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福島県会津美里町 続日本100名城・向羽黒山城跡 伊佐須美神社 中田観音

2024年07月10日 18時02分39秒 | 福島県

続日本100名城・国史跡・向羽黒山城(むかいはぐろやまじょう)跡。福島県会津美里町船場。

2024年5月29日(水)。

会津若松城見学後、最上階の展望室から見た、南の向羽黒山城跡へ向かった。道路を南進して城山の西麓に差し掛かると会津本郷陶磁器会館会津美里町観光案内施設「本郷インフォメーションセンター」があったので、駐車場に車を停めて受付へ行った。ここでは、向羽黒山城見学の案内所で詳細なパンフレットや資料を入手した。どこが車道の入城口かと尋ねると、道路反対側の和菓子屋横が城を巡る車道の入口なので、道なりに登れば、岩崎山最高点にある一曲輪直下の駐車場に着くということだった。

駐車場に着き、案内板の地点から登っていった。途中には「堀と土塁」が残っていた。入口から5分ほどで一曲輪に着いた。

一曲輪は実城(本丸)だが削平された平場は幅が狭い。

一曲輪から会津若松城方向への眺望。ほとんど見えない。

一曲輪から会津盆地の眺望。

お茶屋場曲輪から会津若松城方向への眺望。

 

向羽黒山城は、永禄11年(1568年)に蘆名盛氏により、白鳳三山の一つ羽黒山の奥に面して向羽黒山とも称した最高峰・岩崎山に築かれた。城の規模は、東西1.4km、南北1.5km、面積は50haである。東を流れる阿賀川や東部分の崖などの天然の要害に加えて土塁や堀などの防御施設がいたるところに造営されている。

岩崎山山頂の本丸(実城)跡を中心に現在公園となっている二の丸跡、三の丸跡、伝盛氏屋敷跡などの郭をはじめ、竪堀や空堀、虎口、石塁の跡などの戦国山城の名残が城跡内各所に残されている。城の東側直下を阿賀川が流れており、さらには会津盆地一円を望むことができる。

会津の戦国大名葦名氏の全盛期を築いた16代盛氏は、度重なる戦いで新潟県東部から会津地方全域、中通り地方のほとんどを従え、百万石の会津太守と謳われ葦名家中興の祖と呼ばれる。

向羽黒山城に隠居した盛氏は死ぬまでここに住んで蘆名氏の政務を見た。天正17年(1589年)、蘆名氏は摺上原の戦いで伊達政宗に敗れて滅亡するも城は存続し、会津領主となった政宗や蒲生氏郷、上杉景勝も詰の城として使用していた。慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いで上杉氏の従う西軍は敗北し、上杉氏も所領を転封されることに伴い、廃城となった

 

向羽黒山城に歴史を読み解く−日本屈指の山城の魅力− 千田嘉博

 福島県会津美里町にそびえる向羽黒山城は、東北屈指の戦国の名城である。この城を築いた蘆名氏の先祖は、鎌倉時代に神奈川県横須賀市周辺を本拠にした三浦氏で、1189年(文治5)に起きた奥州合戦の戦功によって会津に領地を得た。その後三浦氏は蘆名氏を名乗って代々この地域を治め、戦国時代の1541年(天文10)に当主になった盛氏は黒川城(後の会津若松城)を居城に領域を押し広げた

そして盛氏は黒川城から阿賀川を挟んで南西6kmほどにある向羽黒山(岩崎山)に1561年(永禄4)から新城を築きはじめた。これが向羽黒山城で1568年(永禄11)に完成したと伝えられる。黒川城と向羽黒山城は今でもお互いを見通すことができる。もともとの城であった黒川城は「公」の政治拠点の役割を果たし、一方の向羽黒山城は蘆名氏の「私」の城であり、強力な軍事拠点としての役割をもった。

 蘆名氏のような戦国大名の公・私の城の使い分けは、上杉謙信の城でも確認できる。公的な政庁が新潟県上越市の館城「御館」(おたて)で、謙信の私的な本拠が同じく上越市にあった山城の春日山城だった。そして時代は山城を中心として動いていった。向羽黒山城が戦国後期の蘆名氏の実質的な本拠だったと考えてよい。

 向羽黒山城は南北800m×東西600mにわたって壮大な山城跡がほぼ完全に残る。現地を訪ねてまず驚くのは、おびただしい曲輪の数である。山中を覆い尽した曲輪群は、その多くが武家屋敷だったと思われる。こうした城のつくりは、蘆名氏のもとに広く地域の武士たちが集まったのを証明する。だからこの城の広大さは、まさに戦国期の蘆名氏の圧倒的な力を物語っている。蘆名氏は伊達政宗と東北の覇者の座をかけて争い最終的に敗れたが、城づくりでは同時期の政宗を上回ったといえよう。

 山頂にある「一曲輪」はその周囲に曲輪に沿って延びる横堀をめぐらし、東側から入る大手ルートに3つの枡形を備えた。枡形は道の屈曲と広場とを組み合わせた出入り口を呼ぶ。1576年(天正4)から織田信長が築いた安土城の山上の大手門・黒鉄門は、初期の外枡形の指標であり、L形に石垣を張り出した形状は、大阪府の豊臣大坂城、熊本県の熊本城などその後の近世城郭に受け継がれていった。

 それに対して向羽黒山城の「一曲輪」東側に見られる3連続枡形は、近世城郭に見られる定形的な外枡形と形態が異なっていて、蘆名氏が独自に生み出した守りの工夫と考えられる。このように蘆名氏の築城の独自性を確認できるのも、向羽黒山城の歴史的価値が高い理由である。「一曲輪」から北に向いた斜面につづく城道を含む「西上段曲輪群」は要所を堀で守り、また城道西側の斜面には100mにも達した竪堀で防衛した。

 こうした城道の守り方はたいへんすぐれていて、尾根を平らに削ってつくり出した曲輪だけでなく、山の斜面に守りの空間を拡張する機能的な防御を実現していた。「一曲輪」と「二曲輪」間の斜面をつないで守る「西上段曲輪群」があることで、それぞれ中心的な役割を果たした「一曲輪」と「二曲輪」の連携を高められた。さらに敵が「一曲輪」と「二曲輪」間の斜面を突き、両者を分断して個別に攻める「中入り」の戦術を効果的に阻止した。

 「西上段曲輪群」のなかを通る城道は斜面を屈曲しながら延びたので、それぞれの屈曲が枡形のように機能した。「一曲輪」への城道を敵が攻め上るのはきわめて困難だったに違いない。そして向羽黒山城のすばらしさは、蘆名氏が守りの工夫をこらした歴史的な城道を、自分自身で実際に体感できる点にもある。この城道は戦国の山城の精緻さを感じ、道を曲がるたびに多方向から弓矢や鉄砲の玉が飛んでくるのを想像させる「討死」ポイントである。ぜひ「一曲輪」に到達することだけではなく、途中の道で体感できるリアルな戦国の歴史を楽しんでほしい。

 山の中腹にある「二曲輪」は、上下3段の曲輪で構成した大型曲輪で、蘆名氏の当主が向羽黒山城に入城した際に使用した屋敷を構えた可能性が高い。そしてこの推測を裏付けるように「二曲輪」を起点にして西側斜面に「一曲輪」周辺をも上回る圧巻の防御施設群が展開する。まず「二曲輪」西側には長大な横堀をめぐらしその横堀の南西側は竪堀となって斜面を駆け下る。この竪堀によって側面から回り込んで「二曲輪」に敵が迫るのを的確に阻止していた。

 「二曲輪」の南西直下には斜面を掘り込み、土塁と組み合わせてつくった内枡形がある。この枡形は自然の岩も利用しているが、岩を積み上げた石垣の痕跡も認められ、本来は周囲を石垣で固めた出入り口であった可能性が高い。どのような門が建っていたのか、将来の発掘が楽しみである。

 そしてこの枡形の直上には先ほど記したように「二曲輪」の段々の曲輪があったから、枡形に迫った者も、枡形内に入った者も「二曲輪」から完全に見下ろされた。城兵は全体を俯瞰しながら効果的に防戦できたので、やはりこの枡形の門も敵が突破するのはとても困難だった。ここを歩くときはぜひ「二曲輪」を見上げてみてほしい。敵が感じた絶望的な気持ちを体感できる。

 「二曲輪」南西の枡形を出た先は土でつくった橋・土橋になっていて、土橋の左右にはみごとな横堀が見られる。土橋を渡りきった先も狭い通路になっていて城道が屈曲し、その先も段々に土塁で囲んだ屈曲した曲輪が連続する。この技巧的な城道の屈曲を伴う曲輪群も連続した外枡形であり、自然地形を活用しながら鮮やかな守りの工夫を達成した。

 この外枡形群の途中には城道を2つのコースに分ける竪堀を配置していた。その竪堀と2手に分けた城道とを組み合わせた見事さは、向羽黒山城見どころのひとつである。城道を2つに分けたことで、城兵は片方の城道に敵が迫っても反撃ルートを確保できた。またお互いの城道がそれぞれを守り合うことも可能だった。

 城道の周囲には石塁の痕跡が広範囲によく残る。この石塁は土塀の基礎であった可能性を指摘でき、向羽黒山城は軍事的な要塞というだけでなく、室町時代以来の武家儀礼を受け継いだ文化的要素を備えた戦国期拠点城郭であった。何重にも折り返した城道と重なり伸びた土塀は「二の曲輪」に屋敷を構えた蘆名氏の権威を象徴するものでもあっただろう。

 「二曲輪」西側に設けた防御施設からも斜面を主要な曲輪を守る防御空間として高度に用いた向羽黒山城の独自の発想を読みとれる。この発想は「一曲輪」周辺の守り方とも共通して一貫していて、向羽黒山城のすぐれた設計の骨格が、蘆名氏時代にできあがったと考えてよいことを証明する。

 ただし城内に見られる堀や枡形は、独自なものであるが横堀などの完成度はきわめて高く、一般に伝えられる1568年(永禄11)の完成とするには早すぎる。盛氏以降の盛興、盛隆、亀王丸、義広の歴代城主も改修を重ね、現在の姿は義広が伊達政宗と戦って敗れ、向羽黒山城を放棄した1589年(天正17)頃にできあがったと考えるべきだろう。

 「二曲輪」の西側から南側の斜面に配置した武家屋敷群であった「西二曲輪群」の外縁にも長大な横堀が見られる。つまり向羽黒山城は「一曲輪」「二曲輪」「西二曲輪群」の3層構造で横堀をめぐらしており、全体として「一曲輪」を頂点とした階層構造をとっていた。ただし「一曲輪」は厳重な防御の頂点にあっても曲輪面積は限られたので、軍事的な機能が卓越した「詰丸」であったと位置づけられる。蘆名氏当主が入城した際に用いる館があり、その際の政務の中心になったのが「二曲輪」であったと考えられる。先に記した「二曲輪」前面の徹底した防御施設は「二曲輪」の果たした重要な役割を示唆するものである。

 戦国期の大名の居城であった「戦国期拠点城郭」は1500年頃から1530年代に各地で出現しはじめた。たとえば福島県桑折町の桑折西山城は伊達稙宗が築城した。稙宗は畿内における「戦国期拠点城郭」の成立とほぼ同時期に山城へ拠点を移しており、いかに中央の情報を適確につかんでいたかがわかる。そして東北が中央の政治情勢と一体になって新しい時代へ変化していたのを示している。城の変化は東北の歴史を全国に位置づけて再評価する重要な手がかりである。中央と地方が分立しながら互いが影響し合う激動の時代に、蘆名氏の向羽黒山城はあった。

 「西二曲輪群」の横堀を超えた北側に「伝盛氏屋敷」がある。ここは「一曲輪」側に巨大な堀をめぐらし背後と側面の三方に高い土塁を備えた特異なつくりになっていた。こうした半独立的な構造は、まさに蘆名盛氏が家督を譲って隠居した後に暮らした屋敷にふさわしい。発掘調査が進めば蘆名氏中興の祖とされる盛氏が暮らした武家屋敷が見つかると期待される。戦国大名蘆名氏の実像を城郭考古学の視点から捉え直すのは、大きな学術的意義をもつ。

 向羽黒山城の発掘調査では、これまで石を積んだ半地下式の蔵や礎石建物、石垣などが発見されていて、地表から観察される遺構だけでなく、地下に良好に遺構を埋蔵しているのを確認している。そうした地下遺構を想像しながら向羽黒山城を歩くのは楽しい。

 そしてなにより向羽黒山城は全山に横堀や竪堀、土塁、城道、枡形、曲輪など、戦国屈指の技をこらした山城が壮大な大きさで残っていて、五感で歴史を感じられる。山城を歩いて訪ねるのはたいへんという方にも、向羽黒山城は安心。城の中腹まで車で上れる道があって、途中には7ヵ所の駐車場もある。一人ひとりに合ったベストの体感方法で向羽黒山城を楽しめる。

 向羽黒山城の麓には向羽黒ギャラリーがあって、蘆名氏と向羽黒山城の全体像をつかめる。また近接して本郷インフォメーションセンターがあって会津本郷焼の歴史と特色を楽しく学べる。ぜひ併せて訪ねてほしい。国史跡向羽黒山城の冒険をすべてのお城ファン、歴史ファンにお勧めしたい!

伊佐須美神社。鳥居、参道、楼門。福島県会津美里町宮林。

2024年5月29日(水)。

向羽黒山城跡を見学後、16時ごろ伊佐須美神社の駐車場に着いた。この時間帯でも若干の参拝客がいる。ここに来たのは、「会津(相津)」の地名発祥の伝承に関わる神社だからである。

境内は広く、内部には鬱蒼とした社叢が広がる。社殿は2008年の火災で焼失したため、現在は仮社殿を設けたうえで再建中であり、後を覗いたら基礎しかなく驚いた。

伊佐須美神社は、会津盆地南縁の宮川沿いに鎮座する式内社(名神大社)で、陸奥国二宮・会津総鎮守・岩代国一宮である。

「会津」という地名について、第10代崇神天皇の時に派遣された四道将軍のうちの2人、北陸道を進んだ大毘古命(おおひこのみこと、大彦命)と東海道を進んだ子の建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと、武渟川別命)が行き会った地を「相津」と名づけたと地名の起源を伝える。

阿倍氏の祖である2人が国家鎮護神を祀ったのが伊佐須美神社の創祀とされる。会津地方では、古墳時代前期にはすでにヤマト王権特有の大型前方後円墳が築造されており、王権勢力の東北地方への伸長の実情を考える上で重要な要素を担う神社である。また、大毘古命・建沼河別命の後裔である阿倍氏族の分布は下野から会津を経て越後へとつながっており、何らかの歴史的背景が存在したことが指摘されている。

中田観音。弘安寺。会津美里町米田字堂ノ後。

2024年5月29日(水)。

会津美里町の中田観音、会津坂下町の立木観音、西会津町の鳥追観音は、会津ころり三観音とよばれ、ころりと苦しまずに往生できるというので参拝を念願していた。中田観音は、日時限定の予約制なので、前日に電話しようとしたら、住職の親族が危篤ということで断られたが、扉越しでもいいので、願いがかなうのかと訪れてみた。

弘安寺は、曹洞宗の寺院で、観音堂があり、一般には中田観音と呼ばれることが多い。会津ころり三観音の一つである。本尊の十一面観世音菩薩は文永11年(1274年)長者江川常俊が娘の菩提を弔うために鋳造された。寺は弘安2年(1279年)に建立され、年号をとり弘安寺と称した。

十一面観世音菩薩と2体の脇侍(地蔵菩薩、不動明王)は観音堂内に祀られており、三体とも国の重要文化財に指定されている。三体とも金銅仏で、写実的なその完成度から当時の最高傑作と言われる。

地元では「中田の観音さま」として親しまれており、細菌学者野口英世の母シカが深く信仰し毎月参篭して月参りをしていたことでも有名で、英世が大正4年(1915年)に帰国した際、母と恩師を連れ9月15日にお礼参りした写真が境内に残されている。又、会津藩主代々の祈願所であった。

 

16時30分頃になり、湯川村の道の駅へ向かった。

会津若松市 福島県立博物館 会津若松城 茶室「麟閣」


会津若松市 福島県立博物館 会津若松城 茶室「麟閣」

2024年07月09日 15時00分34秒 | 福島県

福島県立博物館。福島県会津若松市城東町。

2024年5月29日(水)。

飯盛山の見学を終え、会津若松城三の丸跡にある福島県立博物館へ向かった。歴史系部門を見学しようとしたが、常設展通史展示室は、排煙設備の不具合により観覧できなかった。見学後、受付で会津若松城の無料駐車場を尋ねると、博物館の駐車場に車を置いて見学することを勧められた。

館内の三の丸アベニューで、会津若松城と城下町の模型が展示され、プロジェクションマッピングにより戊辰戦争の戦況・若松城籠城戦の様子を11分で再現している。

会津若松城は1990年代末に磐梯山の登頂後に、最上階まで老母を連れていったことがあり、2回目で入場を迷ったが、城内の茶室「麟閣」を含め身障者無料なので、入場することにした。

博物館を出て、市営有料駐車場の前から城内に入ると、廊下橋でカップルが前撮りの写真を撮っていた

廊下橋。以前はこちらが大手口で、正面にふさわしい立派な橋がかけられていた。その名が示すように、屋根の付いた橋だったのではないかと考えられている。明治以降も何度か架け替えられ、現在では鮮やかな朱塗りの欄干となっている。

若松城は梯郭式の平山城で、本丸を中心に西出丸、北出丸、二の丸、三の丸が周囲に配置されていた。城下町の南端に位置し、会津藩の政庁として会津の政治の中心であった。藩主の会津松平家は徳川将軍家と密接な関係にあり幕末には戊辰戦争の激戦地となった。現在、城跡は「鶴ヶ城公園」となっており、そのほとんどが国の史跡に指定されている。史跡外の三ノ丸跡には陸上競技場、市営プールおよび福島県立博物館がある。天守閣は鉄筋コンクリートで外観復元され、内部は若松城天守閣郷土博物館となっている。

1384年(至徳元年)、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。遅くとも15世紀半ばまでには黒川城とその城下が成立していた。以後、代々蘆名氏の城であった。戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖・盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いた。

1589年(天正17年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にし、米沢城から本拠を移した。しかし、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられ、米沢城に本拠を戻した。

代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年)より大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、城作りを行った。なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。

1593年(文禄2年)、望楼型7重の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。近年の発掘調査で蒲生時代の石垣の基底部が確認され、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に金箔が貼られたものが出土している。

1598年(慶長3年)、氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。1600年(慶長5年)、徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。

翌1601年(慶長6年)には蒲生秀行が再び入城したが、1627年(寛永4年)、嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封された。代わって伊予松山より加藤嘉明が入封。子の明成は西出丸、北出丸などの造築を行い、1611年(慶長16年)に起きた会津地震により倒壊した天守を今日見られる層塔型天守に組みなおさせている

1643年(寛永20年)、加藤明成は改易され、出羽国山形より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。

1868年(慶応4年)、戊辰戦争の戦闘の一つである会津戦争(会津城籠城戦)にて、会津勢の立て篭もる鶴ヶ城は新政府軍に包囲され砲撃を受けた。1か月間籠城の後、板垣退助による降伏勧告を受諾して9月22日(太陽暦11月6日)開城した。

城域が位置する台地の西端に主郭。内濠を隔てて東側に二ノ丸、三ノ丸と続き、台地下の北側に北出丸、西側に西出丸がある。三ノ丸以外の各門は枡形石垣門になっていた。主郭は、天守とそこから南と東に伸びる走長屋(多聞櫓)により区分けされており、南東側の御殿等を配置した区域が本丸、その北から西側をL字に取り囲む区域が帯郭となっている。主郭の虎口は全て帯郭に接続しており、天守の下にある鉄門を経て本丸に至る。現在の縄張は、主郭の東、北、西の三方の虎口(桝形)の外側を馬出で防御し、その馬出の虎口も桝形とする防御プランであり、郭の構成はシンプルだが相当に厳重な縄張りとなっている。

元々は東西に伸びる舌状台地を堀切で区切った連郭式の縄張であり、三の丸側が大手であった。後に城下の街道の整備により大手を北側に変更し、防御のために北と西にあった馬出を出丸として拡張し現在の縄張となった。現在残る城下町も、主として城の北側に広がっている。

北、西の出丸は、主郭が位置する台地の下にあり、出丸を突破しようとする敵を高低差を利用して攻撃可能となっている。主郭の櫓は出丸の虎口を制圧可能な位置に配置されているなど、重層火力が発揮できるように考慮されており、特に大手である北出丸虎口は、出丸、主郭帯郭、櫓、隣接する出丸からの射撃が集中し、その防御の堅さから「鏖丸(みなごろしまる)」と称されたと伝わっている。東側の二ノ丸も馬出状の郭であるが、高低差を利用できないため堀切を水濠まで掘下げて約20mの高石垣とし、橋は城内唯一の木橋(廊下橋)とすることで防御している。出丸を持たない本丸南側は、濠と湯川により三重に防御されていた。

天守閣に入ると、地下部分から始まった。

北東。飯盛山方向。

南東。茶室「麟閣」方向。

南。向羽黒山城跡方向。

茶室「麟閣」。豊臣秀吉の奥州仕置によって、天正18年(1590)蒲生氏郷が会津に入り、近世的支配を確立していきました。氏郷は織田信長の娘婿であり、文武両道に秀で、特に茶道では利休の弟子(利休七哲)の筆頭にあげられるほどでした。天正19年(1591)2月28日、千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられ、千家断絶に危機に瀕した時に、氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんでその子、少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家再興を秀吉に働きかけました。その結果、文禄3年(1594)に少庵は許されて京都に帰り、その子宗旦(そうたん)に千家茶道が引き継がれました。そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の三千家が興され、今日の茶道隆盛の基が築かれました。

かくまわれている間に建てられたと伝えられているのが「麟閣」であり、以来、鶴ヶ城(若松城)内で大切に使用されてきました。

しかし、戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治のはじめに城内の建物が取り壊される際、茶人・森川善兵衛(指月庵宗久)は貴重な茶室の失われるのを惜しみ、明治5年(1872)5月、自宅へ移築し、大切に保管しました。会津若松市では平成2年9月12日、市制90年を記念して、この氏郷・少庵ゆかりの茶室を後世へ伝えるため、鶴ヶ城内の元の場所へ移築しました。

会津若松の中世・近世史。

源頼朝が鎌倉幕府を開くと、たくさんの鎌倉御家人が奥州に領地を与えられました。会津では、相模の三浦氏の一族である佐原義連に会津北部、同じ相模の山之内通基に伊北郷(只見川流域)、下野の小山氏の一族である長沼宗政に長江荘(田島・下郷一帯)、長沼の一族である河原田森光に伊南郷(伊南川流域)がそれぞれ与えられ、鎌倉幕府の勢力が植え付けられました。

会津北部を与えられたと伝えられる佐原義連の父三浦義明は源頼朝の挙兵に従って居城衣笠城で壮烈な討ち死にをとげ、その子義澄は相模国守護となり、三浦氏は北条氏と並んで鎌倉幕府を支える有力御家人となりました。

義連はこの義澄の末弟で、相模の国(神奈川県)の佐原郷(横須賀市)を領したことから佐原氏を称しました。義連の孫、盛時らは母方のつながりから三浦氏と北条氏が覇権を争った宝治合戦(1247)の際、本家である三浦氏に反して執権北条時頼に味方し、滅亡を免れました。

佐原の盛連の六人の子が領地を分割して与えられ、中世における会津支配勢力になったと伝えられます。長男経連は中通りと会津を結ぶ猪苗代の地を与えられ猪苗代氏次男広盛は会津盆地の中心である湯川村北田を与えられ北田氏三男盛義は藤倉二階堂で知られる河東町藤倉を与えられ藤倉氏四男光盛は東山山麓の黒川(会津若松市)を与えられ相模の国葦名郷を領したため葦名氏をそれぞれ称しました。また、五男盛時は会津最北端の地である叶荘(熱塩加納村)を与えられ加納氏、また、六男時連は新宮荘(喜多方市)を与えられ新宮氏を称し、今日の耶麻郡一帯、喜多方市、湯川村、河東町そして会津若松市という会津北部に子孫が分地されました。これら三浦一族は時に争い、時に連合し中世の会津覇権を競い合いました。

四男光盛の血を引く葦名氏の勢力が徐々に強まり、会津守護と呼ばれる支配構造を確立することとなりました。葦名氏は会津に領地を与えられましたが、同時に鎌倉幕府においても重要な地位を占めていたため、通常は鎌倉に住み会津に常駐していなかったと思われます。しかし、光盛の孫の盛宗の時代には黒川の地に諏方神社、東明寺、興徳寺、実成寺、実相寺など、葦名氏にゆかりの深い神社やお寺が創建されたことから、葦名氏の勢力が黒川を中心に広がってきたものと考えられます。

建武年間の動乱で鎌倉幕府が滅亡し、盛宗の子盛員が北条氏に味方し戦死したことから、盛員の子直盛は鎌倉における勢力を失い14世紀後半に会津に入りし、佐原一族をはじめ在地の勢力と会津の覇権をめぐって血で血を洗う抗争を続けることとなります。

この直盛が至徳元年(1384)、小田木(会津若松市小田垣)に館を築いたのが、鶴ヶ城のはじめと伝えられ、鶴ヶ城或いは黒川城とも称す」とあります。

小田木の地(今の三の丸周辺)は東に小田山をひかえ、周囲を車川(後に外堀)と湯川に囲まれた小高い要衝の地だったので葦名氏の会津支配の中心地となり鶴ヶ城として伝えられることとなりました。

黒川に館をかまえる葦名氏が会津守護として支配を確立するのは16世紀のことですが、これに伴って会津各地の豪族は葦名氏へ反抗を強めます。その結果、同族であった加納氏・新宮氏・北田氏などは相次いで滅び、葦名四天王と呼ばれる松本、富田など家臣団も反乱を繰り返すこととなります。

葦名氏が戦国大名として、頂点に達したのは16世紀の後半、葦名盛氏の時代です。盛氏は伊北郷(只見川流域)の山ノ内氏、猪苗代の猪苗代氏などを相次いで従え、南山鴫山城(田島町)の長沼氏を除く会津一円を支配下に収めました。さらに天文19年(1550)安積郡三春城主の田村隆顕を破って仙道(福島県中通り)に進出し、永禄年間には二本松城主の畠山氏須賀川城主の二階堂氏を従え、白河城主の結城白川氏と同盟して常陸の国(茨城県)の佐竹氏や出羽国(山形県)の伊達氏と戦いました。

越後の国(新潟県)の長尾・上杉氏に対しては、狐房城(新潟県津川町)を拠点として蒲原地方に勢力を伸ばすなど、奥州屈指の戦国大名として名声を高めました。

その結果、永禄6年(1563)の室町幕府の「諸役人附」において大名として認められ全国50余人の中で奥州では伊達氏と並んで名を連ねるほどになり、葦名氏中興の祖として仰がれました。

戦国武将として活躍した盛氏でしたが、黒川を城下として発展させるかたわら、水墨画の巨匠雪村を会津に招くなど、室町文化の良き理解者でもありました。

永禄11年(1568)盛氏は家督を盛興に譲り、自分は岩崎山の向羽黒山(会津本郷町)に隠居城を築きましたが、盛興は病弱で嫡子を残さずに亡くなり、二階堂盛義の子盛隆を養子に迎えました。ここから葦名氏は衰退し、天正8年(1580)盛氏が亡くなると、葦名氏の血をひかない盛隆に対する反抗が強まり、ついに盛隆は家臣に殺害されました。その子亀王丸はわずか3歳で亡くなり、その後に伊達政宗の弟小次郎を迎えるか、佐竹義重の子義広を迎えるかで、大きな争いとなりました。その結果、義広が迎えられましたが、佐竹氏から送られてきた家臣と葦名氏の家臣の対立は日に日に強まり、名族葦名氏は大きな危機を迎えることとなりました。

伊達政宗が葦名氏の内紛を見逃すはずはありません。盛氏が亡くなったあと、仙道(福島県中通り)の支配権を着々と固めていた政宗は、葦名氏に背いた猪苗代盛国の内応によって、天正17年(1589)猪苗代城に入りました。そのころ葦名義広は、父佐竹義重とともに伊達領を攻めるため須賀川へ出陣していましたが、政宗が猪苗代へ入城したと知らされ、黒川へとって返し、直ちに猪苗代方面へ軍を向けました。この時攻める伊達氏の兵力は内応した猪苗代勢を加え2万3千、守る葦名氏の兵力は1万6千と言われています。

天正17年6月5日に、総勢4万にも及ぶ両軍は磐梯山麓の摺上原に対陣し、午前6時に戦いの火蓋が切られました。午後になって西風が東風に向きを変えた頃から戦況は急転し葦名・伊達の命運をかけた決戦は伊達勢の一方的な勝利となりました。

敗れた義広はわずかばかりの兵とともに黒川へ、そして常陸へと逃れ、戦国の雄葦名氏は、4世紀にも及ぶ会津支配に終わりを告げたのです。義広が江戸初期、佐竹氏の秋田移封にともなって角館へ移り、桜で有名な美しい城下町を築いたことはあまり知られていません。

葦名氏を滅ぼした伊達政宗は6月11日の雨の中、黒川城へ入城し、現在の山形県・宮城県・福島県の三県にまたがる広大な領地を得て奥州の覇権を確立し、さらに関東への進出をねらいました。

しかし、すでに豊臣秀吉の政権が確立され天正18年(1590)の小田原攻めで全国の支配を決定的にしたため、政宗は秀吉に従い、会津の地を手放して陸奥国岩手山(宮城県)へとうつり、政宗の会津支配はわずか、1年余りで終わりました。

政宗のあと、会津は伊勢松坂(三重県)の領主蒲生氏郷に与えられました。氏郷は弘治2年(1556)、近江国日野城主(滋賀県)蒲生賢秀の子として生まれました。その非凡な才能を織田信長に愛され、娘冬姫と結婚することとなりました。

その後、秀吉のもとで小牧・長久手の合戦に活躍し、伊勢国松ヶ島(後の松坂)に12万石を与えられ、九州征伐・小田原征伐の功のよって会津40万石、後に92万石の領主となりました。

氏郷は鯰尾の兜をかぶり、常に先頭に立って敵に突入する勇猛な武将として知られますが、その反面、和歌や宗教に理解のある、安土桃山文化を代表する文化人としても有名です。とりわけ茶道では利休七哲の筆頭にあげられたほどです。利休の曾孫江岑宗左の残した、「江岑夏書」(こうしんげがき)では、利休が秀吉に切腹を命じられたとき、自分が京都にいたならば師の利休を死なせるようなことはしなかったものをと、氏郷が口惜しがったことが書かかれています。

氏郷は会津に入ると鶴ヶ城の整備に着手しました。氏郷の郷里近江の国からたくさんの技術者を呼び寄せ、現在も残されている野面積み(のづらづみ)の天守台を築き、七層の天守閣を建てたと伝えられています。

また、葦名時代の手狭な城下を一新し、郭内から神社やお寺を外に出して家臣の屋敷を連ね、車川を利用して外堀を築き、郭外には庶民を住まわせ、その要所に神社やお寺を配置するなど今日の会津若松市街地の骨格を定めました。そして郷里である近江国蒲生郷の「若松の森」にちなんで黒川を若松と改めました。

さらに商工業の発展を奨励するため、日を定めて市を設けたほか、近江から木地師と塗師を招き、会津の地場産業として今も大きな役割を占めている会津漆器の基礎を作りました。また酒造や金工など、上方の優れた技術を会津へ移入することで後世に伝えられる産業の振興を図りました。

氏郷は文禄4年(1595)、40歳の若さでこの世を去りました。当時の名医、曲直瀬道三によれば、死因は下毒症とされていますが、あまりにも若すぎる死にいくつかの謀殺説も伝えられています。氏郷の死後、その子、鶴千代(のちの秀行)が13歳の若さで跡を継ぎますが、慶長3年(1598)幼弱で家中を統率できないという理由で、下野国宇都宮18万石(栃木)に減封されました。氏郷未亡人である冬姫が秀吉の意に従わなかったからとも伝えられています。

蒲生秀行が宇都宮へ去った後、慶長3年(1598)越後国(新潟県)から上杉景勝が120万石で入封しました。景勝の領地は旧蒲生領に出羽国庄内3郡を(山形県)を加え、豊臣政権下にあって徳川240万、石毛利120万5千石に次ぐ天下第3の大名であり、5大老の一人となりました。また、景勝の寵臣直江山城守兼続は豊臣秀吉に愛され、景勝の領地の内30万石(山形県)の大領地を与えられ、石田三成と親交を深めました。

秀吉が慶長3年に亡くなると、5大老の一人である徳川家康はその力を強め、石田三成をはじめとする豊臣家家臣団との対立を深めました。この時景勝は三成との交流から反家康に傾斜していきます。

慶長5年(1600)家康が会津攻めを決断し、家康の軍が京都を出たと知った景勝は、北の伊達政宗や最上義光、南の家康に備えるために国境の警備に全力をあげました。そして、景勝を討つために北上した家康の背後を襲い、南北から挟み撃ちにしようと三成は反家康の兵をあげ、関ヶ原の戦いの幕があけました。このため、家康は下野国小山(栃木県)から江戸へ引き返し、西へと向かいました。慶長5年9月15日、家康は天下分け目の関ヶ原合戦に臨み、三成以下の西軍に大勝しました。

この結果伊達氏、最上氏、堀氏などの近隣諸侯を相手に奮戦していた景勝も家康の軍門にくだり、慶長6年(1601)に会津120万石から出羽国米沢30万石へと減封されることとなりました。

蒲生氏郷の子秀行は、徳川家康の娘振姫を妻とし、関ヶ原の戦いでは家康の命令により居城の宇都宮で上杉勢の南下に備えていました。その功によって慶長6年再び会津60万石に封じられました。

会津に入った秀行は、鶴ヶ城の整備や町方の振興に努めましたが、慶長16年(1611)8月会津地方を大地震が襲い、鶴ヶ城の石垣が崩れ、天守閣は傾きました。

こうした中で心労が重なった秀行は、翌年の春から病に伏し、5月に30歳の若さで亡くなりました。秀行の嫡子亀千代(のちの忠郷)は、この時わずか十歳、領内の経営は未亡人である振姫と重心の手に委ねられることとなり、この体制が家中に紛争を招きました。 

未亡人となった振姫は仕置奉行岡重政と対立し、その処分を父である家康に願い出ました。家康は重政を駿府に呼びだし、取り調べの上、死罪を命じました。重政は36歳の若さでした。しかし、重政の死後も忠郷が若年のため家中の紛争が絶えませんでした。

こうした中、忠郷も父秀行と同様に寛永4年(1627)25歳の若さで世を去りました。

蒲生忠郷に嗣子がなかったため、会津には賤ヶ岳七本槍で名高い加藤嘉明が伊予松山(愛媛県)から40万石で鶴ヶ城へ入城しました。

嘉明は会津に入ると検地を実施し、村々の石高を調べて所領を確定する一方、これまで背あぶり峠を通っていた白河への街道を滝沢峠の新道に改めるなど、領内の整備に努めましたが、寛永8年(1631)69歳で亡くなりました。

嘉明の後を継いだのは嗣子の明成で、寛永16年(1639)に鶴ヶ城に大改修に着手しました。今日の鶴ヶ城の姿が整えられたのは、この時です。

まず、北と西にあった馬出が拡張されて北出丸と西出丸となり、本丸への進入が一層困難となりました。ついで、これまで東に向いていた(廊下橋の方向)大手口も、北へ改め、甲賀町通りから北出丸、椿坂、太鼓門、帯郭を経て本丸へいたる順路が確保されました。

さらに二ノ丸、北出丸、西出丸から本丸への出口に新しく枡形の石垣が設けられ、本丸への順路は二重に防がれることになりました。そして慶長16年(1611)の大地震で傾いたままになっていた天守閣を改築し、その外壁に惣塗籠の手法を導入して、白亜五層の天守閣が誕生したのです。

こうした城の大改修は幕府の好むものではなく、寛永20年(1643)に堀主水事件(重臣との対立)を理由として会津40万石は幕府に召し上げられることになりました。

2代将軍秀忠の庶子・保科正之が出羽(山形県)から入部しました。秀忠は正室の怒りをおそれて、実子として認めなかったため、武田信玄の娘の見性院のもとで養育され、7歳の時に信濃国(長野県)の城主保科正之の養嗣子となりました。

父秀忠の生前は父子としての対面はありませんでしたが、3代将軍家光は正之を実弟として認め、寛永13年(1636)には出羽山形20万石、寛永20年(1643)には、会津23万石と高遠3万石と比べて破格の待遇をうけることとなりました。

正之は会津に入ると領内を巡視し、民政18条や郷村収納の法をはじめ数々の法令を定めて領国内の支配構造を確立しました。また家訓十五条を定めて徳川本家に対する忠誠や藩士の心構えを明らかにし、会津松平藩政の精神的な柱としました。さらに殉死を禁じて戦国の気風を断ち切り、神社を再興して仏事を抑え、会津風土記を編纂して領内の由来を明らかにするなど、9代続く会津松平藩の基礎を築きあげました。

正之が寛文12年(1672)62歳で亡くなると、その子正経、ついで正容が後を継ぎ、この正容の代に松平の姓と葵の紋を幕府から与えられ徳川親藩に組み込まれることとなりました。正之は謹直な名君でしたが、その朱子学的な保守は会津藩の精神風土となり、ともすれば時流に遅れがちな気風を残すことにもなりました。

五代藩主容頌は寛延3年(1750)7歳で藩主となり、9代の藩主中最も長い55年を治めることとなりますが、藩財政は40万両を越える借金となって容頌を苦しめました。

このため容頌は、俊才田中玄宰(はるなか)を家老に登用し、藩政の一大改革に着手しました。

玄宰は藩政の基礎が農・工・商の振興にあり、それをなし遂げるためには士=家臣団の教育と人材登用を断行しなければならないと決意しました。このため、熊本の古屋昔陽を招いて藩祖正之が排斥した古学派を導入し、藩政に役立つ家臣団の育成を図りましたが、正之以来の藩風を変えようとする玄宰の試みは藩主容頌をはじめ藩内の大きな抵抗にあい、天明4年(1784)には一時、家老を辞したほどでした。しかし、財政危機に対応できる人物が他に見あたるはずもなく、玄宰は再び家老に復帰して藩政改革を進めることになりました。

まず、藩士の学風を切り替えるために藩士の就学を義務づけ、産業の振興に役立つ知識や技術の習得を含んだ文武一体の教育をはじめました。この学制改革は、享和3年(1803)藩校会津日新館の完成となって結実し、実学尊重の気風が会津に根付くことになりました。

ついで、薬用人参の栽培、漆器や酒造、陶磁器、そして絵ろうそくの改良など、産業の振興を進めました。また、城下の豪商林光正とともに人材の育成に努めました。 

こうして藩政改革を進めた玄宰でしたが、藩主容頌の後を継いだ容住、容衆がいずれも若死にしたこともあり、玄宰の死後その実学優先の思想は年々保守的なものとなり藩政も再び疲弊することになります。

会津藩は、幕末の動乱期において数々の幕命を受けることになります。その最初は北辺警備で、ロシア侵攻に備えるため樺太、蝦夷地に出兵し、ついで江戸湾の警備にあたり、黒船に備えて房総半島、三浦半島、そして品川沖に砲台を築きました。そして戊辰の悲劇を生んだ京都守護職です。

九代藩主の容保は、美濃国高須藩主の六男として生まれます。八代藩主容敬に男子のなかったことから、12歳で養嗣子に迎えられ、嘉永5年(1852)18歳で藩主になりました。当時の会津藩は、田中玄宰による実学尊重の精神が藩祖正之以来の保守的な学風へもどりつつあり、正之の残した家訓の第1条「大君の義 一心大切に忠勤に存ずべく」とある徳川本家への忠誠心は不可侵のものになりました。

そうした中にあって、幕府は尊王攘夷派が横行する京都の状況に手を焼き、雄藩をもって京都守護職を設けることにしました。藩内においても家老西郷頼母はじめ自重論が根強かったのですが、家訓をたてに受諾を迫る幕老に容保は従わざるをえませんでした。

そして、文久2年(1862)容保は、1千名の精鋭を引き連れて京都へ向かい、黒谷の金戒光明寺に本陣を構えました。容保の実弟で、桑名松平家11万石を継いだ定敬が京都所司代を命じられて、会桑両藩による京都の治安維持がはじまり、容保兄弟は尊王攘夷派の恨みを一身に受けることになりました。

慶応3年(1867)11月、薩長両藩を中心とする倒幕派が攻勢に転じると、十五代将軍慶喜は大政奉還し、徳川家を中心とする天皇親政を目指しますが、倒幕派の策に敗れると一転して大坂より兵を進め、慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見で戊辰戦争は火蓋を切りました。兵装を近代化した新政府軍の前に幕軍は大敗し、ついに江戸開城によって徳川三百年の歴史は終わりを告げました。

しかし、弟定敬ともども朝敵の筆頭にあげられた容保にとって、これからが悪夢のはじまりでした。主戦派に後押しされた容保は、軍制を改革して朱雀・青龍・玄武・白虎の諸隊を設け、洋式銃を買い集めるなど、来るべき新政府軍との戦いに備えはじめました。こうして5月には奥羽越列藩同盟が成立して、新潟から東北にかけての諸藩は、新政府軍との武力衝突をはじめたのです。

初戦では新政府軍の兵力不足もあって列藩同盟は善戦しますが、越後長岡城(新潟県)や二本松城の落城のころから戦雲は急速に傾き、8月20日には新政府軍に会津攻撃の命令が下りました。福島へ通じる街道の母成峠から会津に侵入してきた新政府軍は、白虎隊などの予備兵の抵抗を蹴散らし、8月23日には鶴ヶ城を囲みました。この時、白虎隊士中二番隊や西郷頼母一族の自刃など、幾多の悲劇が生まれたのです。

孤立無援の中で容保は籠城し、1ヶ月にもおよぶ戦闘に耐え続けました。しかし、援軍も見込まれない中、昼夜に及ぶ砲撃にさらされ、ついに9月22日、容保は降伏を決意します。

藩主容保以下の将兵は、猪苗代や塩川などに謹慎して敗戦処理を待ちました。その結果、家老萱野権兵衛の切腹によって会津松平家の断絶はまぬがれ、容保の子容大に斗南藩3万石(青森県東北部)が与えられました。北辺の酷烈な地を目指し、山川浩をはじめとする沢山の会津藩士とその家族が会津を去りました。(会津若松観光ビューロー)

 

会津若松城見学後、南の向羽黒山城跡へ向かった。

会津若松市 飯盛山 会津さざえ堂 白虎隊十九士自刃の地


会津若松市 飯盛山 会津さざえ堂 白虎隊十九士自刃の地

2024年07月08日 14時13分16秒 | 福島県

飯盛山。会津さざえ堂。福島県会津若松市一箕町(いっきまち)八幡弁天下。

2024年5月29日(水)。

会津大塚山古墳見学後、東近くにある飯盛山へ向かった。「会津さざえ堂」と「白虎隊十九士自刃の地」見学が目的である。石段下交差点西近くの会津若松市営の無料駐車場に駐車して、石段へ向かうと、有料のエレベーターがあったが、高いので利用せず、石段の中ほどから迂回して緩やかな坂道を登ると、右の石段上にさざえ堂が見えた

建物内部の階段が上り下り別になる三匝堂(さんそうどう)の形式は、どこかで体験しているが、ここだったかは記憶がない。1990年代末に日本百名山の磐梯山を登頂したあとに、会津若松城を見学したが、飯盛山を横に見て通過してしまった記憶がある。1980年代からJAFの雑誌で知っていた。

さざえ堂近くにある受付で料金を払って入場した。

重文・旧正宗寺三匝堂(会津さざえ堂)。

会津さざえ堂寛政8年(1796)飯盛山に建立された高さ16.5m、六角三層の仏堂である。正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」という。当時飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)という寺があり、その住職であった僧郁堂(いくどう)の考案した建物である。かつてはその独特な2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていた。

栄螺堂(さざえどう)は、江戸時代後期の東北から関東地方にかけて見られた特異な建築様式の仏堂で、堂内は螺旋構造の回廊となっており、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され、堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっている。仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっていることから、本来は三匝堂(さんそうどう)というが、螺旋構造や外観が巻貝のサザエに似ていることから、通称で「栄螺堂」「さざえ堂」などと呼ばれる。

上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという珍しい建築様式を採用していることが特徴である。  

頂上。上り下り折り返し地点。

反対側。

会津さざえ堂から進むと、広場に出て、白虎隊十九士自刃の地への坂道を下っていく。

 

「白虎隊十九士自刃の地」。人物像の視線の先に会津若松城がある。

江戸時代後期、戊辰戦争に際して新政府軍と幕府方の会津藩の間で発生した会津戦争に際して、会津藩では藩士子弟の少年たちで構成される白虎隊が結成され、抗戦した。そのうち士中二番隊が戸ノ口原の戦いにおいて敗走し、撤退する際に飯盛山に逃れ、鶴ヶ城周辺の城下町が燃えているのを確認し入城か突撃か、いずれを主張した隊士も、敵に捕まり生き恥を晒すよりはと、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃した地である。

白虎隊十九士自刃の地から見る鶴ヶ城(会津若松城)。

 

このあと、会津若松城三の丸跡にある福島県立博物館へ向かった。

福島県会津若松市 国史跡・会津大塚山古墳


福島県会津若松市 国史跡・会津大塚山古墳

2024年07月07日 14時06分29秒 | 福島県

国史跡・会津大塚山古墳。福島県会津若松市一箕町八幡北滝沢。

2024年5月29日(水)。

磐梯町の国史跡・慧日寺跡を見学後、会津若松市の飯盛山西近くにある会津大塚山古墳へ向かった。墓地の中を上っていくと車道終点に案内板があり、登り口からすぐに古墳があった。

会津大塚山古墳は1920年(大正9年)に考古学者の鳥居龍蔵によって古墳として認められ、その後、1964年(昭和39年)に『会津若松市史』出版事業の一環として東北大学文学部考古学研究室(伊東信雄教授)による後円部の発掘調査が行われた。

この調査によって、会津の地が大和政権の支配下に組み込まれたのは7世紀の阿倍比羅夫の東北遠征以降であるという従来の説は覆され、古墳の造営された4世紀末にはすでにヤマト王権を構成する首長が存在していたことが証明された。

右が北。

前方部から後円部。

後円部。

後円部。

後円部から前方部。

会津大塚山古墳は会津盆地東部に立つ大塚山の山頂に位置し、4世紀末の築造とされる墳丘全長114m前方後円墳で、福島県では亀ヶ森古墳(会津坂下町青津)に次いで第2位、東北地方では第4位の規模を誇る。一箕(いっき)古墳群を構成する古墳の1つで、出土品は国の重要文化財に指定されている。

一箕古墳群では本古墳を含み3基の大型前方後円墳が確認されており、他の2基の飯盛山古墳(飯盛山山頂)、堂ヶ作山古墳(堂ヶ作山山頂)は本古墳よりも先の築造とされている。

会津大塚山古墳は、1988年の再測量の結果、全長114m、後円部径70m・高さ約10m、前方部前幅54m、墳丘途中に段をもつ前方部二段後円部三段築成の古墳であることが判明した。

また、古墳東側後円部と前方部に土手状の張り出し部が確認されたが、このような張り出し部は、古墳時代前期の前方後方墳である新潟市福井の山谷古墳など越後・北陸の古墳に特徴的にみられるものであり、畿内だけでなく越後・北陸地方からの影響も考えられている。

1964年(昭和39年)の調査では、後円部の中心から南北2基の割竹形木棺の痕跡が検出され、さらに南棺からは日本製の三角縁神獣鏡をはじめ多くの遺物が検出された。また環頭大刀、靭(ゆき)、鉄製農耕具なども出土している。

南棺は北棺よりも古い埋葬で、遺った歯から老齢の男性であると推定され、大塚山古墳の主と考えられている。北棺からも量は少ないが南棺と同様の副葬品が出土した。

南棺出土 三角縁唐草文帯三神二獣鏡(福島県立博物館展示)

後円部中心から出土した南北2基の割竹形木棺からは多くの遺物が検出されたが、その代表的なものは三角縁神獣鏡である。「卑弥呼の鏡」と通称されることの多いこの鏡(現在は否定論者も多い)は、ヤマト王権が服属した地方の豪族へその証として分け与えていたと考えられ、3世紀から4世紀にかけて畿内に成立した古代国家の勢力範囲を考えるうえで重要な遺物と考えられる。ちなみに会津大塚山古墳の三角縁神獣鏡は岡山県備前市の鶴山丸山古墳のものと同じ鋳型である。鏡はほかに南棺から変形四獣鏡、北棺から捩文鏡が検出されている。

環頭大刀は、福岡市若八幡神社古墳出土の大刀に類似している。

南棺から出土した靭(ゆき)と銅鏃

出土品はほかに、南棺からは勾玉・管玉などの玉類、三葉環頭大刀や鉄剣などの刀剣類、鉄鏃や銅鏃などの工具類や砥石など合計279点、北棺からは紡錘車や管玉、刀子など95点が検出されている。

東北地方でこれだけ多くの副葬品が出土した古墳は他になく、副葬品の多くは優品で、畿内から移入されたもの、畿内文化の強い影響を受けたものが多いことから被葬者と大和朝廷との関係が注目される。また、遺物は南・北槨より出土の三角縁神獣鏡をはじめ、変形獣文鏡、捩文鏡、靱、碧玉紡錘車、素環頭大刀など、いずれも古墳時代前期を特色づけるものであり、その内容から見て、東北地方の古墳としては今のところ最古級に属する。

四道将軍の伝説。『古事記』『日本書紀』では、会津に関係する説話として四道将軍伝説が知られる。

「崇神天皇は諸国平定のため4人の皇族将軍をそれぞれ北陸・東海・西道(山陽)・丹波(山陰)の4方面へ派遣した。このうち、北陸道へは大彦命、東海道へは武渟川別命(大彦命の子)が派遣され、それぞれ日本海と太平洋沿いを北進しながら諸国の豪族を征服していった。やがて2人はそれぞれ東と西に折れ、再び出会うことができた。この出会った地を「相津」(あいづ)と名付けた

この話はあくまでも伝説であるが、大和朝廷が会津を征服したことが読み取れる。また、崇神天皇が3世紀-4世紀頃に存在した実在の天皇と見られていることや会津大塚山古墳が4世紀末の造営と考えられることから、大和朝廷の会津支配の始まりや会津大塚山古墳の被葬者を知る上でも注目される伝説である。

 

見学後、飯盛山へ向かった。

福島県磐梯町 国史跡・慧日寺跡 慧日寺資料館 徳一 名水百選・龍ヶ沢湧水


福島県磐梯町 国史跡・慧日寺跡 慧日寺資料館 徳一 名水百選・龍ヶ沢湧水

2024年07月06日 16時29分28秒 | 福島県

磐梯山慧日寺資料館。福島県磐梯町磐梯寺西。

2024年5月29日(水)

猪苗代町の猪苗代城跡を見学後、国史跡・慧日寺(えにちじ)跡へ向かい、駐車場に9時頃に着いた。慧日寺資料館は9時開館である。

資料館が視界に入らず困惑しながら歩道を進むと、樹木や池に囲まれた資料館が見えてきた。入館すると、受付の女性が私は名古屋出身ですと話しかけてきて、ここはどうして知りましたかと尋ねてきた。慧日寺は、山川出版社の福島県の歴史で知ったが、一般的には無名だ。写真撮影は禁止なので、5分ほど歩いて復元された史跡公園へ向かう。

慧日寺平安時代初め、807年(大同2年)に法相宗の僧・徳一(とくいつ)(8世紀半ば~9世紀前半)によって開かれた。徳一はもともと南都(奈良)の学僧で、布教活動のため会津へ下って勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広めていた。慧日寺は、民間信仰、ことに山岳信仰と密接な関係をもち、磐梯山を奥院として成立したものと考えられる。

また、徳一は会津の地から当時の新興仏教勢力であった天台宗の最澄と「三一権実諍論」と呼ばれる大論争を繰り広げたり、真言宗の空海に「真言宗未決文」を送ったりするなどした。徳一は842年(承和9年)に死去し、今与が跡を継いだ。この頃の慧日寺は会津一円を支配し、僧兵集団を保持し、封建領主としての権力をそなえており、寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇っていたと言われる。

「国王神社縁起」及び「元享釈書」によると、平将門の最後の合戦の時に、三女が恵日寺に逃れ、出家して如蔵尼と称して留まり、将門の死後33年目に郷里(茨城県坂東市)に帰ったと伝わる。

平安時代後期になると慧日寺は越後から会津にかけて勢力を張っていた城氏との関係が深くなり、1172年(承安2年)には城資永より越後国東蒲原郡小川庄75ヶ村を寄進されている。その影響で、源平合戦が始まると、平家方に付いた城助職が木曾義仲と信濃国横田河原で戦った際には、慧日寺衆徒頭の乗丹坊が会津四郡の兵を引き連れて助職への援軍として駆けつけている。しかし、この横田河原の戦いで助職は敗れ、乗丹坊も戦死し、慧日寺は一時的に衰退した。

平安末期から鎌倉時代にかけてのころ、密教化-修験化の方向をたどり、鎌倉末期から室町時代にかけて磐梯修験と強力な結びつきをもったと思われる。領主の庇護などもあり伽藍の復興が進み、『絹本著色恵日寺絵図』から室町時代には複数の伽藍とともに門前町が形成されていたことがわかる。

しかし、1589年(天正17年)の摺上原の戦いに勝利した伊達政宗が会津へ侵入した際にその戦火に巻き込まれ、金堂を残して全て焼失してしまった。その金堂も江戸時代初期の1626年(寛永3年)に焼失し、その後は再建されたものの、かつての大伽藍にはほど遠く、1869年(明治2年)の廃仏毀釈によって廃寺となった。その後、多くの人の復興運動の成果が実を結び、1904年(明治37年)に寺号使用が許可され、隣地に「恵日寺」という寺号で復興された。なお、現在は真言宗に属している。

国史跡・慧日寺跡。

慧日寺の遺構は「本寺地区」「戒壇地区」「観音寺地区」の三カ所に残されている。

「本寺地区」は慧日寺の中心伽藍があった場所で、発掘調査によって、創建当初は中門、金堂、講堂、食堂と推定される主要な建物が南北一列に建立されたことが判明している。

現在、中心伽藍跡は史跡公園として整備されており、2008年(平成20年)には金堂が、翌2009年(平成21年)には中門が復元された。さらに金堂内に復元された薬師如来坐像が2018年(平成30年)7月30日に公開された。

復元地域には右横上にある受付施設から入場する。

会津へ伝わった仏教は、平安初期、奈良の東大寺や興福寺で学んだ僧・徳一が、山の神、磐梯明神を守護神として会津磐梯山の麓に開いた慧日寺によって会津一帯に広められた。慧日寺は、自然崇拝を素地とする会津の磐梯山信仰を受け継ぎ、仏教的に組み替えることで会津の信仰の中心となった。さらに徳一は会津五薬師ほか多くの寺院を開いて、人々の素朴な信仰を仏教、薬師・観音信仰に取り込んでいった。こうしたことにより会津は、今も勝常寺の薬師如来坐像をはじめとする平安初期から中世、近世の仏像や寺院が多く残り、東北地方でいち早く仏教文化が花開いた地として「仏都会津」と呼ばれる。

樹齢800年を数えるエドヒガンザクラ「木ざし桜」。平安末期ごろ、慧日寺の宗徒頭・乗丹坊が挿した桜の杖がこの木になったという伝承が残る。種まき桜ともいわれ、この桜の花が咲き始めると田畑作業を始める目安とされていた。

中心伽藍の北には徳一廟が残されている。徳一廟の内部には平安時代に建立されたと推定される五輪塔があり、徳一の墓と伝えられている。

五重の石塔は、高さ2.95m、屋根と上重軸部が一石になっていて、屋根は錣葺(しころぶき)形に造られ、軒先には風鐸をつり下げた痕がある。石塔は風雨にさらされ、戦後の大雪で倒壊した際に二重目の塔身に納められた土師器の甕が発見された。昭和54年~57年にかけて保存修理を行い現在の覆堂を設けたさい、石塔の下から経石131個が出土した。経石は江戸時代末期のもので、真言宗の尊師や父母兄弟の供養のため書写され、埋納されたものと考えられる。

慧日寺周辺の住民は石塔を削り、薬として服用したこともあったので、軸部などが細くなってしまっている。この風習は慧日寺の本尊、薬師如来信仰によるものと思われる。

日本名水百選「磐梯西山麓湧水群」の代表的な湧水池である龍ヶ沢湧水が資料館前まで引水されており、水汲みに訪れる人も多い。

 

三一権実諍論(さんいちごんじつのそうろん)は、平安時代初期の弘仁8年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗の僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄(767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗と一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便。真実を理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗・三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗の根本経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗は一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗と仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこそ真実であると主張した。このように三乗・一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

法相宗の五性各別論では、衆生が本来そなえている仏教を信じ理解し実践する宗教的能力を五つに分類する。①定性声聞(声聞定姓)は、声聞の覚りである阿羅漢果を得ることが決まっているもの。②定性縁覚(独覚定姓)は、縁覚の覚りである辟支仏果が得られると決まっているもの。③定性菩薩(菩薩定姓)は、菩薩の覚りである仏果が得られると決まっているもの。④不定性(不定種性、三乗不定姓)は、以上の三乗の修行とその結果が定まっていないもの⑤無性(無種性、無姓有情)は、覚りの果を得ることができないもの。これらのうち、成仏すなわち仏果が得られるのは③④のみとなる。

 

このあと、会津若松市の会津大塚山古墳へ向かった。

福島県猪苗代町 猪苗代城跡 三浦一族・猪苗代氏累代の城