改めることから藩の改革を始める

十七歳で家督を継いだ治憲は、藩政改革に熱心で藩主にも直言できる家臣を江戸藩邸に集めて、彼らの意見を聴取し、議論をつくさせた。その後に、江戸家老をはじめとして藩邸に居るすべての家臣を、身分の上下を問わず集めて、自らの決断を告げたのである。

彼は、まず藩主である自分自身が率先して無用な支出を切り詰めることから始めた。それまで1050両あった藩主の江戸仕切料(江戸での生計費)を209両に減額、奥女中を五十人から九人に減らし、一汁一菜、木綿着用という粗衣粗食の生活に徹したのである。更に名藩としての体面を保つための一切の虚礼(年間の祝事、神社仏閣の公的参拝などの煩瑣で形式的な宗教行事や贈答の儀礼的習慣など)を中止または延期することを宣言した。

 6 国元の重臣達の反発

江戸でのこのような治憲の改革の開始宣言は、米沢藩をそれまで取り仕切ってきた国元の重臣達の反発を買うことは必至であった。日向高鍋藩という小藩から婿養子として藩主となった元服したばかりの青年の藩政改革宣言は、高家筆頭の吉良家とも縁の深い上杉家の格式と礼法を重視するこれまでの慣例を無視するものと国元の重臣達は判断したからである。しかし、そのような重臣達の保守的な態度では、壊滅の危機に直面している米沢藩の現実を救うことはできないというのが、江戸藩邸にて治憲の考えに賛成して共に改革を開始した少数の家臣達の考え方であった。そこには家臣相互の反目もあった。

二年後、十九歳で自領の米沢にお国入りしたときの治憲については様々なエピソードが伝えられている。たとえば、領内の土地の荒廃と領民の逃亡離散による過疎化を直接目にした治憲は、藩政改革の容易ならざる事を覚悟したが、たまたま籠中の煙草盆の死灰の中に僅かに残る火を吹き立て、それを火鉢の炭に次々と移すことができたことを経験して、

「一身の辛苦を厭はず経営怠るなくんば、一国もまたかくの如く挽回の運に向かうべし」

という教訓を得たこと。また、あまりにも簡素なお国入りに藩の国家老達は、眉をひそめ上杉家の伝統に相応しい格式を守ることを若き藩主治憲に求めたことなど、国の重臣達の意向を無視して性急に改革を進めた若き藩主に嫌がらせがあったことを様々な資料が伝えている。 

7 治憲の新しい統治方式と国元の重臣達の造反

治憲は、自分の意向を無視しようとした重臣達に臆することなく、それまでの慣例を破り、足軽に至るまでのすべての家臣を自分の居城に招集して、藩政の窮乏の実態をあるがままに告げた。そして破産に瀕した藩の改革実現のためには、藩主になったばかりの自分の能力には限界があることを率直に認めたうえで、藩士全員の協力がどうしても必要なことを説いた。このように身分の上下に関係なく、すべての家臣を集めて、その前で、率直にあるがままの現実についての情報を公開したうえで、家臣団の協力を要請するというのが治憲の治世の新しい流儀であった。

治憲の大胆な藩政改革に対して、のちに七人の保守的な老臣が造反したが、当時22歳の治憲は春日神社に参り、平和的な解決の道を祈願したあと、家臣全体を集め、自分の政治が天意に反していないかどうか尋ね、その場にいた大多数の家臣から、治憲の改革に賛同するとの回答を得た後で、造反した老臣たちを処分した(二名に切腹、五名に隠居閉門と知行一部召上げを命ずる厳しくも果断な措置であった) 

8 藩政改革の基本

治憲の藩政改革の基本方針は、人民の幸福こそが統治の目的であるということ、それを実現する正しい統治のためには能力のある人材を適材適所に登用することが必要であること、単なる倹約や年貢の厳しい取立てによって財政を改善するのではなく、積極的な施策と投資によって人民の生活の安定を図ることにあった。 

9 敬天と愛民の心―仁愛と正義の実現

治憲は「民の父母」となる行政を実行するために、郷村の頭取、次席、群奉行を新たに任命するに際して次の文を書いて与えた。

〇 赤子之生無有知識、然母之者、常先意得其所欲焉、其理無他、誠然而已矣 誠生愛、愛生智

赤坊の生命は知識をまだもたないが、母親は子供の欲求を常に先に会得して世話をするものである。その理由はほかでもない、誠(内村鑑三の英訳はsincere heart=まごころ)が自然にそうさせるのである。誠が愛を生み、愛が智を生む

(Sincerity begets love, and love begets knowledge)

〇 唯其誠矣、故無不及、吏之於民、与此何異哉、誠有子愛民之心、則不患其才智之不及也。

唯その誠があるだけで、及ばないということはないのだから、官吏の民に応接する場合でも、これと何が異なっているだろうか。誠にあなたに愛民の心があるならば、才智の及ばないことを患う事はないのである。

治憲は、領内を十二分して十二人の教導の任にあたる出役を配し彼らに「飲食のこと、衣服のこと、婚姻のこと、法事のこと、葬式のこと、家屋修繕のこと、孤独を憐れむこと、孝行のこと、産業のこと」など、一々明細に人民を教える方法を示した。[5] また、教導出役の下に「廻村横目」という警察官を置き、「出役は地蔵の慈悲を主とし、内に不動の忿怒を含むべく、横目は閻魔の忿怒を表し、内に地蔵の慈悲を含むべし」と教えた。 

12 治憲の社会事業ー農地の開墾整備と治水灌漑・社会保障制度の充実・産業の振興・教育改革・医療改革など

〇米沢藩の産業政策として、領内から荒蕪地をなくすために、大地を神聖に扱い、農業を奨励するために「土地崇拝」の儀式である「籍田の礼」をおこない、土地の荒廃をふせぐための漆の木や楮の木を植えさせた。

〇十一里にわたる水路をもうける灌漑事業と、山に二百間のトンネルを掘ることによって河川の流れを変える事業を黒井という算術家を新たに登用して実現させ、荒蕪地を良田に変えることに成功した。

〇農民には伍什組合を設けて相互補助にあたらせた。その「仰出」の文には

「老いて子なく、幼くして父母無く、或ひは貧にして養子に疎く匹偶に遅るる、或ひは片輪にて身過しのなり難き、或ひは病気にて取り扱いの行立ち難き、死して葬をなし難き、又は火難に雨露を凌ぎ難き、変災に遇ふて家の立ち難き、かかるよるべなき者あらんには其の五人組身に引き受けての養ひあるべく、五人組にて行き届き難きは、住人組より力を任せ、十人組の力に及び難きは一村の救に其難儀を除き其の生涯を遂げしむべく候」

とあるが、これは伍什組合という治憲の考案した独自の相互補助組織による社会福祉政策の先蹤といえよう。

〇領地を日本一の生糸生産地にするために、奥向きの費用二百九両より五十両を削って、桑の植樹や養蚕業を奨励し、それによって米沢織の名を今日高めるに至った。

〇 藩校を再興し興譲館と名づけて、かつての師細井平洲を招き館長とし、奨学金を設置して、若き人材の育成に努めた。

〇 藩の医師を杉田玄白につかせて西洋医学を学ばせ、病院を設立した。また公娼制度を廃止して藩の風紀を正した。

 

13 家督の禅譲ー権力の座に長く居座らないこと

治憲は、天明5年(1784年)三十四歳の時に家督を前藩主の実子治広に譲って隠居した。これは権力の座に長く居座ることが、国家を私物化する悪弊を生むという彼の信念に基づくものであった。「伝国の辞」を遺して隠居した後も、治憲は新藩主を補佐指導したが、享和2年(1802年)に剃髪し「鷹山」と号した。文政5年(1822年)に七十歳で逝去した後も、彼は「鷹山公」として領民から名君として記憶され敬愛された。



[1] 米国のケネディ大統領が「最も尊敬する日本人は誰か」という質問に対して、上杉鷹山の名前を挙げたときに、その場にいた日本の新聞記者は上杉鷹山の名前を知らなかったというエピソードがある。

[2] 「伝国の辞」とともに、鷹山の歌「為せば成る為さねばならぬ何事も為らぬは人の為さぬ成りけり」も次の藩主に伝えられたが、これは『書経』太甲下編で殷の第四代帝王の大甲に補佐役の伊尹(いいん)が述べた忠言「弗慮胡獲、弗為胡成慮」(慮(おもんばか)らずんば胡(なん)ぞ獲ん、為さずんば胡(なん)ぞ成らん)」に由来する。

[3] 江戸の米沢藩邸に居た治憲が秘かに奉納したこの誓詞は、百二十五年後の明治二十四年八月にはじめてその存在が一般に知られた。

[4] 「受け継ぎて国の司の身となれば 忘るまじきは民の父母(ちゝはゝ)」という治憲直筆の書一幅が、現在米沢の上杉神社の宝物館稽照殿に遺されている。

[5] 内村鑑三が、十二人の「教導出役」を基督教の教区の巡回説教師に擬えている事に注意したい。

「神の国」を地上に実現しようとした最も貴重で勇敢な実例として、フィレンツェのサヴォナローラ、英国のクロムウェル、英国を追われて新天地アメリカに渉ったクエーカー教徒のウィリアム・ペンに匹敵する人物として上杉鷹山を位置づけているからである。基督教精神にもとづく人民のための革命を志した三名の英傑が夢見た「敗者をいたわり、おごるものを砕き、平和の律法を築く」王国によく類似した共和国が、「真のサムライ」である上杉鷹山によって、異教国の日本にもかつて存在したことを欧米の読者に伝えることが内村鑑三の鷹山論の執筆の目的であった。

 

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