goo blog サービス終了のお知らせ 

いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

福島県 白河市歴史民俗資料館③白河結城氏 国史跡・白川城跡

2024年07月30日 11時25分00秒 | 福島県

国史跡・白川城跡。福島県白河市藤沢。

2024年6月1日(土)。

白河市歴史民俗資料館の見学を終え、小峰城に移転するまで白河結城氏の本城であった国史跡・白川城跡へ向かった。

歴史民俗資料館から近い場所にあるので入館時にアクセスを尋ねたら、出るときに受付の男性職員が地図をプリントして詳しく行き方を教えてくれた。2回脇道に入り、最後は山の麓の狭い道を数百m道なりに進むと狭い駐車場があり、解説板と本丸への階段がある。

白川城本丸跡。

白河市歴史民俗資料館には、国史跡・白川城跡の展示がある。

白川城跡は、中世、白河荘(福島県白河市及び西白河郡一帯)を拠点として陸奥国南部を支配した白河結城氏歴代の居城跡であり、搦目(からめ)城跡とも言う。

城跡は、白河市中心部の東南方約2km、阿武隈川右岸に南側から樹枝状に張り出した、比高約60mの丘陵部に所在する。

白河結城氏は、鎌倉武士として有名な下総結城氏の一族である。結城氏と白河との関係は、結城朝光が奥州合戦の恩賞として白河荘を賜ったことに由来する。朝光は、鎌倉幕府の評定衆に就任するなど幕政に重きをなしたが、白河には赴任せず、本代官を白河に派遣していたと考えられている。

鎌倉時代中期以降、結城氏の庶子が下総から白河に移住し、阿武隈川の南岸(南方(みなみかた))と北岸(北方(きたかた))において郷村の開発を行うようになった。

白河結城氏の祖とされる祐広(朝光の孫)は 13 世紀後半に白河に下向したと伝えられ、その子宗広の時代まで「白河荘南方」の地頭職として大村郷(白河市大地区)をはじめとした 10 程度の郷村を支配し、白川城を本拠としたとされる。

一方「北方」は一族の結城盛広が富沢郷(現在の白河市大信下小屋付近)を本拠とし、同様に 10 程度の郷村を支配していたとされる。

しかし、白河荘の中心である金勝寺(荒砥崎)は結城家惣領が領し、周辺の関(旗宿)・小田川・田島なども他の結城諸氏が支配していた。

このように鎌倉時代の白河荘は、結城氏という武士団の一族により現在につながる郷村の開発が行われていったが、この段階においては、祐広・宗広の白河結城氏はまだ結城一族のうちの一家という状況であり、地域に台頭するには至っていなかった。

白河結城氏が台頭するのは、祐広の子、宗広の時代である。宗広は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の命に従い、鎌倉を攻める新田義貞らに呼応して幕府を滅亡に追い込んだ。後醍醐天皇の信頼を得た宗広は結城家の「惣領」となるよう命じられ、天皇に反旗を翻した足利尊氏と戦ってこれを破り、天皇から「公家(天皇家)の宝」とまで賞賛されている。

その後、天皇主導の政治(建武政権)に反感を持つ武士層を糾合して勢力を盛り返した尊氏は、後醍醐天皇を吉野に追いやり、後醍醐天皇の南朝と尊氏の北朝が対立する南北朝内乱時代を迎えるが、宗広は一貫して南朝側につき、南朝勢力の立て直しを図ろうとした。

南朝勢力の退潮により宗広の子親朝は尊氏による北朝・武家政権への転身を図り、家の存続に腐心し、その後の繁栄の基礎を固めた。この建武元年(1334)から明徳 3 年(1392)の約 60 年にわたる南北朝内乱期を経て、白河結城氏は白河荘全体を掌握・領有するとともに、福島県中通り一帯の軍事警察権を行使する検断職(けんだんしき)に任じられ、室町時代には奥州南部から北関東まで勢力を拡大するに至った。

しかし、永正7年(1510)、惣領の政朝が一族の小峰氏によって追放され(永正の変)、小峰氏の血統による新たな白河結城氏が成立した。また、この時期に結城氏の本拠も白川城から小峰城に移ったとされている。

その後、周辺の有力大名に押されて白河結城氏の影響力は次第に失われ、佐竹・葦名氏を経て伊達氏に従属するようになった。遂に天正18年(1590)の奥羽仕置で白河結城氏は改易、約400年に及ぶ南奥支配は終焉を迎えた。

江戸時代の文化4年(1807)には、宗広・親光親子を顕彰する「感忠銘(かんちゅうめい)」碑が城跡北側崖面の岩塊に彫られた。

白河結城氏については、800点以上に及ぶ文書が伝来し、当該期の動向を知ることができ、『白河市史』の編纂等もあって、近年、情報収集と研究が進捗している。

白河市教育委員会では、平成22年度から同27年度にかけて、城跡の範囲・内容確認を目的とした発掘調査等を実施し、東西約950m、南北約550mの範囲で多数の平場・土塁・堀等の遺構が良好に遺存することを確認した。

城跡は、御本城山(ごほんじょうやま)地区を中心として、北東方に伸びる中山地区、北西方の藤沢山地区・藤沢地区から成る西部遺構群と、谷部を挟んだ御本城山の東側で、搦目山とその西側に派生する鐘撞堂山(かねつきどうやま)と呼ばれる2本の尾根上を中心に展開する東部遺構群から成る。

御本城山地区では、1号平場において盛土による土地造成や土塁、柱列、竪穴遺構、溝等を検出し、14世紀代と16世紀代の遺構面を確認した。1号平場の北東部にある2号平場では、16世紀後半代の道・土塁、14世紀代の門の一部と考えられる遺構を検出した。14世紀代の遺物として、中国製青磁(酒海壺(しゅかいこ)・水盤)が出土した。

また、中山地区の西端には、延長約130mの堀が残る。一方、御本城山地区の東に存在する鐘撞堂山地区では、2条の長大な堀が南半分に展開し、丘陵頂部では平場造成、地下式坑の遺構のほか、桁行4間、梁行3間の総柱と思われる建物を確認した。また、搦目山地区では、丘陵頂部平場で建物、柱列、土塁を確認した。建物は、桁行4間、梁行2間の東西棟の身舎(もや)に、北・東・南側に庇または縁が付くもので、15~16世紀代に位置づけられる。

御本城山地区では、2号平場を中心に14世紀代の遺構・遺物を確認でき、南北朝期における城館の中心が御本城山地区であると考えられる。

その後、同地区の遺構は減少し、室町期以降の出土遺物は東部の遺構群に多い傾向があり、城館の中心が搦目山に移動した可能性が考えられる。

また、御本城山地区周辺では16世紀後半頃に南北朝期の遺構面を覆う形で行われた大規模な整地を確認でき、藤沢山地区等でも同様な状況を確認できることから、この時期に城全体で改修が行われたと推定できる。南北朝期の遺構が良好に残る大規模な城館として貴重な事例と評価される。

このように、白川城跡は、鎌倉時代後期に陸奥国白河荘を拠点として活動し、南北朝期以降、陸奥南部地域を支配下に収めて繁栄した白河結城氏の居城である。発掘調査によって南北朝期から戦国期にかけての遺構等が良好に遺存していることが確認された。

 

国指定史跡・名勝「南湖公園」。白河市南湖。

南湖は、日本最古といわれる公園で、寛政の改革で知られる白河藩主・松平定信により、身分の差に関係なく誰もが楽しめる「士民共楽」という理念のもと、享和元年(1801)に築造された。

当時の庭園は城内や大名屋敷内などに造られ、庶民は立ち入ることができなかったが、南湖には垣根がなく、いつでも誰でも訪れることのできる画期的なものであった。

「南湖」という名称は、唐の詩人・李白の詩「南湖秋水夜煙無」からと、小峰城の南側に位置していたことに由来するといわれている。

また、行楽だけでなく、湖水は灌漑用水、水練・操船訓練として利用され、造成工事は領民の救済事業としての性格も持っていた。

湖水面積は17.7ヘクタール、周囲は約2キロメートルあり、那須連峰や関山を借景に、松、奈良吉野の桜、京都嵐山の楓が植えられ、四季折々の景色を楽しめる。

 

白川城跡から南湖公園東駐車場までは5分ほどで着き、湖岸まで歩いた。景勝を眺望する中心地までは徒歩では遠そうなので、湖岸道路を西に抜けることにした。途中で中心地を眺めると人出が多く賑わっていた。福島県文化財センター白河館「まほろん」へ向かった。

福島県 白河市歴史民俗資料館②建鉾山祭祀遺跡 白河国造 白河舟田・本沼遺跡群 白河関 芭蕉


福島県 白河市歴史民俗資料館②建鉾山祭祀遺跡 白河国造 白河舟田・本沼遺跡群 白河関 芭蕉

2024年07月29日 16時07分57秒 | 福島県

白河市歴史民俗資料館。福島県白河市中田。

2024年6月1日(土)。

白河舟田・本沼(もとぬま)遺跡群。

白河舟田・本沼遺跡群は、下総塚古墳・舟田中道遺跡・谷地久保古墳・野地久保古墳の4遺跡で構成される。周辺に展開する関和久官衙遺跡(推定白河郡衙跡)・借宿廃寺跡からなる古代の白河官衙遺跡群と合わせて、古代白河郡の中心地を示す遺跡群である。

下総塚古墳【しもうさづかこふん】

阿武隈川右岸の、標高315mほどの河岸段丘上に立地する。江戸時代から「下総塚」の名が付された古墳である。昭和7年(1932)に岩越二郎(いわごえじろう)が石室の測量を実施、平成8・9年(1996・1997)にはほ場整備事業に伴う発掘調査、さらに平成12~14年には、国史跡指定を目指して確認調査が実施された。調査の結果、本古墳は基壇を有する前方後円墳で、墳長は71.8mを測り、横穴式石室を埋葬施設とすることが明らかとなった。年代は、出土遺物などから6世紀後半に位置づけられる。

古墳の規模・形状、埴輪の存在から被葬者は文献にみられる「白河国造(しらかわくにのみやつこ)」の可能性が考えられる。

白河国造は、天孫族の少彦名神の後裔である葛城・鴨氏族系の玉祖氏・鏡作氏と同族で東山道系の国造では、阿尺国造・思太国造・伊久国造・染羽国造・信夫国造の同族とされる。

舟田中道遺跡【ふなだなかみちいせき】

遺跡は下総塚古墳と同じ河岸段丘上に立地する。平成8~11年にほ場整備事業に伴い発掘調査を実施し、古墳時代から平安時代の集落跡とともに、一辺約70mの溝で区画された豪族居館跡を確認した。

居館跡の区画溝は、辺の中点やコーナー部に張り出しを有する。区画溝の内部には、柵列が存在し、さらにその内部には竪穴住居跡などが数棟存在している。

居館跡の時期は、区画溝から出土した遺物により6世紀後半~7世紀前半頃に位置づけられ、下総塚古墳の被葬者の次代を担った「白河国造」の本拠と考えられる。

谷地久保古墳【やちくぼこふん】

阿武隈川の左岸、標高350mほどの南に面した谷部に位置する。

大正15年(1926)に岩越二郎が石室を測量、昭和58年には関西大学考古学研究室が測量調査を実施している。平成13・15年には、市教育委員会が国史跡指定を目指した内容確認調査を実施した。

調査の結果、近畿地方の終末期古墳に共通した特徴を有する、横口式石槨(よこぐちしきせっかく)を埋葬施設とし、墳形は二段築成で築かれた直径17mの円墳であることが明らかとなった。

古墳の時期は、横口式石槨を持つ古墳の例を参考として、7世紀後半~8世紀初頭頃に位置づけられる。被葬者については、古墳の構造の特異性などから、古代白河郡の郡司などの盟主層と考えられる。

野地久保古墳【のじくぼこふん】

谷地久保古墳の南東450mに位置し、東に張り出す丘陵の先端部に立地している。

平成16年に発見され、平成20年に市教育委員会が調査を実施した。墳丘の上部及び東側は削平されているが、墳丘に葺石をもつ上円下方墳(じょうえんかほうふん)であることが判明した。下方部の規模は一辺16m、上円部直径10mを測る。

谷地久保古墳と同様に横口式石槨を埋葬施設としており、当地域では同じ谷に特異なあり方を示す古墳が複数存在することは、この地が古代白河郡における盟主層の墓域であった可能性が考えられる。

 

このほかに、次に見学する予定だった白河結城氏の本城跡である国史跡・白川城跡の展示があった。歴史民俗資料館から近い場所にあるので入館時にアクセスを尋ねたら、出るときに受付の男性職員が地図をプリントして詳しくアクセスを教えてくれた。

読書メモ「石製模造品による葬送と祭祀 正直古墳群」佐久間 正明著 2023.02 

福島県 白河市歴史民俗資料館①縄文土器 人面付弥生土器 天王山式土器 


福島県 白河市歴史民俗資料館①縄文土器 人面付弥生土器 天王山式土器 

2024年07月28日 16時31分27秒 | 福島県

白河市歴史民俗資料館。福島県白河市中田。

2024年6月1日(土)。

白河ハリストス正教会の見学を終え、白河市歴史民俗資料館へ向かった。

 

鵜ヶ島台式土器神奈川県鵜ガ島台遺跡を標識遺跡に持つ、縄文時代早期後葉の土器型式である。土器の器面を二枚貝の放射肋で調整する際につく擦痕状の文様をもつのが特徴で、条痕文土器として分類され、文様の区画交差部に円形の刺突文が押捺されるという特徴を持つ土器である。関東地方を中心に分布する。

大木7b式土器と阿玉台式土器。

阿玉台式土器東関東に分布する縄文時代中期前半(4,500~5,000年前)を代表する土器で、千葉県香取市阿玉台貝塚の名前から命名された。霞ヶ浦沿岸に分布の中心をもつ関東地方における縄文土器編年の標式資料となっている。粘土には金雲母とよばれる鉱物が混ぜられているため、光に照らすとキラキラ光るのが特徴である。

綱取式土器。

綱取式土器は、福島県いわき市綱取貝塚出土土器を標式として設定された縄文時代後期前葉を中心とした型式である。

新地式土器は、福島県新地町新地貝塚出土土器を標式土器とした縄文時代後期末の土器形式で、磨消縄文を特徴として東北南部に分布する。

人面付弥生土器。滝ノ森B遺跡。

高さ25.3cm 胴径16cm。表郷番沢の滝ノ森B遺跡において、昭和15年(1940)、完全な形で出土した球形の胴に細長い頸をもった壺で、口から頸にかけた部分の表裏2面に人の顔が表現されている。隆帯が額に巡り、これにより眉と鼻が描き出されている。また、顔の輪郭にも隆帯がS字状に巡り、顎、耳が形作られている。隆帯上には、円形の刺突文がみられる。目、口は細い沈線で描かれ、その中に短い沈線を充填している。目・口、隆帯上の刺突文や胴部の一部に朱彩の痕跡がみられる。

年代的には、土器の特徴から弥生時代中期に位置づけられる。昭和41年(1966)の発掘調査時には、墓とみられる土坑も確認されていることから、再葬墓に伴う可能性が考えられる。

天王山(てんのうやま)遺跡出土品。

天王山遺跡は、大地区および久田野地内に所在する弥生時代後期前半(1世紀頃)の集落遺跡で、天王山式土器の標式遺跡として著名である。

白河市中心市街地から東へ約4km、阿武隈川左岸の標高407mほどの独立丘陵頂上部に立地しており、丘陵裾部との比高差は約80mを測る。複数時期の竪穴建物跡や土坑が重複する状況を確認したことから、一定期間存続した集落跡と位置付けられた。

昭和25年、開墾中に発見され、開墾と平行して行われた発掘調査により弥生土器、土製紡錘車、石器(アメリカ式石鏃・石鏃・環状石斧・磨石)、管玉、植物質遺物(炭化米・炭化クリ・炭化クルミ・炭化木皮)などが出土するとともに、土坑や集石遺構、焼土遺構などを検出した。出土した多量の土器は、「天王山式土器」として設定されるなど、東北における弥生時代後期前半の標式遺跡として、その後の研究にも強い影響を及ぼすことになった。

 平成28年から30年にかけて、白河市が行った発掘調査で、複数の竪穴建物が検出されたことにより、長い間不明であった遺跡の性格が集落であることが明らかになり、弥生時代後期前半における集落の立地や構造、多量の植物質遺物から想定される生業や食生活など、当時の社会構造を知る上でも新たな知見を加えることができた。

天王山遺跡は、東北地方における弥生時代研究において学史的にも極めて重要な遺跡であり、弥生時代後期前半における集落の立地や大量の植物遺物から想定される生業や食生活など、当時の社会構造を考えるうえで重要である。

天王山式土器は、壺・甕・鉢・高杯などがある。天王山式土器を最も特徴づける文様は、沈線間に上下から刺突を加えた交互刺突文である。その他に、沈線による鋸歯文、連弧文、工字文、方形区画文、渦文、菱形文や、磨消縄文手法もみられ、磨消部に赤彩したものも存在する。

発見当時、他に類例を見ない特徴を有していたことから弥生土器の標式として、「天王山式土器」と名づけられ、現在、東北地方から北陸地方を中心に分布することが確認されている。

福島県白河市 白河ハリストス正教会 山下りんのイコン画


福島県白河市 白河ハリストス正教会 山下りんのイコン画

2024年07月27日 14時59分13秒 | 福島県

白河ハリストス正教会・生神女進堂聖堂。福島県白河市愛宕町。

2024年6月1日(土)。

白河小峰城跡を見学後、白河ハリストス正教会へ向かった。観光案内図などの示唆により、聖堂近くの白河市役所西横の無料大駐車場に駐車した。旅行前の下調べで5月末の土日に内部が一般公開されるということだったが、それからチェックしていなかったので、実際に公開されていてうれしい気分になった。建物外観もいいが、山下りんのイコンが目的である。2022年春に釧路市の展覧会で山下りんの作品を鑑賞・撮影することができたが、今回は当然ながら内部の撮影は禁止だった。

駐車場から北へ歩いて行くと、聖堂が見えてきた。

聖堂の敷地内部にはバラが植栽され満開を迎えていた。司馬遼太郎が「街道をゆく」シリーズの「白河・会津の道」の巻で、「野バラの教会」として紹介している。聖堂のバラの手入れをしている女性がいて話をした。

なお、聖堂横の駐車場も駐車可能なようだった。

1882年(明治15)に初代の会堂が建てられ、今は集会所として現存している。現聖堂は1915年(大正4)に建立された。聖堂と内部の古いイコンは福島県指定重要文化財である。

白河での宣教は、1876年(明治9年)イオアン武石定伝教者が訪れたことに始まり、翌年、教理研究会「発酵会」が発足した。1878年(明治11年)に初代司祭のパウェル澤辺琢磨司祭により7名が受洗し、会名を「白河進堂会」と称して、白河ハリストス正教会が設立された。

澤辺琢磨司祭は、箱館でニコライ神父から洗礼を受けた日本ハリストス正教会初の正教徒で最初の日本人司祭である。旧名は山本数馬といい、坂本龍馬のいとこである。同志社大学の創立者で新島襄がアメリカに密航する際に手助けをしている。

1881年(明治14年)、信徒の最初の永眠者埋葬を正教会略式で執行したことに対し、仏教側より告訴されて裁判となり、雑犯律違反として有罪判決が下ったが、大審院に上告し勝訴した。

1882年(明治15年)に会堂が建築され、これは現在も司祭の宿泊、集会所として使用されている。1884年(明治17年)から1891年(明治24年)までパウェル澤辺琢磨司祭が管轄として白河に居住して、教勢が著しく進展し信徒の敬愛を集めた。

1898年(明治31年)、白河の総鎮守鹿島神社例祭に際し、祭費の寄付に応じなかった信徒に対し暴力事件が起きた。

1915年(大正4年)現聖堂が建てられた。聖堂は、木造平屋建て、一部二階建(鐘塔)で、間口8.17m、奥行14.44mをはかり、総面積101㎡である。設計は当時副輔祭であった河村伊蔵、大工は地元白河の棟梁中村新太郎で、費用は白河の信徒の積立や拠出によって建設された。

平面は、聖所を中心として、前方に啓蒙所兼玄関(上階は鐘塔)、奥に至聖所を配し全体は十字形となっている。屋根は銅板葺きで、外廻りは板壁に白色塗料で仕上げられている。全体的にはビザンチン様式の雰囲気を漂わせている建物である。

聖堂入口。

イコン(聖画像)とは、ビザンチン帝国とその周辺諸国に布教されたギリシャ正教会で用いられた絵画であり、神との交わりの案内役として正教の聖堂や信者の家には必ず掲げられるものである。

白河ハリストス正教会聖堂内の至聖所と聖所は、イコノスタシス(聖障)によって分けられ、正面のイコノスタシスには3段に26点、聖所の両側壁には22点のイコンがある。また、この中には、茨城県出身の女性イコン画家、山下りんが制作したイコン5点も含まれている。

作品は石版画に着色した作品、板に麻布を貼って着色した作品(石膏を使用した場合もある)、麻布に油彩を施した作品などであり、一部にはロシアからもたらされたものもある。

山下りんのイコンは7点あり、そのうちイコノスタス奥の一般に公開されていない至聖所にある「聖三位一体」と復活祭前の受難週の時だけ使われる「眠りの聖像」は普段は見ることができない。このほかに「大十字架」1点がある。

 

「東北地方における山下りんのイコン」(久保田菜穂、山形大学)より。

白河教会のイコノスタスは、さまざまな大きさのイコンを寄せ集めて作ってある。基本的なイコンの配置は押さえているものの、作風の統一感はない。『預言者エリヤ』のイコンは、もともと上部分が半円形になっていてはみでるために後ろに折られている。また、『三聖人』のイコンは、幅が大きかったため聖人のぎりぎりのところまで左右が切り取られている。一つ一つのイコンはそれぞれ違った経緯を持って制作され、寄贈されたものであり、それを寄せ集めてイコノスタスを形成したことが白河教会のパンフレットに書かれている。

山下は、イコノスタスを形成するのに不足しているイコンを制作したと推測できる。山下自身が設計者としてイコノスタス全体の配置を指示する場合が全てではなく、教会の状況に合わせて臨機応変に依頼に応じていたことがわかる。

東北地方に山下りん作イコンが多い理由として推測されるのは以下のことである。明治初期、カトリックやプロテスタントは都市部のエリートを中心に宣教を進めていった。正教においても、最初こそ学のあるエリート層が伝道された。ただし、カトリックやプロテスタントと違うのは、初期に伝道された者たちが自分の故郷に帰って、農村での宣教活動を活発に行なったことだ。東北地方は、特にその傾向が強かった。

農民たちは経済的に貧しく、献金の額はカトリックやプロテスタントと比べて少額だった。そのため、正教の信仰生活を送る上で必要なイコンを確保するためとはいえ、ロシア製の高価なイコンを輸入して取り寄せることは難しかった。その中で、日本人イコン画家である山下りん作のイコンは輸入に要する費用がいらず、格式高いロシア製のイコンよりは廉価で購入することができた。そのため、山下りん作イコンを設置する教会が多くなり、今日でもそのイコンが残されていると考えられる。

仙台ハリストス正教会の主教や、東京・神田にあるニコライ堂で出会った信徒の話を聞いたところ、山下りん作イコンを所蔵しているのは地方のお金がない教会だろうということだった。比較的規模の大きい教会は格式を大事にするからか、ロシア製の立派なイコンがあることが誇りらしい。

イコン 山下りん 北海道立釧路芸術館

福島県白河市 国史跡・日本100名城・小峰城跡(白河小峰城跡、白河城跡)

 

献金箱に志納を納めたのち、駐車場に戻り、白河市歴史民俗資料館へ向かった。

 


福島県白河市 国史跡・日本100名城・小峰城跡(白河小峰城跡、白河城跡)

2024年07月26日 13時49分17秒 | 福島県

国史跡・日本100名城・小峰城跡(白河小峰城跡、白河城跡)。福島県白河市郭内。

2024年6月1日(土)。

小峰城歴史館の見学を終え、小峰城跡へ向かった。通常は清水門から本丸に登るようだが、整備工事中のため、歴史館・二の丸茶屋近くに帯曲輪門跡への仮の登り口が鉄骨で架けられていた。

白河市は本丸正面にあった清水門の木造復元を目指し、2024年1月着工2025年度末完成を目指すとしている。

老中・松平定信(白河藩主久松松平家9代当主・子孫は桑名藩主)時代(1800年頃)の小峰城

小峰城は、阿武隈川と谷津田川の間に位置する、小峰ヶ岡という丘陵に築かれた平山城である。東北地方では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城、会津若松城と共に「東北三名城」の1つにも数えられている。

城郭は阿武隈川の南側に東西に延びる独立丘陵と、丘陵の南方に広がる段丘上を利用して築城されている。本丸の標高は370m、本丸と二之丸との比高は約15mである。本丸と二の丸の一部が残っており、JR白河駅の北方約500mに本丸が位置する。

縄張りは梯郭式で、阿武隈川を背にした北端に本丸が位置し、本丸の南に二の丸、三の丸と広がっている。また本丸は周囲を帯廓および竹之丸で囲んでいる。二の丸までは総石垣で固められていたが、三の丸からは一部が土塁となっていた。

白河小峰城は南北朝時代の興国元年/暦応3年(1340年)に結城親朝が小峰ヶ岡に築城して小峰城と名づけたのが始まりとされる。 この当時は、現在の本丸と三の丸北端の丘陵部が城域で、現在の二の丸付近を阿武隈川が流れており、川に挟まれた細長い丘の上の城だった。

天正18年(1590年)、城主の白河結城氏が豊臣秀吉の奥州仕置により改易されるとこの地は会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、再度蒲生氏が支配したが、寛永4年(1627年)に丹羽長重が10万石で棚倉城(福島県棚倉町)から移封されると、幕命により寛永6年(1629年)より城郭の大改築に着手、3年の歳月を費やして寛永9年(1632年)に完成した。

この際に阿武隈川は城の北の流れを本流とし、南の河床は埋め立てて二の丸、三の丸が築かれた。また、竹之丸東側の堀切を拡大して本丸を丘陵から切り離し現在の縄張りとなっている。後には、城の西側で南に大きく蛇行していた阿武隈川の流れを北につけかえ、埋め立てた跡地には町屋が形成された。会津藩の出身者が多く住んだ事から、会津町の名が今に残っている。

その後丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と7家21代の城主の交代があったが、慶応3年(1867年)に最後の阿部氏が棚倉藩に移封された後、白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなる。

白河城主が松平定信であった文化5年(1808)に作成された城郭町割絵図。

翌慶応4年(1868年)、白河小峰城は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、5月1日、大半を焼失し落城した(白河口の戦い)。

城跡には曲輪・土塁・石垣・水堀を残すのみであったが、1991年に天守に相当する本丸御三階櫓が木造により復元された。現在各地の城址で進められている、発掘調査や、図面、古写真等の資料に基づく木造による復元の嚆矢とされている。1994年(平成6年)に前御門が復元された。

多門櫓跡。

多門櫓跡から清水門跡。

前御門。

三重櫓。

三重櫓1632年(寛永9年)に建てられた複合式層塔型3重3階の櫓で、当時は「三重御櫓」と呼ばれた実質的な天守であった。石垣上端に余裕を持たせ付櫓や2階に出窓を付けた姿は、若松城天守に共通する。黒漆塗りの下見板張りで、風雨にさらされることを考慮して窓を小さく開いている。この三重櫓は1868年(慶応4年)に起こった戊辰戦争によって焼失した。

現在の御三階櫓は1991年に復元された建物である。復元天守は昭和期に多数造られたが、それらはみな鉄筋コンクリート造で、外観のみ元に復したもの(外観復元)であった。白河城の三重櫓は木造復元された城郭建築のうち、天守に相当する建物の復元では最初のもので、現在でも数少ない木造復元天守の1つである。

天守台から。

おとめ桜の伝説。

寛永年間に城の大改修を行った際、本丸の石垣が何度も崩壊したため、人柱を立てることになり、人柱にするのはその日、最初に城に来た者ということに決まった。すると、最初に来たのは作事奉行和知半三郎の娘「おとめ」だった。父は必死に「来るな」と手で合図をしたが、逆に「来い」という合図と勘違いしたおとめは捕らえられ、人柱にされてしまった。その後、石垣は無事完成し、おとめが埋められた場所には桜の木が植えられ「おとめ桜」と呼ばれるようになったという。現在三重櫓のすぐ横に植えられているおとめ桜は二代目で、初代は戊辰戦争の時に焼失している。

このあと、駐車場へ戻り、車で数分の旧小峰城太鼓櫓へ向かった。

旧小峰城太鼓櫓。白河市郭内。

もとは小峰城二之丸の南側入り口にあたる、太鼓門西側に所在したとされ、一部の小峰城絵図に描かれている。

明治7年(1874)から行われた、小峰城内の土地・建物の民間への払い下げに際して、白河の城下で商家(山城屋)を営んでいた荒井家が譲り受け、当初は三之丸の紅葉土手(現在は消失)に移築された。その後、昭和5年(1930)に現敷地北側に移築され、茶室に改装後利用された。平成27年(2015)、荒井家より市へ寄贈され、その後、老朽化や東日本大震災による影響により倒壊の恐れがあったことから建物を解体し、令和4年(2022)に同敷地(南側)へ移築修復工事を行った。

これまでの移築により建物そのものは原型と変わっているが、大正年間の写真や骨組みなどから、建物の原型は重層で、四方に転び(柱などの材を傾ける作り方)をもつ2間四方の寄棟造りであったと推定できる。

小峰城に関わる建造物が江戸時代末から明治初期に全て焼失・破却等により失われた中で、唯一現存する貴重な建造物である。

 

このあと、白河ハリストス正教会へ向かった。

福島県白河市 小峰城歴史館 松平定信時代の白河城 白河結城氏