文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

学歴社会の歪みを浮き彫りにするアフォリズム バカ田大学の発想の原点

2021-04-25 20:31:21 | 第5章

バカ田大学で、学部学科での勉学以上に学生達の個性を引き立てる重要な役割を担うのが、「◯◯研究会」という名称に象徴される、サークルやクラブといった学生達の自主性によって行われる課外活動である。

演劇部や水泳部、空手部、つり研究部、グルメ研究部という比較的まともなクラブもあれば、学芸会部、おばけ研究部、ヘコキ研究部、葬式研究部、のぞき部、キンタマ合唱団、地獄耳研究部、悪口研究部と、学究の徒ならぬ学究の徒花とも言うべきクラブも無数に存在する。

尤も、演劇部も『鉄仮面』等のトラディショナルな戯曲を「バッカ面」なるタイトルにアレンジして上演したり、水泳部も、水泳を知らないため、地面を泳いでパパに会いに来たりと、その活動内容はいずれも思考の矛盾と形容して然るべき自己目的化に縛られたものだ。

空手部に至っては、どんなものも、手刀で真っ二つに割ってしまう空手の達人でありながらも、算数の割り算だけは全く割れないという、実に程度の低い後輩が部長を務めている有り様だ。

赤塚は、この「◯◯研究会」の発想のヒントについて、次のように回想する

「雑然と出てくる「バカ田大学◯◯研究会」のヒントは、早稲田大学のマンガ・ファンだ。スタジオに突然やってきて、ぼくは喫茶店研究会の者だけれど、学園祭に喫茶店を出したい、そこでエプロンに赤塚マンガを書いてほしいというんだね。」

(『ラディカル・ギャグ・セッション』河出書房新社、88年)

戦中派の苦労人である赤塚にとって、最高学府で高度な学問を学びながらも、喫茶店の研究にうつつを抜かす、戦後教育の申し子達の上滑りなライフスタイルは、殊のほか滑稽に映ったという。

「学歴の物差しで、人間の価値は計れない」と、常々語っていた赤塚だけに、発想当初の段階において、バカ田大学という超絶的なボンクラぶりを指し示す学閥勢力を、学歴を巡る現代社会の歪みを浮き彫りにするアフォリズムの一端として登場させたことは、安易に察しが付く。

因みにこの時、赤塚が無償協力した件の喫茶店研究会主宰者は、大学卒業後集英社に入社し、「少年ジャンプ」の創刊に携わることになる角南功(後に「週刊ヤングジャンプ」編集長を歴任)である。

この一件で、作品のみならず、赤塚の人間性そのものにも深く惚れ込んだという角南は、赤塚と仕事がしたいがために、漫画編集者となった熱血漢で、その後、『マンガ大学院』や『おれはゲバ鉄!』等の連載を立ち上げ、念願の赤塚番を務めることになる。

以降角南は、赤塚の作画スタッフだったとりいかずよしの『トイレット博士』を、初期「週刊少年ジャンプ」の強力連載に押し上げるなど、エディターとしてその辣腕ぶりを遺憾なく発揮してゆく。


『バカボン』ワールド影の主役 バカ田大学の関係者達

2021-04-24 18:32:25 | 第5章

このように、『バカボン』は、回を重ねるに従い、異形のサブキャラクター達が無尽蔵に現れては、読者を荒唐無稽なイリュージョンニズムへと誘引してゆく、不可視な概念世界を具象化した超越的構造を、次第にそのメルクマールとして定着させるようになる。

毎回一回こっきりというゲストキャラでありながらも、時としてその対立のドラマの中で、パパの際立ちをも喰ってしまう、影の主役とも言うべき八面六臂の活躍を見せるのが、パパの母校であるバカ田大学「◯◯研究会」所属のユニーク且つ軽佻浮薄な後輩諸君である。

「都の西北、早稲田の隣」のフレーズでも知られる迷門・バカ田大学は、細胞融合や遺伝子操作により、新種の生物を造り出す生物学の権威(「動物あわせでノーベル賞なのだ」/「DELUXE少年サンデー」70年3月号)や、物質電送マシンを開発する科学者(「電送マシンの先輩なのだ」/73年16号)といった大天才も輩出すれば、スケベ学部、サギ学部、自信ない学部、マージャン学部、夢学部、中立学部と、およそ勉学の対象にはなり得ないであろう学部まで存在しており、研究対象のカルト性とその範囲の広さは驚愕に値する。

因みに、パパが卒業した学部学科は、バカ田大学社会学部哲学科であるが(後述する『天才バカボンのおやじ』では、理工科、また後に、クイズ科の卒業であることも語っている。)、通常の大学では、哲学科は文学部に属する学科で、社会学部には存在しない。

人間の他にアホウドリにも学問の扉を開いていたり、本来大学では、学長と呼ばれる最高責任者が、何故か校長という肩書きであったりと、奇矯さという面においても、まさに鶏群一鶴と言えるだろう。

そういった意味でも、バカ田大学は、ありとあらゆる面において、現実感覚や共通認識といった概念を超越する特殊人材育成機関であるのだ。

また、アメリカにバーカード大学なる姉妹校も存在し、交換留学が盛んに行われるなど、広義的な解釈に依りては、グローバリゼーションの進展に根差した教育研究が行われている最高学府としても位置付けられている。

バカボンのパパは、バカ田大学を優秀な成績で卒業した天才であるが故に、多くのバカ大の先輩や同窓生、現役、OBを含めた後輩逹が、一筋縄ではいかない難問奇問を引っ提げ、会いにやって来る。

そして、バカ大関係者達とパパによる、予断を許さぬ大馬鹿と馬鹿との競い合いが、いつしか不条理な感性と世の常識との軋轢という二重構造を映し出し、 その脱論理的なドラマトゥルギーに更なる破滅と倒錯を生み出すエレメントになり得るのだ。


タコボン、ウメボシ仮面 サブのサブキャラクターの充実

2021-04-23 21:16:46 | 第5章

「天才タコボン」(74年22号)というサブタイトルで、一話まるごとキャラクター紹介に宛がわれ、異例のデビューを果たしたのが、カメラ入道・タコ山写信ことタコボンだ。

翌号掲載の「カメラ入道タコ山写信なのだ」(74年23号)では、登板二話目にして、カメラ小僧のライバルとして颯爽と登場。足で三脚を型どり、口に広角レンズをはめ、全身をカメラ代わりにして激写する新進気鋭のカメラ入道として、カメラ小僧との写真対決に挑んだ。

だが、被写体である「少年バカジン」のグラビアアイドル・ミスハグキの個性を引き出すことが出来ず、この時、カメラ小僧に完敗を喫してしまう。

異常なまでにプライドが高く、粘着質でもあるタコボンが、その後、カメラ小僧にリベンジを果たさなかった点から察するに、フォトグラファーとしては、恐らく廃業してしまったのかも知れない。

そのキュート且つダウナーな風貌から、現在のゆるキャラカルチャーにも通ずる得難い魅力を持つタコボンだったが、使い勝手の乏しさからか、このエピソードをもって、『バカボン』ワールドから退場したことに関しては、一抹の寂しさを禁じ得ない。

このような脇役キャラで、一際異彩を放つのが、前述の「わしの生まれたはじめなのだ」で初登場したウメボシ仮面である。

まるで、子供が描いたイタズラ描きのようなヨレヨレの描線と、その出で立ちが印象的な二足歩行のキャラクターで、人間なのか、動物なのか、虫なのか、その属性すらも不明だ。

恐らく、物語にアクセントを付ける効果を狙った、謂わばサブのサブキャラクターとして、登板させたのであろう。

登場当初は、レギュラーキャラクターとして定着させようと、ニックネームを募集。ラクガッキー、変等線(へんとうせん)、ノータリーナー、ガンバラナクチャモドキ、アーカ・ツーカ等、様々なネーミングが寄せられたが、最終的に、中間発表の記事にも紹介されなかったウメボシ仮面なる名称に決定した。

天才児だったバカボンのパパが、バカになる瞬間に立ち会い、その一部始終を実況するなど、登場二話目にして、重要な役割を担うキャラクターとして読者に認知されつつあったが、作者である赤塚自身が飽きたせいか、その正体は明かされることのないまま、僅か四回の出演で泡沫の如く消えていってしまった。

とはいえ、読者にはそれなりのインパクトを残したようで、2000年代、ゲームメーカー『Genki』(現・元気)では、このウメボシ仮面をそのまま模したキャラクターが、同社のペットマークにデザインされ、テレビCMにも頻繁に登場するなど、オリジナルの存在は知られなくとも、このラクガキ顔が広く一般に認知されるようになった。


カメラ小僧・篠山紀信の登場 虚実のヘッジを越えたナンセンス

2021-04-23 09:58:53 | 第5章

実在する人物の姓名をそのままキャラクター名に宛がい、リアリズムと同質の妥当性を備えた虚構的概念を、その作品世界において更に昴ずる局面へと至らせたのが、カメラ小僧こと篠山紀信くんである。

梶原一騎原作に代表される所謂スポ根モノでは、ドラマにリアリズムを付与する手段として、王貞治や長嶋茂雄、ジャイアント馬場や沢村忠といった実在するスター選手がそのまま登場人物に割り当てられていたが、ナンセンス漫画において、それも文化人の実名が使用されたというのは、恐らくこのカメラ小僧が本邦初であろう。

だが、そのキャラクターメイクは、鼻を垂らしつつも、綺麗に横分けにセットされた坊っちゃん然としたもので、アフロ系モジャモジャヘアをした本家・篠山紀信とは似ても似つかない容貌なのだ。

何故、赤塚はこのようなキャラクターを登場させるに至ったのか……。

篠山は、1971年、三十歳の時、リオのカーニバルの群舞を撮影した写真集『オレレ・オララ』が世界的な評判を呼び、新進気鋭のカメラマンとして、脚光を浴びることになる。

そして、その時の撮影に迫ったドキュメント番組(演出・大林宣彦)で、乱舞する大群衆に揉みくちゃにされながら、シャッターを切り続ける無防備な姿態を晒け出しており、そんな篠山がスパークさせる「撮るパフォーマンス」に、赤塚は大いに感興をそそられたという。

その篠山が、「月刊明星」に引き続き、1972年から「週刊少年マガジン」でも、人気アイドルをフィーチャーした表紙やグラビアのポートレートを撮影することになる。

山口百恵や桜田淳子ら、当代を代表するスターアイドルを激写したセンセーショナルなフォトグラフは、蛍光色を多用した鶴本正三の斬新なアートディレクションとの相乗効果も相俟って、「マガジン」誌の売り上げに大きく貢献。遂には、同誌の看板企画となった。

篠山から、被写体には拘らず、見る者の嗜好や好奇心を満足させる写真を一心不乱に撮りまくる節操のなさを見せ付けられた赤塚は、従来の芸術家然としたカメラマンとは一線を画する妙な生臭さをその激情の中に感じたそうな。

そんな篠山に赤塚自身が抱くイメージを具現化したキャラクターをレギュラー化したいと思い付き、生まれたのが、このカメラ小僧・篠山紀信くんというわけだ。

篠山紀信という姓名をそのままカメラ小僧の本名として拝借したらどうだろうと提案したのは、長谷邦夫である。

アイデア会議の際、長谷は、レコードに例え、篠山のカメラパフォーマンスをスタジオ録音による音源ではなく、ライブステージでの実況録音が醸し出す生臭い音のようだと指摘していたというが、成る程言い得て妙だ。

そんな生臭いつむじ風に、クルクルと舞いながら、カメラ小僧は、バカボン達の住む街に突如としてやって来る。

首から吊るした35ミリカメラと、瞬発力を伴った唐突な回転が多大なインパクトを放つカメラ小僧は、犯罪写真専門の社会派カメラマンとして、数々の決定的瞬間を収めては、目ん玉つながりを翻弄してゆく。

因みに、カメラ小僧初登場のエピソード「篠山紀信の社会派なのだ」(73年23号)のヒトコマに、赤塚が「ところで 篠山紀信くん 「スター106人ポスター展」成功おめでとう‼ その写真集を 一さつタダでください‼」と告知したところ、これを観た本家・篠山紀信は、早速「マガジン」赤塚番記者の五十嵐隆夫とともに、ひとみマンション六階にある赤塚の仕事場に来訪し、黒のマーカーで「赤塚不二夫大先生へ!」と大書きしたサイン入りの写真集をプレゼントしてくれたそうな。

そうした経緯から、赤塚は篠山との親交を深めてゆく。

仕事面においても、篠山熱撮によるグラビアページに毎回カメラ小僧のイラストを寄稿するなど、カメラ小僧=篠山紀信という図式が広く読者に認知されるようになり、小規模ながらのメディアミックスが「マガジン」誌を舞台に展開されることになる。

何しろ、本家・篠山紀信が「マガジン」のグラビア企画で、国交が樹立したばかりの中国に撮影旅行に出掛けた際、漫画の中でも、カメラ小僧が、取材で暫くの間、訪中していたことをアピールするギャグが挟み込まれていたりと、虚実のヘッジを越えた楽屋ネタが、これ見よがしに綴られていたりするのだ。

(このコラボレーションは、『天才バカボン』の連載が「週刊少年マガジン」で終了した以降も長く続くことになり、その一部は、『カメラ小僧の世界旅行』(晶文社、77年)と題された写真集にコンパイルされている。)

さて、その風貌から、子供とばかり思われていたカメラ小僧だったが、後に何と、妻子持ちであることが発覚し、読者を驚愕させる。

そう、カメラ小僧は、この時既に、立派な成人男性だったのだ。

純子と紀生子という二人の子(外見はカメラ小僧と瓜二つである双子の男の子)を持つ父親で、妻はジューン・アダムスというアメリカと日本にルーツを持つ女性である。 

当時、篠山は『11PM』の初代カバーガールでもあった、美人ファッションモデルであるジューン・アダムスと婚姻関係にあり、自身の二人の娘を『バカボン』に出すよう懇願され、このような突拍子もなく不可思議なキャラクター設定が作られたという。

本家・篠山紀信は、前出の『カメラ小僧の世界旅行』の前書きにて、次のような一文を記している。

「つまり無思想、無節操、破廉恥でなんでも撮るの写真の哲学だと思ってる。ぼく自身このカメラ小僧に完全になりきれたら素敵だなあといつも考えている。」

(『カメラ小僧の世界旅行』晶文社、77年)

また、初御目見えした際、「ぼくは女優はとりません 社会派ですから」と嘯いていたカメラ小僧だったが、後に「少年バカジン」(「少年マガジン」) の表紙で、グラビアアイドルを撮影するなど、フォトグラファー業務も営んでおり、超越的概念をその主構造として現出させつつも、両者の同一化は、登場を重ねるにつれ、益々の拍車を掛けてゆくことになる。


シラケ世代の価値観を形象化したノラウマ モラトリアム的傾向の投影

2021-04-22 07:54:00 | 第5章

数ある赤塚動物キャラの中でも、著しくモラルに反するとともに、隔絶したダーティさを漲らせ、読者をドン引きへと陥れてゆくのが、誌面初登場(「天才ウマボン」/73年19号)にして、いきなり主演へと大抜擢される、フーテン用なし馬である通称・ノラウマだ。

何せ、本来なら華々しい筈であろうデビューの場において、バカボンから引ったくったカップヌードルに小便を注いで食すわ、更には、馬糞を大砲の如き勢いで、肛門から発射し、追い掛けて来た目ん玉つながりの口に無作為に喰らわすわ、そのヨゴレっぷりは人後に落ちない。

やはり、このノラウマも、ご多分に漏れず、他の赤塚動物キャラと同じく、人語を理解しており、連載後期の準レギュラーとして活躍。ノラリクラリと人間相手に立ち回っては、周囲を煙に巻いてゆく。

さて、このノラウマ、同名の競馬場に掛けてか、本名を中山といい、「ノラウマ社員の無責任なのだ」(73年20号)で、パパに三味線を弾きながら語った身の上話によると、元々は会社勤めのサラリーマンをしていたという。

ノラウマは、正体をひた隠しにして、三年間も勤労に従事するが、ある時、緊急の書類を本社に届けねばならなくなった際、自身の馬脚を利用し、僅か十分で届けるといった凄技を披露したため、同僚達に馬であることがバレてしまったのだ。

この時、ノラウマは同じ会社に勤める女子社員と結婚を前提としたお付き合いをしていたが、このことが原因で、当然とはいえ、一方的に婚約を破棄されてしまう。

だが、そんな悲恋にも落胆することなく、有能社員であるノラウマは、その貢献度より金一封を贈呈され、それを元手に競馬を始める。

馬のことは馬が一番よくわかると豪語するノラウマは、毎回毎回、万馬券を的中させるが、周りの同僚達も一緒になって、ノラウマと同じ馬券を買い出したため、社員全員が職務放棄を招く事態となり、会社の機能をストップさせてしまう。

その全責任を負わされて職場を解雇されたノラウマは、以降、競馬で身を立てていこうと決意するが、当たり過ぎが災いし、遂には競馬場までも出入り禁止となる。

一切の生活の手立てを失ったノラウマだったが、そんな逆境にめげることなく、文字通りブラブラと野良生活を送り、何物にも束縛されない自由気儘なライフスタイルを満喫するのであった。

その後ノラウマは、翌号掲載の「ジャンケンホカホカ ハイドウドウなのだ」(73年21号)で、虎視眈々と正規レギュラーのポストを狙うかの態度を、エピソード内にてちらつかせるが、ウナギイヌから「また売り出そうとでもしてるんですか⁉」と嫌味を言われたことに気分を害し、話の途中でありながら、出番をボイコット。「あまったコマはラクガキでもしてください‼」と読者に言い残し、以降、最後の最後まで、余白のコマのままページを放置するという、あくまで勝手気儘なスタンスをキープするのであった。

ウナギイヌもまた、観念上に見出だされた時代の鬱屈感を如実に反映させたアンチヒーローであったが、このように自らの感情と情緒に左右され、無気力、無関心、無責任をとことんまで貫くノラウマの生き方には、過激な政治的志向は失せ、個人主義に徹底する当時の若者達のモラトリアムな傾向が、強く投影されているように感じてならない。

ウナギイヌのように、爆発的なムーブメントを引き起こすには至らなかったが、ノラウマもまた、諦念に身を委ね、そして、シラケ世代固有の価値観をより明瞭に形象化した、謂わば、赤塚幻獣、影のヒーローなのだ。