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福島県喜多方市 蔵の里 重伝建・小田付地区

2024年07月15日 16時04分01秒 | 福島県

喜多方「蔵の里」。福島県喜多方市押切。

2024年5月30日(木)。

喜多方市山都のそば伝承館で蕎麦を食べたのち、喜多方「蔵の里」へ向かった。喜多方は1980年代半ばに訪れており、喜多方ラーメンを食べて蔵めぐりをした。当時は駅近くに見学できる蔵があったはずだが、事前に調べた結果、駅から離れた「蔵の里」、「重伝建・小田付地区」、「三津谷集落の煉瓦蔵」の3か所を見学することにした。

喜多方「蔵の里」と喜多方プラザの共通駐車場に12時30分頃着いた。なぜか広い駐車場はほぼ満車だった。「蔵の里」とその入口はダイレクトには見えない。角を占める旧冠木家店蔵の駐車場から遠い側に入口があった。客はいなかったが、翌日からのイベントの準備をする職員が数人いた。

旧冠木家店蔵。

もとは呉服商の店蔵で、三方に下屋が取り付いた特徴的な外観を持っている。明治初期の建築と推定されるが、江戸期の店蔵の形式をとどめている。

明治初中期の大規模な呉服店の店蔵を象徴する二重屋根形式の優れた建築的構成を持つ点で、喜多方の住文化の保存継承に重要な意味を持つ。

板戸が上から引き出されるようになっていたり、土間の幅は、店員が働く板の間と帳場に比べきわめて狭く、応対する店員よりも客の数が増えないようにという昔ならではの配慮がうかかがえる。喜多方の土産販売もしている。

喜多方蔵の里は、約4500㎡の敷地内に、中庭を中心として店蔵、味噌蔵、穀物蔵、蔵座敷、郷頭曲り家等を配置している。

喜多方市は、かつて「北方」と呼ばれ、江戸時代には物資の集散地として、また若松城下と米沢を結ぶ街道のまちとして栄えた。喜多方市にはいまも4000棟以上の蔵が広く分布している。これだけ多くの蔵が建てられた主な理由として、「物資の貯えに必要だった」「醸造業や漆器業に最適だった」「明治13年の大火でその耐火性が見直された」「蔵を建てることは男の一生の夢だった」「蔵造りの名工が数多くいた」と言われている。

旧唐橋家味噌醸造蔵。

間口3間半×奥行8間の旧味噌醸造蔵で、内部は木造トラス組の架構をあらわし、2階吹き抜けの大きな空間を形づくっている。

金田実氏の蔵写真展示。

金田実氏は、昭和40年代の後半、どんどん壊されていく運命にある「蔵」に一抹の寂しさを感じて、蔵を撮り続けた。その写真に写された蔵の姿は、見る人に大きな感動を与え、「蔵のまち喜多方」を訪れる人々が増えるきっかけとなった。

旧猪俣家穀物蔵。

かつての宿場町、熊倉にあった蔵で、屋根、窓の配置など均整が取れ、観音開きの扉の意匠も美しい当地方の典型的な穀物蔵である。

内部には、明治の社会慈善家・瓜生岩子の資料を展示している。喜多方に生まれた瓜生岩子は、明治時代の初めに社会慈善家として活躍し、今日の日本社会福祉の礎を築き、その功績により藍綬褒章を受けている。

郷頭屋敷・旧外島家住宅。

江戸初期から幕末まで慶徳町豊岡地区で、郷頭(ごうがしら)を務めた外島家の住宅で、主棟および曲がり棟の創建は明和8年(1771)との記録が残っている。

 

旧東海林家酒造蔵。いったん、外に出て道路を渡り、別館のような2棟を見学をした。

大正12年に建てられたこの蔵の内部は熊野神社長床の建築資料や修養団創設者の蓮沼門三の資料が展示されている。

自由民権運動喜多方事件資料展示。

明治15年11月、弾正ヶ原及び喜多方警察署を舞台として、いわゆる喜多方事件が発生した。会津藩や幕府は朱子学を唯一の学問としていたが、喜多方地方は陽明学系の中江藤樹の学問が伝わっており、「知行合一」を唱え「知ることは行うこと」を説く学問が好まれていた。その土壌の中で自由民権運動が生まれた。

県令三島通庸が推進した会津三方道路建設工事が喜多方事件の原因とされる。

肝煎屋敷 旧手代木家住宅。

江戸後期から明治初期まで、下三宮村の肝煎を務めた手代木家の住宅で、異色ある間取りや鍵型に曲げられた造りなど江戸後期の形態をとどめている。

1時間ほど見学をして、小田付の重伝建地区へ向かった。

喜多方市小田付(おたづき)伝統的建造物群保存地区。

南端にある駐車場に駐車。北近くにある観光案内所「会陽館」は閉館していたので、詳細が分からず案内板に頼って見学し、中ほどにある馬車の駅まで行って引き返した。どこに行っても解説はなく、B級グルメも観光客もいなかった。2018年8月に選定されたばかりで、まだ観光化は遅れている。

小原酒造付近。

新金忠。明治蔵。

小田付は、喜多方市の中心市街地に位置し、天正10年(1582年)に町割が行われ、近村から定期市が移された。近世には酒や味噌、醤油の醸造業も盛んになり、会津北方の交易の中心地として発展してきた。江戸時代末期までに成立した道路、水路、宅地割が良く残されており、その上に店蔵など多様な土蔵等が建ち並ぶ町並みは、在郷町・醸造町としての特徴的な歴史的風致を形成している。

喜多方市は、古くは「北方」と称した。小田付は、喜多方市の中心部を南流する田付川の左岸にあり、東の須蟹沢川との間に南北約900m、東西約 500mの中心市街を形成する。田付川の自然堤防上の南北に長い町並みである。この付近は、田付川が形成する扇状地の扇端にあたり、湧水と地下水に恵まれている。

会津地方は、古代には陸奥国耶麻郡に属した。平安時代に越後の城氏が進出するが、源頼朝の奥州征伐後は相模三浦氏系の佐原氏が地頭職となり、一族の猪苗代氏、北田氏、金上氏、蘆名氏、加納氏、新宮氏が会津各地を分割支配した。14 世紀後半に勢力を伸ばした蘆名氏が永享5年(1433)に新宮氏を滅ぼして会津一円を領し、会津守護を名乗った。蘆名氏はその後、奥州を代表する戦国大名となった。

天正 17 年(1589)に蘆名義広が伊達政宗に敗れると、豊臣秀吉の奥羽仕置により、翌 18 年(1590)に蒲生氏郷が会津に入部した。その後、慶長3年(1598)に上杉景勝、同6年(1601)に蒲生秀行、寛永4年(1627)に加藤嘉明が領した。寛永 20 年(1643)に保科正之が入部、三代正容から松平姓を用いるようになり、会津松平家が近世末まで当地を治めた。

田付川中流の中田付では、中世から定期市が開かれていたが、蘆名氏重臣の佐瀬大和守は、立地が不便であることを理由に市の移転を決定した。天正 10 年(1582)に新たに市の町として開いたのが小田付の始まりとされる。周辺の 93 集落から労働力を徴し、佐瀬の知行地であった近傍の台・南条・古屋敷・小田付の4つの集落を集め、小田付村と名付けたという。小田付は毎月2と7の日に市が立つ六斎市であった。その後、小田付は田付川右岸の小荒井と市日の争論を繰り返しながら、会津地方北部を代表する市町として発展した。この地には、天明元年(1781)に郡役所、同8年(1788)に小田付組と小荒井組を支配する代官所が置かれた。近世の小田付は、喜多方地方の商業、政治の中心地であった。

会津地方では、18 世紀末には常設の店舗を開くものが現れるようになり、小田付においても 19 世紀中頃には定期市は年初、年末のほか数度開かれる程度まで衰退し、常設店が軒を並べるようになった。

明治 14 年(1881)には、耶麻郡役所が塩川村から小田付に移転した。明治 17 年(1884)には、県令三島通庸の計画した会津三方道路のうち、小田付から飯豊山地の大峠を越える米沢街道が開通する

小田付は、余剰米と良質な水を利用した酒造業が盛んである。明暦3年(1657)に酒造株が制度化され、文化4年(1807)には、小田付村の5家が酒造株を持っていた。味噌醤油の醸造業も大規模に行うものがあり、明治 40 年(1907)に小田付の醸造家として5家を記録するが、うち3家は現在も操業を続けている。明治時代には、会津地方でも養蚕が盛んになり、小田付では製糸業が活況を呈した。

以上のように、小田付は近世以来、喜多方地方東部の農村を支える商業の中心であり続けた。

保存地区は、田付川とその東を流れる須蟹沢川に挟まれた南北約 900m、東西約 500mの範囲で、戦後の道路整備により部分的な改変はあるものの、近世初頭の町立てから近代初頭までに成立した道路、水路、宅地割などの地割が良く残されている。また、町並みを形成する建物の多くは、明治時代初期から昭和時代以降の建設で、会津地方の民家建築、とりわけ市町の建物の発展過程を示すものとして評価できる。

喜多方市は、蔵を撮影した写真家が昭和 47 年(1972)から各地で写真展を開催したことをきっかけとして、昭和 50 年(1975)にテレビで喜多方の蔵が紹介され、「蔵のまち」として全国的に有名となった。それによって観光客が激増し、同時に大正末期からの歴史をもつ喜多方ラーメンも全国区となった。

伝統的建造物の特性。

小田付の建物は、寄棟造茅葺の農家住宅を祖型とすると考えられる。道路側から座敷、居間、台所の床上部が並び、最奥が土間となる間取りである。建物は敷地の北側に寄せて建てられ、南側に通路をとって建物南面に玄関を設けるものが多い。

店舗の常設化に伴い、近世末期には、店舗の道路に面して下屋庇を設けて店舗空間を設けるもの【類型Ⅰ】と、独立した店舗棟を設けるもの【類型Ⅱ】が発生した。また、近代以降に現れた長屋形式のもの【類型Ⅲ】がある。

【類型Ⅰ】①主屋は寄棟造茅葺のまま、下屋庇を板葺ないし瓦葺としたもの。②主屋を切妻造の板葺ないし瓦葺としたもの。③主屋の座敷部分を大壁造土蔵塗の別棟とする。・主屋は道路側から店舗、座敷に用いられる。・敷地間口が比較的小さい例であり、板葺屋根は、後に瓦葺や金属板葺に改められる。

【類型Ⅱ】①店舗棟が二階建平入で、真壁造としたもの。②店舗棟が二階建平入で、大壁造土蔵塗としたもの。③店舗棟が妻入で、大壁造土蔵塗としたもの。・居住棟は切妻造の板葺ないし瓦葺(居室部分を茅葺とするものもある)とし、座敷は居住棟の表側に設ける。・店舗棟の二階に座敷を設けるものもある。・敷地間口にゆとりがある例であり、店舗の桁行は4間以上となるが、間口の狭い敷地では妻入の店蔵も存在する。

類型Ⅲ】①二階の建ちが低く、背後に居住部分と水廻りを延ばすもの。②建ちが高い二階を居住部分にあて、背後に平屋で水廻りを設けるもの。

以上のように、小田付には近世以来の住宅と店舗の発展をたどることのできる建物が豊富に残されている。

小田付には、店舗に用いた店蔵、家財蔵、商品蔵、米などを収めた穀蔵、醸造業の大規模な醸造蔵、内部に座敷をしつらえた座敷蔵などの土蔵造の建物がある。建築年代が明らかな建物は少ないが、大善矢部家質蔵(文政9年)、花摘家家財蔵(嘉永元年)など江戸時代後末期に遡るものが確認された。大規模な醸造蔵は大正時代以降のものである。座敷蔵は大善矢部家(明治 31 年)など、19 世紀末以降に普及した。

土蔵の屋根には、置屋根形式の「二重屋」と軒先の蛇腹を漆喰で塗り込めたものがあり、塗り込めの断面形状には、直線状の「切っ立て」と円弧状の「繰り」がある。塗り込めのものも構造は置屋根で、置屋根の軒廻りに木摺下地を組んで漆喰を塗る。瓦の普及以前は板葺で置屋根とするのが普通であった。なお、喜多方地方でいわゆる「喜多方瓦」が生産されるようになるのは、明治 23 年(1890)である。現在は、瓦葺または金属板葺であるが、置屋根に由来する大きな軒の出が小田付の土蔵を特徴づけている。

福島県喜多方市 熊野神社長床 山都そば


福島県喜多方市 熊野神社長床 山都そば

2024年07月14日 14時47分45秒 | 福島県

熊野神社長床。福島県喜多方市慶徳町新宮字熊野。

2024年5月30日(木)。

会津坂下町の亀ヶ森古墳・鎮守森古墳を見学後、熊野神社長床(ながとこ)へ向かった。

新宮熊野神社は、本宮・新宮・那智の熊野三山を祀っている。国の重要文化財に指定されている熊野神社長床(ながとこ)と呼ばれている拝殿があることで有名である。現在は、長床のほか、熊野三社本殿、文殊堂、観音堂が残されている。また、長床前にある大イチョウは高さ30m・根本周り8.1mで樹齢は600年といわれ、喜多方市天然記念物に指定されている。

新宮熊野神社は、平安時代後期の天喜3年(1055年)前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(会津若松市)に熊野神社を勧請したのが始まりであるといわれ、その後、寛治3年(1089年)後三年の役の時に頼義の子・義家が現在の地に熊野新宮社を遷座・造営したという。この時、同時に熊野本宮社を岩沢村(喜多方市上三宮町)、熊野那智社を宇津野村(喜多方市熱塩加納町宇津野)に遷座・造営したが、後年、この2社は新宮社に遷され、現在、神社には本宮・新宮・那智の3社が祀られている。

最盛期には300余の末社や寺院・霊堂が立ち並び、100人以上の神職がいたというが、12世紀末に越後の城長茂の押領により一時衰退した。その後、源頼朝によって200町歩の領田を与えられて再び勢力を取り戻した。奥州合戦後に会津を与えられた佐原義連の孫・時連は神社の北東に新宮城を築いて新宮氏を名乗り、これ以後約200年間会津盆地北西部(現在の喜多方市一帯)を支配することとなった。新宮氏は神社を守護神として崇め、多くの神器を寄進し、神社の保護に努めた。新宮氏が蘆名氏に滅ぼされると、後ろ盾を失ったことから神社は衰退していき、16世紀後半になると戦乱に巻き込まれた影響もあって社殿は荒れ果てたものになっていたという。

慶長年間に入り蒲生秀行が会津領主の時に50石を支給されたが、慶長16年(1611年)の会津地震で本殿以外の建物は全て倒壊してしまった。その後、慶長19年(1614年)、蒲生忠郷によってかつてのものよりも一回り小さい拝殿(長床)が再建され、会津松平氏時代は祈願所とされ、度々藩主の代参が行われた。明治時代初めに廃仏毀釈のあおりを受けて多くの仏像や文化財が失われてしまったが、神社は存続し、現在は神社近辺の集落住民で結成された保存会によって維持管理されている。

重文・熊野神社長床。

長床とは修験道(山伏)で用いる言葉で用途は拝殿とほぼ同じである。寄棟造、茅葺、正面9間、側面4間。建立年代は不明であるが、形式・技法から平安時代末期から鎌倉時代初期には拝殿として建立されたと思われる。その後、慶長16年(1611年)に大地震で倒壊し、同19年(1614年)に旧材を用いて再建されたが、かつてのものよりも一回り小さいものとなってしまった。1971年~74年にかけて解体修理復元工事が行われて、かつての姿に復元された。

長床の平面は、間口27m・奥行12mの長方形で、直径1尺5寸(45.4cm)の円柱44本が10尺(3.03m)の間隔で10列×5列に並び、柱間はすべて吹き抜けで壁がない。柱上には平三斗(ひらみつと)の組物が置かれ、中備(なかぞなえ)には間斗束(けんとづか)が用いられているなど純然たる和様建築である。

奥の上段にある熊野神社。

のちほど見学した喜多方「蔵の里」に熊野神社長床関係の展示があった。

山都そば伝承館。飯豊とそばの里センター。喜多方市山都町沢田。

日本百名山の飯豊山には1990年代末に登頂した。帰路に泊まった飯豊山荘の小屋主の母と息子は興味深かった。帰りのバスが来る前に、一人の客が蕎麦を注文して、母親が作って出した抹茶色の蕎麦が羨ましかった。そこで、熊野神社長床を見学後、山都町で蕎麦を食べてから、喜多方へ向かうことにした。

旅行雑誌で蕎麦店を検討したが、予約や定休日が面倒なので、ショーケース的な店を選んだ。11時30分頃到着。

伝承そば 900円。

 

このあと、喜多方「蔵の里」へ向かった。

福島県会津坂下町 福島県最大の古墳・亀ヶ森古墳と鎮守森古墳


福島県会津坂下町 福島県最大の古墳・亀ヶ森古墳と鎮守森古墳

2024年07月13日 13時51分29秒 | 福島県

国史跡・亀ヶ森古墳・鎮守森古墳。福島県会津坂下町青津。

2024年5月30日(木)。

会津坂下町埋蔵文化財センターを見学後、北西近くの亀ヶ森古墳・鎮守森古墳へ向かった。集落内の狭い道を抜けると、亀ヶ森古墳が現れ、案内板近くに駐車スペースがあった。

亀ヶ森古墳・鎮守森古墳は、会津盆地中央部の低地、旧宮川(鶴沼川)東岸の段丘縁に築造された2基の大形古墳で、一帯の段丘上では、両古墳のほか周溝墓群として男檀遺跡・宮東遺跡が立地し青津古墳群を構成する。

 

北寄りの亀ヶ森古墳は西向きの前方後円墳(全長127m、後円部の径約72m、高さ約8m、前方部幅約60.2m、高さ約6m)であり、福島県内で最大、宮城県名取市の雷神山古墳(全長168m)につぐ東北地方第二の規模をもつ古墳である。

その南約100mの地にある鎮守森古墳は、西に向けて平行する形で築造された前方後方墳(全長約55.9m、後方部一辺約29m、高さ約5m、後方部幅約18m、高さ約2.5m)である。

亀ヶ森古墳は、後円部上に稲荷神社・観音堂が立地するとともに前方部は墓地に利用された関係で、墳丘には大きな改変が加えられている。

墳丘は、後円部では3段築成。墳丘外表では河原石の葺石および埴輪(壺形埴輪・円筒埴輪・朝顔形埴輪)が検出されているほか、墳丘周囲には馬蹄形の周濠が巡らされる。墳丘くびれ部では造出も認められる。埋葬施設は明らかでない。出土した赤彩埴輪より、築造時期は古墳時代前期後半の4世紀後半頃と推定され、鎮守森古墳にやや後続するとされる。同時期の集落遺跡としては隣接する雨沼遺跡との関連性が推測される。

墳丘盛土層やその下層には礫敷遺構が検出されており、湧水から墳丘を守るためまたは墳丘を補強するための基礎礫敷と推測される。また後円部中央には小丘が遺存するが、築造当時の旧状か後世の造作かは明らかでない。

亀ヶ森古墳から鎮守森古墳。

鎮守森古墳は、亀ヶ森古墳の南側約100mに位置する。現在は後方部上に八幡神社が立地する。

墳丘主軸を亀ヶ森古墳と平行とし、前方部を西方に向ける。墳丘は、後方部では3段築成。墳丘外表で葺石は認められていない。

墳丘周囲には墳丘と相似形(前方後方形)の周溝を持つ。埋葬施設は明らかでない。出土品として底部穿孔の二重口縁壺がある。出土土器より、築造時期は古墳時代前期後半の4世紀後半頃と推定され、亀ヶ森古墳とはほぼ同時期に位置づけられるが、亀ヶ森古墳にやや先行するとみられる。

鎮守森古墳から西北には雪を抱く飯豊山の山並みが見える。

日本百名山の飯豊山には1990年代末に登頂した。帰路に泊まった飯豊山荘の小屋主の母と息子は興味深かった。帰りのバスが来る前に、一人の客が蕎麦を注文して、母親が作って出した抹茶色の蕎麦が羨ましかった。

そこで、熊野神社長床を見学後、山都町で蕎麦を食べてから、喜多方へ向かうことにした。

福島県 会津坂下町埋蔵文化財センター②縄文土器 陣が峯城跡


福島県 会津坂下町埋蔵文化財センター②縄文土器 陣が峯城跡

2024年07月12日 13時02分36秒 | 福島県

会津坂下町埋蔵文化財センター展示室。福島県会津坂下町青木字青木。

2024年5月30日(木)。

会津盆地を流れる河川は、ここ会津板下町で阿賀川にまとまり日本海側の越後方面へと流れていく。会津盆地で最も早く日本海側より文化が伝わるのが会津板下である

国史跡・陣が峯城跡。

陣が峯城跡は、福島県西部、会津盆地北西部に位置する平安末期、12世紀に営まれた城館跡である。この地は阿賀(野)川が新潟県に抜ける盆地の出入り口にあたり、城跡は盆地を東に一望する比高約20mの台地縁辺、標高約195mに立地する。

地元ではこれを「ジョウノシロ」と呼称しているが、近世にはその名が知られ、会津藩が文化6年(1809)に編纂した『新編会津風土記』に、越後の豪族城長茂が築城した二十八館のうちの一つであること、焼け米が出土すること、地元では長茂の居館が焼き討ちされたと伝えていることなどが記されている。

12世紀の城館遺跡は類例がきわめて乏しいが、陣が峯城跡にみられる立地と二重の堀を巡らす構造は、同じ時期の奥州藤原氏の拠点「平泉館」とされている柳之御所遺跡と共通し、会津地方における有力な政治的拠点である城館と考えられる。

陣が峯城のある一帯は平安時代末期は摂関家領の会津蜷河荘( いながわ・稲河 )であったことが確認されており、永久2年(1114年)に藤原忠実が伝領している。そのような経緯より、城の築城者は蜷河荘の管理に携わっていた人物であると思われる。

この地域は、城氏が勢力基盤をもっていた越後と阿賀野川を通じて直結する地理的条件をもっていた。

このようなことから、忠実の孫にあたる九条兼実の日記『玉葉』に登場する「藍津之城(あいづのしろ)」は陣が峯城である可能性がある。なお、伝承では越後の城助職(長茂)によって建てられたといわれている。城氏は慧日寺衆徒頭・乗丹坊とも強い結びつきがあるなどこの時期の会津に大きな勢力を保持していた。一方、『恵隆寺縁起』によれば陣が峯城は城助職(長茂)と乗丹坊によって攻められたという。

城跡は平面台形状を呈し、段丘崖である東辺をのぞく周囲は二重に堀を巡らす。内部は東西約110m、南北約175mの広さで、東に緩く傾斜するがおおむね平坦である。西辺部のみに高さ約2.5mの土塁が伴う堀は自然の地形を利用したものと推定されるが、二本が平行し堀の間は土塁状をなすことから、人工的に整形したことが窺える。堀の規模は南北辺が西辺より大きく、幅20m、深さ15mほどもある。

郭内の中央やや北よりの地点と東辺部において4棟の掘立柱建物跡、1基の鍛冶炉跡、多量の炭化した遺物のほか、多数の土坑や溝跡が検出された。掘立柱建物跡は重複しており、いずれも桁行五間以上の比較的大型の建物である。

出土品は中国・朝鮮半島産を含む陶磁器類、木製品、金属製品など多様である。陶磁器類では、中国産の白磁の四耳壺4個体のほか水注、碗・皿、青白磁、高麗青磁碗など奢侈品が目立つ。炭化した椀・盤・挽物容器、飯類、穀豆類などや和鏡・錘、多様な鉄鏃などは当時の食生活や遺跡の性格を考える上で重要である。また、炭化木製品や被熱した陶磁器が多く、火災に遭って廃絶したことがうかがえる。これらの遺物から城跡は12世紀前半代に築かれその後半のうちに廃絶したものと思われる。

城氏は、平安時代から鎌倉時代初期に越後国に栄えた豪族で、越後城氏ともいう。平将門と戦った平貞盛(後裔が平清盛)の弟平繁盛の子の平維茂の系統で、維茂の子で秋田城介の繁茂を祖とする。前九年の役(1062年)の前哨戦で安倍氏と戦った繁茂の子貞茂が城太郎(城介の家の長男の意)と呼ばれ、子孫が城氏を名乗るようになった。越後国北部を領有し、平氏政権が成立した時期にはさらに勢力を伸ばした。

城氏は、国領・荘園を問わず阿賀野川と信濃川を基軸とし、越後国、会津、北信濃に交流・勢力を広げており、そこに関川を通して直江津に至るような交流・馬輸送ルートが存在したと考えられる。

養和元年(1181年)、時の当主である城資永(助長)は平家から信濃国で挙兵した源義仲の追討を命じられたがその直後に急死し、後を継いだ弟の資職(助職)が義仲と横田河原の戦いにおいて対戦するが敗れた。その後、資職は平家によって越後守に任じられたが、城氏の勢力は急速に衰退する。平家が滅亡したあと、城長茂(資職より改名)は梶原景時を頼って源頼朝に仕え、鎌倉幕府の御家人となったが、建仁元年(1201年)、京において叛乱を企てて建仁の乱を起こし、幕府軍に討伐された

 

埋文センター見学後、近くにある亀ヶ森古墳・鎮守森古墳へ向かった。

福島県 会津坂下町埋蔵文化財センター①古墳時代 亀ヶ森古墳 鎮守森古墳


福島県 会津坂下町埋蔵文化財センター①古墳時代 亀ヶ森古墳 鎮守森古墳

2024年07月11日 16時17分49秒 | 福島県

会津坂下町埋蔵文化財センター。福島県会津坂下町青木字青木。

2024年5月30日(木)。

湯川村の道の駅で起床。会津坂下町埋蔵文化財センターは偶然に知った。国史跡で福島県最大の古墳・亀ヶ森古墳と隣接する前方後方墳の鎮守森古墳を見学するルート確認のため、自宅でグーグルマップで眺めているとルート途中に埋文センターがあることを知り、古墳見学前のガイダンス施設かと思い、訪問することにした。グーグルマップには8時30分開館とあったのも日程消化上都合がいい。ただし、それ以外は9時開館になっている。

8時30分ごろ駐車場に入ると、よくある学校校舎の再利用だった。受付で尋ねると、2階にあると言われた。展示室に入ると、終始女性職員が横で質問に答えてくれた。古墳だけかと思ったが縄文から近世までの埋蔵文化財が展示されていた。会津若松市の福島県立博物館が休館状態だったので会津の古代史を理解する点で参考になった。

会津地方には、古くから阿賀野川(阿賀川)をさかのぼって多くの人や文化の流入があった。盆地西側の丘陵には出崎山遺跡や鍛冶山遺跡など旧石器時代の遺跡がある。

古墳時代になると県内最古級の杵ヶ森古墳(4世紀前半)や県内で最大の亀ヶ森古墳(墳丘の長さ127m)、東北地方の前方後方墳で初めて銅鏡が出土した森北1号墳などがあり、この地に有力豪族が勢力を伸ばしていたことが分かる。また、高寺山伝承が物語るように、仏教に関する文化財が多数存在し、仏教文化が花開いていた。

近世には、阿賀川・只見川を利用した水上交通網とともに陸上交通網も発達し、越後街道の宿場町として発展してきた。

宇内青津(うないあおつ)古墳群は、会津坂下町にある16基の古墳からなる古墳群である。前方後円墳13基と前方後方墳3基が残る全国有数の大型古墳群である。この古墳群の主要古墳のほとんどは前期古墳と考えられる。古墳時代前期を通じて古墳が継続的に築造された地域は、大和などの中枢を除けば列島内を見渡してもほとんど存在しない。

福島県会津美里町 続日本100名城・向羽黒山城跡 伊佐須美神社 中田観音