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福島県 白河市歴史民俗資料館①縄文土器 人面付弥生土器 天王山式土器 

2024年07月28日 16時31分27秒 | 福島県

白河市歴史民俗資料館。福島県白河市中田。

2024年6月1日(土)。

白河ハリストス正教会の見学を終え、白河市歴史民俗資料館へ向かった。

 

鵜ヶ島台式土器神奈川県鵜ガ島台遺跡を標識遺跡に持つ、縄文時代早期後葉の土器型式である。土器の器面を二枚貝の放射肋で調整する際につく擦痕状の文様をもつのが特徴で、条痕文土器として分類され、文様の区画交差部に円形の刺突文が押捺されるという特徴を持つ土器である。関東地方を中心に分布する。

大木7b式土器と阿玉台式土器。

阿玉台式土器東関東に分布する縄文時代中期前半(4,500~5,000年前)を代表する土器で、千葉県香取市阿玉台貝塚の名前から命名された。霞ヶ浦沿岸に分布の中心をもつ関東地方における縄文土器編年の標式資料となっている。粘土には金雲母とよばれる鉱物が混ぜられているため、光に照らすとキラキラ光るのが特徴である。

綱取式土器。

綱取式土器は、福島県いわき市綱取貝塚出土土器を標式として設定された縄文時代後期前葉を中心とした型式である。

新地式土器は、福島県新地町新地貝塚出土土器を標式土器とした縄文時代後期末の土器形式で、磨消縄文を特徴として東北南部に分布する。

人面付弥生土器。滝ノ森B遺跡。

高さ25.3cm 胴径16cm。表郷番沢の滝ノ森B遺跡において、昭和15年(1940)、完全な形で出土した球形の胴に細長い頸をもった壺で、口から頸にかけた部分の表裏2面に人の顔が表現されている。隆帯が額に巡り、これにより眉と鼻が描き出されている。また、顔の輪郭にも隆帯がS字状に巡り、顎、耳が形作られている。隆帯上には、円形の刺突文がみられる。目、口は細い沈線で描かれ、その中に短い沈線を充填している。目・口、隆帯上の刺突文や胴部の一部に朱彩の痕跡がみられる。

年代的には、土器の特徴から弥生時代中期に位置づけられる。昭和41年(1966)の発掘調査時には、墓とみられる土坑も確認されていることから、再葬墓に伴う可能性が考えられる。

天王山(てんのうやま)遺跡出土品。

天王山遺跡は、大地区および久田野地内に所在する弥生時代後期前半(1世紀頃)の集落遺跡で、天王山式土器の標式遺跡として著名である。

白河市中心市街地から東へ約4km、阿武隈川左岸の標高407mほどの独立丘陵頂上部に立地しており、丘陵裾部との比高差は約80mを測る。複数時期の竪穴建物跡や土坑が重複する状況を確認したことから、一定期間存続した集落跡と位置付けられた。

昭和25年、開墾中に発見され、開墾と平行して行われた発掘調査により弥生土器、土製紡錘車、石器(アメリカ式石鏃・石鏃・環状石斧・磨石)、管玉、植物質遺物(炭化米・炭化クリ・炭化クルミ・炭化木皮)などが出土するとともに、土坑や集石遺構、焼土遺構などを検出した。出土した多量の土器は、「天王山式土器」として設定されるなど、東北における弥生時代後期前半の標式遺跡として、その後の研究にも強い影響を及ぼすことになった。

 平成28年から30年にかけて、白河市が行った発掘調査で、複数の竪穴建物が検出されたことにより、長い間不明であった遺跡の性格が集落であることが明らかになり、弥生時代後期前半における集落の立地や構造、多量の植物質遺物から想定される生業や食生活など、当時の社会構造を知る上でも新たな知見を加えることができた。

天王山遺跡は、東北地方における弥生時代研究において学史的にも極めて重要な遺跡であり、弥生時代後期前半における集落の立地や大量の植物遺物から想定される生業や食生活など、当時の社会構造を考えるうえで重要である。

天王山式土器は、壺・甕・鉢・高杯などがある。天王山式土器を最も特徴づける文様は、沈線間に上下から刺突を加えた交互刺突文である。その他に、沈線による鋸歯文、連弧文、工字文、方形区画文、渦文、菱形文や、磨消縄文手法もみられ、磨消部に赤彩したものも存在する。

発見当時、他に類例を見ない特徴を有していたことから弥生土器の標式として、「天王山式土器」と名づけられ、現在、東北地方から北陸地方を中心に分布することが確認されている。

福島県白河市 白河ハリストス正教会 山下りんのイコン画


福島県白河市 白河ハリストス正教会 山下りんのイコン画

2024年07月27日 14時59分13秒 | 福島県

白河ハリストス正教会・生神女進堂聖堂。福島県白河市愛宕町。

2024年6月1日(土)。

白河小峰城跡を見学後、白河ハリストス正教会へ向かった。観光案内図などの示唆により、聖堂近くの白河市役所西横の無料大駐車場に駐車した。旅行前の下調べで5月末の土日に内部が一般公開されるということだったが、それからチェックしていなかったので、実際に公開されていてうれしい気分になった。建物外観もいいが、山下りんのイコンが目的である。2022年春に釧路市の展覧会で山下りんの作品を鑑賞・撮影することができたが、今回は当然ながら内部の撮影は禁止だった。

駐車場から北へ歩いて行くと、聖堂が見えてきた。

聖堂の敷地内部にはバラが植栽され満開を迎えていた。司馬遼太郎が「街道をゆく」シリーズの「白河・会津の道」の巻で、「野バラの教会」として紹介している。聖堂のバラの手入れをしている女性がいて話をした。

なお、聖堂横の駐車場も駐車可能なようだった。

1882年(明治15)に初代の会堂が建てられ、今は集会所として現存している。現聖堂は1915年(大正4)に建立された。聖堂と内部の古いイコンは福島県指定重要文化財である。

白河での宣教は、1876年(明治9年)イオアン武石定伝教者が訪れたことに始まり、翌年、教理研究会「発酵会」が発足した。1878年(明治11年)に初代司祭のパウェル澤辺琢磨司祭により7名が受洗し、会名を「白河進堂会」と称して、白河ハリストス正教会が設立された。

澤辺琢磨司祭は、箱館でニコライ神父から洗礼を受けた日本ハリストス正教会初の正教徒で最初の日本人司祭である。旧名は山本数馬といい、坂本龍馬のいとこである。同志社大学の創立者で新島襄がアメリカに密航する際に手助けをしている。

1881年(明治14年)、信徒の最初の永眠者埋葬を正教会略式で執行したことに対し、仏教側より告訴されて裁判となり、雑犯律違反として有罪判決が下ったが、大審院に上告し勝訴した。

1882年(明治15年)に会堂が建築され、これは現在も司祭の宿泊、集会所として使用されている。1884年(明治17年)から1891年(明治24年)までパウェル澤辺琢磨司祭が管轄として白河に居住して、教勢が著しく進展し信徒の敬愛を集めた。

1898年(明治31年)、白河の総鎮守鹿島神社例祭に際し、祭費の寄付に応じなかった信徒に対し暴力事件が起きた。

1915年(大正4年)現聖堂が建てられた。聖堂は、木造平屋建て、一部二階建(鐘塔)で、間口8.17m、奥行14.44mをはかり、総面積101㎡である。設計は当時副輔祭であった河村伊蔵、大工は地元白河の棟梁中村新太郎で、費用は白河の信徒の積立や拠出によって建設された。

平面は、聖所を中心として、前方に啓蒙所兼玄関(上階は鐘塔)、奥に至聖所を配し全体は十字形となっている。屋根は銅板葺きで、外廻りは板壁に白色塗料で仕上げられている。全体的にはビザンチン様式の雰囲気を漂わせている建物である。

聖堂入口。

イコン(聖画像)とは、ビザンチン帝国とその周辺諸国に布教されたギリシャ正教会で用いられた絵画であり、神との交わりの案内役として正教の聖堂や信者の家には必ず掲げられるものである。

白河ハリストス正教会聖堂内の至聖所と聖所は、イコノスタシス(聖障)によって分けられ、正面のイコノスタシスには3段に26点、聖所の両側壁には22点のイコンがある。また、この中には、茨城県出身の女性イコン画家、山下りんが制作したイコン5点も含まれている。

作品は石版画に着色した作品、板に麻布を貼って着色した作品(石膏を使用した場合もある)、麻布に油彩を施した作品などであり、一部にはロシアからもたらされたものもある。

山下りんのイコンは7点あり、そのうちイコノスタス奥の一般に公開されていない至聖所にある「聖三位一体」と復活祭前の受難週の時だけ使われる「眠りの聖像」は普段は見ることができない。このほかに「大十字架」1点がある。

 

「東北地方における山下りんのイコン」(久保田菜穂、山形大学)より。

白河教会のイコノスタスは、さまざまな大きさのイコンを寄せ集めて作ってある。基本的なイコンの配置は押さえているものの、作風の統一感はない。『預言者エリヤ』のイコンは、もともと上部分が半円形になっていてはみでるために後ろに折られている。また、『三聖人』のイコンは、幅が大きかったため聖人のぎりぎりのところまで左右が切り取られている。一つ一つのイコンはそれぞれ違った経緯を持って制作され、寄贈されたものであり、それを寄せ集めてイコノスタスを形成したことが白河教会のパンフレットに書かれている。

山下は、イコノスタスを形成するのに不足しているイコンを制作したと推測できる。山下自身が設計者としてイコノスタス全体の配置を指示する場合が全てではなく、教会の状況に合わせて臨機応変に依頼に応じていたことがわかる。

東北地方に山下りん作イコンが多い理由として推測されるのは以下のことである。明治初期、カトリックやプロテスタントは都市部のエリートを中心に宣教を進めていった。正教においても、最初こそ学のあるエリート層が伝道された。ただし、カトリックやプロテスタントと違うのは、初期に伝道された者たちが自分の故郷に帰って、農村での宣教活動を活発に行なったことだ。東北地方は、特にその傾向が強かった。

農民たちは経済的に貧しく、献金の額はカトリックやプロテスタントと比べて少額だった。そのため、正教の信仰生活を送る上で必要なイコンを確保するためとはいえ、ロシア製の高価なイコンを輸入して取り寄せることは難しかった。その中で、日本人イコン画家である山下りん作のイコンは輸入に要する費用がいらず、格式高いロシア製のイコンよりは廉価で購入することができた。そのため、山下りん作イコンを設置する教会が多くなり、今日でもそのイコンが残されていると考えられる。

仙台ハリストス正教会の主教や、東京・神田にあるニコライ堂で出会った信徒の話を聞いたところ、山下りん作イコンを所蔵しているのは地方のお金がない教会だろうということだった。比較的規模の大きい教会は格式を大事にするからか、ロシア製の立派なイコンがあることが誇りらしい。

イコン 山下りん 北海道立釧路芸術館

福島県白河市 国史跡・日本100名城・小峰城跡(白河小峰城跡、白河城跡)

 

献金箱に志納を納めたのち、駐車場に戻り、白河市歴史民俗資料館へ向かった。

 


福島県白河市 国史跡・日本100名城・小峰城跡(白河小峰城跡、白河城跡)

2024年07月26日 13時49分17秒 | 福島県

国史跡・日本100名城・小峰城跡(白河小峰城跡、白河城跡)。福島県白河市郭内。

2024年6月1日(土)。

小峰城歴史館の見学を終え、小峰城跡へ向かった。通常は清水門から本丸に登るようだが、整備工事中のため、歴史館・二の丸茶屋近くに帯曲輪門跡への仮の登り口が鉄骨で架けられていた。

白河市は本丸正面にあった清水門の木造復元を目指し、2024年1月着工2025年度末完成を目指すとしている。

老中・松平定信(白河藩主久松松平家9代当主・子孫は桑名藩主)時代(1800年頃)の小峰城

小峰城は、阿武隈川と谷津田川の間に位置する、小峰ヶ岡という丘陵に築かれた平山城である。東北地方では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城、会津若松城と共に「東北三名城」の1つにも数えられている。

城郭は阿武隈川の南側に東西に延びる独立丘陵と、丘陵の南方に広がる段丘上を利用して築城されている。本丸の標高は370m、本丸と二之丸との比高は約15mである。本丸と二の丸の一部が残っており、JR白河駅の北方約500mに本丸が位置する。

縄張りは梯郭式で、阿武隈川を背にした北端に本丸が位置し、本丸の南に二の丸、三の丸と広がっている。また本丸は周囲を帯廓および竹之丸で囲んでいる。二の丸までは総石垣で固められていたが、三の丸からは一部が土塁となっていた。

白河小峰城は南北朝時代の興国元年/暦応3年(1340年)に結城親朝が小峰ヶ岡に築城して小峰城と名づけたのが始まりとされる。 この当時は、現在の本丸と三の丸北端の丘陵部が城域で、現在の二の丸付近を阿武隈川が流れており、川に挟まれた細長い丘の上の城だった。

天正18年(1590年)、城主の白河結城氏が豊臣秀吉の奥州仕置により改易されるとこの地は会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、再度蒲生氏が支配したが、寛永4年(1627年)に丹羽長重が10万石で棚倉城(福島県棚倉町)から移封されると、幕命により寛永6年(1629年)より城郭の大改築に着手、3年の歳月を費やして寛永9年(1632年)に完成した。

この際に阿武隈川は城の北の流れを本流とし、南の河床は埋め立てて二の丸、三の丸が築かれた。また、竹之丸東側の堀切を拡大して本丸を丘陵から切り離し現在の縄張りとなっている。後には、城の西側で南に大きく蛇行していた阿武隈川の流れを北につけかえ、埋め立てた跡地には町屋が形成された。会津藩の出身者が多く住んだ事から、会津町の名が今に残っている。

その後丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と7家21代の城主の交代があったが、慶応3年(1867年)に最後の阿部氏が棚倉藩に移封された後、白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなる。

白河城主が松平定信であった文化5年(1808)に作成された城郭町割絵図。

翌慶応4年(1868年)、白河小峰城は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、5月1日、大半を焼失し落城した(白河口の戦い)。

城跡には曲輪・土塁・石垣・水堀を残すのみであったが、1991年に天守に相当する本丸御三階櫓が木造により復元された。現在各地の城址で進められている、発掘調査や、図面、古写真等の資料に基づく木造による復元の嚆矢とされている。1994年(平成6年)に前御門が復元された。

多門櫓跡。

多門櫓跡から清水門跡。

前御門。

三重櫓。

三重櫓1632年(寛永9年)に建てられた複合式層塔型3重3階の櫓で、当時は「三重御櫓」と呼ばれた実質的な天守であった。石垣上端に余裕を持たせ付櫓や2階に出窓を付けた姿は、若松城天守に共通する。黒漆塗りの下見板張りで、風雨にさらされることを考慮して窓を小さく開いている。この三重櫓は1868年(慶応4年)に起こった戊辰戦争によって焼失した。

現在の御三階櫓は1991年に復元された建物である。復元天守は昭和期に多数造られたが、それらはみな鉄筋コンクリート造で、外観のみ元に復したもの(外観復元)であった。白河城の三重櫓は木造復元された城郭建築のうち、天守に相当する建物の復元では最初のもので、現在でも数少ない木造復元天守の1つである。

天守台から。

おとめ桜の伝説。

寛永年間に城の大改修を行った際、本丸の石垣が何度も崩壊したため、人柱を立てることになり、人柱にするのはその日、最初に城に来た者ということに決まった。すると、最初に来たのは作事奉行和知半三郎の娘「おとめ」だった。父は必死に「来るな」と手で合図をしたが、逆に「来い」という合図と勘違いしたおとめは捕らえられ、人柱にされてしまった。その後、石垣は無事完成し、おとめが埋められた場所には桜の木が植えられ「おとめ桜」と呼ばれるようになったという。現在三重櫓のすぐ横に植えられているおとめ桜は二代目で、初代は戊辰戦争の時に焼失している。

このあと、駐車場へ戻り、車で数分の旧小峰城太鼓櫓へ向かった。

旧小峰城太鼓櫓。白河市郭内。

もとは小峰城二之丸の南側入り口にあたる、太鼓門西側に所在したとされ、一部の小峰城絵図に描かれている。

明治7年(1874)から行われた、小峰城内の土地・建物の民間への払い下げに際して、白河の城下で商家(山城屋)を営んでいた荒井家が譲り受け、当初は三之丸の紅葉土手(現在は消失)に移築された。その後、昭和5年(1930)に現敷地北側に移築され、茶室に改装後利用された。平成27年(2015)、荒井家より市へ寄贈され、その後、老朽化や東日本大震災による影響により倒壊の恐れがあったことから建物を解体し、令和4年(2022)に同敷地(南側)へ移築修復工事を行った。

これまでの移築により建物そのものは原型と変わっているが、大正年間の写真や骨組みなどから、建物の原型は重層で、四方に転び(柱などの材を傾ける作り方)をもつ2間四方の寄棟造りであったと推定できる。

小峰城に関わる建造物が江戸時代末から明治初期に全て焼失・破却等により失われた中で、唯一現存する貴重な建造物である。

 

このあと、白河ハリストス正教会へ向かった。

福島県白河市 小峰城歴史館 松平定信時代の白河城 白河結城氏


福島県白河市 小峰城歴史館 松平定信時代の白河城 白河結城氏

2024年07月25日 16時35分02秒 | 福島県

小峰城歴史館。福島県白河市郭内。

2024年6月1日(土)。

鏡石町の岩瀬牧場を見学後、南に進んで白河市の小峰城跡へ向かった。城跡の入口に近い駐車場奥に小峰城歴史館があるので先に見学した。

松平定信(徳川吉宗の孫で白河藩主久松松平家9代当主・子孫は桑名藩主)時代(1800年頃)の小峰城

松平定信時代(1800年頃)の小峰城(再現ジオラマ)。

小峰城は、興国~正平年間(1340~1369)の頃、白河荘を治めていた白河結城氏の結城宗広の嫡男親朝(別家小峰家を興す)が築いたことに始まるとされる。

白河結城氏の本拠は、小峰城から東へ約3kmに位置する白川城であったが、白河結城氏一族の内紛により、小峰氏が白河結城氏の当主となった永正年間(1504~1520)以降に、本拠が小峰城に移ったと推定されている。

下総国結城郡(茨城県結城市)を本拠とする結城朝光は、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした「奥州合戦」(文治 5 年、1189)に従軍し、戦功をあげ、白河荘を賜ったとされる。ここが約 400 年に及ぶ結城氏と白河の関係の起点となった。

朝光は、鎌倉幕府の評定衆に就任するなど幕政に重きをなしたが、白河には赴任せず、本代官を白河に派遣していたと考えられている。

鎌倉時代中期以降になると、結城氏の庶子が白河に移住し始めるようになり、阿武隈川の南岸(南方)と北岸(北方)に郷村の開発を進めていったと推測されている。

白河結城氏の祖とされる祐広(朝光の孫)は 13 世紀後半に白河に下向したと伝えられ、その子宗広の時代まで「白河荘南方」の地頭職として大村郷(白河市大地区)をはじめとした 10 程度の郷村を支配しており、一方「北方」は一族の結城盛広が富沢郷(現在の白河市大信下小屋付近)を本拠とし、同様に 10 程度の郷村を支配していたとされる。

しかし、白河荘の中心である金勝寺(荒砥崎)は結城家惣領(下総結城氏)が領し、周辺の関(旗宿)・小田川・田島なども他の結城諸氏が支配していた。

このように鎌倉時代の白河荘は、結城氏という武士団の一族により現在につながる郷村の開発が行われていったが、この段階においては、祐広・宗広の白河結城氏はまだ結城一族のうちの一家という状況であり、地域に台頭するには至っていなかった。

白河結城氏が台頭するのは、祐広の子、宗広の時代である。宗広は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の命に従い、鎌倉を攻める新田義貞らに呼応して幕府を滅亡に追い込んだ。後醍醐天皇の信頼を得た宗広は結城家の「惣領」となるよう命じられ、天皇に反旗を翻した足利尊氏と戦ってこれを破り、天皇から「公家(天皇家)の宝」とまで賞賛されている。

その後、天皇主導の政治(建武政権)に反感を持つ武士層を糾合して勢力を盛り返した尊氏は、後醍醐天皇を吉野に追いやり、後醍醐天皇の南朝と尊氏の北朝が対立する南北朝内乱時代を迎えるが、宗広は一貫して南朝側につき、南朝勢力の立て直しを図ろうとした。

しかし、南朝勢力の退潮により宗広の子親朝は尊氏による北朝・武家政権への転身を図り、家の存続に腐心した。この建武元年(1334)から明徳 3 年(1392)の約 60 年にわたる南北朝内乱期を経て、白河結城氏は白河荘全体を掌握・領有した。

また、南朝後醍醐天皇・北朝足利尊氏の両政権から福島県中通り一帯の軍事警察権を行使する検断職に任じられ、その職権を背景に、室町時代には奥州南部から北関東にまで勢力を伸ばし、室町幕府やその出先機関である鎌倉府から南奥の雄として認識されるに至った。

南北朝内乱期を経て室町時代中期に至る時代は、白河結城氏がその勢力を最大に伸ばし、北関東から南奥にかけての諸勢力の盟为的存在として君臨した時代であり、白河を中心とした南奥地域が政治的にも安定した時代であった。

政治の安定は文化の発展をもたらした。連歌師宗祇は白河結城氏の当主、直朝に招かれて白河に下った際の出来事を「白河紀行」として残しているほか、文明 13 年(1481)春に白河結城氏の氏神、白河鹿嶋神社で行われたいわゆる「白河万句興行」は当主である政朝が催した連歌興行で、結城一門だけでなく家臣団も連歌の嗜みを身につけていたことが分かる。

応仁元年(1467)に起こった応仁の乱をきっかけにして全国に波及した争乱状態(戦国時代)は白河結城氏にも及んだ。永正 7 年(1510)に起こった「永正の変」は一族の小峰氏が惣領の結城政朝を那須に追放した事件であり、小峰氏の血統による新たな「白河結城氏」が創設された出来事とされている。

この争乱により、白河結城氏の周辺勢力への影響力は失われ、白河の南東部は常陸の佐竹氏、北西部は会津の葦名氏、北部では伊達氏が勢力を拡大するとともに、白河結城氏の支配領域は徐々に狭まり、佐竹氏、葦名氏を経て最終的には伊達氏に従属するに至った。そして天正 18 年(1590)、豊臣秀吉による奥羽仕置で白河結城氏は改易となり、約 400 年にわたる白河結城氏の白河地方の支配は幕を閉じた

白河結城氏が奥羽仕置で改易されると、白河は会津を領した蒲生氏郷の領地となり、家臣の関一政の支配による会津領の「支城」時代となる。天正 18 年(1590)から寛永4 年(1627)までの約 40 年にわたり、領主は蒲生氏-上杉氏-蒲生氏(再封)と変遷した。再度の蒲生時代(1601~27)に城郭の改修と町割がある程度進められた。近年「慶長古図」とみられる絵図が発見され、城郭には土塁(一部には石垣)が巡らされ、城下町の形も基礎的な部分は成立していることが明らかとなった。

これにより、初代白河藩主丹羽家の小峰城の大改修と町割の整備以前に、基礎的な城郭と町割が形成され、その形を基礎として丹羽家が城郭を大きく改修し、現在の形につながる町を町割したという二つの段階を経て、白河の城郭と城下町が形成されたといえる。

寛永 4 年(1627)、会津藩主蒲生忠郷が嗣子の無いまま死去し、領地を没収されたことにより会津藩の領地の再編がなされ、白河は 10 万余石をもって白河藩として独立した。この初代白河藩主となったのが丹羽長重である。

長重は織田信長の重臣で安土城造営総奉行を務めた丹羽長秀の子で、豊臣政権下では領地を削減され、関ヶ原合戦では改易されてしまうが、のちに大名として復活して転封を重ね、白河藩に封ぜられたのである。

長重はすぐに城郭改修に取り掛かり、4 年の歳月をかけて寛永 9 年(1632)に小峰城の大改修を完成させた。これにより、小峰城は東北地方にはまれな石垣を多用した強固な城郭に変貌を遂げた。

この改修は幕府の命であるともされ、「奥州の押さえ」として北の諸大名へ備え、江戸の防衛の一翼を担う重要な地と認識されていたことがうかがえるものである。

この地理的重要性は歴代の藩主にも認識されており、幕末には戊辰戦争において奥羽越列藩同盟軍と新政府軍が小峰城の掌握を巡って戦いを繰り広げている。

長重は城下町の町割も行い、城下の水路を設けるとともに、「大工町」「金屋町」などの職人に関わる町を置き、現在の白河まで約 360 年にわたりほぼそのままの形を伝える町割を行った。

丹羽長重の死後、嫡子の光重が家督を相続し、のち二本松に転封されてからは譜代・親藩の大名のみが封ぜられ、榊原・本多・松平(奥平)・松平(結城)・松平(久松)・阿部の 7 家 21 代の大名が白河藩主を務めた。

目まぐるしく入れ替わった白河藩主の中で、最も長い 82 年(4 代)にわたって白河を治めたのが松平(久松)家であり、中でも白河に大きな功績を残したのが松平定信である。定信は、徳川将軍家の一門、田安宗武の七男として生まれたが、17 歳の安永3 年(1774)に松平定邦の養子となり、天明 3 年(1783)に家督を相続した。

相続直前より東北地方には「天明の飢饉」と呼ばれる大規模な飢饉が発生したが、定信は米穀の確保などの迅速な対応を図り、領内からは飢饉による餓死者が出なかったと伝えられる。

老中田沼意次とその一派の失脚後の天明 7 年(1787)、老中に抜擢された。翌年には幼い将軍家斉(11 代)の補佐も兼ねた定信は「寛政の改革」を断行し、幕府の立て直しに尽力した。改革は一定の成功を収めたが、定信は寛政 5 年(1793)に老中を退き、以後は隠居する文化 9 年(1812)まで約 20 年にわたり白河藩政に専念することになる。

荒廃した農村の復興にも力を注ぎ、飢饉対策として、米穀を貯蔵させる郷蔵の設置、人口増加策として間引きの習慣を改めさせた。間引きの影響で領内には女子が尐なかったため、越後から女性を招いて資金を支給し、領内の男性と婚姻させた。また、子供が生まれると養育金を支給するなどの対応策の結果、10 年で 3,500 人の人口増の成果がみられた。

諸産業では、専門家を招いて技術を取り入れ、町人に織物や漆器、製茶、和紙、キセル製造などを行わせ、織物などでは希望する下級家臣の妻女にも行わせたという。

定信の文化芸術の素養は、和歌や絵画、書、執筆活動をはじめ、茶道、雅楽、国学、蘭学などにまで多岐にわたり、当代一流の文化人としても知られている。例えば「集古十種」(全八十五巻)は、古物の価値を見出し、全国の古器物等を調査して日本初の文化財図録として編纂・出版したものであり、この他にも「古画類聚」等の古画の研究を行い、焼失した京都御所の調査を実施して古制に則り再建したことは故実研究の成果の一端である。

幕府に関することでは、幕府の公式記録である「徳川実紀」、大名、幕臣の系譜集「寛政重修諸家譜」編纂のきっかけをつくるなど、日本史上重要な文化的事業も多い。

一方、白河藩における文化事業も数多くあげられる。定信は、江戸・国元である白河で合計 4 箇所の庭園と「南湖」を築造している。そのうち現在唯一残る南湖は、定信の「士民共楽(武士と庶民が共に楽しむ)」の理念をもとに、庭園の要素を取り入れたもので、当時造られた大名庭園と異なり、場所を仕切り、囲む柵が設けられず、いつでも誰でもが利用できる場所であった。

また、領内にある「白河関跡」の場所が長い間不明となっていたのを、古文献の調査や古老への聞き取りをもとに現在地が白河関跡であると断定し、あるいは領内の名所古蹟について調査した「近治可遊録」を編纂させた。定信の跡は子の定永が相続し、松平家は文政 6 年(1823)に桑名に転封となった。

この転封は桑名の松平(奥平)家を武蔵国忍に、忍の阿部家を白河に移すという、いわゆる「三方領地替」の形であった。

こうして白河に移った阿部家は、3 代将軍徳川家光の時代に阿部忠秋が老中となって以来、計 5 人の老中を輩出した譜代大名の名門であったが、当時は老中の職に昇進する前に死去する当主が続いており、白河転封後にも早世の当主が続き、あわせて財政難や凶作による飢饉などが続いたため、藩主主導により一貫した方針のもとで藩政を行うことが困難であった。

しかし、幕末に一族である旗本阿部家から養子に入り、藩主となった阿部正外は、旗本時代には孝明天皇の妹である和宮と 13 代将軍徳川家茂との婚姻(和宮降嫁)の御用を務め、直後に神奈川奉行や外国奉行を務めて諸外国の交渉を担当し、その実績が幕府から評価されて元治元年(1864)3 月、白河藩主阿部家の家督を継ぎ、老中に任じられて外国御用取扱を命じられた。そのため翌慶応元年(1865)、米英仏蘭の四カ国が兵庫(神戸)開港を幕府に迫った際には直接交渉を担当し、緊急を要する事態であるために朝廷に許可を得ず、幕府の独断で開港を決断する方向に導いた

しかし、このことが朝廷の不満を招き、老中罷免・官位剥奪の処罰を受け、蟄居謹慎を命じられて白河から棚倉への転封を命じられた。

白河はその後幕府領となり、戊辰戦争を迎えるが、城主のいない白河は交通の要衝であったため、会津藩を中心とする奥羽越列藩同盟軍と新政府軍による拠点の争奪戦が約 3 ヶ月にわたって繰り広げられた。死傷者は 1,000 人を超え、これは会津戦争の犠牲者よりも多い数であった。

(白河市歴史的風致維持向上計画)

明治以降、城郭はその多くが民間へ払い下げられた。本丸を中心とした範囲は、陸軍省の所管となり、のち明治26年(1893)に白河町に払い下げられた。

二之丸・三之丸の城郭遺構については、その多くが埋められ、農地や官公庁舎、住宅地として利用された。三之丸には、明治20年(1887)に東北本線が敷設され駅が設置されるなど、近代白河のまちへと変化を遂げる。

昭和50年代後半から、本丸・二之丸を中心に都市公園としての整備が開始され、平成3年(1991)には三重櫓、平成6年(1994)には前御門が、発掘調査の結果や文化5年(1808)成立の「白河城御櫓絵図」を基に木造で復元整備され、往時の姿をしのばせている。

小峰城を築いた白河結城家から江戸時代の歴代藩主7家(丹羽家、榊原家、本多家、松平(奥平)家、松平(結城)家、松平(久松)家、阿部家)までの歴代城主の流れを紹介し、関係する古文書や美術工芸品を展示している。

稲村御所足利満貞御教書  応永7年(1400年)3月8日 差出先(受取人) 結城参河七郎殿

解説 奥州支配のため、鎌倉公方の出先として稲村(現在の須賀川市)に置かれた「稲村御所」の主人、足利満貞小峰満政に出した御教書。満貞が満政に伊達政宗(※)・葦名満盛らの反乱の討伐を命じたもので、兄で鎌倉公方の満兼による伊達氏等の攻略が上手くいかず、満貞を通じて奥州の武将の動員を図ったと考えられる。

伊達政宗(1353~1407)は室町時代に活躍した人物で、仙台藩祖の政宗の七代前にあたる。

重文・白河結城家文書。

中世において白河地域に勢力を誇った白河結城氏が受領した文書群90通で、秋田藩佐竹家に仕えた結城家に伝来した。

白河結城氏が所持していた文書は、改易によって全国に分散しているが、近年の調査で約800点近くの存在が確認され、東日本の中世武家文書では有数の文書群であることが分かってきている。

本文書は、そのうちの約1/10にあたり、古いものは文永元年(1264)10月の関東下知状であるが、元弘3年(1333)から康永2年(1343)5月までの10年間の文書が特にまとまっており、南北朝時代の宗広・親朝父子の活動や関東・奥州の情勢を検討する上で重要な史料である。またこれらの中には、その時代的特徴を示す北畠親房・北畠顕家御教書などの斐紙小切紙文書も含まれており、古文書学上でも注目される。

小峰城歴史館奥から眺める小峰城跡。

福島県鏡石町 岩瀬牧場②唱歌「牧場の朝」 鐘 牛舎


福島県鏡石町 岩瀬牧場②唱歌「牧場の朝」 鐘 牛舎

2024年07月24日 12時26分57秒 | 福島県

 

岩瀬牧場。牧場の朝歴史資料館(旧岩瀬牧場事務所)。福島県鏡石町桜町。

2024年6月1日(土)。

岩瀬牧場は唱歌「牧場の朝」のモデルとなった日本で最初の西欧式国営牧場で、明治時代に開墾されて以来、現在も場内には牛舎で牛を飼育しており、畜産関連の貴重な資料が残されている。

現在は観光牧場になっており、バターづくり体験、農作物の収穫体験、四季折々の花が咲きわたるフラワーガーデンや、レストラン、売店、手漕ぎ自転車・ツリーハウスといった遊具などもあり、バーベキューも楽しめる。

1876年(明治9年)の明治天皇の東北巡幸ののち、1877年(明治10年)から1878年にかけて牧羊地調査が行われ、1880年(明治13年)以降に官有第一種皇宮付属地「宮内省御開墾所」が開設された。

1890年当時、御料地は岩瀬第1から第5まであったが、このうち第1から第3までの敷地約650haが同年7月に岡部長職(ながもと、最後の岸和田藩主で子爵・政治家)に設備や家畜とともに貸下げとなった。

1907年(明治40年)に牧場経営は株式会社化され、1908年(明治41年)にはオランダから血統書付きホルスタイン種牛13頭を購入した。

1910年(明治43年)に朝日新聞記者の杉村楚人冠が牧場長の永田恒三郎の招待で牧場を訪れ、その情景をもとに文部省唱歌「牧場の朝」を書いている。

1967年(昭和42年)に福島交通社長の小針暦二が牧場を取得して、有限会社岩瀬牧場を設立した。

①ただ一面に立ちこめた 牧場の朝の霧の海 ポプラ並木のうっすりと 黒い底から 勇ましく 鐘が鳴る鳴る かんかんと

②もう起き出した小舎小舎の あたりに高い人の声 霧に包まれ あちこちに 動く羊の幾群の 鈴が鳴る鳴る りんりんと

③今さし昇る日の影に 夢からさめた森や山 あかい光に染められた 遠い野末に 牧童の 笛が鳴る鳴る ぴいぴいと

牧場の朝(まきばのあさ)は、文部省唱歌で、作詞は杉村楚人冠、作曲は船橋栄吉初出は1932年12月「新訂尋常小学唱歌(四)」

曲の舞台は、福島県岩瀬郡鏡石町にある岩瀬牧場とされている。同町では、本曲を町歌に相当する「町のシンボルソング」と定めている。

1968年には、NHKの『みんなのうた』で紹介された。

2006年(平成18年)に文化庁と日本PTA全国協議会が「日本の歌百選」に選定した

鐘。鏡石町文化財。

日本最古のコンクリートサイロと牛舎。

牛舎。

牛舎の裏側。

売店でソフトクリームを食べたあと、白河市の小峰城跡へ向かった。

福島県 須賀川牡丹園 玉川村 乙字ヶ滝 鏡石町 岩瀬牧場①世界最古の量産型トラクター