いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

福島県会津坂下町 恵隆寺・立木観音(会津ころり三観音) 重文・五十嵐家住宅 

2024年07月20日 15時52分27秒 | 福島県

重文・立木観音堂。恵隆寺(えりゅうじ)。福島県会津坂下町塔寺字松原。

2024年5月31日(金)。

柳津虚空蔵堂と「やないづ縄文館」の見学を終え、会津若松市方面へ向かい、会津ころり三観音の一つ

である「立木観音」に立ち寄った。旧街道から門前道に入ると広い駐車場があった。

奥から境内に入ろうとしたら、仁王門から入れという案内板があったので、駐車場入口へ戻って、仁王門から参道を進み、300円の拝観料を受付で支払って、ほかの数人の客と観音堂に入ると、テープの解説を聴かされた。

会津ころり三観音のうちで初めて、本尊を拝むことができた。幕で隠されている十一面千手観音は巨大で、脇侍群も数が多く壮観だった。抱きつき柱に抱きつくこともできた。当然堂内は撮影禁止である。

恵隆寺は、真言宗豊山派の寺院。山号は金塔山。本尊は十一面千手観音菩薩通称は立木観音。会津ころり三観音の一つで、会津三十三観音第31番札所である。

伝承によれば、欽明天皇元年(540年)に梁の僧・青岩高寺山(寺の北西、会津坂下町と喜多方市の境にある山)に庵を結び、その後、舒明天皇6年(634年)に僧・恵隆が恵隆寺と名付けたという。また、大同3年(808年)、空海の意を受けて坂上田村麻呂が創建したものという。いずれの伝承もにわかに史実とは認めがたいものであり、当寺の創建の正確な時期や経緯については不明と言わざるをえない。しかし、会津で現存している寺院の中では最も古いとされている。伝説の寺、高寺が栄えた頃、この地には高寺への本道があり、大門があったという、現在も「大門」の字(あざな)が残っている。そして、村内に金をちりばめた壮麗な塔があったので、小金塔村と言っていた。

後、徳一が再建しているが、現在地に移ったのは、建久元年(1190)という。一時は周辺地域を支配するほどの一大伽藍を有し、36坊もの堂宇を擁していたが、現在は仁王門、本堂、観音堂(立木観音堂)のみが残されている。

重文・観音堂。

立木観音堂とも称され、鎌倉時代後期(1275-1332)の建立といわれている。その後、慶長16年(1611年)の会津地震で倒壊するが、元和3年(1617年)に修理・再建された。桁行5間、梁間4間、向拝一間の寄棟造で屋根は茅葺きである。木割雄大な和様建築で、剛健な風致があり鎌倉時代建築の特色を具えている貴重な建造物と評価が高い。

正面中央に一間の向拝を附加して、低い雨石葛石をまわしただけの地盤上に建てられ、四周には廻縁をめぐらし、主屋は全て円柱、縁長押、腰抜・内法長押、頭貫をわたしてある。柱頭に三斗を組み、斗拱間には揆束を飾り、軒は二重の繁すい、軒先を隅に軽く反らせて、屋根棟には地方特有の茅葺棟飾りを作っており、すべて和様の構架手法と細部形式を型通りに踏んでいる。

内部は巨大な円柱や豪壮な板壁などがあり、本尊の重文・十一面千手観音菩薩と脇侍の二十八部衆像、風神・雷神の像が完全に揃うのも見どころである。

木造千手観音立像。

42臂の千手観音像。一木造で総高8.5m、像高7.4mの大きさで、一木造としては日本最大級の仏像で、鎌倉時代の作といわれる。根が付いたケヤキ(カツラとも)の立木に直接彫り込んだ一木造りで、床下にはいまなおケヤキの根が張っていると言われ、長年「立木観音」と呼ばれて親しまれてきた。

千手観音と共に安置されなければならない二十八部衆や雷神・風神は2m弱の大きさで、密教様式を忠実に表現している。

堂内には「だきつきの柱」という大きな柱があり、観音様を見ながら柱に抱きつき願いごとをすると、“ころり”と成就できるとされている。

2000年に再建された境内の小金塔。

 

小金塔の横から駐車場へ戻ると、平地側に移築された重文・五十嵐家住宅が建っている。

重文・五十嵐家住宅。

旧五十嵐家住宅は、会津坂下町中開津の五十嵐氏より寄贈を受けたもので、桁行8間半、梁間3間半、床面積117.19平方メートル。直屋(すごや、曲り家ではない長方形の平面形態)の、江戸時代中期、会津盆地部の中堅層農家(本百姓)の典型的な三間取り広間型の家構えであり、梁束の墨書から享保14年(1729)の建築と分かった。土台がなく、丸石の上に直接柱が立てられている。

平成9年度に移築復原が終了した。

「おめぇ」とよばれる「なかのま」は土間に直接わらやムシロをひいた土座であり、どの部屋にも天井がないなど、古い様式が残っており、当時の庶民の生活をうかがい知ることができる。

 

このあと、昼食時間前到着となる下郷町の大内宿へ向かった。

福島県柳津町 やないづ縄文館②奥会津の縄文時代 石生前(いしゅうまえ)遺跡


福島県柳津町 やないづ縄文館②奥会津の縄文時代 石生前(いしゅうまえ)遺跡

2024年07月19日 12時18分53秒 | 福島県

やないづ縄文館。福島県柳津町柳津下平。

2024年5月31日(金)。

 

やないづ縄文館には、柳津町石生前(いしゅうまえ)遺跡などで発掘された土器・石器・土偶や復元住居などが展示されている。土器は縄文中期~後期そして晩期のもので、中でも新潟などとの交流を物語る中期中頃の火炎系土器などが特徴である。2階収蔵庫も一般公開しており、調査作業中の男性職員から説明を受けられる。

石生前(いしゅうまえ)遺跡。

只見川東岸の河岸段丘面、標高約280mに立地し、周囲を石生沢などに浸食されているため舌状に張出している。江戸時代の「会津石譜」に記載されており、第二次世界大戦後の開墾などで多量の遺物が採集され、火炎土器や三十稲場式土器を出土する遺跡として著名であった。1987年に発掘調査が実施され、縄文時代中期の複式炉を伴う住居跡38軒、柄鏡式の敷石住居跡1軒、フラスコ状土壙を含む64基の土壙、そして多量の土器が廃棄された捨場などが検出された。

 

このあと、昼食時間前到着となる下郷町の大内宿へ向かった。昭和村の喰丸小経由を予定していたが、檜枝岐村などと併せて別途機会とすることにした。

福島県柳津町 やないづ縄文館①人体像把手付土器「人体がついた土器たち展」

新潟県 長岡市馬高縄文館④三十稲場式土器 藤橋遺跡 


福島県柳津町 やないづ縄文館①人体像把手付土器「人体がついた土器たち展」

2024年07月18日 10時44分11秒 | 福島県

やないづ縄文館。福島県柳津町柳津下平。

2024年5月31日(金)。

5月30日に会津坂下町埋蔵文化財センターを見学したときに、やないづ縄文館のポスターが掲示されていたので、見学することにした。柳津虚空蔵堂参拝後に、近くの道の駅「会津柳津」で尋ねると、すぐ近くだと教えられたが分からなかった。「ほっとinやないづ」の中にあるので、気が付きにくい。

やないづ縄文館には、柳津町石生前遺跡などで発掘された土器・石器・土偶や復元住居などが展示されている。土器は縄文中期~後期そして晩期のもので、中でも新潟などとの交流を物語る中期中頃の火炎系土器などが特徴である。2階収蔵庫も一般公開している。入場無料。

福島県柳津町の池ノ尻遺跡から出土した縄文土器「人体像把手(とって)付土器」の修復が完了し、27日から町内のやないづ縄文館で公開される。精巧な表現の人体像が対になって付けられているのが特徴で、縄文文化を考える貴重な資料となっている。

 土器は口径37センチ、胴部の最大径57・6センチ、推定の高さは約80センチ。奈良市の元興寺文化財研究所で修復・強化作業を行っていた。口径部の一対の人体像は指先まで細かく表現され、ブレスレットのような飾りを付けていることも確認できる。

 町文化財専門アドバイザーの長島雄一さん(66)によると、土器の多くは調理具などに用いられたが、今回公開する土器は調理具には大きすぎるため、新生児のひつぎとして使われた可能性もあるという。長島さんは「一対の人体像は我が子の復活・再生を祈る両親の姿を表している可能性がある」と考察している。(福島民報)

 土器は「人体像把手付(とってつき)土器」。町内にある縄文時代中期中葉(約5千年前)の池ノ尻遺跡から2002年に出土した。04年に町に寄贈されたが、長く大量の土器片の一つとして保管されていた。

 22年、資料整理の最中に、土器の破片に人の顔のような文様があることに長島さんが気づいた。町教育委員会や県立博物館と分析し、土器の取っ手部分に施された人体像の装飾だとわかった。

 土器は奈良県の専門施設で修復され、昨年末、高さ推定約80センチ、つぼ口の直径約37センチの大型土器として復元された。約17センチの人体像は、顔に目、鼻、口があり、胴体や腕、指まで精巧に作られている。

 福島県柳津町で出土した、人体像の飾りが付いた「激レア縄文土器」の復元作業が完成し、同町のやないづ縄文館で公開されている。同様の人体像が付いた土器は、土器が大量に出土した町内の石生前(いしゅうまえ)遺跡や、郡山市や須賀川市、県境の新潟県阿賀町の縄文遺跡に見られるという。

 長島さんは、土器は幼くして死んだ子どもの棺(ひつぎ)や、再生への祈りが投影された祭祀(さいし)用の道具などの可能性があると推測する。「謎が多いが様々な気づきを私たちに与えてくれる土器だ。縄文人の感性の豊かさを、多くの方に想像していただきたい」と話している。(朝日新聞)

(🍓口が開いているもの、閉じているもの。阿吽(あうん)・陰陽という概念か。)

福島県西会津町 鳥追観音 柳津町 柳津虚空蔵


福島県西会津町 鳥追観音 柳津町 柳津虚空蔵

2024年07月17日 13時28分58秒 | 福島県

鳥追観音。如法寺。福島県西会津町野沢字如法寺。

2024年5月31日(金)。

道の駅「湯川」で起床。ここは、どこに行くにも好位置。WIFI休憩室もある。会津ころり三観音だけは参拝する予定だったので、そのひとつの西会津町の鳥追観音へ向かった。午前8時30分開門の前に到着。

如法寺(にょほうじ)は、真言宗室生寺派の寺院。山号は金剛山。本尊は聖観世音菩薩。この寺には境内に観音堂があり、「鳥追観音」の名で知られる。大同2年(807)、仏都会津の祖となった法相宗の僧・徳一が「会津西方浄土」として開創したと伝わる。

仁王門。

正面にある仁王門は観音堂同様に慶長18年(1613)に再建されたもので、入母屋、鉄板葺き、三間一戸、単層門で中世からの工法も随所に見られる貴重なもので、県重要文化財。

観音堂は、慶長16年(1611)の大地震で倒壊後、慶長18年(1613)会津藩家老・岡重政により再建された。東西向拝口・三方開きの特殊な構造。左甚五郎作、『隠れ三猿』『昇り龍、降り龍』『梅に鶯』の彫刻が有名。県重文県重要文化財。

「西方浄土」へ安楽往生が叶うという道理を示す為に、観音堂は、東西向拝口・三方開きという独特な構造になっており、東口から入り、鳥追観音に祈願したら、戻らずに西口から出ると、その彼方が「西方浄土」の世界となる参拝順路となっている。そのため、全国でも珍しい「東西向拝口」になっている。

観音堂内の「善男柱」「善女柱」両柱に抱きつき祈願すると観音様のお導きで良縁が頂けると言われている。

また、身代りなで仏(金剛力士像)をなでで祈願すれば、ころりと大往生が叶うというので「ころり観音」とも尊称され、会津ころり三観音の一に数えられている。

堂内は撮影禁止。

観音堂と一休三小僧。

樹齢1200年の高野槙。

鳥追観音如法寺開創の時に記念植樹されたと伝えられる樹齢1200年の高野槙(コウヤマキ)。東北最大の大きさで県天然記念物。

住職の子供と思われる女の子と男の子が境内の準備をしている若い住職めがけて走っていく風景はほのぼのとしていた。

 

柳津虚空蔵。円蔵寺。福島県柳津町柳津字寺家町。

「柳津虚空蔵の裸まいり」は1980年代からニュース映像や旅行雑誌で知っているので、どんな寺か関心があったので訪れた。駐車場から撮影禁止の参道を歩くと広い境内に着き、右の石段を下ると虚空蔵堂が見えてきた。

円蔵寺(えんぞうじ)は、臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は霊巌山。本尊は虚空蔵菩薩。この寺にある虚空蔵堂は「柳津虚空蔵」(やないづこくぞう)として知られ、能満虚空藏菩薩(清澄寺、千葉県鴨川市清澄)、大満虚空藏菩薩(日髙寺、茨城県那珂郡東海村)、福満虚空藏菩薩(圓藏寺、福島県河沼郡柳津町)が、日本三所の虚空藏菩薩といわれる。

この寺の創建年代等については諸説あって不詳であるが、縁起などによれば807年(大同2年)空海作とされる虚空蔵菩薩を安置するため、徳一が虚空蔵堂を建立したのが始めとされる。円蔵寺は虚空蔵堂(柳津虚空蔵堂)の別当寺として建立されたと伝えられる。南北朝時代の至徳年間(1384年~1387年)臨済宗に改められた。

毎年1月7日に七日堂裸まいりが行われる。

「柳津虚空蔵の裸まいり」。

正月七日の夜に行われる福満虚空藏菩薩圓藏寺の寺行事。こうこうと燃えるかがり火の中、大鐘を合図に雪の中下帯一つの男たちが菊光堂の大鰐口を目指す。これは民衆の力で只見川に棲む竜神を追い払ったという伝説にちなんだ伝統行事で、1年の幸せと無病息災を祈る行事である。

虚空蔵堂から眺める只見川。

 

このあと、近くにある「やないづ縄文館」へ向かった。

 


福島県喜多方市 三津谷集落の煉瓦蔵・若菜正男家

2024年07月16日 12時32分03秒 | 福島県

三津谷集落の煉瓦蔵・若菜正男家。三階蔵・蔵座敷。福島県喜多方市岩月町宮津勝耕作。

2024年5月30日(木)。

小田付の重伝建地区を見学後、北へ向かい、三津谷集落の煉瓦蔵・若菜家を目指した。ナビには入っていないので、近くで尋ねようと思い、道標のある近代化産業遺産「三津谷の登り窯」に着いた。豪壮な登り窯だが、誰もいなかった。ナビや山川出版社「歴史散歩」などを参照して、道を戻り、三津谷集落に入ると、駐車スペースがあり駐車した。若菜家はどこにあるのかと思っていると、トラクターに乗って出かけるところの男性が「何か用か」と声を掛けてきたので、若菜家を見学しに来た、と答えると、自分の家だとトラクターから降りてきた。

よく見ると、家の入口に案内板があった。

中に入り、母屋で200円を支払った。

しおりを渡されて、10分ほど簡単な説明を受けた。煉瓦は昔のままだが、屋根瓦は割れやすいので、名古屋方面の瓦に交換したという。名古屋に瓦工場はないので確認すると、三河高浜の瓦らしい。あとは、自由に見学していいと言って出て行った。

4棟の煉瓦蔵を所有する若菜家は、喜多方三津谷で代々農業を営んでいる。明治時代に三津谷で登り窯が創業され、その窯で使用する薪を若菜家で提供していた。その謝礼としてレンガを譲り受け、現在に残る煉瓦蔵が計画的に建造された。

三津谷の煉瓦蔵群を設計建築したのは、東京で修行をし当時の最先端の技術を学んだ、喜多方市出身の煉瓦師・田中又一で、三津谷の登り窯で焼かれた美しい総煉瓦造りの蔵は、それぞれ細かいデザインが違い、田中又一の設計技術の高さを物語っている。

喜多方にはおよそ100 棟の煉瓦蔵が、登り窯で煉瓦を焼いた樋口市郎と、東京に出て煉瓦積みの修行をつんだ田中又ーの二人三脚により生み出されている。

明治37年に建てられた若喜商店の煉瓦蔵が第一号だといわれており、二階の窓の外側にしつらえられたバルコニ一風の装飾が明治の香りを感じさせる。

三津谷は、全戸がレンガ蔵を持っている集落で、5世帯の農家に7棟の飴色の煉瓦蔵があり異国情緒を漂わせている。

特に国登録有形文化財で産業遺産に選定されている若菜正男家の家財道具蔵、作業蔵、味噌蔵、そして蔵座敷と四棟が中庭を囲む風景は圧巻で、異国情緒を感じさせるアーチ形の入り口や窓は、長崎五島列島のカトリック教会を見ている錯覚におちいる。

三階蔵(大正5年建造)は、当時では珍しい三階構造の蔵で、42,500個もの煉瓦が使用されている。

玄関のポーチとの取り合わせは教会建築のように見えてくる。

アーチ窓縁飾りの石の上部には、家紋と「若」「菜」が刻み込まれている。

蔵座敷(大正6年建造)は、三階蔵に接続して建てられ、喜多方式木骨煉瓦造りというどっしりとした構造をもつ。座敷は、欅を使用し漆塗りを施した贅をつくした意匠になっている。来客時の宿や会合や茶室として使用されていた。

味噌蔵(大正10年建造)の、右入口は、当時、燃料であった炭を貯蔵していた炭蔵として使用していた。左入口は、今も味噌蔵として、自家生産の米を使用し、こうじ、大豆、塩のみで、自家仕込み手作り味噌を作っている。代々この地で農家を営む若菜家では、自然が豊かな風土を源に、現在も米、大豆、ブドウ、菜種を栽培加工販売している。

農作業蔵(明治43年建造)は、当時、主にわらを加工したり、脱穀や精米などの農作業をする蔵として使用していた。蔵では、作業するだけではなく、穀物の貯蔵や干し草などを貯蔵していた。2階には、52畳の座敷があるという。

農作業蔵内部。

農作業蔵から三階蔵方向。

三階蔵から農作業蔵方向

若菜家を出て、北へ歩くと三階蔵と蔵座敷の背面が見えた。

北へさらに進んで、振り返ると教会らしさが増していた。

そこにある民家はラーメン屋になっていた。

 

国道に戻り、道の駅「きたかた」に立ち寄ったが山間部なので、道の駅「湯川」で車中泊することにした。

福島県喜多方市 蔵の里 重伝建・小田付地区