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福島県白河市 小峰城歴史館 松平定信時代の白河城 白河結城氏

2024年07月25日 16時35分02秒 | 福島県

小峰城歴史館。福島県白河市郭内。

2024年6月1日(土)。

鏡石町の岩瀬牧場を見学後、南に進んで白河市の小峰城跡へ向かった。城跡の入口に近い駐車場奥に小峰城歴史館があるので先に見学した。

松平定信(徳川吉宗の孫で白河藩主久松松平家9代当主・子孫は桑名藩主)時代(1800年頃)の小峰城

松平定信時代(1800年頃)の小峰城(再現ジオラマ)。

小峰城は、興国~正平年間(1340~1369)の頃、白河荘を治めていた白河結城氏の結城宗広の嫡男親朝(別家小峰家を興す)が築いたことに始まるとされる。

白河結城氏の本拠は、小峰城から東へ約3kmに位置する白川城であったが、白河結城氏一族の内紛により、小峰氏が白河結城氏の当主となった永正年間(1504~1520)以降に、本拠が小峰城に移ったと推定されている。

下総国結城郡(茨城県結城市)を本拠とする結城朝光は、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした「奥州合戦」(文治 5 年、1189)に従軍し、戦功をあげ、白河荘を賜ったとされる。ここが約 400 年に及ぶ結城氏と白河の関係の起点となった。

朝光は、鎌倉幕府の評定衆に就任するなど幕政に重きをなしたが、白河には赴任せず、本代官を白河に派遣していたと考えられている。

鎌倉時代中期以降になると、結城氏の庶子が白河に移住し始めるようになり、阿武隈川の南岸(南方)と北岸(北方)に郷村の開発を進めていったと推測されている。

白河結城氏の祖とされる祐広(朝光の孫)は 13 世紀後半に白河に下向したと伝えられ、その子宗広の時代まで「白河荘南方」の地頭職として大村郷(白河市大地区)をはじめとした 10 程度の郷村を支配しており、一方「北方」は一族の結城盛広が富沢郷(現在の白河市大信下小屋付近)を本拠とし、同様に 10 程度の郷村を支配していたとされる。

しかし、白河荘の中心である金勝寺(荒砥崎)は結城家惣領(下総結城氏)が領し、周辺の関(旗宿)・小田川・田島なども他の結城諸氏が支配していた。

このように鎌倉時代の白河荘は、結城氏という武士団の一族により現在につながる郷村の開発が行われていったが、この段階においては、祐広・宗広の白河結城氏はまだ結城一族のうちの一家という状況であり、地域に台頭するには至っていなかった。

白河結城氏が台頭するのは、祐広の子、宗広の時代である。宗広は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の命に従い、鎌倉を攻める新田義貞らに呼応して幕府を滅亡に追い込んだ。後醍醐天皇の信頼を得た宗広は結城家の「惣領」となるよう命じられ、天皇に反旗を翻した足利尊氏と戦ってこれを破り、天皇から「公家(天皇家)の宝」とまで賞賛されている。

その後、天皇主導の政治(建武政権)に反感を持つ武士層を糾合して勢力を盛り返した尊氏は、後醍醐天皇を吉野に追いやり、後醍醐天皇の南朝と尊氏の北朝が対立する南北朝内乱時代を迎えるが、宗広は一貫して南朝側につき、南朝勢力の立て直しを図ろうとした。

しかし、南朝勢力の退潮により宗広の子親朝は尊氏による北朝・武家政権への転身を図り、家の存続に腐心した。この建武元年(1334)から明徳 3 年(1392)の約 60 年にわたる南北朝内乱期を経て、白河結城氏は白河荘全体を掌握・領有した。

また、南朝後醍醐天皇・北朝足利尊氏の両政権から福島県中通り一帯の軍事警察権を行使する検断職に任じられ、その職権を背景に、室町時代には奥州南部から北関東にまで勢力を伸ばし、室町幕府やその出先機関である鎌倉府から南奥の雄として認識されるに至った。

南北朝内乱期を経て室町時代中期に至る時代は、白河結城氏がその勢力を最大に伸ばし、北関東から南奥にかけての諸勢力の盟为的存在として君臨した時代であり、白河を中心とした南奥地域が政治的にも安定した時代であった。

政治の安定は文化の発展をもたらした。連歌師宗祇は白河結城氏の当主、直朝に招かれて白河に下った際の出来事を「白河紀行」として残しているほか、文明 13 年(1481)春に白河結城氏の氏神、白河鹿嶋神社で行われたいわゆる「白河万句興行」は当主である政朝が催した連歌興行で、結城一門だけでなく家臣団も連歌の嗜みを身につけていたことが分かる。

応仁元年(1467)に起こった応仁の乱をきっかけにして全国に波及した争乱状態(戦国時代)は白河結城氏にも及んだ。永正 7 年(1510)に起こった「永正の変」は一族の小峰氏が惣領の結城政朝を那須に追放した事件であり、小峰氏の血統による新たな「白河結城氏」が創設された出来事とされている。

この争乱により、白河結城氏の周辺勢力への影響力は失われ、白河の南東部は常陸の佐竹氏、北西部は会津の葦名氏、北部では伊達氏が勢力を拡大するとともに、白河結城氏の支配領域は徐々に狭まり、佐竹氏、葦名氏を経て最終的には伊達氏に従属するに至った。そして天正 18 年(1590)、豊臣秀吉による奥羽仕置で白河結城氏は改易となり、約 400 年にわたる白河結城氏の白河地方の支配は幕を閉じた

白河結城氏が奥羽仕置で改易されると、白河は会津を領した蒲生氏郷の領地となり、家臣の関一政の支配による会津領の「支城」時代となる。天正 18 年(1590)から寛永4 年(1627)までの約 40 年にわたり、領主は蒲生氏-上杉氏-蒲生氏(再封)と変遷した。再度の蒲生時代(1601~27)に城郭の改修と町割がある程度進められた。近年「慶長古図」とみられる絵図が発見され、城郭には土塁(一部には石垣)が巡らされ、城下町の形も基礎的な部分は成立していることが明らかとなった。

これにより、初代白河藩主丹羽家の小峰城の大改修と町割の整備以前に、基礎的な城郭と町割が形成され、その形を基礎として丹羽家が城郭を大きく改修し、現在の形につながる町を町割したという二つの段階を経て、白河の城郭と城下町が形成されたといえる。

寛永 4 年(1627)、会津藩主蒲生忠郷が嗣子の無いまま死去し、領地を没収されたことにより会津藩の領地の再編がなされ、白河は 10 万余石をもって白河藩として独立した。この初代白河藩主となったのが丹羽長重である。

長重は織田信長の重臣で安土城造営総奉行を務めた丹羽長秀の子で、豊臣政権下では領地を削減され、関ヶ原合戦では改易されてしまうが、のちに大名として復活して転封を重ね、白河藩に封ぜられたのである。

長重はすぐに城郭改修に取り掛かり、4 年の歳月をかけて寛永 9 年(1632)に小峰城の大改修を完成させた。これにより、小峰城は東北地方にはまれな石垣を多用した強固な城郭に変貌を遂げた。

この改修は幕府の命であるともされ、「奥州の押さえ」として北の諸大名へ備え、江戸の防衛の一翼を担う重要な地と認識されていたことがうかがえるものである。

この地理的重要性は歴代の藩主にも認識されており、幕末には戊辰戦争において奥羽越列藩同盟軍と新政府軍が小峰城の掌握を巡って戦いを繰り広げている。

長重は城下町の町割も行い、城下の水路を設けるとともに、「大工町」「金屋町」などの職人に関わる町を置き、現在の白河まで約 360 年にわたりほぼそのままの形を伝える町割を行った。

丹羽長重の死後、嫡子の光重が家督を相続し、のち二本松に転封されてからは譜代・親藩の大名のみが封ぜられ、榊原・本多・松平(奥平)・松平(結城)・松平(久松)・阿部の 7 家 21 代の大名が白河藩主を務めた。

目まぐるしく入れ替わった白河藩主の中で、最も長い 82 年(4 代)にわたって白河を治めたのが松平(久松)家であり、中でも白河に大きな功績を残したのが松平定信である。定信は、徳川将軍家の一門、田安宗武の七男として生まれたが、17 歳の安永3 年(1774)に松平定邦の養子となり、天明 3 年(1783)に家督を相続した。

相続直前より東北地方には「天明の飢饉」と呼ばれる大規模な飢饉が発生したが、定信は米穀の確保などの迅速な対応を図り、領内からは飢饉による餓死者が出なかったと伝えられる。

老中田沼意次とその一派の失脚後の天明 7 年(1787)、老中に抜擢された。翌年には幼い将軍家斉(11 代)の補佐も兼ねた定信は「寛政の改革」を断行し、幕府の立て直しに尽力した。改革は一定の成功を収めたが、定信は寛政 5 年(1793)に老中を退き、以後は隠居する文化 9 年(1812)まで約 20 年にわたり白河藩政に専念することになる。

荒廃した農村の復興にも力を注ぎ、飢饉対策として、米穀を貯蔵させる郷蔵の設置、人口増加策として間引きの習慣を改めさせた。間引きの影響で領内には女子が尐なかったため、越後から女性を招いて資金を支給し、領内の男性と婚姻させた。また、子供が生まれると養育金を支給するなどの対応策の結果、10 年で 3,500 人の人口増の成果がみられた。

諸産業では、専門家を招いて技術を取り入れ、町人に織物や漆器、製茶、和紙、キセル製造などを行わせ、織物などでは希望する下級家臣の妻女にも行わせたという。

定信の文化芸術の素養は、和歌や絵画、書、執筆活動をはじめ、茶道、雅楽、国学、蘭学などにまで多岐にわたり、当代一流の文化人としても知られている。例えば「集古十種」(全八十五巻)は、古物の価値を見出し、全国の古器物等を調査して日本初の文化財図録として編纂・出版したものであり、この他にも「古画類聚」等の古画の研究を行い、焼失した京都御所の調査を実施して古制に則り再建したことは故実研究の成果の一端である。

幕府に関することでは、幕府の公式記録である「徳川実紀」、大名、幕臣の系譜集「寛政重修諸家譜」編纂のきっかけをつくるなど、日本史上重要な文化的事業も多い。

一方、白河藩における文化事業も数多くあげられる。定信は、江戸・国元である白河で合計 4 箇所の庭園と「南湖」を築造している。そのうち現在唯一残る南湖は、定信の「士民共楽(武士と庶民が共に楽しむ)」の理念をもとに、庭園の要素を取り入れたもので、当時造られた大名庭園と異なり、場所を仕切り、囲む柵が設けられず、いつでも誰でもが利用できる場所であった。

また、領内にある「白河関跡」の場所が長い間不明となっていたのを、古文献の調査や古老への聞き取りをもとに現在地が白河関跡であると断定し、あるいは領内の名所古蹟について調査した「近治可遊録」を編纂させた。定信の跡は子の定永が相続し、松平家は文政 6 年(1823)に桑名に転封となった。

この転封は桑名の松平(奥平)家を武蔵国忍に、忍の阿部家を白河に移すという、いわゆる「三方領地替」の形であった。

こうして白河に移った阿部家は、3 代将軍徳川家光の時代に阿部忠秋が老中となって以来、計 5 人の老中を輩出した譜代大名の名門であったが、当時は老中の職に昇進する前に死去する当主が続いており、白河転封後にも早世の当主が続き、あわせて財政難や凶作による飢饉などが続いたため、藩主主導により一貫した方針のもとで藩政を行うことが困難であった。

しかし、幕末に一族である旗本阿部家から養子に入り、藩主となった阿部正外は、旗本時代には孝明天皇の妹である和宮と 13 代将軍徳川家茂との婚姻(和宮降嫁)の御用を務め、直後に神奈川奉行や外国奉行を務めて諸外国の交渉を担当し、その実績が幕府から評価されて元治元年(1864)3 月、白河藩主阿部家の家督を継ぎ、老中に任じられて外国御用取扱を命じられた。そのため翌慶応元年(1865)、米英仏蘭の四カ国が兵庫(神戸)開港を幕府に迫った際には直接交渉を担当し、緊急を要する事態であるために朝廷に許可を得ず、幕府の独断で開港を決断する方向に導いた

しかし、このことが朝廷の不満を招き、老中罷免・官位剥奪の処罰を受け、蟄居謹慎を命じられて白河から棚倉への転封を命じられた。

白河はその後幕府領となり、戊辰戦争を迎えるが、城主のいない白河は交通の要衝であったため、会津藩を中心とする奥羽越列藩同盟軍と新政府軍による拠点の争奪戦が約 3 ヶ月にわたって繰り広げられた。死傷者は 1,000 人を超え、これは会津戦争の犠牲者よりも多い数であった。

(白河市歴史的風致維持向上計画)

明治以降、城郭はその多くが民間へ払い下げられた。本丸を中心とした範囲は、陸軍省の所管となり、のち明治26年(1893)に白河町に払い下げられた。

二之丸・三之丸の城郭遺構については、その多くが埋められ、農地や官公庁舎、住宅地として利用された。三之丸には、明治20年(1887)に東北本線が敷設され駅が設置されるなど、近代白河のまちへと変化を遂げる。

昭和50年代後半から、本丸・二之丸を中心に都市公園としての整備が開始され、平成3年(1991)には三重櫓、平成6年(1994)には前御門が、発掘調査の結果や文化5年(1808)成立の「白河城御櫓絵図」を基に木造で復元整備され、往時の姿をしのばせている。

小峰城を築いた白河結城家から江戸時代の歴代藩主7家(丹羽家、榊原家、本多家、松平(奥平)家、松平(結城)家、松平(久松)家、阿部家)までの歴代城主の流れを紹介し、関係する古文書や美術工芸品を展示している。

稲村御所足利満貞御教書  応永7年(1400年)3月8日 差出先(受取人) 結城参河七郎殿

解説 奥州支配のため、鎌倉公方の出先として稲村(現在の須賀川市)に置かれた「稲村御所」の主人、足利満貞小峰満政に出した御教書。満貞が満政に伊達政宗(※)・葦名満盛らの反乱の討伐を命じたもので、兄で鎌倉公方の満兼による伊達氏等の攻略が上手くいかず、満貞を通じて奥州の武将の動員を図ったと考えられる。

伊達政宗(1353~1407)は室町時代に活躍した人物で、仙台藩祖の政宗の七代前にあたる。

重文・白河結城家文書。

中世において白河地域に勢力を誇った白河結城氏が受領した文書群90通で、秋田藩佐竹家に仕えた結城家に伝来した。

白河結城氏が所持していた文書は、改易によって全国に分散しているが、近年の調査で約800点近くの存在が確認され、東日本の中世武家文書では有数の文書群であることが分かってきている。

本文書は、そのうちの約1/10にあたり、古いものは文永元年(1264)10月の関東下知状であるが、元弘3年(1333)から康永2年(1343)5月までの10年間の文書が特にまとまっており、南北朝時代の宗広・親朝父子の活動や関東・奥州の情勢を検討する上で重要な史料である。またこれらの中には、その時代的特徴を示す北畠親房・北畠顕家御教書などの斐紙小切紙文書も含まれており、古文書学上でも注目される。

小峰城歴史館奥から眺める小峰城跡。

福島県鏡石町 岩瀬牧場②唱歌「牧場の朝」 鐘 牛舎


福島県鏡石町 岩瀬牧場②唱歌「牧場の朝」 鐘 牛舎

2024年07月24日 12時26分57秒 | 福島県

 

岩瀬牧場。牧場の朝歴史資料館(旧岩瀬牧場事務所)。福島県鏡石町桜町。

2024年6月1日(土)。

岩瀬牧場は唱歌「牧場の朝」のモデルとなった日本で最初の西欧式国営牧場で、明治時代に開墾されて以来、現在も場内には牛舎で牛を飼育しており、畜産関連の貴重な資料が残されている。

現在は観光牧場になっており、バターづくり体験、農作物の収穫体験、四季折々の花が咲きわたるフラワーガーデンや、レストラン、売店、手漕ぎ自転車・ツリーハウスといった遊具などもあり、バーベキューも楽しめる。

1876年(明治9年)の明治天皇の東北巡幸ののち、1877年(明治10年)から1878年にかけて牧羊地調査が行われ、1880年(明治13年)以降に官有第一種皇宮付属地「宮内省御開墾所」が開設された。

1890年当時、御料地は岩瀬第1から第5まであったが、このうち第1から第3までの敷地約650haが同年7月に岡部長職(ながもと、最後の岸和田藩主で子爵・政治家)に設備や家畜とともに貸下げとなった。

1907年(明治40年)に牧場経営は株式会社化され、1908年(明治41年)にはオランダから血統書付きホルスタイン種牛13頭を購入した。

1910年(明治43年)に朝日新聞記者の杉村楚人冠が牧場長の永田恒三郎の招待で牧場を訪れ、その情景をもとに文部省唱歌「牧場の朝」を書いている。

1967年(昭和42年)に福島交通社長の小針暦二が牧場を取得して、有限会社岩瀬牧場を設立した。

①ただ一面に立ちこめた 牧場の朝の霧の海 ポプラ並木のうっすりと 黒い底から 勇ましく 鐘が鳴る鳴る かんかんと

②もう起き出した小舎小舎の あたりに高い人の声 霧に包まれ あちこちに 動く羊の幾群の 鈴が鳴る鳴る りんりんと

③今さし昇る日の影に 夢からさめた森や山 あかい光に染められた 遠い野末に 牧童の 笛が鳴る鳴る ぴいぴいと

牧場の朝(まきばのあさ)は、文部省唱歌で、作詞は杉村楚人冠、作曲は船橋栄吉初出は1932年12月「新訂尋常小学唱歌(四)」

曲の舞台は、福島県岩瀬郡鏡石町にある岩瀬牧場とされている。同町では、本曲を町歌に相当する「町のシンボルソング」と定めている。

1968年には、NHKの『みんなのうた』で紹介された。

2006年(平成18年)に文化庁と日本PTA全国協議会が「日本の歌百選」に選定した

鐘。鏡石町文化財。

日本最古のコンクリートサイロと牛舎。

牛舎。

牛舎の裏側。

売店でソフトクリームを食べたあと、白河市の小峰城跡へ向かった。

福島県 須賀川牡丹園 玉川村 乙字ヶ滝 鏡石町 岩瀬牧場①世界最古の量産型トラクター


福島県 須賀川牡丹園 玉川村 乙字ヶ滝 鏡石町 岩瀬牧場①世界最古の量産型トラクター

2024年07月23日 15時48分51秒 | 福島県

国名勝・須賀川牡丹園。福島県須賀川市牡丹園。

2024年5月31日(金)。

須賀川市立博物館を見学後、17時閉園の須賀川牡丹園へ向かい16時30分頃に着いた。4月下旬から5月中旬までの牡丹の開花時期のみ有料となるので無料開放されていた。

ほとんどの牡丹は葉だけになっていたが、奥に進むとまだ咲いている牡丹が見つかった。

日本庭園風の広大な敷地には大きな池があり、蓮の花が咲きそろっていた。

須賀川牡丹園は、牡丹園としては全国で唯一の国指定名勝である。総面積10ha(東京ドームの約三倍)の園内で、290種類、7000株の牡丹をはじめとする四季折々の花や風景を楽しむことが出来る。

須賀川牡丹園は、250年余り前の明和3年(1766年)、須賀川で薬種商を営んでいた伊藤祐倫が牡丹の根皮を薬用にするために、苗木を摂津国(現在の兵庫県宝塚市)から持ち帰り栽培したのが始まりといわれている。その後、明治の初期に柳沼家が受け継ぎ、種類、株数を年々増やしてほぼ現在の形をつくり、昭和7年に国の名勝に指定された。

 

このあと、須賀川市民温泉で入浴した。入浴料300円だが障害者無料。老人福祉センターに併設された良質のアルカリ性単純温泉が湧く日帰り温泉で、利用者は多かった。

その後、玉川村の道の駅へ向かった。

日本の滝百選・乙字ヶ滝(おつじがたき)。福島県玉川村竜崎字滝山。

2024年6月1日(土)。

道の駅「たまかわ」で起床。須賀川方面へ進み、脇道へ入ると乙字ヶ滝の公園・駐車場があった。滝の上を渡る車道橋は工事中で通行禁止だった。

乙字ケ滝は、那須高原に源を発する阿武隈川唯一の滝で、須賀川市と石川郡玉川村の境を流れる。

乙字ヶ滝の落差は約6m、特徴的なのはその横幅で広いときは100mに達することもあることから「小ナイアガラ」ともよばれている。

その名の由来は、「増水時の流れの形が“乙”字のように大きく屈曲しているから」という説と「側面から見た断層の形が“乙”だから」という二つの説がある。

曽良随行日記によれば、俳聖・松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅で、須賀川から郡山へ向かう途中に南東方向へ歩いて「石河の滝(乙字ケ滝)」に立ち寄り、守山宿経由で郡山へ向かっている。

滝見不動尊の傍らには、「五月雨の瀧降りうづむ水かさ哉」と刻まれた句碑や、芭蕉・その弟子の曽良の像が建立されている。

江戸時代には、白河藩により、滝の下で村民が鱒や鮭、鮎などを捕ってよいとされたが、初漁の魚は殿様に献上することになっており、初漁近くなると藩士が近くに詰めた。その滞在費を持つ代わり、他の賦役は免除されていた。

岩瀬牧場。福島県鏡石町桜町。

2024年6月1日(土)。

岩瀬牧場は唱歌「牧場の朝」のモデルとなった日本で最初の西欧式国営牧場で、明治時代に開墾されて以来、現在も場内には牛舎で牛を飼育しており、畜産関連の貴重な資料が残されている。

現在は観光牧場になっており、バターづくり体験、農作物の収穫体験、四季折々の花が咲きわたるフラワーガーデンや、レストラン、売店、手漕ぎ自転車・ツリーハウスといった遊具などもあり、バーベキューも楽しめる。

とうもろこし乾燥小屋。須賀川市文化財。

奥にポプラ並木。

1876年(明治9年)の明治天皇の東北巡幸ののち、1877年(明治10年)から1878年にかけて牧羊地調査が行われ、1880年(明治13年)以降に官有第一種皇宮付属地「宮内省御開墾所」が開設された

1890年当時、御料地は岩瀬第1から第5まであったが、このうち第1から第3までの敷地約650haが同年7月に岡部長職(ながもと、最後の岸和田藩主で子爵・政治家)に設備や家畜とともに貸下げとなった。

1907年(明治40年)に牧場経営は株式会社化され、1908年(明治41年)にはオランダから血統書付きホルスタイン種牛13頭を購入した。

1910年(明治43年)に朝日新聞記者の杉村楚人冠が牧場長の永田恒三郎の招待で牧場を訪れ、その情景をもとに文部省唱歌「牧場の朝」を書いている。

1967年(昭和42年)に福島交通社長の小針暦二が牧場を取得して、有限会社岩瀬牧場を設立した。

世界最古の量産型トラクター。フォードソン製トラクター。歴史トラクター館。

フォードソン社製造 F 型トラクター(フォードソン F 型 ) 。

フォード・モーター創始者のヘンリー・フォードは設立当初より農業の機械化に関心を寄せ、自動車の開発と並行してトラクターの開発も行った。当時のトラクターは蒸気機関を動力としていたが自動車同様に内燃機関を搭載する試みがなされ、フォード製自動車の部品をトラクターに流用した試作が制作されている。また自動車の構造をそのまま用いるのではなく、トラクターとして製造の効率化が図られた構造が模索された。数台の試作が重ねられ 1917 年 F 型が完成、トラクター販売を目的にフォードが設立したフォード & ソンより販売された。大量生産方式で製造されたフォード T 型のエンジンを互換させることで安価且つ大量の部品を供給することができ、車体前方のエンジンと後方のトランスミッション内蔵のハウジングを締結したフレームレス構造により大量生産に適したトラクターの構造も確立した。この車体構造は現在のトラクターにも受け継がれる原型となっている。1917 年から 1928 年までに約 1,000,000 台が製造され世界中で使用された。このことにより農業の機械化が進んで行くことになった。F 型は世界的にトラクターが普及するきっかけとなるものであること、産業史において重要な位置づけにあるフォード T 型のエンジンを使用しているなど、産業機器として博物的価値が非常に高い。

福島県須賀川市 稲村御所跡 須賀川市立博物館 団子山古墳 二階堂氏


福島県須賀川市 稲村御所跡 須賀川市立博物館 団子山古墳 二階堂氏

2024年07月22日 15時08分33秒 | 福島県

 

稲村御所跡。福島県須賀川市稲御所舘。

2024年5月31日(金)。

会津の大内宿を見学後、中通りへ戻り、須賀川市へ入って、室町時代の稲村御所跡を探したが、稲村御所跡があるらしい丘は分かるものの付近には案内板がなく良く分からなかった。須賀川市立博物館へ行くと、稲村御所跡に関するまとまった展示があった。

須賀川市立博物館。福島県須賀川市池上町。

 

団子山古墳。須賀川市日照田にある市指定史跡の団子山古墳は、中通り地方では確認例が少ない古墳時代前期の古墳で、中通り地方の古墳時代前期の前方後円墳としては最大で、最も南に位置する。また、東北地方では古墳時代前期の埴輪が出土した古墳は数例のみで大変貴重である。

阿武隈川東岸に向かって張り出した舌状台地の先端裾部を利用した古墳で、残っている形状から円墳と考えられてきたが、2012年から実施している福島大学による発掘調査で、全長65m、後円部径55m、高さ10.8mの規模の前方後円墳となることや、後円部の墳頂中心では、南北6.2m、東西2.7mの墓壙が確認され、後円部墳頂からは円筒埴輪が並べられた状態で出土した。埴輪は北関東や山梨、東海地方と共通しており、その特徴などから古墳時代前期4世紀の中頃から後半にかけてつくられたものと推測されている。

人物埴輪頭部(三角冠帽の男性、通称「天冠埴輪」)。塚畑古墳出土。

塚原古墳は6世紀後半築造の全長40mの前方後円墳

 

古代、須賀川を含む石背郡は、中央と地方とを結ぶ官道である東山道(推定)が通り、さらに浜通り地方や茨城県へ至る街道と、会津へ至る街道が交差する交通の要衝であったと考えられている。このため、奈良時代には東山道(推定)の沿線に当たる現在の須賀川駅周辺に、陸奥国石背郡の役所である石背郡衙(栄町遺跡)やそれに付属する寺院(上人壇廃寺跡)、官人たちが住む集落(うまや遺跡)等が形成され、養老 2(718)年には、陸奥国から石背国と石城国が分離独立し、一時的ではあるが、石背国の国府が置かれたと考えられている。

平泉藤原氏によって整備された奥大道が幹線となった中世は、鎌倉幕府で政所執事を務めるなど有力な御家人だった二階堂氏が岩瀬郡を領地とし、奥大道から会津街道に至る沿線に稲村城を築いたとされている。

二階堂氏は藤原姓で、藤原南家乙麻呂流工藤氏の流れである。工藤行政は文官として源頼朝に仕え、建久3年(1192年)に建立された永福寺(二階建ての仏堂)の周辺に邸宅を構えたため、二階堂氏を称したという。行政には行光と行村の二人の子がいた。行光は鎌倉幕府の政所執事に任命され、二階堂氏から同職が補任される慣例が成立した。当初は行光を祖とする「信濃流」と呼ばれる一族が執事職を占めていたが、鎌倉時代末期には信濃流の二階堂行貞の系統と隠岐流の二階堂行藤の系統が交互に執事の地位を占め、前者は室町幕府でも評定衆の地位にあった

二階堂氏の子孫は実務官僚として鎌倉幕府・建武政権・室町幕府に仕え、その所領は日本全国に散在しており、多くの庶子家を出した

なかでも、陸奥国岩瀬郡須賀川を支配し須賀川城を居城とした戦国大名須賀川二階堂氏が著名である。

文安元年(1444年)頃、鎌倉から二階堂為氏が須賀川に下向し、命令に従わなくなった須賀川代官二階堂治部大輔を討ち、須賀川城に入ったという。この為氏が須賀川二階堂氏の初代当主といわれている。現存する須賀川二階堂氏の系図の多くは後世に作成されたものであり、為氏以前がどの家系につながるかは判然としない。

南北朝時代には後醍醐天皇の孫である守永親王や北畠顕信が拠った宇津峰に対し、奥州管領の吉良貞家が多賀城から一時稲村城に移り、北朝側の拠点として機能した。このときの宇津峰は南朝側だった田村氏の勢力下にあり、山頂から田村・安積・岩瀬・白河の県南地方が一望できる自然の要害としては最適な地形であるとして、南朝の重要な拠点となっていた。

一年以上に及んだ戦いの後、宇津峰は落城し、岩瀬郡における南北朝の戦いが終結した。その後、室町時代には、稲村城の近くに、足利将軍家の子孫である足利満貞が下向し稲村御所が置かれ、東北地方の政治拠点となった。

足利満貞(1385年頃~1439年)は、第2代鎌倉公方・足利氏満の四男で、応永6年(1399年)に陸奥国岩瀬郡稲村(須賀川市)に下向し、稲村御所(稲村公方)とよばれた。

奥州管領の衰退や小山氏の乱に対応するため、元中8年(1391年)に陸奥国・出羽国が鎌倉府の管轄となった。だが、奥羽両国には有力な武士が存在しており、鎌倉府の統治も順調ではなかった。応永5年(1398年)の足利氏満の急死をきっかけに鎌倉府の奥州統治体制の再編成を迫られ、応永6年(1399年)に新しい鎌倉公方となった長兄満兼の命により陸奥国岩瀬郡稲村に下向した。

同時に次兄満直も稲村から北の陸奥安積郡篠川(郡山市)に下向し、篠川御所(篠川公方)とよばれた。両御所は鎌倉府の出先機関として陸奥の国人勢力を統合し、伊達氏や斯波氏といった反鎌倉府勢力に対抗することが主要任務だったと考えられる。満貞の執事には後世の深谷上杉家の先祖にあたる庁鼻和(こばなわ)上杉家が務めていたと考えられている。

岩瀬郡は二階堂氏の勢力圏で、満貞は二階堂氏や安積郡の伊東氏、白河郡の白河結城氏(結城満朝・氏朝父子)などと連携してたびたび反抗した伊達氏(伊達政宗・持宗)と衝突している。

応永9年(1402年)に関東管領上杉朝宗(犬懸上杉家)が伊達政宗の乱に介入するために息子の上杉氏憲(後の禅秀)率いる遠征軍を派遣すると、稲村公方対反鎌倉府勢力の構造が崩れ、犬懸上杉家の勢力が直接奥州に浸透した影響で満貞の立場は弱体化することになる。

鎌倉公方が甥の持氏に代替わりすると、鎌倉で持氏を補佐していた三兄の満隆が応永23年(1416年)に上杉禅秀と結んで謀反を起こし(上杉禅秀の乱)、翌24年(1417年)に禅秀と共に敗死したことで犬懸上杉家の奥州進出は幕を閉じるが、一度失われた満貞の権威は回復することはなかった。

続いて満直と持氏の関係が悪化し、満直は幕府と結びつき鎌倉公方の地位への野望を持ち、加えて持氏も満直らに対抗するために奥州の直接統治を目指すようになり、満貞の立場はますます弱体化して稲村公方は鎌倉府と奥州諸将の間の取次機関に過ぎなくなった。それに伴い応永31年(1424年)11月に満貞は鎌倉に入り、稲村公方は事実上終焉した。正長年間以後は鎌倉に滞在して関東管領上杉憲実に対抗する形で持氏を補佐したとみられる。

永享10年(1438年)に発生した永享の乱では持氏に与力し、翌11年(1439年)2月10日に鎌倉の永安寺で持氏と共に自害した。

鎌倉時代末期から続く二階堂氏は、二階堂行朝が川中郷(今の中宿・下宿・和田・浜尾辺り)を支配するにあたり、愛宕山城を築いたと言われている。これを機に、岩瀬郡は稲村城を本拠とする「稲村二階堂氏」愛宕山城を本拠とする「須賀川二階堂氏」が支配するようになったと考えられている。応永 11(1404)年に書かれた「仙道国人一揆契状」には、「須賀川刑部少輔行嗣」と「稲村藤原満じ藤」の名が見える。

須賀川二階堂氏は鎌倉府の時期には三河守系と遠江守系の二つの系統があったようで、戦国期につながるのは足利義政から御内書を下された二階堂藤寿の遠江守系で、二階堂貞藤(備中家)の兄・時藤の養子であった二階堂成藤の子孫と推定される。ただ、藤寿は現存する二階堂氏の系図には名前が見当たらず、為氏との関係は定かでない。

戦国時代になると、戦いに備えた城館が各地に築かれるようになる。現在の市街地中心部に位置する須賀川城をはじめ長沼城、今泉城などがその代表である。

須賀川城は、奥大道に近い丘陵上に設置され、天正 18(1589)年、伊達政宗との戦いにより落城するまで、二階堂氏の居城として機能した。

天文11年(1542年)に勃発した天文の乱と呼ばれる伊達氏の内訌に端を発した大乱では、伊達稙宗の娘婿二階堂照行(輝行)は稙宗方となっている。

永禄年間(1558年から1570年)になると、度々蘆名氏に攻められ、二階堂盛義は息子を人質として送り講和した。

盛義の死後当主となった二階堂行親は早世し、その跡は盛義の未亡人であり、伊達政宗の伯母にあたる阿南の方(大乗院)が継いでいた。そのため政宗も幾度となく降伏を薦めたが、阿南の方はこれを頑強に拒否天正17年(1589年)10月26日政宗に攻められて、須賀川城は落城した。阿南の方はその後政宗を嫌って甥の岩城常隆を頼り、常隆の死後は佐竹義宣の元に身を寄せた。佐竹氏が出羽に移封されると病のため須賀川に留まることになり、1602年に62歳で没したという。

江戸時代、奥州街道など主要幹線となる街道が全国に整備され、古くからの交通の要地や城下町の一部などに宿場が置かれると、須賀川にも奥州街道、会津街道沿いにいくつかの宿場が設置された。なかでも須賀川宿は、奥州街道と岩城(磐城)街道、棚倉街道、三春街道が交わる交通の要衝として栄え、相楽家や市原家などの豪商が生まれた。 

 

このあと、須賀川牡丹園へ向かった。

福島県下郷町 大内宿


福島県下郷町 大内宿

2024年07月21日 12時31分29秒 | 福島県

重伝建地区。大内宿。福島県下郷町大字大内。

旧街道の宿場町の両側に道に妻を向けた寄棟造の民家が南北500m東西200mにわたり田園の中に建ち並んでいる。

2024年5月31日(金)。

11時25分ごろ会津坂下町の立木観音から南へ向かった。昼食時間前に着きたかったが、工事渋滞や山間の道路を通ることもあり、12時25分ごろ大内宿の駐車場に到着。駐車料金500円。

大内宿は1990年代から知っているが来たことがなかった。旅行雑誌を見て、三澤屋の蕎麦、しんごろう、見晴台からの景観を目標にした。

福島県内で1位、2位を争う人気観光スポットとなっている大内宿には、30軒以上の茅葺き屋根の民家が建ち並び、江戸時代の宿場町がそのまま保存されている。

この街道は、すでに鎌倉の時代から会津と関東を結ぶ街道としてかなりの往来があったが、街道の整備に力を入れたのは戦国の時代からで、天正18年(1590年)に伊達政宗の小田原参陣に大内宿を通過したという記録や、豊臣秀吉が奥羽仕置きの際に通行した記録が残っている。

江戸時代には会津藩が会津五街道の一筋として整備した「下野街道(南山通り・会津西街道)」の主要宿駅のひとつで、会津城下と日光を結ぶ全長130キロにおよぶ下野街道の会津城下から3番目の宿駅として1640年ごろに整備され、荷役や人馬の継ぎ立てと宿場を経営する宿場町として栄えた。

下野街道は、脇街道のため幹線に比べると小規模で、大内は若松へは約四里半、田島へは五里、当時の一日の行程は約八~十里であることから、大内宿は中宿にあたり、昼食のための休憩の宿場であり、高地での農業生産をする半宿半農の集落であった。

もっとも利用した会津藩主は18回におよぶ江戸参勤で通行している。また江戸廻米の輸送や、当時の会津藩と友好関係にあった米沢藩や新発田藩なども頻繁に利用した重要路線であった。

明治時代になると、鉄道開通に伴って宿場としての地位を失い、また、明治17年(1884)に会津三方道路のひとつとして、現在の国道121号が別ルートで開通したことから幹線道路からはずれ、かつての街道は人々の往来が無くなり、次第に忘れられた山間農村になっていった。

昭和40年代になり、研究者が大内宿の生活調査や、建築物調査などで盛んに来訪すると旧宿場の街並みが再評価されるようになり、街道宿場としての形態を色濃く残す町並みとして、昭和56年に重要伝統的建造物群に選定された。

三澤屋。

大内宿といえば高遠そばである。入口から近い場所にあり、周囲の景観も雰囲気が良い。

高遠そばは、会津松平家の初代藩主・保科正之が、長野県高遠から移封してきたことに由来する。保科正之は、会津転封の際に、家臣はじめ高遠城下の職人たちを一緒に連れて来たが、そのなかに蕎麦打ち職人がおり、蕎麦は、保科正之が初めて藩主となった高遠藩に由来して「高遠そば」と呼ばれ、福島県会津地方に根ざしてきた。保科正之は蕎麦好きだったといわれ、山形や会津に蕎麦をつたえるとともに、4代将軍・家綱の補佐をしていた江戸にも蕎麦を広めたと考えられており、高遠藩からは徳川将軍家に寒ざらし蕎麦を献上する慣例もあった。

水そば。1430円。高遠そばは、箸の代わりにネギを用いて蕎麦を食べる風習がある。

名物「しんごろう」。妻籠馬籠の五平餅に似ている。

道の両側には割石積みの側溝が築かれて、山からの清冽な水が引かれ、家の前には洗い場が設けられている。

道路を覆っていたアスファルトをはがして「土の道」に戻し、車の通行も禁止して街並みが保存されている。

町並みの代表的な特色として、旧街道の両側にほぼ均等に割られた屋敷割(間口6~7間、奥行30~33間)と街道から一定幅を後退して建てられている建築、茅葺寄棟造りで妻を旧街道に面させる主屋の形態、旧街道に面して二座敷を併置する旧宿駅住居の形態、二座敷の表及びその前後を化粧樽木で飾る軒形式があげられる。

集落の奥の見晴台からの景観。

 

このあと、須賀川市へ向かった。

福島県会津坂下町 恵隆寺・立木観音(会津ころり三観音) 重文・五十嵐家住宅