武家屋敷・旧嵩岡家住宅。新潟県村上市庄内町。まいづる公園。
2023年9月29日(金)。
粟島を1時間弱見学後、14時35分ごろ岩船港に帰着した。村上市街地へ戻り、雅子皇后陛下のご祖母静様の父方の実家である武家屋敷の旧嵩岡(たかおか)家住宅を見学するため、市街地東にある「まいづる公園」へ向かった。駐車場は狭いが、道路南側や北側に2か所ある。旧嵩岡家住宅は道路北側の表門と築山を越えた位置にある。
まいづる公園付近から望む村上城跡(臥牛山、舞鶴城)。
まいづる公園は、皇太子殿下・雅子妃殿下の御成婚を記念した公園で、南東方向に村上城跡をのぞみ、公園内には雅子妃殿下ゆかりの旧嵩岡家住宅のほか、旧岩間家住宅、旧藤井家住宅を移築復原している。
「旧嵩岡家住宅」は、直屋・寄棟造・萱葺、面積は103㎡で、1996年に現在地に移築復元された。
この建物は玄関を入るとすぐに茶の間があり、隣に主人の接客と居室を兼ねた座敷を備え、接客と居住空間の明確な区別がない。また、上屋の梁間が二間半ということから、隣の旧岩間家住宅と比較すると茅葺き屋根が大きく見える。
嵩岡家は、代々100石を給された中級武士で天明期は江戸藩邸詰であった。
旧嵩岡家住宅の屋敷は現在の村上市新町にあったが、1987年に宅地造成のために解体されることになった。解体に際して、村上市に現存する数少ない武家屋敷の一つであること、比較的保存状態が良かったことなどから、解体されることを前提としながらも、村上市教育委員会はこの旧嵩岡家住宅を市の有形文化財としての指定を行った。
これによって建築部材の格納保存を目的とした解体調査工事と復原調査が行われ、主要な小屋組部材、軸部材及び天井部材などの内部造作材の保存格納が行われた。
平成5(1993)年、皇太子殿下と小和田雅子様の御成婚を記念しての記念公園整備事業が1994年より計画着手されたが、嵩岡家が小和田家と縁戚関係にあることから、この記念公園整備事業の目玉として旧嵩岡家住宅の復原が行われることとなった。そして、この御成婚を記念した公園内には、この旧嵩岡家住宅のほか、旧岩間家住宅、さらには旧藤井家住宅の3棟の武家屋敷が復原された。
旧嵩岡家住宅があった村上市新町地内は、江戸時代には主に中下級武士が集住していた地区である。
嵩岡家については、天明7(1787)年の分限帳によると江戸藩邸詰めの武士の中に「平侍百石嵩岡泰蔵」とある。また、明治初年の村上士族名寄帳によると「給人百石嵩岡小太郎」とある。そして、明治初年に書き改められた城下絵図には、ちょうどこの場所に「嵩岡五郎左衛門」と記載されている。これらのことから嵩岡家は代々百石を給されていたと考えられ、村上藩では中級に位置する武士であった。
小和田家の近い祖先は越後村上藩内藤家5万石の藩士で、下級武士であった歴代の当主は代々下横目(目付)、奥方付きお庭番などの役職につく傍ら、制剛(せいごう)流という柔術の達人として村上藩以外の他藩でも有名な家柄であった。
小和田家の古文書における初出は江戸時代中期の1740年(元文5年)であり、 越後国村上藩藩士の小和田貞左衛門(貞右衛門)の子二人が早世し、城下の本悟寺で「釈入信」、「釈敬信」という法名を与えられた。
小和田家を含め村上藩史は戊辰戦争以来の3度にわたる火災で重要資料が焼失しているため調査が困難であったが、山本茂の調査によれば、「同心・新六匡安(しんろくただやす)の子で郡方懸りの道助匡春(1858年(安政5年)11月11日 64歳没)という人物がおり、その兄弟・兵五郎が分家し、兵五郎の嫡男・道蔵匡利(1874年(明治7年)7月28日没)の三男が金吉である」と推測している。
金吉の長男である小和田毅夫の代までは、旧・村上藩士が権利を持っていたサケの漁業権収入を相続していた。
小和田金吉は税務官吏となって新潟県高田市(現在の新潟県上越市)などに住み、熊倉竹野と結婚して長男の毅夫をもうけた。その後金吉は明治33年に病没した。金吉の妻である竹野は毅夫を伴い実家に戻り、助産婦の資格を取得して、働きながら息子を育てた。
小和田毅夫は旧制新潟県立高田中学校(現在の新潟県立高田高等学校)から広島高等師範学校(現在の広島大学)を卒業して全国各地の旧制中学校の教師を務めて、1934年(昭和9年)以降は新潟県下の複数の旧制高等女学校や旧制中学校の校長(特に母校の旧制高田中学校の校長)を長期間務めた。
毅夫は5人の男子と3人の女子に恵まれて、男子は全員が毅の推薦枠で入学した東京大学卒業である。長男の小和田顯は専修大学教授の漢文学者で、二男の小和田恆が外交官で、弟たちは運輸官僚が2人と弁護士である。姉妹の1人は夭折しているが、その他の姉妹の2人は戦前の教師育成の高等機関の東京女子高等師範学校と奈良女子高等師範学校卒業である。
小和田恆は東京大学教養学部卒業後の昭和32年に外務省に入省して、ケンブリッジ大学に留学している。条約など法制分野のスペシャリストであった。
毅夫の妻で雅子の父方の祖母にあたる静は新潟県塩沢町の旧家の田村家の出身で、静の父の田村(嵩岡)又四郎も旧制中学校の教師を長く務めていた。又四郎の実家である嵩岡家も村上藩士の子孫で、彼の養父田村寛一郎は「私草大日本帝国憲法案」という私擬憲法を起草した碩学であった。
イヨボヤ会館。村上市塩町。
鮭をテーマとした市営博物館である。地元では、サケを「イヨボヤ」とよんでいる(「イヨ」も「ボヤ」も魚を指し、イヨボヤは「魚の中の魚」を意味する)。
三面(みおもて)川畔にある「鮭公園(サーモンパーク)」の中心施設となっており、サケの水槽や生態に関する展示といった水族館的な要素だけでなく、伝統漁法や食文化、それにまつわる地域の歴史・民俗資料を収集・保存・展示する総合博物館である。
館内には淡水生物や魚類の生体が複数展示されており、地下には三面川分流「種川」の水中に面した窓から直接サケなどを観察できる「三面川鮭観察自然館」が設けられている。
青砥武平治(あおと ぶへいじ、1713(正徳3年)~1788(天明8年))。
村上藩士。藩の郷村(さとむら)役として漁業を含む民生を担当し、サケの回帰性を利用した増殖方法である「種川の制」を創設したことで知られる。
村上藩士・金沢儀左衛門の二男として生まれる。幼少時に青砥冶兵衛の養子となった。「三両二人扶持(さんりょうににんぶち)」の小身だったが、明和3年(1766年)、54歳の時に当時5万余石の村上藩としては異例と思える70石の「石取り侍(こくとりさむらい)」に昇格した。
種川の制。
サケは当時の村上藩にとって、藩政を支える重要な資源であったが、乱獲により枯渇寸前で、1720年頃には漁獲量がゼロに近づいていた。武平治は、サケが産まれた川に帰って産卵する母川回帰の習性を知り、遡上する三面川を3つに分流させ、うち1つでサケを保護して増やすことを着想した。川の産卵に適した場所に蔦や柴で「止め簀」という柵を造り、ここで産卵のため三面川に遡上するサケの遡上を阻止して分流の種川(サケの産卵のための人工の川)に導き、そこに閉じ込め、 産卵し終えるまで分流を禁漁にした。
それは現代では「自然ふ化増殖」という。当時世界でも類を見ない増殖法であった。安全な状態で産卵させ、ふ化する稚魚を増やせば、再び三面川に回帰するサケも増えると考えた。
村上藩はこの提案を「種川(たねがわ)の制」 として導入し、種川造成(1763年-1794年)を始めた。三面川での「種川の制」は、世界で初めて「サケの自然ふ化増殖」に成功した画期的なサケ保護・ 増殖システムといえよう。
種川は宝暦13年(1763年)から武平治没後の寛政6年(1794年)までのおよそ30年にわたって拡張され、制の導入前には多くても200両から300両だった漁獲高が、導入後は1000両を超えるまでに至った。
種川の制は後に文化3年(1806年)には出羽国庄内藩が月光川水系の滝淵川と牛渡川で行い、明治になってからは北海道の石狩川などでも取り入れられた。現代の用語では「自然孵化増殖」であり、サケを捕獲して人工授精させる「人工孵化増殖」が明治に普及するまでの約100年間、日本のサケ増殖の主流であった。
その後村上では、1878年には、アメリカのふ化技術を取り入れた日本初のサケの人工孵化と放流を行い、1884年には年間73万7千匹ものサケを捕獲したという記録がある。
鮭の不漁と「種川」考案者「青砥武平治」。
現在でも市内を流れる三面川〔みおもてがわ〕には毎年多くの鮭が遡上し、鮭のまちとして全国に知られるようになった村上ですが、鮭とのかかわりの歴史は古く平安時代には鮭を朝廷へ献上した記録が残っています。
そして江戸時代には、鮭漁による収益(運上金)は村上藩の貴重な財源でありました。
しかし、江戸後期になると乱獲により鮭の漁獲高が年々激減し、藩の財政は悪化の一途を辿ります。ついには、1738年(元文3年)に不漁のため鮭漁の停止が命じられるほどでした。
当時、鮭の生態はよくわかっておらず、これまで当たり前に獲れていた鮭が年々減少することに、人々は為すすべがありませんでした。
そんな時、村上藩の武士であった青砥武平治は、鮭には生まれた川に再び戻ってくる習性「母川回帰性」があることを世界で初めて発見します。そこで、鮭を獲らずに保護し、川でしっかりと卵を産ませることでいずれ鮭が戻ってくるだろうと考え始めました。
藩の江堰役(治水関係の役職)であり測量の免許皆伝者であった武平治は、一本であった川を本流と支流に分断し、本流の鮭はこれまでどおり漁を行い、支流に遡上した鮭は獲らずに産卵を行わせること藩に献策します。これは、漁師の生活と鮭の保護を両立させる武平治の画期的なアイデアでありました。
時の村上藩主・内藤信凭〔ないとうのぶより〕公は、下級藩士にすぎない武平治の建議を受け入れ、河川を改修し鮭の保護に乗り出します。
しかし、当時は自然保護や養殖という概念のない時代です。ただでさえ漁獲量が少なく収入に困っている状況で、鮭を獲るなという武平治の先進的な考えは民衆には広まらず、藩の目を盗んで漁をするものが現われたり、ついには漁を望む近隣の村々と争いが起こるほどでした。
この争いに際して武平治は幕府へ鮭の保護の重要性を訴え、ついには幕府からその正当性を認められたのでした。
のちに「種川の制〔たねがわのせい〕」と称されるこの制度は、世界で初めて鮭の自然ふ化増殖を行うものであり、北海道の石狩川でも取り入れられるなど、鮭を人工授精させる「人工ふ化増殖」が普及するまでの100年間、日本の鮭増殖の主流となりました。
第6代村上藩主・内藤信敦公は、聡明な城主で幼少の頃から学を好み、何事も公平廉潔に判断をされていたので、幕府の要職である寺社奉行在職時には、信敦公の月番になるのを待ち、訴訟を提起する者が多かったと云われています。また、さまざまな産業を保護奨励し藩の財政を豊かにしたお殿様でもありました。
1794年(寛政6年)には、父・信凭の時代から行っている鮭の保護を発展させ、産卵期には竹柵を設けて川を遮断し、支流(種川)に集めた鮭の漁を固く禁じる「種川の制」を制定しました。また、信敦公は1796年(寛政8年)に大規模な河川改修工事を行い、8年後にはついに三面川を3本の河川とする「種川」を完成させました。
「種川の制」により、減少していた鮭は次第に増え、藩へ納める運上金は1000両を超す年もあったほどでした。また、これにより財政の潤った村上藩では、藩校・克従館を中心に藩士子弟の教育にも大いに力を入れました。
鮭の収益で優秀な人材「鮭の子」を育成。
明治維新後もその意志は引き継がれ、1882年(明治15年)には旧藩士たちで「村上鮭産育養所〔むらかみけいさんいくようじょ〕」を立ち上げます。
そこでは新たに鮭の人工ふ化増殖にも取組み、その収益で教育や慈善事業などにも力を入れます。その中でも、藩校・克従館の精神を受け継いだ育養所は子供たちの教育へ特に力を注ぎました。
育養所の士族たちは、立派に成長した子供たちは、やがて村上に帰り郷土の発展に尽くしてくれるだろうと願い、藩士の子弟へ奨学金を支給することで多くの優れた人材を世に送り出しました。この奨学金を受けた子供たちは「鮭の子〔さけのこ〕」と呼ばれ、たくさんの偉人を輩出しました。
その中には、皇子傅育官長として秩父宮・高松宮両殿下の教育係を務めた「三好愛吉」や、乃木希典大将の通訳を務めた外交官「川上俊彦」、日本最初の工学博士「近藤虎五郎」、法務大臣で中央大学教授の「稲葉修」など枚挙にいとまがありません。
また、雅子皇后陛下の祖父・小和田毅夫氏も鮭の子として奨学金を受け、後に県立高等学校の校長を務められます。
小和田家は村上藩士の家系で、毅夫氏の代に村上を離れたあとも村上を本籍地としました。そのため、当時の小和田雅子様が皇太子妃として皇室にお入りになられる際に戸籍から抜く「除籍」の作業も雅子様の本籍地である村上市で行われました。(藤基神社)。
見学後、村上市神林の道の駅へ向かった。