歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

カントの「啓蒙とは何か」再読

2009-01-26 | 日誌 Diary
最近私はカントの「啓蒙とは何か」を再読して大いに感ずるところがあった。1784年に「ベルリン月刊」(Die Berlinische Monatdschrift)に掲載されたこの小論こそが、私に「公的」と「私的」の区別と関係を捉える新しい見方を示唆したのである。
 「啓蒙とは何かという問いに対する答え」として、カントは、端的に「啓蒙(Aufklaerung)とは<人間が自分の未成年状態から抜け出ること>」であり、そのためには「自分に本来備わっている理性を敢えて使用する勇気を持つ事」であるという。人が未成年状態に留まっているのは、理性が欠けているからではなく、理性的存在である自分自身に対する自覚が欠けているからである。この場合、「人」というのは、個人に留まるのではなく、国家や民族についても言いうるであろう。(敗戦後の日本などを見ていると、とくに国際政治の場に関しては、嘗ての「大日本帝国」の牙を抜かれたせいか、米国という後見人に守られた「未成年状態」に留まっているようだ。)
 この意味での「啓蒙」については、ここで贅言を費やす必要はない。そこには、ホルクハイマーやアドルノのような、ナチス以後のドイツのいうなれば民族の自信喪失世代の哲学者が指摘したような「啓蒙」概念とはちがった批判的かつ積極的なものがある。「啓蒙」が、決して暴力的なものではなく、自由と永遠平和を目指すものであることーこれこそが晩年のカントの実践哲学の根本を為すものである。
 そして私が注目したのは、「あえて賢明であれ」(Sapere aude)というカントが、人間の自由の証である「理性」を「公的に使用する」自由を力説している点である。「理性」を私的に使用することは場合によっては制限されることがあるが、理性の公共的使用は全く自由でなければならぬ。
 つまり言論の自由というのは、私が、一個人として「公的な」理性を使用する自由だというのである。これに対して、特定の宗教宗派の牧師とか、軍人などが自分の所属する組織の方針に従うために、個人的な意見を述べることは制限される場合がある。しかし、その場合、その特定の団体の規律に従う言論は、カントの基準では、あくまでも理性の「私的な」使用なのである。
 これはカントが言う公共的理性の使用が、あくまでも「私が考える」と言うところにあって、決して「私たちが考える」という集団に依拠するところにないことを示している。そういう一個の個人の立場に立って「私はこのように考える」ということを、公的に語ることこそが、真の意味での理性の使用である。なぜなら、各人は、一個の人格として初めて自由な存在なのであり、自己の思想と良心にしたがい、常に「私がその責任を負う」と述べることの出来る主体であるから。
 
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