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西洋美術関連ブログ 思索の断片
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劇的空間!ローマ・ヴァチカン ~天才たちが鎬を削った美の饗宴~ 後編

2014-05-24 23:36:43 | 番組(美の巨人たち)

2014年5月24日放送 美の巨人たち(テレビ東京)
スペシャル後編60分 放送700回記念
劇的空間!ローマ・ヴァチカン ~天才たちが鎬を削った美の饗宴~

先週に引き続いてのイタリア最盛期の美術めぐり。
前回の焦点は主にラファエロだったが、今回はミケランジェロとベルニーニ
盛期ルネサンスからマニエリスム、そしてバロックへと移行してゆく各時期を代表する芸術家たちの特集だ。

まずはミケランジェロ。
ヴァチカンでミケランジェロといったらもちろんシスティーナ礼拝堂だ。


システィーナ礼拝堂内部

「システィーナ礼拝堂を見ずしては、およそ一人の人間が何をなし得るかということをはっきりと覚ることは出来ない」とゲーテが讃えたことは有名だが、この天井画制作の裏にはある「陰謀」があった。

当時ヴァチカンの芸術建築を一手に仕切っていたのは建築家のブラマンテ
ときの教皇ユリウス二世の命でサン・ピエトロ大聖堂を作ることになった彼であったが、その脳裏には当時急速に力を伸ばしていたミケランジェロの影が色濃くあった。

教皇がこの年下の彫刻家に心移りするのを恐れたブラマンテは、「彫刻家」のミケランジェロに天井画制作を命じるよう教皇に進言した。
ミケランジェロの天井画制作は必ずや失敗に終わると予測したブラマンテであったが、若い芽を摘むどころか、この作品が美術史上まれにみる大偉業として後世讃えられることになるのだから分からないものだ。


システィーナ礼拝堂天井画

また、天井画制作途中の出来をみたブラマンテはミケランジェロの技量に目をみはり、またもや、教皇が心移りしないよう今度はラファエロを呼んで絵画制作をさせたのだが、これがかの《アテネの学堂》を含む「署名の間」の作品群を生むことになる。
なんとも皮肉なことだ。

ちなみに、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の祭壇画《最後の審判》を描いたのは、天井画が完成した30年後のことであった。
老齢の芸術家が生み出したこの大作には、のちのバロック的ダイナミズムを先取りしているかのような躍動感がみられる。


《最後の審判》

さて、サン・ピエトロ大聖堂に話を移すと、この建築を任されていたブラマンテは志半ばで亡くなってしまい、彼のあとヴァチカンの建築事業を受け持ったラファエロも早世してしまう。
その後、しばらく大聖堂建築の計画は中断することとなった。

ついに建築計画が再興し、その責任を任されたのが、なんと当時71歳のミケランジェロであった。
因縁の「仇敵」ブラマンテが最初に着手した建築計画をこの老芸術家が受け持つことになるとは、歴史の皮肉を感じずにはいられない。

これが芸術家としての最後の事業となったミケランジェロは、いまやヴァチカンのシンボルともいえる「クーポラ」(丸天井)の完成をみずにこの世を去った。


サン・ピエトロ大聖堂

これ以降、イタリア美術はいわゆる「バロック」の時代に入ってゆくわけだが、この時代の寵児にして、現在ものこるローマ建築の大半を受け持った天才芸術家こそ、ベルニーニであった。

番組内では彼の偉業の数々の紹介とともに、ライバルと謳われた建築家ボッロミーニの作品も扱われていた。

ボッロミーニに関しては今回初めてその名を聞いたので、今後また機会のあるときに調べてみたい。

「芸術の都」から「劇場都市」へ。
ルネサンスからバロックにかけて西洋の美術をリードしてきたイタリアではあったが、18世紀に入ると、その覇権はフランスに移る。

しかしなお、巨匠たちの作り上げた花園は色あせることなく、イタリアの地に芳香を放ちつづけている。

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