明けない夜はない

膣ガンステージ、肝臓に遠隔転移あり。只今経過観察中。そんな私の心の叫びと、乗り越えて来た事、あれこれ。

回想シーン

2006-09-28 11:10:11 | 現在日記や、つぶやきとか
今日は、現在日記です



秋は、私にとって、大好きな季節
それは、私が秋生まれだからか。
とっても、優しく吹いてくれる、心地良い風のおかげか。
それとも、いつも、いろんな事が、降り掛かる運命にある季節だからか。

1年前の、今日は、痛みと出血に、耐えれず、
一つ目の病院へ行った日。
癌と告知されるまで、この日からかなり時間が掛かったけど。

あれから、1年。
あの壮絶な痛みを、思い出したくは無いけど、
振り返ると、早かった。

3ヶ月前の今日は、(ちょっと日にちがズレた)
放射線治療が終わって、退院した日。
治療がまだ続く、ホントの意味を、後に知って、
悔しくて、怖くて、震えながらも、現状を受け入れて、
前に進んでいこうと、決めた。

あれから、3ヶ月。
退院した頃は、まだ続く治療に、とても憂鬱だったし、
放射線を当ててた、両足の付け根が、ケロイドの火傷に
なって、痛くて、どうしようもなかった。
3ヵ月後なんて、想像する事が出来なかった。
でも、日々は過ぎ、すっかりキレイに皮膚が張り、
両足の付け根の火傷は、治った。
そして、秋が来た。今日がある。




ちょっと前、『皇帝ペンギン』の、DVDを観た。
皇帝ペンギンの、一生を描いたお話し。
弱肉強食な世界。弱い者は、蹴落とされる。
自然の摂理、生き延びられない者は、ふるいにかけられ、
命を落とす。
広い、雪の砂漠に、置いてけぼり。
医者も居ない。誰も、助けてくれない。

このDVDを観て、少し生きてると言う事、考えてみた。

私はどうだろう?
一度は、極限状態まで、行ったけど、
主治医Nが居る。担当医M女医が居る。担当看護師Yがいる。
医療チームの沢山の、技術がある。
支えてくれる家族が居る。いつもエールを送ってくれる友人、
仲間が居る。一緒に歩んでくれた夫が居る。
そんな皆が、私を助けてくれた。
そして、今がある。
今も生きてる。

久し振りに、ぼーっとしたくて、秋空を眺めに、行ってみた。
そこには、去年と変わら無い、天に伸びる高い空。

「うぉーん!又、もうひと頑張りしよう!

伸びをしてみた。
なんだか、雲に乗れそうな、気分になり、
心がフレッシュになった気がした、秋空だった。



写真は、ちょっと前に食べた

「たま木亭」

の、大好きなクリームパンと、
3ヶ月前、退院する時、担当看護師Yちゃんと、M女医が、
私の為に作ってくれた、『お疲れ様でした』の賞状。
そして、お気に入りスポットから見上げた、秋空。


2006年6月(やっと退院)⑥

2006-09-27 15:20:52 | 病気の経緯と治療とか
毎朝、起きて通ってる放射線治療。
それも、終盤に差し掛かろうとしていた。

33回の照射予定のうち、25回は、リニアックと言って、大きな範囲を、
太い線で外から当てる方法。(お腹方面からと、お尻方面から)
そして、残りの8回はブーストと言って、患部に小さな範囲で、外から、
横向きに、細い線で当てる方法。
放射線治療が始まった頃の、話はここ

リニアックを25回当てた頃には、火傷がピークで、外陰部、肛門付近まで、
皮がめくれて、熱を持ってるような、感覚。
排泄、排尿するのが、かなり困難な状態に。
それに加え、両足太ももの付け根が、酷いケロイドの、火傷になり、歩くのも痛い。
皮が、広範囲に渡ってめくれて来て、痛いの、なんのって
パジャマのズボンを履くのも、摩れて痛い状況。
こんな時、スカートのパジャマがあれば・・・。と、考えてみたり
マタニティードレスでも、着れば良かったんだけど。(えっ?)

薬剤部からもらった、お薬2種類。
火傷の熱を鎮める塗り薬と、ステロイド入りの、軟膏。
軟膏は、粘着タイプで、油分が入ってるから、ちょっと塗ると気持ち悪い
いつも、交代で巡回してくる看護師さんが、

「火傷の部分、自分じゃ塗り難いだろうから、私達塗りますので、
 気軽に言って下さいね」

そう、気遣って言ってくれたけど、ちょっと恥ずかしくて。

塗っても、塗っても、すぐには治らなかったけど、毎日3回塗ってねと、言われ、
塗る場所が面倒なんだけど、約束を守って、トイレで1人塗った。

リニアックで肛門付近に、直接当たっていた、放射線。
ブーストになり、横手から当たる事もあって、肛門付近の火傷は、
徐々に薄い皮を張り、治って来ていた。
でも、両足太もも付け根の火傷は、ヒートアップして来ていて、
寝ても、立っても、座っても、痛い状態。皮はべろーんってめくれるし、
痛くて、熱いし、もう、勘弁してって感じ。
でも、もうひと頑張り。
8回のブーストが終わったら、放射線照射は、終了
そして、退院予定

放射線33回目の朝、最後の照射に出掛けた。
そして、最後の照射が終わった時、
2ヶ月もの間、お世話になった、放射線のスタッフに一礼して、
高エネルギー室を後にした。
嬉しい反面、ちょっと淋しかった
でも、あんなに長かった放射線、やっと終えたよ
10合目、達成したよ

放射線治療の、詳しい事は、こちらを参考にして頂ければ、
よく解ってもらえると、思います。

===================================


放射線照射中に、主治医Nは、抗がん剤治療を2クール行う予定にしてたけど、
やっぱし、骨髄抑制が出て、時間的に無理。
入院中には、結果1クールしか、投与出来ず終いに、なった。

放射線照射も終わり、後はCT検査と、内診で、退院出来るか判断。
退院予定日(自分で数えて、勝手に決めてた日)まで、あと2日
早く、家に戻りたい

自分で勝手に決めた予定日の、前日、CT検査が予約され、「造影剤同意書」
に、サインを
検査室は、1F。6Fの病棟から、少し離れてる。

CT自体、寝てるだけで、検査は終わるんだけど、その際に注入する、「造影剤」
これが、とっても嫌い。
もう、何度も受けてるから、慣れても良いもんだが、慣れない。あの感覚。
造影剤を注入後、お尻の付け根の方へ来る、あのカーッってした、熱い感じ。
やがて、血管を巡り、体全体が、熱くなる。

検査は終わり、「造影剤を受けた方へ」と書いた、注意書きをもらい、
病室へ戻る。その注意書きには、

「なるべく、水分を多目に摂って、造影剤を体外へ出して下さい」

と、書いてあった。
あー、火傷してるから、何度もトイレには、行きたく無いんだよなー・・・。
そう思いながらも、いつもより多目の水分を摂り、痛いのを我慢しながら、
体外へ、造影剤を出す作業を、した。

そして、目覚めた6月最後の金曜日。私の、勝手に決めてた退院予定日。
ワクワクしながら、主治医Nに、聞いてみた。

「この前、放射線終わって、CT検査終われば、N先生、退院しても良いって、
 言ってたでしょ?明日、明後日は、休診だし、今日退院しても良い?」

その問いに、すんなり、

「OK!良いよ。」

って、言ってくれると思ったら。
何やら、渋い顔付き。

「ちょっと、クランベリーさんの事、医療チームで話さないといけなくてね、
 悪いんだけど、もうちょっと、ここに居てくれないかな?で、月曜日に病院へ
 戻る時、話があるから、旦那様も一緒に来てくれる?」

と、言われ、一気にテンション
なに?まだ私、入院して治療しなきゃ、ならない理由があるのかな?
ちょっと、不安。
そして、なんだか、何かを隠してるみたいな、予感

そう言われ、渋々まだ入院生活、続く事に。
と言っても、明日、明後日は土日。月曜日に、又病室へ戻る約束で、外泊OK。

そして、病室に戻った月曜日、火傷が痛くて、歩くのも困難
トイレに行く度、ズボンや下着の上げ下げが、摩れて痛い。
そんな中、呼び出しが掛かった。

「退院を決める、最後の内診をするので、処置室へ来てね」

そう言われ、火傷が痛いので、両足太もも付け根をかばいながら、処置室へ。
痛くて、ちょっとそこまで、歩くのもやっと。
それなのに、内診なんて、出来ないーそう、心で思ってた。

私は、入院した時、N教授に診てもらったので、退院を決める判断をするのも、
N教授の内診。ちょっと、怖い。又、ギャラリーが出来るのかな?

丁度、そこに、担当医M女医が居たので、

「むっちゃ、火傷が痛くて、内診台に上れないかも、知れへんの」

そう言うと、M女医はその旨を、N教授に伝えてくれて、N教授が私に、

「火傷が酷いんやって?そしたら、内診台には、上らなくても良いし、
 ベッドに横になって、患部を見せてくれるかな?私は責任者だから、
 ちゃんと、診ておきたいんだよ。そして、退院OKのサインを出すからね」

そう言われ、火傷で酷く、醜くなってるのを、N教授に診てもらい、

「よく、ここまで頑張ったね。今は火傷痛いけど、日にち薬で、皮が張って来て、
 良くなるからね。当初(11月)に比べたら、雲泥の差やで!お疲れ様!退院OK」

そう言われ、晴れて退院出来る事に。
でも、これから、主治医N+担当M女医+担当看護師Yとの、ムンテラが予定されてた。
だから、退院は、翌日に先延ばし。まずは、ムンテラ。

==================================
あらかじめ、夫と一緒にと、言われていたので、少し緊張
部屋に入ると、主治医N、M女医、看護師Yが、待っていた。

病状の話しが始まり、頷く私達夫婦。
こないだ撮ったCTの画像と、11月に入院した頃に撮ったCT画像を見比べて、
説明してくれた。

放射線は、すぐに効果が見れないので、これから、定期的に検査を重ね、
予後を、診ていくと言う方針に。

こないだやった、「パッチン検査」の結果は、もちろん大丈夫。
治療したのに、今黒だったら、困るけど。

あれだけ痛みを持って、ここの病院の門を叩いた去年の11月。
今、癌の痛みは一切無い。
劇薬+麻薬と言われ、服用していた「オキシコンチン・モルヒネ」とも、
もう、おさらば。
火傷は、むっちゃ痛いけど、私ここまで、乗り越えた。
私は、調子に乗って、主治医Nに、

「退院して、お酒って飲んで良いですか?」

と聞いたら、

「良いんじゃない?退院祝いくらい、飲んだらええやんよく、8ヶ月間、
 頑張って、治療してくれたね!お疲れ様」

そう、笑って言ってくれた。
退院祝いくらいなら、飲んでも良いのか!嬉しい
一気にテンション

でも、その後、少し顔をしかめながら、主治医Nは話を続けた。

「でも、もう少し、癌の予防と全身治療の為に、抗がん剤治療を、続けたいんだけ
 ど・・・。予定してるのは、3クール、答えは、すぐに出せなくても良いから、
 考えておいて、くれないかな・・・。次の外来で、答え聞かせて」

えー?まだ、私治療が続くの?予防ってなに?なんで、又抗がん剤?
そう思ったけど、入院中に、1クールしか投与出来なかった事を、思い出し、
仕方無いと、心に言い聞かせた。

その夜、「お疲れ様でした」と称して、担当看護師Yちゃんと、担当医M女医が、
私宛と、家族宛に、賞状を作ってくれた。
その気持ちに、とっても感動した。
まだ、少し治療は、続くにせよ、8ヶ月間、走って来た私は、泣けて来た。


でも、私は、この3クールに、本当の理由があるのもこの頃は知らずに


退院の朝、同室のYさんと、Iさん、祝福してくれた。
Iさんは、いっぱい泣いてくれて、

「私、クランベリーさんが居なくなったら、毎日1人で泣いてしまうよ!
 残っててって、言えないけど、居なくなるのは、淋しい!」

そう言って、私宛に、手紙をくれた。
そこには、まだまだ、病気を受け入れられない、恐怖の気持ちがいっぱい。
私も、最初、こんな気持ちだったな。そう思いながら、家に戻ったら、
いっぱい返信を書こうと、決めた。

Yさんは、割りにあっさり、見送ってくれて、

「又、外来や、治療で会うかも知れないもんね!そん時は、話そうね!
 元気で、頑張るんだよ~!」

そう言って、背中を押してくれた。

IさんYさん、どうもありがとう
医療チームの皆さん、どうもありがとう
主治医N、担当医M女医、担当看護師Yちゃん、どうもありがとう
私、退院します

次へ続く

長文、最後まで、読んで下さり、ありがとうございました

卵巣ガンの未承認薬の保険承認への署名に御協力下さい。

2006-09-26 23:15:49 | 卵巣ガン未承認薬の保険承認への署名
★卵巣ガン体験者の会スマイリーからのお知らせ★

==手書き署名、9/25から開始です!!ご協力ください。==

 日本では未承認である、抗がん剤の早期承認および、
卵巣がんの治療に関しては保険対応外である抗がん剤の保険対応を
求めての署名活動をしています。

****************************
 先日は「卵巣がん治療に関する要望ネット署名」にご協力いただき、
ありがとうございました。皆様のご協力で1,408名の(8月末日現在)
ネット署名をいただくことが出来ました。

この活動は、「卵巣がんネット患者会」として運営していましたが、
この度、代表のすずきさんがご自身の都合により代表を辞任されたことから、
残された会の会員で話し合いを重ねた結果、同じく卵巣がん患者に対しての
活動を目標に準備が進んでいた「卵巣がん体験者の会スマイリー」と
一丸となり活動を進めて行くことになりました。

それに伴い会の名前を「卵巣がん体験者の会スマイリー」と変更していますが、
活動としては今までの「卵巣がんネット患者会」の活動主旨を継続し、
署名活動を最優先課題として行いますので、活動の内容は今までと変わることは
ありません。

今後も、卵巣がんの治療に関して、日本では未承認である抗がん剤の早期承認
および、卵巣がんの治療に関しては保険対応外である抗がん剤の保険対応を
求めての署名活動を継続していきます。

会としての活動や進捗状況など、詳しくはホームページをご覧ください。
http://ransougan.e-ryouiku.net/index.htmlこちら

体制が整いましたので、しばらく停止していたネット署名を再開しています。
また、文書による「署名用紙を印刷できるようになりましたので」
”9月25日、午前10時”より署名用紙が印刷できる予定ですので、
もし、今後も賛同いただけるのであれば、手書き署名にもご協力いただける
ように紹介していただければ幸いです。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

「卵巣がん体験者の会 スマイリー」
http://ransougan.e-ryouiku.net/index.html こちら代表:片木 美穂

======================================================
卵巣がんは発症者数が少なく、年に6000人余りと言われていますが、
肝臓と同じく沈黙の臓器である卵巣の性質上、気がついたときには
すでに厳しい状況の女性が多いです。
今、会には治療中の会員も多く、患者だけが頑張って活動するのは難しいです。

ですので、皆さんのお力が必要です。
どうか「見守る」のではなく、「協力して」ください。
どうか、会社やお友達に署名を頼んで見ていただけませんか?
HPを持っているお友達に呼びかけて見てくれませんか?

どうか数少ない卵巣がんのみんなの思いを届けるためにご協力お願いします!!

この文章の、コピペでも構いませんのでどうか呼びかけていただければ幸いです。

==================================
↑の文章は、オレンジ・みかんさんのブログから、引用させて頂いております。

遅ればせながら、先日ネット署名を、送信させて頂きました。
部位は違うけど、同じ癌患者として、私に出来る事と思い、掲載させて頂きました。

署名が、まだまだ足りません。このブログを見て、「協力」したいと、
思って下さった方、どうか、力を貸して頂けませんか?
よろしくお願い致します。





2006年6月(入院中)⑤

2006-09-24 20:54:45 | 病気の経緯と治療とか
足踏み状態の治療から、抜け出し、「ノイトロジン」のおかげか、
白血球が上昇してくれた。
これで、6クール②回目、③回目と、予定通り、抗がん剤を打てる運びとなった。
この前、カーテンの隣で、Yさんがアレルギー反応出たのを見て、
とっても、ビビっていたけど、アレルギー反応と言うのは、
大概、初回に出るらしくて、主治医N曰く、

「クランベリーさんは、絶対大丈夫アレルギー反応は、心配無し

と、言ってくれた。ちょっと、安心

しかし、放射線を照射してる事により、骨髄抑制が出て来ているので、
薬の量は、いつもの2/3量、ギリギリまで絞られた。
だからなのか、今までよりも、副作用が軽い
1番、軽いなと感じたのは、『脱毛』だった。
あの頃のように、バサッと束では、抜けない。
だから、ひよこのように、髪がちょびちょび伸びていた。
でもでも、まだ帽子は、必須アイテム
そして、吐気は、いつも通りやって来たけど、吐気止めの「ノバミン」と、
「ナボバン」服用で、幾分かマシに。

マシにならずに、どんどん進んでいくのが、放射線の副作用の火傷。
段々、熱いのが、痛みに変わっていくのが解る。
そして、火傷の範囲も、広範囲に。
こうやって、病変部に、効いていくんだね。
外陰部周辺は、かなり、ヒリヒリ。内診するのも、やっとな状態。


同室のIさん、Yさん、私の治療時、いっぱい心配してくれたね。
どうも、ありがとう
こうやって、お互いに励まし合い、一緒に進んで来たよね。

そんな中、Iさんは、食中毒に掛かり、ずっと高熱にうなされてた。
原因は、不明?らしく、薬も中々処方してもらえない中、
消灯まで、ずっと一緒に話したね。
あの時、いっぱい話し聞いてくれて、嬉しかったんだよ
Iさんも泣き虫、私も泣き虫だから、一緒に泣いたね
それも、今では思い出に

入院中、1番嫌だった検査、それは『組織診』通名『パッチン検査』。

それは、病変部の肉を、もぎ取り、調べる検査。

普通の方なら、多分麻酔無しで、行われる。
でも、私の場合、病変部に、血管、神経が集中していた為、
かなりの痛みが考えられ、麻酔をしてもらい、行ってもらう事に。
その大嫌いな『パッチン検査』を、近々するからと、主治医Nに言われた。

「今日かな?明日かな?」

と、びくびくしながら、日々を過ごし、ついにその日がやって来た。
朝の回診の時、主治医Nが、

「今日、パッチン検査やるから!」

そう言い残し、その日1日、ドッキドキ。

夕方過ぎに、インターホン越しに、呼び出しが掛かり、渋々診察室へ。
火傷が痛いから、ほんとは、嫌なんだけどなーって、主治医Nに言ったら、

「いつか、絶対やらなきゃならない検査。だから、辛抱して」

と、言われ、しばし頑張る事に

今日は、担当M女医が、勉強の為、内診+検査をするみたい。
(えー、実験台か?
横で、主治医Nがあれこれ、指示を出し、M女医がそれに従って、
行ってくれた。
ちょっと、時間が掛かったけど、丁寧に診察してくれて、痛くなかった。

さて、いよいよ、パッチン検査

病変部(膣)に、麻酔の注射を打つ。何度も、何度も、角度を変え、打つ。
病変部の皮膚が、硬く変化してるから、余計に針を刺すのが痛い。
(まるで、鳥の軟骨みたいに)
でも、麻酔が効いてくると、全く感じない。
そして、肉をもぎ取る。痛みは無いけど、冷たい器具の感触は、解る。

「パッチン」

そう、音が3度鳴った。
どうやら、3部分、もぎ取ったようだ。

「ちょっと、出血してるから、今日はお風呂、控えてね」

そう言われ、検査が終わったのが、解った。
麻酔をする注射が痛かったけど、幾分かマシ。
やっと、終わった


放射線照射も、8合目に差し掛かった頃、主治医Nは、7クール目の、
抗がん剤を、考えていた。
でも、放射線を当てれば、当てるほど、下降する私の血球値。
骨髄抑制が、進行する
又、治療が足踏み状態・・・。

「この先、どうなるんだろうか退院出来るのか?」

そんな不安を抱きながら、日々過ごしていた。
退院予定日まで、後もう少し

次へ続く

2006年6月(入院中)④

2006-09-21 13:32:14 | 病気の経緯と治療とか
1つ、書き忘れた事があった。

大学病院と言う場所は、先生が早いローテーションで、変わる。

去年の11月から、この病院へお世話になり、主治医、担当医よりも、
可愛がってくれた、病棟医長I先生が、居た。

いつも、見回っては、声を掛けてくれたり、元気付けてくれたり、笑わせてくれたり、

「調子はどーや?いけてる?」

絶えず会話を、してくれたI先生。告知を家族と、私にしてくれたI先生。
いつも、売店では、缶コーヒーを、買っていた、I先生。よく、出会ったね。
ちょい悪おやじ系な、I先生。
聞く所に寄れば、昔は、カナリな、ヤンキーだったとか。
そんな、大好きだった、I先生が、転院された。
とっても、淋しくなった。

それに加え、私に付いてくれていた、担当医の女医S先生も、4月で転院。
いつも、優しく微笑み掛けてくれて、針刺しは、名人級
指名したくなるほどだった。
でも、さよなら
せっかく、打ち解けたって思えたのに、出て行っちゃうのね。悲しい

5/8に入院した時、新しい担当医と言われる、先生が挨拶にやって来た。
マタマタ、女医さん。今度の先生は、S先生よりも、とーっても、庶民的で、
気さく、隣のお姉ちゃんみたいな、存在の先生だった。
人見知りする私も、すぐに打ち解ける事が出来た。
これから、お世話になりますね。M女医さん。
聞いてみれば、M女医、年は私よりも3つ下。

空いた婦人科病棟医長の、ポストには、主治医N先生が、納まることに。
主治医N先生、又忙しくなったね。

これで、私の側には、主治医N先生、担当医M女医、担当看護師Yちゃんが、
付いてくれる事になった。


いつものように、朝イチで放射線を当てて、帰って来たある日、
事件が発生
何やら、病棟の廊下が、騒がしい。
私の部屋は、1番隅っこだから、歩いて近付いていくと、
段々騒々しさが、ピークに。

病屋の前には、心臓マッサージとかする、SOSセット?みたいな、
赤いワゴンが、置かれていた。こんなの、見たのは、初めて。
恐る恐る、病室へ入ると、カーテン越しに私の隣の患者さん、Yさんの周りに、
先生方が、ずらーーーっと。看護師さんも、数名居てた。

後から、事情を担当医M女医に聞いてみたら、
なんと、抗がん剤で、アレルギー反応発生。少しの間、気を失ってしまったらしい。
でも、薬を投与止めたら、すぐに息を吹き返し、バイタルも正常値に。
Yさんは、57歳のおばさま。手術を行い、その後、
今日が、人生初の抗がん剤だったようだ。
抗がん剤の薬は、なんと、私と全く同じ。
カーテン越しに、とっても怖くなり、震えてしまった。

私は、6クール②回目を、数日後に予定していたので、
もしかして、自分もこうなるのでは、無いか?と、かなり怯えてしまった。

この事件が、きっかけとなり、それ以降、Iさんに加え、Yさんとも、
毎日、話が出来るように、なった。
又、1人仲間が増えたよ
聞くと、Yさんの息子さん、私と同じ年。
なんだか、私を見て、娘みたいに、思ってくれた。

数日後、私は6クール②回目の抗がん剤を、投与する為、採血を行った。
うちの病院、採血は、早朝と決まっていて、(6時)まだ眠い、目をこすりながら、
血をとられた。

結果、放射線照射の影響もあり、骨髄抑制が徐々に出ていて、
すぐには、打てない状態。
白血球を上げる為、「ノイトロジン」を、看護師さんに、打ってもらい、
上昇を待つ事に。

「これで、びしばし、上昇してくれるからね。心配無し!」

この注射、他の注射よりも、チクっと痛い。

今まで、順序よく、計画的に治療が進んでいたのに、
ちょっと、足踏み状態。
焦る気持ちもあったけど、今は自分の体が大事。

来週早々に、次回の投与予定が、組まれた。

次へ続く







2006年5月(入院中)③

2006-09-19 14:58:15 | 病気の経緯と治療とか
90歳の、おばあちゃまが退院して、すぐにそこへ、違う患者さんが運ばれた。
同じ部屋なのに、あまり見えなかったけど、チラッって見るに、
とても、若そうな予感。お友達になれるかな?
でも、とっても、体、辛そうだった。

彼女は、毎日検査三昧で、点滴をし、輸血も行っていたので、
自由が利かなかった。そして、病名も病状も、私には解らなかった。

そんなある日、消灯過ぎの、私達の病室で、しくしく泣き声が、聞こえた。
最初は、何の音か解らなかったんだけど、耳を澄ますと、それは、やっぱり、
人のすすり泣くような、泣き声。
他の患者に、聞こえないように、声を押し殺して、泣いてる。
発信元は、彼女だって、すぐに解った。
カーテンの向こう側で、声をかけたいのに、掛けられない私。

「きっと、さっきのムンテラで、辛い事、言われたんだね。
 私でよければ、話聞くよ!」

心で、叫ぶも、声にならず・・・。

翌日。
いつものように、朝イチで放射線に通う。
すると、放射線の待合室に、彼女が居た。
放射線を当てるって事は、同じ病気かな?

今日まで、知らなかった。いつも、すれ違ってたんだね。
私を見て、彼女、すぐに話掛けてくれた。

「同室のクランベリーさんですよね?私実は、ずっとお話したかったの。
 だって年代が近い患者さんって、周りに居ないでしょ?
 やっぱ、年が近い方が、気持ちも解ってもらえるかな?って思ってね。
 担当看護師Tちゃんから、クランベリーさんの事、お話聞いてたんです。」

え?私の事、聞いてた?しかも、看護師Tちゃんから?
(担当看護師Tちゃんは、彼女の担当看護師)
それって、プライバシーに、反するやーん!とか、細かい事は、抜きにして、
とっても、嬉しかった

放射線治療を前に、待合室で、盛り上がる2人
彼女Iさんは、話してみると、5つ年上で、高校生の息子さんが1人居るらしい。
主治医も一緒。(担当医は違うけど)部屋も一緒。治療も一緒。
又私は、1つ殻を破る事が出来て、入院生活が、ある意味楽しくなった

そんな明るくなれたよな、ある日、私にも、異変が。
順調に進んでた、放射線治療。どんどん、副作用が出て来る。
まずは、下痢。
私の場合は、そんなにキツくは無かったんだけど、明らかにユルい。
元々、他の薬の影響で、私は難便になっていた。(便秘?)
だから、おトイレとお友達ってくらい、辛くは無かったけど、
何度も、何度も、トイレに行き、肛門が切れるかと、思ったほど。

放射線を照射した部分は、徐々に火傷に変わっていき、
(骨盤・大腿骨)
排泄、排尿に、かなり支障をきたしていた。
でも、まだ後半分は、照射が残ってる。
やっと、5合目か。山のてっぺんまで、ふんばらなきゃ

私は今回の入院で、放射線照射の他に、しなければいけない、治療が幾つかあった。
それは、麻薬(劇薬)痛み止め

「オキシコンチン」

の数を減らし、無くならす事。
1日で最大200mg飲んでいたオキシコンチン。
服用は、徐々に減っていき、この時30mgまで、減らせた。
退院までに、0を目標に、もっていきたいらしい。

それと、もう1つ。最大の、治療。
放射線照射と併用して、抗がん剤投与
主治医の予定では、入院中(放射線照射中)に、2クールの投与を、
予定していた。

癌告知された11月から(この病院では)ずっとこの治療を、主治医は、
私に、したいと、思っていた。
でも、当初は腫瘤がかなり大きかった為、抗がん剤で小さくし、やっと今、
当初の目的だった、放射線+抗がん剤治療に、こぎつけた。

この治療方法は、手術と同じくらいの効果があるらしく、
私にとっては、半年経ったこの頃、初めて大きな治療を受けてる事になる。

抗がん剤の投与方法は、今までと同じく、TJ weekly chemotherapy。
(タキソール+カルボプラチンのブレンド)

この時、6クール目を投与する事となった。
6クール①回目、採血の結果、問題無く抗がん剤投与。
この頃の目に見えての副作用は、吐気、倦怠感、爪の色の変色、くらいだろうか。

放射線照射を行っているとの事で、投与量は、いつもの3/4の量に、抑えられた。
だから、脱毛は、あまりなかった。
放射線の副作用の下痢は、ピークを脱し、代わりに火傷が、日に日に酷く、
なっていった。

私の副作用も、辛くなっていったけど、そんな中、Iさんと話す時間は、
とっても、楽しく、お互いの励みになり、元気がモリモリ沸いてきた


次へ続く







2006年5月(入院中)②

2006-09-17 15:24:40 | 病気の経緯と治療とか
今日から、放射線治療開始

昨日、スタッフの看護師さんが、照射する機械を、見せてくれたおかげで、
少し、不安が取り除かれ、心はリラックス出来ていた。

病院の朝食は8時で、やや遅め。
のんびりしてると、洗面所も混むし、おトイレも混む。
私は性格的に、のんびりタイプなので、朝だけは、とても慌しい

入院患者の、放射線照射は、朝イチで呼ばれる為、さっさと、準備しないと、
遅れてしまう

6Fの婦人科病棟から、1F僻地の「高エネルギー棟」までは、ちょっと距離がある。
だから、私は放射線科から、呼ばれても、いつも少し遅れて行ってしまう、
迷惑な、患者その①だった。

さて、治療開始。
中待合で、少し待っていると、紫の扉の部屋、リニアック①室へ、呼ばれ行く。
そこには、硬いベッドのような物があり、そこへ患者が上向きに寝る。(私の場合)
そして、その上には、こないだ見せてもらった、大きな照射する機械が、
デーンと、私に向き合って、こっちを見ているようだった。
ここから、放射線が照射されるらしい。
因みに、この照射する機械、回転する。

まずは、照射する場所の、衣服を脱ぎ、(私の場合下半身)こないだマジックで、
印を書かれた部分に、合わせて上から照射。
痛くも、かゆくも、無く何も当たってる間、感じない。
その後、機械が回転し、下から(お尻側から)照射。
所要時間、5分くらいかな?あっと言う間に、照射は、終わり。
部屋では、FMラジオが、BGMで鳴っていた。
ちょっと、リラックス出来るような、感じ。
でも、大きな部屋に、私一人だけ、ぽつーんと。
放射線浴びるといけないから、技師さん、看護師さんは、重い扉の向こうへ。
モニターで私の様子が、見えるらしく、

「何かあったら、アクションしてね」

と言われた。

こんな感じの治療が、毎朝週に5日続く。予定は、25回のリニアックと、
8回のブースト。

そんなある日、見た事がある患者さんが、高エネルギー棟の、中待合に居た。
同室の、90歳になる、おばあちゃま。
今まで、部屋でも、もちろん話はしなかったし、放射線の治療を、受けてるなんて、
この日まで、知らなかった。

私の顔を見るなり、

「あー、お嬢ちゃんも、放射線当ててるのね?」

って、優しい口調で、話し掛けてくれた。
5/8に入院して、初めて?患者さんと、話したような、気がする。
私は、もうお嬢ちゃんってな、年じゃ無いけど、話し掛けてくれた事が、
とっても、嬉しかった
多くを語らず、詮索もせず。癒し系な、おばあちゃまだった

自分の足で、もちろん歩けるんだけど、病棟から、高エネルギー棟まで、
かなり距離があるので、いつも車椅子で、通ってた。
私よりも、ちょっと前から、入院し、放射線治療を行ってらしたので、
私と、ここで出会った時には、後数回で、終わるのよーって、
お話ししてた。

副作用の、下痢と、照射してる場所の火傷が、痛いのって、
言ってたっけ?
私は、まだ副作用を感じるくらい、照射していなかったので、後々からくる、
副作用が、とても怖かったこの頃。

そんな、せっかくお友達?になれた、90歳のおばあちゃまも、晴れて退院
又、1人ぼっちに、なっちゃった

でもね、おばあちゃまのおかげで、少しづつ、人が怖く無くなったよ。
どうも、ありがとう
ちょっとづつ、殻を破ってみるね。

まだまだ、治療は続くし、入院生活も続く。
私も早く、放射線卒業したいなぁ・・・

次へ続く









2006年5月の出来事①

2006-09-10 23:19:25 | 病気の経緯と治療とか
自問自答しながら、重い気持ちの中でも、時は平等に流れる。

放射線治療を、始めるにあたり、入院が必要と、なった。
放射線は、毎日1回、週5日照射する。土日は、照射が休みなので、
外泊も、許可を取れば、自由に出来る


入院の話しは、少し前から、主治医N先生から、説明があったし、
覚悟は、出来ていた。

でも、やっぱり家族と離れて、一人病床ってのは、悲しいね
先生に無理を言って、限界ギリギリまで、家に居る事を、許可してもらった。
私にとって、このギリギリの限界の時間は、自分の心を精算する為の時間でもあり、
入院生活開始の、踏ん切りの時間でもあった。

そんな世間は、ゴールデンウィーク。私も、ゴールデンに、過ごしたい。
入院前に、家族と一緒に、美味しい物食べたり、ちょっと外出したり、
楽しく、時間を過ごす事が出来た。

そんな、楽しい時間は、あっと言う間に過ぎて、入院当日

朝イチで、病院へ向かい、入院手続きを済ませ、病棟へ。
担当看護師Yちゃんの先輩Nさんが、待っていてくれた。

「又、しばらくお世話になります。」と私。

「今回は、ちょっと長い入院やね。2ヶ月くらいかな?」とNさん。

そう言って、部屋に案内された。又もや、4人部屋。606号室。
1番、端っこの隅の部屋。なんだか、ちょっと、寒かった。
他の3人は、皆おばさま&おばあさま。私33歳。
そして、病棟内を見回しても、同年代の患者は、居ない。
同じ患者でも、同年代は、みな妊婦
一気に孤独の淵に。個室に入りたい。でも、又空いてない。

私は髪が無く、ハゲていたから、周りの人にすれば、

「あー、若いのにこの子、癌なんだね」

と、一目瞭然。
私はこの頃、自分の殻にこもって、バリアを大きく広げていたから、
ぺらぺら、話し掛けて来る人は、居なかった。
いつも、1人でご飯を食べて、1人で時間を過ごし、1人で行動していた。

入院当日は、内診が義務づけられていた。
私の、入院した日は、教授回診の曜日でもあり、私は主治医N先生では無く、
N教授に、内診をしてもらう事になった。
『えー、主治医以外に、診られるの嫌だなぁ・・・』
教授の診察と言う事もあり、カーテンの向こうのギャラリーは、
いつもの、倍に。

N教授、

「ちょっと痛いかも、知れ無いけど、僕はベテランだから、心配無いからね」

見た目は厳しいが、とても心が優しい、教授。
心をリラックスさせてくれて、無事内診終了。

それから、別の日。
いよいよ放射線照射位置を、決める為の相談の日。
初めて、案内されたその場所は、

「高エネルギー室」

と言う名前の治療棟で、1Fの奥の奥、そして又その奥に、建て増しされた場所に、
そこは、あった。まるで、隔離されてるみたいに。

照射位置を決める為、別室に呼ばれ、固いベットのような物に寝て、
照射場所(骨盤・大腿骨辺り)に、技師さん達が、2人係りで、
マジックで、印を描いていた。
だいの大人が、2人、私の照射場所に、落書きしてるようで、その様は、
とても笑えた。
でも、笑えない、私のこれからの治療

明日の治療から毎日、これを提出してねと、渡されたファイル。
そこには、私の名前と、放射線の機械?についての、注意書きが書いてあった。

「放射線の機械は、決してあなたを、襲ったり、傷つけたり、しません。
 ですから、照射中は、絶対に動かないで下さい」

みたいな、意味合いの事が、書かれてあった。

そして、その文章を見て、不安になってる私を察して、看護師さん、

「放射線を照射する機械は、とっても大きいから、明日の治療の前に、今、ちょっと
 見ておこうか?そしたら、不安も除けるね」

そう言って、わざわざ、明日治療すれば、解る機械の大きさを、
見せて、説明してくれた。

「リニアック①室」と書かれた、紫の扉の部屋。

むっちゃ大きい機械そして、厳重な重い扉。
どうりで、隔離した大きな棟が要るわけだ

その大きな放射線の機械が、この棟には3機もあり、その横に、
「腔内照射室」と言う、直接患部に放射線を照射する、部屋もあった。

いよいよ、明日から、本格的な次のステップの治療、放射線照射が始まる

次へ続く









2006年4月の出来事

2006-09-06 15:22:52 | 病気の経緯と治療とか
主治医N先生の言ってた、5クールが終わり、治療は次のステップへ。

ずっと、抗がん剤しか治療を、していなかった私は、
次のステップと言っても、中々心の準備が出来なかった。
手術か、放射線。
その選択に、主治医は、私のQOLの事を考え、放射線を勧めた。
そして、かなり神妙な面持ちで、合併症の話しや、副作用など、
事細かに、私と夫に説明してくれた。

そして、放射線科の先生から、一通の同意書。
こんな事が、書かれていた

患者クランベリー様の放射線治療、実施について、以下の通り説明致しました。

①現在の病状と治療の必要性について
 現在の病状(膣癌)
 治療の必要性(局所制御向上の為)

②治療の方法
 リニアック(外照射用放射線治療装置)を用いて、高エネルギーX線、又は、
 電子線を、体外から治療部位に照射します。
 治療回数・期間:1日1回週5回(土日、祝日を除く)
 計30~33回の照射の予定。
  (注:回数等は、治療経過によっては、変更される事があります)

③治療に伴う合併症と危険性、および緊急時の処置について
 頻度的には、非常にまれなものも、含めて、以下のような、合併症の可能性が
 ありますが、現在の疾患に必要な治療です。緊急時の処置は勿論万全を期して、
 施行しますので、ご了解下さい。
 1)治療期間中~終了後数週間の合併症
 (倦怠感・食欲低下・吐気・皮膚炎・粘膜炎・(陰部)脱毛・膀胱炎・下痢等)
 2)治療終了後数ヶ月後以降の合併症
 (不妊・外陰~膣潰瘍・膀胱-膣ろう・直腸-膣ろう・下肢浮腫・骨折等)

 

放射線を当てると言う事自体は、痛くもかゆくも無いし、
臓器も、残る。
その事だけを、考えたら、少し嬉しかった。

でも。

これから始まる放射線治療で、確実に私は、妊娠の希望を、
奪い取られてしまった。
それまでも、長期に渡る、抗がん剤投与で、生理は止まっていたけど、
まだ、それだけなら、妊娠の望みはあった。
が、しかし、放射線照射する事で、その望みも絶望的な物に。
そしてもちろん、それ以外の、弊害もある。

主治医、放射線科医を前に、私は号泣してしまった
でも、やるしかない。命を繋ぐ為には。
同意書にサインを、求められた。

自分が母になれない。
子供好きな夫を、父親にさせてやれない。
両親に、孫を抱かせてやれない。

「夫よ、ごめん。子供大好きだったのにね。私こんな事なっちゃって、
 もう、産めなくなっちゃったよ。」

「母さん、ごめん。あんなに楽しみにしてたのに、孫産めなくなっちゃった。
 孫の世話したいって、ずっと言ってたのに、お婆ちゃんに、してあげられなくて
 本当に、ごめん」

早く、孫が見たいなぁー!と言う両親に対し、

「うるさいなぁ。子供なんて、今は欲しく無い。もっと、自分のやりたい事して、
 遊びたいんだよ。いつか、授かる時が来るまで、要らない!」

そんな事ばかり言ってたから、神様が私に、罰を与えたんだね。

とても、無念だ。
そして、私は自分を否定し続けた。どうしようも無いくらいに。

果たして夫は、こんな私に、ずっと目を向け続けてくれるのだろうか?
こんな娘を、両親は、認めてくれるのだろうか?

そう、自問自答しながら、この頃は、ずっと過ごしていた。

次へ続く