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岩手県北上市 中尊寺のルーツ 国史跡・国見山廃寺跡 北上市立博物館①

2023年12月01日 10時00分31秒 | 岩手県

北上市立公園展勝地。北上市立花。

2023年6月11日(日)。

花巻市の道の駅「とうわ」で起床。本日は、北上市と遠野市の見学である。早朝7時40分ごろに北上展勝地の北側駐車場に着いた。

北上川東岸にある北上展勝地は4月10日前後から4月30日までの期間開催される「北上展勝地さくらまつり」で知られる。テレビで桜並木を植えた人とその娘が紹介されていたので、立ち寄ってみた。県道沿いの南側に大駐車場があるのを知らず、南側からは自動車は立入禁止になっており、桜並木は自転車と歩行者しか通行できないようになっているのだが、北側からだと自動車で並木道を通ることは可能で、ナビも通行を指示していたので進むと、車道は終点(始点)で終わっていた。通行人から唖然とした非難の目を浴びながら、園地をなんとか抜けて県道側駐車場へ出た。

国史跡・国見山(くにみさん)廃寺跡。北上市稲瀬町内門岡(うちかどおか)。

北上展勝地から西南近くの山間部にある国見山廃寺跡へ向かい、極楽寺前の広い駐車場に8時30分頃に着いた。休憩所にパネルで国見山廃寺跡が紹介されていた。山川出版社の歴史散歩を見てセレクトしただけだったが、このあと、「みちのく民俗村」に北隣する北上市立博物館の展示を見て、平泉中尊寺の原型となった古代寺院であると知った。

国見山廃寺跡は、北上市稲瀬町内門岡地区に建てられた、今から1,000年以上前の平安時代中頃に栄えた古代の山岳寺院跡で、堂塔の跡が確認されている。伝承によれば、36の堂塔、700の僧坊をもつ大寺院であったという。また、定額寺(じょうがくじ。国営の寺に準ずる位置付けの私営の寺)として歴史書にみえる「陸奥国の極楽寺」ではないかとも考えられている。国見山廃寺は、北上川の東岸沿いにいくつも確認されている平安時代の寺院跡のひとつで、平安時代中期の東北北部で最大規模の寺院であり、平泉が繁栄を迎える200年以上前に栄えた一大聖地として、北上盆地の中心的な寺院であったとみられる。大規模な山岳寺院としては我が国最北の事例であり、古代国家北辺における仏教の普及を具体的に物語る貴重な遺跡である。中世以降も現極楽寺が宗教活動を継続し現在に至っており、遺構とともに周辺の山地と集落の景観もよく保存されている。

国見山廃寺跡は岩手県中部、北上川東岸の丘陵地にある。標高約245mの国見山南麓の内門岡集落には国見山極楽寺があり、それを囲む北、西、南の丘陵上、標高150mから200mに立地する。昭和11年(1936)に道路改修工事で瓦片が出土したことから古代寺院の存在が推定されるようになり、北上市教育委員会では昭和38年(1963)から5年間発掘調査を行った。その結果、塔跡1基、七間堂1基、三間堂3基が確認され、『日本文徳天皇実録』天安元年(857)条に見える定額寺、陸奥国極楽寺に比定された。昭和62年(1987)以降も発掘調査が継続され、さらに新たな遺構、遺物が発見されて、寺院全体の概要も把握されるに至っている。出土遺物には鬼瓦、軒瓦、道具瓦のほか塼、仏像の土製螺髪、八稜鏡などがある。極楽寺に伝世し、重要文化財に指定されている平安後期の銅製の錫杖頭1点及び竜頭4点も当廃寺跡に関連したものと推測される。

これまでの調査によれば、内門岡集落西方の国見山神社周辺とその南方のホドヤマと称される地区を中心に、集落周辺とその北方の如意輪寺周辺に広く遺構が分布する。このうち国見山神社周辺とホドヤマ地区に古代の遺構が集中する。

国見山廃寺の創建は出土土器から見て9世紀中頃にさかのぼる可能性が考えられる。文献に見える極楽寺とは確定できないが、中央政府の出先機関である胆沢城の北約10kmにあり、国家北辺を鎮護するような位置にある。まず9世紀後半に国見山神社周辺にいくつかの掘立柱建物が確認される。

平安時代、国見山に寺が置かれたのは、国見山廃寺から南9kmほど離れた場所にある胆沢城と深い関わりがあった。胆沢城は、征夷大将軍坂上田村麻呂が、この地域の蝦夷(エミシ)と戦った際に造った国の役所である。その後、胆沢城は整備が進み、中央政府の出先機関として、国家鎮護の仏教儀式が盛大に行われるようになり大勢の僧侶が参加した。約1150年前、その僧侶のための山林修行(人里離れた山中などに籠る修行)の場として国見山廃寺が開かれた。ただし、その頃は山林修行が目的で、小さな本堂があるだけの山寺であった。

国見山廃寺の隆盛と安倍氏。小さな山寺であった国見山廃寺が、1050年ほど前に、五重塔など多くの堂塔を有する一大寺院に変貌した。その規模は、北東北で最大級のものとなり、まさに仏教の一大聖地といった様相を呈した。この頃、奥六郡と呼ばれた北上盆地は、蝦夷出身で胆沢城の役人であったとも考えられている安倍氏が支配するようになっていた。この安倍氏が国見山廃寺を大きくしたと考えられる。

安倍氏滅亡後の国見山廃寺と清原氏。安倍氏は、前九年合戦により源氏と秋田県の豪族清原氏に滅ぼされる。その戦いの中、国見山廃寺の本堂も焼け落ちたようである。しかし、北東北全体を治め、鎮守府将軍にも任じられた清原氏により、さらに大きな本堂が再建された。清原氏は、国見山廃寺と合わせて、その北にかってない巨大なお堂を持つ寺(白山廃寺)を建立し、その権力を誇示した。

10世紀後半から11世紀にかけては最も数多くの建物遺構が確認され分布域も拡大し、当廃寺の最盛期と考えられる。掘立柱建物に替わり礎石建物が成立するが、瓦の出土量から見て全面瓦葺きではない。

七間堂建物は南斜面を造成して建てられており、9世紀後半の掘立柱建物から礎石建物に替わる。桁行7間、梁行1間の身舎に須弥壇が伴いその前面に8間の廂を付ける構造であり、規模から見て中心的な仏堂と考えられる。ホドヤマ地区には新たに多重塔須弥壇を伴うと見られる三間堂などが建立される。

平泉における最も初期の寺院であるである中尊寺と国見山廃寺では、同じ丘陵の尾根上に堂塔を配置するなど似ているところが多く見られる。藤原清衡は平泉に本拠を移す前は江刺郡豊田館にいたといわれている。国見山廃寺も同じ江刺郡にあり、清衡は、奥六郡200年の歴史を持つ仏教の聖地・国見山廃寺をモデルとして平泉に中尊寺を建立したという説がある。

国見山廃寺跡の衰退とその後。後三年合戦により清原氏が滅ぶと、その戦いに生き残った藤原清衡は政治の中心を平泉に移し、奥州藤原三代の栄華の礎を築いた。その12世紀前半、平泉に中尊寺が完成する頃には、国見山廃寺の数多くの堂塔は殆ど無くなり、ただの鬱蒼とした山となっていった。

12世紀以降の建物遺構は集落周辺に確認され、集落内にはドウ、ボウなど寺院に関係する地名が多数残ることからも、中世以降集落周辺に寺院の中心が移ったものと考えられる。

駐車場から極楽寺への参道へ入り、さらに左の丘陵上に登っていくことになる。

多宝塔跡(方三間堂跡)。

国見山神社。

国見山神社前から麓方向。

見学はここまでとして、駐車場へ戻り、みちのく民俗村へ向かった。

岩手県花巻市 羅須地人協会跡(雨ニモマケズ詩碑)下ノ畑

 



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