フェルナンド ジョルト チョウシー Fernando Llort Choussy
(1949年4月7日エルサルバドル、サンサルバドル生)
中米から誕生した国際的に認められるエルサルバドル人芸術家
彼は絵の指導とチャラテナンゴ県の小さな町ラパルマで 町の人々が絵で生活が出来ることを実践し 多くの影響を与えた。
画風は子供が描くように色彩豊かな感覚を持つ。ものの形をイメージでデフォルメして描いたミロやピカソの絵を好例として比較に挙げられることが多い。
6人兄弟の真ん中に生まれ幼い頃から芸術的才能を持ち合わせる。学校では先生は地理の時間に地図を描かせたというエピソードもある。
エルサルバドル 大学 建築課程を修了。
新しい世界での体験を渇望し1968年欧州へ。

フランス トゥールーズ大学で哲学、ベルギーで神学、さらに米国、 ルイジアナ州立大学 バトンルージュで美術を学ぶ。
外国での生活はフェルナンド ジョルトにとって非常に強い影響を与え、エルサルバドルの文化的アイデンティティの感覚を深める要素となっている。
作品には教会、鳩、すべてを見つめる一つの目などの宗教的シンボルが常に描かれている。これが彼の文化的アイデンティティの象徴部分である。
ある作家はスタイルとモチーフは、このようなアートと説明している:
ジョルトのデザインは単純、原色、平面画。
題材は田舎の農村生活。動物、鳥、花、赤瓦の屋根で煉瓦造りの民家。
また長い年月の間にテーマが変わっていったことも記している: 戦争が進んで、貧困が深まるにつれ、テーマには女性の価値、地域社会の重要性、またエルサルバドル人顔の神が描かれるようになった。
エルサルバドルに戻ると、政治および社会に大きく不安を感ずる時代となっていた。
緊張のきざしは早くも現れ12年間の内戦が続いた。戦争の危険を回避するため エルサルバドル北部地域ホンジュラスとの国境近くのラパルマの町に移り住む。
自然やラパルマの人たちとの接触は、彼の芸術作品に多大な影響を与えた。
他の地方すべてと比べ山間地の暮らしは純真、天真爛漫、素朴なものであった。
ラパルマに

"ラ セミーヤ デ ディオス" (神の木の実)と呼ぶ絵の工房を開き、人々に絵を学ぶ機会を与えた。「神の木の実」の名前の由来はラパルマに育つコピノールの木の小さな実を半分に割りそこに絵を描いたことに始まる。この工房での絵の教室での練習生が育ち続き、これが絵画の町の誕生となる。内戦が始まると、彼はラパルマを離れサンサルバドルに戻る。しかし、今日もなお彼はラパルマの山に住む人たちとの絆を持ち続けている。かつての工房住まいもそのまま残されている。

サンサルバドルでは、アルボル デ ディオス(神の木)文化工房を設立し作品を展示、販売している。小さなものはコピノールのキーホルダー、木片の壁飾り、十字架、小物入れの木箱、また最近ではコーヒーカップなどの陶器類、タオル、テーブルクロス、T-シャツ等も置かれ鮮やかなデザインが並び見るだけでも楽しいジョルト館となっている。

中庭では飲み物、食事を提供するレストランもある。
首都サンサルバドルの旧市街セントロ地区の大聖堂の正面外壁にも描かれた大壁画はエルサルバドルの国民画家の代表作品としてカテドラルとともに町のシンボルになっている。