私が旅を始めた頃にいつも自分を悩ませたのは自分自身の引っこみ思案な性格でした。今の私の事しか知らない私の身の回りの人間は"ウソだ"と思うかもしれませんが、それは旅が私をそれほど変えたという証明でもあります。
例えば、空腹を抱えて町を歩いていて、食堂の前を通りかかった時、
"言葉が通じなくて迷惑がられるのでは?"
"ボラれるのでは?"
"思い通りに注文できないのでは?"
"食べ方を間違って笑い者になるのでは?"
"外国語が上手く話せなくて笑い者になるのでは?"
いろいろな悪いイメージが頭をよぎって、なかなか店内に入れないのです。そんなわけで、いつまでも空腹を抱えて町をウロウロ、結局、日本と同じシステムであろうファーストフード店で空腹を満たしたり、スーパーマーケットでお菓子を買って、それで我慢して、敗北感を感じた事が何度あったかわかりません。
そしてその度に自分の引っ込み思案振りを嫌悪して、そんな風に育ってしまった環境を恨んでみたりもしたものです。
何をするにもそんな具合。ですから、新しい町へ移動するのも大変な決意を必要としますし、一度泊まった町に長い間しがみついてみたりした事も多々あります。
その頃は自分の不安を紛らわすためにガイドブックの情報を暗記する程読みました。毎日、そんなストレスに晒され続けて、"旅する事の何がそんなに面白いのか"と思った事もありました。その頃の私を旅に狩り立てたのは、むしろ、そういう強烈なストレスに晒され続ける事への挑戦であったとも言えます。
そんな自分が少しずつ変化していく事ができたのは、やはり現地の人々の優しさと、先輩旅行者の行動力です。特に先輩旅行者の多くは英語も現地の言葉も私よりもできるわけではないのに、ズカズカと自分の行きたい所へ踏み込んでいって、"自分は外国人だから、間違っている点があったら、どうぞ笑ってください。"と堂々としたものです。
そんな姿を目にするうち、なるほど、この人達は自分が外国人である事を隠すわけでもなく、とにかく素のままの自分で勝負しているのだなという事を知り、自分も少しずつ素のままで勝負できるようになっていきました。
この"素のままで勝負する"という事は本当は簡単な事なのに、実行するのは、なかなか難しいのですよ。
日常生活で私たちは親のコネとか、所属先とか、友人とか、いろいろなもので守られて生きています。それから、自分を取り巻く社会に対して様々な虚栄を張ったり、そんな事をしながら生きています。自分が今まで生きてきた事から派生する様々な関係者との微妙なバランスの中で生きているとも言えますし、その事に慣れているとも言えます。そのバランスの中でしか発揮できない能力を自分の実力と思っている事も沢山あります。自分自身の姿が見えなくなっているのですね。
これらの環境を完全に失った旅先では、自分を曝け出すしかないのですが、曝け出そうとしてみると、自分で信じている以上に自分がショボい存在である事に気がつかざるを得なくなります。それをなかなか認めたくなかったからこそ私は引っこみ思案であったわけです。その事に思いあたってからは気分も楽に自然体で旅する事ができるようになりました。
意外とショボい存在としての自分を異国で認識するのは、なかなかショッキングな体験ですが、そんな体験をしてみるのも人にとっては大切な体験であると思います。そして、素のままの自分と向き合わせてくれる機会であるからこそ"旅"は素晴しいと思うのであります。
"自分は○○な人だからぁ"とか、そうやって自分を自分で位置付けしている人々よ。旅に出て一度、本当の自分と向きあってみてはいかがかな。
例えば、空腹を抱えて町を歩いていて、食堂の前を通りかかった時、
"言葉が通じなくて迷惑がられるのでは?"
"ボラれるのでは?"
"思い通りに注文できないのでは?"
"食べ方を間違って笑い者になるのでは?"
"外国語が上手く話せなくて笑い者になるのでは?"
いろいろな悪いイメージが頭をよぎって、なかなか店内に入れないのです。そんなわけで、いつまでも空腹を抱えて町をウロウロ、結局、日本と同じシステムであろうファーストフード店で空腹を満たしたり、スーパーマーケットでお菓子を買って、それで我慢して、敗北感を感じた事が何度あったかわかりません。
そしてその度に自分の引っ込み思案振りを嫌悪して、そんな風に育ってしまった環境を恨んでみたりもしたものです。
何をするにもそんな具合。ですから、新しい町へ移動するのも大変な決意を必要としますし、一度泊まった町に長い間しがみついてみたりした事も多々あります。
その頃は自分の不安を紛らわすためにガイドブックの情報を暗記する程読みました。毎日、そんなストレスに晒され続けて、"旅する事の何がそんなに面白いのか"と思った事もありました。その頃の私を旅に狩り立てたのは、むしろ、そういう強烈なストレスに晒され続ける事への挑戦であったとも言えます。
そんな自分が少しずつ変化していく事ができたのは、やはり現地の人々の優しさと、先輩旅行者の行動力です。特に先輩旅行者の多くは英語も現地の言葉も私よりもできるわけではないのに、ズカズカと自分の行きたい所へ踏み込んでいって、"自分は外国人だから、間違っている点があったら、どうぞ笑ってください。"と堂々としたものです。
そんな姿を目にするうち、なるほど、この人達は自分が外国人である事を隠すわけでもなく、とにかく素のままの自分で勝負しているのだなという事を知り、自分も少しずつ素のままで勝負できるようになっていきました。
この"素のままで勝負する"という事は本当は簡単な事なのに、実行するのは、なかなか難しいのですよ。
日常生活で私たちは親のコネとか、所属先とか、友人とか、いろいろなもので守られて生きています。それから、自分を取り巻く社会に対して様々な虚栄を張ったり、そんな事をしながら生きています。自分が今まで生きてきた事から派生する様々な関係者との微妙なバランスの中で生きているとも言えますし、その事に慣れているとも言えます。そのバランスの中でしか発揮できない能力を自分の実力と思っている事も沢山あります。自分自身の姿が見えなくなっているのですね。
これらの環境を完全に失った旅先では、自分を曝け出すしかないのですが、曝け出そうとしてみると、自分で信じている以上に自分がショボい存在である事に気がつかざるを得なくなります。それをなかなか認めたくなかったからこそ私は引っこみ思案であったわけです。その事に思いあたってからは気分も楽に自然体で旅する事ができるようになりました。
意外とショボい存在としての自分を異国で認識するのは、なかなかショッキングな体験ですが、そんな体験をしてみるのも人にとっては大切な体験であると思います。そして、素のままの自分と向き合わせてくれる機会であるからこそ"旅"は素晴しいと思うのであります。
"自分は○○な人だからぁ"とか、そうやって自分を自分で位置付けしている人々よ。旅に出て一度、本当の自分と向きあってみてはいかがかな。
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