歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

戦前に於ける隔離撲滅政策の批判-醫海時報より

2006-02-28 |  宗教 Religion
1930年、31年の醫海時報には、国際連盟の癩委員会幹事ビュルネ博士の報告「各国に於ける癩予防事業と国際協力」が連載されていた。青木大勇と林文雄の論争の背景には、国際的には、隔離政策の行き過ぎが反省され、隔離・監禁本位の療養所から、治療・研究本位の療養所へという大きな流れが生まれてきたにも拘わらず、当時の日本が絶対隔離政策を選択したという事情があった。

青木大勇の「癩の予防撲滅法に関する改善意見 追報」(昭和6年7月4日)には次のような文がある。
「絶対強制隔離が人道上から観て非難の聲あることは兎も角とするも、この為に隠蔽者を多からしめ、早期治療の機を誤らしむる外、前に高調したやうに、多数の癩患者を有する邦国では、言ふべくして実際に行ひ難いと云ふ事実事情の下にあることも打消すことが出来ないから、第一回の世界癩会議に於いては、隔離をもって對癩策の最上なるものと認めたにも拘わらず、第二回第三回と回数を重るに従って、隔離を人道上の罪とするもの多く、又絶対の強制隔離を非とするものが漸次多きを加え、近く開かれた『ゼネバ』の国際連盟癩会議に於いても、癩の隔離は『餘り酷しくしないやうに』と論議せられ、又、昨冬『バンコック』に於て開かれた国際連盟主催の癩会議に於ても、『隔離は癩予防の為に必要事であるが、その唯一の法となすに足らぬ、その欠点をば他の法を以て緩和せねばならぬ、而して唯伝染の危険あるものに対してのみ行うべきである』と結論せられ、これに参会した太田博士自身も、『我邦の如きに於ては、伝染の危険あるものは隔離し、その危険少なきか又は無しと見なさるるものは、外来治療を施すといふ点に於て、その標準の樹立をきわめて厳重にすることが出来る状態にあると思ふ』と云ふ意見を抱いて居らるることは、帰朝後、同博士が癩学会に於て報告された要旨(東京醫事新誌2718号)に見るも明らかである」
日本のらい予防法の制定に当たっては、第一回の国際癩学会の隔離政策が大きな影響を及ぼしていたが、そこでいう隔離政策とは基本的にはノルウェーで行われていたような相対隔離(条件付き隔離)政策であって、フィリッピンやハワイに於けるような絶対隔離政策は、人道上多大な問題を生むことが指摘され、また、疫学的な観点からも所期の効果が認められないとする意見が強まっていた。ビュルネの報告も又、そのような世界のらい医学の趨勢を踏まえたものであったが、日本の官立のらい療養所の医師達は、その報告に謙虚に耳を傾けたとは言い難い。彼等は、むしろ、日本こそが世界のらい医療政策の先端に立っており、日本独自の国内事情は、患者の絶対隔離を必要としていると確信していたのである。このような確信が、はたして、医学的に十分な基礎を持っていたのかどうか、それがまさに問われなければならない問題である。

青木大勇は、既に大正十三年の醫事公論誌上で(600号と601号)「癩療養所を隔離ー監禁本位より治療ー研究本位へ」という評論を寄稿していた。医海時報の論文は、それを更に敷衍したもので、その趣旨は「我邦の官立の癩療養所の現況は、隔離ー監禁本位であって、一度収容せられたが最後、一生彼等は此怖れ慄くべき小天地から一歩も世間に出るを許されず、懐かしき友には愚か、慕はしき肉親の親兄弟や夫妻子女にさへ、一生所外では会ふことが出来ないといふ悲惨の境涯に置かれている」ことにあった。青木は、当時の療養所の政策を次の如く批判している。
「一体、癩の予防と撲滅を期する療養所へ、仮令癩と診断されたからと云ふて、一も二もなくその伝染の危険程度と収容人員の関係とを考慮せずに、唯だ浮浪者であるから病菌を散布する憂が多いと見なして入所を強いるのは、所謂素人考への譏りを免れない取り扱い方法であって、行政官庁として甚だ好都合であろうが、伝染病としての癩の予防撲滅といふ点から科学的に考へると、全く本末軽重を誤って居る拙劣なる手段方法であると断ぜねばならぬ。」
この青木大勇の論文に対して、同じ醫海時報誌上で当時全生園に勤務していた林文雄が反論している。
「数年前までの(全生園の)深い掘とトタン塀は姿を隠した。掘は埋められ、トタン塀は健康人の迷入を防ぐために見る目も美はしい生け垣に変へられた。我々が、その外を歩むとき、内側を散歩している病友は「先生今晩は(ボーナンベスペーロン)」と習ひ立てのエスペラント語で挨拶するであらう。
しかく療養所は美しいものとなって来て居る。如何にして病院はかくも天国の如くなったか。その一原因は、
(三)(青木大勇)先生の説とは反対に、伝染の危険なき程度のものも解放しなかった事である。
療養所には作業がある。その健康に応じて彼等の作業は必要欠くべからざるもの二四種を越えて居る。例へば、大工がある。そして彼等の手で病棟、消毒室、何でも建設せられる。付添が居る。
 彼等は重症者に日夜侍して大小便の世話から、食事の世話から親身も及ばぬ看護をする。そして千五十人の収容者中半数は相当重症でも何らか作業をし、人のため為す所あらんとして居る。これは一方彼等の疾病療法の一たり得るのである。そして、そのなかには中枢として、印度、ハワイあたりでは、当然解放すべき軽症者が働いて居るのである。当院の如きは作業が多くてする人が少ない。
 この軽症者が重症者のために犠牲的に働くと云ふことが今の療養所をして監禁所に非ずして楽園としたのであって詳しくは「東雲のまぶた」に見ることが出来る。
 全治者を退院せしめよの聲は古くから何回も叫ばれた言葉である。しかしもしこの軽症者を退院せしめる時は、この作業のために健康者を雇ひ入れねばならぬ。今日の日本、癩救済の貧弱な予算でどうしてそれを雇ひ得よう。 患者は一日三銭、多くて十銭で全力を注いで働くのである。しかも同病相憐れむ心から、癩患者自身が癩救済の第一線に働くてふ使命感からの愛の働きである。(中略) 痛みつつも猶鋤をになふ作業、病友のために己を捧げて働く愛、それが療養所を潤し、實に掘りを埋め、トタン塀を除き、楽園を作らしめたのである。」

林文雄の反論の中でとくに注意すべき点がいくつかある。それは「印度、ハワイあたりでは当然解放すべき軽症者」であっても、日本の官立のらい療養所にあっては、重症者を介護するための貴重な労働力として役立たせるために退院させなかったという箇所である。ここには、そもそも、感染のおそれのない軽症者を退院させず、重症者の介護をさせることが、強制的に入所させた患者の基本的人権を侵害しているかもしれないという自覺がない。林は、この点ではむしろ率直に療養所の医師達のものの見方を吐露していたと言うべきであろう。彼等は単なる医師であったのではなく、隔離収容施設の管理者でもあった。日本という国家を「らいから浄める」ことを第一義的な目的としていた彼等からみれば、患者である限り、感染の危険の有無を問わず、すべて強制的に収容して、重症者の介護を軽症者に任せて人手不足を補うことは、療養所の安定した運営のために必要不可欠な事柄であった。患者達のかかる相互扶助の行為は「病友のために己を捧げて働く愛」の発露とみなされ、それが「療養所を潤し、實に掘りを埋め、トタン塀を除き、楽園を作らしめた」ものとして-らい療養所の日本的な美風として-賞賛すべき事柄として位置づけられていたのである。

岡野ゆきお氏の書かれた伝記によれば、林文雄は光田健輔を師とあおいだ敬虔なクリスチャンであり、生涯を救癩という大使命のために献身的な活動をした医師であった。その熱心な信仰と医療活動、患者のための文化活動への献身ぶりについては、倶会一処のような入所者自身が編纂した園誌にも詳しい。

この林文雄に限らず、戦前の日本の献身的なキリスト者が、世間の人が顧みようとしなかったらい患者の救済という使命に献身しながらも、なぜ、日本国家の絶対隔離政策の推進者となっていったのかという問題は、我々が考察すべき重要な事柄の一つである。
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