2014年1月19日放送 日曜美術館(NHK Eテレ)
永遠の異邦人 ~藤田嗣治・知られざる実像~
現代は「グローバル化」の時代といわれる。
もともとはネットや経済の世界で使われる用語だったと思われるが、言葉が人口に膾炙してくるや、近ごろでは教育の現場にまで足を踏み入れてくるようになった。
都合のいい言葉だ。
逆にいえば、これほど実体のない言葉はない。
政府やマスコミが「グローバル化」と喧しく叫ぶとき、いつも疑問を抱く。
いったいどこを目指しているのか、と。
先日このブログで藤原正彦氏に言及した。
(→ 2014年1月14日の記事)
藤原氏の近著『管見妄語 グローバル化の憂鬱』の紹介文にもあるように、「『グローバル化』とは、米英の英語帝国拡大主義に他ならない」のである。
小学校から英語を教えようとする動きがある。
恐ろしいことに、流れはどうやら本格化している。
マスコミの「英語」の取り上げ方をみていていつも思うのは、なにやら英語を「ファッション感覚」で身につけようとしているのではないかということだ。
教育が時代の波に対応していくことは必須だ。
技術力の向上(たとえば電子黒板)とともに、教育現場が必要に応じて様変わりするのはもちろん大事なことだ。
ただ、英語は別だ。
小学校、あるいは幼稚園のころから英語を学ばせようとする学習方針の家庭は、それはそれで尊重しなくてはならない。
しかしなぜ、国の統制が入るのか。
米英の「亡霊」に勝手に怯え、ただ踊らされているだけのようにしか思えない。
どうして「必修科目」で教える必要があるのか。
もちろん、時代を担ういわゆる「エリート」には、母語以外の言語でも「戦える」力を備えておくことが必須であろう。
しかしどうして、わざわざ義務教育のカリキュラムという貴重な時間を割いて、英語に捧げる必要があるのか。
英語ができればそれはそれで越したことはない。
しかし小学校で教えるべき内容として、「優先順位」というのをよく考慮する必要がある。
英語は決して先頭には来ない。
明らかに「ファッション感覚」でやっているようにしか思えない。
言語学の専門的な見地からいえば、第二言語習得においては「臨界期仮説」というのが科学的に認められている。
すなわち、子供はある一定の年齢を過ぎると母語以外の言語の習得が、少なくともいわゆる「ネイティブ」レベルにまでは達しえないとされる考え方だ。
これは科学的に根拠があることだ。
だから先ほども言ったように、「そういう」方針の家庭は、それはそれで尊重すべきである。
しかし国が上から強制する意味もメリットもまったくわからない。
「枕」が長くなったが、いまの日本人が目指すべき、真の「国際人」のあり方を示したひとりが、藤田嗣治ではなかったか。
今回の番組タイトル「永遠の異邦人」というのはまさに言い得て妙である。
藤田は「世界人」を目指した。
あくまで日本人として、世界を渡り歩く。
番組内で紹介されていた内容によると、この思想は、藤田が『腕(ブラ)一本』という文書のなかで示しているものだそうだ。
講談社文芸文庫にその文書を収録したものがあるようなので、時間があるときに読んでみたい。
(→ 『腕一本・巴里の横顔』)
日本人として、日本人たる「礎」なしに世界へ出ていっても笑われるだけだ。
いわゆる英語ができてもその中身は"airhead"というやつだ。
ついでになるが、先ほども触れた番組タイトルの「永遠の異邦人」というのは複数の含みがある。
パリへ出向いた藤田は、当時のフランス人のなかにあって、「異邦人」であった。
日本人として、強く、生きようとした。
もう一つ、彼がフランスで名声を得てから日本に帰国した際、藤田は日本の画壇から冷たい視線を浴びた。
〈日本趣味かなにか知らないが、単に面白がられていただけ〉と馬鹿にされた。
故郷の日本に帰ってきても、彼は「異邦人」扱いされたのだ。
しかしこれは、のちに彼の作品に「プラス」に作用することになる。
「異邦人」たる藤田の目は、とりもなおさず「アウトサイダー」として物事を見つめるようになった。
一見何気なく過ぎてゆく日常が、藤田の目を通すと輝きを増した。
そのひとつの頂点が、このページのトップに貼り付けた《秋田の行事》である。
巨大な作品だ。
サイズもそうだが、藤田が西洋と日本で培った、古今東西の画風や精神、そしてそれをみずからの内で吸収して昇華させた、その結晶が、質的な「大きさ」となってあらわれている。
真の「国際人」、ここにあり。
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