重文・立木観音堂。恵隆寺(えりゅうじ)。福島県会津坂下町塔寺字松原。
2024年5月31日(金)。
柳津虚空蔵堂と「やないづ縄文館」の見学を終え、会津若松市方面へ向かい、会津ころり三観音の一つ
である「立木観音」に立ち寄った。旧街道から門前道に入ると広い駐車場があった。
奥から境内に入ろうとしたら、仁王門から入れという案内板があったので、駐車場入口へ戻って、仁王門から参道を進み、300円の拝観料を受付で支払って、ほかの数人の客と観音堂に入ると、テープの解説を聴かされた。
会津ころり三観音のうちで初めて、本尊を拝むことができた。幕で隠されている十一面千手観音は巨大で、脇侍群も数が多く壮観だった。抱きつき柱に抱きつくこともできた。当然堂内は撮影禁止である。
恵隆寺は、真言宗豊山派の寺院。山号は金塔山。本尊は十一面千手観音菩薩。通称は立木観音。会津ころり三観音の一つで、会津三十三観音第31番札所である。
伝承によれば、欽明天皇元年(540年)に梁の僧・青岩が高寺山(寺の北西、会津坂下町と喜多方市の境にある山)に庵を結び、その後、舒明天皇6年(634年)に僧・恵隆が恵隆寺と名付けたという。また、大同3年(808年)、空海の意を受けて坂上田村麻呂が創建したものという。いずれの伝承もにわかに史実とは認めがたいものであり、当寺の創建の正確な時期や経緯については不明と言わざるをえない。しかし、会津で現存している寺院の中では最も古いとされている。伝説の寺、高寺が栄えた頃、この地には高寺への本道があり、大門があったという、現在も「大門」の字(あざな)が残っている。そして、村内に金をちりばめた壮麗な塔があったので、小金塔村と言っていた。
後、徳一が再建しているが、現在地に移ったのは、建久元年(1190)という。一時は周辺地域を支配するほどの一大伽藍を有し、36坊もの堂宇を擁していたが、現在は仁王門、本堂、観音堂(立木観音堂)のみが残されている。
重文・観音堂。
立木観音堂とも称され、鎌倉時代後期(1275-1332)の建立といわれている。その後、慶長16年(1611年)の会津地震で倒壊するが、元和3年(1617年)に修理・再建された。桁行5間、梁間4間、向拝一間の寄棟造で屋根は茅葺きである。木割雄大な和様建築で、剛健な風致があり鎌倉時代建築の特色を具えている貴重な建造物と評価が高い。
正面中央に一間の向拝を附加して、低い雨石葛石をまわしただけの地盤上に建てられ、四周には廻縁をめぐらし、主屋は全て円柱、縁長押、腰抜・内法長押、頭貫をわたしてある。柱頭に三斗を組み、斗拱間には揆束を飾り、軒は二重の繁すい、軒先を隅に軽く反らせて、屋根棟には地方特有の茅葺棟飾りを作っており、すべて和様の構架手法と細部形式を型通りに踏んでいる。
内部は巨大な円柱や豪壮な板壁などがあり、本尊の重文・十一面千手観音菩薩と脇侍の二十八部衆像、風神・雷神の像が完全に揃うのも見どころである。
木造千手観音立像。
42臂の千手観音像。一木造で総高8.5m、像高7.4mの大きさで、一木造としては日本最大級の仏像で、鎌倉時代の作といわれる。根が付いたケヤキ(カツラとも)の立木に直接彫り込んだ一木造りで、床下にはいまなおケヤキの根が張っていると言われ、長年「立木観音」と呼ばれて親しまれてきた。
千手観音と共に安置されなければならない二十八部衆や雷神・風神は2m弱の大きさで、密教様式を忠実に表現している。
堂内には「だきつきの柱」という大きな柱があり、観音様を見ながら柱に抱きつき願いごとをすると、“ころり”と成就できるとされている。
2000年に再建された境内の小金塔。
小金塔の横から駐車場へ戻ると、平地側に移築された重文・五十嵐家住宅が建っている。
重文・五十嵐家住宅。
旧五十嵐家住宅は、会津坂下町中開津の五十嵐氏より寄贈を受けたもので、桁行8間半、梁間3間半、床面積117.19平方メートル。直屋(すごや、曲り家ではない長方形の平面形態)の、江戸時代中期、会津盆地部の中堅層農家(本百姓)の典型的な三間取り広間型の家構えであり、梁束の墨書から享保14年(1729)の建築と分かった。土台がなく、丸石の上に直接柱が立てられている。
平成9年度に移築復原が終了した。
「おめぇ」とよばれる「なかのま」は土間に直接わらやムシロをひいた土座であり、どの部屋にも天井がないなど、古い様式が残っており、当時の庶民の生活をうかがい知ることができる。
このあと、昼食時間前到着となる下郷町の大内宿へ向かった。