文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

暴走する自虐的退廃 破壊蕩尽の極限を映し出す「勝木くんのライバル部なのだ」

2021-04-28 23:26:08 | 第5章

ライバル部の勝木くんは、パパの永遠のライバルとして登場(「勝木くんのライバル部なのだ」/「別冊少年マガジン」75年1月号)。パパにはどんな些細なことでも負けたくない彼は、パパと寿司屋に行けば、寿司のワサビの量を競い合い、家が火事になれば、消火に来た消防車の台数を自慢し、嫉妬したパパに自宅を放火までさせてしまう……。

パパが腕を怪我すれぱ、勝木は自らの腕を切り落とし、勝木が交通事故に遭えば、今度はパパが負けじとトラックに轢き殺されようとする。

このままだと、どちらかが死んでしまうと恐れた勝木は、パパから離れようと、一人南洋の孤島に旅立つが、既にその島には、パパが待ち構えていた。

何もない孤島で、二人はお互いのツリーハウスが建てられているヤシの木に小便を引っ掛けながら、木が伸びるのをいつまでも競い合うのであった……。

パパと勝木の対立の構図が一貫してチャイルディシュな優越と虚栄に貫かれている点が何とも可笑しく、不均衡な誇張や取り違えの対置が、暴走する自虐的退廃と鮮やかに連動し、無機的な観念を媒介とする破壊蕩尽の極限を映し出している。

他にも、「小さな転覆がやがて大きな転覆を起こす」という、毛沢東語録を模倣したスローガンを旗印に、様々な物を逆さまにして国家転覆を図るものの、何度転覆させても、起き上がるダルマに負け、革命が挫折してしまうレジスタンスの毛原(「わしらの政府の転覆なのだ」/「別冊少年マガジン」75年3月号)、自ら見た夢を実体化させるという驚異的な成果をもたらすものの、結局は無意味な連鎖体系へと埋没してしまう夢学部のアラジン(「夢人間アラジンくん」/「月刊少年マガジン」76年9月号)等々、非現実の想像界をも突き抜けるキャラクターのオンパレードで、エスタブリッシュメントのコモンセンスに対する挑発は、その対決軸において、更に展開、押し広げられ、繰り返されてゆく。

バカ大関係者をフィーチャーしたエピソードでは、人間が抱え込む劣等的悲哀や人間社会における負の縮図をテーゼに取り込み、自我という人間の奥底に潜む不条理な感情を解放した幾つものギャグが画稿狭しと弾き出されており、これこそが、それらの物語の特色でもある。

赤塚の盟友でもあった落語家の立川談志は、「落語は人間の業の肯定である」といった見解を常々公言していたが、権威を嘲笑しつつも、人間の愚劣さや脆弱さを全て肯定するそのイリュージョンは、パパとバカ大関係者との対立の構図とも照応しているように思えてならない。

つまり、赤塚もまた、バカ田大学という非理知的、倒錯的な概念枠組みを通し、学歴至上社会を嘲弄しつつも、人間の愚かさを皮肉り、戒め、時として自虐を交えながら、 マイノリティーそのものへの理解と共鳴を示していたのであろう。

これらのキャラクターの共通項といえば、異世界のロジックを磐石とした狂気の顕在性にある。

そして、その内面に深く沈潜するシュールや滑稽といった概念とは異質な形而上学的観念が、作品の世界観の表層を支配する正気の視点と緊密な平衡を読者の脳内に植え付け、新たな思考類型の構築を可能ならしめるのだ。